帝王院高等学校
そして彼は、アレに目覚めた。
自分には兄か姉が居る様だと気づいたのは、物心ついて間もなくの事だ。
明らかに自分のものとはサイズが違う子供用の着物と、羽織袴が桐箱の中に大切に仕舞われている事を知った時から、疑問は少しずつ多くなっていった。

「大殿は宮様を挿げ替えるつもりやろか?」
「…大宮では、大宮司とお呼びせなあかんえ。大禰宜のべべ着てはるのに、やすけない氏が知れる言うもんどす」

自分で言うのも可笑しな話だが、決して自画自賛ではなく、自分と言う人間は他人と比べて多少、聡い方だったと思う。大人達が手放しで賢い賢いと褒めてくれたからと言うのも理由の一つではあるだろうが、最たる理由は、仏の化身と謳われた父親の恥にならない様に、正しくある事を幼心に誓ったからだ。

「秀之様には宮仕えではなく、千鶴様を置かれている。正式な嫡男に据えられるのであれば、四ノ宮が配置されるべきだ」
「明神に限っては当主が仕える相手を選ぶが。今の明神は、果たして大宮司を認めてはるんか…?」
「雲隠祭主は天王寺の本丸や、大宮司に絶対服従と見て間違いあらへん思います。そやかて、孤高の灰原宮司は明神以上に得体が知れん男やさかいに」
「あの話ほんまどすか?」
「こないだ生まれはった嫡男が、えらい化物やて…」

寧ろそれを知った瞬間から、自分と言う人間の人生が始まった様な錯覚を覚えている。

「当主が変わる度に、当主以外は残らず十口に流される仕来り。鍛錬を課してへん非力な榛原が、十口で生き残っていくのはえらい難儀でしょう」
「宵の宮に男子が生まれなんだ年は、皆が胸を撫で下ろさるのと違います?」
「ほんまに」

秘密を知った切っ掛けは、幼子には多少難しい大人の井戸端会議だ。
神に仕える宮司や祭主が集まる秋口の、米の豊作を喜ぶ祭が終わって、数日経った頃。普段は物静かな『色つきの袴を履いている』男達が、人目を忍ぶ様に話していた所に偶然居合わせてしまった。言っておくが先にその場にやってきたのは自分の方で、彼ららが後からやってきたのだ。決して盗み聞きをした訳ではない。

「仕来りのえげつなさは、どの宮もおんなしや」
「ぼっかぶりに毛が生えたもん違います?油虫は暗い所に、えぐい蝉は天神の周りで湧かはる」
「嫡男があの様では、外の女に産ませた落胤でも我慢せなあかんのどす」
「外ゆうても、星は明神の草どすえ?東の犬共は秀之様が産まれて大喜びや」

父には何人かの妻がいたが、奥様と呼ばれているのは一人だけだ。

「陽の宮は『宙』、仏の柱にして強大にして目には見えぬもの。冬月は『穹』、おひいさんを抱く天幕の如く歴史を記憶する仏の鳥。明神は『虚』、人の嘘を見抜く真実の読み手。灰原は『旻』、秋空の如く天高くより人を支配する」

天神たる帝王院大宮司には、分社に娘が産まれると許嫁の契りを結ぶ決まり大昔があった。
13歳になるまで各地の社で育ち、軈て巫女として緋天大宮に預けられると、妊娠した順に妻として迎えられるのだと井戸端会議中の大人達は声を潜めて嘲笑った。

「嫡男が未だ神官ではない冬月に、大きい面さしたらあかん」
「ほんまに。冬月が祀ってはるんは龍でも蛇でもない、…殺生石の欠片どっしゃろ?」
「ふふ。稲荷様は大層美しい妖怪様、那須野原で岩になった玉藻前は鳥羽のお上の愛しい狐」
「伊勢では雲隠祭主を妖狐呼んだはる。お伊勢の祭主を生け捕りに、婿に迎えた雲隠不知火の悪名は、徳川吉宗の治世から消えやらん」

空蝉と呼ばれる忍者は、戦がなくなった江戸時代に入って姿を消し、帝王院が守っている大社の東西南北に作られたそれぞれの分社を守護する立場で、今では皇と呼ばれている。表向きは神職だ。

「畏くも天孫なれど、妖しの色香には歯が立たなんだ。腰も立たなんだかえ?」
「あんさん下品やで。おんなし妖怪やったら、猫のがかいらしいわ。餞の宮の身を弁えた娘の方が、扱い易いんと違います?」
「寿公の世代では、雲隠の娘は薹が立ち過ぎておった。然らば榛原に生まれた娘を充てがうべきと上申したが、当時まだ十に届いてへなんだ故に。冬月の娘が孕むとはな」

土地神の象徴は『白龍』『狐狸』『黒蛇』『天狗』、四つの分社にはそれぞれ神の寄り代と言われている岩が祀られていて、幾つかの祝詞が授けられている。
本来は十口にも社があるので五つの土地神を祀っていたが、雲隠以上に代替わりが早く禰宜以上の役に就いた者がいない為、今では廃墟同然の社だ。帝王院に伝わる古い文献には『花の宮』と記載されていた為、いつからか餞の宮、墓守の民と揶揄される様になった。

「最も多い時は四人の妻を迎える事もあったが、時期が悪い時もある。帝王院は脈々と受け継がれてきた男系の血脈だが、四ノ宮に男しか生まれなんだ世代もあった」
「雲隠の娘は過酷な修行で育つ前に死ぬか、生き残っても長くは生きられん。代々の天神が雲隠の娘を妻に迎えなかった事からも証明しておろう」
「冬月、明神、宮様の手ぇつけば十口の娘も大宮に迎えられるとして、…真っ先に孕んだ娘だけ妻ゆうんは、無下どすえ?」

大稲荷大社の帝王院が掲げるのは天神で、境内の御影石に刻まれている祝詞は天津祝詞だ。禊祓詞と呼ばれる、厄災祓いの詞とも呼ばれている。始祖『天守』と呼ばれた帝王院天元に倣い、帝王院の嫡男は物心つくと真っ先に天津祝詞を覚えなければならないと言われていたが、帝王院秀之は十歳を迎えようとしているにも関わらず、父である大宮司、帝王院寿明から祝詞を教わった事がなかった。

「俊秀様には何の恨みもあらへんけど、東の狗は面白かないやろ。昔から堅物の明神は、偏屈の冬月と仲が悪い」
「おんやぁ?此度ばっかは、明神だけやあらへんでしょ?」
「せや、雕殿も気に食わんだろう。腹違いの妹とは折り合いが悪い」

としひで。
ああ、そうか、自分の兄はとしひでと言う名前なのか。

「先代榛原の娘が十口へ下ろされる前か、雲隠の火霧がもう少し早く生まれておれば…話は変わっておったか」
「今更言うても詮ない事どす。灰原の術は、血が近い者ほど効果が薄れる言うんや。実際、過去に十口落ちを嫌って兄弟喧嘩に発展した代の灰原は、当主が弟を社に匿った所為で拗れた。最終的に雲隠が弟を捉えて、川流しにしはった」
「ふ。川流しやて…」
「鴨川の暗渠に流れ着く墓守には、目も耳も頭も声ものうて、十の口がついてはる…。十口では生き残る方が難しい。だから『十口』言いはるんどす」
「毎日十人ずつ奈落の口に呑まれる、出来損ないの掃き溜めやてな…」

下らない陰口を叩いている掃き溜めの大人達に何の興味もないが、礼を言ってやっても良い。その様に無様な真似をするから、あの冬月鶻が宮司以下を『愚か者』と呼ぶのだろう。

「だが、強ければ長生きする訳ではない。雲隠が証明している」
「人間の心の中を聞く明神は、狂人か唐変木だけが淘汰されずに残る」
「血も涙もない唯我独尊の蛇は、…ほんの2歳の小僧に頭を垂れよった」

兄。そうか、としひでか。
どうしても気になって父に尋ねてみた事があったが、ややあって紹介された帝王院千鶴は名目上義理の姉ではあるが、大宮へやってきたのはあの日が初めてだった。
彼女は8歳で巫女修行に出され、一年ずつ四ノ宮に奉公回りした後に出雲へ出向いていたが、秀之が会いたいとせがんだ為に急遽呼び戻されてしまった。2年前の話だ。然し秀之が大宮で見つけた秀之のものではない羽織袴は、明らかに男物だったのである。

「長老が認めはるのも時間の問題や。晴空が灰原に据えられはったら、宵の宮は静かになる」
「龍の宮の宮様は知らん筈なのに、宵の宮に子が生まれたと言っても驚いた顔一つ見せなんだそうや」
「あないな所に閉じ込められたままでは、いきどしいどっしゃろ。宮様は仏を見てはるに違いない」

表向き、寿明の妻達は姉妹の様に仲が良いと言われているが、実際は最年長である正室に誰も逆らえないだけだ。30歳目前で子供を授かった冬月の娘は、然し今は側室の息子を可愛がっている素振りをしている。

「…大殿は聡明な方、迎える嫁を間違えただけだ」
「長老の決め事には、大宮司様言うたかて逆えん言うこっちゃ。不幸中の幸いは、秀之様が普通のお子やった言う事」
「俊秀様に比べれば遥かに劣るとして、扱いは難しあらへん」
「確かに。未だに祝詞一つ覚えてへん阿呆でも、化物よかなんぼか救いがある」

『母上』ではなく、産みの母から『兄上がいるのですよ』と一度だけ聞いた事があったが、彼女もまたそれ以上の事は知らない様だった。いや、知っていても言えないだけかも知れない。大人とは、呼吸をする様に嘘をつく生き物だ。

「俊秀の宮様がほんまに仏が見えはるんやったら、阿呆はあてらどすえ」
「何にせよ、龍の宮の俊秀様が外に出られる事はない。灰皇院蒼穹が読んだ大祓詞には、天岩戸に八重雲を押し開く一文がなかった。つまり『一生外には出るな』と言う呪いを掛けられた、と言う事だ」
「聡明な宮様であれば理解しているだろう。それが大宮司の命令によるものである事も、灰原の呪いには逆えん事も」

なんて汚いのだろう。
大人なんて、見事にどれもこれも馬鹿しかいない。そうだ、愚か者。冬月鶻が言った様に、世界の大半は魑魅魍魎と有象無象なのだ。

「お可哀想になぁ。四ノ宮の娘ですらない外腹の秀之様では、後々遺恨が残るだろうが、冬月の肥大化を抑える為の人柱にはなる」
「冬月の娘を妻に迎えた大宮司は、後悔してはるんやろか。それでも大宮司が幼い頃に着たはった袴は、全部俊秀様にお譲りになられました。…大宮司が息子と認めてはるんは、俊秀様だけや思います」

任せておけ、父上。
たった今知ったばかりだが、俺も正に同意見だ。と、帝王院秀之は蔵の天井裏の隙間から、そっと覗いていた外を見つめたまま拳を握り締めた。

「…やはり、あの方が兄上だったのか」

緋天大宮の中心に、分社では大岩だが、帝王院の本社では御神木が祀られている。
その御神木が祀られている隠された森には、平安時代からあると言われている小さな茶室があった。秀之は物心ついてからその存在に気づき、時々こっそり見に行っているのだが、縁側がある茶室には御仏と見紛うばかりに美しい男が一人で暮らしているのだ。
目が合うだけで『ぎゃー』と言う気持ちになってつい逃げてしまっていたが、こうなってはそんな情けない真似をしている場合ではない。

「はぁ。まさか、あの御方が兄上だったなんて…俺の…兄…兄うぇっ、おぇっ」

外の大人にバレない様に、来た時と同じくそろそろと蔵から出た秀之は、記憶の中の美しい長髪の男を思い浮かべてえずいた。えずいたってなんやねんと言われても困る。つまりは吐きそうになったのだ。

「おぇ、うぇ。ぐふっ、ハァハァ」

居るとは思っていた姉か兄の正体が判ったのは僥倖だが、単に狭くて暗い所が大好きだと言う理由で朝早くから蔵の天井裏に忍び込んでいたのは間違いだったのかも知れない。曇っているのに空が眩しくて堪らないからだ。

「あ、あの様に神々しい方が俺の…あっあっ、ゲフ」

どうしよう。どうしようったらどうしよう。
足は全速力で龍の宮を目指しまくっているが、本人に対面して話し掛ける勇気は微塵もない。何せ秀之は人見知りなのである。巫女の千鶴が義理の姉だと言う事も最近知ったくらいには、人見知りだ。
秀之は知らない人の前では自分の心臓の音しか聞こえなくなる持病を抱えていて、いつも能面の様に同じ笑みを浮かべている『母上』の前では、『はい』か『畏まりました』しか言った事がない。大宮司である父親は多忙で帰りが遅く、話す機会もそれほどなかった。

「は、鶻兄者が来れば良いのに、何をやってる。…あ、奥方が妊娠したんだった」

なので秀之は、『煩い』と『愚か者』しか喋らない冬月鶻がお気に入りだ。人前では宮様と呼ぶ癖に、二人きりの時は『小僧』か『糞餓鬼』と呼ばれている。ムカッとしない事もないが、少なくとも変な笑い方をしないだけ信用出来る。
反対に、いつでも豪快な笑みを浮かべ、『背を伸ばせ』『目を見て話せ』しか言わない雲隠火霧は、大の苦手だ。
あの牛の様な乳は何なのだろう、気持ちが悪くて直視したくない。
秀之の産みの母も、乳母も、何なら母上様も、洗濯板の様につるぺたなのに、何処もかしこもムキムキしている赤毛の女は、二の腕の筋肉よりボインバインしているのだ。乳が。いきなり抱き上げられそうになった時は、迂闊にも『ヒィイイイ』と言う絶叫を発してしまった。普通神主には男しかなれないが、灰皇院では女が最も強い。くノ一の棟梁である雲隠の祭主は、事実上『最強』なのだ。

「はっ」

なんて事を考えながら爆走していると、大抵いつも人気がない御神木がある中庭に出た。このまま覆い茂る草や木々を掻き分けて進めば、森で隠された秘密の庭に出るのだ。
龍の宮と呼ばれる茶室の真上は空洞で、晴れていれば太く立派な御神木の上から燦々と日が差して、あの美しい家主を照らしているに違いない。

ああ。
今まで話し掛ける勇気がなかった不甲斐ない弟を許してくれますか、我が君。

貴方が兄だと知らなかった秀之の尻を、どうぞ叩くなり踏むなり。
愚弟は貴方様を神の使いだと思っていたのです。何せ余りに凛々しく美しい、この世の奇跡の様なお姿だったので、過去に類を見ない人見知り度数をマークしてしまったのです。もうチキン野郎と罵って尻を踏み潰して頂ければ幸いでございます。
暗くてジメジメした狭い所に隠れている時だけ心が休まり、巣穴へ帰っていく蟻の群れを眺めては羨ましさに心が震え、父の様に立派な男にならねばいけないと言う誓いを立てたものの、己の心の弱さに今日まで負けっぱなしだった臆病者でした。

「うぇ、おぇ、あああ、兄上ぇ…!ハァハァ」

ですがたった今、秀之は生まれ変わったのでございます。
この帝王院秀之、如何なる事情があれ貴方を幽閉せし大人達が許せそうにありません。斯くなる上は私が兄上を外へお連れ致しましょう。灰原蒼穹が何だと言うのか。あんな殆ど喋らない幽霊の様なジジイ、最近生まれたばかりの餓鬼に名を奪われそうになっている、ただの死に損ないではないか。
秀之は人見知りする性格ではあるが、結構な腹黒でもあった。ついさっきからは、立派だと思っていた父親の事も『クソジジイ』と思っている。切り替えの早さが自慢だ。

「あぁ…眩しい…っ」

茂る木々を掻き分け掻き分け、曇り空の雲間から僅かな光が注ぐ隠れ庭に飛び出た秀之は思わず手で顔を覆ったが、


「ファー」

と言う奇妙な叫び声が聞こえたので、ビタっと動きを止めた。
キョロキョロと辺りを見回したが、仏の化身…ではなく、つい先刻兄だと判明したばかりの帝王院俊秀(と思われる)男の姿は、何処にもない。そんな殺生な。あの麗しい美貌が見られないなんて、そんなご無体な。

「…あれ?俺の下駄が片方なくなってる」

いや、そんな事はいつもの事だ。秀之は大人しいが大体ぼーっとしているだけので、良く持ち物を失くす。誰かが見つけて持ってきてくれるまで待つしかないが、下駄を片方だけ履いているので歩き難くはある。いや今まで爆走してきた訳だが、そんな事を言っている場合ではない。悩まず脱ごう。

「はぁ、こら…っ、はぁ」
「俊秀」
「や、やめなさい…っ」

何だろう。良く判らないが、大変けしからん声が聞こえてくる。
美しい兄を思い浮かべるだけで荒くなる秀之の息遣いにそっくりな怪しげな息遣いが、こぢんまりした龍の宮の縁側から漏れてくる様な。何故かドキドキが止まらない有様だ。

「逃げられる思たらあかんえ、俊秀」
「逃げるも何も、此処は私の家だ…っ」
「わりかし待ったったやんか?俺が優しい言うたる内に、ほんまのこと話しぃ」
「話しただろう?!私は帝王院、」
「嘘つきは不治の病で難儀やさかい、殺さなあかん。殺すには惜しい面してはるのに、勿体ないわ…」

秀之は恐る恐る、匍匐前進で縁側に近づいていった。
狭くて暗い所を好む秀之にとって、這って進むのは生活の一部とも言える行動だ。ミミズよりもうにょうにょと、蟻よりも俊敏に、秀之は龍の宮の縁側の端に辿り着き、しゅばっと立ち上がって壁に張りついた。ミッションはインポッシブルだ。

「昨夜は腹減ってたさかい黙って寝たったんや。俺がよう知らん男と寝たなんて知れたら、十口に流されるわ。負けて手篭めには箔がつくんに、お前は非力やさかいになぁ。俺に手も出さんし、何考えてはるん?ほんまの目的は?何で昨日、紫陰姉様がお前に宮様言うてはったん?」
「だ、だから私は帝王院俊秀と言う。私の母は冬月羽尺だ…」
「喧しい。嘘つきは嫌い言うたやろ!」
「う、嘘じゃない!」
「冬月羽尺は大殿の奥方や!お子は秀之の宮様や!謀るつもりならイね!」
「ファー」

全く良く判らないが、再び聞こえてきた男の声は、間違いなく俊秀の悲鳴だろう。さっと血の気が引いた秀之は駆け出し、縁側の障子を吹き飛ばす勢いで蹴破った。

「ご無事ですか兄上ぇえええええ」
「…あ?何、えらいせつろしい奴が湧いて出はった」
「ひ、秀之…っ?」
「…あ?秀之て、今度こそほんまもんの宮様?!」

何が一体どうしたと言うのか。
秀之がハァハァしたくなる美しい男が、白い着物をくちゃくちゃにはだけさせて横たわっているその上に、真っ赤な髪の妖怪が馬乗りになっている。何故妖怪だと思ったのかと言えば、ぼさぼさの長い赤毛が顔を覆っているからだ。手入れしていない老いた馬のタテガミよりも、ぼっさぼさなのだ。

「き、」
「「き?」」
「き、ききき、貴様ぁあああああ!!!!!!!!!」

帝王院秀之はこの日、過去最高に大きな声を出した。
怒りで目の前が真っ赤だ。今なら雲隠火霧のデカパイを両手で揉みしだけるだろうし、雲隠霧火のデカケツも揉めるかも知れない。全く同じ日に生まれた双子の様な従姉妹は、当主を決める決闘で殺し合い、片方が片足を失くした事で決着がついたと言う恐ろしい過去を持つ。弱きは滅せよが家訓である雲隠では日常茶飯事だ。

「俺もまだ乗った事がない兄上の上に乗るとは、何をしてくれるかぁあああ」
「「は?」」
「俺がこの場で調伏してくれるわ、醜い妖怪めぇえええ!!!」
「ええい、喧しい!大宮中に響く様な声を出すでないわ、愚か者が!」

秀之が乗り込んだ縁側とは反対側の、正式な出入り口がしゅぱんと蹴り開かれた。
真っ黒な生地に月の様な半月状の刺繍が施された羽織を羽織った冬月鶻が、近年稀に見る恐ろしい表情で仁王立ちしている。

「ふ、冬月主事?!」
「鶻兄者、どうして此処に?!」
「は、はやぶさ…」

毛玉妖怪は怯えた様に俊秀の上から下りると、畳の上でしゅばっと三つ指をつく。
負けず劣らず怯えた秀之も腰が引けたが、俊秀の前で情けない姿は見せられないと気丈に唇を噛み締め、何とか逃げない様に踏ん張った。ほっとした様な俊秀の呟きを聞きつけた男は、ひらりと羽織を翻しながら、草履を脱いでずかずかと中へ入ってくる。

「俺の社に忍び込んだ餓鬼が大宮に逃げ込んだと報せを受けて来てみれば、龍宮警備の雲影が『宮様のお怒りに触れた』と抜かして、めそめそ泣き崩れておるではないか」

ああ、超怖い。
物凄く良い男だが、顔つきが荒んでいる事で知られている冬月鶻は、家が決めた婚約者を初対面で泣かせた事で話題をかっ攫った。彼が苛めた訳ではなく、単に顔が怖かったと言う理由で泣いたらしい。月の宮と呼ばれる氏神を祀る社の氏子で、古くから冬月に仕えてきた草の一族の娘だと聞いているが、字の読み書きが出来て器量も良いと言う。

「雲隠の気違いくノ一が泣き崩れるなど前代未聞だ。天神が見窄らしい餓鬼共を囲い込んで、稚児趣味に興じるのも同じ事だが…」
「…私にその様な趣味はない」
「この状況でその言い訳が何人に通用するか知らんが、頭の固い年寄り共には通じんのは明白だわ」
「誠に面目ない」

娶ってすぐに妊娠した冬月の嫁は、現在毎日祝詞が読まれている月の宮で、厳重な警備に守られて生活しているそうだ。四ノ宮それぞれに恨みを買う理由があるので、無理もない。

「一体、何があった?」
「私が知りたいくらいなのだが…」

恐ろしい鶻の顔を真っ直ぐ見上げた俊秀は、困った様な表情を見せたものの、鶻に怯えた風ではなかった。もう何処まで素敵な方なのだろう、我が君。秀之の息遣いが若干荒くなったが、深々と土下座している毛玉の尻が目の前に見えるので押し黙った。全く無礼な妖怪だ。冬月に平伏して秀之には尻を向けるなんて、どう考えても不敬罪だろう。俊秀の上に馬乗りなるなんて、死んだくらいでは許されない重罪だ。

「ちっ、…いつまで無様な格好で寝転んでいる。襟を正せ」
「すまない」
「冬月鶻ぁ!兄上に向かって無様とは何だ、無様とは!」
「黙れ小僧、頭をかち割ってくれようか」
「ふぁ?!」
「記憶力の悪い脳味噌など必要あるまい?」
「ヒィ」
「…はやぶさ、秀之を苛めるな」

鶻の顔が怖すぎて蓑虫の如く縮こまった秀之に、着物を着つけ直した俊秀が近づいてきて、宥める様に背中を撫でてくれた。鶻の舌打ちがちょっと格好良いなんて思ってしまった数秒前の自分を、ぶっ殺したい気持ちだ。

「あ…兄っ、ハァハァ」
「秀之?どうした、具合が悪いか?ああ、足の裏が汚れているな。待っていろ、拭いてやる」
「ずぴっ」

その迸る優しさにぶわっと泣いた秀之は、じゅるっと迸った鼻水をちゅるんと吸い込み、目を丸めている美貌を凝視する。死に物狂いで凝視するくらいでないと、ちょっと見慣れそうにないからだ。兄の美貌が憎い。
父親もそこそこ男前な部類だと思っていたが、俊秀の前ではくすむ。切れ長の瞳は艷やかな漆黒で、艷やかな髪は癖が全くなく真っ直ぐ伸びており、白い着物と袴が凄く似合っていた。

「はふん。神々しい…」
「大丈夫か秀之、鼻から血が」
「問題ありません兄上、ですが近寄らないで頂きたい。御身を汚しかねない」
「…は?」
「ハァハァ。ああ、やはり兄上は、天の御使いであらせられましょうやら…?」

鼻血が俊秀の着物を汚しては一大事だと、秀之はきっぱり吐き捨てた。
鳩よりも目を丸めている俊秀は動きを止め、未だに平伏している毛玉も置物の様に動かず、俊秀を見つめていたい秀之は両手で鼻血を受け止めつつ兄をガン見だ。見つめていても叱られないと判ったからには、眼球が潰れるまで見つめていよう。

「…鼻から血が出たくらいで死にはせん、捨て置け。そっちの汚い餓鬼は何だ」
「美霧の忘れ形見だ」
「ふん。山篭りの修行から3年経っても戻らん、あの家出娘か。龍雲祭主の娘が、何をとち狂って我が家に忍び込んだ?」
「空腹に耐えられず、あけびをもいでいたそうだ。偶然月の宮に踏み込んでいただけで、悪気はなかったのだろう」
「こんな餓鬼に逃げられる馬鹿も馬鹿だが、こんな餓鬼を庇い立てる貴様も同じ穴だわ」

視界の片隅に辛うじて入っていたらしい冬月の次期当主が、呪いが篭っているかの様な長い溜息を吐いた。

「お前達兄弟が揃いも揃って雲隠の餓鬼を玩具にしたなどと広まっては、犬に祭主の座を奪われた以来の恥だ。今度こそ神在月の召喚がなくなるかも知れんな」
「…出雲に睨まれる様な真似はしていない。悪い冗談はよせ」
「秀之は兄と呼んでおる様だが、何がどうなった?大殿の指示か?」
「判らない」
「何故判らん」
「昨日から視えず聞こえずなんだ。私にも何が何だかさっぱり判らない」
「…何?」

こそこそと顔を突き合わせている二人を見上げたまま、秀之は拳を握り締めた。鼻血が指の隙間から溢れ出た。
とっても羨ましい。俊秀とひそひそ話をしている鶻が羨ましくてならない。でも怖いので言えない。ああ、強い男になりたいものだ。

「いつまで伏せている、雲隠の娘。顔を上げろ」
「お、畏れながら冬月主事様っ、この度は誠に申し訳ありゃしません…!」
「おい。変な言葉を使うな、畏くも次代天神の前だ」
「…天神?あっ、これは秀之の宮様!ご無礼、平に…!」

しゅばっと顔を上げた毛玉が、くるっとその場で翻って秀之に土下座してきた。

「身なりに気を使わない女、初めて見た」
「…昨夜風呂に入ってからすぐに、死んだ様に眠ってしまったからな」
「えっ?あああ兄上と風呂に…?!」
「ん?一人で入らせたが、いけなかったか?」
「いけなくありません兄上!いけないのは俺です!」
「は?」

毛玉の無礼など水に流してやる。彼女のお陰で俊秀と会話出来ている秀之は、兄の様に広い心を持つ優しい男になろうと誓った。見窄らしい妖怪の様な餓鬼でも雲隠の女なら、戦って勝てる相手ではないからだ。

「ああ、皆に茶を淹れよう。桐火は髪を梳いてやるから、こちらにおいで」

俊秀が手ずから淹れてくれたお茶が注がれた湯呑が目の前に差し出されてきた時、秀之は一度死んだ。目の前にお花畑が広がっていたからだ。もう絶対にこの世のもんではない、綺麗なお花畑だった。思わず微笑みが零れてしまい、鶻が変な顔で見つめてくる。

「…」
「桐火?何故黙っている?」
「…俺が変な言葉つこたら主事の迷惑になるさかい。お前は気張ってもてなしなはれ」

然し、我慢には限界があるのだ。

「こんの餓鬼ァ!兄上に向かってお前とは何事だ、お前とはぁあああああ!!!」

帝王院秀之はこの日、腹式呼吸を覚えた。
冬月鶻の般若顔が数倍アップ、再び飛び上がった毛玉がしゅばっと土下座したので尻を蹴っ飛ばしてやれば、

「…秀之」
「何でしょうか兄上!」
「こちらへ来い」
「え?」

美しい俊秀が、凍える眼差しで睨んでくる様な気がする。然し来いと言われたら行くしかない。死ぬとしても行く。何処にでも行っちゃう。

「我が家の仕来りだ。…おなごに手を上げる男子は、大祓詞の言の葉の数だけ尻を叩かねばならない」
「えっ?」
尻を出せ

俊秀以外の全員が尻を出したので一瞬場が凍りついたが、それは問題ではなかった。美しく優しいと思っていた俊秀の尻叩きは、秀之の尻を牛の乳ほど腫れ上がらせたのである。

「うっうっ」
「すまない秀之、強く叩き過ぎてしまった…」
「あっあっ兄上…っ、お代わり!」
「は?」

そして彼は、何かに目覚めた様だ。

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