帝王院高等学校
天才に遭遇したので戦いましょう!
『何カリカリしてるんだ。いつまで経っても余裕がない女だな』

それがほんの軽口だと判っていた癖に、聞き流せなくなったのはいつからだっただろう。見た目とは裏腹な子供っぽい性格は照れ隠しだと、知っていた筈なのに。

『…貴方には余裕だけはあるのね。いつだって馬鹿みたいに能天気で、羨ましいわ』
『何に苛々してるか知らないが、日本に帰ってきた時くらい肩の力を抜けないのか』

自分の様なつまらない平凡な女が生んだ赤ん坊は、まるで天使の様だった。
それが何の不安もない普通の幸せだったら、毎日ひたすら子供の様に、騒いで笑って生きられただろうか。

平凡な女が生んだ赤ん坊は、一人座りが出来る様になると間もなく、玩具のオルガンやオカリナに興味を示した。
子煩悩なのか精神年齢が近いのか、生後一日目から親馬鹿宣言をした父親は、物怖じしない乳幼児に鍵盤のフィンガーポジションを教え、音階を教えた。言葉も喋れない、やっと首が据わってハイハイを始めたばかりの赤子に・だ。
始めの頃は力一杯両手で鍵盤を叩いたり、オカリナの穴も塞がずに力一杯吹いてはキャッキャと笑っていた赤ん坊は、いつからか『聞こえている音』を奏でる様になっていた。それが判った切っ掛けは、鼻歌を歌っていた母親と同じ階調で鍵盤を叩いた赤ん坊の隣で、天才と呼ばれている父親が『こいつは天才だー!』と叫んだ事からだ。抱き上げられて天才だ天才だと担がれた赤ん坊は、ひたすらキャッキャと楽しげに笑っていた。

初めて覚えた言葉はCdur、一歳になる頃には日本語とドイツ語と英語を理解している様だった。
知らない内にポルトガル語、フランス語、スペイン語まで喋っていた時は流石に呆れたものだ。本物の天才だと皆が持て囃しても、母親としてはどれほど複雑な心境だったか。無邪気な男達に、この難しい気持ちは一生判らないだろう。

トンビが鷹を。
そんな皮肉など幾らでも笑い飛ばそう。出産直後は毎日が地獄の様だったから、天才と呼ばれている男が『俺の息子は天才なんだ』と誰かに自慢する度、幸せで堪らなかった。そうだ、この子は彼の子だ。不安に感じる事なんて何一つない。



『輸血が必要です』

天国が地獄へ変わる瞬間は、どうしていつも急なのか。






幼い頃には純粋だった夢が、いつの間にか野心じみていて。
いつからか『どんな手を使っても』と言う執着に変化してた頃には、男の価値は権力だと信じきっていただろうか。自分の才能の限界になど、他の誰でもなく自分こそ、とっくに気づいていた癖に。

父方の祖父が東海地方では多少知られていた名主の家だったり、国内では最難関の音大に現役合格してすぐにコンクールで賞を取ったり、そんな小さな偶然の連続で幸先の良いスタートを切った気になって。井の中の蛙は大海を思い知る。
自分は天才でも何でもなく、小さな島国でほんの少し持て囃されていただけの、極平凡なピアニストだった。でもそれを認めきれなかったのは、本当はバイオリンの方が好きだったのに、諦めてピアノに変えたと言う子供の頃の挫折が心の何処かで燻っていたからだろう。

特に管楽器が好きだった。弦が小刻みに震えて奏でる繊細な音が旋律になる瞬間、それが自分の手で奏でた音だと思うと、何とも言えない気持ちになる。
若くして一代で会社を興した父は、一人娘を甘やかし、あれやこれやと習い事をしたがる娘を一度として否定しなかった。最初はバレエ。ほぼ同時にピアノ。それからすぐにバイオリンに興味を持って、小学校へ上がる頃には近所で評判の才女の出来上がり。
中学へ上がる前にバイオリン教室を辞めたのは、「ピアノ一本に絞りたいから」などと言う表向きの理由などではない。ただの負け惜しみだ。同じ教室に通っていた内の一人が自分より遥かに綺麗な旋律を奏でていたから、絶対に勝てないと感じて逃げ出しただけ。

幸いにもピアノ教室では一番だった。
結婚する前はプロのピアニストだったと言う母よりずっと年上の女性は、他の生徒には厳しかったが、自分には初めから優しかった。

『まぁ。もうそこまで弾ける様になってしまったの。貴方に教える事は何もないわ』

中学・高校時代にコンクールでもぎ取った賞状とトロフィー、いつか海外へ飛び立つに違いないと過剰な自信を抱いて、ピアノの腕を磨く傍ら、語学勉強にも力を入れた。近所で有名な才女は県内有数の進学校でも有名な才女へ成り上がっていき、最難関の国立音大への現役合格を果たすと、そこからの4年間は、技術よりもプライドを研ぎ澄ませた。敵など何処にも居ない。同世代の誰よりも、自分の両腕が生み出す音が美しいと信じきっていた。
技術と自信と多少の幸運で切り開かれた海外への切符を手に、大学卒業と共に祝福が待つ世界へ羽ばたけば、そこに用意されていたのは『現実』と言う名の地獄だけ。

それでも、22歳まで鍛えられた自尊心は頑なにしがみついた。世界に認められる音楽家になる夢は、ほんの数ヶ月で執着じみた強迫観念に変わってはいたけれど。本物のプロの世界に通用する技術はなくても、女には若さがあれば上等だと宣う男は少なくなかったから。
この腕が通用しなくてもこの体が通用するなら、寧ろ僥倖ではないか。二度目の挫折から目を逸らして、逸らして、辿り着いたのは地獄の何処か。そこが地獄である事も忘れた麻痺した頭は、自尊心を満たしてくれる男を物色する目を養っただけ。弦が奏でる旋律になど、もう興味もなくなっていたに違いない。

綺麗な音が好きだった。
綺麗な音を奏でる時、自分には生きている理由があるのだと強く実感した。全て過去の話。広い海を知る前の、世間知らずだったいつか。



「羽田佳子。君と同じ日本人」
「ふーん」
「…他に言う事は?」

初対面で悪びれず宣った若き天才指揮者は、もう思い出す事もなくなっていた『狭くて小さな島国』から、いつか憧れた『祝福された世界』に辿り着いた本当の成功者だった。声を聞く前までの第一印象は『特上』だっただろうか。才能も地位も名声も見た目も、全てがA判定だったのに。

「ぶっさいくな面で鍵盤叩いてる女だなぁ、とか?」
「な、んですって…?」
「省吾、今のは日本語かい?意味は判らなかったけれど、知らない方が良いんだろうって事は彼女の表情で判ったよ」
「本当にまだ二十代かよ。変な愛想笑い貼りつけてっから皺が寄るんだ、ちゃんと毎朝鏡見ろよ?」

当時パトロンだった男の紹介で訪れた楽団のオフィスで、当時最も若かった日本人は、三十代の若さでコンサートマスターと呼ばれていた。
有名だったからこそ名前だけは知っていたものの、元はピアニストだったのに業界で最も有名な男へ師事してから、バイオリニストに転向した数奇な経歴を持つ男だ。良い意味でも悪い意味でも話題に事欠かない異端児だったが、独立すると同時に何故か師匠からタクトを受け継いで、指揮者として劇場に立った。
高野省吾のピアノを聞いた事はなかったが、バイオリンの腕はプロの世界でも十分通用するレベルだった筈だ。それこそ天才と呼ばれる程ではなかったにせよ、世界最高峰の指揮者が自分の楽団で抱えて育ててやるくらいだった筈なのに。

「今のは何て言ったんだ省吾?」
「サイモン、知らない方が良いんじゃなかったか?…で、何でお前は俺の仮住まいに勝手に女を入れてんだ」
「漸く借り上げたオフィスに住むな」
「仕方ねぇだろ、ヘンリーに三人目の餓鬼が出来たり馬鹿高い譜面とスーツを何着も買う羽目になって、何かと入用なんだ。この期に及んでホテル暮らしは無理」
「ワーグナーが壊したトランペットを、君が買い換えてやったと聞いたけど?」
「そんな話は知らねぇなぁ」

どんな人柄なのだろう、目の前で見る彼の指揮はどれほど『異端』なのだろう。前の晩は気が高ぶって眠れなかった。約束の時間より30分も早く到着してしまって、わざわざ3ブロック先まで5往復もしてしまった。

「勝手に俺の譜面使わせるな、見られたくない落書きとか色々あるんだぞ」
「子供じゃないんだから仕事道具に落書きをするな」
「仕事の話をしようじゃないかサイモン、君は俺の親じゃなくエージェントだ」
「…彼女はプロ7年目のピアニストだ」

約束の時間になってオフィスのドアを潜れば、出迎えてくれたのは白人男性だけ。とりあえずそこの譜面を弾いてくれと言われるままに、即興演奏を披露している最中に『それまだ完成してないから弾くなっつったろ!』と怒鳴りながら入ってきた男こそ、数々の業界紙を賑わせているアジア人指揮者だったのだ。

「アメリカを中心に、上海やベルギーでも公演経験がある。日本語、英語、ドイツ語、多少のフランス語も出来るそうだ。凄いな」
「…おい、昨日お前はジミーを紹介するって言ってなかったか?」
「省吾、一応商売敵なんだから名前くらい覚えておけ。彼はジミーじゃない、ジェームズ=デビッドソンだ」
「どうせあだ名はジミーだろ?地味なショパンばっか弾いてる根暗野郎に決まってる」
「そんな事まで知らないよ、直接会った事もないのに。私は君が雇ったエージェントで、君が人手を求めていたから伝手を頼って声を掛けただけ。私が知っているのは、ジェームズのオフィスの電話番号と彼のホームページアドレスだけだよ」

経歴が経歴だけに業界人には嫌われている様だったが、彼のコンサートは公園が決まる度にチケットが飛ぶように売れると言う話もまた、有名な話だ。彼を嫌う声の大半は、嫉妬によるものだと誰もが判っている。バイオリンでは天才ではなかったものの、指揮者として彼は本当の天才だった。彼が突きつける指揮棒のままに音を奏でれば、凡人も天才と謳われるのだ。

「この俺を差し置いてホームページだと?」
「相変わらず悔しさを少しも隠さないね君は」
「どうせ『弾いてみた』なんてタグづけして、チャラついたアレンジ演奏なんかの動画で話題さらってんだろ」
「随分具体的な台詞だが、彼のホームページを見た事が?」
「今から俺の動画を撮ってアップしろサイモン、タグは天才がフランスパン振ってみただ。さっき買ってきた」
「成人男性が遊んでいる動画を私に撮影しろと」
「俺の息遣いとかパンが宙を切る音とか、その辺の音を何となく劇的に拾え」
「今すぐ契約終了したい気分だ」

誰もが彼の指揮で演奏したいと思っている癖に、然し彼の指揮に従う難しさも理解していて、だから自ら名乗り出る者はいない。天才指揮者が抱える楽団は常に人手不足の様だ。だからこそ、『君に良いオファーがある』と言われて、色褪せていた世界が一気に色づいた気になった。

「そもそも、ジェームズの紹介でピアニストが来るとは言ったけれどね、彼自身を紹介するとは言っていないよ。いい加減、正しい英語を覚えてくれないか」
「聞き取れるんだから上等だろ」
「聞き取れてないから勘違いしたんだろう?」

愛人紛いの生活ばかり続ける中、満足にピアノに触れる事もなくなっていた頃に降って沸いた話で弾んでいた気持ちは、エージェントと英語とドイツ語が混ざった奇妙な会話をしている男を見ている内に、どんどん色褪せていく。
勘違いしていた様だ。オファーなどではなく、世界で最も難しいオーディションだった。
君の為に仕事を持ってきてあげたよと言わんばかりに、恩着せがましい態度で久し振りに連絡を寄越した男は、『運が良ければ高野省吾に恩を売れる』と言う下心があったに違いない。そろそろ抱き飽きた愛人を捨てる理由にも、丁度良かった。親しみ易い人柄で知られているアメリカ人ピアニストは、若いアジア人が好みな変態としても知られている。

「俺は即戦力が欲しいって言ったんだ。ピアノがないクラシックなんて炭酸が抜けたペリエだって、ワーグナーが煩いから…」
「ただの水って事だね。サックスとバイオリン、チェロ、君のファミリーは偏りすぎだよ」
「雇ってもさっさと逃げちまうんだ。好きで偏らせてる訳じゃない」
「次にまた君が途中で指揮を中断してピアノを弾いたりしたら、今度こそオーストリア入国禁止だろうね」
「…俺のピアノはそんなに酷いか?」
「私は好きだよ。酒を飲んでいる時に聴くと、酔いが早く回って得した気分になる」
「バイオリンにしとけば良かった」

馬鹿みたいだろう。
余す所なく経歴を書き連ねた履歴書を、天才はただの一度も見ようとしなかった。所詮凡人が焦がれる天才には、足元の蟻と然程変わらないのだ。目の前に居ても居なくても認識する必要すらない、70億人の中の一人に過ぎない。
馬鹿みたいだ。他人の力に縋りついて、しがみついて、自分の腕で勝負する事をとうに放棄したプロなんて自分だったら絶対に使わない。まして雇用主が本物の天才なら確実に、最低条件は『自分に自信があるプロ』だろう。どうしてこんな所までのこのことやってくる事が出来たのだろうかと、恥ずかしさと惨めさで目の前が霞んでくる。

「ファンサービスはアンコールを求められてからするものだ。指揮者が指揮を投げ出してピアノを弾き始めるなんて、前代未聞だよ」
「一人か二人いるだろ。天才の名を欲しいままにしてるモーツァルトだって、レオポルトから仕事を奪った。芸術を志す奴は一度や二度は問題を起こしてるもんだ、ベートベンだって色々あったんだ」
「良く判ったよ省吾、私如きでは君を理解する事は難しいと言う事が」
「お前まで俺を見捨てたら化けて出てやるからな、死んだ後に」
「君は私より十歳以上若いんだ、先に死ぬのは私だよ」

傍らのエージェントがちらりと書類を流し見ただけで、この世界に7年もしがみついているわりに大した経歴ではないと。仲介人にさえ言われている様だった。

「どいつもこいつも影で小せぇ嫌がらせしやがって、辛うじて生き残ってんのは奏者っつーより猛者ばかりだ。ちょっとやそっとじゃ逃げ出さないっつーか、俺以外の所じゃ使いこなせない暴れ馬だな」
「君がファミリーを愛しているコンダクターだって事は良く判ったけれど、彼女を使わないなら、私からジェームズに断りの連絡を入れておくよ」

最後通牒だったのか。
このオーディションに受からなければ、オファーはオファーとして成り立たなくなる。ジェームズは別れ際に『君の演奏を楽しみにしている』と言ったけれど、省吾の眼鏡に適わなければ『さようなら』で、合格すれば『まだ利用価値がある女』なのだ。男の下心の醜さなんてとっくに知っていた癖に、利用していた男から利用されていたと思いたくなかった。未来など何処にもないのにひたすらしがみついている惨めな自分を、どうしても認めたくなかった。

「はぁ?俺は使わないなんて言った覚えはないぞ、サイモン」
「それじゃ決まりだ。Ms.ケーコ、契約書類に目を通してからサインを」
「ちょっと待って、どう言う事?!」
「おい、それあんまじっくり読むな。ネットで探した弁護士に任した所為で、俺が読んでもどっか変なんだ」
「君はまずしっかり英語を勉強して、依頼料の安さに目が眩んだ自分を恨むんだ」
「だからお前にはしっかり払ってるんだろうが!ジジイ…じゃなかった、師匠が紹介してくれた敏腕仲介人だからな!」

それなのに、耳を穿りながら他人事の様に宣った指揮者と、何事もなかったかの様に頷いて書類を封筒へ仕舞ったエージェントは、訳が判らない内に話を進めている。

「ほら、早く名前書いちまえ。安心しろ、人手はないが公演予定だけは5年先まで埋まってる。食いっぱぐれは多分ない」
「そう、高野省吾は人望はイマイチだが腕はある。コンサートの度にお偉方から叱られてばかりだが、奇妙な事に世界中にファンがいるんだ」
「俺が天才だからってそんなに褒めるなよサイモン」
「彼の有名なゴッドコンダクターからタクトとストラディバリウスを強奪しただけあって、最高にイカれているが腕だけはある。本当に、腕だけはまともなんだ。指には何の才能もない様だけど」
「おい、さっきまで俺のピアノが好きだって言ってなかったか?」

此処だ、此処に名前を書くんだと、目の前でわざとらしい笑みを張りつけた男二人に唆されるままサインすれば、毟り取る勢いで契約書を奪っていった白人の男は笑みを消した。

「…良し、騙し易い小娘で助かった」
「サイモン、本性が一気に出てるぞ」
「契約書にサインさせればこっちのもの。今度こそ、三日で逃げられる事だけはない事を祈るよ」
「お前の所為で今すぐ逃げられそうな雰囲気だ」

今の今まで張りつけていたのは、外面用の愛想笑いだったらしい。

「皆に紹介するのはいつにする?」
「今夜だ。日本には善は急げって言う諺がある」
「ゼンワイソゲ?」
「あー…Make bread before daybreak(パンは日の出前に焼け)?夜の内に焼いとかないと、朝飯に間に合わないからな」
「ああ、Strike while the iron is hot(鉄は熱い内に打て)と言う事か。つまり干し草は太陽が出ている間に干せ、と」
「おいおい、何言ってるか判らないぜサイモン。お前はマイアミくんだりまで来て、一体何語を喋ってるんだ?」
「46年間、英語を喋っている」
「それじゃこうしよう。俺は英語、お前はドイツ語か日本語を勉強するんだ。そうすれば何の問題もない。ノープログラムだ」
「OK、大問題が発生した。イエスプロブレムだ。それならこうしよう」

何がどうなったのか。
羽田佳子の目の前で勝手に話を進めていく男達は、まるっきり二人きりの様にリラックスしている様に見える。

「君は今日から、ケーコに英語を教えて貰え」
「はぁ?何で俺が自分とこのピアニストに、」
「良いか省吾、私が契約しているのは君だけじゃない」

たった今、佳子の意思は一度きりのサインで確認された様だった。ネクタイを緩めている白人の男も、そもそもネクタイなど締めていないラフな服装の日本人指揮者も、ソファの背凭れにでろりと背を預けていた。ビジネスの雰囲気は毛程もない。

「寧ろ君のスケジュールは、君が独立を決めた一昨年の時点であっと言う間に5年分も埋まっている。本来なら今の私はオフシーズンなんだよ、去年は世界中飛び回って休む暇もなかったんだ」
「お疲れさん、フロリダは海水浴の真っ盛りだぞ。海に出ろサイモン、今日は晴れてるからキューバが見える」
「…それなのに、英語も喋れない癖にマイアミにオフィスを借りようとしたファッキンジャップの所為で、愛しい妻と娘を残してオクラホマから駆けつける羽目になってしまった。貯めに貯めていたマイルは君のお陰でパァだよ、パァ」
「おい、口が悪過ぎるぞ内陸人。さては海育ちの俺に嫉妬してるな?」

酷い会話が目の前で繰り広げられている。流暢な英語を話すエージェントの肩をポンっと叩いた指揮者は、英語とドイツ語が混ざった不思議な喋り方を直す気がない様だ。

「はっ、港町で感性を磨いた俺の平泳ぎを舐めるなよ、1分で沈むぞ。俺にはリズム感はあるが運動神経はない。天は二物を与えないもんだ。だけどまぁ、顔もイケてるしこれ以上望んだらバチが当たるだろ?」
「いい加減、私を解放してくれ省吾…」

絶望の表情を両手で覆ったエージェントは、夫の暴力に耐え兼ねた妻の様な台詞を絞り出す。契約書を読む暇もなくサインを書かされた佳子は、既に契約書をエージェントに奪われているので、このまま黙って座っていなければならないのか、帰っても良いのか、一人ぐるぐると悩み続けた。

「私は君の通訳じゃない、契約を纏める橋渡し役だ。…家に帰してくれ」
「帰してやっても良いが、その前に皆を呼び出してくれ。ドイツ語が通じない奴らだけで良いからよ」
「…オクラホマに戻ったら請求書を送ってやる。私は通訳でも便利屋でもないぞ」
「あ、そんな事言って良いのかな?君の可愛い一人娘は世界一イケてる指揮者のコンサートチケットとサイン入りのリーフレットを、アメリカ公演がある度にパパに強請ってるってのに」
「Shit!」

音楽業界では名が知られているエージェントは、敏腕マネージャーとは思えない台詞を吐き捨てた。フランスパンがはみ出ている紙袋を振り回す黒髪の男は、足を組み替えながらあらぬ所を見つめている。

「良いのかなぁ、天才指揮者とマブダチって事で威厳を保ててるサイモン君。俺のご機嫌を損ねると、君の一人娘は天使の様に家出してしまうかも知れないぞ?世間知らずの19歳だ、どっかの悪い男に簡単に騙されて、落ちる所まで落ちた後は…」
「やめなさい省吾、判ったから…!電話でもメールでも何でもするよ!」

縋る様に叫んだ年上の男へ高野省吾は、眺めているだけなら確かに良い男と呼ばれるだろう美貌を笑みで染めたのだ。

「君ならそう言ってくれると信じていたぞサイモン。最前列特等席のチケット2枚とリーフレット2冊、オクラホマに持っていけ」
「…今回は3枚だ」
「あ?音楽には理解がないと思っていたお前も、とうとう俺の指揮を見たいと思ってしまったのか?全く仕方ないな俺の才能は、天才が故に」
「違う。妻の母がウィスコンシンから遊びに来る事になってる。…悔しい事に、去年ミネソタで行われた君のコンサートを知ってからと言うもの、ファンなんだ…」
「成程。妙齢女性をも魅了してしまう、俺の才能が悪い」
「Ms.ケーコ」
「は、はい?」

疲れた様に息を吐いた男から呼ばれた佳子は、心持ち背を正した。飛び出しているフランスパンの先端に齧りつきながら携帯電話を取り出した省吾は、ぽいっとエージェントの手に握らせて立ち上がる。佳子には興味もないらしい。

「今後考えられない苦労があると思うけど、どうか3ヶ月後のコンサートまでは耐えてくれ。目下の君の目標は、ルイジアナ公演だ…」
「さ、3ヶ月しかないんですか?!」
「勝手に話を進めるなサイモン、コンマスは俺だぞ」

頬張ったフランスパンをピアノの天盤上へドンっと乗せた不埒な日本人は、何と言う酷い扱いをするんだと目を見開いた佳子ではなく、エージェントを睨んでいる。先程佳子が弾かされた譜面をフランスパンの隣に広げ、自称『イケてる天才指揮者』は立ったままボールペンの蓋を外した。

「そいつはマイアミでデビューさせる」
「な、」
「曲目はプログラム6番目、荒々しき狩で良いだろ?」
「はぁ?!」

マイアミと言う省吾の発言で目を見開いて立ち上がったエージェントに続いて、曲目を聞いた佳子も遅れて腰を上げる。ピアニストであれば誰もが一度は挑戦しているだろう、高難度の演目だ。それこそ天才と呼ばれたフランツ=リストの残した作品の中では、かなりの難易度を誇る曲目として知られている。

「はぁって何だよ、変な女だな。エロイカの方が好みか?」
「私はまだ貴方の指揮に合わせた事がないのよ?!第一、3ヶ月で仕上げられる曲じゃないわ!」
「君の言い分は尤もだケーコ。けれどマイアミで行われるコンサートは、来月だ…」

にやつきながらボールペンをくるりと回した日本人を睨みつけたまま、エージェントの英語を脳内で翻訳した佳子は動きを止めた。目の前でくるくるペンを回しながら、フランスパンを再び齧った男はモゴモゴと頬を蠢かせて、

「7年もプロやってんだから余裕だろ?」

口では問い掛けている様に見せているが、彼の目は『それとも逃げるのか?』と言っている気がする。呼吸を忘れるとはこの事だ。自分の職業がピアニストでなければ、恐らく人生で初めて他人の横っ面を引っぱたいているだろう。

「とりあえず今日うちの団員を紹介してやるから、お前は今夜から滞在するホテルかアパートを探してこい。言っとくが、マイアミのリゾートホテルは馬鹿高ぇぞ」
「急過ぎるよ省吾、彼女は面接のつもりで来てくれたんだから…」
「良いじゃねぇか、他の楽器と違ってピアノは端から持ち運べやしねぇんだから。日本には、弘法筆を選ばずって言う諺がある。プロなら一万のバイオリンでも数十億のストラでも、同じ様に客を喜ばせるもんだ」
「知らないよ私は、君はいつか痛い目に遭うだろう…」
「チケットとサインが欲しけりゃ黙ってうちのメンバーを呼べ。誰かが愚図ったらこう言えよ、『犯罪者になりたくなけりゃ従え』って。ストラディバリウスを盗んで逃げたとあっちゃ、世界中の新聞に顔写真が載るだろうなぁ」
「…君のファミリーに心底同情するよ」

笑いながらカリカリと譜面に何かを書き込んだ男は、エージェントが携帯電話に向かって早口の英語で捲し立てているのを横目に、ストンとピアノの前に座った。

「おい、佳子」
「…呼び捨てにしないで」
「煩ぇなぁ、お前も俺を呼び捨てにすれば良いだろ?んな事より、面白いの聴かせてやっからこっち来い」
「ホテルを探せって言わなかった?」
「女一人じゃ危ねぇから、仕方なく俺の部屋に泊めてやる」

フランスパンが詰まったのか、とんとんと胸元を叩いた省吾は溜息混じりに宣う。どちらかと言えばお前が一番『変な男』だと言ってやりたかったが、久し振りに仕事が出来るかも知れないチャンスを逃す訳にはいかなかった。それでも逃げ出したいと言う気持ちは、多大にある。
パトロンに捨てられて帰る所がないなんて事は、思い出しもしなかった。

「フロア全部が俺の部屋だ、何処でも好きな部屋を選べ」
「は?!どう見ても、普通のオフィスビルじゃない…」
「タダで泊まれるんだから文句言うな。今年一杯はアメリカの仕事が詰まってて、オーストリアのアパートは引き払っちまったんだよ。師匠が出てけって煩ぇから」
「ミスターピエール?」
「ジジイの孫娘が俺に惚れやがって、俺の女に嫌がらせまでする様になった所為で、一生もんのトラウマになる振り方してやろうと思ったら、孫が可愛いジジイが泣きついて来やがってよ…」

佳子よりずっと大きな手で、指鳴らしに鍵盤を叩いた省吾は、不貞腐れた子供の様な表情だ。凄まじいスキャンダルを聞かされている気がしたが、ほんの半年前に指揮を放り出してお粗末なピアノを弾いたと言う特大スキャンダルで炎上したばかりの男は、世間話をしている程度の認識なのかも知れない。

「…どうなったの?」
「ご存じの通り、指揮棒とバイオリンを押しつけられて、破門」
「…破門?!お墨付きで独立したんじゃないの?!」
「表向きはな。大人の事情ってこった。実際は孫から嫌われたくないジジイが孫の前じゃ反対出来なくて、出てってくれって泣きついてきた」

瞬いた佳子の前で袖を捲った男が弾いた『どっかで聴いた事がある』ジャズは、幻想即興曲の様だった。

「…ちょっとやめて、頭の整理がついてないのに変な音聴かせないで」
「悪い、途中で三つ間違えたんだ」

三つ所じゃないと呟いた佳子は、不貞腐れた男から譜面を投げつけられる。

「だったら弾いてみろよ、言っとくが長調の幻想即興曲だからな!」
「ああもう、ショパンに対する冒涜だわ…」

ムカついたので食べ掛けのフランスパンで頭を叩いてやったら、エージェントが盛大に吹き出す声がした。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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