帝王院高等学校
愉快な大人は決して挫けない
むちむちの太股に、エロティックな編みタイツ。
手足を縛られ猿轡をはめられている癖に、飽きもせず暴れ回っている金髪グラマーが見るともなく視界に入ってくる。暴れていた外国人女性の爪先が足に当たったらしいサラリーマンが、害虫を見る様な目で眼鏡を押し上げるのを見た。

「穢らわしいグレアムの狗が、空蝉である私に気安く触れないで下さい。この場に駿河公がいらっしゃらなければ、殺していましたよ?」
「ぐ…っ」
「まともに喋れませんか。これだから野蛮人は、知能が発達しないのです」

異性だろうと容赦なく吐き捨てた小林守義は、背広のポケットから取り出したハンカチで自分の革靴をきゅきゅっと拭うと、汚れてしまったとばかりにそのハンカチを編みタイツの上へ捨てた。

「ぷはっ。…量産型ジャップの分際で偉そうに。僕が教えてあげる、マスターはSon of a bitchって言ってるよ★」

グラマラス美女とは対照的に、肉づきの悪いオカッパ頭が吐き捨てた。濃いすぎるメイクは血色が悪く見えるが、何処から見ても可愛らしい少女だ。

「誰です、すぐに外れる猿轡を噛ませたのは」
「あ、確か俊江姐さんっス」

眼鏡を押し上げたワラショク専務に対し、片手を上げたのは梅森嵐だった。姐さん以外に何と呼ぼうか考えてみたが、高等部の制服を纏って繰り出していった背中は悪餓鬼にしか見えなかっただけに、口にするのは憚られる。

「俊江奥様なら仕方ないですね。奥様は空蝉の母、遠野課長を今日まで陰ながらお支え下さった女神でいらっしゃる」
「女神っスか〜、オレは竹林君の次に俊江姐さんが怖いんスけど〜」
「俺は竹林さんより松木のが怖ぇわ。アイツの竹林さんを見る目は、ケダモノだで」
「ちょっ★僕に気安く触るな!マジェスティのお許しがあればオールキルしたのに★!」

赤みが強い金髪のボクっ娘は、黒の短いフリルスカートから伸びている脚に、白と黒のボーダー柄のニーハイソックスを履いている。丸みが全くない細い足は今にも折れそうに見えたが、触るとそうでもなかった。

「おみゃあが言うとるマジェなんたらて、神帝のこったろ?東京じゃABSOLUTELYよりカルマのが良い意味でも悪い意味でも目立っとるんだで?」
「お前スラングが酷くて聞き取れないよ!標準語喋れ★」
「日本のど真ん中にある名古屋じゃ俺が標準語だわ、勉強が足らんのはそっちだに?」

身長も然程高くはなく、声の低さを気にしなければ女性にしか見えないが、ポテチをぱりっと齧った平田太一が何の脈絡もなくスカートを捲ると、可愛らしいピンク地に白い水玉柄があしらわれているボクサーパンツが見えたのだ。

「きゃ★?!」
「やっぱ男だがや。おみゃあの尻の方があっちの姉さんの乳よりムラムラするで、確かめたったんだわ。顔だけ見りゃあ、まるっきり女だね。ケンゴより落ちるけど」
「誰だよケンゴって★僕より可愛いの?!」
「そりゃ、」
「当然だろうが、健吾は俺の可愛い息子様だぞなぁ平田君?」

セクハラも辞さないレジスト総長は、背後から寄ってきた恐ろしい手によって首を締められる。

「く、首締まっとる…っ」
「はは、絞めてるんだから当然だろう平田何某君、地獄に落ちろ」
「ぐふっ」
「俺の息子を厭らしい目で見ると簀巻きにして太平洋に沈めるぞ、藤倉裕也君が。指揮を取る為にある俺の手は汚さない」
「勝手に人の息子を犯罪者にしないでくれるかね、省吾。断っておくが、君の息子は報道部が催している抱きたいランキングに入賞しているのだよ」
「抱き…何だって?」
「抱きたいランキング」
「アンタは真顔で何を言ってるんだ、日本語が可笑しいぞ」
「私はドイツ語より先に日本語を覚えた男なのだがね?」
「初耳だ」
「オリオンと言う悪魔に、生後一ヶ月で無垢な私は浚われた。63年前の話で合っているかね、遠野龍一郎先生」

レジスト総長の首を笑顔で絞めている高野省吾の隣に、何処から持ってきたのかワインボトルのコルクを抜きながら近づいた理事は、近年稀に見る笑顔でそっぽ向いている年寄りを見遣った。その隣でタブレット端末を弄っていた保険医と言えば、省吾の視線に晒されて不格好な笑みを噛み殺している様だ。

「音楽以外はポンコツとまで呼ばれた俺にも判るぞ藤倉さんよ、冬月先生の事はシリウスって呼んでたな」
「確かにそう呼んでいるね」
「で、遠野病院の院長は新聞にも載ってたくらい有名な人だから俺でも知ってる。葬式は国葬じゃないかってくらい、海外でもニュースになった」
「この通り、しぶとく生きているよ。我々まで騙し抜いてくれたのだから、常軌を逸しているだろう?」
「アンタの息子と俺の息子はカルマだな」
「その様だね。副総長はミセスクリスティーナの息子」
「佑壱がお世話になってます」
「あ、いや、健吾がお世話になってます?」

その美貌もさる事ながら、若い母親だなと暫しクリスティーナを見つめていた省吾は、オカマの恐ろしい睨みに気づいて目を逸らした。心の狭い男の嫉妬ほど面倒臭いものはない。
心の狭い男ランキングがあれば入賞する自信があるからこそ言わせて貰うが、省吾の好みは欧米系ではなくアジア限定だ。過去の恋人を遡っても殆どは日本人か台湾人か、インド人も居たかも知れないが、金髪女性は皆無だった。

「気の強い女は好きだけど真性は好みじゃない…」
「何の話だね?」

ドSはドSが判る、とか何とか。
高坂夫人や山田陽子には多少マゾっけを感じるが、遠野俊江と嵯峨崎クリスは違う。下手すれば俊江以上にクリスはやばい匂いがすると断言しよう。そうは見えないからこそ真性と言うのだ。根っからのいじめっ子気質である省吾だからこそ、絶対的な自信があった。グレアムのお姫様に惚れる男は真性マゾか、究極の馬鹿だ。

「佑壱君ってのはどんな子なんだ、やばいのか」
「かなりの部類に入るだろう。何せ君と違って読めない文字がない」
「おい、例え方。天才だってのは端から知ってんだよ。早い話がアンタを誘拐する様な悪魔の孫ってのは、ほのぼのしてる学園長とは比べるべくもなくやばいんだな?」
「私個人の意見としては、死んだ人間が生き返る以上に恐怖の対象だよ。…今の所、殺し方が判らない」
「は?」
「そこの人質に尋ねると良い。オリオンの恐ろしさを知らない世代とは言え、私の事は知っているだろう」

ぐいっとワインを煽った男は、微笑むエメラルドの瞳で青ざめているボクっ娘を見つめた。

「やぁ、初めましてだねランクB。済まないが君のコードは知らないのだよ。雇用年数の短いBYSTANDERが現役時代の私を知っているとは思えないが、大人しくしてくれないのであればそれなりの対処を」
「ひ…!」
「素面で将来有望な若者を手に掛ける事が出来るだろうか?」

麗しい笑みだ。我が道を行く省吾ですら、寒気がする程に。

「否、実直にして融通が利かない旧ナチスの軍国主義が未だ抜けきれないバイエルン生まれの私に出来る事と言えば、然程多くはない友人の敵を細々と殲滅する事くらいなのだよ。…この際、理性は捨てるべきだ。友情の為にワインを煽るべきだ」
「オペラ座の怪人も逃げ出す様な芝居掛かった台詞をスラスラ述べてる所に悪いが、然程多くないって言ったか?アンタに友達なんか居たっけ?」
「心外だね省吾、居る訳ないだろう?」

目が眩む様な笑顔でぼっち宣言した藤倉カミューはそのままボトルを煽り、ごっきゅごっきゅと一気に飲み干した。ぷはーっと言う長い息が満足気な彼の心境を教えてくれるが、此処がどこだか判っているのだろうか。

「…うん。アンタに物凄くビビってるな、コイツら」
「目障りな人間は片っ端から抹消してきたからね」
「今後オメーとの付き合い方を考える」
「儚い友情だったのだよ」
「俺達の間に友情なんてあったか、一人ぼっちのカミューさんよ」
「ああ、私の言い方が不味かったね。でも私と君は友達じゃない、親友だろう?」
「ランクアップしてるじゃないか、やめろ。俺の相棒は一昨年引退したサイモンだけだ」
「サイモン=アンダーソン、いや、トーマス=ホワイトかね」
「トーマス?」
「元CIA欧州工作員」
「誰の話をしてるんだ」
「ジャン=ピエール=ベッケンバウアーがランクDだと気づいたまでは優秀だったが、一介の指揮者を嗅ぎ回った所で掴める情報など高々知れていると思わないか、省吾」

頭が痛くなってきたが、世界的指揮者は決して口にはしなかった。学生時代も社会人になってからも、高野省吾の人生に病欠の二文字はなかったからだ。我ながら丈夫な体だと褒めてやりたい。風邪を引いた事もなければ、刺されそうになった事はあっても刺された経験はないのだ。一度は庇ってくれた仲間が刺され、一度は躓いてすっ転んだお陰で間一髪避けられたので、二度ほどナイフを向けられた事はある。

「…師匠がマフィアの手先だったなんて、知りたくなかったぞぃ」
「失敬な。ステルシリーはれっきとした証券会社だ」
「れっきとした証券会社の社員が簀巻きにされて転がされる時代か。世界崩壊は近いな」
「有望な企業には出資し、見切りをつけた企業からはさっと手を引く。そのついでに目障りな悪の組織を潰し、世界平和に貢献しているんだ」
「物は言いよう」

声を大にして言いたいのは、女性ではなく男性から向けられたのだと言う事だ。女性からひっぱたかれた事はあっても、刺される様な事態に陥った事は一度としてない。それも過去に数回ぶっ叩いてきたのは妻で、歴代恋人からは一度もないのだから、少しくらい自慢しても良いのではないだろうか。高野佳子のDVは殆どが照れ隠しの様なものなので、『ピアニストの癖に平手はやめろ』と言いつつ、大体にやにやしてしまう。それが妻の怒りを買っている事は知っているが、可愛い男心だ。

「口数が減ってしまったが、繊細な君を傷つけてしまったかね?」
「人間不信になった」
「それは良い。人間など信じるに値しない生き物なのだよ。身内だろうが平気で裏切るからね、自分以外は疑いなさい」

何なんだこの人格に大問題しかないドイツ人は、精神が崩壊しているのか。知ってはいたがこれは酷い。

「…アンタから良く裕也君みたいな好青年が生まれたもんだ」
「子供が褒められると嬉しいものだね」
「相当モテるそうじゃないか。健吾はすぐに振られるそうだから、羨ましいもんだ」
「へぇ、日本には寄りつかないと思っていたけれど、君も中々事情通だ」
「敬吾からそこそこ聞いてる。裕也君も定期的に連絡はくれるけど、如何せんあの子は口数が少ない」
「さて、誰に似たのか。どうも死んだ父に似ている様な気がしなくもないが、だとすれば多少面倒臭いだろう」
「面倒臭い?可愛い一人息子に言う台詞かよ」
「他に言い様がない。吸血鬼と呼ばれた父は、レヴィ陛下の手を最後まで煩わせた」
「吸血鬼…エテルバルドの妙なあだ名だっけ?」
「言っただろう、私は生後間もなく攫われたんだ。然し父は、探そうともしなかった」
「おいおい、俺なら地の果てまで追い掛けるぞ?」
「彼にとって最優先は母だけ。お陰様で私は数年間家へ戻れなかった訳だが、どうやって戻れたと思う?」
「物心ついてから脱獄した?」
「私を何だと思っているのかね。単純な話だよ、陛下が亡くなったんだ」

省吾には話が全く見えなかったが、酔っているのか話す気がないのか、空っぽのボトルで人質をつついている大魔王は誰が見ても楽しげだ。つつかれる度にビクッと跳ねるゴシックな女装少年が哀れだが、助ける気はない。どんなに可愛らしく見えても男なのであれば、静観しよう。

「俺より陰湿な苛め方をするじゃないか、伯爵さんよ」
「爵位なんてとっくにドブに捨てたのだよ。私の威光を笠に着るベルリンには、昔から嫌気が差していた」
「ベルリンの壁はとっくに壊されたってのに、アンタの心の壁は分厚いな」
「そうとも。私は君諸共、サンフランシスコを燃やし尽くしてやろうとした事がある。知っているだろう?」
「…そうだったな。その話を聞いて、俺は人生で初めて拳銃の引き金を引いたんだ」
「防弾チョッキを着ていて助かったよ。次の機会があれば、躊躇なく眉間を狙いなさい。腹を撃たれたても死なない場合が多い」
「説得力がおありで」

がっくりと肩を落とせば、盗み聞きするつもりがなくとも聞いていただろう大柄な少年が、気遣わしげな目を向けてくる。お前に同情される謂れはないと大人げなく睨みつけつつ、音楽以外に得意科目がない男は首筋を掻いた。

「殺し損ねて良かったのか悪かったのか、じっくり観察させて貰う。…ってまぁ、俺はあの時も同じ様な事を言ってたか」
「父にも叱られた事がなかった私にとって、忘れられない出来事だったのだよ。この話を、とある男の論文が報奨にノミネートされた時に語り聞かせてやったら、咽せ込むほど笑い転げてくれたものさ」
「何だか苦労してそうだな、友達か?」
「大学時代にほんの一時同期だっただけだ」
「世間的にそれを友達って言うんだ」
「初めて知ったのだよ。君曰く、私には常識が通じないそうだからね」
「息子の学校で盗んだワインを一気飲みする様な恥知らずだろう。何で理事なんかやってる」
「便利だろう?本来なら錦織要君と変わらない成績のリヒトの評価を下げる事も、理事の立場なら可能だ」

もういい加減にしてくれ。今日は暴露が多すぎやしないかと眉間を押さえた省吾は、ちょっと待ての合図として片手を挙げた。深呼吸を繰り返し、意を決してそろそろと顔を上げる。

「わざわざ成績を鯖読んでるってのか、下に」
「初等部時代に一度だけ寮の部屋割りで、健吾君と別れた事がある。我が子ながらどんな真似をしたのか、自分のルームメイトを精神的に追い詰めた末に、ほんの数日で部屋割りの再編に至らせた事があるのだよ。当時私は来日したばかりだった」
「追い詰められた生徒ってのは?」
「今はBクラスに在籍している筈だが、とんだ災難だったろう。以降は私が理事の権力を存分に振り翳し、リヒトと健吾君を同室にしているのだよ」
「健吾が可哀想だろうが!」
「どうだろう。中等部進級試験で満点だった星河の君に並んで、君の息子も満点だったのだけど」
「は?満点?」
「本来なら帝君だが、帝君制度は常に一人を対象にしてきた。首席が複数存在する場合に限り、外部入学生が最優先され、次に昇校生、本校在校生は更に下として評価される」

だから健吾は満点でも次席と言う訳かと納得したが、進学科の寮の仕組みであれば上位3位までは個室または広めの二人部屋に割り振られる筈だ。少なくとも首席に次ぐ成績であれば健吾は、本来中等部でSクラスへ割り振られた時点で一人部屋だったと言う事になる。

「それじゃ変だろ、健吾はずっと裕也君と一緒に暮らしてる」
「神崎隼人君は分校からの昇校生だ。例えばこの時に遠野俊君が加わった場合、どちらにしろ帝君は現在の通りだっただろう。結果的に帝君専用の一人部屋は昇校生に明け渡され、中等部では個室は2位まで用意されていた」
「健吾が蹴ったのか?」
「正当評価であれば、リヒトの同室は祭青蘭だった筈だ」
「じえ?」
「私がそれを君の息子に伝えると、血相を変えて『だったら俺が3位だったって事にしてくれ』と言うんだ。個室が欲しいから勉強を頑張ったんじゃないのかと私は尋ねたのだがね、『ユーヤは俺じゃないと人見知りするから』だそうだ。面白い冗談だろう?君の息子より先に、リヒトはあの子と出会っていたのに」

つんつん、転がっている外国人を真顔をつついている男は何を考えているのか、なぞなぞじみた台詞を呟きながらも何処か他人事の様だった。黙って聞いていれば良いのか、冗談の様に笑い飛ばせば良いのか、目の前の自称ぼっち男と大差ない人間関係しか知らない音楽家には議題の難易度が高過ぎる。猫に猫踏んじゃったを弾けと言っている様なものだ。いや、寧ろそっちの方が成功率が高い様な気もしている。そんな訳ないけれど。

『常識知らず…!アンタみたいに作曲家の感情なんてそっちのけで、身勝手な指揮に酔ってるナルシストなんかすぐに飽きられておしまいよ!』

省吾とは違って根っからの優等生気質である妻の、感心するほど豊富な悪口履歴から掘り返してみた『心が血を流したランキング』上位のフレーズは、数年経っても殺傷力が高い。いつでも自信満々な男には何を言っても良いと思っている節があるが、ダメージが大きすぎてその日の夜は眠れなかった程だ。ギンギンに目が冴えて、聞いている誰もをお通夜ムードにしてしまいそうな楽譜を何枚書き上げてしまったか。
この絶望を誰かに知ってほしいと楽団の仲間の前で弾いてやれば、殆どの団員が胃炎で苦しんだ。因みにその時書き上げた楽譜はエージェントによってジェラルミンケースの中に封印され、髑髏マークのシールを貼られた哀れな姿で倉庫に眠っている。ある意味で兵器の様なものなので、二度と封印が解かれる日は来ないだろう。

「あのさぁ」
「何だね?」
「お宅の息子はまぁ、俺の耳にも届くほどモテる訳で」
「うん?」
「健吾は親の贔屓目を抜きにしてもめちゃくちゃ可愛いと思うんだよ、佳子の若い頃にそっくりだし。親に内緒で刺青入れるほど思春期と反抗期をフィーバーしてても、俺の電話には全然出てくれなくても、素直な良い子だと思いたいんだ」
「父親の切実な願いだね」
「裕也君の傍にずっと居続けられる訳でもなし、目の前に男の自尊心を傷つける男前がいる所為で後ろ向きな考え方になっても困る訳で…」
「君らしくなく煮え切らない言い方だ」
「俺としては、そろそろ互いに自立する時じゃないかって」
「リヒトに殺されるかも知れないが、正気かね?」
「何で?」
「過去の恋人を一度も紹介された事がないのだよ、私は」
「男なんてそんなもんだろ?」
「図った様に、6月と12月には恋人がいないんだ。11月30日に携帯が壊れたと言いに来た事があるけれど、番号まで変えたいと言うから理由を尋ねれば、『しつこい女が何度も掛けてきて面倒臭いから』と言う。興味深い子だろう?12月と言えば、世のカップルは迫り来る行事に胸を弾ませる時期だ。そして、リヒトの生まれた月でもある」

これ以上聞いてはいけない気になってきたので、指揮者は無言で首を振った。にこやかな吸血鬼は空のボトルでとんとんと己の肩を叩きながら、『最後まで聞かないのか』と宣っている。本物のサディストは容赦がない。

「…昔、カナダ公演の時に借りたアパートの大家が庭先で花を育ててた。妊娠中の佳子は窓から庭を見るのが好きで、やっと蕾をつけた花が咲くのを心待ちにしててな」

そう言えば、あの花をハルジオンだと言った妻に隠している事がある。

「陣痛が始まるまで入院したくないって、そりゃ駄々を捏ねたもんだ。公演中は、俺が飛んでってやる事も出来ないってのに」

高齢で多少物忘れ癖があった大家はハルジオンだと言っていたが、大家の息子は『あれはヒメジョオンだよ』と言った。省吾にはどう違うのか全く判らなかったので話すのを忘れていたが、今更、そんなつまらない話をきっかけにしなければ話し掛ける勇気もないとは、情けなくて笑えない。

「何だっけな。俺は終身刑だったか?」
「償える可能性があるだけ、私よりずっと良いよ」

あの情け容赦ない右席委員会なる会長は、性別不明の容姿でドイツでは吸血鬼とまで謳われる男を指差し、スパンと言い放った。

『奥さんを見殺しにした?はん、だったらお主は死刑ざます』
『死刑?』
『くぇ。お主の心はあの日死んだ。男は黙ってコンテニュー、一度や二度押し潰されたからと言って諦めてる様じゃ、ぷよぷよ制覇の道は険しいざますん』

残念ながらあの場の誰もが全く理解出来なかったに違いないが、うんうん頷いていた男前な副会長には通じたらしい。

『そんなに奥さんに会いたけりゃ、そっくりなロボットかクローンでも作れば?本気出せばそんくらい出来るんでしょ?』
『出来なくもないが、私が愛した涼女は彼女だけだよ。遺伝子配列が同じでも、複製では意味がない』
『判ってんじゃない。だったら死ぬまで思い出に縋るのも後追い自殺するのも個人の自由なんだから、気が向いた時に実行すれば?』
『気が…?』
『息子が成人するまでとか。結婚するまでとか。孫が出来るまでとか』

魔女裁判は男を軒並み丸裸にし、ほぼ全員の精神に何らかの影響を及ぼした。半殺し終身刑の山田大空は『浮気された数だけ浮気する』ときっぱり宣言した陽子の前で死人の様な表情だったが、すぐに『だったら全力で邪魔してやる』と決意した様だ。黙っていれば若々しい美丈夫なのに、今後は妻の奴隷同然として生きていくのだろう。いっそ天晴だと思う。救いようがないほど女の趣味が悪い。

「…道理で、俺の所に授業参観や三者面談の連絡が来ない訳だ」
「宝塚君の分は届いているだろう?元より、進学科にも国際科にも授業参観制度はないのだよ」
「流石に三者面談がないのは変だと思ってた」
「君が来日する事でリヒトの機嫌が悪くなると、私が困る。君を消すなり健吾君を拉致するなり方法はあるが、健吾君の前では、友人の優しいお父さんのままでいたいからね」
「関わる人間を間違えた…」
「間違ったのは君ではない。私の妻と妻の妹を殺した、愚かな人間達だ」
「…俺は今でも根に持ってるぞ。一人息子が猟奇的な姿で手術室に運び込まれた時からずっと、健吾をあんな目に遭わせた全員を同じ状態にしてやりたいと思ってる」
「9年前、同じ事を言われたよ。この学園に入学したばかりだったリヒトに、『しっかり全員殺したか』ってね」
「どうしてくれる、俺の中の裕也君像が音を発てて壊れてくぞ」
「私にはグレアムとエテルバルドの悪しき血が流れているが、あの子の中にはもう一つ稀有な血が流れている。あの子が『善』と『悪』のどちらに傾くかは、私にも予測がつかないのだよ」
「稀有な血?」
「今後、ステルスは過去に類を見ない強大な敵を迎えるだろう。本来であれば帝王院財閥の正統な末裔として、日本の王子だった少年は今、その身に『天神』と『鬼』の血を宿し、ステルスに初めて刻まれた日本人ランクSと同じ統率符が委ねられた」

恐らくそれは、省吾にも制御出来ない健吾と、およそ子供らしくない裕也を揃って従えていると言う、カルマの支配者の事だろう。曲者揃いの右席委員会、会長・副会長の間に生まれた、省吾はまだ会った事がない高校生の事だ。

「で、その酒はどっから見つけてきたんだ?」
「さっき執務室が戻ってきただろう?副会長のデスクの引き出しから拝借した」

そうだった。むさくるしい男達が雁首を揃えている校舎最上階では、数分前に異変が起きた。急に床が動き出し、保健医の冬月龍人が血相を変えて『全員退避せよ!』とSF映画の司令官の様な台詞を叫んだ直後に、パカっと割れたホールの床から、しゅるるるるんとエレベーターの如く壁が現れたのだ。
心底驚いた省吾は態度にこそ出さなかったつもりだが、学園のシステムを知らなかったのは省吾だけだった様で、チャラそうな少年らの驚きは省吾とは意味が違う様だった。どちらかと言えばマジックを楽しむ観客の様なそれだ。

「凄い副会長が居るもんだ。流石は帝王院学園、治外法権が過ぎる」
「駿河学園長の耳に入ったらお可哀想だろう、言葉を選ぶのだよ」
「いつからアンタは男爵から日本のお公家に鞍替えしたんだ?」
「知らなかったのかね省吾、私は昔から駿河学園長をお慕いしていたんだよ」
「嘘臭ぇな」

ぽかんとしている一同の前にガコンとはまり込んだ巨大な箱はガチャンガチャンと暫く轟音を響かせ、何事もなかったかの様に停止した。皆の目の前に見えたのは、厳かなドアと『中央委員会執務室』の文字だったと言う訳だ。なのでだだっ広かったホールは煌びやかな廊下と、面積の殆どを埋め尽くした執務室で二分されている。

『すっげー!マジか今の、映画じゃん!』
『今までいつの間にかリフォームしるなって思ってたのは、こう言う仕組みだったん?!』
『半端ねぇなうちの学校、学園長最高!』
『そ、そうか?秀皇が考えた設備なんだが、最高かね?』

滅多にない見学チャンスだと興奮した面持ちで執務室へ入っていったヤンキー達に抱えられた帝王院駿河は、保健医と理事長とずっと皆から離れていた大河白燕やらも執務室の中へ招き入れ、自分が中央委員会の初代会長だと室内に飾られている肖像画を指差して、ちょっとした自慢話に花を咲かせている。

「…と言う訳で、当時まだ左席委員会はなかった。後に上院理事会の礎になる創立当時の経営陣は、父上の部下ばかりでな。下手な真似をすれば鳳凰校長の名を穢しかねないと、初代中央委員会会長に任命された私は重責を感じていた…」
「学園長すげー!」
「学園長かっけー!」
「そ、そうか?し、然し私より初代学園長の方が、大宮司を父に持つ重責があったんじゃないかな…?」
「学園長も凄いっすよ!だって十代で両親亡くしてんのに、会社継いでんじゃん!」
「息子はイケメンだし孫はシーザーだし、半端ないって!」

微笑ましい光景ではないか。
中央委員会会長のデスクに堂々と座り、せっせとデスクの引き出しを開けている無表情な理事長と言えば解任されたにも関わらずポテトチップスの袋を引っこ抜き、真顔で『やはり此処にベルセウスはないか』などと呟いている。世界最大の空母艦が引き出しに収まる筈もないが、前男爵なりのジョークだろうか。何と言うエッジの効いたブラックユーモア、いやノアユーモアだろう。カミュー=リヒト=藤倉は心の底から見なかった事にした。

「常務さん、小林専務は日本が大好きなんだね〜。オレも好きだけど〜」
「梅森君、あんな大人になったら駄目だぞ。君はゆくゆく、アミューズメント部門の一員としてゲーム開発に携わって貰い、事業拡大の一躍を担って貰う予定だ。まずは太陽坊ちゃんを釣れるゲームを開発して欲しい」
「まだ卒業出来るかも判んないのに、オレの将来順風満帆〜。つーかオレくらいの携帯アプリ作れる奴なんて、カルマにはうじゃうじゃしてるっスよ?」
「うじゃうじゃ?!」
「そ。歳が近い所だと…同い年のトーマって奴、頭はパーだけどローカルルール作んの上手いんスよね〜。麻雀とかポーカーとか、ちょっとした賭け事に身内ルールみたいなもん作って、しかも破綻しないんスよ。あれは一種の才能だよね〜。すんごい馬鹿だけど〜」
「今年18歳だな?何処の高校に通ってるんだ?」
「通ってないっス。去年も一昨年も受験したけど落ちたっつーか、数学と国語は一問目で答えられなくて時間切れになったらしいっス」

適応力が高いのか否か、一同は突然現れた執務室には然程驚かずに平静を保っている様だが、人質を笑顔を脅して暇潰しをしていた藤倉裕也の父親が窓の外の光景を見つめ指を差した瞬間は、流石に誰もが冷静ではいられなかったに違いない。

「見覚えがある顔が浮いているのだよ」
「はは。窓の外を指差して浮いてるって、そんな馬鹿な話が…」

少なくとも、高野健吾の父親は笑いながら窓の外へ目を向けた瞬間、どんなコンサートの初日よりも表情を引き締めた。
ぷかりと宙に浮いている乗用車の助手席に、省吾と同じく硬直しているらしい異国人と言えば、山田太陽にエンカウントしたモンスターの様だった・と言えば、ご理解頂けるだろうか?

←いやん(*)(#)ばかん→
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