帝王院高等学校
生まれ変わったのでおはようございます
唐突に、目が覚めた気になった。
恐る恐る持ち上げた両手には生命線が刻まれている。最後の記憶は何処で終わっていたかと思い返してみたが、たった今の鮮やかな記憶に容易く塗り替えられてしまっている。

「ふふ」

生き返った。いや、眠っていただけ。感覚としてはそれに似ている。眩しい朝日に包まれて目覚めた様な、爽快な気分だ。
けれど室内には何十人もの他人がいて、賑やかしさを極めている。騒々しいと言う方が正しいだろうか。記憶している限り煩いのは好きではなかったが、嫌いと言う訳でもない。
夏の蝉の鳴き声も、晩夏の鈴虫も、秋の鴉も冬の風鳴りも、どれも嫌いではなかった。嫌いだったのは春だ。生き物が芽吹くあの平和的な季節だけが、どうしても好きになれなかった。

その密やかな秘密を初めて聞かせたのは、誰だったか。ああ、そうだ。春の日差しよりも眩い金色の髪で、春の空よりもずっと鮮やかな青い瞳の、王子様だったかも知れない。

「子供達は楽しい楽しい、お喋り中…」

目の前には何人もの若者が溢れ返っていて、その中の一人は酷く懐かしい顔をしていた。但し、記憶よりもずっと老けている。これはきっと笑い話だ。喜劇は良い。悲劇も嫌いではないが、笑っている方が人生はずっと有意義だろう?
青かった双眸は急速に漆黒へと塗り替わり、穏やかな微笑はより深まって。

「そぉんで末っ子は、榛原の御子が倒れてめそめそしてはるんどすか」

その囁きは酷く静かに、大気へ溶けていく。



「男の癖に、か弱いこと…」

恐らくは、誰の鼓膜にも届かずに。
































「また来たのかい、物好きだね」

久し振りに見た女は最後に見たあの日のまま、変わっていなかった。彼女だけが時を止めたまま、この場所だけが外の喧騒を知らずに、穏やかな時間を奏でている様に思えた。

「珍しく元気がないね」
「…見えている様な事を宣う」
「聴力が鋭くなった。気配を察知する感覚も、随分鍛えられたよ」

利己主義者。彼女を表すに、これ以上相応しい言葉はない。だからこそまるで懺悔の心情で今、忘れ去られた小さな教会へやって来たのだろうか。誰にも言えない秘密を誰かと共有する為に。

「…お前は自分の価値をどう思う?」
「何だ、ありふれた皮肉か。アビスから生還した奇跡の女として、持て囃してくれた人も居たんだけどね」

いつか、わざとらしい日本語を喋った女はもういない。彼女のあざとさは計算高さによるものだと知っている。彼女は常に自分の思うままに生きて、望むままに行動してきた。然し、今はどうだろう。

「今の私はただのお荷物さ。廃棄物の方が余程使い道がある。陛下の役に立てなくなって、ならば坊ちゃんに無傷の眼球を捧げようと思ったが、それも失敗してしまった」

女の声に悲しみは見えない。もう何年も前の話だからか、自分の身に起きた悲劇すら彼女にとっては他人事なのか。

「硫化水素の発生源に生身で近づいて、おめおめ生きて残ったまでは良いが、脳挫傷の挙句、視神経を持っていかれてはねぇ」

快活な女だった。影で人一倍努力していた事は知っている。さもなくば、薄っぺらい辞書を読み込んだ程度で日本語を覚えられる筈がない。可笑しなイントネーションで、ネイティブでも使わない様な言葉ばかり使いたがる、好奇心旺盛な女だ。姉弟と言うには年齢が離れすぎていて、親子と言うには近過ぎる。そんな不思議な関係性の中で、本当の家族よりも長い時間を過ごしてきたが、救ってやる事は出来ないまま。

「無様な生き恥を晒し続けるくらいなら、死んだ方がマシだった。そろそろ忘れてくれれば良いのに、定期的に食料を持ってきてくれるお陰で、こうして生きてる」
「…配給を断ろうが、誰かが生きる理由を押しつけるだろう。どう足掻こうが、お前はCHAθSの設計者として永遠に社史に残り続ける」
「有難迷惑。とっとと忘れてくれれば良いんだ、私の事なんか。社員の世代交代が進めば、いつか配給も来なくなるだろう?今だって、私の本名を知っている人間は多くない」

どんなに有能な社員でも、視力を失えば出来る事は余りにも少ない。
せめてもの慈悲とばかりにオリヴァー=アシュレイは従妹へ結婚を勧めたが、本人は生涯独身を宣言するかの様に、辺境の教会に移り住んでいる。区画保全部に籍だけ残しているが、完全に視力を失ってからは来客の頻度も少なくなっている筈だ。職務の引継ぎとして、初めの数年は頻繁に社員が彼女の元を訪ねていた様だが、技術班は年中職務に追われていて、深刻な人手不足である。優秀な元班長を思い出す事も、今ではもうない。

「…哀れな女の話は研究の役に立つ?ふふ、悪趣味なお前にとっては暇潰しかも知れないけれど」
「話しておきたい事がある。知っているのはルシファーと陛下と、俺だけだった」
「だった」
「オリヴァーが自殺を図った」

タイムマシーンだ。ああ、時間の海を自由に飛び回れる船が欲しい。設計図があればどんな手を使っても必ず作るのに、どうしてそれが出来ないのか。

「…は」
「安心しろ、未遂だ。そして俺に役目を押しつけてきた。冷徹な男だと思っていたが、子供が出来た頃から丸くなった」

過去へ戻りたいのか未来へ行きたいのかも判らない癖に、出来もしない夢ばかり見ている。網膜に映る光景全てに現実味がなかった。生きているのに死んでいるかの様な、不思議な感覚だ。だからどうやって此処へ辿り着いたのかえ、曖昧だった。

「…つまらない冗談を言うじゃないか、お前らしくないね。ノアに魂を捧げたアシュレイが、サタンに命を売る様な真似するもんか」
「ノアはもういない」
「オリオン、いい加減にしなさいよ」
「夜人が最後にこれを残した」
「それは、私が作ろうとした…」

漆黒のオルゴール、刻まれた黄金は仲睦まじいとある夫婦の記念日を示している。冬月兄弟が拾われて十年目、グレアム男爵がその人生最後となるパートナーを連れ帰って十年目、盛大な祝賀会とは別に特別機動部から送られた記念品は、録音機能を搭載したオルゴールだった。

「夜人はこれを聴いて、己の身に何が起きたのか悟ったそうだ」
「一体何の話をしているんだ?当のナイトは今何処に、」
「陛下の元へ行ってしまった」
「幾つになっても嫌な子だね、変な言い回しをするんだから」
「龍人にもライオネル=レイにも言えなかった事だ。…最後に、聞いてくれないか」
「最後?」
「ハーヴィに向ける顔がない。夜人を止める事も出来ず、陛下を救う事も出来ず、…愚かな頼みを断る事が出来なかった。いつもそうだ。母と親父を殺されて、逃げる事しか出来なかった餓鬼の頃から俺は、少しも成長していない」

生きろと。
最後に言った母親と、伯母の穏やかな声を覚えている。幼い弟の手を引いて、幼い足で火の海を駆け抜けた日。頼れる者など何処にも存在しなかった。初めから家族しかいなかったのに家族と家を失って、人目を避ける様に橋の下に潜り込んだ夜の暗さと寒さと恐怖を、今でも覚えている。

「おめおめでも良い。生きていればどうにかなるが、死ねば終わりだ」

優しかった伯母から最後に貰った財布と幾つかの菓子を抱き締めて、もしあのまま誰にも見つからずに橋の下で死んでいたなら、残ったのは憎悪に等しい未練だけだった。幸せなど一つも知らずに、ただただ、無情な世間を呪ったままで。

「両親と伯母を救う事も出来なかった俺に、夜人は手を差し伸べた。戦後、孤児など珍しくもなかった時代に、それでもあの男だけが俺達を見つけたんだ」
「…」
「なのにどうして俺は、言えなかった?」

判っている。どうにも出来なかった。神であるノアにも不可能だった事だ。

「生きていてくれるだけで良かった。…俺個人の、利己的な望みだ」

だからこれは、過ぎ去った後悔を吐き出しているだけだ。この静かな教会だけが絶望に染まっていない事が、悔しいだけかも知れない。

「陛下は罪人にも等しく慈悲を与えたが、罪人は容易く殺すべきではない。苦しむべきだ。犯した罪を償えないのであれば、生きたまま地獄を味わわせる必要がある」
「私はシスターじゃない。ただの、…研究員の成れの果てだ」
「ああ」
「Curiosity killed the cat.(好奇心は猫を殺す) A cat has nine lives but not really.(私の心臓は一つ限り、猫みたいに九つもないんだ)」
「判っている」
「…生涯此処から出る事はない私に、今更何を聞かせるつもりなんだ」
「罪人の戯言を」
「ふ。笑わせてくれるねオリオン、お前が罪人?ステルスの為に知恵を絞り、青春の全てを研究に捧げてきたお前が」
「科学はもう、やめる」
「無理だ。ああ、悪い事は言わない。一度や二度そんな時があるんだ、私にも覚えがある。どれほど試行錯誤しても報われず、時間を費やして失敗ばかり繰り返している時なんて、毎日こんな研究やめてやるーって怒鳴り散らしたもんさ!そう、味噌が良い例だった。何十回大豆を粗末に扱ったか、お前も覚えているだろう?」
「…」
「やっと成功した時、ナイトが泣きながら美味しいって言ってくれた!あの一言で私のそれまでの失敗は一つ残らず報われた!そんなもんだよ、研究者なんて。ああ、特別機動部を引き継いだばかりで精神的に参ってるのか。お前にも繊細な一面が、」
「科学では、人の命は救えない」

在りし日の父親を思い出した。今頃、幼い頃には一粒も湧き出てこなかった涙が溢れそうになる。

「…計算上、陛下の角膜はハーヴィに適合する」
「オリオン」
「眠る死体の瞼を無理矢理開こうとする奇特な奴は存在しないだろう。それがレヴィ陛下であれば、尚更だ」
「っ、何を言っているか判っているのか?!」
「俺には他に、ハーヴィに残してやれるものがないんだ!貴様はこんな所まで逃げた癖に、いつだって逃げ道が与えられなかった俺に、どうすれば良かったと言うんだ?!」
「わ、たしは」
「夜人は長くなかった。殺してやる必要なんてなかったのに、俺は…!俺がっ」

懺悔。
己の罪を告白する事。それをした所で許される訳ではない。罪悪感から逃れる為の、自己救済措置だ。


「もう、疲れた…」

一つ秘密が増える度に、一つ以上言えない事が増える。

「殺すより救う方が難しい。それでも俺は、…楽な道を選ぶべきじゃなかったと痛感している」

それを繰り返す度に口数は減り、幼い頃は見た目以外はそっくりだと言われた双子はいつしか、似ている所など少しもなくなった。

「陛下の角膜は理論上、ハーヴィに適合する。骨髄も適合している事は判っている。手術の成功率は99%だ」
「どうして言い切れる?」
「試した」
「…は?」
「初期シンフォニアの一つ、脳が育たず廃棄命令が出ていた陛下のクローンを、生命維持装置で延命させていたんだ。万一の事態を懸念したオリヴァーの配慮だった」
「何て事…」
「14年間、脳死状態のまま生かされ続けた陛下と同じ構造の肉体から取り出した角膜を、…二ヶ月前俺の体で試した。俺の構造では成功まで至らなかったが、ハーヴィでは成功する筈だ」
「自分の体を実験に使う馬鹿が何処にいるんだ…」
「ノアの命令だった」
「自己人体実験が?」
「いや。陛下の命令は、自分の身に万一の事があれば、ハーヴィの為に使える素材は何でも使えと…遺言の様なものだった」
「先の事を顧みない陛下が、遺言なんて…」
「座っても良いか。実験失敗後に己の角膜に戻したんだが、些か後遺症が残ってしまった様だ。平衡感覚が狂った」
「…その若さで、負わなくて良い枷を。馬鹿な子」

目が見えない筈なのに、ゆったりと手を伸ばした女は傍らのテーブルの上に置かれているポットの中へコーヒー豆を投げ入れた。挽いてもいない豆をそのまま放り込むのは、昔から大雑把だった彼女の悪癖だ。

「いつまで子供扱いしている。俺はもう、18だ」
「十分子供だよ」
「夜人は18で親になった。俺と龍人とハーヴィ、三人の子持ちだ」
「ナイトは特別。私がライバルに憎しみ以外の感情を覚えたのは、彼だけだった」
「エリザベート=マチルダ=ヴィーゼンバーグの事は、酷いほど苛めたらしいな」
「それ所か、男を宛てがってやったよ。箱入りの生娘が処女のまま陛下の子供の生むなんて、聖母じみた真似事をした罰だ」
「…く。マリアがマリアに嫉妬するとは、下手なコメディではないか」
「お前のコーヒーに猛毒を仕込んでやろうか、龍一郎」
「猛毒?俺には我ながら哀れになるほど耐性がある事を、知らん訳ではあるまい」
「お前の耐性を無効化する、恐ろしいアルカロイドだよ。ルドルフ=ブーフハイムは、この毒を摂取すると粘膜に焼けるような感覚を起こすと言った」
「カプサイシンか。確かに俺にとっては、猛毒だ」

香ばしいコーヒーの香りが漂ってきた。昔からノアに差し出すコーヒーはきちんと淹れられる癖に、それ以外では喉の渇きが解消されれば何でも良いと言う考えの持ち主だ。合理的を極めた味覚では、何を食べても何の喜びもないのだろう。

「…お前に生きる理由はあるか、テレジア」
「生きる事にも死ぬ事にも、明確な理由なんてないよ。理論的な説明を欲しがるのは、研究者の持病だ」
「決して許されない罪は、どうすれば贖える?」
「許されたいと思うから、償おうとするんだろう?贖えない罪なら、許されようとしない事だね」
「…相変わらず、容赦がない女だ。嫁の貰い手がない筈だ」
「私は自ら望んで独り身を貫いているんだ。マリアは男を知らなくても、母親になれるんだよ」
「ほざけ。今更貞淑な女を気取った所で、お前の股の緩さは餓鬼だった俺の耳にも届いていた」
「研究者はストレスが溜まるんだよ。若い頃は適度に発散しないと、爆発しそうでね」
「陛下に乞えば良かったんだ。愛しているから愛してほしいと、あざとい真似をせずに」
「関係が深くなればなるほど、言えない言葉が増える。…今のお前は、理解出来るだろ?」

コーヒーの香りはするのに、殆ど味がしない不思議な飲み物を喉の奥へ流し込んだ。目の前には盲目の、聖母と同じ名を持つ偽物のシスターが一人。彼女は神に永遠の敬愛を誓い続けてはいるが、決して敬虔な殉教者ではなかった。誰よりも現実を見据えていた、科学者だ。

「さぁ、ドラゴン。遥か遠い空へ羽ばたく前に、歩いてきたストーリーを退屈な女の元に残しておいき。此処はアビスからも見放された者の終着駅だ」

何処から話そうか。
この不味いコーヒーを飲み干すには時間が懸かるだろうと嘯いて、懺悔へと続く言葉を探す事にした。































「何処に行く?」
「あは、…見つかっちゃった」

夜だった。闇に潜む様な黒い燕尾服を脱いだ男は、風呂場ではなく勝手口から庭に出ようとしている。雲間から僅かに覗いている見事な満月がなければ、恐らく誰にも気づかれないまま。

「糸魚君には内緒にしてくれないかなあ。父様の一生に一度のお願い」
「その台詞はこれで二度目だ」
「嫌だねえ、龍人も記憶力はよいけど。君は記憶力だけじゃないから、もっと面倒臭いよ」

笑うと狐面の様に双眸が綺麗な下弦の月を描く男は、うねうねと波打つ栗色の前髪を掻き上げた。
商売柄、社交界の交流が多い男はパーティーの席でも髪を整えた事はない。冬月の若当主は『醜い顔を隠したがる』だとか、『本当は絶世の美男子』だとか、根も葉もない噂は本人の耳にも届いている筈だが、冬月龍流が何を思っているかは不明だ。楽しんでいるのか気にしていないのか、息子にも判らない。

「おマセさん、昔の僕に生き写しだねえ」

ほら、見ろ。何が『生き写し』だと言うのか。誰が見ても明らかに、全然似ていない。

「…抜かせ。俺は面白くない時に笑う趣味などない」
「あ、そう言う所は龍人の方が僕に似てるかあ。でもあの子は母親似だよねえ。僕と違って、いざと言う時の決断力がある」
「俺には決断力がないと言うのか?」
「さあ?あると思うんだったら、それが正しいんじゃないかなー」

冬月龍一郎は父親の言葉を一つとして信用してはいない。その言葉が嘘か真か、どちらにしても判断材料は皆無だ。
知っている限り龍流が声を荒らげる事も、感情を露にする事もなかった。前当主である鶻や、鶻が妾に産ませたと言う流次にしても、毛嫌いしているのは龍流ではなく糸魚だ。龍流も彼の姉である巳酉も、父親はともかく、腹違いの弟を嫌っている節はない。

「ねえ、龍一郎。お前は、大事なものほど遠くに置いときたくならない?」
「下らん。大事なものは肌身離さず持っているに決まっている」
「どうにもならない事があったら?」
「どうにかすれば良い」
「あは。単純」
「何が言いたい?」

然し経度の知的障害と心臓に難しい問題を抱えている流次は、二十歳を迎えても社交界の場に出た事はなかった。
鶻が体調を崩し、丁度結婚したばかりだった龍流に家督が交代すると、巳酉の夫である男は急に流次に近づく様になり、龍流に子供が出来ると真っ先に『双子は不吉』だと騒ぎ立てたのだ。既に還暦を迎えている鶻が何を考えているのかは不明だが、龍流に家督を譲った後も体調と相談しつつ事業に励んでおり、娘婿に運転手兼秘書の真似事をさせている。

「自分の事は自分しか判んない、って事かなあ。龍一郎は判ってくれると思ってたんだけどねえ」
「今夜の会合にはあの男も出席したのか」
「姉さんの旦那?居たよ、また腹が出てた。あはっ」
「あの目障りな男が流次叔父に擦り寄って何を企んでいるか、判らん訳でもあるまい。何故捨て置く?」

龍一郎は祖母から、龍流と鶻の仲は昔から変わっていないと聞いていた。然し巳酉の夫が介入した事で、近頃は顔を合わせる事もほぼない。龍一郎は何かにつけて母屋へ呼ばれるが、龍人が呼ばれる事は一度もない。巳酉や流次は龍人宛ての菓子や土産をくれるが、鶻と婿養子が龍人に何かを与えた事はない筈だ。

「父さんが見合いを認めた程度には、それなりの家柄でねえ。商才はないけど社交界に顔が利く。何しろ、おべっかが言えない僕とは、もう真逆の人間でさあ」
「…使えるものは使うと言う事か」
「流次に金が懸かる事は父さんも理解してる。僕に譲った金を使えば、母さんの癇に障るとでも思ってるんじゃないかなあ」
「何を今更」
「子曰く、五十にして天命を知り六十にして耳従う。七十にして心の欲する所に従い、」
「矩を踰えず」

いつも穏やかな笑みを湛えている父親の表情は、龍一郎が記憶している限り、一度として変わった事がない。能面じみた真っ白な顔をしている母親にしても同様だが、彼女は表情に出ない分、態度に感情が出るのだ。

「あのくたばり損ないが考えを改めようと、三つ子の魂百まで」
「自分の祖父をそこまで扱き下ろす?」
「殊勝な父親を今更演じた所で、奴らが龍人を認めなかった過去は、決して消えん。俺が生きている限り、脳が記憶し続ける」
「うん。それが我が家の呪いだからねえ。膨大な記憶に埋め尽くされて、脳がそれ以上許容出来なくなったら。狂うか廃人になるか、若しくは…」

母親は多少神経質な所があるだけの、平凡な女だった。好き嫌いがはっきりしていて、存外頑固でもある。父親の事は良く判らない。口数はいつもわざとらしいほど多いが、二人きりになるといつも同じ様な台詞を口にする。まるで、息子の脳に新たな記憶を増やさない様にでもしているかの如く。

「僕の祖父は自殺したんだ。僕が生まれてすぐだった」
「弱い者は遅かれ早かれ、何らかの理由で死ぬ。万物は弱肉強食を定められた」
「理由は違うけど、そうだねえ。そう言う事になるのかも知れないねえ。うん、弱かったんだ。だって病気で死んじゃうんだ。猿が進化しただけの、動物だから」

冬月龍流の生涯は然程珍しいものではない。
父親の裏切りによって帝王院の庇護からは離れたが、交流が消えた訳ではなかった。従兄弟だった鶻と俊秀の関係は途切れてしまってはいたが、鶻が頑なに会いたがらなかっただけで、何かにつけて帝王院から届く招待状に龍流は必ず応えた。数歳差の帝王院雲雀の誕生会にも、俊秀が行う大祭にも呼ばれ、何度も京都を訪れた。然しそこでの龍流の扱いは、火を見るより明らかだ。俊秀の前では表立って邪険にする者はないが、冬月の裏切りを忘れた者はなく、雲隠一族すら龍流の来訪を煙たがっていた節がある。然し鶻を許した俊秀の威光に逆らえる者は居なかった、それだけの話だ。

「お金があれば大抵のものが買えるんだけどねえ、お金があるだけじゃ病気は治らないんだよ。判るかい龍一郎、お金は貯めるだけじゃ意味がないんだ」
「正しく使わねばな」
「その通り」

帝王院秀之は帝王院の名を捨て宰庄司家の養子となったが、宰庄司家の娘を娶らず、同じく謀反を興した神坂の娘を妻に迎えている。彼が何を思って兄と敵対したのかは、今を以て定かではない。宮司の証でもある白紋の袴は寿明から俊秀に継承され、帝王院俊秀は18歳で緋色の大社の管理を譲り受けた。

「龍人は未だ足の腫れが引かない」
「うん。だから戻ってくる時に、氷室に入るだけの氷を買ってきたんだ。冷やせば痛みも抑えられる」

数日前、龍人が百足に刺されてしまった時など酷かった。料理中だった冬月糸魚は、息子の悲鳴で駆けつけるなり、憎らしい百足を無表情で見据え、持っていた出刃包丁でバラバラに切り砕いたのである。
一部始終を目の前で目撃した龍人は痛みを忘れ、ほぼ無表情で『可哀想に可哀想に』と抱き締めてくる母親の腕の中、『大丈夫です』の一言を繰り返した。大丈夫じゃないのは百足だった残骸と、切れ味が良すぎる出刃包丁と、虫も殺さない様な儚げな美女である母親の思考回路だけ。

「今度は外の女か」
「…あのねえ、3歳児がそんな言葉を使うもんじゃないよ。あれは浮気じゃないって言ったでしょ?」
「ならば母上に話しても良いと」
「絶対駄目です。…判った判った、虎屋のどら焼き買ってあげるから、お母様に『母屋に行ってくる』って伝えて、上着を着ておいで」
「母屋?」
「僕が今まで何をしてたのか、ちゃんと説明するから」
「不倫の理由など知る必要はない」
「だからさあ、不倫じゃないんだよ。あっちの状況が知りたかっただけ」
「あっちの状況?」
「あっちには姉さん夫婦や父さんもそうだけど、流次も暮らしてる。純粋なあの子は、一人では生きていけない身体だからねえ」
「…ふん。世が世なら生後間もなく十口に落とされていた、出来損ないだろう」
「あの子の母親は十口でも冬月でも、勿論雲隠や榛原、明神でもないよ。父さんの宮に住み着いてた、孤児の一人だ」
「はぁ?孤児?」
「そう。それもねえ、外の女を孕ませただけなら堂々と連れてくれば良いのに、父さんが連れてきたのは流次だけ。生んだ女は死んだって話だけど、月の宮には他にも何人も孤児が住み着いてたんだ。敷地だけは無駄に広くて山の麓だったからねえ、食べるものにも困らない土地で…」
「余計な話は良い。お前は何を訝しんでいる?」
「本当に愛人の子だと思う?」

にたりと、龍流は狐の様に微笑んだ。綺麗な半円を描く瞳は笑うと消えてなくなり、吊り上がった唇だけが奇妙なほど目に焼きつく。

「…嘘で外腹の子を引き取る物好きが存在するとほざくのか?」
「さあ、父さんの考えてる事なんて僕には判らないからねえ。でも判るのは、孤児は他にも何人も住み着いていて、女の子は流次の母親だけじゃなかったって事。極めつけは、流次の母親は特に美人でもなかったらしいんだよねえ」
「下らん」
「あは、そうかなあ?うちの両親は殆ど強制的な見合いだったらしいけどお、初対面で父さんに怯えて泣いちゃった母さんは、開口一番『ピーピー泣くな愚か者』って怒鳴られたんだって。だけど『その面がなかったら追い出してた』とも言われたらしいんだよねえ」
「餓鬼か」
「お前はまだ子供だから判んないと思うけど、男なら誰だって美人と結婚したいって思うもんだよ。斯く言う僕だって糸魚君に一目惚れしたんだから」
「ほざけ低脳が…」
「父親に向かって、他に言い方はないわけ?」
「お前には信用がない」
「きっぱり言うんだ、傷つくなあ」

胡散臭い。
幼い息子の父親への評価は、生まれて間もなくから一貫して変わっていない。乳幼児の頃から子供に対しての対応が同じである龍流が変人なのか、龍流の血を間違いなく継いでいる龍一郎が変人なのか、或いはどちらもまともではないからか。親子の会話は大抵が平行線上で、交わる事は殆どない。

「こんな時間に母屋に行って、何をするつもりだ」
「うん?今から母屋に行くなんて言ったっけ?」
「さっき宣ったばかりの台詞をもう忘れたのか、鳥頭が…!」

けれど共通しているのは、糸魚を悲しませる事がない様に。その一点だろう。冬月の男は多くの場合傲慢を絵に書いているが、屋敷で暮らしている女性はそうでもなかった。鶻の妻も、龍流の姉も。

「僕は糸魚君が心配したら不味いから、そう伝えておいでって言っただけだよ。理由を聞かれたら、姉さんに呼ばれてるって言えば、多分疑われないと思うからねえ」
「…巳酉伯母さんをダシに使うつもりか」
「嘘も方便って諺があるでしょ?大丈夫だよ、お前が疑ってる様な事にはならないからさあ」
「お前には信用がない」
「またそれ。すぐそこに出掛けるだけだって。行きたくないなら、お留守番しててもよいんだよ?」
「愚か者が。一人で出掛けさせると思っているのか、浅はかな男だ」
「僕にも心ってもんがあるんだよ龍一郎、年を取ると涙脆くなるんだからねえ?本気で泣くよ?40の男が赤ちゃんみたいに泣く所、見たい?」
「見たい訳があるか」

然し、幾ら心配させない為とは言え、母親に嘘をつくのは抵抗がある。ただでさえ父親の不倫現場を目撃している身としては、その事実を隠しているだけでもそれなりに罪悪感があるのだ。

「…仕方ない。母上への言い訳は、お前がしろ」
「僕もう着替えちゃったんだけどねえ。この格好でさあ、糸魚君が疑わないと思うかい?」

今夜はパーティーがあった。社交界の正装で出掛けた筈の当主が、金の刺繍が入った黒い羽織を羽織っていれば、何処ぞの酒場か女の元へ出掛けるつもりだろうと疑わない者はいない。龍一郎もそう思ったから、人目を避ける様に忍び足で外へ出ようとしていた父親を引き止めたのだ。

「どら焼き…」
「カステラもつけよっか?」
「…嘘をつくのは今回だけだぞ」
「生後半年で初めて嘘をついた僕の息子は、いつから息をする様に嘘を言う様になったんだろうねえ」

龍一郎が初めてついた嘘は、『龍人のたまごボーロを食べたのは父上』だった。お陰様で龍流は初めて妻から頬をつねられる羽目になり、龍人が初めて喋った台詞である『僕のおやつ、兄上が食べた』がなければ、仲直りには時間が懸かっただろう。普段は大人しい糸魚が一度怒ると、それはもう長いのだ。

「糸魚君の根に持つ性格、判ってる?忘れてくれるまですんごい長いんだから、頼むよう…」
「忘れてくれるだけ良いだろう。俺もお前も、出来ない芸当だ」
「確かに、そうだねえ。僕らは忘れない代わりに覚えてる記憶が多すぎて、怒りが持続しないタチだもんねえ」

後に、冬月一族史上最強に根に持つ子孫が生まれる事になるが、まだ誰も知らない。

←いやん(*)(#)ばかん→
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