帝王院高等学校
ハルジオンって何色のおかずでしょうやら?
「…うん?あれ、皆は何処だ?」

一心不乱に駆け抜けて数分、額にうっすら滲む汗を拭った少年は眼鏡を外し、シャツの裾でゴシゴシとレンズを拭うと、その場でぐるっとターンしてみた。残念ながら見覚えがない景色だ。

「全く、全員迷子になったんだな。困った奴らだ、俺が探してやらないと…」

再び走り出そうとした少年は然し、グーっと響いた腹の音で動きを止める。
成長期も後半に差し掛かったとは言え、食い盛りの18歳だ。腹が減ってはJAXAは出来ないと呟いた少年は、JAXAが何を現す言葉なのかきっと全然知らないに違いない。

「まず何か食べないと、総長を見つける前に死んでしまう」

真剣な表情でくんくんと鼻を蠢かせながら、一日二日食べなくても死にはしない事を知らないまま、彼は真っ直ぐカフェテラスへ歩き始めた。視線の先に見えるロッジ風の建物がカフェだと知っている様には思えないが、何だかあっちから良い香りがする様な気がするのだから致し方あるまい。

「安部河君、またチョコパイを注文したんだね?」
「ぅん。僕作るのは和菓子だけなんだけどぉ、本当は洋菓子も大好きなんだぁ」
「西園寺の食堂も、結構スイーツも揃っているんだよ。フロマージュが人気なんだ」
「栗饅頭も人気だよ。山田夕陽君はいつも栗饅頭を食べてるんだ」
「へぇ〜、太陽君はぁ、お抹茶関連だったら何でも食べるけどなぁ」

話し声が聞こえてきたテラスをちらっと盗み見た少年は、ふっと鼻で笑う。
チョコパイが白飯の代わりになって堪るか。そうとも、男は黙って白米を食え。それがカルマの掟なのだ。いや、単に総長である某人殺しフェイスの好物がお米だっただけだが、お陰様でお母様は林檎を片手で握り潰す握力を有する屈強さながらも、繊細なお味の料理を作ってくれる。

「いらっしゃいませ、ご注文がお決まりでしたらお声掛け下さい」
「このチケットは使えますか?」
「はい、ご利用頂けます。セットメニューからお選び下さい」
「セット?」

何だ、この店は。
室内の雰囲気はカフェカルマと似た様な雰囲気なのに、メニューが全然読めない。大体タルタルシュリンプマフィンとは何だ。辛うじてタルタルとマフィンは判るが、シュリンプとは何なのだ。手裏剣の仲間だろうか?
いやはや、ハニーパンケーキと言うのも良く判らない。ハニーと言うのは恋人に使う言葉の筈だ。たまに高野健吾が藤倉裕也をそう呼んでいて、『ユーヤさんは蜜蜂なんスか?』と尋ねた時など、無表情で殴られたものだ。アナフィラキシーショックで死ぬんじゃないかと言うくらい凄まじい拳だった。
アナフィラキシーショックが何かは良く判らないが、とにかくやばいものだと言う事は榊雅孝から教えられている。カフェでお客さんから注文が入った時は、アレルギーがないか聞かなければならない。うっかり忘れようものなら、年々目つきが荒んでいく店長からコメカミをぐりぐりされて、呆気なく三途の川だ。

『良いか、アナフィラキシーを舐めるなよ。万一店の客が発症したら、一巻の終わりだ』
『兄貴はお医者なんだから助ければ良いだろう』
『何度言えば覚えるんだ。医大生と医者は全然違う』
『何が違うのか全然判らない』
『それに、俺が進学したのは歯学部だ』
『しがく?』
『…整形でも、歯並びまで変えるのは難しいからな』
『歯は大事にしなきゃいけないぞ兄貴。もう若くないんだから』
『お前は馬鹿なのか鋭いのか判らん。もうあっち行け、今度注文でミスしたら苛めるぞ』
『兄貴はユキオみたいに彼女に意地悪して振られるタイプか?』
『…フライヤーで揚げてやろうか、当馬』

いかんいかん。
年々カフェ店長と言うよりヤクザになりつつある雇われ店長を思い出しても、寒気がするだけだ。今は榊の兄貴の過去の恋愛に想いを馳せている場合ではない。

『イイかトーマス、お弁当屋さんで悩むのは男の宿命だ』
『流石総長、深い…!俺はのり弁とシャケ弁でいつも悩むんです。のり弁の方が安いけどやっぱり日本人なんで鮭が好き』
『俺も好きだ』
『やっぱり。明太子は鮭の卵なんスよ総長』
『鮭の卵はイクラじゃなかったか?』
『へ?』
『明太の子供だから明太子なんだ』
『へ?それじゃ、タラコは?』
『鱈の子供だな』

そう、シュリンプだ。シュリンプだけではなくハニーもだ。何ならアヒージョと言うのも全く判らない。飲食店なのは間違いない様だが、呪文じみたメニュー表の中で辛うじて理解出来るのは『チョコパイ』と『フルーツサンド』だった。食い盛りの18歳には余りにもスイーツ度数が過ぎる。
だからと言ってスプリングサラダプレートも意味不明だし、今月のランチプレート『ハルジオン』も意味不明だし、左席委員会メカ部長絶賛!タルタルシュリンプマフィンに関しては、まず手書きPOPの左席委員会が読めない有様。ヒダリセキで合っているのか?メカ部長とは?

ああ、先週までは帝王院学園も読めなかった18歳に、セレブ私立校の敷居の高さよ。まるで富士山の様だ。富士山麓オウム鳴く、この呪文があれば受験対策はバッチリだとほざいた神崎隼人よ、落ちた恨みを晴らさずおくべきか。

「…う…うぅ、ユウさんの味噌汁と焼いたシャケが食べたい…」
「申し訳ありません、当店では和食のご提供は致しかねますので」
「ぐぅ」

金城当馬はじっくり5分悩んだ末に、俯いてメニューを見つめていた為にズレ掛けた眼鏡を両手で押し上げ、キリッと表情を引き締めた。

『総長は何でそんなに頭が良いんですか?やっぱり大人だから?』
『俺よりお前の方が大人だろう?』
『俺は馬鹿だから彼女と双子の妹の見分けがつかなくてうっかり妹の方とエッチしちゃって、死ね最低野郎って十回言われて振られました。だって双子だからしょうがなくないスか?』
『ブフッ』
『総長、鼻からコーラが出てまス』

拝啓、崇拝せし我がシーザー。
貴方の導きに従ってトーマは辛うじて生きています。世間の荒波で新巻鮭ばりに急流を登っている今日この頃ですが、トーマは昨日18歳になったので選挙権を手に入れました。家から近い高校を受験して普通に落ちたし車の免許は仮免で落ちましたが、カルマの一員として、このお洒落なカフェの注文も果たして見せます。

『トーマス、大人は間違えちゃいけないんだ。選挙で悪い人に投票すると、国が崩壊してしまうだろう?』
『そっスね…。じゃあ悩んだ時はどうしたら良いんスか?』
『そう言う時は、』

どうか俺の生き様を、

「あ、あの、ご注文はお決まりでしょうか…?」

草葉の陰で見守り、コーラZEROを嗜みながら応援して下さい。


「はい!店員さんのオススメを下さい!」

金城当馬は総長(15歳童貞)が生きている事を、知らないのかも知れなかった。















「全く金持ち育ちの甘ったれマサフミちゃまは!」
「おい、金持ちは関係ねぇだろ。つーか金持ってんのは俺じゃねぇ」
「黙らっしゃい!ガミガミガミガミ」

帝王院学園生徒・教職員寮、正式名称リブラの敷地内で騒いでいる少年らの姿が見える。
鶏のトサカの様に前髪を立てている少年の目前、東西南北に分布している四つの寮に囲まれた中央には、寮の敷地の西側に流れている水路から細く伸びた水路が続いており、芝生に囲われた小さな噴水があった。

「何だあれ、ガミガミ言ってるだけじゃねぇか」
「普段説教される側だからな、ボキャブラリーが貧困なんだよリョータは」

鉄柵で囲われた北寮へ続く道並みの道中に小ぶりな建物が建っていて、警備員と思われる人間と、バトラー姿の数人が見える以外に人影はほぼない。

「お、此処フリーWiFi飛んでる」
「設備充実し過ぎだろ帝王院。パスワードは?」
「ないみたい。勝手に接続されたぜ、ほら」
「至れり尽くせりっすな」

病みそうにない雨足は然程強くはないが、外で団欒するには不似合いだ。近頃はめっきり暖かくなってきたと思っていただけに、四月末の雨は山間部の気温を著しく下げている。

「何でマサフミはリョータの前だけ大人しいんだ?これがユキオかトーマ相手だったら、5・6発殴ってる頃だろ?」
「リョータは弱ぇから、ちょっと殴っただけで吹っ飛ぶから?多分マサフミはシロップも殴った事ない筈だ。副長の男らしさに陶酔してっかんな、あの馬鹿。弱いもの苛めはしねぇ男気取ってんだろ」
「辛辣じゃんユキオ。シロップはすぐ涙目になるから、つい揶揄いたくなるんだよなー」
「俺ぁ、アイツのフルネームが加賀城獅楼だってさっき思い出した」
「奇遇だな、俺も」
「つーか、俺ら見事にバラバラになっちまったな?」

カルマ内チャラ男部門を担う二匹がキョロキョロと辺りを見回すと、警備員とバトラーに不審者を見る目を向けられているトサカとドレッドしか居なかった。

「とりあえずLINE上げとくか。んな馬鹿広い所ではぐれたら、どうにもなんねぇもん」
「パンフレット持ってる奴いるんだっけ?」
「2・3冊だろ?フロントにゃあんま残ってなかったかんな。何人かスマホで地図撮ってたと思うけど、充電切れたらジエンドだな」

フラワーロードを抜けてすぐの屋台村で、カルマ狂犬部門の一人が一悶着起こした所為で逃げる羽目になった訳だが、全員に土地勘がないので見事にはぐれてしまった様だ。現在地をパンフレットで確かめたカルメンは、すちゃっと取り出したスマホで仲間に呼び掛ける事にする。

「もしトーマが一人ぼっちだった場合、遭難しそうだな」
「悪い事言うんじゃないよユキオちゃん、想像したら不整脈になりそ」
「あんな馬鹿に限って、副長を見掛けて腕振りながら駆け寄ったりするんだぜ。はたまた迷子だって名乗り出たりして、生徒会だの風紀会だのに連れてかれて…」
「生徒会?風紀会?ちと待て、今記憶の扉が開き掛けてる。あーあー、何だっけ、帝王院学園の生徒会ってのは…」
「それに載ってんだろ。自治会の更に上に中央委員会ってのがあって、風紀のトップは奴だ」
「何処のページだっけ…あ、あった」

何度見ても寒気がする笑顔を浮かべた、凄まじい美人が紹介されているページをカルマは暫し眺め、無言で次のページへ捲る。何があっても帝王院学園の風紀局のお世話にだけはなるまいと言う、無言のアイコンタクトで一致した様だ。

「高等部自治会長…げっ。この王呀って、ウエストじゃんよ…!」
「だから言っただろ。ABSOLUTELYは元々、中央委員会のメンバーで構成されてんだ。次のページ見れば判んだろ、順当に行けば高坂が副会長で、総帥が生徒会長だ」
「相変わらずユキオちゃんはぴーちゃんを目の敵にしてんね」
「あの女男、毎度毎度総長にベタベタしやがって、一億回殺しても殺したりねぇっつーの。男だって判っててもハメ殺してやりたいって思ってた」
「DV男の嗜虐性を垣間見たよ。つーかお前、男もイケたっけ?」
「流石に試した事はないけどな。副長なら掘られても諦められる」
「ユウさんはノーマルだよ、空きビルで逆ナンしてきた女ハメてる最中でも俺らを呼び出すくらい、イカれてる」
「相手の女、喘ぎ終わった途端真っ赤な顔で副長の腕振り払って逃げてったな。ありゃ、良いエロだった」
「ユウさんの節操のなさと絶倫さ加減を最近忘れかけてたわ。普段狂暴以外の何者でもないアレがあそこまでエロいんだから、普段からエロ拗らせてる総長は?」
「…あの身体能力とあの腕力だからよぉ、がっしり腰掴んだまま離さない感じで、ガツガツ腰振って来そうだな」
「エッロ!」

某童貞(エロ殺傷力0)のネタで盛り上がったチャラ男達は、中央委員会のページをざっと流し読み、最上段に表示されている会長の写真を指で弾く。風紀だけではなく会計にも名を連ねている叶二葉もやばいには変わりないが、最もやばいのはまず間違いなくこの男だ。

「やっぱり仮面かよ。素顔が判んないんじゃ、見つけ様がねぇよ」
「こんな銀髪ロン毛野郎がほっつき歩いてたら、流石に判るだろ。例のクチコミ通り総長がこの学校に忍び込んだ事があるなら、俺らが立てた予測のどれかが正解かも知れねぇってな」
「総長が此処で働いてるか、此処の大学に通ってるか」
「俺らが認識してる大前提引っ繰り返して、失踪した理由が『全寮制に入学した』だったら」

カルマ非公認のファン達がひっそりと集っていると言うホームページに、シーザー出没情報が掲載されたのは先週の事だ。カルマにその話が届いたのはほんの数日前で、その時には既に掲示板で盛り上がっていたファン達は、月末に帝王院学園で催される西園寺学園との合同新歓祭に目をつけていた。

「ユキオ、最後が一番あかんやつや」
「…言った俺が身震いしてる」

結局ホームページ管理者に注意文を送る事はせず、一連の盛り上がりを追いかけた仲間内で協議を重ねた結果、スケジュールに余裕があるメンバー数人で確認に行く流れになる。
カルマファンのほぼ全員がシーザーを崇拝している事と、帝王院学園がABSOLUTELYの根城であると言う実しやかな噂も加わって、カルマファンは敵陣へ乗り込む様な心境の様だった。誰が言いだしたのか『シーザーの格好をしよう』と言う書き込みで勢いは加速し、止める暇もないまま『妥当ABSOLUTELY、シーザーに勝利を』と言う訳が判らないスローガンが掲げられたらしい。

「総長が手紙残して居なくなった所為でABSOLUTELYに探されてる訳だろ。大体、集会でも殆ど見た事がなかった総帥がうちの店に来たのは、あん時が初めてで、後にも先にも一回こっきりだぜ?」
「いつも真っ先に最悪なケースを想定するべきだって、石橋を叩き壊すついでに副長のメンタルも叩き壊す経理係がほざいてんだろ?」
「あー、王響と言う名のクール宅急便がな。総長やユウさんに近寄ってくる馬鹿女を片っ端から口説いてやり捨てしてる癖に、何でカナメは恨まれないんだよ」
「知ってるかふじこ、アイツのセックスは凄いらしいぜ?心の中を読まれてる気がするってくらい的確に、相手が望んでるポイントを突いてくるんだと」
「嘘だろ?」
「嘘じゃねぇ、カナメがやり捨てた女に誘われて寝た事あるけど、糞味噌に罵られたからな」
「お前って時々とんでもない傷を負ってるね、ユキオちゃん。寝てる総長にキスしようとして、肋骨蹴り折られたり…」
「肋骨じゃない、顎だ。あの時は整形外科の女医と付き合ってたから手術代はタダだった」
「おい、誇らしげに言うな」

ファンの中に帝王院・西園寺学園どちらかの関係者が紛れていたらしく、かなり詳細な行事日程情報などが晒されると、ファンだけでなくカルマ内も盛り上がった。すぐさま行動に移したカルマは、結果的に実家が会社を経営している粟谷将文が絶縁状態だった父親に掛け合ったお陰で、この様に新歓祭へ潜り込む事に成功している。
最大のネックは、彼らが知る情報の信憑性が証明されていない事と、帝王院学園がABSOLUTELYの巣窟であると言う事実に尽きるだろう。勢いのまま乗り込んできたまでは良いが、今回の計画はカルマ幹部を筆頭に、帝王院学園に在籍しているメンバーには隠してきた。見つかった時の事はあまり考えたくない。

「半同棲してた女が間違ってリョータのコップ使ったからっつって、髪引きずって追い出したマサフミよりマシだろ」
「お前ら番長組でまともなのはエリンギだけだよ。あのいかつい体で好物がエリンギなんて、愛くるしいにも程があるだろ。俺はエリンギなら抱ける」
「ふじこの性癖が末期」
「つーかマサフミとリョータってヤってんの?あのトサカ、嫁になるとか言ってなかった?」
「アイツは自分に対して優しい奴全員に結婚って言ってるだろ。こないだはジャケットくれたハヤトに求愛して殴られてた」
「ハヤトにはちんこおっきしねぇなー、たけりんに年中発情してるおまつなら何にでも勃起しそうだけどー」
「やめとけ。ゴルゴはゲーセンでタケに喧嘩売ってマツにぶっ殺されたのが、カルマに入る切っ掛けだぞ?」
「そうだった。馬鹿トリオの中じゃ、おまつが最強なんだった…。何でアイツあんなに強いんだよ」

四重奏は全員『危険』で、副総長は『超危険』だろう。
無論、疾風三重奏を自称している工業科組も『危険』の部類に入り、嵯峨崎佑壱のクラスメートであり神崎隼人唯一の舎弟である川南北緯も危険度は高い。つまり安全牌はご存知の通り加賀城獅楼のみで、今回の計画の明確なゴールを儲けるとすれば、当然シーザーその人だ。

「昔住んでたアパートの近くに道場があって、マツの母親が育児放棄してるっぽかったのを察したアパートの大家が口添えしたとかで、タダで柔道教えて貰ってたとか何とか言ってなかったか?」
「何その大家さん、全日本善人協会の組合員だったり?」
「寂れた商店街でちっさい店やってたお祖母さんって聞いたぞ。あ安藤…じゃない、安倍さん?」
「ふーん」
「関西に住んでた孫が盆正月になると帰省して通ってたから、同じ年頃のマツの事が気になったんじゃね?柔道の他にも剣道だの弓道だの、あれこれ経営してたみたいだけど、結局すぐに潰れちまったつってたな」
「結構デカい道場?どっかで聞いた事あるな、5区だか9区だかに馬鹿デカい道場なかったっけ?最後の師範は、戦後の日本最強と言われた格闘家の甥だった〜みたいなドキュメンタリー番組が、深夜にやってた様な」
「ググってみろよ。番組名知ってんだろ?」
「あ、出てきた。これこれ、藤倉道場、知ってる?」
「藤倉ぁ?」

どっかで聞いた事があると首を傾げたチャラ男達は、結局答えが見つけられないまま腹の音を響かせた。
地下鉄だのバスだのを経由してこんな山奥までやってきたのに、まだ何も食べていない。然し先程の屋台には流石に戻れないだろう。威勢だけは宜しい作業着に怯んでいる訳では決してないが、可能な限り騒ぎを起こしたくない。全ては鼻が利くカルマ最強の狂犬、赤毛のボスワンコの恐るべき拳骨を回避する為だ。

「あそこに見える明らかに厳重警備感ある白い建物が『北寮』で、高等部の役員と進学科の生徒が居住してるんだと」
「マジかふじこ。あん中で副長とハヤトとカナメとホークが暮らしてんの?」
「そう言うこった。ケンゴとユーヤはAクラスってのに落っこちてっから、向こう側の馬鹿デカい東寮か西寮のどっちか」
「…さっさとずらかった方が良いんじゃね?マサフミの世話はリョータに任せるとして、」
「ぎゃー」

馬鹿の悲鳴が聞こえたチャラ男二匹は、思わず顔を手で覆った。























「物思いに更ける時間は終わったかい?」
「…何それ」
「名残惜しげな表情で携帯電話を見つめていたから」
「あら、盗み聞きしていたの?貴方、マナーがなってないわね」
「OK、それじゃあそろそろ本番を始めよう」

天板を開く時。いつも少しだけ緊張する。

「どうするお姫様、メトロノームは必要かい?」
「気休めのジョークは結構よ。そう言った気遣いは、初々しい新人にしてあげると良い」
「ヒュー。君はいつだって女王様だ。そろそろ僕と付き合ってくれる気になってくれた?」

白と黒がきっちり並ぶ鍵盤を暫く眺めていると、緊張感は軈て躍動感へと変化した。左右十本の指で、譜面に描かれた五線譜を生み出す事だけを考えろ。ピアニストがピアノに触れる時、それ以外の感情など不必要なのだ。


『相変わらず余裕がない女だな』

その通りだった。
自分が一番判っていたから腹が立つのだろう。そんな事はあの時から知っている。いや、もっと前からきっと。

『ちぇー。母ちゃんのピアノ、おっきー!』
『可笑しいな、お前は天才だから何となく劇的な奇跡が起きて、グランドピアノでもイけると思ったんだが、全然届いてねぇなぁ』
『んー!足〜伸びろ〜!んー!手も〜伸びろ〜!』

幸せだった期間の短さを儚んだ所で、繰り返し思い出すのは当時の思い出ばかり。もっと違う選択肢があったなら、あの幸せはずっと続いていたのだろうかと。

『お前の手足が急に伸びたら父ちゃん腰抜かすと思うけど、頑張れ高野健吾。お前は天才だから、為せば成る』
『むーりー!』
『やっぱりな。おい、肩が外れたら困るからやめなさい』
『えー!ピアノは?!』
『仕方ないだろう、お前はまだおねしょチビだから』
『おねしょって何?』
『朝起きたらオムツが濡れてるだろう?』
『父ちゃんもパンツ濡れてた』
『昨夜は飲み過ぎてすいませんでした。夜中にトイレと間違えて風呂場ですっ転げて、大人げなく騒いですいませんでした。そんで全然覚えてなくてすいませんでした』

指揮棒を振っている時だけ惚れ惚れする姿の夫と、喋る前に玩具のオカリナとオルガンを覚えた息子。騒がしい二人をいつも遠くから盗み見ていた様な気がする。押し殺しても消えてなくならない罪悪感が、常に傍らにあった。

『母ちゃんが父ちゃんのあんよ持って、お布団行ったんだべ?』
『40になるのに、濡れたパンツ一枚でリビングに放置される指揮者、か…。どうせなら全部脱がして欲しかった』
『父ちゃん、母ちゃんに「ジェシカ」ってゆってたべ?』
『…嘘だろ?』
『ジェシカって誰?』
『健吾』
『ジェシカって誰?』
『父ちゃん急にピアノ弾きたくなったから、』
『ジェシカって誰?』
『…お黙りなさい健吾君。いつも二つしか食べられないミルク煎餅を、今日の父ちゃんは何と3枚持ってる』
『あっ、あっ、おやつ!』
『ふ、離乳食開始から一年経った大人な健吾君。今日は一つ多めのお煎餅が食べたくないか?』
『うっひょー!やったー!』

こんな微笑ましいだけの思い出さえ、あの時は追い詰められた様な気持ちで眺めていたと思う。今更どうにも出来ないとは判っている癖に、未練がましいだろう?

『そうだ。がつがつ食ってじゃんじゃん大きくなれば、大人用のピアノも弾ける様になる』
『父ちゃん、何でもかんでも適当に「何とかなる」っつーのやめろよな。だってさ、椅子にも抱っこして貰わねーと、乗れないんだもん』
『何でこんなにちっちゃいんだ健吾、もう本当に、出ベソな所まで俺に似てしまうとは。出ベソだと臍のゴマが溜まらなくて良いぞ』
『へそのごまって何?』
『おいおい、父ちゃんも出べソだって言っただろ?出べソじゃない奴らの臍の中には、ゴマがうじゃうじゃ溜まってんだ』
『つーかへそって何?うじゃうじゃって何?』
『まーたオメーは、すぐに何で何でって何でもかんでも聞きたがる!チューするぞ』
『何でっ?』
『一身上の都合で父ちゃんが健吾を食べてしまいたいからだ。いや、今すぐ食べる』
『ギャハハハ!やだやだ、父ちゃん、お腹にチューするのやめれー!気持ち悪いっ』

幸せだったかも知れないあの日。
そして真の絶望を知ったあの日。
もう二度と笑う事などないに違いないと、神を呪いながら震える手で握り締めた注射器で、腹を痛めて産んだ子供の皮膚を貫いた。

『一歳半で父ちゃんを嫌がるな。反抗期ってのは、大体15歳くらいからスタートするもんだ』
『じゅーごさいって何?』
『ふ。父ちゃんはその頃、あらゆる意味で大人だった…ぞ?』
『父ちゃんは大人だろ?ヒゲ生えるから』
『まーな。羨ましいか健吾』

どうせ死んでしまうならこの手で殺してやりたかった。本心だ。
それなのに神に愛された奇跡の子は再び目覚めて、また絶望を与えてくるのだろう。いつか失ってしまう恐怖、いつか全てが明らかになってしまうかも知れない恐怖。

『羨ましくない』
『おのれ、おむつも外れてない癖に苦し紛れの強がりを!』
『だって父ちゃん、大人なのに毎日母ちゃんに叱られてんじゃん。俺やだよ、そんな大人になんの』
『お前は本当に一歳なのか?』

恐怖、恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖、何処までも暗黒に染まる感情。
母親は無条件に子供を愛するものだと他人は唱えるけれど、どうして自分はそれが出来ないのかと責めては死にたくなって、死ねないまま、今日は昨日に変わり、明日が今日に変わる。

毎日、その繰り返し。



『血でも心臓でも何でもくれてやる!だから頼む、俺の息子を助けてくれ…!』

違う。
(違わないと信じていたけれど)(現実から目を逸らしていただけだ)(いつも逃げてばかりだった)(いつもいつも)
負ける事など有り得ないとばかりにいつも凛と背を伸ばしていた指揮者が、土下座している所を見た瞬間に。自分は何と恐ろしく卑しい女だったのかと、思い知らされた。

逃げてきたツケが回ったのだ。もう逃げ場など何処にもない。
恐ろしい。恐ろしい。今すぐ死んでしまいたいくらいなのに、死に掛けているのは自分ではなく、何の罪もない4歳の子供なのだ。

『やめ、て。あの子は…っ』

いつか、白い花が咲く日を待ちながら、怯えていた時があった。

『健吾は、貴方の子じゃないの…!』

ハルジオン。
この両腕で子供を抱いた日、平凡なピアニストが母親になった6月16日。(幸福と絶望が始まった日)


「僕の愛には気づいてくれてるんだろう?」
「それこそ悪い冗談。貴方って、何一つ私の夫に敵わないじゃない」
「残念、相変わらずベタ惚れか」
「…そうよ。誰に抱かれたって女は、常に一人の男しか愛せない様になっているの」
「女じゃなくて、君は…だろ?」

昨日とは違う今日。いつだって毎日そうだった筈なのに、人生で初めて実感したのはほんの最近だ。

「全く、女王様の愛は狭量だな。自由の国のコンマスが選んだ女王様に愛されたいと思うのは、男の本能なのに」
「まるでアリスの国みたいね」
「確かにショーゴ=コーヤは異端さ。型に填ったクラッシクを貫いて新たな旋律を生み出したモンスター、でも彼はアリスじゃない。きっとマッドハッターかクレイジーラビット」
「うさぎってキャラじゃないでしょう、彼は」
「アリスは君の息子だよ、クイーン=ケーコ」

小さく吹き出せば、肩から最後の力が抜けるのが判る。
初めて恋をしたのは16歳の時だった。視聴率は決して高くないだろう深夜番組で流れていたクラッシクコンサート、オーケストラの片隅で誰よりも楽しそうにバイオリンを弾いていた男はチラチラとメインピアノに視線を走らせ、巨匠と呼ばれた指揮者からタクトを鼻先に突き刺されて、観客の忍び笑いを誘ったのだ。

「…馬鹿ね。健吾はまるっきり、あの人に生き写しなのよ」
「何か言ったかい?」
「始めましょう」

髑髏マークで封じられたジェラルミンケースが、まるで見てくれと言わんばかりに自宅のピアノの上に放り投げられていて。決して開いてはいけない鎮魂歌の譜面の上に重ねられていた茶封筒は、いつだって自信に満ちていた男が隠し続けてきた、唯一の弱さだったのだろう。

「久し振りの里帰りだからって手は抜かないでおくれよ、女王様」
「あら、誰に言ってるの坊や?」

本当に、馬鹿な男だ。

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