帝王院高等学校
生まれ変わったらまた会いましょう?
「何で鍋に戻すの?!」

好きなものを好きと言う事に、抵抗はない。
嫌いなものを嫌いと言う事もまた然り。この世で一番大切なものがあるなら、それより優先されるものはない筈だろう?

「出汁が効いてねぇからだ。急かすからシャワー浴びんの後回しにしたのに、鼠も喰わねぇ様なもん並べやがって…」
「鼠?!」
「そこで黙って見てろ。良いか、昆布や鰹節で出汁を取れっつったってお前には無理だ。出来やしねぇ事を言うつもりはねぇが、化学調味料だけで俺の舌を騙せると思うな。時短と乱雑は違う」
「な、なん」
「ミネストローネだか何だか、具の切り方も適当だなぁ。性格がひん曲がってっからじゃねぇのか?風味はないわ、感じるのは塩っけだけ。このカスみてぇなのがボルチーニたぁ、食材に対する冒涜だぞ。インスタント味噌汁のが幾らか飲める」
「アンタ、朝から喧嘩売ってんの…?!」

不味いものは不味い。正当な評価だ。
今日の失敗を乗り越えれば二度目はないだろうと言う心遣いは、間違っているか?

「喧嘩吹っかけてんのはお前だろうが、何カリカリしてんだ。朝っぱらから人の上に乗ってケツ振ってたかと思えば、歯ぁ磨いてる俺の腕を引っ張って、朝飯が冷めるから早くしろって急かしやがってこの様だ。何一つ出来てねぇじゃねぇか」
「人を好きものみたいに言わないでよ!大体、寝ぼけたアンタが先に触ってきたんじゃないっ」
「知るか、嫌なら引っぱたけば良いだろうが。こっちだって、しゃぶられるまで勃起してなかったんだからよ」
「っ、佑壱!」
「煩ぇ女だな、ケンケン耳元で喚くな。もうすぐ出来るから皿出しとけ」
「ムカつく…!」

どんなに不味いものを出されようが、見捨てたりはしない。好きだの愛しているだの宣いながら近づいてきたのは向こうの方で、つまり愛があるから教えてやろうとする訳だ。誰だって食事は不味いより美味い方が良いに決まっている。皮を剥かずに食べる柘榴より、綺麗にひと粒ひと粒剥いた実の方が、絶対に。

「…あ?俺の携帯が鳴ってんな、取ってくれ」
「兄貴って書いてるけど、アンタお兄さんと仲悪いんじゃなかった?」
「Shit、それ寄越せ!」
「きゃっ。何すんの、酷いじゃない!」

この世で最も大切なものは、『最も』と言う冠詞がつく通り、一つ限りだ。例外などある筈もない。

「総長、おはようございます!」
『おはよう、イチ。早くにすまない』
「ノープロブレムっス」
『プラチナコースターの敷地内にプールが出来たのは知ってるか?』
「はい。お台場からちょい下った、埋立地の遊園地っスよね?」

嵯峨崎佑壱の最も大切なものは、この世で唯一認めたたった一人だけだ。例え相思相愛関係にある恋人ですら、比較対象にはならない。比較するつもりもないけれど。

『母ちゃんが懸賞でオープン招待券を当てたんだが、平日限定でな。親父同伴じゃないと水着禁止令が出て行けなくなったから、友達と行ってこいと言って押しつけられたんだ』
「マジっすか、お父さん嫉妬する人なんスね」
『あんなババアをナンパする物好きが存在するとは思えんが、あばたもえくぼと言う諺がある。何しろ俺は目が合うだけで喧嘩を売られる男だから、母親の目の前で警察に連れて行かれる訳にはいかないだろう?』
「はは」
『急に誘ってもイイものか悩んだんだが、朝までカラオケに居たらしい健吾と裕也は早速水着を買いに行くと言ってるんだ。要と隼人にもメールしたら揃って「今日めっちゃ暇」って返信が来た』

ぐつぐつと煮えたミネストローネ、渋々皿を出してきた半裸の恋人を一瞥し、肩に携帯電話を挟んで片手を振る。『皿は要らない』ではなく、『今すぐ出て行け』だ。仕方ないが、どうも通じていないらしい。怪訝げに首を傾げながらも通話相手が『シーザー』だと察した女は、若干そわそわした様子で会話を盗み聞きしている。

「何で俺に一番最初に連絡してくれなかったのかマジ意味判んねぇんスけど、俺も今日は死ぬほど暇です。何せ夏休みっスからね」

とは言え、帝王院学園東京本校の進学科に限っては休日なんてものは存在しない。
高等部の修験者じみた熾烈な単位取得制度に比べれば可愛らしいと言っても、中等部も大差ないと言えるだろう。帝君の佑壱には中央委員会書記の肩書きもあり、授業免除だ。神崎隼人も同様ではあるが、それ以外は違う。九時からのカリキュラムに出席せねば、定期的に行われる小テストで満点を取得するか、放課後または日曜日の課外授業で単位を補填しなければならない筈だ。
万一単位を取り零しても、次回選定考査で十位以内に選抜されれば不足単位は補填される。サボろうが選定考査で生き残れれば、進学科のままだ。どっちみち本当の意味でサボり続ければ先はない。サバイバルだ。
見えない所で努力するのであれば多少の息抜きには目を瞑る、自主性に任せた自由な校風が売りである帝王院学園に於いては、完全に欧米スタイルが適応されていた。何せ現在の上院理事会は、佑壱から言わせて貰えば『ノヴァの円卓』だからだ。

「今から準備するんで、少し時間下さい」
『大丈夫、開園時間は10時だ。待ち合わせは現地でイイか?』
「総長は俺が迎えに行きますよ」
『徒歩で』
「いや、えっと…」
『バスか。地下鉄か』
「け、賢治が最近免許取ったんで、アイツに車回させて…」
『ケンズィーはお父さんの店の手伝いをしているだろう。迷惑を掛けるな』
「総長の命令だったら喜んで飛んできますよ!」
『イチ』
「………バスで…」

地下は嫌いだ。何処にも窓がない閉鎖空間は息が詰まる。だから初等部時代から佑壱の寮部屋は、必ず窓がある部屋にして貰ったのだから。

『俺の方が先だから、後で乗る時間を連絡する。バスで待ち合わせしよう』
「っス。弁当仕込む暇はないんで、飯はあっちで喰うって事で良いっスか?」
『ん』
「他に必要なもんありますか?招待券っつったって、流石に全員は無理でしょ?」
『いや、一日限りだがグループ全員使えるそうだ。入園料は無料だが、ロッカーのレンタル費用が一人100円ずつ懸かる』
「それも食費も全員分、カルマの経費で落とすんで大丈夫っス」
『要に怒られないか?』
「総長からアイツに聞いてみて下さい。絶対大丈夫でしょ」
『判った』

出来たてのミネストローネは結局盛りつけられないまま。
捨てるか舎弟らのおやつにするか考えながら携帯電話を折りたたみ、低い位置にある女の顔を覗き込んだ。

「おい。今すぐ出てけつってんだろう、俺は忙しい」
「はぁ?!ちょ、どう言う事よ?!」
「言った通りだ。出てけ」
「馬鹿にしてんの?!もう良い、アンタとは別れるっ」

ああ、またか。
好い加減この展開には慣れてきた。それが本気の言葉だろうが、いわゆる駆け引きでしかないとしても。結果は今までと何も変わらない。相手が変わっただけだ。

「あっそ」

数分前まで抱いていた女だろうが、別れたいと言うならそれまでだ。だってそうだろう?好きだの愛しているだの言ってくるから受け入れて、もう嫌だ別れたいと言うからまた、それを受け入れる。相手の意思を尊重したまでだ。

「嘘でしょ?ちょっと待ってよ、佑壱っ、ねぇ、佑壱ってば…!」
「判った判った、とっとと出て行け。じゃあな、さようなら」

最も大切なものは常に一つしかない。
それより優先するものなど存在する筈がないのだから、判り切った結果なのだ。

「…あー、面倒臭ぇな。女は暫く要らねぇ、マジで」

好きな人がいる癖に、何とも思っていない他人を抱ける様な器用な男にはなれない。そんな男にはなりたくもない。
ああ、意味もなくムカムカしてきた。やっぱりどんなに取り繕っても『最高』ではないスープは、このままシンクへ流してしまおう。何事にも手を抜かない、それこそが真の男であるべきだ。

「もしもし、起きてたか。今日はそっちに顔出せねぇから、何か変わった事があれば連絡しろ」
『…昨日下院の引継ぎが終わったばかりで、今日の顔合わせに出ないのは流石に不味いのでは?』
「今季の中央委員会は変動なしだろ。顔合わせっつったって、良く知りもしねぇ最上階・高等部の自治会がデケェ面しに来るだけだ。中等部も変わってねぇんだろう?今度も自治会長は…誰だっけ?」
『ウエスト、西指宿麻飛。クラスメートの名前くらい覚えてくれ』
「んなもん知るか、お前の友達だからって俺はどうせ他人ですから?教室じゃ喋った事もありませんから?」
『拗ねてるのか?似合わない真似をしないでくれよ、人目を避けて図書館にいるんだ。大声で笑えば不審に思われる』
「片っ端から教職員食い散らかしてる変態が不審じゃなけりゃ何なんだハゲ、少しは自重しろ」
『そっちこそ、また言い寄られて性懲りもなく付き合わされてるんだろう?今度こそ半年保つのか?』
「たった今、別れた」
『君は病気じゃないのか、副総長』
「捨てられたのはこっちだぞ。俺の胸は今、失恋の痛みに締めつけられてる」
『明日には名前も忘れてそうだけど』
「馬鹿か、既に今日覚えてない」
『最低だな』
「そんなに褒めんな、照れるだろうが」

ハンズフリーの携帯電話を放り投げ、三角コーナーに沈黙した何の罪もない野菜達をビニール袋に詰めてゴミ箱へ放り投げる。そう言えば今日は燃えるゴミの日だ。鍋を洗ったらフローリングを磨いて、ゴミを出さなければいけない。ああ、それなら米を炊く時間くらいはあるだろうか。食い盛りの餓鬼ばかりが炎天下に、巨大室内プールへ繰り出すのだから、おにぎりくらい持っていくべきだろう。
小洒落たスパリゾートの食事では『食べた気がしない』と、高野健吾辺りが喚き出しそうだ。

「西指宿が会長で、他は?」
『書記と会計はクラスメートから一人ずつ。書記は前季から持ち越し、去年から空席だった会計には新年度に二年生から補填した生徒が続投だ。確か…溝江と言う生徒だったと思う。二年の上位陣はカルマが揃っているから、完全に代替案だ』
「まぁた要達のクラスからか。こないだ問題を起こした自治会計は、退学したんだったか?」
『風紀局長自ら捕縛して、翌日には退学処分だったな。確か、事件の関係者はもれなく全員だ』
「えげつねぇ真似したんじゃねぇのか、あの解離性障害者のこった。相手に同情するぜ」
『西指宿が連絡係だった筈だ。…当時は口にこそしなかったがかなり滅入っていた様だったから、相当の状態だったんだと思う。流石に詳細までは知りようがないから』
「去年アイツにぶっ飛ばされた大河の息子も酷かっただろ?祭を名乗ってる分際で、大河の嫡子を半殺しにするなんざ正気の沙汰じゃねぇ」

厨房専用にリフォームした部屋でさっと研いだ米に水を張って、物置からフローリングワイパーを取り出す。掃除機なんてものはスイッチを入れた瞬間に爆発するか沈黙するだけなので、掃除は常にアナログ派だ。雑巾掛けをするほど使っていないマンションだから、空気を入れ替えてゴミを捨てれば、後はベッドシーツを取り替えるだけで済む。

「表向きは大河朱雀がセカンドに手を出したっつー与太話で塗り替えられてるが、実際はどうだか」
『他に原因があるとでも?』
「あの餓鬼はゼロに気に入られてたらしいじゃねぇか」
『どう言う意味だ?』

ハンズフリー通話のままの携帯電話を掴み、じゃらじゃらと煩わしいストラップを手首に巻きつける。小物作りが趣味だと公言している実兄が事あるごとに押しつけてくるものだが、下手に捨てようものならどんな嫌がらせを受けるかしれない。顔を合わせる度に「こないだのアレは?」と聞かれるので、仕方なく大抵持っている携帯電話につけて『つけてますアピール』をする様になったのだが、年々増えていくので最近では新しいものをつける度に投げ捨てたくなる程だ。
然し最近では、ずっしりと重い携帯電話を持っているだけで軽いトレーニングになりそうな気がしてきたので、零人から渡されるキーホルダーやらストラップやらを、苛立ちながらもしっかりつける様にしている。ここまで来たらもう、半分は意地だ。

「あれはABSOLUTELYだ。ランクB、コードはフェニックス」
『…不死鳥?』
「テメーが入る前の話だから、知らんのは無理もねぇ」

真っ赤な鳥。
帝王院学園の校章には翼が描かれている。初代学園長である帝王院鳳凰の名を象ったものだろう。英語ではフェニックス、大河朱雀の朱雀も同様だ。

『と言う事は、ランクBがランクAに喧嘩を吹っ掛けたって事か』
「さて、何が原因だったんだろうなぁ。俺が叶を絞めて聞き出すより、お前が高坂を絞めて聞き出す方が遥かに楽そうじゃねぇか、イーストさんよ」
『…恐ろしい冗談はやめてくれ。彼は一人で風紀とFクラスを壊滅状態にした人だぞ』
「ふん。奴が侍らしてるチワワ共がほざいてやがったが、キックボクシングやってんだってな。猫っつーのは大抵足癖が悪ぃもんだ。零れそうなくらいデカい目をうるうるさせてる癖に野郎の尻の穴をガン掘りしてるっつーんだから、全くホモってのは訳が判らん」
『目をうるうる…?何、サブマジェスティの顔が好みだったのか?』
「誰がンな気色悪ぃ話をした。ぶっ殺すぞテメー」

苛立たしげにフローリングを磨いていると、元恋人の忘れ物だと思われる化粧品を見つけたので躊躇なく放り捨てる。寝室のシーツを剥ぎ取り、適当な袋へ詰めて玄関へ置いた。後は出掛ける時にマンションから出るとすぐにあるクリーニング店へ持っていき、待ち合わせのバス停へ向かうだけだ。

「で、自治会の副会長は?」
『西指宿は俺が推薦を蹴ったからと言っていたが、副会長は空席のまま、恐らく今季もノーサが口を出してくるだろう』
「は、叶の犬か。代わり映えしねぇなぁ、相変わらず」
『本校自治会の大前提が中央委員会だからな。治外法権は最上階だけだ。基本的に中央委員会の指示に準じるだけ、仕事量はそれほど多くない。初等部・中等部は特に』

残り二時間弱。一升の米を握る時間を考えつつ、シャワーを浴びるべきかコーヒーを淹れるべきか。

『来季、昇校枠に帝君ランクの生徒が居ると言う話を聞いた。新年度高等部の編入生』
「誰からのネタだ?」
『ノーサだ。西指宿は案外、口が堅い』
「は。単にお前が警戒されてるだけじゃねぇのか」
『…そんなヘマはしてないつもりだが、どうだろう。ウエストやノーサを騙せても、クラウンは騙せる気がしない』
「だから自治会の勧誘は蹴り続けろっつってんだ。テメーが地味な図書委員長にしがみついてる限り、セカンドがテメーに目をつける事はねぇ」
『了解。あ、それと』
「何だ、俺は今から米を炊きながら風呂に入るから忙しいんだが?」

全部一気にやれば良いかと、

『基本的に公衆浴場はタトゥー禁止の所が多いから、君と高野は気をつけた方が良い』
「…冗談だろ」
『日本人のマナーだ』
「黙れアゼルバイジャン、石油漬けにするぞ成金小国が」
『失礼、俺は生まれも育ちも日本です、副総長』

やる気になった途端、一気に佑壱の気力は削がれた。






























心の内側に、表現し難い感情が渦巻く事がある。
そんな時は己の醜さを思い知るばかりで、何度自制を促しても内側に押し留めるのが精一杯。口にしない様に耐えているだけで、冷静でいられる訳ではなかった。

「…母上?」
「目が覚めたのね。眩しかったかしら?」
「今日は昼寝をしたからの」
「そうだったわね。三人、川の字に並んで」

いつだっただろう。
まるで幼い頃に見た朧げな悪夢か、昔読んだ物語の様な。現実味のない古びた記憶が錯覚や思い込みなどではなく、実際にあった出来事なのだと考える様になったのは。

「…あれが川の字?兄上の寝相の悪さはご存知だろうに」
「ふふ。二人共、お父様のお腹の上に足を投げ出していましたね」
「僕は真っ直ぐ寝てた」
「眠っている時の事は、自分では判らないもの。貴方達三人の寝顔は、本当にそっくりですよ」
「嫌だのう、僕は母上に似たかった」

寝ぼけ眼を擦りながら起き上がった小さな息子は、枕を背凭れ代わりにして座ると、ふわりと可愛らしい欠伸を放つ。眠いのであれば横になれば良いのに、気を使っているのだろうか。よちよち歩きが抜けきらない年齢の癖に、とても紳士だ。

「綺麗でしょう、龍人」

仄かな炎を燻らせるランプだけを乗せた窓辺の、硝子一枚隔てた先の庭は闇に包まれている。
夜空には雲一つなく、今夜は見事な満月だ。明るすぎる夜は、健やかな眠りが中々訪れない。昔からずっとだ。

「納屋のランプに油を差したのか」
「毎夜空襲警報が響いていた頃には、誰からも灯しては貰えなかった可哀想な子。国は負けてしまったけれど、お陰で火を灯しても叱られる事はなくなりました」
「誰かに叱られたのか?」
「…光は時に、人を惑わせるのよ」

悪夢なのか。それとも自分の出来事ではない、ただの空想の記憶を錯覚しているだけか。
いつか月を見上げる度に脳裏をよぎった現実味のない悍ましい記憶を、今では少しづつ受け入れている。いつからだと思い返してみれば、結婚し、子供を授かってからだろう。夫にも話していない事だ。

「惑わせる?」
「外灯には羽虫が集るでしょう?生き物は闇の中では生きられない」
「うん」
「より強く光るものに惹かれてしまう性…」

優しい義兄に優しい義姉。
若くして激動の戦争を目の当たりにした高森伯爵家の嫡子に引き取られた糸魚は、引き取られた時にそれ以前の記憶を全て失っていた。結婚したばかりだった高森の養子に迎えられ、事実上は彼の娘ではあるが、母親代わりを務めてくれた美しく優しい高森糸遊が『父親と思えないなら兄と思えば良い』と助言してくれた事もあり、糸魚は彼らを実の兄姉の様に慕っている。

「万華鏡もそう。光がなければ、あの美しい模様を見る事は出来ない」
「ただ見えないだけだろう?」
「そうですね。美しいものも醜いものも等しく覆い隠す、闇こそが永遠の安楽だと思っていた時がありました」

高森家は伯爵の称号を与えられていたが、長引く戦況で疲弊する市民を度々助け、正規ルートでは手に入らない食料を配っていた事などから警察に目をつけられ、前伯爵は牢獄で病死した。流石に華族をすぐさま死刑にする様な余裕は当時の政府にはなかった様だが、あのまま戦争が長引いていれば、一族全員が捕らえられていたかも知れない。

「雲は陽を翳らせるでしょう?」
「ん?」
「蜃気楼も蜘蛛の巣も、光がなければ存在を把握する事が出来ないのだと教えられました」
「いつも話しておられる糸遊伯母様の事か」
「私達は大宮様のご慈悲で生かされている」

民からは慕われていたが軍からは睨まれていた高森に力添えしてくれたのは、公家の頂点に近い帝王院家の大宮司だ。帝王院俊秀が東京で睨みを利かせていたからこそ、暴虐の限りを尽くした旧軍は、然し内心は怯えていたに違いない。

「勿体ない事ですね。…暗い水の中でも魚は、生きられるもの」
「ふむ。母上は暗い所が好きなのか」
「ふふ」

現当主の帝王院俊秀は戦時中に発生した大地震を予知していて、敗戦色が濃くなっていた事に焦っていた日本軍は俊秀の助言を無視した事を悔やみつつも、神憑った人外の能力を恐れている様だ。

「然し冬月は、…大殿の慈悲を頂ける家ではないのでは?」
「光ある所に天神のご加護は等しく下されるそうです。極楽と奈落、陰陽を繋ぐ帝王院の大宮様は桐火祭主をお選びになられた。…帝王院は今、燃え続けている」
「火がついたから?」

大地に這い蹲る人間如きに神仏を理解する事は出来ないと、たった一人で牢獄から夫を救い出した女は嘲笑った。雲隠糸遊ただ一人に破れた日本軍は、以降高森伯爵家に手を出す事はなかった。終戦を迎えるとアメリカ軍の支配下に置かれた軍は解体、間もなく警察上層部は刷新され、現在は叶の人間が統治している。

「閉ざされ続けていた鳳凰様が解き放たれたそうですよ」

無論、表舞台に名乗り出たのは当主である叶不忠ではない。あの男が京都を離れる事は絶対にないからだ。
帝王院の社ごと屋敷を預かった墓守の一族は、見捨てられて尚も天神への忠義を忘れていない。叶芙蓉がしでかした過ちを、恐らく彼らは生涯償っていくだろう。呪いの様に。

「けれど雲雀姫様の様に羽ばたく事は、許されないでしょう」
「お家を継いだら自由だ。祖父が俊秀公に働いた無礼を、僕らは鳳凰様にお返ししなければならない」

出雲大社に継ぐ京都の大社を預かっていた帝王院は、京都に遷都する以前は奈良の大社を預かっていた歴史の長い神主の家柄だった。昭和で力をつけた軍事国家ですら、神仏の呪いが降り掛かっては堪らないと逆らえない相手でもある。

「父上が病院を作ったら、龍一郎も僕もお医者様になるからのう。大殿がお怪我をなされたら消毒して、手当てをするんだ」
「氷嚢の氷を取り替えましょうか。痛みはどう?」
「少し良くなった気がする」

生まれながらに存在を許されなかった可哀想な息子の足首が、真っ赤に腫れ上がっていた。昼間百足に刺されたばかりだ。

「父上は小便を掛ければ治ると言っていたが、本当かのう。アンモニアと言う成分が炎症を抑えるとは?」
「火傷にも効くそうですよ。ふふ、お父様はすっかりお医者様ですね」

季節的に寒くなってきたとは言え日中は暖かく、窓を開け放して昼寝をしていた父子に狙いを定めたのか否か、単に龍人の寝相が宜しくなかったのか。幼児の柔らかい足首は突然の激痛に苛まれ、龍人の泣き声に龍一郎が目の当たりにしたのは、包丁で百足を真っ二つにした糸魚と、電話応対中だったらしい龍流のポカンとした表情だった。

「昼寝している時と宴会に呼ばれる以外は本ばかり読んでおれば、少しはらしくもなろう。…父上が宣う事は、大抵説得力がないからのう」
「まぁ。酷い事を」
「然し母上、父上は僕が痛がっているのに笑っておったぞ」
「ほんの数分目を離した隙に、百足に刺れていたから驚いたんでしょう」
「笑い茸を食いすぎたからだと言い訳しておった」
「お父様は心配したいらしたんですよ?この氷だって、パーティーから早く抜け出して下さったお父様が買ってきて下さったのよ」

ついでに土産のお菓子もあったが、龍流が帰宅した頃まで発熱しうんうん魘されていた龍人は夕食も食べないまま眠っていたので、明日に持ち越しだ。抜け目がない龍一郎が盗み食いしていないか心配だが、『怪我した時くらい母親を独占したいだろう』と長男なりに気遣っている様なので、もし盗み食いしていても許してやろう。

「兄上は寝たのか?」
「龍一郎は先程、母屋へ行くと言って出掛けました」
「巳酉伯母様に呼ばれたのか?」
「…それならどうして龍流さんは羽織を持ち出したのか、少し不思議ね」

冬月龍流に初めて会ったのは、終戦前だった。
高森家の殆どの人間が軍に捕縛されてしまい、父親を獄死させてしまった事を悔やんでいた義兄は『最早この国に未来はない』と確信し、同じ志を持つ人間を集めては話し合いをしていた。江戸で幕府制度が終焉を迎え、徳川が野へ下り再び天皇制度が復活した日本は文明開化の直後だった事もあり、ほんの百年の間で天国と地獄を行き来した事になる。ほんの数年前まで軍が好き放題していた政府の仕組みは今、天皇を犠牲にする事で辛うじて国の形を保ってはいるが、植民地と言う名前がないだけで状況はほぼ変わらない。

「俊秀様は、今後も政治には関与なさらないおつもりでしょうか?」
「根っからの公家だからと、父上は仰っていた。僕にも判る、天皇陛下はお優しい方だ。国を操るには、無慈悲な人間の方が相応しい」
「優しさはいけないの?慈悲とは聡明な人に宿るものでしょう?」

アメリカが何処まで敗戦国を他国として扱ってくれるか、理性ある大人達の関心はそこに尽きるだろう。日々の生活で余裕がない方が寧ろ、精神的には救われるのかも知れない。

「賢い人間であればのう。狡賢い人間が持つのは狡猾さだけで、慈悲とは決して結びつかない」
「貴方は賢い子ね。もうそこまで世間が見えているの」
「政治家は龍一郎にぴったりな仕事だわ。僕がお医者様なって龍一郎が政治家になれば、日本はきっとすぐによい国になるぞっ」
「ふふ」
「母上は毎日ケーキを食べて、甜茶より甘い紅茶を飲んでおればよい。母上の好物はみたらし団子だったのう。タレをたっぷり掛けた焼きたての団子を、僕が毎日買ってやるぞ」
「まぁ、嬉しいわ。龍人が買ってくれたお団子を、家族皆で頂きましょう」
「食事は家族で食べる決まりだからのう」
「賢い子」

戦いが終わった訳ではない。戦場が大地の上から机上に移り変わっただけだ。人間は戦わねば生きられない哀れな生き物で、より派手なものに心惹かれる。

「窓辺は冷えるだろうに、何を見ていたんだ?」
「自由に泳ぐ、綺麗な綺麗な、鯉」
「うん?我が家の庭に池なんかあったかのう?」

いつか。
こうやって暗い夜の窓辺に佇んでいた時、光が近づいて来るのが見えた。あれも寒い夜だった筈だ。今日よりずっと、凍える様に寒い夜。本当の名前を忘れてしまった、一人の少女の地獄が始まった日の。

「輪廻転生を知ってますか?」
「生まれ変わる事だろう?」
「私の来世はどんなものかしら…」
「母上は清く生きておられるから、幸せに決まっておるわ。次の世でも僕は母上から生まれるからのう、今と一緒だのう。もしかしたら龍一郎も生まれるかもしれんが…」
「私は、来世は男性として生まれてきたいと思っているの。困ったわね、生んであげられないわ」
「何で男に生まれたいんだ?」

あの日が満月だったか新月だったかは、どう足掻いても思い出せない。
ぽつりと見えた明かりが近づいてきて、仲睦まじい夫婦は外は寒かろうと戸を開けた。まさかそれが強盗だとは、露ほども疑わずに。

「二度と失わずに済むように」
「何をだ?」
「…家族を」

名前。後はそう、本当の名前を思い出す事があれば。あの日の悍ましい記憶を素直に受け入れられるかもしれない。

「名前は大切なもの。名前があるから人は、獣ではないと証明されるでしょう?」
「うん」
「貴方にも名前がある。私や龍流さん、龍一郎もいるわ」

男の手なら全部救い取って大切に抱き締めて、守る事が出来る。どんなに強くても女の腕より、男の腕の方が力強い。

「私は殿方が羨ましい」
「そうかのう?」

優しい義兄夫婦が思い出さなくても生きられる様に育ててくれたけれど、偽りのままでは、愛しい男の妻として相応しくない気がするのだ。

「ご覧なさい、龍人。綺麗なお月様」
「母上は月が好きなのか」
「…特に冬。寒々しい空に浮かぶ黄金色は、震えるほど美しい」
「好きな花は曼珠沙華、好きな食べ物はみたらし団子、好きな景色は冬月。母上は変わり者だのう」
「彼岸花は咲かせた事があるの。…どんなに悍ましい生き物だって皮を破れば、綺麗な花が咲くのよ」

人を殺した事がある。それを知っているのはきっと、自分だけだ。
まるで物語の中の出来事の様に現実味がないけれど、近頃はより鮮明に思い出す様になった。幼かった頃は悪夢だと思い込まなければ生きられなかったからなのか、母親になって強くなったからなのか。どちらにしても、次の世では賢い人間になりたいものだ。

「私の内側は、醜い嫉妬で埋め尽くされている。なんて浅ましい…」

美しい錦鯉の様に泳ぐ事以外を淘汰出来れば、こんなつまらない悩みなど抱かずに済むのだろうか。

←いやん(*)(#)ばかん→
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