帝王院高等学校
こちら中央区所属、区画保全部でございま!
「叶文仁32歳。12月31日生まれ、血液型はA型」

ゆらゆらと揺らいだ風景はまるで陽炎の様に。
擬態したカメレオンが景色に紛れた時の、奇妙な違和感を与えてくる。石油を使わない車は静かだ。緑に包まれた純白の学園に紛れ込むには、透明になれる車があれば良い。

「帝王院学園高等部卒業後、東京大学経済学部へ進学」

例えば太陽を閉ざした雲が織り成す束の間の影に、そっと忍び込むステルス性。シャドウウィングはそうして名づけられたのだと、男は足元にアタッシュケースを下ろしながら一人頷いた。

「在学中にT2トラジショナルカンパニー社長に就任、28歳で同社取締役会長に就任。十口流許状資格、表千家乱れ飾り保持。然し叶家定例茶会への出席は、18歳以降確認されていません」
「叶冬臣、現在35歳。4月2日生まれですが、本件に関して不審な点が見られますので追跡調査中。血液型はA型、生後8ヶ月で麻疹により4ヶ月の治療履歴あり」

抑揚のない声による報告は、子守唄に酷似している。
なだらかな丘の上に佇む宮殿の様な建物の、適当に見つけた窓辺のバルコニーにはヨーロピアン建築を感じさせる白い手摺りがあった。広大な敷地を望むには、良い場所だ。

「6歳3ヶ月で日本脳炎を発症。一時危篤状態にまで陥りましたが、都内遠野総合病院に転院後、間もなく完治しています」
「その後、帝王院学園初等部初等科へ入学」

名刺は足りただろうかと、おもむろに内ポケットから取り出したパスケースはずっしりと重かった。はち切れんばかりに詰め込まれている『外界用』の名刺が、今日一日でなくなる恐れはほぼない。
石橋を叩いて叩いてそれでも心配になるのは職業柄なのか、生来の性格なのかは定かではないが、目の前に広がる惨状を見て見ぬ振りなど出来はしなかった。

「陛下の学園が無惨に散らかっている…」
「マスター?」
「私は工事計画書を頭の中で書いているから、報告を続けてくれ」

ステルシリーランクA、ABSOLUTEの称号を与えられたABSOLUTELY(有能)に不可能などあってはならないのではないか。例え想定外の事態だろうが、速やかに対処する。それこそ、区画保全部に課せられた唯一絶対の使命だ。

「帝王院学園高等部卒業後、東京大学理学部生物学科人類学コースへ進学。現在は十口流当主としての他、T2トラジショナル顧問相談役を兼任しています」
「叶文仁の推定知能指数は210、叶冬臣の推定知能指数はメンサの判定では測定不可能」
「…測定不可能?」

左手で空中に文字を書いていた男は、その手で被っていた帽子のつばを撫でた。思考回路が一瞬止まってしまったが、同行している部下達は平然としている。頼もしい社員達だ。

「中央情報部測定班による予測値は、およそ300です」
「弟も素晴らしい数値だが、300とは。予測値にしたって、流石に過大評価だろう。その数値は、」
「ルーク=ノアの推定IQ360に追随するものです」

部下の中でも最も冷静な男が、言葉尻を奪っていく。

「然しIQ数値が学業に於ける成績に反映するとは限られておらず、全知全能たるマジェスティに匹敵する証明にはなりません」
「5歳で大学内全学部をご卒業なさり、6歳で全学部の博士号を取得、現在に至るまで名誉教授の席を与えられている陛下に於かれましては、中央情報部が数値化するのも烏滸がましいものと存じます」
「「マジェスティ最の高」」

ふっと優秀な部下に微笑み掛けた男は『ほんと陛下ってば最&高』と無言で納得したのか、再び左手で見えない文字を書き始めた。

「叶文仁に目立ったトラブルはありません。18歳で結婚、一卵性双生女児を儲けています。叶鱗、叶藍、両名共に現在15歳。十年前にロンドンへ渡った後、現在までヴィーゼンバーグ公爵家の元で生活しています」
「叶冬臣は21歳でSISのシークレットサーバーをハッキングし、王族及びヴィーゼンバーグ公爵家連名宛てに脅迫と見られる声明を送信しています」
「怖いもの知らずな男だ。流石はネイキッド卿の同胞と言う事か」

懸命に校舎北部の被害を最小限度に抑えようとしている教師や、汚れた作業着で駆け回る生徒らが見える。感動の余り涙腺が崩壊しそうだが、頭の中の図面は綺麗に仕上がった。抜かりはない。

「本国より搬入したシャドウウィングをビルドモードにチェンジし、アンダーライン地下駐車場に待機させておけ。キング=ノヴァ陛下には申し訳ないが緊急事態だ、学園内サードパーティサーバーに侵入し、駐車場使用許可を取る事を忘れずに。此処は聖地日本だ。可能な限り、無駄なトラブルは避けよう」
「畏まりました。直ちに手配致します」
「修復をお手伝いなさるおつもりですか?」
「当然だろう。帝王院学園は陛下が通われている学校なんだ」

然しもしかしたら何処ぞに見落としがあるかも知れないので、区画保全部を統括している男はアタッシュケースの中から帝王院学園の図面を取り出し、カッと見開いた目で凝視した。
抜かりはない筈だが、慢心ではないか、本当に見落としはないか、煮詰めて煮詰めて煮詰めまくる必要がある。建築の世界では、数センチのズレすら致命的だ。ミリ単位のズレでも黄金比は成立しない。

「ノアの健やかな学生生活を陰ながらご支援してこそ、区画保全部の確固たる忠誠を証明する事が出来る」
「仰る通りですマスター:サムニコフ」
「サブマスターがランクBランクCの数名を伴い裏切ってしまわなければ、一遍の曇りもない経歴でしたがね」

表情一つ変えずボソッと呟いた副部長代理に、傍らの主任代理は無表情で凍りついた。いや、無表情かどうかは判らない。デカいマスクで顔の殆どが見えないからだ。

「う…裏切り…!あ、ああ、あああ!目薬をくれ、世界が歪む…っ」
「お気を確かにマスター、こんな時こそ団結し行動するべきです」
「マスターが裏切った訳ではありませんが、円卓が納得するかどうかは不透明です」
「サブマスター代理、少し黙って頂けませんか!」
「追って陛下より何らかの処分はあるかと思いますが、特別機動部より早く裏切り者を捕縛し、マスターの嫌疑を晴らす事が先決かと」

高潔と安寧と秩序と進化。
区画保全部が掲げる部訓は徹底的に『美』を追究している。美しいものこそ正義、社員の採用条件は『潔癖症』だ。しゅばっと取り出した目薬を両目に素早く差し込んだ男こそが区画保全部マスターだったが、後先考えず眼球をビシャビシャに濡らした男は、今度は『目が開けられない』と宣っている。片方ずつ差せば良かったのだ。

「う…くう…っ」
「お気を確かにマスター、落ち着いて目薬の蓋をお締め下さいませ。サブマスター代理にはフルオロ酸をぶっ掛けて黙らせますので、滅菌コットンで涙をお拭き下さい」
「主任代理。フルオロ酸を使えば私は塵も残らないでしょうが、深刻な環境汚染の懸念があります」

だから区画保全部員全員が手袋をしていて、マスクをしていて、帝王院学園の校門であるグランドゲートからヴァルゴ並木道に掛けて『大変けしからん匂いがする屋台』が所狭しと並んでいても、『やだ何あれ美味しそう』『でも何でお外でお料理しているの?』『衛生的に疑問しかない…』『でもすんごい良い匂い…』と言う葛藤の末、血を吐く思いで走り去るしかなかった。然し未練は残りまくったのか、部員の誰もが屋台の写真を撮り、インスタにアップした様だ。
食べていない癖に食レポまで載せた奴もいるかも知れないし、ハッシュタグで『やばい』『屋台ハマった』『B級グルメ最の高』だの書いた奴もいるかも知れない。

「サブマスター代理、マスターを苛めないで下さい。マスターはプレパラートの様に繊細で、地平線より真っ直ぐな方なのです」
「そうやって我々が甘やかすから、区画保全部はいつまで経っても12柱最下位なのでは?」
「サブマスター代理!」

プシュー!
裏切り者が出た所為で急遽主任に昇格する運びとなった黒服マスクは、技術班謹製『超強力消毒スプレー』をサブマスター代理に吹き掛けた。

「ゴホッゴホッ、な、何をするんです主任代理…?!」
「君、地上毒に感染してましたよ。ランクB昇級試験で徹底的に叩き潰した筈のサディスティックな性格が、息を吹き返す寸前でした」
「地上毒…?これは面目ない。ご無礼を申し上げました。マスター、どうかお許しを」
「許すとも。君達は私の元に残ってくれた、大事な部下達だ」
「我々区画保全部は一切の歪みを許さない、完璧である事を義務づけられた部署です。サブマスターも、地上毒に汚染されたに違いありません」
「あの方は元々特別機動部志望だったと聞いています。昇進に目が眩んだだけでは?」

特別機動部、ステルシリー中央区本車12部署で最も権力を有する部署だ。一般的に総務部と呼ばれる業務内容だが、実際は皇帝直属の秘書同然だった。現マスターはネイキッド=ヴォルフ=ディアブロ、叶二葉率いる部署はルークの円卓になって以降、一度として人員管轄部に求人を求めた事がない。
有能な魔王は身体能力にまで恵まれた『完全なABSOLUTE』で名を馳せているが、二葉の部署の社員については、登録されているコード以外は知られていなかった。中央情報部には全員のデータが登録されており、閲覧する事も可能だが、ペーパーカンパニーではないかと噂する者は少なくない。

「ステルシリーの部署に、上も下もない。12部署全てがマジェスティの為に存在し、ステルシリーを形作る大切な部品」
「仰る通りです」
「然し、裏切った社員には元特別機動部のアルデバランも含まれていると言います。彼はベテルギウス卿の実弟、元老院ぐるみであれば…」

つまり、特別機動部ランクB全てが存在しないコードなのではないか、と。
眉唾物の噂だが、ステルシリーに於いては有り得る話だ。実際に、人型のアンドロイドをランクCとして雇用している部署も多かった。一体の製造単価がロケットと大差なく、雑務程度の機能しかないので量産されてはいないが、技術開発の拠点でもある特別機動部が、最新機体を試験導入していても何も可笑しくはない。

「サブマスター代理、流石に今の発言は先走った見方ですよ」
「いや、彼の言い分は尤もだ。先週まで無役だった君達が主任、副部長である様に、ノアが変われば円卓も変わる。元老院の神はキング=ノヴァだ。我々と袂を分かつ事もあるだろう。但し、早合点は思わぬ歪みを招きかねない」
「主任代理の言う通り、急いた事を申し上げました。元老院が本当にノヴァの勅命で足並みを揃えているのか、調査します」

少数精鋭で知られる、ランクC社員が居ない対外実働部も閉鎖的な部署だが、特別機動部は更に上だった。組織内調査部ほどではないにしろ、ステルシリーの中では極めて異端な存在として認識されている。

「此処は一つ中央情報部と力を合わせよう。いずれにせよ、誘惑の多い地上の毒は強力だ。無理はしないでくれ、皆」
「「了解」」

ひしっと心の中で抱き合った区画保全部一同は、各位それぞれ超強力消毒スプレーを自身の体に吹き掛けまくる。
基本的に中央区から出る事がないステルシリー社員の中でも、開発と設備維持と掃除が職務である彼らは潔癖症で、生粋の引き籠もり体質でもあった。開発班は日夜図面を書いたり、地質調査と言う名の考古学活動をしたりしている。美化保全班は定期的にメンテナンスしたり掃除したり花壇や街路樹を育てたり、大工役の建設班にしても、各員支給されている水平器にそれぞれ名前をつけている、The☆根暗集団だ。

「では早速中央情報部に嘆願書を送信致します」
「中央情報部からも何名か謀反人が出ましたので、特別機動部より早く捕縛したい思いでしょう。マスター、今後我々はどう行動しますか?」
「マジェスティの呼び出しがあれば駆けつけるに決まっているが、肝心の陛下のお姿が見つからない」

ああ、我らが唯一神ルーク=フェイン=ノア=グレアムよ。
貴方のお姿を探して三千里、ティアーズキャノンの3階だか4階だがまで空飛ぶセダンで上がってきたが、崇拝する男爵のお姿はない。

「制服を着た陛下…はぁ…見たい、喉から手が出るほど見たい、ブレザーのノア…!」

会いたくて会いたくて震える。でもお会いしたくない、だって部下が裏切っちゃうんだもん。ああ、怒っても貴方はお美しいのでしょう。

「マスター、涎が…!」
「マスターは陛下の顔を見た事があるんでしたね。完璧主義者のマスターが涎を垂らしてしまうくらい、マジェスティは完璧なんですか?ディアブロ卿より?」
「風呂に一ヶ月も入らない阿婆擦れ、美しいものか!」
「マスター、お気を確かに!サブマスター代理は人を見る目がないんです!」
「主任代理こそ、対空管制部のババア…こほっ、ヒステリア卿のブロマイド隠し持っているでしょう?」

例えマンハッタンの古臭く埃臭く有象無象で溢れ返ったクラブのVIPルームで、何百人か知れない女を侍らせて乱交フィーバーなされた過去があったとしても。その猟奇的な歪みまでもが美しい我が君、ノアの為にあのクラブを買い盛り大幅に改装したと言うのに、何でそれからすぐ日本へ行ってしまわれたのか。
大学院まで卒業なされた男爵が今更高校生なんて、そんなグッジョブDK。定例円卓会議がテレビ電話になってしまったのは残念無念だが、日本では真夜中だろう時間帯にディスプレイ越しに姿を拝見する彼は、最近は何故かパジャマ姿が多かった。

それと腹やら太股やらに青アザが多かった。

『案ずるな。蹴られただけだ』

どう言う事ですかノア、ワットハプン?
何処で買ったのか判らない派手なパジャマの何故か下だけ履いた男は、つやつやの銀髪を気怠げに掻き上げながら、ゆったりと首を傾げる。

『愛らしい野生獣が戯れただけ』

全く判らないが、野生獣になりたかった。
区画保全部マスター、コード:サムニコフは本気だ。帝王院神威より美しい人類など存在しない。美貌の持ち腐れが甚だしい二葉など、隣に並ぶのも烏滸がましいのだ。

「陛下のお傍には世話係のベリアル卿が同行している筈だが、元老院の回線周波数は我々のものとは大きく異なっていて探知は不可能」
「マスターディアブロまたはマスターファーストの権限を用いれば、元老院のサーバーを掴む事は可能でしょう」
「何と言う恐ろしい事を言うんだ、慎重派の区画保全部員とは思えない発言だぞ。君は今後、我々の風上に置く」
「光栄です」

これを悲劇と呼ばず何を悲劇と言おう、因みに三千里とは約11782キロメートルの事だ。
中央区はニューヨークの真下にあるので、東京まで直線距離で大体11000キロメートル。三千里にはちょっと足りないが誤差範囲だろう。いや800キロメートルと言えば東京から広島に飛べる距離なので、誤差にしては広過ぎないだろうか。区画保全部長は悩みながら学園の建設図面を舐める様に見つめ、しゅっと定規を取り出した。

「だが、引退して久しいとは言え、元中央情報部長のベリアル卿を侮ってはいけない。あの方はアシュレイ伯爵であるのと同時に、ライオネル=レイ卿の甥だ」
「噂は聞き及んでおりますが、前対外実働部長はどんな方だったのですか?」
「あの方は若い頃、当時ナチス全盛期だったベルリンへ乗り込み、ヒトラーすら恐れた吸血鬼伯爵の生後間もない一人息子を誘拐したそうだ…」
「推測で申し訳ありませんが、ネルヴァ卿の事では?」
「ヒッ!その名を迂闊に口にするんじゃない、呪われてしまう…!」

部下は無表情だったが、その無機質な目に呪われねーよと書いている気がする。
若い頃は美丈夫で通っただろう、緩やかなパーマが掛かった濃い金髪に緑色の瞳を持つ区画保全部長は、その几帳面過ぎる性分と慎重派と言う名のビビりチキンさで数々の縁談を木っ端微塵にぶっ壊してきたので、40代になっても独身貴族を満喫していた。
黙っていれば何処に出しても恥ずかしくない紳士なのに、流石はステルシリー幹部。建築士を志した高校時代、彼はペンタゴンの内観や図面が知りたいと単身忍び込み、恵まれた空間記憶能力で一般人が知ってはならない細部まで正確な図面を書き上げ、当然ながらFBI&CIAの合同捜査班に逮捕された。

「元死刑囚(サイコパス)のマスターが呪いを信じておられるとは、存じ上げませんでした」
「今サイコパスって言わなかったか?」
「聞き間違いだと」

高校生と言う事を差し引いても、並々ならないセキュリティで固められていた施設に入り込んでしまったのみならず、アメリカ最大の機密情報を書いてしまえると言う点でホワイトハウスは『可及的速やかに死刑』を下した。無論、極秘裏にだ。世界最大の国防総省が高校生一人に踏破されたとあっては、明らかに国の保身に関わる。

「元老院よりも、注意すべきは彼だ」

然し、偶然にもスターバックスでコーヒーを購入し、空飛ぶバイクで颯爽とペンタゴン上空に停車していたライオネル=レイが騒ぎを聞きつけ、死刑宣告が下されるまでの18時間を一部始終見守っていた事から、事態は思わぬ方向に動いた。

『あのティーンボーイやりおる。スカウトしよ』

と、ジャック=レイナード=アシュレイがほざいたかどうかは不明だが、大統領の前でごきゅごきゅコーヒーを啜る対外実働部長は、怯える政府に晴れやかな笑顔を向けたのだ。

『儂が来た理由に予想はついているだろうが、少年は死んだ事にしても構わない。但し遺体は心臓が動いている状態で、我が社が引き取ろう。これは決定事項だ』

斯くして、訳が判らない間に死刑宣告を受け、訳が判らないままひたすら神に祈っていた十代の少年は、じゅるる〜とコーヒーを啜りながらやってきた髭面の熊に捕獲され、アーッ!と言う間に区画保全部で身体検査を受け、人員管轄部で履歴書の様なものを書かされ、中央情報部で身長体重、指紋や網膜、更には遺伝子情報まで登録された後、特別機動部マスターだったネルヴァの前へ、ポイっと放り投げられる事になる。

『建築に興味があるのかね。それなりに優秀だと聞いているが、一先ずランクCとして区画保全部に配属しよう。戸籍を用意しておくから大学卒業を当面の課題として、卒業後にランクB採用試験を受けたまえ』
『…Sorry、今のは何語ですか…?』

どの角度から見てもヨーロッパ系の男は、エメラルドの瞳をすっと眇めた。こそこそ逃げようとしていたライオネル=レイの襟をガシッと掴み、氷河の様な声を出す。

『…畏れながら対外実働部長、日本語が判らないとは聞いていないが?』
『わ、儂は日本語が喋れるとは言っていないぞ』

建築物の無機質な美しさに魅入られ、それ以外は興味がなかった『変人』サムニコフ17歳が、初めて魔王を見た瞬間だった。
手始めに日本語を半月で覚えなければ殺すとピストルを眉間に押しつけられた高校生は、神に祈る余裕もなく、死に物狂いで駅前留学する事になる。
因みに、中央区に暮らす社員が使っているバス乗り場の前にある、中央情報部が開校している学術系施設の事だ。ステルシリーの社員は日々そこで様々な言語を覚え、昇進試験に望んでいるらしい。

「卿は血も涙もない方だ。サンフランシスコを地獄へ陥れ、複数の組織を数日で壊滅に追いやった話を君達は知らないか?」
「中国最大組織の大河と手を組んだと言う、あの事件では?」
「大河は民主制以前の王族だったと聞き及んでいますが、枢機卿の奥様と大河頭目の妻が姉妹だったとか」
「そうだ。彼女らはエアフォースで役職についている、ラルフ=フリードと言う男の娘だった」
「存じ上げています。あのパーティーは、表向きはその年に受勲した軍人を招いた祝賀会でした」
「大統領の支援団体が主宰したパーティーでしょう?頭が緩い政治家が隠れ蓑にして馬鹿騒ぎする、絶好の場ですね。…気になるのは、多忙な特別機動部長のスケジュールに組み込まれていた事ですが」

やはり、勤務歴十年の男ではなく勤務歴3年程度の若者を副部長に指名したのは、正しかった様だ。多少腹黒い様な、地上毒の免疫力が弱い様な気もするが、天才しかいないステルシリーで埋もれないのは良い事だ。主任代理も幼い頃に才能を見出されてスカウトされた男だが、天才社会では凡人同然だった。

「その通り。あのパーティーの真の黒幕は、ネルヴァ卿だ」
「やはりそうですか」
「どう言う事ですか?サブマスター代理も訳知り顔してますけど…」
「事の発端は、ラルフ=フリードが娘を連れ戻そうとした事だった。勘当同然で母親の姓を名乗りネルヴァ卿の妻になった人の名は、藤倉涼女。国籍上はサニア=S=フリードと言う。フリードにはシアトルに愛人がいたが、その愛人が妊娠した事から端を発している」
「大河白燕が娶った陳朱花の事ですよね」
「サブマスター代理、何でそんなに詳しいんです?」

蚊帳の外に追いやられた主任代理は、マスクをしていても判るほど落ち込んだ。
可哀想なので撫でてやった部長の手は、然し主任代理の頭から数センチ離れた空中を撫でただけだ。手袋をしていても他人に触れないのだから、結婚が出来る筈がない。

「愛人の元に生まれた娘を認知せず放置したフリードの長女は、高校卒業後に飛び込んだ陸軍で、少尉まで上り詰めた。親子揃って異例の昇進を果たした彼らは一躍有名人になるが、フリードに勲章贈呈の話が出るなり、『上』から特命が出た」
「つまり、認知していない娘を?」
「だろうな。殺すのは簡単だろうが、何処で話が漏れるか判らない。危ない橋を渡るより、引き取った方がリスクは少ない。養女だと言えば、慈善者の箔がつく」

然し、愛人の娘は首を振らなかった。どうしても引き取ると言うなら、酷い仕打ちを強いてきた母親の面倒も見ろと、彼女は父親へ詰め寄る。

「目障りだったに違いない。軍隊は縦社会だ。上からの命令に従わなければ、勲章どころか首が飛ぶ。フリードは愛人と娘を殺そうと企んだが、マドカ=フジクラが朱花を養女として迎えた事で、失敗した」
「マドカ=フジクラ?」
「聞いた事があります。CDCの元研究員で、東南アジア紛争の際に流行した新型ウィルスの採取を単独で行い、博士号を取得した藤倉斑鳩博士でしょう?サブマスター代理が知らないのも無理はありません。彼女は40年前に『細菌よりも面白いものを見つけた』と言って、表舞台から降りた人ですから」
「主任代理、何歳なんですか?」

マスク装備の区画保全部員は年齢不詳な社員ばかりだ。副部長代理は三十路だが、かなり若い部類に入る。

「藤倉博士は紛争地へ赴く前に陸軍に殴り込み、若手隊員相手に乱闘騒ぎを起こしてCDC無期限謹慎処分を受けたものの、新型ウィルスの発見とワクチン製造で成功を収めた事で、ノーベル化学賞が検討された為に処分は撤回された」
「なんつー女ですか」
「鬼の様に強かったそうですよ。スズメ=フジクラが陸軍に入隊した頃、大佐クラスの幹部がざわめいたとか。白衣で乗り込んできた藤倉博士に叩きのめされた世代ですからね。然しマスター、フリード将校が娘を殺し損ねた事とネルヴァ枢機卿、どう関係が?フリード将校はネルヴァ卿の義父に当たる訳でしょう?」
「然るべき相手に嫁がせる駒だった長女が、図らずもステルシリー幹部に嫁いでしまった。本来なら諸手を挙げて喜ぶ所だが、気が弱いフリードにステルシリーの名は荷が重過ぎる。長女の事は諦めたものの、フリードは次女を長女の身代わりに、州権力者へ嫁がせようと計画したんだ」

然し次女は父親の思惑を察し、母親の生まれ故郷である国へ渡ると、その国で最も権力を持つ大河白燕の妻として迎えられた。フリードでは手が出せない、アジア裏社会の最高権力者だ。暫く睨み合いが続いたが、間もなく焦れた男は行動に出る。

「暫く大人しくしていたが、結局、娘のどちらかを連れ戻そうとした。娘の政略結婚は、彼の中では決定事項だったからだ。相手が政府関係筋なのかも知れないが、何にせよフリードの受勲が先延ばしになった理由でもあるだろう」
「では、フリードが大河朱花と藤倉涼女を狙わせた黒幕ですか?」
「私はそう考えている。頼んだ相手が悪かったんだろう。何処の世間知らず共に金を握らせたのか、結果的に姉妹は揃って殺されてしまった。大河側にも事情があったらしく、朱花が死んだのは、彼女ではなく幼い息子が狙われた為らしいが…」
「少し調べれば裏は取れるでしょう。敵に回した相手が悪過ぎます。大河の王と、特別機動部長ですから」
「フリード将校を殺さなかったのは、ネルヴァ卿の義父だからなのか、単なる当てつけなのか…」
「バンパイア伯爵家に生まれた魔王に、どんな綺麗事も通用しない。18年前に結婚した頃は、少しは丸くなった様だと思ったものだが。彼は何も変わっていなかったんだ」
「どう言う意味です?」
『プライベートライン・オープン。中央情報部長よりメッセージを受信しました』

ハンカチを取り出しそのハンカチで挟んで持ち上げたタブレットフォンを、除菌シートで拭いたタッチペンで操作しながら、潔癖症部長は声を潜めた。

「ネルヴァ卿はあの場の全員を殺すつもりだったんだ。自分の息子も居たと言うのに、…え?!」
「マスター?」
「協力を断られたんですか?」

然し目に見えて飛び上がったサムニコフは、わなわなと震え始める。

『やっほうサムニコフ、さっきピエロのお面を被った陛下を見掛けたから写メ送ってあげる。今度君が改装したクラブでデートしよう、断ったら犯す。チュ』
「ああっ、陛下ぁあああ!!!」

メッセージ内容ではなく添付写真を見るなり膝から崩れ落ちた上司に、部下は沈黙した。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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