帝王院高等学校
禁忌禁忌ってここは関西ですか?!
『………け、て』


うん。
判ったから、もう出てくるな。


『…ちゃん、を』


どうせ起きたら忘れてしまう夢を、何度も繰り返している事を思い出すのは、だから夢の中だけだった。
呆れてくる話だろう?目覚めた途端に忘れてしまうのだから、ならば思い出さないままで良いのに。結局、今夜も飽きずに繰り返される。

まるで呪いの様に。


『かなちゃんを、たすけて』
「助けたよ」

また今回も、前回と全く同じ台詞を馬鹿の一つ覚えの様に。

「オメーが助けろって言ったから、助けたんだ」

此処には真実しか存在しない。
夢と言う無防備な世界、丸裸の精神、それでもこれは悪夢などではなかった。

「全然何にも、怖くなかったっしょ」
『かなちゃんを、たすけて』
「本当に、馬鹿にしてた訳じゃないんだぜ?この頃のオメーは、信じないかも知れねぇけどな」

ある日、ある時、例えばおよそ『通り道』とは呼べない木の枝の上で。
人工的な森に守られているかの様な子供達を見つけた事があった。BGMがあったとすれば、きっとラヴェルのマ・メール・ロワ辺りだろう。

「聞いてたんだ。本当はお前らの話、最初の方からずっと」

妖精と言うには野望じみた、然し果てしなく無邪気な夢を語る同世代の子供達が面白くて仕方なかった。言っておくが、馬鹿にしていた訳ではない。何処かにそんな気持ちがあったかも知れないが、心底見下していたとすれば、そもそも近寄ったりしなかっただろう。誰から理解されなくても、それが高野健吾と言う人間の真実だ。

「お前らの母ちゃんが亡くなってる事も、お前らの父ちゃんの事も、俺は知ってたんだよ。だって俺は、高野省吾の楽器だったんだ」

同世代の子供を見掛ける事さえ稀だったから、二人の会話が気になって仕方なかっただけだ。けれど、それを口にする勇気はなかった。自分は子供ではないのだと、つまらない自負があったのだろうか。

「親父には耳がある。俺にも耳はあるけど、あるだけなんだ。本当は天才なんかじゃねぇんだよ俺、音に感情が乗り過ぎて破綻しちまうんだ。だからさ、親父の指揮がなきゃ、俺を天才なんて呼ぶ奴は居なかった筈なんだ」

悪い夢ではない。
ただただ豪華な屋敷が燃えていて、ただただ人々が恐怖の表情で逃げ惑い、ただただ幼い自分が血塗れで横たわっているだけ。

「カナメにも耳があっただろ?一度聞いた曲を弾けるアイツに興味があったんだ」

下半身と頭だけが血の海に浮かんでいて、上半身は腕を残して、砕けた石像に押し潰されている。たったそれだけの地獄絵図。

「でも、お前はギンギン睨んできただろ。俺さぁ、自分で言うのも変だけど、かなり性格悪いんだよ。売られた喧嘩は毎回買っちまうし、美味そうなもんが目の前にあったらつまみ食いしちまうし」

自分が出来る事など高々知れている事を知ったのは、いつだったか。
高野健吾の15年間を何度思い出そうとしても、始まりは良く判らない。玩具の楽器を奏でる度に喜ぶ両親の顔と、天才だ天才だと囃し立てる仕事仲間と、いつも音楽に満たされていた世界と。他には何があったのか、思い出せない。

「親父はいつも楽しそうなんだ。自他共に認めるって奴だけど、本物の馬鹿なんかな?俺が何しても大抵喜ぶだけだし、4歳の餓鬼にエロ本の隠し場所教えてくるし、指揮以外ロクな特技ないと思うんだよ」

いつからか、母親が笑わなくなった。
元々腹を抱えて笑う様な人ではなかったが、ぶつぶつ文句を言いながらも忍び笑いを零す事はあった筈だ。

「そんでも俺は、親父にあれ弾けこれ弾けって言われるのが好きだった。俺じゃ思いつきもしない音を、親父は一本の指揮棒で作れちまえんだ」

健吾が記憶を幾ら遡っても、判っているのは目の前に広がっている地獄絵図の後からだと言う事だろうか。いや、もしかしたらそれ以前から、僅かに兆候があったのかも知れない。
そう、気づいていた筈なのだ。幼いながらも時々母親が急に思い詰めた顔をする時に、幼かった健吾に出来たのは、むやみやたらにアップテンポな曲を捲し立てる様に弾く事だけで、他には何も。

「気になって仕方なかった。世間知らずそうな餓鬼が二人で、何処まで行けんのか」

嫉妬される事に慣れ過ぎて、人の感情を軽視していたからなのか。失敗ばかりだ。初めて挫折を知ったのはいつだったか、もう思い出したくもない。成功しか知らなかった子供は、失敗した後の手段を知らずに。

「感情が丸見えなんだよ、馬鹿みてぇに。俺が変な音を出すと母ちゃんは悲しそうな顔して、俺はその理由が全然判んないんだ。だけど親父の指揮で弾いてる時だけは、煩いわねって言ってても、実はそんなに怒ってねぇ気がする…」

可哀想かと言われれば、判らないと答える。母親の事ではなく、石像の下敷きになっている幼い自分の光景を。何せあの時、健吾は意識がなかった。致死量に等しい失血で、本当は当時の記憶など殆どない。

「何も出来ねぇんだよ、俺って。いつも誰かに指示されてねぇと、母親を笑わせる事も出来ねぇ奴なの」

新聞やニュース、人づてに聞いた話とネットなどで後付けされた記憶が殆どだ。病室で目覚めた時も、声は出せなかったが状況を把握するまで暫く懸かった。ドイツ語で騒いでいた憔悴した表情の子供を見ても、それが誰だか思い出すまでに随分時間が懸かった筈だ。

「だからカナメを助けたのだって、本当は俺じゃなくてお前なんだよ。ごめんなユーヤ、今までずっと騙してて」

空っぽなのだろう。
いつからか自分をそう思う様になった。一人ではいつも、どうして良いか判らない。誰かの指示通りに動くのは、本当に楽だ。高野省吾の指揮棒だけを見つめている時は、余計な事を考えずに従っていれば間違う事はなかった。

「カナメを仲間だと思ったのにな。俺の耳が絶対音感って言うんだって事も、俺は知らなかったんだ。周りは殆ど耳がある奴ばっかだったから、当たり前だと思ってて」

一般的には省吾の指揮に従う難しさがそれを許さない様だが、健吾は違う。メトロノームがなければ省吾の指揮を、目で体で追い掛けて音を奏でられた。他には何一つ出来なくても、それだけは出来たのだ。

「カナメにはあって、お前にはなかっただろ?だから俺は、お前よりカナメと話す方が楽しかったんだ。譜面通りに自分の感情をごちゃ混ぜにしないで弾けるカナメが、マジで凄いと思ったんだ」

然し錦織要は、健吾のピアノを聴いた瞬間に笑顔を凍りつかせた。
ケラケラと笑うタイプではなかったが、小さく、可愛げにはにかむ大人しい子供だったと思う。

「嫉妬されると嬉しかったんだ。俺は変なんだよ。人間らしい感情がないんだ、多分」

健吾はあの瞬間、自分が何かを間違えたのだろうと理解した。理解したが、何も出来なかったのだ。だって、誰もどうすれば良いか教えてくれなかった。一言も。

「歪んだんだ。目の前で。黒々した目が、濡れた後に乾いた譜面みたいにくしゃって」

大切な宝物にでも触れるかの様に鍵盤を撫でた小さな手が、思い切り振り上げられた。
耳障りな不協和音は凶器の様に鼓膜を劈いて、戦慄く大気の震えが止まりきらない内に、密やかな幼い夢を語っていた唇を開いて、無知な子供とは思えない台詞を呟いた。

『もう、僕を惨めにさせないで』

天使の様に可愛らしい子だった。
穢れを天使の様に純粋で無計画な夢を語っていた唇が、嫉妬をそのまま現したのだ。そうさせたのは紛れもなく、自分。

「何で怒ったのか判んなかった。何であんなにピアノを大事そうに弾くのかも判んなかった。母ちゃんみたいだって思ったんだ。俺は親父に似たから、そん時最高の曲が弾けたら壊れちまっても構わないって思ってるし、だから」

自分の体が壊れようが、後悔など一つとしてない。

「…親父の指揮以外じゃ、どうせまともに弾けやしねぇんだし。指揮者の指揮に従わない奏者は、不完全なんだ。俺の指揮が出来る奴は、この世に存在しねぇ筈なんだよ」

判っていたのだ。
あの時まではまだ、省吾の指揮に従う事が楽しかったけれど、いつかそうじゃなくなる日が来るだろうと。体が成長する度に奏でられる音数が増えて、楽器も増えて、いつかは誰の指揮にも従えない日が来るのだろうと、予感していた。あの時までは辛うじて、人間の世界にしがみついていただけなのだ。あのまま楽器を手放さなければ、人の世界を手放さなければならない日がやってきただろう。恐らくは、あれからすぐに。

「でも、居たんだ。親父より遥かにやばい指揮者が」

誰かに従う快楽を知ってしまえば、もう戻れない。それが神の領域に等しいと本能で理解していても、どうする事も出来ない。

「俺はいつか弾くんだろうな。そうなったらきっと、今度こそ本当に嫌われちまう。俺の所為でユーヤとカナメは仲違いしたまんまなのに、俺の事は許さなくても良いから、ユーヤとは喧嘩しないでくれたら良いのに。…本当は死ぬほど悔しいけど、二人の約束に部外者が割り込んだのが間違いなんだよ」

昼間大地を照らす太陽は、真夜中には眠っているのか。それとも。


『大人が居ない、国?』
『子供しか入れない』
『本当にあるの?』
『うん。ないなら作れば良いんだって、母ちゃんが言ってた』

あの時、あの瞬間、無知な二人の子供に祝福の風が吹いていて。

『汚ぇ格好。ほっぺに土、ついてる』
『ひ、ひーちゃんに、用事?』
『お前さ、英語へったくそだなぁ』
『…っ』
『日本語でも良いぞ?本当はドイツ語が一番得意なんだけどな。婆ちゃんがドイツのハーフだったからよ』

世間知らずだと馬鹿にしていた自分こそが世間知らずだった事に、気づいていなかったのだ。

『ひーちゃん』
『やっと起きたかよ、【神騎士】の息子』

宝石の様なエメラルドが真っ直ぐ見上げてきた日、瞳に映り込む自分の顔を見た。

『ユエのお荷物を押しつけられたんだろ?ジジイ共がお前の父親にヘラヘラしながら言ってたぜ』
『黙れ』
『影じゃ、お前の事も「グレアムのお荷物」って言ってる癖になぁ』

音楽が得意な子供がいた。音楽を学ぶ全ての人間から天才だと持て囃され、嫉妬か羨望以外の目を向けられた事がない『世間知らずな餓鬼』の名前は、高野健吾。
五線譜の記号を覚える前に弾き方を覚えて、ほんの少し他人より器用だっただけの無知な餓鬼は挫折を知らないまま、大人の世界で大人達に囲まれて育ち、幾つかの国の言葉を喋れる様になる。子供特有の好奇心と、多少恵まれた記憶力があっただけだ。五歳までは天才児でも、それ以降はどうだろう。

『ひーちゃん』
『うひゃひゃ。昨日はひろくんって呼んでたのに、仲良くなるとちゃんづけになんの?』
『…ぇ?』
『さっさと失せろ』
『なぁ、ユエの新入り。お前も確か、ピアノやってんだろ?』

音楽の世界限定での天才は、世間では無知以外の何者でもなく。

『今からピアノとサックスやるから、聞きに来いよ!』

極めて単純に、友達の作り方を学んでおくべきだったのだろう。あの時は誰も、そんな事を教えてくれなかった。
結局、ピアノを弾いている間には姿を現さなかった二人は、ディナータイムのサックスは聞いてくれた様だ。目を輝かせて「すごいすごい」と表情で伝えてくる要の隣で、堂々と欠伸を発てたエメラルドは黒髪の旋毛しか見えなかった。


『…おいおい、天才の演奏をスルーして寝るとかどんだけ音痴だよ。オカリナ吹けるっての、絶対嘘だろ』

演奏会は深夜まで続いたが、幼い健吾は途中で解放されて、母親が取り分けていてくれた夕食を片手に要達の元まで駆け寄って行ったのだ。

「カナメは興奮していっぱい喋ってくれるのに、お前だけはぶすくれて目も合わさねぇ。俺の話し掛け方が悪かったんだって今なら判るけど、それにしたって塩対応だったよな」

そして、酒宴で盛り上がる大人達を横目に裕也が宿泊している部屋へ三人で行った。
広いスイートルームにはグランドピアノに負けない迫力のオルガンが置かれていて、サックスのお礼にピアノを弾いてくれると言った要の演奏を聞きながら食べた冷め切った食事は、それでもいつもより美味しかった様に思う。あの時まではきっと、最悪な状態ではなかった筈だ。

『凄ぇじゃん、かなちゃん曲いっぱい知ってんだな。トゥーランガリラ交響曲なんて激渋』
『けんちゃんも弾いてた』
『あー、サックスだったけどな。現代音楽だからってあそこまでアレンジすんのは、うちの団長くらいだべ』
『シスターはね、愛の歌だって言ってたよ』
『第4はな。俺はそれよか、第五楽章の方が好きかも』
『5?』
『星たちの血の喜悦。聞いたら踊りたくなる感じのやつ』
『聴きたい!』
『えー?しゃーねーな、弾いた事はねぇけど聴いた事はあっから、試してみっかな』

終始無言だった対人スキルの乏しい子供を除いては、確かにあの時まで。その後の展開をほんの少しでも想像していたなら、得意げに袖を捲って見えない五線譜を頭の中で構築したりしなかっただろう。

『知ってっか?日本の種子島にもロケット基地あんだぜ』
『ロケットきち?』
『そ。今度行ってみろよ、俺らには日本の血が流れてんだからよ』

誰もいない世界は宇宙にあるのだと、教えてやるつもりだった。
音楽を愛する誰もが褒めてくれる自分の演奏を聴けば、仲良くなれない筈がないのだと馬鹿みたいに信じて疑わなかった。

『宇宙じゃ重力から解放されて、誰もが自由なんだぜ』

今は知っている。自分はあの日、羨ましかっただけだ。
まるで世界中に二人っきりの様に、密やかな約束を交わして微笑み合っている子供達が、心から羨ましかった。どうしても仲間に入れて欲しかった。初めて話しかけた時は多少失敗してしまったが、きっと絶対に、仲良くなれる。
それ以外の選択肢など想像もしていなかった。


「…早く目が覚めねぇかな」

助けてくれと。
何千何万回と繰り返されてきた遠い日の子供の声が、いつからか自分の声の様に聞こえる様になった。

「起きたら高等部の入学式典なのに、滅入っちまうっしょ」

後悔はない。
(だから罪悪感を感じる必要などないのだと)(どうして言ってやれないのか

自分の隣でしか眠らない子供が大きくなるにつれて、その隣では眠れなくなった。まるで罰のよう。
いつか非難する様に睨んできたエメラルドが、いつからか友人に向ける信頼を帯びている事に気づいた。そしていつか、そのエメラルドに映る自分の目が、友人に向けるものとは違う色合いを秘めている事に気づかされる。

これは悪夢か、天罰か。



『馬鹿は休み休み言え、馬鹿息子』
『男が男を好きになる訳ないだろう、そりゃただの勘違いだよ』
『多感な時期には良くある、ちょっとした風邪みたいなもんだ』

絶対に違うと言い切れた。
けれどそれは、自分に関してだけの話だ。

『大人になったら、忘れちまうよ』

忘れる事はないと言い切れるのに、忘れられるかも知れないと言う事は否定出来ないままだ。









奏者は常に指揮棒を揮う誰かの言いなりだった。
例外はない。



(指揮者は絶対)
(作曲家が何を思って書いた譜面だろうが)
(指揮者の感情に上書きされてしまう)
(オーケストラの主役は指揮者だ)
(メトロノームは邪魔でしかない)
(例外なく)










「…ケンゴ」
「おー。今日のは長電話だったなぁ、今話してたの彼女だろ?」
「振られた」

これは悪夢か。

「…またかよ。つーか、明日デートの約束してたんじゃねぇの?」
「知らね。急に電話掛かってきて振られた。新しい男が出来たってよ」
「毎度毎度そのオチかよ!いい加減、俺がナシつけてきてやろうか?ケータイ貸せや、何処の馬の骨か聞き出してやっから!」
「面倒臭ぇ」
「面倒って、おま、女取られてんだぞ?!一発カマしてやれや!(ヾノ・ω・`)」
「傷心過ぎて、何もやる気が起きねー」

それとも、天罰か。

「こないだは街中でナンパされた男に持ってかれて、その前は…何だっけ?美容師の卵に持ってかれたとか何とか言ってたろ?オメーの彼女はミーハーばっかりなん?(;つД`)」
「知らね」
「知り合った時は純粋そうな子に見えたのに、短期間で変わりすぎだろ。お前色に染まると、どいつもこいつも頭のネジ吹っ飛んじまうってか?確率100%で?|゚Д゚)))」

判っている癖に同じ問い掛けを何度投げ掛けただろう。自分が自分に答えられない質問を繰り返しても、一生答えなど得られない。(お前が傍にいると眠れないから)(忘れられたくないから)(今のままで変わらない為に)(手に入らないと判っているから)(誰かのものになってしまえ)(早く幸せになってしまえ)(二度と変な期待など抱かないくらい絶望させろ)(いつか天才と呼ばれた子供も結局はただの凡人だったのだ・と)(思い知らせてくれれば良い)

「つーか、簡単に心変わりする程度だったって事だろ。怒る気にもなんねーぜ」
「よちよち、お兄ちゃんがカラオケ飯奢ってやんよ」
「慰めてくれんなら、カラオケ飯より良いもんくれ」

振られたと業務連絡の様に宣う幼馴染みは、メールの返信が遅い。電話を掛けても出ない事の方が多いと、仲間内では誰もが証言するだろう。歴代彼女からも似た様な相談を受けた事がある健吾は、そのどれもを笑って聞き流してきた。

「金目のもんは期待すんなし。俺よりオメーの方が遥かにセレブだからよ(´ω`)」
「黒ウーロン以外の高級品に興味ねーな。それ以外はジャンク品で良い」
「ジャンク品?」
「何も弾けなくなった元天才とか?」

メールも電話も必要ない距離にいつもいる存在。呼べばすぐに振り向く男に対する他人の評価と自分の評価は明確に異なっていて、誰もが男前だと褒め称える顔立ちが昔のまま変わっていない様に見えるのもきっと、自分だけなのだ。

「…んな置きもんにもなんねぇ奴、何に使うわけ?」
「知らねー方が良い事が、大人の世界にはあるんだぜ?」
「わぁ、ユーヤきゅんは大人っスねー(*/ω\*)」

このルーティンワークの様なやりとりがいつまで続くのか、指摘すればきっとすぐにでも終わる事など知っている。

「知ってっか、トーマがほざいてたってよ」
「…あん?何を?(´3`)」

唇が腫れ上がるほど吸いつかれても、全然落ち込んでねぇじゃねぇかなどと、野暮な台詞は絶対に口にしない。失敗は幼かったあの日だけで充分だ。

「オレに女が居る間、オメーは絶対にフリーなんだと」

宝石の様な翠玉が嗤う。
全て見透かしているかの様に、道化じみた『業務』を継続する勤勉な男はいつか、今の自分を『若かった』などと感慨に更けながら思い出すのだろうか。良い思い出だとばかりに、当時の熱量を忘れて。

「…カラオケで騒いでやる気が出たら」
「おう」
「もっと良い女見つけて勝ち組街道驀進してやっから、安心しろや」
「うひゃ。…何だそれ、嫌味かよ」
「オレはオメーよりモテんだぜ」
「知ってら、バーカ(ヾノ・ω・`)」

これは悪夢か天罰か、それとも誰も救われない些細な喜劇なのか。


























「私は酷い女だった。

 手に入らないと知っていて愛してしまった男が、他の女を抱いている想像を膨らませては、殺意と羨望で狂いそうだったよ。
 あの人が結婚した時なんかが良い例だ。自家製ドラッグで何日飛んだか。技術班は何千種類もの植物を育てていたから、緻密な計算の上で調合したものさ。

 この私が廃人になる様な真似、するものか」

物心ついた時にはもう、人生を捧げても構わないほど人を愛していた。最後の最後まで告げる事も許されなかった愛はきっと、とっくに知られていただろうと思う。気づかない振りをしてくれた事が彼なりの優しさだったなら、少しばかり意地悪だと詰っても許されるだろうか。

「エルサレムの対蹠点。煉獄山の果てにある天国へ辿り着く為に課される試練は、七つ」

あの人は聡明な男だった。
王子様でもなければ爵位もなく、帰る家も家族も失ってそれでも強く前を向き続けた人だ。

「傲慢、物欲、嫉妬、憤怒、色欲、貪欲、怠惰。赤子は自我の芽生えと共に傲慢を知り、目に映る全てに関心を持つと同時に物欲を覚え、軈て手に入らない事を知ると嫉妬と怒りを知る」

いつか薬師と呼ばれた一族に代々継がれてきた、植物の知識を書き溜めた手帳、凡人には理解出来ない神の手記。
幼い手にそれを抱き締め、業火で燻る生まれ故郷を去る時に彼が何を思ったのか・と、眠れない夜はいつもそんな事を考えていただろうか。

「体が発達すれば性欲と食欲、仕事を覚えれば怠ける方法に気づく。人間ほど業を負った生き物は他にはない」

行動する度に巨万の富を生み出す彼の背中を見送っては迎え入れて、いつからかそれだけでは満足出来なくなっていた己の強欲さに気づいた時、自分はただの人間だったのだと痛感した。神の傍らに寄り添う権利を持たない、平凡で普遍的な生命の一つでしかないのだと。

「ダンテの神曲にはこうも書かれている。生きている間に、人が罪を贖う事は出来ない。浄罪を果たすのは死者の役目だと」

そして、彼が人間も愛さなかった男だったから何処かで安心していた。自分が選ばれなかった訳ではないのだと、彼だけが人類から掛け離れた存在なのだと。そう思っていたけれど結局、彼もまた平凡で普遍的な、ただの人間だったのだ。

「死は終焉ではなく始まり。生前に犯した七つの罪を償い、天へ召されるまでが本番だとは思わないかい?」

今日も昨日もその前も、視界の景色は全く同じだ。笑えるほどに。

「『夜』はノアに手を引かれ、オリオンとシリウスと連れてきた」

闇はすぐ目の前にある。ノアの国の住人であれど、永遠の闇に耐える精神力は如何程のものか。

「プレアデスは孤独を忘れ、リゲルの息子達は自らベテルギウスとアルデバランを名乗る」
「…良く喋る女だ」
「やっと喋ったかと思えば、お前こそいつから喋れなくなったのかと心配したよ。生きている人間には気配があって叱るべきなのに、全くお前達と来たら…」

やっと喋った他人の声がなければ、世界にたった一人取り残されてしまった様な気持ちになっただろう。一人の時間を有難がるのは恵まれた人間の強欲だ。永遠に続く孤独は、時々死刑よりも辛い。

「流石は忍者の末裔。舌が動いているのなら、お前の浄罪はまだ先だね」
「…この期に及んで、舌を噛んで死ぬとでも思ったか?」
「お前達は繊細な子だから」
「奴の話をするでないわ!」
「月経中の女の様な金切り声をあげないでおくれ」

けれど絶望には慣れる。乗り越えるには相当な覚悟が必要だが、受け入れて感化されてしまえば。…違う、諦めただけだ。
科学者は実現不可能な夢は見ない。いつも何処かにひと握りの手掛かりを握り締め、可能だと予測づけてから行動する。脳が不可能だと演算すれば、行動する事は絶対にない。経験と言う知識を蓄えた者ほど、無知な人間よりずっと怠惰だ。

「私はとうとう終わってしまったよ」

さぁ、絶望の向こう側への幕を開こう。
マリア=アシュレイと言う研究者が母親になるまでの、古い物語のほんの序章だ。








真の闇に包まれて、ノアへの忠誠だけを抱いたまま、研究者は大好きな研究をやめました。
そんな寂しい女の元から一匹の龍が飛び立ち、双龍はバラバラになってしまったのです。

白銀の男爵と、漆黒の騎士が死んでしまった、北半球は春でした。















「おはよう、マザー」

あの人が生きていたら、呆れただろうか。それとも、この程度の出来事では気に留めもしないだろうか。

「お前はいつも早起きだね、アダム」
「コーヒーは?」
「先に冷たいおしぼりを貰おうか。顔を拭かないと、起きた気がしないんだよ」
「新しいろ過装置を作ったんだ。先週の地震で湖が少し濁ってしまったから、今日の水は昨日より美味しいと思う」
「そんなものまで作れる様になったんだね」

シスターがマザーになったのは、いつからだっただろう。
愛した男を立て続けに失ってから、もう何年経ったのか。闇一色の世界には、四季も時間の概念さえも存在しない。腹が減っては何かを食べて、眠気を覚えては横になる。その繰り返しだ。

「そろそろ区画保全部の補給班が来る時間だ」
「そうかい。お前は地下の部屋で、音楽でも聴いておいで」
「…此処に居たら駄目?」
「聞かなくて良い事まで聞いてしまうのは、辛いだろう。お前は本当に、優しい子だから」
「僕は優しい?」
「こっちにおいでアダム。顔を触らせておくれ」
「うん」
「本当に、あの頃の坊ちゃんにそっくりだ事」
「義兄様…?」
「畏れながら、シンフォニア如きに陛下を兄と呼ばせるのは遠慮頂けますか、マリア=テレジア」

ああ、無粋な奴らがやってきた。
目が見えないと時計の針も見えないのだから、我ながら情けなくて仕方ない。

「罪のない子に当たるのはお門違いじゃないかね?文句があるなら、私に預けたシリウスに言うんだ」
「…本日の物資をお届けに参りました。受領のサインを願います」

機械の様に決められた職務を果たす忠実なノアの従者は、盲目な女に対する慈悲などない。血も涙もないと言われている特別機動部長代理の方が余程、人間味があるだろう。

「オリオンが去ってから、中央区は質が下がっているねぇ。いい加減、まともに帰ってきやしないシリウスを代理に据えるより、カミューをマスターにするべきだ」
「円卓の人事に口を出す権利が、今の貴女におありで?」
「言ってくれるじゃないか、ランクB如きが。…アダム、私の代わりにサインを書いてくれるかい?」
「Yes, sir.」

あの人が生きていたならもう少し、此処は優しい世界だっただろうか。
いや、もしレヴィ=グレアムが生きていたなら、アダムは存在しなかっただろう。倫理から外れた真似をしてしまった可哀想な冬の星は、両親と共に双子の片割れも失って、心が空っぽになってしまったに違いない。自分に似ているから判る。

「しっかり書けたかい?」
「うん、大丈夫。区画保全部の皆さんは、帰ったよ」
「二度と来るなと言ってやれれば良いんだけど、弱い私を許しておくれ」
「僕は平気だよ」
「…うん、強い子だね。いつの間にか、こんなに大きくなって」
「僕はもうすぐ12歳だよ」
「ああ、もうそんなになるのかい。年は取りたくないね、目が見えないお陰でシワシワな顔を見ずに済んだけど」

寂しい教会に、隙間風とレコード以外の音が増えてくれた。今の自分はきっと幸せだ。

「はは。ねぇマザー、今日の支給品は真っ赤だよ」
「…良い匂いだ。きっと林檎だね」
「林檎は緑じゃなかった?」
「あれは青林檎だ。種以外は食べられるから、濾過した水で洗っておいで」

例えこれが、禁忌の証だとしても。

←いやん(*)(#)ばかん→
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