帝王院高等学校
エキセントリックなメランコリー
「…ああ、やはり流石でございます」

何も変わらない、昨日と同じ一日だ。

「英語とフランス語は完璧であると評価出来るでしょう」
「そうか」

偽りの空は白々しく晴れ渡り、太陽の下を歩き回っても肌が焼ける事はない。何せあの光は、本物ではないのだから。

「当初より日本語に関しては私が教える事などありませんでしたが、さて…これではスケジュールを再調整しなければなりませんな。坊ちゃんの学習能力を見くびっていた訳ではありませんが、余りにも早い」
「不都合ならそなたの取り決めた日程に沿う」
「いいえ、ご心配には及びません。今後どれほどの知識を吸収なさるのか、末恐ろしくもあります」

見慣れない『外』の景色にも慣れた。いや、此処を外と呼ぶ違和感に目を瞑ればの話だ。何度見上げても本物にしか見えない偽物の空の下、本物の空など一度しか見た事がない事を何度も再確認するばかり。

「陛下のご期待も益々大きくなりましょう」

初めて見た本物の空には、太陽ではなく真っ赤に燃える様な黄金の満月があった。闇に溶ける毛並みのドーベルマンはただただ真っ直ぐ聖母が刻まれたステンドグラスを割り、あの悍ましい月へ飛び出していったのだ。

「…どうでも良い」
「その様に仰ってはいけません。ノアは唯一神であり、我らの王であらせられます」
「興味がない」

全ての権利を手にした男爵は何をとち狂ったのか、己を殺そうとした男の忘れ形見を持ち帰った。つまりは帝王院秀皇が捨てていったアルビノを、だ。わざわざ消す必要もなく、放っておけば勝手に死ぬだろう脆弱な幼子に教育を与える。酔狂と言う以外にどう言えば適切だ?

「幾ら忠実な隷属と言えど、主人の耄碌に思う所の一つはあろう。サラ=フェインは死んだ」
「坊ちゃん」
「昨日の出来事だ。まさか忘れた訳ではあるまい?」

どうして生まれてきたのと繰り返し問う女に、ならばどうして生んだのだと言った翌日に別れは訪れた。他意はない。純粋な疑問だっただけだ。
サラ=フェインに精神疾患が現れたのは幼少期だった。大好きな父親と離れて間もなく発症し、彼女は学校へは通わず、家庭教師と言う名目でウェールズ伯爵家の一人娘に勉強を教わったらしい。エアリアス=ヴィクトリア=アシュレイは十歳で大学を卒業した天才児だった。

「少しは情があるか?」
「情とは?」
「辞書に記されていた、幼馴染みと言う関係性が相応しいのだろう。そなたの娘と、我が母は」

ランクC、コード:カペラ。中央情報部に登録されて間もなく、彼女は区画保全部へ配属された。エアリアスの専攻が心理学、『人間は等しく凡庸』と言うのが口癖だったと言う。

「父を失い、友人を失い、最後は理性を失って死んだ哀れな女だが、今は安らかである事だろう。死ねば思い悩む事はない」
「会ってはならないと申し上げた筈です。余り我々を困らせないで下さいませ」

目の前の男の娘だ。既にこの世には存在しない。
彼女の死と入れ替わりに生まれた『禁忌シンフォニア』のコードはファースト、それ以外のデータは存在しないらしい。…全て他人の噂話だ。無遠慮に聞こえてきたものに対して思う所はないが、さして面白いものでもない。

「何を懸念しているか知らんが、少なくともサラ=フェインはマジェスティノアに忠実な女だった。正気を保っている時にキングには逆らうなと言われたからな。そなたの娘より、多少賢かったのではないか?」
「…」
「私の反抗などあの男は痛くも痒くもない。早朝サラの急逝を伝えにやってきたネルヴァ卿に対し、ノアが発した台詞は『そうか』の一言だ。世界を統べる男爵にとっては、愛人が一人消えただけ」
「その様な事はございません。坊ちゃんは誤解しておられるのです」
「『どうして生まれてきた』と言われたが、私は答えず問い返した」

ブラックシープ。この国の言葉で『仲間外れ』『異端児』の事。みにくいあひるの子は白鳥だったが、物語の中の美談だ。現実は違う。

「私が産んでくれと頼んだのであれば罵られる事もやむを得ないだろうが、動物界で子供を産む権利があるのは、多くの場合母親だ。違うか?」
「仰る通りでございます」
「何故産もうと思ったのか、二日経っても明確な回答は得られていない。安定剤を投与されるまで耳障りな罵声を吐き続けた女が正気だったとは到底思えんが、あそこまで狂った最たる要因は紛れもなく私の存在なのだろう。異論はあるか?」
「ありますが、貴方は聞く耳をお持ちでない」
「矛盾ばかりだ。あの女も男爵も、そなたも。私には決して完成する事のないパズルに見える」
「我々が?」
「…全てが」

聖地・などと呼ばれてはいても所詮は極東の島国。英語も満足に喋れなかった幼子に聞かれた所で痛くも痒くもないと、油断している他人の浅はかさには興味がある。望む話ばかり聞ける訳ではない事だけ目を瞑れば、退屈凌ぎにはなった。

「目で見るもの。耳で聞くもの。それら全て一度で記憶する事が出来るとして、死んだ女の感情を知る機会は最早ない。そうだろう、アシュレイ」
「…」
「生かさず殺さずと言う言葉があるが、飼い殺しの宿命を課せられた女がノアの目を盗み逝ったのであれば、一矢報いた事になるだろうか?」
「お言葉が過ぎますよ、坊ちゃん」
「偽善は良い。事実、今日の中央区に悲しむ人間は存在しない。身柄はフェインが回収したのだろう?」
「貴方がお知りになる必要はありません」

安らかに、と。たった一人だけ呟いたのは、肌が黒い、区画保全部の女だったか。サラの担当医だったけれど、恐らくは昔からの顔見知りだったのだろうと思われる。親しそうではなかった。

「フェインの報復は想定しているか?いや、ルクレティア=フェインは再婚した後に子供を儲けたと言う話を聞いた。ならば壊れた娘には、些かの未練もないか」
「…もう宜しい。会話する際の言語は統一なさいませ、坊ちゃん」

気難しい男だ。覚えろと言うから英語もフランス語も覚えたと言うのに、早速使えば使うなと言う。身勝手なものだ。勝手に連れてきて勝手に閉じ込めた癖に、喋る自由さえ許さない。

「餌代が掛かる荷物が減って良かったと言う者も存在する」
「っ、誰がその様な戯言を…」
「能面が剥がれたな、フルーレティ=アシュレイ」

あれは母親などではなかった。
ならば誰が母親だと言うのだろう。いつか暗い温室で聞いた、『強くて気高い研修医』か?見た事もなければ名前すら知らない女は今、あの人と一緒に居るのだろう。もうすぐ生まれる予定だと教えられたのはいつだったか。弟なのか妹なのかも知らない。そうだ、何一つ。

「中央区ではコードが氏名の代わりになると教えた筈です。私の事は、」
「そなたが中央情報部長だったのは、何年も昔の話だろう。元老院は現役の円卓とは別個の組織だ。なればそなたをコードで呼ぶ必要性はあるまい」
「必要性の有無ではなく、しきたりなのです。初代社長レヴィ=ノアがお決めになられた社訓は、ステルシリーの礎」
「愉快な事を宣う。ならば今の中央区には何故、『ナイト』が存在しない?」

ステルシリー創設者、リヴァイ=ノヴァ=グレアムの墓には、ナイト=メア=グレアムの名が共に刻まれている。キング=ノア=グレアムは、日本人の子供に『ナイト』の銘を与えた。第二の母親同然のメアと同じ統率符を与えられた日本人は、産み落ちた双子に『ルーク』と名づけたのだ。

「マジェスティが真に望んでいるのはナイトの身柄だろう。ルークではない筈だ」

そして二卵性双生児は誕生と共に引き裂かれた。サラ曰く、初めに取り上げられた子供に先天性疾患が見られた為、すぐに集中治療室へ運び込まれ、後に取り上げられた健常体の子供は母親の元へ。この些細な違いが命運を分けたらしい。

「ステルスにとって社訓が礎であるならば、正しき後継者が不在の今、根底から覆されかねない状況だな。随分、面映ゆい話だ」
「…」
「私を従えるなどと下らん妄想に取りつかれておるのであれば、温い考えは捨てよ。そなたらに対して私は何も望まない」

何も。何も。もう、何も。
望みは全て砕け散った。毛並みの黒い犬がステンドグラスを割ったあの日に、振り向く事なく走り去っていく二人分のオフホワイトを見送った日から。

『神威』
『お前さんはどんな大人になるんだろうね』
『神威』
『あれは桜じゃなく、桃だ。良い香りがするだろう?』

叶わない夢など見ない。眠っている時ですら。
静かな場所が好きだ。いつも静かだった。日中、誰もいないスコーピオで誰かが帰ってくるまで昼寝をして待っていたからだ。それでも夜になると忙しいあの人は仕事を始めて、もう一人の父親は何処かへ帰っていく。彼には時計台の外に家があるからだ。

「最後の日、お祖母様は私に『貴方は何処にも行かないで』と仰った。私はそのささやかな願いを反故した」
「それは坊ちゃんの所為ではありません」
「そうだ。全ては忌々しいキング=ノア=グレアムの意思。お祖父様を裏切り続け、父上を追い出したあの悪魔を許す事は有り得ない」
「貴方はお疲れのご様子。少し休憩しましょうか、ルーク坊ちゃん」
「好い加減、私の検体検査は済んだか?」

あの時スコーピオに住んでいたのは秀皇だけだった。恐らくは、外へ出す事が出来ない子供を匿う為に。若しくは、監視する為。

「『聖地』から連行されてきた羊の母体が死んだ。話は間もなく誰もの耳に入る。レヴィ=ノヴァはアルビノだったそうだが、キング=ノアは違う。そなたが管轄する元老院でも、随分意見が割れているのだろう?」
「さて。何を仰っておられるのか…」
「『シンフォニア』とは何だ?」

尋ねた所で答えは得られない事を知っている。
ブロンドにダークサファイアの双眸を持つ悪魔から教育係だと紹介された男は常に能面じみた無表情で、己の事に関してアシュレイと言う名前しか教えてはくれなかった。

「夜中に話し声が聞こえてきた。私が寝ていると油断したのだろうが、あれはネルヴァ卿とライオネル=レイ卿の声だったと断言しよう。私は見えない生活の方が長い」
「お答え致しかねます。貴方が知る必要はありません」
「そなたはネルヴァ卿より冷静ではない様だ。然しライオネル=レイ卿よりは思慮深い」

毎日朝食後から昼食時間まで、決められた学習時間には本と電子辞書を渡されるだけ。まずは言葉を覚えなさいと言ったエメラルドの瞳の男は、恐らくゲルマン系だろう。ネルウァ=アントニヌス朝の初代皇帝の名は、マルクス=ネルウァ。カエサル=アウグストゥスと呼ばれる事もある。推測でしかないが、ドイツにはアウグスブルクと言う都市がある。穿った見方かも知れないが、否定する者が居なければ憶測は自分だけの真実だろう。

「私の顔を初めて見た者は、総じて似た反応をする。…ライオネル=レイ然り」

そんなに似ているのか。この顔は、あの悍ましい悪魔に。
死んだ筈の人間が朝になって現れた時、あの悪魔は真っ赤な首輪を持っていた。つまりはそう言う事だ。

「いや。あの食えない男の事だ、敢えて聞こえる様に話したのかも知れんがな」
「つまらない事はお忘れに。貴方が蓄えなければならない知識は、他人の世間話ではありますまい」
「ああ、そうだったな。所詮はノアの気紛れで生かされているだけのラム、煮るも焼くも選ぶ権利は私にはない。無論、そなたにも」

三人目の父親は身を呈して悪魔を祓ったかの様に思われたが、無駄死にしただけ。残る二人の父親は振り向きもせずに去っていき、死なない悪魔は何ら表情を変えず。

『そなたのペットのものだろう。遺体はこちらで埋葬した』

笑い話だ。
あれは父親だったなどと宣った所で我が身には、何の力もない。拒絶した所で日本を離れる事は大人達の中で確定していて、どれほど暴れても眠らされている間に運ばれてしまえばこの様だ。

「精々、男爵の怒りを買わぬよう媚びへつらっておこう。我が身に渦巻く呪いが届くその日まで」
「坊ちゃん、幾ら貴方でも度が過ぎれば叱らねばなりません」
「私がノアの血を継いでおれば、揺るがない筈の円卓は崩壊するか?」
「誰からそんな話を」
「騒がしい猫のしつけ係が『ノアの子である筈がない』と宣っていた。口数を減らせとでも忠告してやるが良かろう」

次に見たのは大空だった。絵本やテレビでしか見た事がなかった、青く澄んだ空だ。
そんな馬鹿な、と。言葉を失ったアルビノに世界の覇者は無機質な声で、『あれは偽物だ』と宣ったのだ。

「…確かに此処には、口が軽い者が多い様です。私から注意しておきましょう」
「ノアが取り決めた私の学習時間はまだ残っている様だが、今日の予定が終わったなら出て行け」
「宜しい、新しい語学書を幾つか置いていきます。次からは語学以外の教材も取り入れますので、」
「おいジジイ、勉強終わった?!」

可哀想に。と。何処かで誰かが宣っている。
聳え立つ漆黒の宮殿の一部でしかない図書館の窓の外には綺麗に整えられた芝生が広がっているが、忠実な神の従者が立ち寄る事はまずなく、そんな芝生の上を転がる勢いで掛けてきた赤毛の子供は『奇妙な例外』なのだ。

「何をなさっておいでか、ファースト。アルデバランは何を…」
「クソジジイは元老院の審査会っつーのに行った!偏屈ジジイはもう用なしだ、あの雑魚はフランス語も喋れねぇからな!」
「貴方はまた、そんな汚らしい日本語を…!よもや、偏屈と言うのはベテルギウスの事ですか…?!」
「はん、イギリス人は全員偏屈だろ。テメーも偏屈だ馬鹿アシュレイ、ばーかばーか、出べそジジイ!」
「私の臍は出ておりません。宜しいかファースト、暇なら静かに本でも読んでいると宜しい。貴方なら読めない書物はないでしょう?」
「当然だろうが、誰にほざいてやがる」
「ええ、そうでしょう。自覚がおありでしたら、ルーク坊ちゃんの邪魔になる真似は慎むよう」
「はぁ?!邪魔なんかしてねぇだろっ、終わるまで待ってやったんだから!大体、こんな辛気臭い所に閉じ込めてジュースもおやつも用意してねぇなんて、執事失格だぞ!今すぐプリン持って来い!」

地下世界はいつもは静かだ。何処かで誰かが囁く噂話ですら聴こえてくる程には。それなのに誰よりも騒がしい雑音が現れた頃から、ある意味一変している。世界で最も煩いと言っても過言ではない赤毛の子供は、悪魔そっくりなダークサファイアの瞳をいつもキラキラ輝かせて、他の誰よりも流暢なイントネーションで話すのだ。

「義兄様、Bonjour!(ご機嫌よう)」
「…にいさま?」
「俺…じゃなかった、僕と義兄様は従兄弟なんだって!ファミリーなんだよ!」
「そうか」
「僕の名前覚えた?」
「ああ。ファーストだ」
「義兄様はエンジェルって呼んでも良いよ。シスターは僕をエンジェルって呼ぶから」
「シスター?」
「うん。シスターは僕のファミリーなんだよ。動かなくなっちゃったけど」
「死んだのか」
「へ?動かなくなっただけだよ?目が見えないから、朝になった事が判んなくてずっと寝てるんだ、きっと」

ファースト。マジェスティの妹が生んだ子供。噂話で知ったのはそれだけ。
箝口令が敷かれているのか、そもそも誰もがそれ以上の事を知らないのか。未だ定かではない。判っているのは、毎日中央区の何処かで走り回っている動物の様な子供の口からは、電子辞書の様に様々な国の言葉が飛び出してくると言う事だけだ。その語彙力の凄まじさは圧倒的に逸脱していて、能面の様な大人達は例外なく手を焼いている。

「知ってる?僕の誕生日と義兄様の誕生日、同じエイプリルなんだよ。アリエス!」
「それがどうした?」
「義兄様は何日生まれ?」
「3日だ」
「僕は4日か5日、どっちか良く判んないんだ。シスターの時計は2個あって、一個はナイト=メアが生まれた聖地の時間だって言ってた。どっちがどっちなのか、シスターは見えないから判んないんだ」
「レヴィ=ノヴァ=グレアムの、最期の伴侶か」
「日本人だったって。義兄様と同じだね」

何がそんなに楽しいのだろう。
初対面の時は随分慇懃無礼な態度だった様に思うが、二度目に会った時も大差なかった様に記憶している。顔を合わせるなり何処の国の言葉か判らない言葉で捲し立てたかと思えば、あっと言う間に走り去っていってしまった。

「僕、こないだ伯父様にお会いしたんだ。義兄様と僕は従兄弟だって教えてくれたの」
「ノアの事か」
「仲良くしなさいって!えへへ、命令だから仲良くしなきゃいけないんだよっ」
「…成程。確かにそなたが言う通りだ」
「義兄様のルークはコードでしょ?本当の名前は何?誰にも言わないから教えて!」

燃える様な髪の子供が放つ声を聞いて、いつかサラの病室の窓辺に張りついて罵声を吐いていった子供だと判ったが、向こうはあれが初対面だと思っているらしい。無理もないだろう。あの時の神威は、母親が投げつけてきたシーツを頭から被っていたのだから。

「…エンジェルと言うより、猫」
「えっ、猫?!それが本当の名前?」
「そなたの事だ」

気儘に駆け回り誰の言う事も聞かない、愚かな動物。賢かった『父』とはまるで違う生き物だ。
己の立場を理解しているのだろうか。危機感はないのだろうか。いずれ野心を抱く誰かの駒になる可能性がある事を、少しでも考えた事はあるのか。例えば自分の様に。毎日考えている。無能な猿共に使われるつもりはない。押しつけられた教育が巡り巡って己の身を守る術になるのであれば従おう。全てはノアの為などではなく、自分の為に。

「僕、猫っぽい?」
「ああ」
「義兄様は猫が好きなの?」

どうして生まれてきたのと、独り言にしては悲鳴の様な叫び声を繰り返した女の望む言葉があの時判っていれば、例えそれが自分の真意ではなくとも返してやれたと思う。けれど初めから最後まで、自分は彼女を理解出来ないままだった。皮肉な事に、日本で暮らしていた時はまともに話した事もなかった相手だ。

「愛らしい子猫であれば、嫌う理由はない」
「それって好きって事じゃん!」

彼女がこの子供と同じくらい単純な人間だったら、もう少し生きていただろうか。何を思い何故死んだのか、彼女が残したものからは読み取る事が出来ないまま。(下らない時間の浪費)
せめて『お前の所為だ』と明確な証拠を残していれば、未練がましく謎解きの真似事をせずに済むのだろうかと。(捨てられた女の気持ちなど知ってどうなると言うのか)(どれほど辛かっただろうなどと)(日本に居た頃には考えもしなかった事ばかり)

「俺…僕の頭撫でる?ジジイが拾ってきた猫はアートが撫でると引っ掻くけど、あっ、今のジジイはライオネル=レイの事だよ!僕は義兄様を引っ掻いたりしないからっ」
「そうか」

死んだ人間は帰ってこないのだと、昨日初めて知ったのだ。だからと言って今日、世界が変わったりはしなかった。彼女がいてもいなくても、地球上では何も変わらない。(思考を止める事が出来ない)(無駄な時間が多いからだ)(いつか昼寝に費やした時間は聞き耳を立てている)(見たくないものは瞼を閉じれば見えなくなるけれど)(本当に聞きたい声はもう、何処にも)


「…ならばそなたは今日から、私の愛らしい子猫だ」

捨てられた人間が抱く感情が苦痛以外である事を何より望んでいるのは、恐らく。














(浅ましい、己自身)


























要領は決して宜しくはない。
唯一褒められるとするなら、極めて真面目な男だったと言う事だけ。勤勉だが天才ではなかった。凡庸な努力を繰り返して結果を残す、極平凡な男だ。何処にでもいる様な、ありふれた。

「此処にいるか、ミッドナイトサン」

だからなのか、似た雰囲気の男を見ると好奇心が湧く。
理性と言う皮一枚の違い、中身はどうせ大差ないだろうと判っている癖に。

「新しい論文を書き上げたんだ。読んでくれないか、僕のハニービー」
「…また、馬鹿が懲りずに暑苦しいラブレター持ってきやがった」

いつか、そんな平凡な男を地獄に突き落としてやった。
子供ではなかったが大人と言える程の年齢ではない、少年と青年の境にいた、そんな普通の人間を。二度と返事を返してはくれない遺影をいつまでも見つめたまま、写真の中で微笑む少女の名前を呼ぶ勇気すらない、哀れな男の息の根を止めてやった。

「居ないのか、僕のミッドナイトサン」

男の癖に女物の着物を着せられていたいつか。お人形さんの様だと、皮肉じみた笑みで謗っていく大人達に言い返す権利もなかった幼い日に、彼のある意味執着心に似た未練は奇妙なものに見えたのかも知れない。十歳離れていた姉はいつまでも十歳のまま、残っているのは遺影だけ。墓は何処にもない。
墓守の一族に墓など必要ないからだ。仏の使いである帝王院から見放された落ちこぼれ、忍者を草と呼ぶなら、枯れ落ちた葉っぱの眠る場所は肥溜めと呼ぶのだろう。当主以外の骨は埋葬される事もなく、腐り果てた肉体の残骸は、何処へ行くのか。

「…私の温室はいつから談話所になったのか。近くにおるのだろうセカンド、そなたを呼んでいる様だが?」
「黙って寝てろ糞野郎、大体アイツの最初の目的はテメェだろうが」
「久し振りに日本語を喋ったかと思えば、随分面映ゆい喋り方をする」

京都は田んぼの『田』の字の様な形をしていて、京都全体の東西南北には遥か昔、四つの社があったらしい。
初めに取り壊されたのは月の宮。冬月は裏切ったからだ。そして宵の宮。歴代最強と呼ばれた榛原晴空はとうとう息子に恵まれず、一人娘は帝王院に嫁がず、外の家へ嫁いでしまった。榛原は断絶したのだ。

「中途半端に遊んでやるから懐いてくる。捨て猫を構う時は、最後まで面倒を見る覚悟を持つものだ」
「…は。で、アンタは俺を最後まで看取るつもりで拾ってくれたってか?」
「そうとも。私の寝首を掻きに寝所までやってきた物好きは、今の所そなただけだ」
「笑わせやがる。みっともなく返り討ちにあって、気紛れに飼い殺されてるだけだろうが」
「表現の違いだな」

帝王院俊秀が東へ渡る際、残る二つの神社も取り壊された。
残ったのは緋色の大宮と帝王院の屋敷だけだったが、大宮司を失った大宮は真っ赤な髪の祭主によって黒く塗り潰されてしまう。簡単な話だ。帝王院桐火は旅立つ際、大宮に火を放っていった。二度と『小鳥が戻らない鳥居』など必要ないと、雲隠の獰猛さを見せつけて、宣ったのだ。

『俊秀が生かすと言ったから、俺は貴様らを殺さない。もし雲雀が戻ってくる事があれば、』

捨てられた十口。可哀想な使い捨ての駒。
生きる理由だった主人は東へ旅立った。使い捨ての駒は使い捨てられる事なく棄てられて、二度と天神の元へは戻れない。もう何処にも戻れない。羽化しないまま眠り続ける蝉の幼虫。

『その時、芙蓉と一緒に全員殺してやろう』

生きているのに死ねない、生きながら死んでいる墓守。生きる理由がないと嘯く癖に死ぬ事も出来ない惨めさを、全員が感じているだろう。

「ふふ。一度は天神に捨てられた叶を、よもや天神の末裔である貴方が拾うとは…皮肉ですねぇ、宮様」
「拾った覚えはないが、使えるものを使わずに始末する事に矛盾を覚えるだけだ」
「ああ、私は役に立っている訳ですか。そうでしょうねぇ、何せ鏡が嫉妬する程に美しく、神が跪く程に優秀ですからねぇ」
「そうだな」
「全く、もう少しにこやかに、心からの感謝を込めて頷いて欲しいものです」
「必死に探し回っているリチャード=テイラーの声が聞こえていないらしい無慈悲なそなたの台詞にしては、些か粗末だな。説得力がない」
「ファーストの様に宝の持ち腐れはしない主義なんです。ボキャブラリーが豊富だからと言って、日常生活では基本的に役にも立ちませんからねぇ。その点、数学は実用も応用もばっちりですよ。世界には今も、美しい数字が溢れている」
「解けない方程式から目を背ければ、確かにそうだろう。但し人間は有機物だ。解ける数式とは違い、燃やせば人は灰になる」
「ああ、基本的に焼死体は溶けずしっかり形が残りますもんねぇ」

大昔に捨てられた一族の末裔が、異国の地で数学者達から熱烈に口説かれる。下手な漫才より面白いのではないだろうか。数学フェチは単に綺麗なものが好きなのだ。まるでカラスの様に光りものに目がない。

「ミッドナイトサンなんて地味な呼び名、一体誰が考えたんだか」
「気に入らんのか?」
「ご存知ですか?我々が少し大学を離れている間に、教授が増えているんですよ」
「そんな話は耳にしていないが、何学部だ?」
「コンピュータ科学部と、人類学部です」
「ほう。それはまた、面白い人員補充だな。マサチューセッツから送られてきたか?」
「いいえ。出自等一切不明でした」
「何?」
「ロボット研究チームのAI技術が、数年前と比較しても格段に上がっています。明らかに技術班を上回る急成長ですよ」
「まさか」
「教授の名はクロノスタシス。ゼミの研究員が処分し忘れていたメモに辛うじて残っていた名前ですが、その持ち主は『身に覚えがない』と言いました」
「どう言う事だ?」
「書いた覚えもなければ、クロノスタシスの前にPをつけた理由も判らない。けれど筆跡は間違いなく自分のものだと」

キラキラ、余りにも眩しく光る生ける星を見つけた事がある。燃えれば灰になる筈の人間の分際で、太陽の名を与えられた子供だった。迂闊に手を伸ばせばどうなるか、判らない筈がないのに。

「つまり、プロフェッサーの頭文字であると考えているのか。然し所詮は推測の域だ」
「根拠はもう一つ」
「…人類学」
「ええ。学長が趣味で集めていらした旧型のゲーム機、ご存知でしょう?」
「ああ」
「単調な作りだけに難易度が高いと、度々挑戦する者は居てもスコアは変動しないままでした。それが昨日偶然確認した所、全ての機種でフルスコアの履歴が残っていたんです」
「全機種フルスコア?」
「貴方が90000点で飽きてしまったインベーダーも、対面ポーカーも対戦麻雀も。全ての戦績履歴で99999点が一位に残っています」
「…ああ、確かにそれは面映ゆい」
「ゲーム機の使用には、学長のお宝と言う事もあって電子キーで施錠された部屋に入室する必要があります。基本的にあんなレトロゲームに興味を持つのは工学部の生徒が多く、教員は少ない」
「そなたは施錠解除履歴を調べ、人類学関係者の入室を確認した、と」
「ええ。それもカードキー保有者の名前は『ミッドサン』」
「ほう」

捨てられる事には慣れている。生まれた瞬間からそうだった。叶に生まれる運命だった瞬間も、姉と母親の命を踏み躙って生まれた時も、初めて屋敷の外に出た時に島国を離れなければならなかった時も。何も感じなかった。いや、少なくとも納得する事は出来た。どんなに無様な言い訳であっても、自分を説得する事が出来るのは自分だけだ。
捨てられたのであれば納得する努力をする。忘れられてしまった場合はどうすれば良いのか、せめて明確な公式があれば簡単だった。数学は得意なのだ。


「…まん丸なお日様だなんて、良い趣味をしていると思いませんか?」

自分だけが忘れられずに覚えている。生きる事も死ぬ事も出来ない蝉の幼虫の様に、なんて無様だろう。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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