帝王院高等学校
地獄の中心で魔王と悪魔のワルツ
轟々と。
耳障りな音を発てる業火が捲し立てる黒煙が、空を灰色に染めていく。

『カミュー。ひろにゃりがミミズみたい!』
『Worm(ミミズ)じゃない、Crawling(ハイハイ)だよ。愛らしいじゃないか』
『All right, I think if you are blind?(判った、お前の目は節穴だな?)』

高く遠くへ逃げていく鳥の群れ。
青かった空は不躾な煙に冒され、見る影もない。


「…サニア。私はとうとう君の所へは、行けなかった様だよ」

地上には悍ましい熱波を放つ、紅蓮の炎。
もうもうと立ち上る黒煙に、終わりは未だ見えない。抱え上げた幼子の重みだけが生を実感させたが、『何をやってるんだ』と叱ってくれる筈だった妻は、想像の世界から抜け出してくれはしなかった。

どうして目の前ではなかったのか。
死ぬなら、どうして自分の腕の中ではなかったのか。どうして自分の目の前ではなかったのか。どうして。どうして。
一日の殆どを書斎で過ごした吸血鬼伯爵の最期は、愛する妻の腕の中だったのに。

『サニア。リヒトの子供が産まれたら、旦那様から名前を頂きましょうね』
『OKママ、でもアメリカのグランパも「ワシの名前を一文字つけてくれないと化けて出てやる」って言うの。夢の中で』
『まぁ、夢の中で?』
『もう死んじゃってるのに、どうしたら良いか悩み所だぜ?』

こんな時に思い出すのは、当たり前に続くものだと思っていた穏やかな日々ばかり。

『まぁ、大変。旦那様は小さい頃はリヒトって名前だったのよ。会った事もないけれど、私の大伯父様もリヒトと言うそうよ』
『知ってるよ、ママ。キング=ノアは王様で王子様なんでしょ?』
『ふふ。そう、私はお姫様だったのよ。だから伯爵様が迎えに来てくれたのよ』
『でもパパは吸血鬼伯爵なんだって、カミューが言ってた。ママは怖くなかった?』
『どうして怖いのかしら、私だって狼の娘よ?』
『人狼、カッコイイ』
『旦那様は、誰よりも素敵な王子様だったのよ』
『11歳も離れてたのに純愛なんだ。判るぜ。オレだってカミューと、18歳も離れてっからな』
『Pfingstrose(お花)が咲いたから、そろそろお祭りがあるわね』

薔薇は刺があるから危ないと言って、ラドクリフ=エテルバルドは屋敷中の薔薇を処分した。薔薇も霞むほどの美貌を誇ったリリス=エテルバルドは、薔薇に良く似た芍薬を屋敷中に植え替え、聖霊降臨祭の時期には、伯爵家の周囲に花見客が集まるほどだったそうだ。
キリスト教徒でもない住民まで、誰もが。

『だからザワーブラーテンを作るんだ。肉料理には自信があるんだぜ?訓練で密林キャンプした事もある、ダイビング中に鮫を捌いた事も。海中で内臓引っこ抜いてやったら、大佐に叱られたんだ』
『サニアはお姫様で踊り子なんだから、危ない事をしたら駄目よ』
『はぁい。オレが本気出したら冷蔵庫がフランツの肉で一杯になっちまうから、大人しくしまーす』

何処で計算が狂ったのだろう。

『シュニッツェルも良いわね。ラインホルトのシュニッツェルは、美味しいのよ』
『そうなんだ。今は娘夫婦と暮らしてるんでしょ?お願いしたら、作ってくれるかな』

いや、やはり後悔していたからだろうか。
恐ろしい計画を企て、理性のある人の道から外れる真似をした自分に、これが下された天罰なのだろうか・と。


「…虚しい」

小さな。本当に小さな子供だったのだ。
まるで乳飲み子を隠す母猫の如く、宝物の様に抱き締めた温かい体から安らかな寝息だけが聞こえてくる。

「虚しいものよな、カミュー=エテルバルド」
「君は…」

生きているから温かい。計画通りに事が運んでいたなら、今頃この子は、冷たくなっていたのだろう。

「見るが良い、断罪の聖火が燻っているぞ」
「…無事だったか、白燕」
「汝、何処へ逃げるつもりだ?」

いや、形すら残っていたかどうか。
そう改めて考えた時、すぐ目の前で恐ろしい豪炎を放ち続けている事も忘れるほど、背筋が凍った。

「…逃げるつもりはないのだよ。計画は失敗した」
「汝が仕込んだものではないと?」
「私が仕掛けたのは、東西南北に4発のMOABだ。…君なら判るだろう、あれが点火されていたらこの程度では済む筈がない」

だからと言ってやはり間違っていたのだと、今更どの口が言えると言う。結果的に描いていた計画が破綻しただけで、完全な地獄が不完全な地獄へと塗り変わっているだけだ。どう転んでも、今の状況はハッピーエンドではない。

「ならば宣うか。この期に及んで、我らと同じ事を企てた馬鹿が存在したとでも?」
「…直ちに探らせているが、連鎖式の小型爆弾だろうと言う推測は可能だ。火の周りが早いだけで、爆破の規模は小さい」
「…つまらん真似をする。どうせなら、プルトニウムにでも落とせば良いものを」

最後の日だと判っていて、アジア最大銀行の頭取は安い酒でも飲んでいたのだろうか。
アメリカに居る筈がない中国の覇者は、興醒めしたと言わんばかりに無気力な眼差しで、燃え続けている建物を見上げている。

「ああ、あの部屋だ。たった今、炎に巻かれて見えなくなった」
「部屋?」
「汝が集めた鉢植えを肴に、我は真っ赤なワインを飲んでおったのだ。この炎より濃い、深紅の酒を」

逃げる気力も、体力もないのだろうか。
いつもは緑掛かったヘーゼルの瞳が、今は僅かに赤味を帯びている様に見える。炎の所為か、それとも。

「我は、朱花の全てを持って来ていた。写真も形見も、あれを愛した我が身も、共に燃え尽きる計画だったろう?」
「…」
「カミュー。我の目は今、何色をしている?」
「少し、赤い」
「…そうか。悪趣味な馬鹿共が挙って欲しがる大河の目は、まだ我を忘れてはおらんらしい。それとも、我はとうに狂っておるのだろうか。我が子を手に掛け損ねた、あの瞬間に」

男の足取りはフラフラと揺れていて、見ているだけでも危なげだ。

「今度こそ共に死ぬつもりだったのに、…何故こうなるのか。虚しくて虚しくて、笑えてくるわ」

それでも彼が生きているのであれば、誰かが彼の死を望まなかったと言う事だろう。例えば自分ですら、意図しない爆発が息子のすぐ間近で起こった瞬間、脳裏を過ったのは『死にたい』ではなく『助けなければ』だったのだから。

「勝手に我を救い出した気になっておる王蒼龍が、先程祭楼月を捕らえてきた。そっちにくれてやろうか?」

中国で最も恐ろしいと謳われる男ですら、妻を失えば理性をなくしてしまう。だから『仕方がない』のだと可哀想な自分に理由をつけて、罪のない人間まで巻き込んで、ただ八つ当たりをしていただけなのだ。

「…王蒼龍?君の従弟は死んだ事になっていたのではないのか?」
「謀反を企んだ実弟の黒龍をその手で殺し、自ら死のうとしたただの馬鹿だわ。勝手についてきておったらしい」
「君ほどの男が背後を許すなんてね」

それほど弱っていたのだと、わざわざ指摘してやる必要はないだろう。誰が見ても明らかに大河の王は生きる気力を失っていて、だからパーティー会場には姿を現さず、今の今まで一人で隠れていたのだ。

「爆破の直後、異変に気づいた彼奴が慌てて姿を現し、我を軽々抱え上げてくれたわ。…余計な真似をする。利用価値があると思って生かしておいたが、間違いだった」
「身内を殺すのは難しい。だから私も間違ってしまった。シチリアと繋がりがあったフランツ=エテルバルドを、もう少し注視するべきだったのに…」

腰に差していた鉄の扇をふらりと持ち上げた男は、然しすぐに腕を下ろした。持ち上げる力も残っていないのだろう。恐らく、死ぬ気力も尽きた。

「…首を刎ねてやろうとしたが、この様だ。我は死ぬ覚悟をした日に、殺す力を捨てたらしい」
「君も早く安全な所へ。私のMOABは誤爆や連爆の恐れはないが、今も時折爆発している所を見るに、私が仕掛けた数より遥かに多い爆弾を仕掛けてくれているのだよ。間もなくこちらにも、火が回るだろう」
「楼月は馬鹿だが、臆病な小心者だわ。あの男に、己諸共爆破する覚悟はない」
「全くの無関係かどうかは、すぐに判る事だ。結果はどうあれ、君の手駒の始末は君に任せる。…私が殺したいと思っているのは、涼女の命を奪った者達だ」
「く。くっくっく。笑わせてくれよるわ、カミュー=エテルバルド」

幽鬼じみた表情で、大河白燕は肩を揺らす。

「貴様の妻を殺したのは、貴様の伯父が手配した馬鹿共なのだろう?」
「…」
「我はとっくに知っておるぞ。…貴様は伯父所か、エテルバルド一族を全員殺したのだろう?ラドクリフ=エテルバルド伯爵が飼い慣らしていた吸血鬼の眷属共が、片っ端からドイツ軍に拘束されたと言うではないか」
「…さぁ、何の事だろうね」
「療養中のリリス=エテルバルドに仕えていたメリッサ=シュプリンガーと、ベルリンで最も有名な料理人、ラインホルト=ゲーゲンバウアーが、フランツ=エテルバルドの殺害を自供した。然し両名共に80代の高齢だ。出来る筈がない」

鳥さえも逃げていってしまった空には、黒煙が生み出した悍ましい灰色の雲。

「然し不思議な事に、ラインホルト=ゲーゲンバウアーの別荘の焼却炉から、フランツとその妻と三人の子供達の骨が見つかった。そしてもう一人、エテルバルド家に仕えていた筈の執事のものと思われる衣服の残骸も」

天国でも地獄でもない大地の上には、火の粉だけが降り頻る。

「ステルシリーの力を行使しようと、伯爵家の一族が綺麗さっぱり消えれば騒がれない筈があるまい。綺麗さっぱりだ。ラドクリフの6人居た兄弟姉妹、その子孫まで一人残らず同時期に姿を消した。誰が考えても不自然だろう?」
「私が殺した。…そう言えば、満足かね?」
「我を見縊っておるのか、男爵の犬よ」

死んだのだ。一匹の鳥が。
吸血鬼の家へ嫁いできた快活な鳥は、夫を亡くし歌わなくなった女の元へ度々訪ねて行っては、彼女の歌を強請った。

『リヒト。サニアが昨日も今日も来ないの。私の可愛らしい娘は、まだ寝ているのかしら』
『涼女は死にました』
『そんな訳ないわ。私が歌って、サニアが踊るのよ』
『…もう、彼女は此処へはやって来ません。父上と同じ所へ召されてしまいました。死んでしまったのです』
『リヒト。誰が私の娘の翼を折ってしまったのかしら』

彼女は狂っていた。
母を失った瞬間に自分を殺し、夫を亡くした瞬間に母である事も忘れてしまった。リリスが愛していたのは彼女の母親と、彼女の夫だけだったと思っていたけれど。

『答えなさい、リヒト=グレアム』

それでも彼女は時々、酷く理知的な表情を窺わせた。狂っている真似をしているだけなのではないかと、思わず疑うほどに。

『私のサニアを殺した者の名を』
『フランツ、エテルバルドです』
『…そう。あの方は、そんなにアウグスブルクが欲しかったのね』
『全ては私の油断が招いた事態に他ならない。申し訳ありません』
『伯爵が言った通りだったわ。エテルバルドは最後まで、私達を家族とは認めてくれなかったのね』
『母上』
『…知っていたかしら?』
『何をですか?』
『リヒテンシュタインと名づけた貴方の名前を、伯爵はどうしてカミーユに変えてしまったのか』

リリス=エテルバルド。
彼女の母親の名は、リリア。それ以外の名前を持たない、天涯孤独な娘だった。一匹の狼に守られていた彼女は、冬の寒い日に教会で保護されたそうだ。彼女を守っていた狼は、赤子を襲っていると勘違いした人間から、射殺されてしまった。

『私のお祖父様はリヒャルトと言ったそうよ。狼の娘の名前は、男爵の弟が名づけたの』
『…母上?』
『そして彼の兄は、リヒト=グレアムと言ったの。ふふふ。だから伯爵は沢山悩んで考えた名前をやめて、部屋に飾っていたクロード=モネの絵を見て、カミーユと名づけたの』
『モネの絵?』
『モネの最初の妻は、カミーユと言う名前だったのよ』

彼女の奏でる声はいつも歌う様に、海沿いの療養場の風に吹かれていたけれど。その日だけは、海も風も凪いでいただろうか。

『後は私に任せなさい。私はフォン=シュヴァーベンの妻、リリス=エテルバルド』

まともな母親を見たのは、恐らくあれが最後だ。
彼女はいつも、息子の妻の前だけは歌姫リリスだった。踊る小鳥の前で心地好く歌う時だけ、母を失って心を病んだ少女ではなく、母だったのだ。

『…小さいリヒトの所へ帰りなさい、リヒト。貴方の宝物はもう、あの子だけよ』

そして彼女は鼻歌を奏で始めた。
またいつもの狂った状態に戻ってしまったのだと、どうしてあの時、もっと注意して窺わなかったのか。
判っていただろう。彼女は、リリス=グレアムなのだと。


「…殺したのは私だ」
「ふん、いつまでシラを切るつもりだ」

妻は母の歌を愛していた。
軍隊に入隊し切磋琢磨した過去を持つ無骨な女は然し、陽気なアメリカ人そのものの気質で、レゲエやジャズを好んでいて、何かにつけて踊る事が生活の一部だった。

「藤倉涼女の葬儀に汝の姿はなかったと聞いている。あの場にいたのは、汝の屋敷に仕えていた執事とメイド、招かれたエテルバルド一族全員と、喪主を務めたリリス=エテルバルドだ」
「大河白燕。君の勝手な妄想に付き合うつもりはないのだよ」
「葬儀の案内状に書かれていたサインは、『リリア』ではなかった。リリス=エテルバルドは何かにつけてリリアと名乗り、気が狂った女として知られている」
「私の母を侮辱するつもりなら、相応の報復を覚悟するのだね」
「女が書いたサインは、ヨハネス=ブラームス」

鎮魂歌を、彼女は歌ったのだろうか。もう二度と踊れない娘の為に。

「まぁ、良い。全ては炎の中だ。楼月が何を企んだかは知らんが、最早何の興味もない。虚しさが身を喰らい尽くした」

夫を亡くしてからは息子が懇願しようと決して歌わなかった歌姫は、一匹の鳥が囀ると、つられた様に歌う事を思い出して。彼女が快活に踊る姿を見つめる事が、何よりも好きな人だったから。

「殺し損ねた馬鹿は、我の姿を見て腰を抜かしおった。潔白を証明するなどとほざいて、今頃言い訳作りに飛んで行った頃だろう」
「…何だ、君こそこんな所で道草をしている場合ではない様だね」
「音が…」
「音?」
「耳にこびりついて離れようとしない」

辛うじて人の形をしている幽霊の様な表情の男は、何処かくすんだ緑色の瞳を細めて。この世ではない何処かを見ている様に思える。

「…祖母は歌う事が好きだった。お会いしたのは亡くなる寸前。我はまだ幼く、残る記憶は余りにも頼りない」
「帝王院雲雀か。藤倉博士から伺った事がある」
「…息子を手放し、妻の喪にふくす事もなくこの日の為に生きてきたつもりだったが、…今になると我は、何がしたかったのか判らない」

幼い頃から何度となく命を狙われてきた男は、身内と呼べる人間も信じていない。だから従兄弟従姉妹を簡単に殺し、恐怖で支配する事で、野望を抱かせない様に生きてきたのだろう。
判っている。自分も似た様な地獄で育ってきた。ほんの一握りの違いと言えば、両親が寿命を全うしてくれたと言うだけ。母はまだ生きている。若くして精神を病み、今ではまともな会話すら難しい状態でも、リリス=エテルバルドは健在だ。

「汝はその子を、最後まで手放さなかった。我とは違う」
「…」
「我は殺し損ねた朱雀を捨てた。…性格が朱花に良く似ているのだ。烈火の如く怒っておろうな、我の面など見たくもないだろう」

母親を殺され、他人を尽く排除してきた大河白雀の庇護の元。息子の為に殺す事を躊躇わず、息子の為に莫大な財産を築いた中国の王に育てられた男もまた、父親と同じ人生を歩いてきた。まだ30代だとは思えない窶れた表情は、絶望に慣れていたと思っていた王が、真の絶望を知ったからだろう。
まるで鏡だ。きっと自分も、彼と同じ表情をしていたに違いない。この腕に、温かい宝物を抱いていなければ。

「最後に聞いた音と歌は、お祖母様と同じ日本人ものだった」
「高野健吾の事を言っているのか」

ちらりと目を向けた先、眠る息子が『助けてくれ』と言った相手の事だ。どんな手を使っても助けなければならないが、救急隊の様子では最悪の事態が考えられる。今は祈るしかない。
跪くべき男爵の目を盗み、勝手な真似をした処分が下されなければ、ステルシリーが手を貸す事は難しいからだ。今はまだ特別機動部長の肩書きが、辛うじて残っているだけ。

「我らの下らん計画に巻き込まれた、無実の少年だ。あれを失う事は地球の損失にも等しい事ぞ」
「君がそこまで評価するとはね」
「我は妻の元へ戻る。焼かずに残しておいた体を、供養してやらねば…」
「…判った」
「頼むぞ、神の従者よ」

出来ない約束をするべきではないと判っていた癖に、これ以上、哀れな男を絶望されたくなかった。彼は自分なのだ。もし選択を間違えていたら、腕の重みはなかったかも知れない。そう考えると恐ろしくて堪らないのだから、大河白燕もそうだろう。
失望は虚無感と寂寥を呼び、絶望し尽くした体を今も、じくりじくりと食み続けている筈だ。


「…頼む、か。死ぬつもりだったのに、私は二度も頼み事をされてしまったよ、リヒト」

彼の台詞が体の奥底に燻っている。
何がしたかったのか、たった一晩でもう思い出せもしない。恐ろしい計画を立てた筈だ。それはどんな計画だったのか、ああ、焼き払われていく豪華な屋敷から立ち上る黒い煙が、空を霞ませているのが見える。映画のワンシーンの様だと、他人事の様に。

「閣下、畏れながらご報告が」
「どうした?」
「発破に使われた爆薬の残骸を調査しました所、同様の起爆装置を持った子供を捕縛しました」
「子供?」
「ごめ、ごめんなさい、ごめんなさい…っ」

神よ。
此処は既に、地獄の底だったのか?愚かな真似を企んだ反逆者の元へ主は、既に裁きの鉄槌を下されていたのだろうか。

「君は…」
「ごめんなさい…!」

腕に抱いた宝物を、隠す様に力を込めた。自分はもう良い。絶望なんてものには慣れ過ぎている。けれどこの子は、まだ4歳なのだ。
4歳。そうだ、素晴らしい演奏で人々の喝采を浴びた快活にして聡明な少年も、4歳だった。死ぬつもりだった癖に、彼をスカウトしたいと思った事もあっただろうか。初めて名刺を渡した時、彼の父親は笑いながら『余所を当たれ』と歯牙にも掛けなかったけれど。

「今回の件に祭家が関わっている事がこれで判明されました。奴らを捕縛し、取り調べましょう」
「おやおや、勝手にターゲットを横取りされては堪りませんねぇ」

やはり此処は地獄だったらしい。
見ろ、悪魔がやってきた。幼い子供の顔をした、神の子の飼い猫が。

「私用で部員を時間外拘束し、栄えあるアメリカ大統領府功労者出席の場で騒動を起こした件により、畏れながら、特別機動部コード:ネルヴァ閣下のご同行を願います」
「下がれネイキッド!貴様、マスターネルヴァに向かって何様のつもりだ?!」
「本件は中央情報部副部長、イクス枢機卿もご存知ですが?」

眼帯で片目を隠している子供は、赤い唇を吊り上げた。年末に5歳になる息子とは、たった2歳差とは思えない振る舞いに、部下達が怯んでいるのが判る。
イクス。十番目候補として名づけられたそのコードは、殆どの社員にとってはノアに等しい意味がある。効果的な言葉を合理的に選択し提示するネイキッドに対して、これ以上の抵抗は無駄だ。

「私は何処にも逃げやしない。ただ、この子は無関係だ。ステルシリーでもない」
「そうですねぇ。ご子息は掠り傷の様ですが、怪我もしていますし」
「…怪我?」
「気づきませんか?血の匂いがします。お子さんを病院に預けるまでは待ちますが、下手に引き伸ばされるのであれば、組織内調査部へ報告しますよ」
「私が信じられないのであれば、監視してくれても構わない。仮とは言え、君も我が部署の社員だ」
「おや、話が判るマスターで助かりました」

何処へ行っても同じだ。妻が居た世界はもう何処にも存在しない。

「ではそっちの汚い餓鬼は、私が預かって技術班のモルモットにするなり、枢機卿の遊び相手にするなり、判断を決める事にします」

目の前には黒羊が飼い慣らした黒髪の悪魔。その若さで人工角膜を移植した変わり者は、死を恐れていない。

「ほら、特別機動部は現在マスター不在な訳ですから、構わないでしょう?」
「好きにしてくれ」
「ご安心を。閣下の大事なご子息には、二度と近寄らせませんので」
「…君がそう言うなら、確かに安心なのだよ。では行こうか、ネイキッド」
「ええ、清潔で安心な病院へ行きましょう。消毒液の匂い、結構好きなんですよ」

ほんの些細な光明は、息子を預けた病院の手術室がまだ動いていた事だろう。
緊迫した表情で駆け回る医者達は事の重大さを教えてきたものの、まだ生きていると判っただけで、幼い息子との約束を果たせるかも知れないと思えた。

変な話ではないか。昨夜までは死ぬつもりだった癖に、今日は、何と言う馬鹿な事を口走りたくなるのか。この世界にもまだ希望は残されている。などと、嘲笑じみた事を宣った所で、世界を許すつもりなどない癖に。

名前のまま、鳥の様に自由だった若い女に捕まった。そして捕まえた。

随分早くに亡くした父親の記憶はほんの僅かだったけれど、あの男も同じ様な事を考えたのだろうか。
ナチスの独裁者が、娶ったばかりの妻と共に自殺を図りベルリンが自由に歓喜しても、アウグスブルクの屋敷から決して離れなかった。肩書きだけのフォン=シュヴァーベン、実の兄から伯爵の位を奪った庶子。

ラドクリフ=エテルバルドは、ただの一度として海を渡らなかった。生まれてから死ぬまで、恐らくドイツから出た事がない。
若い頃に、ほんの数年イギリスの劇場で歌を歌っていた事があるだけの、貴族とは名ばかりの娘を娶った『吸血鬼』は、エテルバルド家歴代当主の中で唯一、子供を一人しか作らなかった。それなのに妻は生涯一人きり、好色が多い貴族の中でも極めて珍しい存在だったに違いない。彼の傍に在る事を許されたのは、リリス=エテルバルドだけだった。

結婚前には既に心を病んでいた女だけが、バンパイアの心を射止めたのだとしたら、やはり血は争えないのだろうか。
結婚するつもりがなかった自分がたった一人、サニア=フリードと言う軍人を愛してしまった様に。授かった一人息子だけがその証であるなら、自分に残された宝はもう、それしかないと言う事だ。どうして一緒に連れていこうなどと考えたのか。言葉を偽っても、結局は殺そうとしただけだ。

寸前で思い留まった大河白燕は『羨ましい』と言ったが、正しかったのは彼だった。今の自分がその証明に他ならない。復讐を果たせなかった事を悔やむ気持ちよりも、息子が息をしている事に安堵している。他には何も考えていない。
焼け落ちていく建物の様に、燃え尽きてしまったのだろうか。地獄の業火の様な炎を背景に足音もなくやってきた眼帯の悪魔は、6歳とは思えない大人びた笑みを浮かべている。己と年頃の変わらない子供が、生死の境を彷徨っている手術室になど見向きもしない。

「ご子息は多少出血が見られましたが、軽傷でしょう。処置はすぐに終わると思いますが、念の為、入院の手続きを取らせています。貴方は暫く、此処へは戻れないでしょうからねぇ」
「…誰が手配を?」
「区画保全部ランクBサブマスター、コード:サムニコフが技術班副班長コード:アルデバランと共にこちらへ向かっています」
「サムニコフが?」

何故、区画保全部員が外出するのか尋ねれば、悪魔は笑みを深めた。ただでさえ使い辛い子供は使い辛いだけに有能だったので、特別機動部で監視していたのだ。

「特別機動部長の不祥事など前代未聞なのでねぇ、事実上、私以外の社員全員に共犯の嫌疑があるのですよ」
「今回の件は全て私の独断によるものだ…と言った所で、証明する材料にはならないだろうね。…成程、サムニコフはアルデバランの監視役か」

産まれてくる筈がなかったキング=ノアの子供が、神の悪戯の如く産まれた様に。ステルシリーには時々、人知を絶する奇跡が起きる。

「ご明察の通りです、マスターネルヴァ」

生後間もなくから、歩き始められる様になるまで、狼の様な犬に育てられた娘が存在する様に。人の想像が及ぶ範囲の狭さたるや、如何ばかりか。

「本来は対外実働部か組織内調査部にお願いしたい所ですが、どちらも、イクス枢機卿の権限では回線を開く事が出来ません」
「…そうだよ。権限差異がなく、常時回線が開放されているのは、その職性から中央情報部と区画保全部だ。私は君にそう教えた」
「ええ。ですから、サーバー管理室から出る事がまずない中央情報部ではなく、比較的身軽な区画保全部に協力を仰ぎました」

つまらない計画を立てた。
世界への報復と共に、世界を見捨てる計画だ。完全に失敗したと言わざるを得ないだろうが、失敗したのは自分がまだ生きていると言う事だけだろう。

「中でもサムニコフは、ライオネル=レイ枢機卿がスカウトした方だそうですねぇ」

優秀な悪魔。
恐らくいつか、この少年に役目を明け渡す事になるだろうと。早い段階で思っていた。それが今日になるかどうかは、神の采配に委ねられる。

「ネイキッド。君はまだ私の部下なのだよ」
「仰る通りです。今はまだ」
「息子の事を頼まれてくれるか」
「畏まりました」

世界は無慈悲だ。後悔を思い知る前に消えてなくなっていれば、不安など抱かずに済んだ。昨夜まで、自分の手で殺そうとした息子の事だけが唯一の心残りだ。後悔はそれだけ。やろうとした事に悔いはない。
そう思わなければ、こんな馬鹿な男に踊らされてくれた義理の弟が、余りにも哀れではないか。まだ謝ってもいないのに。

「これで心置きなくセントラルへお戻り下さいますよねぇ、マスターネルヴァ?」

但し、ノアの前に立って尚、生きていればの話だ。

←いやん(*)(#)ばかん→
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