帝王院高等学校
だから先人は言った男はつらいよと
「そっくりそのまま、箱詰め?」
「そう、失敗した世界を。」

しとしと。
しとしと。
静かに大地を濡らし続ける霧雨はいつか、嵐に変わるのだろうか。

「作ってる時は楽しかったけど、興味がなくなったのかな。その辺は書かれてなかったから判んないけど、」
「ちょっと待って、何だよそれ!無責任じゃん!」
「あはは。だから創作小説だって言ってんの」
「あー…そうだった、判ってるのに入り込んでたな。私の悪い癖だよ」
「まだほんの冒頭だよ?こないだから更新止まってるけど、此処からがやばいの」
「OK、もう遮ったりしない…様に頑張るから、続きお願い」

世界中の時計が時を刻む様に、誰もが気づかない間にいつか、洪水の様に押し寄せてくるかも知れない。人はいつだって災害が起きなければ、警戒しないものだ。

「何億年か経って、ゴミ捨て場の本棚から音がする」
「音?」
「カタって箱が動いて、ひょこって顔を覗かせたのは、いつか神様が捨てた宇宙の中で勝手に進化してた『形』だった」
「失敗した工作のオブジェが勝手に成長してたって事?」
「そんな感じかな。何個目の宇宙か判んないけど、感情を知った『形』が動き回る、そんな物語が生まれてたんだ。何億光年経ったかも判らないけど、神様も想像してなかった変化が起きてたんだ。神様はそれを知って嬉しくなった。だけど同時に、動く形には感情があるだけで、『意思がない』事も判ってた」
「判んないな、何がいけないわけ?動いてるんだから良いじゃん」
「駄目だよ。神様が作った神様だけの感情なんだから、自分以外が理解出来る訳ないんだ。動いて踊って笑って泣いて、人の形もしてないのに表情豊かな形は、所詮不出来な人形だから。神様と同じにはなれっこない」
「感情をインストールした、ロボットみたいなものって事か。AIが搭載されてないから、決まった動きしか出来ないみたいな?」
「うーん、文系の想像力の前じゃ理系腐女子は何も言えねぇ」

それにしては酷く穏やかな世界は、まるで眠りについているかの如く。

「他にも神様は色んなものを作って。この世のありとあらゆる色と、ありとあらゆる感情と、ありとあらゆる光を詰め込んでみた。すると動く形は段々人の形になっていって、世界に初めて『人形』の概念が生まれた」
「それが人類の始まりって事?」
「そうだよ。神様は飽きもせず、勝手に動き回る人形を眺めてたんだって。笑って泣いて喜んで悲しんで、いつ見ても飽きなかった。踊ってくれって言えば踊ってくれて、神様がお願いしなくても飛んだり跳ねたりする。そこに意思がなくても神様は構わなかった」

落ちてくる雨粒を避ける事なく受け入れ続け、地上で霧雨は靄へと姿を変えた。霞んでいく景色は色褪せ、動物も植物も、殆どが賑わいを失う。変わらないのは人間だけ、けれど彼らは地球に住まう命の一部でしかなく、全てではない。

「退屈だった永遠に時間が生まれたみたいに、神様は毎日見つめてたんだ」
「で?」
「だけど先に音を上げたのは、神様じゃなかった」
「まさか、」
「そう。意思がないと思ってた、人形だったんだよ」

薄い雲の層が重なっていく度に、少し前まで生成色だった空は錫色へと深みを増していった。このまま濃さを増していけば、誰もが夜と間違えるだろう。

「神様より遥かに短い時間で、人形は狂ってしまった」

そうなれば知恵のある人類ですら、眠りに落ちるだろうか。

「神様に一番近い人類だったから、賢かったんだ。自分が孤独で、寂しくて、だけど神様みたいに何かを生み出す事も出来ない存在なんだって気づいてしまった」
「…神様にはなかった絶望を知ってしまったのか」
「多分、そうだね。神様は段々壊れていく人形をどうにかしたかった。もっと眺めていたいのに、壊れてく人形は壊れたまま、元には戻りそうにない」
「うん」
「そして神様は、ひたすら狂ったまま、壊れ果てても死ぬ事が出来ない人形を可哀想だと思ったんだ」
「うん」
「だから、世界に『死』が生まれた。全ては終わる事が出来る仕組みになった瞬間、本当の時間の概念が生まれたんだよ」
「…終わり?」













通りゃんせ
(自分ではない自分で)
(自分が作った果てしない道を)
(俺の愛を知れ)

通りゃんせ
(もう戻れない)
(戻るつもりがないからだ)
(俺はお前に愛を教えてやると決めたんだ)

此処は何処の細道じゃ
(騎士は常に前を向いている)
(守る者は背中の向こう側に)
(後はお姫様と結ばれるハッピーエンドを待つばかり)




天神様の、
(お前の手が俺に届いても)
(俺の手が届く事はない)
(初めからずっと)
(俺はお前だけの騎士だった)


















「そして神様は気づいた。自分は一人なんかじゃなかったんだって」
「どう言う事?」
「虚無は、始まりと終わりが重なってる時だけ存在するんだよ」
「?」



「一人ぼっちだと思ってた神様の背後にはいつも、もう一人の神様が存在したんだ」

















(辿り着く結末の何処にも俺の姿はないと)
(全てが存在しなかったあの日から俺は、知っていた)



























「けっ、けけっ」

視界の端にちらりと入り込んできた物体が、壊れたラジカセの様に口を開いては閉じている。再生ボタンを押してもカセットテープが回らない祖父の部屋の古びたラジカセは、使い物にならないのにまだ捨てられてはいない。

「け、けん、」
「おう、どした敬吾」
「ひ…ひひひ、ひっ」
「火って、火事かよっ?何処だ?!」
「んん、ちがっ」

最初で最後のアルバイトをした息子が、初めての給料で買ってくれた中古のラジカセを祖父は、だからと言って後生大事にしていた訳ではないだろう。ぽつんと忘れられたインテリアの様に、物言わぬまま置かれていただけだ。持ち主は『処分費用が勿体ないだろう』なんて憎まれ口、海外を飛び回っている世界的指揮者も、実の父親にとってはいつまで経とうがハナタレ小僧だったに違いない。

「ひろっ、電話っ」
「ああ、ユーヤ?んだよ、また喧嘩したんか?お前らちっとも仲良くなんねーな」
「ぼ、ぼぼ、ぼく」
「悪い、問題はアイツだよなぁ。お貴族だから変わってんだ、お前のが兄ちゃんだし勘弁してやってくれる?」
「ひ、ひろなり、う、うう海、落っこちたっ、電話、じっちゃんが…っ」
「あー…またかよ」

孫には手放しで甘い祖父は最近、対して釣れない釣りに付き合ってくれる居候を猫可愛がりしている。釣り場に到着するなり釣竿を放り投げて海へ飛び込もうとする孫は流石に危なっかしく、もう一人の孫の様な養子はそもそも泳げない為、選択肢が限られているのだと言えばそれまでだった。

「二度目だべ、二度目。11月の日本海の冷たさ、想像しただけで金玉縮まっちまうっしょ」
「きっ?!」
「ったく、変な夢ばっか見てるから真っ昼間に眠たくなんだよなぁ?」
「えっ?」
「こっちの話。で、じっちゃん達は?ユーヤにゃいつも通り浮き輪つけてたんだろ?」
「う、うんっ。い、今っ、おお風呂…っ」
「外の銭湯?」
「んっ」
「で、二人分の着替え持って来いってか。ばーちゃん風邪気味で具合悪いから、起こさねぇ様に用意すっか」

毎晩毎晩、壊れたラジカセの様に魘され続けている子供を、高野健吾は知っている。
眠りが浅いのだろう。時々は真夜中に声もなく飛び起きて、深呼吸を繰り返している事も知っている。そうなる前に気づいてやれる時は朝まで頭を撫でてやったりもするが、食べる事と寝る事が大好きな健吾は基本的に寝つきが良い質なので、裕也が飛び起きてから気づく方が多かった。一度起きると朝まで絶対に寝ようとしない裕也は、布団に潜り込んでじっと息を潜めているのだ。誰にも悟られない様にしているのか、誰かに頼ると言う選択肢を知らないのか。

「敬吾も銭湯の広い風呂入りてぇだろ?俺らも着替え持ってくか」
「ん」
「園児まではタダで小学生は100円だっけ。風呂上がりのジュース代と…300円あれば足りっか」

大体、あの餓鬼は初めて会った時からそうだった。健吾が弾くピアノをキラキラした目で眺めていた『カナちゃん』の隣で、初対面の態度の悪さは何処へやら。大人しく聞いているのかと思えば、エメラルドの瞳をばっちり閉じて、健やかに寝息を発てていたのだ。

「ほらよ敬吾、オメーは番台でお金払うんだぞぃ?出来るよな?」
「んっ、で、きるヨっ」
「ユーヤめ、俺の面倒見てやってるっつーコンセプトの割りに、堂々と世話掛けやがって。ジジイの心臓が止まったらどうしてくれるんだっつーの。な?」
「じ、じっちゃん、死んじゃうっ?」
「大丈夫だって、親父の父ちゃんだべ?似たもん親子って言われてんのお前も知ってんだろ?あんだけ図太い性格してたら、簡単には死なねぇよ」

誰からも天才だと褒められ続けた健吾が、初めて『マジかよ』と自信を失った瞬間でもある。最早半ば意地になって起こしてやる!と言う演奏をしたものだが、裕也は全く起きなかった。何曲目かには寝返りを打っていた様な気もする。

「さてと。じゃ、お子様を迎えに行ってやっか」

自分も子供の癖に・と、健吾は年齢にそぐわない笑みを浮かべて肩を竦めた。
いつか天才だと持て囃したほぼ全ての人間が今では近寄っても来ないのに、あの日、初めて健吾の演奏を聞いてさえもいなかった裕也だけが残っているのだから、奇想天外にも程があるではないか。

「あ。そう言えば、父ちゃんから小遣い届いてたんだ。メール届いてたろ」
「ん」
「どうせまた500円ずつだろうけど、帰りに銀行寄んねーとな」
「おかね焼きっ?」

毎月決まった日に省吾から送金される小遣いは三人分。健吾も敬吾も裕也も500円ずつで、昔からある駄菓子屋のおばあさんは昔鉄板焼きの店を構えていた事もあって、駄菓子の他にお好み焼きの様な粉物の商品もある。もやしと葱しか入っていない魚粉たっぷりの一銭焼きが80円で、街中の子供が一度は食べた事があるおやつだ。古くは一銭洋食と呼ばれていたらしく、一銭を知らない子供達は『おかね焼き』だの『おかねもち』だのと呼んでいる。

「それは明日の楽しみにしようぜ」
「ん」
「ユーヤの父ちゃんなんか色んなもん送ってくれるのに、うちのおっさんはケチの権化だよなぁ」
「おお、おとさん、かっ、かっこいいヨっ?」

健吾としては豚玉を味わいたい所だが、イカ玉の300円に比べても豚玉の450円は高価だ。それでも良心的な店として知られているが、6歳児の小遣いでは敷居が高すぎる。いつも出かける度に100円玉をくれる祖母は還暦を迎えた頃から体調が宜しくない様で、毎月そこそこ大きい町の病院へ通院する以外で出掛けるのは、買い物程度だった。

「やめとけやめとけ、あの顔に騙される奴は素人っしょ。真の男はラオウでもトキでもねぇ、ジャギだべ?」
「じゃ…?」

性格がアウトドア気質である祖父は裕也がやってきた頃から度々出掛けたがり、裕也は裕也で来日以来歴史好きに拍車が掛かっている。祖父の年金が入ると電車やバスで遠出する事もあるが、殆どは散歩がてらに釣り場へ顔を出している様だ。漁師町のご隠居の趣味は図った様に釣りか盆栽で、祖父も多分に漏れない。公務員上がりの祖父は釣りが上手い訳ではなかったが、釣り場に顔を出す事で近所付き合いを楽しんでいるのだろう。時々大物が釣れたと得意顔で帰宅し、職場を引退した頃から始めた料理の腕を披露してくれるのだが、残念ながら健吾は育ち盛りだ。カサゴの唐揚げよりトンカツが食べたいのだが、高野家の肉率は大層低い。
そもそも大人しく文句を言わない敬吾は出されたものをきちんと食べるし、裕也に至ってはいつからか肉を敬遠する様になっている。理由は判っているけれど本人はそれを認めないだろうし、記憶がないとは言え、4歳児の前で派手なスプラッタ状態を見せてしまった健吾の責任と言われても、前述の通り何せ記憶がないのだ。体が真っ二つになる寸前だったと聞かされた所で、入院中から肉やジュースを隠れて食べては吐血したり血圧が下がったりして騒がせた事もある。死ぬ所だったんだぞと怒鳴られようが、こうして生きているのだから良いだろと反論して、看護師を激怒させた事もあった。

「俺って神様って奴に愛されてるらしいからよ、んな簡単に死んだりしねぇと思う訳。ラオウは天に帰ったけどな、俺はケン繋がりだし?」
「けん?」
「あー、北斗の拳知らね?じっちゃんの部屋に何冊か置いてあったろ」
「う?ぼ、僕…」
「まぁ、ちょっと話が難しいからよ、オメーは大人になってから読めし。俺は生まれてこの方おねしょした事がねぇ、超大人な男だからよ」
「けんちゃん、かっこい!」
「まーな。オメーも俺を見習ってイケてる男になれや?マジでその内、キレッキレの百烈拳出すからよ」
「ん!」
「こりゃアレだ、ツッコミが居ねーから俺がとんだナルシストみてぇオチじゃん」

筆を持てなくなった絵描き。鳴けない蝉。飛べない渡り鳥。生きる術を失った時、彼らは何を選択するのか。
確かに音楽は健吾の全てだったかも知れない。それでも今は、リハビリすれば回復するかも知れないと言う医者の言葉を試す気にもなれなかった。どうせ聞いてくれる人などいない。それを悲しいと思わなかった自分に呆れたのか、それとも。

「なぁ、敬吾」
「う?」
「楽しそうな顔してた奴が段々悲しそうな顔になってって、俺さぁ、気づいたんだ。世間知らずな餓鬼臭い会話してた餓鬼でも、根っからぽやぽやしてる訳じゃねぇって」
「?」

キラキラと。輝く宝石の様な黒い瞳が、白と黒の鍵盤を眺めている。あの日は人生で一番調子に乗った日だった。野望と打算と計略で汚れ切った大人達の惨事よりも、日本語と広東語が入り乱れた不思議な喋り方をする『カナちゃん』に凄いと褒められる方が、素直に嬉しかったからだ。

「判んねぇよな。そりゃそうだ。嫉妬ってのは、してる本人が気づかなくてもされてる方は気づくんだよ。それが目の前だったら、マジですぐ判る」
「う、うー…」

それなのに、その隣で同じ音を聞いている筈のもう一人は、日本語のイントネーションは正しい癖に語彙が少ないからか、単に健吾の音楽が余程退屈だったと言う事か。とにかく、一曲目を弾いている間にすやっと夢の中へ落ちたのだ。それが子守唄だったらピアニスト冥利に尽きたかもしれない。
然し『クソ憎たらしい餓鬼に絶対褒めまくらせてやる』と意固地になった健吾は、脳内にストックしているあらゆる楽譜を演奏した。ド派手な長調も、震え上がる様なおどろおどろしい短調も、全てはボリボリと尻を掻きながら床の上で寝返りを打ちやがった、ドイツ伯爵家の息子を叩き起す為に。然しとうとう、カナちゃんが悲しげな表情で『もう聞きたくない!』と鍵盤を叩き走り去ってしまうまで、小憎たらしい裕也は起きなかった。それ所か要から何を聞いたのか、翌朝には『お前が苛めたんだろ』などと言いがかりをつけてくる始末。苛めた覚えなど微塵もない。裕也が悪魔なら要は天使だ。なので健吾はわざとらしくドイツ語で言ってやった。

『オメーを苛めてもカナちゃんを苛める訳ねーだろ、女の子を苛める奴はカスだかんな』
『はぁ?お前も女だろーが』

こうして健吾は、人生で初めて取っ組み合いの大喧嘩をした。人生で初めて女の子に間違われた瞬間でもある。誰がどう見ても裕也の方が女の子の様な可愛さだったと思うが、リヒトと裕也のどちらの名前を聞いても、健吾が裕也の性別を間違える事などなかったのに。日本語が喋れると言うだけで日本の文化を殆ど知らなかった裕也は、健吾と言う名前を知っていても女と間違えたと言う事だ。果たして日本人の何人が健吾と言う名前で女性を想像するだろう。

『オメーはマジで泣かす、泣きながら地元に帰らせてやるっしょ!Mit dem Flugzeug ist der Weg von San Francisco nach Currywurst nur ein Sprung!(飛行機だったら、此処からウィンナーの国まであっと言う間だろ!)』
『Kommt nicht infrage.(ほざいてろ)』

引っ張って引っ掻かれて、騒ぎを聞きつけた楽団員や大人達に健吾だけがしこたま怒られたのも、良い思い出だ。なんて事はない。長い入院生活の後に療養を兼ねて日本へ渡る事になった時も、ジェラルミンケースに入り込んだ裕也と一悶着あったのだ。

「…俺の所為で美味いソーセージ食えなくなった癖に、何で同じ学校に行きたがんのかな」
「う?」
「ベルリン…じゃなくてアウグスブルクだっけ。あっちに帰れば、ユーヤは王子様みてぇなもんなのによ。もうコンサートに出る予定がない俺なんて、一円の価値もないって奴なわけ。一円っつったら一銭より多いけど、80円にする為には79枚も足んねぇから」

算数は得意だ。演奏も似ている。全ての楽器にあらゆる特性が有り、あらゆる性質がある。正解を奏でれば美しい音が出て、そんな簡単な事なのに、それを出来る人間は業界でもほんのひと握りだ。それでも正解を奏でられる人間は間違いなく天才と呼ばれ、音感を持たない一般人も感覚でそれを理解するだろう。
健吾の今の音は、正解から離れてしまった。体の感覚などと言う曖昧な理由などではない事を、恐らく知っているのは健吾だけだろう。きっと気持ちの問題だ。

「綺麗な音さえ出せば皆喜ぶと思ってたんだ。なのに実際は、餓鬼も笑わせらんねぇ。殆ど毎晩まともに寝てない事知ってても、あっちから話してくる事なんて多分ねぇんだよ。俺って何なんだろーな。母ちゃんも親父も喧嘩ばっかで、じっちゃんもばっちゃんも、本当は親父に帰ってきて欲しいって思ってるのにさ、最後にゃ出てけって怒鳴っちまう」

間に挟まっているのは健吾だった。いつも。
英雄気取りだった訳ではない。助けてと言う声が聞こえたから条件反射そうしただけで、自ら望んで死に掛けた訳ではないのだ。それでも要が助かって良かったと本気で思っているし、恨んだりもしない。もう少し上手に避けられていれば良かったと反省しない事もないが、楽器から離れても悲しいと思えず、寧ろ開放感さえある。
野望と打算と計略、そしてそれらはいつも何処か嫉妬を帯びている。正しい音階を誰もが奏でられる訳ではなく、天才と言う褒め言葉の影にはいつも他人の嫉妬が見え隠れしていた。年端もいかない子供の前で、仮面じみた愛想笑いを貼りつけた大人達は『ブラボー』と拍手喝采してくれるけれど、その目が宿す嫉妬は決して消えない。

いつからかそれに慣れて、気づかない内に気を張っていた事を知った。子供特有の天真爛漫さで何も気づかない振りをしていれば楽だったから、馬鹿の一つ覚えの様に笑い続けるのだ。

『大人が入れない国を作ったら、もう怖くない』
『ほんと?』
『悪い奴は入れないから』
『うん』
『毎日きっと楽しい』
『ひろくん、すごい』

子供じみた秘密の話を、悪気なく聞いてしまった時に。誰よりもきっと、あの時それを実現したいと思ったのは、健吾だったけれど。

「ませてんだよ。やべーとは思ったけど無理だって事も判ってるからよ、ついツッコミたくなったっつーか。ぽやぽや笑ってんのがムカついたんかも。俺って、かなり最低な奴っしょ?」
「う、う、うぅ?」
「うひゃ。良いんだよ、お前は判んなくて。判んねぇって思ってるから話したんだからよ」
「んっ」
「はっ。本当にオメーは馬鹿だなぁ、お笑い界の頂点を獲れるんじゃね?」
「えっ」
「俺がネタ書いてやっから、お笑い芸人になれや。ほんでぼんぼん稼いで俺に毎日豚玉を食わせてくれて、」
「性格ひん曲がった苛めかよ」

ああ。いつの間にか、家から出て徒歩数分の銭湯の前に到着していたらしい。
番台に小銭を手渡している敬吾を横目に、持っていたバッグをタオル一枚の子供へ放り投げる。足元の洗面器に入っている濡れた衣服は、裕也と祖父のものだろうか。

「何でもう上がってんだよ。じっちゃんはいつも通り長風呂してんだろ?」
「…火傷した」
「あ?火傷?」
「ケツの下から熱いのが出てきたんだよ」
「ぶはっ」

昼を回って暫く、全国の子供が大好きなおやつの時間には田舎の銭湯利用客は少ない。少ないと言うよりは皆無だ。
硝子戸越しに浴場が見えているが、常連客のお年寄りかと思えば銭湯の経営者ではないか。番台で新聞を読んでいたのは、おやっさんではなく女将さんの方だったらしい。この銭湯の夫婦はまるで双子の様に見た目が似ているので、胸元を凝視しないと見分けられない。夫婦揃ってかなり恰幅が良いので、寒くなって着込まれると更に難易度は上がる。

「オメ、給湯んとこは気をつけろし。俺がいっぺん太股やられたの知ってんだろ」
「油断したぜ」
「オメー、また湯船ん中で寝てたんじゃね?」
「Wahrscheinlich Ich stehe auf dem Schlauch.(ちょっと何言ってるか判んねーぜ)」
「図星かよ」

いそいそと服を脱いでいた敬吾の背後に近づいて、わざとらしく呟いた裕也の苛めは目に見えて陰湿だ。ただでさえ滑舌が悪く引っ込み思案な敬吾は裕也と折り合いが悪く、敬吾の方は出来るだけ裕也を見ない様にしている様だった。今もそう言う状況だが、健吾に指摘されて分が悪い裕也は早速敬吾を揶揄い始めている。日本語ではない言葉を投げ掛けられてビクッと飛び上がった敬吾は、挙動不審だ。明らかに怯えている。
然し悪口を言っている訳でもなく、健吾を見ていないだけで、裕也の台詞は健吾に向けられたものだ。奇妙な状態なので、健吾は敬吾へ『先に入ってろ』と声を掛けた。

「釣り中に寝こけて海に落ちた癖にちっとも懲りてねーし、昨夜見たバラエティのネタ早速使い倒してるし、もうどっちがボケでツッコミなんか判んねーわ。全くオメーって奴はよ」
「Du bringst mich ins Schwitzen!(心配掛けんなよ!)」
「うひゃひゃ、オメーがその台詞言うなし!」
「オレは泳げるから、海に落ちても平気」

シャツを脱いだ健吾に投げ掛けられた台詞は、初めて会った時よりかはマシになった日本語だった。初対面ではドイツ語でチビと言われたので、オメーもなと返したやっただろうか。

「泳げねーからネイビーに入れなかった母ちゃんが、オレを庭のプールに投げた。泳げるまで飯抜きってよ」
「庭にプールがあんのかよ。たった今オメーのセレブ指数跳ね上がったぞぃ」

二言目は英語だった様な気もするが、中国語だったかも知れない。何にせよ多国籍な楽団では全員に通じる共通語がなかったので、物覚えの早い健吾は重宝されたのだ。我ながら酷いと思っている片言の言葉も含めれば10ヶ国程度の言葉が判るので、マルチリンガルだった裕也の苛めに屈する事は一度もなかった。裕也は天使の様な顔をしている癖に平気で汚い言葉を使うので、何度笑い転げただろう。

「あー、オメーの前じゃどんなボケの天才も霞むわ。って、おい、何してんだよ」
「帰るんだろ?小遣い日は梅ばぁの店に行く日だぜ」
「帰んねぇよ、見れば判んだろ?俺今脱いでんの!デカい風呂入るの!」
「オレはもう入ったから、帰る。泳いだから腹減った」
「ちょ、引っ張んなって。つーかお前は落ちただけで泳いでねぇだろ?」
「言葉のマヤ」
「どんな文明開化?!って、おい、コラ、っ、判ったから服着せろや…!せめてズボン履かせろし、外寒いんだぞ!」

笑い転げている場合ではなさそうだ。
ただでさえ一人で出歩かせるとすぐに誘拐されそうな顔をしている裕也は、訳の判らない所で頑固さを発揮する。五歳とは思えないくらい体術に精通しているのは軍人だった母親のお陰だろうが、力が強すぎるのは考えものだろう。

「早く穿け」
「ちょっと待ってろ!勝手に行くなよ、誘拐されそうになったら困っから!」
「ちゃんと殺すから、困らねー」

どうして裕也の母親は人間の急所ばかり教えてくれたのか。せめて過剰防衛と言う言葉を教えておいて欲しかったが、言うだけ無駄だ。

「…俺、和尚さんとこで極真空手習おっかな」
「何で?」
「オメーには、複雑な男心は判んねぇよ」
「馬鹿かよ。オレも男だぜ?」

とりあえず、急速に流暢になっていく裕也の言葉遣いの悪さが健吾の所為だとは、思いたくなかった。

←いやん(*)(#)ばかん→
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