帝王院高等学校
上には上の性悪がいるもんだよねー
「酸化」
「はい?」
「酸化還元がどうしても判らないと言って、チュー太が倉庫に籠ってる」
「あの野郎、また隼人にハブられたんスかね。ったく、仕方ねぇ馬鹿だ」

いつでも賑やかなカフェのテラスは、夜になると貸切状態だ。特に寒くなってくると、年中常夏気分の薄着をやめない高野健吾は、テラスにはほぼ出てこない。
つい最近まで晴れた日の昼下がりは半裸で日焼けに励んでいたものの、生来焼け難い体質の健吾の肌は鳥肌を立てるばかりで、健康的な小麦色に焼けた試しはなかった。暑かろうが寒かろうがいつでも何処でも光の速さで睡眠体勢に入る藤倉裕也は、夏場限定で顔だけ日焼けしている事があるものの、自分にはサンオイルを塗る癖に相棒には日焼け止めクリームを塗りまくる健吾のお陰で、そう酷い日焼け具合ではなく、元に戻るのも早い。

「パヤトは誕生日も皆に勉強を教えてやるのか」
「受験シーズンのクライマックスっスから、しゃーないでしょ。つくづく馬鹿揃いとは言え、馬鹿のワンツーに入る当真と遼太に根気強く指導してやれるのは、隼人しか居ねぇんスよ」
「くっく。お前もカナタも、匙を投げるのが早かった」
「別に投げた訳じゃねぇっスよ。見込みがありそうな奴らにゃ、手を貸します」
「カルメニアか。俺が3分で覚えた、カルマだけの合言葉…」
「また違う」

嵯峨崎佑壱は呆れ混じりに呟いた。
神崎隼人のバースデーにより、本日のバータイムは臨時休業だ。常連客は慣れたもので、メンバーの誕生日は基本的にランチタイムで切り上がる事を知っている。開店日である佑壱の誕生日だけは通しで営業しているものの、唯一の例外はシーザーの誕生日である8月18日だ。この日だけは丸一日休業日にも関わらず、毎年ファンや舎弟希望の少年らが店先に贈り物を積み重ねていく為、商店街が慌しくなる。

「ん?」
「いっぺん流し読んだだけでカルメニアを暗記した化物が、都合の悪い事だけ忘れるんスか」
「パヤトも一度読んだだけで覚えたのに、俺は化物?」

不審物ではないかと警察が駆けつけてきたり、夏場にも関わらず生クリームのケーキやお菓子などを置いていく事もあったので、休業日と言う名目で店を開けていた。シーザー誕生日に限り、本人にプレゼントを手渡せると言うイベントを過去に行った事もあったが、ほぼ全員が卒倒するやら想像妊娠するやらでてんやわんやだった為、現在ではテラス越しに「お供え物」を投げ入れる事が出来る日になっている。

「アイツは帝君…や、まぁ、記憶力が良い奴ってのは少なくないんでしょうが。俺も人の顔と名前だけは苦手っスけど、字を覚えんのは早いんで」
「耳がイイからな」
「耳?目じゃないんスか?」
「ん?イチは鼻もイイぞ?」

因みに、この日ばかりは室内のクーラーがばっちり効いている窓辺のボックス席に腰掛けた遠野俊は、『俺はナマモノでも気にしないぞ』と外に向かって呟いているが、テラスの柵に佑壱が『ナマモノお断り』と直筆看板を出しているので、ファンは律儀に守っている様だ。
然し時々自分をデコレーションした女性が飛び込んで来る異常事態も起こるので、大抵特攻部隊のチャラ三匹が丁重にお帰り頂いているらしい。それでも諦めない猛者には、クールで大人と言う評価を得ている榊雅孝が『いい加減にしないと出禁にするぞ』と脅せば、丸く収まる。万一それで収まらなければ、シーザーの本妻として公認されているどっかの赤毛が力ずくでどうにかするだろう。霊長類で佑壱に勝てる強者は、まず存在しない。居るとすればそんなものはもう女性でも何でもなく、ただのゴリラだ。いやゴリラも霊長目ではあるのだが、そんな事はどうでも良い。

「いつまで引き籠ってやがる、童貞ハリネズミやろー!」
「うわわ、ち、ちが、俺は童貞じゃな…つーかハリネズミって何だよ?!」
「脳細胞ばっか無駄に酸化させやがって酸素浪費ハリネズミー!天才スーパーモデルの名に懸けて、不合格者を出して堪るかあ!出て来やがれ短足ハリネズミやろー!」
「ばっ、そりゃお前に比べたら殆どの野郎が短足じゃんかよ!それに俺、お前より年上だぞ?!リョータさんって呼べよ!」
「死ぬか?」
「マジトーンやめて!」

阿呆ほど下らない争いが聞こえてくる。
誕生日と言う事で、メンバーの誰ぞが作ったとんがり帽子を被らされている今夜の主役が、ボックス席から立ち上がりズカズカと厨房脇の倉庫へ突っ切っていく姿が見えた。余りの騒がしさに、片方の耳を小指で塞いだ佑壱は息を吐く。

「つーかそっちこそ地に頭擦りつけて隼人様と呼びやがれドチンカス!柘榴を裸子植物っつったり二酸化炭素を有機物っつったり、人様の教えを度外視か馬鹿が!巫山戯やがってえ!」
「だだだって柘榴って何かエロいだろ?!」
「はあ?女の股も男の穴も大して変わんねーっつーの、夢見がちチェリーが…」
「それにお前が言ったんじゃん!燃えて二酸化炭素が出る奴は有機物なんだよな?!だったら二酸化炭素だって、普通に考えりゃ有機物だろ?!」
「だからあ、例外的に炭素は無機物だって教えただろうがバカアホボケカス短足不細工ハリネズミがあ!」
「うわーん!ごめんよハヤトぉ、高校行きたいなんて言った俺が馬鹿だった!もう算数は懲り懲りだぁあ」
「てんめーが躓いてんのは算数でもまして数学でもない、化学だー!!!」
「ぎゃー!だだだ誰か助けて、マサフミー!ハヤトが倉庫ぶっ壊しちゃうー!」
「はっ、アホドレッドはユーヤ如きに腕相撲で負けてマッサージ中ですけどお?」
「誰がオレ如きだよ垂れ目糖尿病患者が。オメーはねちっこく粘った挙句引き分けだったじゃねーか…おい、マサオ。オメーが揉んでるのはケツだぜ?」
「ケツ揉んでんのは俺じゃねぇ、ケンゴだ」
「うひゃひゃ、マジでFカップの揉み心地!(*´艸`)」
「あー?Fカップ揉んだ事あんのかよ」
「…ないけど何か?(´_ゝ`)」

騒がしい店内の様子を聞きながら笑っている男が、テラステーブルの上のフルーツ盛りから林檎を掴んだので、佑壱は無言でそれを奪い、カトラリーの中に添えていたナイフで手早く皮を剥いてやる。

「くっく。チュー太は工業高校を目指しているんだろう?理科で挫折する訳には行かないなァ」
「アレでも、記憶力は悪くない筈なんですが」
「お前が作ったカルメニア『だけ』は覚えたんだからな。余程パヤトの教え方が恐ろしいんだろう」

他人事の様に宣う男を横目に、紙皿に切り分けた実を並べてフォークと共に手渡した佑壱は、布巾で手を拭いながら鼻で笑った。全く、心底他人事の様にほざいてくれるものだ。そもそも現在のカルマメンバーの殆どは佑壱が総長だった頃からのメンバーで、世代替わりして以降に増えたメンバーはそれほど多くはない。
順番的には、隼人、北緯、獅楼だ。この中で最も要領が悪いと看做されている獅楼ですら、Aクラスではトップクラスの成績を誇っている。つまり学年40番以内には必ず収まっているのだから、根っからの馬鹿ではない。その獅楼ですら覚えるのに苦戦した『カルメニア』は、佑壱が当初生み出したものとは明らかに違うものだった。隼人が初見で完全に記憶した時は、流石の佑壱も内心で舌を巻いたものだ。

「俺が一週間懸かりで考えた原文をアンタは3分で覚えて、ほんの数分で2倍に追加した所為で、アンタが加入してからはメンツは減ってく一方っス」
「覚え易い様に楽譜仕様にしたんだがなァ。ちゃんと意味を把握して覚えてるのはきっと、ケンケンくらいか」

何処まで何を、飼い主は知っているのだろう。
向こうがさらけ出さない内は知る必要がないのだと、佑壱は己に言い聞かせ続けた。
中等部に進級するなり、兄のほぼ脅迫に等しいお願いによって中央委員会役員に収まってから、佑壱には学園内部のデータを知る権利が与えられている。
例えば歴代中央委員会長記念碑で、一つだけ残されていない代がある事も。入学したきり卒業も退学もしていない唯一の中央委員会会長が、帝王院学園高等部の在学期間切れで除籍処分になっている事も。疑問に思った弾みで調べれば、すぐに判る事だった。

「俺は人に教えるスキルがない。加えて口下手だ」
「メールじゃ結構はっちゃけてますよ」
「そうか?お前は器用だから、上手く教えてやれるんじゃないか?」
「理系は関わらない事にしてんです」
「くっく」
「何が可笑しいんスか?」
「苦手意識と言うものは、簡単には消えてなくならないからな…」

だからそう、理事会サーバーにのみ保管されている生徒情報であっても、少し手を加えれば調べる事は出来た。例えば嵯峨崎零人や高坂日向には難しい事であっても、ステルシリーの権限で中央情報部を少し覗かせて貰うだけで、判らない事はない。世界中のあらゆるデータが流れ着く、地球上最大級のデータベースだ。
帝王院秀皇と言う一人の高校生が消えるのとほぼ同時に、キング=ノアが一人の子供を中央区へ連れ帰ったのであれば、疑わない方が可笑しい。その日まで知らなかった従兄の日本名を、佑壱がしっかり記憶した日だ。

「…苦手意識?俺が?」

帝王院秀皇、長男は帝王院神威。
そこに記された、恐らくは重要機密だと思われるデータを網膜に焼きつけた数日後。まるで運命の悪戯の様に佑壱は、街中で一人の学生に喧嘩を売った。殆ど八つ当たり同然だった事は否定しない。
ルーク=フェインと言う名前が全てだと思っていた真っ白な生き物が、王と神と言う笑い話の様な漢字を宿していた事も。当時の恋人と痴話喧嘩したばかりだった事も。相手にとっては、全てが言い掛かりでしかないのだ。

「例えば、相対性理論。エネルギーは、質量×光の速さの自乗だ」
「…あー、アインシュタイン?」
「大きなものの近くにいる時、時間の流れは遅くなる。また光速で動くものの時間の流れも遅くなるとされている」
「で?」
「例えば宇宙ほどの膨大なものから飛び立った鳥が、穏やかな大地で羽を休めると。寿命は早まるのか、否か」

だけどそう、人の顔と名前を覚える事が苦手な佑壱でも、神の子の父親として情報保管されている高校生の写真を簡単には忘れない。それでもそれを思い出したのは、偶然、街中でその本人に会った時だ。

『げっ』
『何だ、その明らかに「しまった」と言うわざとらしい態度は』
『寄るな。話し掛けるな。俺の事は構わず先に行け』
『アクション映画の主人公を助ける気の良い仲間の様な台詞を恥ずかしげもなく吐き捨てた所に何だが、お前が頑張って隠しているつもりで全然隠れていないそちらの彼はどなた様だ?』

最初はそう、似ていると思った。一緒に買い出しに出掛けていた男と、街中では特に珍しくもないサラリーマンの顔立ちが、目鼻立ち以外のほぼ全ての要素で似ていると。特に薄目の唇や輪郭は、誂えた様に同じ形だったから、見れば見るほどに似ていると思えたものだ。

『もしかして、総長の………弟さんスか?』
『そうちょう?』
『アーッ!UFO!』

だからそう、気安く名前を呼べる存在なのだから、家族以外である筈がない。だからこんなにも気になるに違いないと、その時は何の疑いもなく考えた。

『俊、街中で喘ぐんじゃない。焼きそばはインスタントじゃなく、庭のバーベキューセットの鉄板で焼いた方がうまいぞ?』
『黙らっしゃァアアア』
『相変わらず訳が判らん息子だな。元気で何よりだ、お小遣いをやろう』
『息子?!』
『えっ?幾ら?』
『500円』
『育ち盛り舐めてんのか』
『お前こそ月の小遣いが5500円の会社員を甘く見るなよ。500円は俺の三日分の小遣いだぞ…』
『強く…生きて…』

似た様な背格好に、髪の色だけが違う二人。
片方はサングラスを掛けていて、片方はどう見ても会社員にしか見えない男が朗らかに話し合う光景は異様な様だったが、すぐに声も似ていると気づいた。そこまでなら、何ら問題ではなかった筈なのだ。

『あの、さっき息子って…?』
『はい。イチ、このおっさんは俺の父ちゃんだょ』
『はい。俺はこれの父ちゃんです』
『わっっっか!』
『む。褒められたのか?』
『妖怪若作りジジイ、図に乗るな』
『お前が老けてるだけだろう。老け顔息子』
『グレるぞ』
『ほう。今のその装い具合でグレていないと言い張るんだな?』
『あにょ、お母様には内緒にして頂けると、僕としてはとっても助かるのですが…』
『ふ。…見なかった事にしてやらん事もない代わりに、新宿西口の方向を教えて貰えると俺としてもとっても助かるのですが』
『また迷子かァ!ばっきゃろー、此処は8区じゃボケェエエエ』
『む?何だ、まだ家の近くを彷徨ってたのか』

だからそう、俊からさらけ出すまでは知る必要はない。知る権利がない。理由はどうだって良かった。結局の所、知りたくなかっただけだ。

『仲良いんスね、二人共』
『イチ、チミの目は節穴なのかね?どう見ても馬鹿親父に虐げられてる可哀想な俺だぞ?』
『面映ゆい』

例えばその台詞を口癖の様に囁いた神の子を思い出そうが、それに付随して失踪した中央委員会会長の写真があの頃の姿のまま目の前に存在する事に気づこうが、全ての毛羽立つ感情を佑壱は飲み込んだ。
知る必要がないものを知る権利など要らない。不用意な好奇心は身を滅ぼしかねない事を、知っている筈だ。アルビノを患っていて炎天下に身を投じた物好きを知っているではないか。

『遠野秀隆です。宜しく、嵯峨崎佑壱君』

だからそう、名乗る前から名前を知られていた事など何の問題でもない。

『そして羽化を待つ蝉の幼虫の様に、光が差す大地の上でお休み』

一度刻まれた記憶は消えはしなかった。
今でもこうしてちゃんと覚えているのに、この記憶を思い出すのは決まって『口の中の酸化』が悪化してからだった。いつからか消えてなくならなくなった鉄臭い匂いが、服用を義務づけられたカプセルを嫌って飲まずにいると、唐突に思い出す。けれど思い出すだけだ。何も出来ない。

それ所か、これを思い出すと言う事は、そろそろ体が限界なのだろう。

「人の体は毎日、ゆっくり酸化している。腐敗するまで」
「…」
「ポリフェノールには抗酸化作用があるんだ。林檎にも含まれてるから、皮は剥かない方がイイ」
「…皮」
「ああ、お前には王子様から届いたワインがあるんだったな。俺はイイんだ。人間なんだから酸化するのは当たり前だろう?だからどんどん酸化していく。いつか腐敗して塵も残らない日が来る。もしそうじゃなかったら、俺は今度こそ人の形をしているだけだと証明されてしまうだろう」

ああ、まただ。
手が勝手にカプセルを手探り、意志に反して勝手に口の中へ放り込もうとしている。

「言っただろう。質量が大きいものはエネルギーを消費する。お前は時が回る度に蓄積していくんだ、失った全ての感情を。断ち切れなかった未練を、今度こそ断ち切る為に」

いつ死んだって構わないのに、どうして。

「俺の黒髪と黒い目を隠したがったお前は、夜に脅えているのか。それとも黒が怖いのか。いつか光が差さない暗い地底湖で炎だけを頼りにしていたお前は、燃やしてしまった古い本を全て記憶していた。それはただの記憶力の良さによるものか、老婆の持ち物を燃やしてしまった罪悪感からか」
「…何で、それ」
「俺は人形だった。今は違う。この指から伸びる全ての天網を紡ぎ、誰一人悲しまない物語を紡ぐ為の針の片割れ」
「…」
「息をゆっくり吸うんだ。酸素が足りないと、血が正しく巡らない。寝起きの悪さが酷くなるぞ?」

いつでも人は疑問を抱いて生きているが、宇宙の果てが何処にあるのか24時間考え続けている人間はまず存在しないだろう。
どんな疑問だって悩んでいる間だけ脳を支配するが、ふとした瞬間に消えてしまう。次に思い出す時まで、思考回路の何処にも存在していない。
まるで、これはそれと同じ状況だ。錆びついていたナイフが磨かれて蘇る様に、リセットされてしまった。また体内が酷く錆びるまで、思い出す事はないのだろう。

「総長ー!赤錆と青カビってどう違うんスかー?!」
「ん?赤錆は食べても美味しくないが、青カビはチーズと混ぜるとうまい」
「誰がカビの話をしたあ、ばっきゃろー!!!」

それでも。
思い出さなければ悩む事もないのであれば、きっと誰だって。





















ほんの先程まで、酷く眩しい所にいた様な気がしているけれど。
目覚めたつもりの自分はまだ、真っ暗な夢の中に居た。自棄に動きの鈍い腕を持ち上げる感覚が、辛うじて。それ以外にはっきりとした感覚はない。

「…あー、喉痛ぇ」

意識に反して体が動き過ぎる事は、これまで何度もあった事だ。運動神経が良いと褒められた事も一度や二度ではない。然し言わせて貰えば、決してこの体は鋭い訳ではなかった。逆に、大層鈍いと言っても過言ではないだろう。
およそ人が体感する感覚の大半を感じ難いと気づいたのは、いわゆる風邪を拗らせた状態に陥り、半ば昏睡状態で丸一日寝ていた時からだ。人の看病をした事がなかったと言う物好きが、好奇心のままつきっきりで看病してくれた様だが、恐らく次はないだろう。向こうの興味が尽きた事もあるが、こちらとしてもそんな失態は二度としないと誓っている。

「…風?」

耳を澄ました訳ではないけれど、目の前が僅かな光も感じさせない純粋な闇で染まっていたので、微かな風の音が気になった。今のこの状況が悪趣味な夢ではなければ、何らかの理由で視力が働いていないと言う事だ。
何処から吹いているのかと、動きが鈍い様な気がする腕を持ち上げ続ければ、反対側から誰かの笑う声が響いた。

「おや、何が可笑しいんですか?」

全く気がつかなかった。
幾ら目が見えていないからと言って、油断し過ぎていたと言う事だ。これが北京、香港であれば何度死んでいたか知れない。などと、自己嫌悪を心の中だけに押し留めた叶二葉は、表面上は穏やかに口を開いた。内心の狼狽を表情に出さなかったのは、単に表情筋が鈍かっただけだ。

「死にはしないと判ってはいたが、意識が戻っても狼狽えない図太さに感心していたんだ。不便だろう、角膜が定着するまで」
「角膜…何日見えないのでしょう?」
「さて?」
「不思議ですねぇ、急に殺意が湧きました」
「頭に銃弾を浴びて生き残るとは、神憑り的に悪運が強い子だ」
「残念ながら、この通り視力を持っていかれましたがねぇ」

いつまで経っても世界は闇の中。朦朧とする意識の中で、手術をすると言う他人の声を聞いた覚えがあるけれど、返事をした覚えはない。曖昧だ。言われてから思い出したくらいには、全てが。

「担ぎ込まれた辺りまでは意識があったと聞いているが」
「側頭部に裂傷がどうだとか、騒がしかったのは多少。患者の耳元で大の大人が大声を出すなんて、愚かの極みですよ」
「技術班じゃまず有り得ないだろう」
「緊急事態だからと言って、勝手に体にメスを入れられるとは思いませんでした」
「基本的に社会は、未成年者に同意を求めないものだ」
「アメリカ合衆国の国民とは思えない非合理的な発言ですね」
「我らは合衆国ではなく、ノアズプラネットを廻す歯車の集合体だからな」

笑っているのか嘲笑っているのか、声だけでは判断がつかなかった。
目が見えないと言うのは本当に不便だ。大して見たいと思える訳ではない世界だとしても、急にあったものがなくなると戸惑ってしまうらしい。得体の知れない誰かと平然と会話をしている自分が不気味だったが、今はそれもどうでも良い事だった。
顔に張りついている目隠しを取ってしまいたいのに、顔には何もついていない様だ。頬を掻く素振りで確かめたので、間違いない。

「不便だろうが暫く大人しくしていろ。顔に似合わず、お前はとんでもない育ち方をしている」
「おや、どう言う意味ですか?」
「今回の件以前に角膜剥離寸前だったそうだ。雄々しい子供だな、まさか両目共に土壇場で踏ん張っていたとは」

ああ。それで近頃視界がぼやける時があったのかと、二葉は他人事の様に小首を傾げた。日本を離れて中国に渡ってからの3年間弱、どんな生活だったのかと問われれば『もう忘れた』と答えるだろう。いや、覚えている暇もなかったと言った方が正しいだろうか。

「弾が掠めた部分が、視神経に近かった。手術室で説明を受けなかったか?」
「たった今思い出しました。手術なんて後にしてくれと言ったんですが、問答無用で麻酔を打たれた様ですねぇ」
「二枚舌め、やっぱり覚えていないじゃないか。どんな神経をしているか知らんが、お前には30種類以上の麻酔が効かなかったんだ」

何の繋がりがあったか知らないが、長兄である冬臣は大河家に二葉を預ける手筈を整えたが、大河白燕に息子が産まれたばかりだった事もあって、彼らは何かと物騒な北京ではなく比較的治安の良い上海に別荘を構え、家族で移り住んでいた。
アジア最大銀行の頭取は、本社を置く北京へ上海から毎日通勤している。その過密スケジュールで他人の子供を預かる事は難しく、二葉と同じ年齢の子供がいた祭楼月の元へ預けられる事になるのは、極自然な流れだろう。

「それ所か、メスを入れても痛がる様子もないと来た。弾を受けた時に何処かの神経を損傷したのではないかと医療班が調査を始めたが、結果が出るのは当面先の話になる」
「僕の様な部外者同然の子供の面倒まで見るとは、特別機動部もお忙しいですねぇ」
「呆れるほど可愛げがない」

祭家には大河の監視がついていた。いや、大河に仕えている四頭大老と呼ばれる『幹部』それぞれに、大河白燕の命令を受けたスパイが張りついている。
表向きは妻と子に恵まれた幸せな社長を演じているが、中国の支配者はとんだ食わせ者だと言う事だ。二葉が対面したのは一度きりだったが、穏やかに微笑んでいる時でさえ、眼差しだけは何処までも冷めている男だった。自分以外の人類を一切信じていない様に思えたが、自分の家族は例外なのだろうか。二葉には良く判らない。

「日本で出来る事は限られている。お前より重傷だった子供に医者の目が逸れた内に、運び出させて貰ったぞ」
「…運び出した?」

こんな所で寝ている暇はないと言うのに、『外の世界の現代医学』など高々知れている。
早く連れ出してくれれば良いのにと思い続けて何十時間が経ったのか、久し振りに聞いた医者や看護師とは違う声は、日本語のイントネーションが絶妙に変だ。そう言えば、二葉には目の前の光景が見えないので判らなかったが、二葉が横たわっているベッドが病院のベッドである確証はない。

「損傷した視神経を保護する為に人工角膜に換装したそうだが、自分の角膜は検体にやったのか?」
「まさか、そんな勿体ない事はしませんよ」

ああ、…本当に忌々しい。
対空管制部か対陸情報部か、シャドウウィングを一台借り受けるまでに何十枚の書類に認印を貰わなければならないのか、二葉は知っている。ルーク=フェイン=グレアムですら例外なく、秘密裏に社用車を持ち出すまでに、対空管制部と中央情報部で一通り画策しなければならなかったのだから、『今から出掛けるからちょっと車貸せ』とレンタカー代わりに使える人間は、余りにも少ない。

「勿体ない。日本人共通の素晴らしい理念だ」

そしてこの男の声には、それこそ生粋の日本人でなければ判らない程度、ささやかだが確かな違和感がある。流暢な語彙力ではあるが、発声に違和感があった。

「どうせ誰かが紛れ込んでいると思っていたので、眼球を含めた上半身に酷い火傷を負っただろう枢機卿へ、差し上げると申し上げました」
「成程、嫌がらせか。お前らしい悪魔的な思いつきだ」
「何とでも仰って下さい、ライオネル=レイ」

男が笑う気配がした。わざとらしく無駄話を引き伸ばしている間に済ませた推理は、どうやら正解した様だ。今すぐにも飛び出していきたい二葉の思惑を余所に、足音もなく近くで何かが軋む音がする。恐らく、傍にあったパイプ椅子にでも腰掛けたのだろう。

「半世紀以上前にシリウスが製造したUVレンズでは、機能が枢機卿には弱いんですよねぇ」
「らしいな。今回お前達が勝手に聖地へ乗り込んでくれなければ、気づかなかっただろう。技術班は早速新たな開発に着手した」
「お早い事で。元はレヴィ=ノアの為に作られたんですよね?初代社長がアルビノだと伺ってますが、枢機卿より軽度だったんですねぇ」
「さぁな。知りたければ中央情報部にでも転属するが良い、会計補佐殿?」
「嫌味な人ですねぇ、対外実働部長閣下」
「性格の悪さはお互い様だ。お前に勝てる人間は少ない」
「この状態を見て仰っているのであれば、貴方より私の方がマシだと思いますよ」
「今回の一件は幾つかの部署が関わっている上に、互いに誤解があって起きた不幸な事件として処理された。よって、お前とルーク、ファーストの無断渡航は不問だ」

聖地。日本の呼称である事は知っている。
グリーンランドは巡礼地で、二葉が産まれた国は『絶対不可侵』の聖なる土地であると、ステルシリーでは定められていた。

「私を子供だと思って、誤魔化しはやめませんか。単に陛下とマスターネルヴァが不在だっただけでしょう?」
「はて、何の事だ?」
「ふふ。ギャラクシーコアが定期的に無人になる事は、円卓の周期のズレを鑑みても明らかですけどねぇ」
「下手に年寄りを弄ぶと痛い目に遭うぞ、小便小僧」
「私達にとっては、ただの里帰りですよ。聖地を土足で踏み荒らしたのは、私達ではありません」

つまり対外実働部長がわざわざ出動しなければならない事態に陥った最大の理由は、そこだ。

「何が誤解で不幸な事件ですか。聖地の白昼堂々、B級サスペンス繰り広げておいて」
「下らない行き違いはあった様だが、結果的にネイキッドとファーストの両名は社員の暴走によって怪我を負った事になる。イクスの場合は、自業自得だがな」
「…おや。火傷以外に怪我はなかったんですか?」

あのネルヴァを差し置いて、一位枢機卿と目されている現円卓最高齢の枢機卿は、キング=ノアの前の代から円卓の騎士だった。ステルシリーの為に人生を捧げたと言っても過言ではない生い立ちを誇る、ステルシリー全社員の憧れだ。

「お前とファーストのどちらを『神の名代』に認めるかで、一部の社員の意見が割れたと言う事だ。お前の体にアランバート=ヴィーゼンバーグの血が流れている様に、ファーストにも幾らかの事情がある」
「子供(私)が知る必要はないと?」
「情報社会で生き残る為には、まずは情報を得られる権利が必要だろう?」

残念ながら、返す言葉はなかった。

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