帝王院高等学校
こんにちは羊さん、お元気ですか?
「…うぜぇ」
「愛するお兄様と対面するなり、開口一番とんだご無礼っぷりじゃねぇか」

初めて見た弟と言う生き物は、大人顔負けの冷めた表情の中で眼差しだけギラギラと、刃の様に研ぎ澄まされていて。久し振りに帰ってきたかと思えば、ただいまの挨拶もなく、仲良くしなさいと言った父親の声を何処か遠くで聞いていた。
二人きりの兄弟なんだから、と続いた台詞で、初めて『帰ってこなければ良かった』と思ったのだ。我ながら幼かったのだろうと、今は笑えてくる。

「可愛くねぇな、訴えるぞ」
「何処にだよ」
「お前の良心に」
「とことんうぜぇ」

あの時から、嵯峨崎零人17歳に於ける生活のリズムは、すっかり歪んでしまっている。幼いながらに純粋だったとも言える考え方も、歪な形に修正されていった。それが大人になると言う事なら、望んでそうなった訳じゃない。

『ゼロ。私の王子様』

信じていた何かが急に消えてなくなる瞬間を、17年間で何度経験してきただろうか。
人間は嘘つきだらけだ。いつだって、騙される方が悪い仕組み。
大人が作り上げた外面ばかりお綺麗な社会では、弱者を守るべきだと謳う癖に。弱い者は守られるのではなく、いつだって『哀れまれる』だけだ。善人振った暇人の自尊心を一時満たす為の、一つのアイテムに過ぎない。

『誰だよ、そいつ』
『そいつじゃない、…佑壱』
『ゆーいち?』
『…仲良くしなさい、零人』

父親が「零人」と呼ぶ時は、決まってロクな事がない。
いつかだってそうだ。健康診断に行くと言って帰ってこなかった母親が病気だったと言う話を聞いた日も、嵯峨崎嶺一は零人を愛称で呼ばなかった。酷く固い表情で、「元気になる為に入院するんだ」と言った癖に、エアリアスは帰ってこなかったのだ。

『二人きりの兄弟なんだから』

つけっぱなしのテレビから台風の被害情報を繰り返すニュースキャスターの声は、鼓膜を掠りもせずに。真っ白な部屋の中、高熱に魘されている真っ赤な髪をした子供に付き添う真っ赤な髪の父親が、どれほど不気味に思えたか。

『…そいつ何歳?』
『五歳になったばっか。春に生まれた』

幼かった。
十歳の少年でも、世間一般からは賢いと褒められる、多少マセた子供だった。
単純な引き算だ。10から5を引けば、ほら。答えは出るだろう?例えばエアリアスが死んだあの日、零人は5歳だった。喧嘩ばかりしていると思っていた母と祖母は、死ぬ時までほぼ同時で。今では仏壇に置かれた遺影の中、二人は仲良く並んでいる。里帰りする度に零人がどれほど話しかけても、二人から返ってくる言葉はなかった。

『何だ、ドラマで良く見る奴か』
『ゼロ?』
『帰るわ。外泊届け出してるから学園には戻れねぇし』
『ちょっと待て!勝手な事をするんじゃ、』
『…勝手?余所の女の餓鬼を平気で見せびらかしてくるクソジジイが、自分は棚上げかよ?』

歪んだ。あの時、景色が。
怒りによるものか悲しみによるものか、もう思い出す事はない。ただ、勝手に溢れ落ちそうになった涙をどれほど必死で耐えたのかだけは、強く覚えている。十歳でも泣く事がダサいと言うくらいは、知っていた。

あの日歪んだ零人の世界は、何年経っても歪んだまま。
それから数ヶ月経って冬休みがやってくると、静かな実家の静かなリビングで待っていたのは嶺一ではなかった。

『お帰りなさいませ。お食事を用意しましょうか?』
『良いよ、久々にピザでも頼む。親父と小林は?』
『会長はご子息のお迎えに』
『そっか、そう言う事』

大人は弱い者を守る。零人より幼かった佑壱は庇護対象でも、零人はそうではなかっただけなのだ。

『だったらデカいピザにすっか。佑壱の分も要るだろ?』
『畏まりました。お決めになられましたら注文致しますので、お申しつけ下さい』
『有難う。何が良いかな、真っ赤なトマトがゴロゴロしてる奴とか?』

社会はいつだって目立つものにしか興味がない。良い子にしている優等生より、手の掛かる劣等生の方が教師の記憶に強く残る様に。

『ま、俺トマト大嫌いだけどな』

零人の好物は、真っ赤な柘榴が宝石の様に散りばめられたエッグパイ。
母親が週末になると焼いてくれたあのおやつは、祖母も大好きだった。


「カプリコーン。魔女とまで畏れられた女が、血縁関係はどうあれ孫に対して『山羊』っつった訳だ」

6歳で帝王院学園に入学した嵯峨崎零人を実家で待っているのは、立て続けに亡くなった祖母と母親の遺影が待つ仏壇だけだった。零人が帰省する時だけ父の会社の誰かが付き添ってくれたが、零人がいない間の家の事は何も判らない。
零人が里帰りすると、仕事を早めて帰って来る嶺一は、いつも『ただいま』と『お帰り』を初めに言ってから、明日は墓参りに行こうと誘ってくる。その恒例の挨拶が成立しなかったのは、いつかの夏の嵐が過ぎた日だ。

「そしてもう一人の孫には、ヴァーゴだとよ。あれが乙女っつータマか」
「…」
「お前はどう解釈する、ケルベロス?」

4年生で初等部の自治会役員に選ばれた零人は、夏休みが始まっても自治会の仕事ですぐには帰省出来ない事があった。
一言で仕事と言っても、殆どは夏休み期間が存在しない中等部・高等部進学科の為に駆け回ったり、上半期決算を迎える中央委員会に一学期の出来事を報告したりだとか、初等部の仕事は『初めてのおつかい』程度ではあったが、慣れない内はそれなりに大変だ。
帝王院学園の下院自治会恒例行事に、8月に入ると、面倒見の良い中央委員会役員の持て成しで、自治会だけの慰安パーティーが行われる。無論、初等部から最上学部までの全自治会役員が招待され、中央委員会執行部がホストを務めるのだ。この時ばかりは無礼講だと、当時の中央委員会役員の誰かが趣味で作ったと言う花火で遊んだりもしたが、自分よりすっと大きい先輩方に囲まれれば、最年少組の初等部自治会役員は気後れするもの。行きたいけど行きたくない、などと子供らしからぬ悩みを口にする役員も少なくない。

『…うーん。君が使う機械は、何故か良く不具合を起こすね』
『俺の使い方、間違ってます?』
『間違ってない筈なんだけど、おかしいなぁ』

初等部自治書記として指名された零人は、備品のパソコンと周辺機器を幾つか機能停止させた所で、困り果てた会長と副会長が話し合った末に、会計の仕事と入れ替わる事になった。事実上は書記のお役御免ではだったが、精密機器さえ触らせなければ零人は優秀な生徒だったので、当時の自治会長は苦渋の決断をするしかなかったと言う事になるだろう。
それを知った中央委員会長は、他人事だからか腹を抱えて笑っていた。

『だから言っただろう、やる気があるなら中央委員会に入れてやるって』
『嫌っすよ。夏休みがなくなる』
『…つまんねぇなぁ、餓鬼過ぎて』
『俺は餓鬼じゃねぇ』
『ああ、一丁前に腹立ててんのか。脆弱で何の価値もねぇ、お子様の分際で』

優秀で有能で、剣道部の幽霊部員。
零人が知る中央委員会長は『俺様』の権化だった。間違っても、『エセ関西弁』を使い『食事代わりに駄菓子を貪る』様な、落ちぶれた男ではない。少なくとも彼が教育実習生として戻ってくるまでは、少なからず憧れたものだ。

『大人の社会じゃ、権利ってもんは義務を果たした奴だけの特典だ。ぬるま湯に浸かっていたいなら、義務を放棄するしかない。…パソコンが出来なくて他人に押しつけたお前なら、簡単だろう?な、零人ちゃん』
『クソジジイ、マジでムカつく』
『く。俺も昔、叶文仁に同じ台詞吐いて親衛隊に追い回された覚えがある。当の本人はニヤニヤしてたが、こんな気分だった訳か。成程ね』
『何が成程なんだよ、うぜぇな』

当時クラウンマスターだった東雲村崎に揶揄われた通り、間接的にではあるが、零人は己の役目を他人に押しつけた事になる。向き不向きがあると言っても、パソコンがフリーズしてマウスの配線が焼ききれて電池を入れ替えたばかりのテレビのリモコンが無反応、なんてトラブルがほぼ毎週起きれば、自分でも嫌になる。

『物質はひっつきたがる。魚群も然り、水蒸気がくっついて出来る雲も然り』
『はぁ?』
『弱いもんなりに生き残る方法を考えてるだけマシだ。本物の弱者は、自分の弱さから目を逸らして強がる馬鹿』

結果的に初等部自治会内での暗黙の了解で、書記と会計の仕事が入れ替わっただけだったが、元会計はパソコンは扱えたものの根っからの理系で、とにかく誤字が多い生徒だった。会長から書記の仕事を任せると言われた時に、元会計が何処か歯切れが悪く頷いていた理由はすぐに明らかになる。

『お優しい「村崎サマ」は、餓鬼の癖に余裕がない面してるお前を哀れんでやってるんだ。期待を裏切るなよ、零人ちゃん』
『勝手に期待すんな。…裏切られた方が悪いんだよ』
『うっわ、根暗発言。人前じゃ、愛嬌があってしっかり者の優等生振ってる癖に』
『アンタは義務を果たしてて、俺は果たしてないって言いたいんだろ』
『別に?勝手に勘違いしちゃって、これだからお子様は』
『うぜぇ』
『逃げたきゃ、逃げれば良い。何せ、裏切られた方が悪いんだろう?』

零人より一学年年上の生徒だったが、画数が多くなればなるほど漢字の形を認識出来ない様で、国語では漢字の書き取りで点数を損ねていたらしい。中等部に進級した彼は、結局卒業するまで進学科には進めないままだった様なので、申し訳ない事をした。優秀な零人が加わった事で「仕事が楽になる」なんて言っていたが、仕事を取り替えると言う話が出た時には、過大評価だったとも言われただろうか。
あの時愛想笑いを貼りつけて殊勝に謝る素振りをした零人の本心は、「勝手な期待を押しつけた方が悪い」だった。

『…おねしょが直らない零人ちゃん、俺の事は紫水の君様と呼んで崇めへつらえ』
『おねしょなんてしてねぇ!』
『お前らが快適に暮らせるのは、全部俺のお陰だ』

引き換えに全教科そつなくこなす零人には、計算間違いも誤字もまずなかったが油断すると電卓がエラーを吐く。零人は暗算の方が早い事に気づくと、電卓に触れる事はなくなった。尤も、指サックを装着すると問題なく電子機器に触れると気づいたのは、随分後の事だ。

『弱い奴は全員、羊雲みたいにくっついてろ。…灰色に翳った天なんか見上げる奴はいない』

零人が知る限り、最も優秀だった中央委員会会長は高等部を卒業すると同時に居なくなってしまった。外部進学する生徒は少なくなかったが、どうしてあの男が東京大学ではなく京都大学を選んだのか、その理由だけがずっと判らない。
普段は有能で優しい男だった。例えば夏のパーティーの時には、手ずから茶を淹れて振る舞ってくれたものだ。けれど時々、人が変わった様に悪辣な物言いをする時がある。紫水の君は陰陽の二面性があると噂する生徒の大半は「素敵」と宣い、親衛隊は総じてドMだった。当時の中央委員会役員も、東雲村崎の親衛隊員だった筈だ。

『陛下から君を寄越せって言われてたんだけど、君、一度勧誘を断ったんだってね?』
『…まだ諦めてないんですか、あのおっさん』
『コラ、陛下に失礼でしょ?僕も君なら中央委員会でもやっていけるとは思うけれど、初等部の生徒が中央委員会役員に指名された事は過去に一度もない様だし、』

最終的に卒業前の引継ぎで、げっそりやつれた自治会長から次期会長に指名されてしまった零人は、素直に指名を受ける事になる。同じく誤字で散々泣きを見た書記は副会長に任命されたが、もう自治会なんて懲り懲りだと辞退してしまった。けれど彼を非難する者はいない。
村崎が言った様に、逃げたい者は逃げれば良いのだ。学園の風潮は、生徒に自由以外を押しつける事はなかった。代わりに手厚く庇護する事もない。自主性を養う為に、と言う名目で、零人には放し飼いにされている様に思えた。

大人は子供を強く育てたがる。猫よりも獅子、犬よりも狼に。
けれど大人は弱い者を守らなければならないと宣う。肉食獣の世界に子羊が紛れ込めば生きてはいけないから、けれど肉食に育てたのは大人達なのに。餌になる筈の子羊は守られ、飢えるのはいつも強い者ばかり。変な世の中だと思わないか?

「…ステイツじゃ、羊のが畏れられてんだがな」
「羊?」

だからこんな風に、群れに馴染めない羊が脱走する事がある。

「12っつー数字は、大概縁起が悪い」
「へぇ、お前には験担ぎの趣味があんのか」
「…別に」

零人はただの息抜きと言う名目で。そして嵯峨崎佑壱は、既に大学院を卒業し教授の資格も所持していると言う、最強の免罪符を貼りつけて。

「そう言えば、やたら雲の種類に詳しかったな」
「あ?」
「いや、俺の前のクラウンマスターの事だよ。お前も知ってるだろ、東雲の跡取り」
「ふん。有象無象の名前なんざ一々覚えてられっか」
「…言うねぇ、無敵の佑壱君。訳の判らん有象無象集めて、お山の大将気取ってるだけはある」
「カルマだ。馬鹿でも覚えられるだろうが。死にたくなけりゃ、外でカルマって聞いたら踵を返せ」

学園にいる間は良い。
放し飼いだが、多少の義務を果たせば自由でもある。自治会役員であれば尚更だ。教師の覚えはめでたく、亡き祖母が口癖の様に言った「いつか大殿にお仕えしなさい」と言う遺言も、果たした事になる。

「は。嫌だね、見つけたら写真撮りまくってやる」
「シね」
「うちの会計経由でノア様に送ってやったら面白そうじゃねぇか、なぁ?」
「Cut the crap, do me a favor must go to the hell.(ほざいてないで、頼むから死ねよ)」

帝王院駿河学園長は日本で最も多忙な実業家であるにも関わらず、式典の出席を一度も欠かした事がなかった。零人を裏切った嶺一とも、エアリアスとも違う、立派な人だ。零人が初等部自治会に加わった時、優しく微笑みながら『励んでくれ』と言ってくれた事があった。全校生徒が憧れ慕う学園長は、あれから間もなく体調を崩し入院してしまった。
中等部へ進んで、結果的に零人は中央委員会会長になり、村崎が学園を去った年齢と同じ高等部3年生だ。今なら義務を果たしていると言えるのだろうかと、最近は良く考える様になった。

「タロットについてはそこまで詳しくねぇが、見た事はある」

時間は無情にも流れている。止まらないし戻りもしない。ただただ、流れ続けるだけだ。
例えそれで誰かの人生が歪められたとしても、そこに一切の容赦はない。形あるものはいつか壊れる運命。期待をするな。信用するな。自分ですら、明日も生きている保証はないのだから。

「占いに使う、あのタロットカードの事か?」
「使った事ぁねぇが、見た事くらいは。幾つか種類があって、カードの解釈も少し変わってくるらしいが」

お盆までに帰省する事さえ出来れば、零人に不満はなかった。初等部4年生までの話だ。
そうだ、十歳の頃までは確かに、夏休みが待ち遠しくて堪らなかった。例えばそう、帰省するなり『今すぐ出かける』と血相を変えて宣言した嶺一に担がれ、訳が判らないまま東京へとんぼ返りする羽目になった台風一過の日に。

『親父、何で名駅に行くんだ?墓は、熱田神宮の向こうだろ?』

ただいまも、お帰りもなかった。いつもと違う事に対する違和感に気づかなかったのは、疑いもしなかったからだろう。喧嘩しているかと思えば、並んで『最新家電』のカタログを眺めている様な両親の関係は、どちらかが居なくなっても永遠に変わらないのだと。産まれてからたった十年しか経っていなかった零人は、無意識に信じ込んでいたのだから。

『何で何にも言わねぇんだよ、親父…』

慌ただしい夏休み序盤と、楽しいが気疲れするパーティーを乗り切って、台風接近のニュースで出発が遅れやっと実家へ帰ってきたと言うのに、どうして再び東京行きの飛行機に乗り込まなければならないのか。それも新幹線は異常に混んでいるとニュースで流れていた。それなのに空港を経営している男は何故か新幹線の、それも自由席のチケットを固く握り締めて、終始無言だった。今になって思えば、まるで何かに祈る様な表情だっただろうか。

「山羊みてぇな角生やした、気色悪いキメラモンスターが書いてあるカードの意味は、」

オフホワイトとネイビーグレー、制服が違う兄弟は13歳と17歳。
誕生日を迎えたばかりの弟と兄の間にあるのは、5学年の差とプラスアルファ。いつかいきなり現れた義弟にだけ遺伝した父親と同じ赤毛を、零人は持っていない。
栗色の赤毛だった母親の記憶はまだ残っているのにどうして、零人は『金髪』だったのだろう。いつか幼心に感じていた違和感は、目の前の弟と同じ年齢の時に解決した。4歳年下の『枢機卿閣下』が『男爵陛下』に変わった、5年前の話だ。

生まれる前から監禁され続けた『お姫様』は、唐突に外の世界へ放たれてしまう。
英語も日本語も片言同然の彼女は、初めて空を見た時、絵本で知った海と勘違いしたと言う話を最初にしてくれた。初めましての挨拶に続く会話がそれなのだから、今まで彼女が如何に他人と触れ合わず暮らしてきたのか、明らかではないか。

「確か、『悪魔』だ」

零人はわざとらしく欠伸を噛み殺した。(悪魔の娘)(それはエアリアス=アシュレイの二つ名)(彼女の正体は悪魔だ)(記憶の中でいつも笑っている母親は)(もう忘れてしまえ)
台風の日に雷雨に打たれながら拳銃を向けられたと言う『可哀想な子供』を病室で見たその日に、どうして嶺一に確かめなかったのだろうかと。(クリスティーナを憎むのはお門違いだ)(彼女もまた裏切られた)(それなのに何一つ憎んでなどいなかっただろう?)
あの時、心の奥底に燻った苛立ちを飲み込まずにちゃんと吐き出していれば、嶺一がエアリアスを裏切ったと言う誤解は解けていたかも知れない。それ所か、天真爛漫でマイペースだと信じていた母親こそが裏切り者だったのだと、もっと早くに知っていたのだろうか。

(それでも)(母親と呼びたい人間は、一人だけだ)(零人の世界は歪んでいる)(きっと誰の所為でもないのだろう)(判っている癖に何かを恨みたくなるのは、何故)

けれどもう、遅すぎる。
十歳の少年の心に宿ったどす黒い負の渦は、中等部に上がるまで燻り続けた。あれほど待ち侘びていた里帰りが苦痛になる頃、今度は向こうが東京へやって来ると言う。何度『ふざけるな』と思っただろう。中等部へ進級し、零人が当時の中央委員会に気に入られる様に行動した理由は、『エアリアスが育てたから弱い人間になった』と思われたくなかったからだ。
初めて会った義弟の母親、つまりは父親の浮気相手だと思っていた女が、今更自分の母親だったなどと言われて、はいそうですかと素直に頷いてやれる純粋さもなければ、無知でもなかった。どす黒い感情をひたすら噛み殺してきた、ほんの12歳の子供だったから。言い訳だ。あれから5年も経てば、またしても考え方が歪んでしまっている。(だからと言って受け入れるにはまだ)

「ふーん、博識な弟だな」

空のゴミを押しつけた。いつまでもうじうじ悩み続けている零人と佑壱の性格は、外見ほど似ていないのだろう。自分では判らないが、他人からは『兄弟そっくり』と良く言われる。自毛の色も瞳の色も違うし、体型だってそれほど似ていないのに。

「は。勉強になって良かったこった」
「おい、中央委員会会長の前で堂々とサボろうとすんな。お前、馬鹿みたいに世界中の言葉書けるんだろ?字も上手いんだから、執務室でお仕事しろ。あれこれ書類が溜まってやばいんだ」
「ヤギにでも食わせとけ、金髪の子ヤギに」

ゴミを押しつけてきた佑壱は、ついでの様に脱ぎ捨てたネイビーグレーのブレザーも押しつけてくる。
完全な私情で中央委員会会長になった零人と、完全な私情で書記を名乗っている佑壱は、そこだけ双子の様に思えた。笑い話にしたい所だが、叶二葉と高坂日向の顔を毎日見なければならない零人のメンタルは、言葉では言い表せないほど磨り減っている。語学の神獣であれば、的確な表現で見事に零人の気持ちを言い表してくれるのだろうか。

「じゃ、お仕事頑張って下さい陛下」
「…あー、若干本気でハメ殺しにしてやりてぇ」
「チンコ握り潰されても良いなら掛かってこい。言っとくが、俺の右手の握力は100超えてんぞ」
「気をつけて行ってこい。お前の右手が殺人を犯さない事だけ、お兄様は祈ってる」

零人が白いブレザーに袖を通すのも、もう残り僅か。初めは個人的な理由で始めた中央委員会職だったが、最上学部へ進んでも暫くは続ける羽目になるだろう。日向はともかく、二葉に会長を譲る事だけは絶対にないからだ。然し頼れる光姫様は、背中にえげつない刺青を入れてくれている。万一、その秘密が理事の誰かの耳にでも入れば、茶々を入れてくる可能性はあるだろう。

「まだ辞める気もねぇ癖に、引き継ぎ人事で頭悩ませてんのな。あーあ。いつの間に大人になってたんだ、俺は」

肝心の日向本人も『副会長くらいが楽で良い』と宣っているので、ただでさえ書記の仕事も丸投げしている今、理事に呼ばれたり帝王院財閥関連行事の外出も多い会長職を押しつけるのは躊躇われた。二葉は風紀局を兼任しているので、本来は会計を任せるのは不自然なのだ。本人が『金勘定は息をするより簡単』とほざいているので任せているが、部費や予算の割り当てで文句を言ってくる者が全く居なくなったのは、予想外の僥倖だった。
影で魔王と呼ばれている男は顔だけは美人なので、にっこり微笑んでやれば大抵の恨みつらみは跡形もなく消える。

「…さてと。じゃ、俺様会長様は真面目にお仕事しますか」

そう言えば、零人と村崎も5歳差だった。
5年前の自分は今の佑壱の様に、感傷に浸る事もなかっただろう。脱いだブレザーを簡単に他人に押しつける無関心さもそうだ。零人なら考えられない。もう制服を着ていられる期間は、一年を切っているからだ。

「あの野郎、中一の癖にもうLL着てんのか。俺だって、あの頃はまだLだったっつーのに…」

呟きながら廊下を真っ直ぐ進みつつ、弟のブレザーを羽織ってみれば、自分のブレザーの上から羽織っても辛うじてボタンが留められるほどゆとりがある。最近の若者は、などと年寄りじみた台詞を飲み込んだのは半ば意地だ。

「…んとに、強い弟だねぇ。ちったぁ泣き言の一つもほざけば、お兄様の惨めな気持ちがちょっぴり報われるってのに」

歪んでいる世界を元に戻す方法を知らない子供は、無理矢理大人にならざる得ない。
弱い者として哀れまれる事だけはプライドが許さなかった。選択肢は一つ限りだ。強くなるしかない。肉食獣の社会で、飢えようが惨めだろうが、ただの羊に成り下がるよりは。母親が死のうが父親が裏切ろうが気にしない精神力を養えば、社会はきっと零人の住み易い世界に変わるだろう。

「可哀想なものを可哀想だって言えるのは、強い大人だけの特権。なんてね…」
「ん〜!」

ガンっと言う物音が、何処かから聞こえてきた。
執務室へ向かっている筈だったのに、いつの間にか煙草を咥えていた零人は慌ててそれを握り潰し、きょろりと周囲を見回す。

「つってもこの向こうは、中等部第2体育館の地下倉庫だよな?」

地上へ迎う階段の脇に、小さな扉が一つ見える。
このまま上に上がれば、アンダーライン1階部分の南東に出るだろう。ヴァルゴ庭園の北の外れ、ヴァルゴ並木道の脇だ。地下にある屋内プールは、アリーナ席を含めれば3階分のスペースを専有している為、アリーナから天井までの部分は外に露出している。屋内プールの屋上がテラスになっているアンダーライン地上部分は、ほぼ中等部専用のエリアでもあった。高等部国際科も利用しているが、生活時間が全く異なっているので接触する事はまずない。

「おい、誰か居るのか」

とは言え、生徒の活動範囲と業務用範囲を含めると巨大な地下迷路同然のアンダーラインでは、度々思わぬトラブルが起こっている。親衛隊による制裁行動が見掛けられるのも地下が多く、『生徒は通行出来ない』と言う事になっている業者通路に忍び込む生徒はもまた、不特定多数だ。零人も然り佑壱も然り、アンダーラインだけは校舎や寮と違いモードチェンジによる改装もないので、一度抜け道を見つければフリーパス同然である。

「クラウンスクエア・オープン、カード忘れた。ロック解除してくれ」
『…91%、施錠解除しました』

中央委員会会長に開けないゲートはほぼない。理事会セキュリティ以外は職員棟の鍵も開くが、使用履歴が残るので当然不正利用は不可能だ。学園内ではGPS同然の学籍カードを部屋に置いて外出していた零人は、指輪をはめる窪みがない体育館倉庫の扉をセキュリティパネルのランプが赤から緑に変わるのを確かめて、ドアを開いた。

「くっそ、さっきのが空耳だったらある意味最悪だな」

地下から体育館倉庫に入る必要がある人間など限られるので、ロック解除にはカードスキャナーにカードを通すしかない簡易セキュリティだったのが災いした。サーバーを開いてロック解除すれば使用履歴が残り、零人がアンダーラインにいた事が問答無用でバレてしまうが、仕方ない。言い訳を考えるのは後回しだ。
どうせバレた所で、理事会か中央委員会メンバーだけの事。トラブルが起きない限り不介入の理事会が口を挟んでくる事はまずなく、そうすると面倒臭いのは高坂日向と叶二葉だけと言う事になる。零人と同じくアンダーラインを抜け道にしている佑壱は知らんぷりをするだろうし、零人のプライベートに全く関心がなさそうな日向にしても、零人がサボっていた事にはチクチク言うだろうが、それだけだ。
言い訳する必要があるのは、挨拶代わりに精神的苛めを仕掛けてくる可能性が極めて高い、二葉だけ。あんな性悪でも風紀委員長と言う肩書きがあり、『中央委員会会長の品行を見守るのも仕事』とか何とかほざいて、零人の抜け道を封鎖する可能性があった。

「奴の弱みを握れてない自分を呪うしか…あ?」

中途半端に弱い者は生きられない社会で、最弱ではなければどうするべきか。


「…おい、よりによって初等部の餓鬼じゃねぇか。誰の仕業だよ」

この学園では誰より正しくある事を義務づけられた、中央委員会会長は。

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