帝王院高等学校
歌って歌って誰にも内緒の子守唄
眩しい世界に、ほんの少し影が差した。

「…一人か?」
「おばーちゃんときたょ」

ひらひらと揺れているのは麦わら帽子に巻つけられている、白いリボンだ。余りにもサイズが合っていないので、恐らく母親のものだろう。

「しーくん、おうた、おじょーずだねぇ」

目の前には、麦わら帽子を被ったまま靴を脱いで畳の上へ上がってきた、大きな水筒を首から下げている子供が一人。

「あそばないの?」
「一人だったからな」
「そっかぁ」

油断していた訳ではなかったが、独り言の様な歌声を聞かれてしまった様だ。
真夏の蒸し暑さが篭っていた道場の戸を全て開放すると、穏やかな風が時々舞い込んでくる。畳と板張りが半面ずつ設えられた道場の隣には、フェンスで覆われた弓道場があった。
高齢だった師範が今年に入って突然亡くなった為に、弓道場は現在閉鎖されている。道場の経営者だった師範が、剣道と弓道を教えていたからだ。離れて暮らしていると言う娘が弓道を嗜んでいるそうで、継ぐか引き払うか家族会議を開かねばならないと、新たな師範がぼやいていた。盗み聞きした訳ではないが、開け放した道場には外にいる大人の声が良く届く。

「ちゃんと水筒を持ってきたのか」
「あまいおちゃ!」
「砂糖を入れて貰ったのか。俺も好きだ」

まだ朝の8時だと言うのに、既に汗ばんでいる七月末の暑さは異常だったけれど、疲れ果てているのは大人の世界だけの話。子供の世界では他人事、若者は今日もやる気に満ち溢れている。

「あきちゃんは?」
「今回は来てない。春のちびっこ体験で飽きたんだろう」
「あきちゃん、きのー、きたょ」
「昨日?」
「おまつり、しーくん、きた?」 

そうか。地区の昨夜は夏祭りだった。昔から続けられている神社の祭事で、道場の裏手にある為、この道場も祭場として提供されていると聞いた事がある。
然し昨夜は大量に西瓜を貰ってきた母親が、手打ちの冷たいうどんの後にデザートとして振る舞ってくれたので、腹一杯納めてから寝てしまった。隣町とは言っても、夜も車通りが多い都内の夜は、祭囃子も聞こえない。

「太陽は祭に出掛けたのか」
「あきちゃん、おじーちゃんと、てっぽー」
「射的か」
「ぼく、あきちゃん、たのしいから、すき」
「楽しい?」
「ぼくよりちっちゃいのに、おとーさんみたいなことゆってた。にゃんこのぬいぐるみがね、おっこちなくてね、『セコい真似してんじゃないよ、おじさん』って」

目に見える様だ。
成程、あの万事に於いて傲慢な山田太陽ならば、大人相手だろうが全く怯まず吐き捨てるだろう。剣道に見切りをつけるのは早かったが、弓道には関心がある様だった。然し実技ではなく、家の中で遊ぶシューティングゲームを選んだと言う事は知っている。名前に似合わず、外が好きではないのかも知れない。

「太陽に指摘された射的の店主は?」
「あきちゃんのおじーちゃんとお話しして、ごめんなさいしてたぁ。ぼくのおばーちゃんがね、めってゆったよ」
「そうか。安部河商店も昔は祭に参加していたんだろう?」
「わかんない」
「お母様は元気にしているか」
「ぅん、おねーちゃんも、げんき」
「それは良かった。名前は書ける様になったか?」
「んー、おとーさんがねぇ、えっと、まだはやいってぇ」
「3歳だからか」
「しーくんもあきちゃんもかけるのに、ぼく…」

しゅん、と落ち込む背中が丸まった。日向ぼっこしている野良猫の様だ。

「安部河は難しい字だ。太陽の山田は書き易い」
「そーなの?あっ。ぼく、おかーさんのおなまえ、かけるっ」
「ああ、旧姓の事か」
「あのね、みえるかなぁ」

小さい指で、縁側の板張りに文字を書く子供を眺めていると、確かに平仮名らしきものを書いている。

「神木」
「ぅん!おかーさん、かみきかとり」
「知っている。神木花鳥」
「しーくん、なんでもしってるんだねぇ」
「神の木は、幾重にも枝を伸ばしたんだ」
「ぇ?」
「一つは渡り鳥の様にとある島へ渡り、水神を治める為に。一つは地神を治める為に、川を南へ下った。そして最後の一枝は、火の鳥が命じるまま飛び立った。…まるでたんぽぽの綿毛の様に、自由に」
「?」
「お前は自由だと言う意味だ」
「えへへ」

一つは錦織、一つは川南、最後は安部河。
水を司る神社の巫女となった帝王院千鶴の血脈は今や薄まり、最早、彼女を覚えている者は存在しないのだろう。こうして人の物語は簡単に消えていく。絶滅危惧種がいずれ同じ道を辿る様に、今はまだ存在している種が、時と共に消える事がある。時間が流れているからだ。他に理由はない。

「あきちゃん、おまつり、つかれちゃったのかなぁ。ぼく、あきちゃんとあそびたかったなぁ」
「俺だけじゃ物足りないか」
「しーくん、かけっこはやいんもん。かくれんぼ、みつかっちゃうもん」
「すまない」
「あきちゃん、かけっこはやいけど、ぼく、あきちゃんとかくれんぼするんだぁ」

ああ、確かにそれは楽しそうだ。隠れるつもりが全くない太陽なら、きっとすぐに見つかって『何で!』と喚くだろう。

「祭へ出かけた理由は、夕陽に土産をあげたかったんだろう。夕陽はまだ外へ出掛けた事がないんだ」
「なんで?」
「同じ腹の中で育った膨大なエナジーを放つ兄に、気後れしたんだろう」
「わかんない」
「太陽は猫が好きなんだ」
「しーくん、もうおうた、しない?」
「俺は歌ってはいけないんだ」
「だれがゆったの?ぼく、めっしてあげる」
「タイヨーが」
「だぁれ?」
「泣くんだ。今はまだ笑っているけれど、すぐそこにある未来で」

じりじりとアスファルトを焼く陽射しに目を細めれば、じりじりと蝉が鳴く声が聞こえてきた。愛を歌う夏の虫達が、我の声を聞けと競い合っている。

「俺が俺の声で歌うと、全ての命が眠ってしまう」
「ねんね?ぼくもママがおうたうたったら、ねんねするょ」
「お前はまだ『空っぽ』なんだな」
「ぼく?」
「今はまだ俺の声が届かない。生命で満ち溢れているからだ」

あの蝉達の様に。
例え今、台風が通り過ぎようと彼らは、歌う事をやめないのだろう。すぐそこに終わりがある事を、恐らく彼らは知っている。

「桜」
「なぁに?」
「俺の歌を知るのはお前だけだ。秘密にしてくれるか?」
「ないしょ?」
「そうだ」
「いーよ、おともだちだもん」
「俺達は友達なのか」
「ぼくとあきちゃんとしーくんは、おともだちだよ」
「俺と太陽は違う。太陽が認めない」
「そっかぁ」

それなのにどうして、遺伝子は繰り返すのだろう。
明日には終わりしか存在しないと知っている癖に、今日もまた、何処かで。































「おや、行き止まりですねぇ」

何がどうなってこうなったのか。
昨晩から一睡もしていない、帝王院学園高等部自治会長2年Sクラス西指宿麻飛は、利き手の右腕に川南北斗を張りつけたまま、アンダーラインの幾つかの階段を降りた先で意味なく天を見上げた。
廊下の電灯が一本切れているのを見つけた。

「自治会長はどの様にお考えでしょう?」
「…めちゃめちゃ似てるんスけど不気味なんで、勘弁して貰えます?ノーサなんか、さっきから若干涙目なんスよ」
「若干じゃない系…っ」
「ご覧の通り、号泣してんスよ」

西指宿の腕に抱きついたまま頑なに顔をあげない北斗は、ぐすぐすと鼻を啜っている。何処からどの角度で何度見返しても、西指宿達の目の前で無表情のまま叶二葉そっくりな声で二葉の口調を真似ている長身は、中央委員会会長その人だ。

「私が流す涙は蒸発して尚、億は下らない価値がありますが。極平凡な人間の涙では一円の価値もないのでしょうねぇ、ふぅ。お可哀想に…」
「凄ぇ、あの人が確実に言いそうな台詞を絶妙にチョイスしたっスね、帝王院先輩」
「おや、ウエスト。私の事は山田太陽の犬と呼んでくれても構いませんよ?」
「ブッ」

帝王院神威の素顔を知っている西指宿には疑う余地もないが、さっきまで神威の素顔を知らなかったらしい北斗は彼らしからぬ混乱を極めていて、いつもの冷静さがまるでない。報道部長と言う肩書きに相応しい結構な性悪なのに、その北斗が直視出来ないと言うのだから、流石はクラウンマスターと言えるだろうか。

「…キタさん、痛い。判った、判ったから…!マジェスティ、そろそろ白百合先輩の真似やめて貰えないと、俺が被害受けまくるんスよ」

何にせよ、中央委員会会長に自治会長と呼ばれても寒気がするだけだと、西指宿は思い知った。さっきまで可愛い弟と一緒に地獄の様な所に居たが、今よりはずっと天国だったのかも知れない。

「ちっ。男の癖にグズグズ泣いてんじゃねぇ、咬み殺すぞ」
「ひ!」
「畏れながら神帝陛下。実は結構良い性格してません?」

高坂日向がそこに立っている様な錯覚を覚えたが、西指宿の視界にはやはり神威しかいなかった。
両手で耳を押さえ、とうとう子供の様に座り込んでしまった北斗の小柄な体躯は震えていて、いつもは北斗から弱味を握られている西指宿でさえ、可哀想に思えてくる。

「あは。神威くんはあ、良い子だよお?今だってえ、怪しい人が居るってゆーからあ、見回りしてる訳だしい」
「…今からドSって呼んで良いっスか」

なので自治会長は開き直る事にした。負けず嫌いなので負け戦はしない、然し案外真面目なO型なのだ。物怖じもしない。怖いのは、保健室では一言も口を聞いてくれなかった義弟のご機嫌だけだった。エビフライで許して貰えるのだろうか。それにしても、ムカつく事に中央委員会会長の物真似は似ている。

「とりあえず陛下、今の声で『お兄ちゃん』って呼んでくれません?」
「ウエスト!」

うっかり血迷った西指宿の爪先を、報道部長が力一杯踏んでくれた。この野郎、西指宿には果てしなく強気な態度に出てくれる。相変わらず、内弁慶な男だ。

「はぁ、サイズ感は隼人に似てんだよなぁ。陛下が垂れ目だったら、俺より遥かに腰の位置が高くても我慢して、愛人にしたのに…」
「股下?」
「ウエスト、物凄く失礼な事言ってる系…!お前は何で、時々考えらんない馬鹿っぷり発揮する系?!」

隼人の脳内で殺されていても可笑しくないと西指宿は思っているが、フォローする暇もなかった。悪いのは錦織要、高野健吾と藤倉裕也も同罪だ。カルマなんて滅んでしまえば良い。
北斗からガクンガクン揺さぶられながら、西指宿は中央委員会会長の長い足を舐める様に眺めた。うん、我慢すれば抱けるかも知れない。

「そなたらの緊張を解してやろうと思ったまでだが、上手くいかんものだ。先月、新年度役員決起集会の折りに高坂が披露した声真似は、好評だったのだろう?」
「こないだの決起集会で、あの下半身以外は堅物なサブマジェスティが、ンな一発芸披露した記憶はないんスけど」
「セカンドからそう聞いている」
「アンタ出席しなかったから、騙されてんじゃないっスか?」
「そうか」

神威が本人の声を出している時は、北斗の震えは止まっている様だ。
然し未だに顔を上げても西指宿を見上げてくるばかりで、助けてくれと言うよりは『何とかしろ』と言う表情に見える。何とかして欲しいのはこっちの方だ。お前が要らん事で巻き込んだんだろうが、などとは口が裂けても言えない。西指宿は自治会長だが、目の前の変人は中央委員会会長様だ。先輩様だ。帝君様だ。

「ノーサ」
「うっわい?!」
「…キタさん、何だよその情けねぇ声…」
「そなたが見た不審な男達は、間違いなく先程の昇降口から下へ降りていったのだな?」
「そ、そうです。アジア系とゲルマン系っぽい数名、全員黒いスーツを着てました!」

正式な自治会役員ではない北斗は、然しABSOLUTELYのメンバーなので、意を決して立ち上がった。総帥の顔が見られない舎弟では、追放されても仕方ないからだ。
権力大好き人の隠し事大好きな北斗が、ABSOLUTELY諜報役の地位を捨てる筈もなく、その努力は認めても良い。但し、西指宿の腕を握り潰そうとするのはやめて貰えないだろうか。西指宿は、北斗専用の手摺りでも非常時の命綱でも何でもなく、ただの自治会長なのだ。少しは労って欲しい。

「ふぅ。全く、神聖な新歓祭の場で勝手な真似をしてくれるものです。私の目が黒い内は、トラブルを未然に防いでくれやがりましょうとも」
「ひ!」
「マジェスティ、マスター物真似がかなり雑になって来たっスね。そろそろネタ切れっスか?」
「あ?俺が失敗する訳ねぇだろうが、貴様捻り潰すぞ」
「今のは誰の真似っスか」
「バカっ、今のもマスターだよ!気色悪っ、寝起きのマスターに超似てる系!やべーよ、マジェスティに叶二葉的な何かが宿ってやがる系だよね…」
「どっちが失礼な事言ってんだよ…陛下に気色悪いって言うな、気色悪いけど」
「そう褒めそやすな。セカンドの真似は然程難しいものではない」

いや、褒めてねーよ。
西指宿と北斗の心の声が揃った様な気がするが、行き止まりの壁を暫く手で調べていた男は『ちっとも黒くない目』を細めると、今来たばかりの道を戻る事にしたらしい。

「困ったものだ。区画が入れ替わる仕組みなど作るから、記憶した地図が無駄になる」
「プログラム開発者はルーク=フェインって人らしいっスよ」
「困ったものだ」

モードチェンジされているのであれば再稼働させれば良いだけだが、見える範囲には掲示板の様な端末がなかった。
そもそも西指宿は、アンダーライン内部の改造プログラムまで扱った事はなく、端からどうにも出来ない訳だが、気分の問題だ。

「マジェスティなら端末がなくても何とかする方法を用意してそうなもんスけど、普通に引き返すんスか」
「用意はしているが、今は反応しない。恐らくジャミングだろう」
「ジャミング?」

あの器用な二葉でも、単純に一区画を切り離したりする程度であればものの数秒で済ませるが、地図そのものを書き換える様な稼働には事前の準備を必要とする。
基本的に図面を書き換える様な大改造は学期末の深夜に行われていて、前もって全自治会へ通告されていた。さっきまで使えていた道が今はもう消えている様な事は、まず前例がない事だ。

「ステルシリーライン・オープン」
「何スか、今のコード」
「随分、私の事を知りたがる。抱かれたいのか?」
「そんな畏れ多い事を想像した事ぁ、一瞬もございません。陛下はどうぞ、素敵なお姉様方と末永くお幸せに」
「お姉様方?誰の事だ?」
「誰って、愛人の一人や二人は居るんでしょ?」
「不埒な発言だ、看過出来んな。ならばお前には居るのか」
「セフレだったらまぁ、何人か…」
「そうやって何人もの慎ましい平凡受けを、奥ゆかしい健気受けに進化させてきたのだろう。何様のつもりだ生徒会長様」
「はい?何だって?」
「懲罰棟へ放り込まれるが良い。そして書き置きを残して去ってしまった健気受けを思い、涙に暮れるが良かろう」

ザッツライト。
流暢な英語が西指宿の鼓膜を震わせたが、理解出来ないまま時間だけが過ぎていった。ちらっと見やった隣では、いつの間にか手帳を取り出していた報道部長がガリガリと何かを書き込んでいる。

「…陛下に童貞疑惑が浮上した系…このネタはイケる…!」

恐ろしい独り言が聞こえたので、高等部自治会長は心のドアをそっと閉じた。北斗が何処まで行くつもりかは不明だが、勝手に何処まででも行けば良い。見送るが止めはしない。巻き込まれたくないからだ。

「ノーサを揶揄って遊んでません?」
「私がその様に酷な真似をする男に見えるか?」
「質問に質問で返すの、Sクラスの奴らが話を紛らわせたい時に使う常套句だって知ってました?」

西指宿に貞操観念がないと言う事は自他共に認める所だが、神威の遍歴は西指宿を遥かに凌駕するものだった。
息をする様に嘘を吐く二葉からも聞いた事があるけれど、下らない嘘は言わないだろう嵯峨崎佑壱が、神威に向かって『寄るな性病』と言う英語の悪口を言っていた所を見た事があるので、中央委員会会長がチェリーと言う事はまず有り得ない。

「ノーサが見た不審者ってのに、心当たりがあるんでしょ?」
「私にも秘密の一つや二つあるが、お前に知る覚悟はあるのか?」
「寧ろアンタは秘密だらけでしょうが。授業も仕事もサボるわ、放っといたら何日も飯食わないってぼやいてましたよ、リブラマネージャーの爺さんが」

真っ白髪をいつも丁寧にオールバックにしている老紳士は、毎朝リブラ寮の前でSクラス生徒が登校する様子を見守っている。リブラ内自治会役員エリアにはコンシェルジュの他にバトラーが待機しているが、老紳士はバトラー達を統括する執事長の様な立場にあるそうだ。
深夜に出掛けて朝帰りする事も少なくない西指宿は、良くその執事長と顔を合わせるので挨拶がてら世間話をしている。

「ああ、そなたがアシュレイの話し相手として接している事は把握している。彼の息子と同い年のそなたを、息子代わりに思っているのだろう」
「西園寺に可愛い長男が通ってんでしょ?手の懸かる『坊ちゃん』がちゃんと三食食べてくれたら、隙を見てロイに会いに行けるのにって言ってましたよ」
「ほう、手の懸かる坊ちゃんの守りを押しつけられるとは難儀な男だ。私の様に生徒の為にあくせく働く生徒会長の、爪の垢を煎じて飲ませてやりたいものだ」
「貴族ってのは、どいつもこいつもステレオタイプなんスかね」
「高々中央委員会会長でしかない私には、無縁の話だ」
「へぇ、そうなんスかルーク=フェイン=『ノア』=グレアム陛下」

ノアの部分に力を込めた西指宿は、怯みそうになる顔を引き締めた。高坂日向の琥珀の瞳よりも明るい黄金じみた双眸は、無表情だと凄まじい威圧感だ。北斗が気後れするのも無理はない程に完璧な造形の美貌は、黙っていると人形にしか見えない。
冷たい銀色の仮面を被っている時の方が余程マシに思えるほど、この男の素顔は目に毒だ。右腕である副会長の日向が、『その面を晒すな』と口癖の様に吐き捨てたがる気持ちが、良く判る。

「想像以上に、そなたは私を知っている様だ」
「それほどでもないっスよ。たまにマスターが呼んでるの聞いてるだけで、フランス語でノワールは黒って意味だなぁ、くらいしか判りませんし?」
「シンフォニア・アンノウン」
「は?」
「エデン=テレジア。エアフィールドと言う子供の、日本名は推測出来るか?」

何を言っていると眉を顰めたのは一瞬の事だ。
静かなゴールドアイズに見据えられて居心地が悪い思いをしながら、エアフィールドが『飛行場』を指す言葉である事はすぐに思いつく。脊髄反射の様に思い出したのは、いつか見た『目の前の席の男の背中』だった。

紅蓮の翼を広げる不死鳥は、図らずも盗み見る形になってしまった西指宿をあの時、真っ直ぐ睨めつけたのだ。

「どうせ、うちの帝君の事っでしょ。意外に従弟が大好きなんスか」
「成程。そなたを使いたがるセカンドの心情が、些か理解出来た」
「あれ、俺って今までかなり馬鹿にされてたっぽい感じ?一応自治会長なんだけどなぁ、心外っスわー」
「ファーストに一度も勝てない程度の人間と言う認識はあったが、セカンドが目を掛けている事は考慮していたつもりだ。気落ちするな」
「してません。俺なんか視界にすら入ってないだろうと思ってましたー」
「何を言っている。そなたがファーストにハァハァしている事も、義弟の仕事スケジュールを把握してハァハァしている事も、高坂に憧れてアクセサリー類を真似ている事も知っておるぞ」

西指宿は笑顔で固まった。傍らで北斗が笑っている気がしたので、つい足を蹴ってしまったのは見逃して欲しい。
想定外に色々知られている様だ。我らが中央委員会会長はやはり、気持ちが悪い。

「それだけではない。ノーサのセフレが国際科に2名、理事に1名居る事も、イーストのセフレが職員の中に2名、理事に1名、コンシェルジュに2名居る事も把握している」
「はぁ?!キ、キタさん?!」
「〜っ?!」
「然しそれら全員、セカンドと肉体関係がある事をそなたらは知っていたか?」

ひしっと抱き合った西指宿と北斗は、容赦なく降り掛かってきた神威の恐ろしい台詞で呼吸を止めた。セカンド、セカンド、セカンドと言うのはあれか、奴か。叶二葉と言う大魔王の事か。全く知らなかったし知りたくなかった。この場合西指宿は他人事だが、他人事とは思えなかったのである。

「あれが相手にする程の価値があるとは思えんが、予測は可能だ。単にそなたらの弱味を握り、暇潰しの悪戯用の仕掛けにするつもりなのだろう」
「し…」
「仕掛け…」
「私には理解出来ん感情ではあるが、そなたらはどうだ?『自分のものだと思っていた玩具が他人の手垢まみれだった』と聞かされた時、どう感じる?」

北斗が目を開けたまま死んでいる。いや生きているだろうが、彼の心は多分ご臨終した筈だ。何せ西指宿の心も軽く逝った。
然しアンダーラインの階段を外へ向かって登り始めた男の長い足は澱みなく、降りてきた時と同じ速度で動いている。だから西指宿も北斗も足を動かした。つられているだけだ。心はとうに死んでいる、なんて詩的な事を言ってみても、傷つき易い十代のハートは簡単には復活しない。目の前の変人も十代の筈なのに、後輩を苛めて楽しいのだろうか。流石は二葉の飼い主、メンタルが人外過ぎる。

「人とは難儀なものだ。腹が減れば食わねばならず、欲情すれば発散せずには居られない」

サラサラと降り頻る、微かな雨粒が見えた。もう外が見えていた様だ。
先に登り終えた男はくるっと振り返り、遅れて登ってくる後輩らを無表情で眺めている。すると、グーっと言う音が響いた。

「…あ?」
「へ?」
「腹が減って適わん。夜明け前に高坂とコンソメポテチを口にしたきり、何も口にしていない。仕方あるまい、先輩が奢ってやるからついてこい」
「すいません、今唐突に絶対外せない用を思い出しちまって」
「中央委員会会長命令だ」
「今ほど左席委員会に入りたいって思った事はないんスけど」
「賢いそなたに、一つ謎掛けをしてやろう」

北斗を窺えば、非力な癖に好奇心旺盛なクラスメイトはメモを取りながら、素直に神威の後ろについていく。ああ、パパラッチの目をしているではないか。先程までは殺人鬼を見た様に怯えていた癖に、この変わり様はなんなのだろう。

「謎?!ウエスト、しっかり考えて真面目に答えるんだよ?会長命令だからさ!」
「まだ従うなんて言ってねぇんだけど?」
「遥か昔、あらゆる知恵を求めた男がいた。そして今、あらゆる記憶を知りたがる男がいる。この二人は同一か、否か」
「…変なクイズ」

呟いた西指宿は、『遥か昔』と『今』と言う相反する単語に眉を跳ねた。
霧雨を避ける様に渡り廊下の下を歩いていく背中についていく形になりつつ、暫く考えた末に、西指宿は『どっちでもない』と呟いた。肩越しに振り向いた男の黄金の眼差しが、何故か楽しげに見える。

「その根拠は?」
「同一、って所が。同一人物か?って言われたら違ぇと思いますけど、どっちも男なら性別は同一な訳でしょ?知恵と記憶じゃ同類みたいなもんだし、答えようがないっスわ。つまり俺が言いたいのは、問題文が不完全過ぎるって事で」
「ならば問題を変えよう。宙から零れ落ちた器が欲しがるのは、翼か船か」
「空?」
「ひゃー、僕には全然判んない系。陛下、記事にしても宜しい系です?」

はしゃいだ声を出した北斗を、何処か他人事の様に一瞥した西指宿は頬を掻いた。

「メデューサを屠った英雄の名を冠したと言う者も存在するが、誤りだ」
「それって、その目で見たものを石に変える化け物っスよね。退治した英雄ってのは、アンドロメダの旦那のペルセウスって神様でしょ?」
「子守唄」
「はぁ?」
「この学園内に私が隠した鎮魂歌は、去りし英雄達が眠る彼の地に」

何処へ行くつもりなのだろう。
北斗はいつもの彼らしからぬ陽気な足取りで、もう不審者の事など忘れてしまっているかの様だ。

「お前達は何が食べたい?」

騙されている様な気がする。
若しくは見えない手で視界を塞がれているかの様な、目の前にあったものが目の前で気がつかない内に消えてしまった様な、一言で言い表せない気分だ。気色悪い事この上ない。

「それ見つけたら、どうなるんですか?」
「どう思う?」
「性格悪…」
「新鮮味がないな。聞き慣れた賛辞だ」
「質問に質問で返すのは、大抵の場合、図星を突かれた事を悟られたくねぇから虚勢を張るんだ。Sクラスの常識だったらっスけどね」

同一か否か。
翼か船か。
目の前の規格外の人間を一般常識に当てはめられないなら、開き直って考えれば良い。

「答えは『どっちも正解』でしょ?同一だけど同一じゃなくて、翼で船でもあるって事だ。遥か昔は『同じだった』けど今は『否』で、空飛ぶ船には『子守唄』って名前がついてる。…違いますか?」

どんなに頑張っても学年次席か3番席の西指宿麻飛が、一貫して満点を取得し続けている全知全能の帝君相手に開き直った所で、現状が変わる事はないだろう。

「…やはりそなたは多少見所がある」
「は?」
「どうだ、一度冥府の深淵へ降りてみるか?」

さて。
叶二葉より遥かに強いと言う、信憑性の乏しい噂があるABSOLUTELY総帥は本当に強いのか、否か。

「ボーナスステージをやろう。そなたはランクBセントラルの正体に気づいているか、ウエスト」
「…セントラルは居ない事になってんじゃないんスか?多分、藤倉辺りだろうとは思ってましたけど。藤倉理事は、理事長がアメリカから連れてきた人ですし」
「惜しいな。存外、詰めが甘い」

とりあえず、気色悪い上にムカつく男だと言う認識は継続だ。

「判らんか、子守唄だ。鍵は、旋律を知る者の手中にある」

初めから判っていた事だろう。
あの二葉が唯一従っている男なんて、ろくなものではない。



「セントラルの在籍登録名は、高野健吾だ」

北斗がペンを落とす瞬間を見た。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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