帝王院高等学校
単調な短調じゃ満足出来ないお年頃☆
「俺のトランペットを愛してるって言った癖に、貴方は音楽しか趣味がない退屈な男ね、だぜ?!」
「懲りない男だね、ワーグナー。その台詞で別れたのは何度目だ?」
「何でそんなやつ好きになんの?」

純粋な気持ちで問い掛けただけだ。気落ちした様子で愛用のトランペットを潤滑油塗れの手で撫でていた男は、励まそうとしている仲間達に肩を叩かれた格好のまま、目を丸めた。

「デートでWiener Staatsoper(国立歌劇場)に行って何が悪いんだよ。リヒテンシュタイン公の都市改造計画でブルク劇場と一緒に建てられた、由緒正しいウィーン宮廷歌劇場だろ?タダで連れてって貰えたら最高じゃん」
「は…博識だなぁ、ジェニーK…」
「そいつは根っからのハイドン馬鹿だよ」

譜面にペンを走らせていた日本人コンサートマスターは欠伸を噛み殺しながら、それまで仲間の失礼話には口を挟まなかった癖に、ニヤニヤと笑みを浮かべた目を向けてくる。

「ハイドン?」
「君の失恋話のお陰で捗った、Besten Dank(感謝する)」
「…笑いたければどうぞ、省吾」
「何を言うんだワーグナー君。俺は君の辛さに共感して、胸が締めつけられる思いだと言ブフッ」
「だったら最後まで我慢してくれ!台無しだよ、ペテン師!」
「天才指揮者であらせられる高野省吾様に向かって、ペテン師とは何だ。君のドイツ語は間違ってるぞワーグナー、辞書貸してやろうか?」
「俺はベルギー人だよボス」
「そうだった。良いじゃないかベルギー、ワッフルとチョコがあれば女なんて要らねぇよ」
「そんな訳あるか!」

朝から取り掛かっていた仕事が一段落ついたのか、煙草くれーと間延びした声を吐いた自称天才指揮者は、調律師と話をしていた妻からお菓子のパッケージを投げつけられた。煙草なんて吸わないだろ、と仲間達から笑い飛ばされた男は、『そうだった』などと嘯きながら、パリっとパッケージのジッパーを開く。

「頑張ってお仕事した後のご褒美が、2ユーロのTraubenzucker(ラムネ)だってよ」
「良かったじゃないか省吾、ドイツ中の子供が飛んで喜ぶぞ。ビールがない時はそいつに限る」
「省吾、ブドウ糖を採ると頭が良くなるんだ。腹がはち切れるまで食え」
「俺は既に大天才なのに、これ以上は地球が受け止められなくなるだろうが。うひゃひゃ!何だこれ、スッゲー泡が出る!」

黙っていれば男前なのに、何処ぞの悪餓鬼にしか見えない高野省吾の笑い声で、各自楽器のメンテナンスに勤しんでいたメンバーが一斉に振り返る。
何だ何だとぞろぞろ集まってきた音楽家達は、日本人にしては上背に恵まれている省吾をあっと言う間に取り巻いた。

「おーい皆、俺らのボスがラムネで喜んでるらしいぞ」
「明日が本番だって判ってるのかね、うちのボスは」
「本番目前で急にアレンジを変えたくなったなんて馬鹿を言っていたが、大丈夫か?今回ばかりは、ブーイングの覚悟を固めておくべきか?」
「諸君、俺を誰だと思っている?」

わざとらしく仰け反った男は、ラムネのパッケージを握った右手をビシッと伸ばす。つかつかと寄ってきた音楽家達は譜面台に広げられたスコアを一瞥すると、コンサートマスターの前でわざとらしく顔を引き締め、広げた掌を持ち上げた。

「世界征服を目論む日本人。ラムネ頂戴」
「ラムネ食って喜んでる日本人。ラムネ欲しい」
「3歳の息子に負けを認めて演奏を辞めた自称天才指揮者。ラムネくれ」
「世界征服は健吾に任せておけ省吾、お前の使命は明日のコンサートを成功させる事だ。ラムネ寄越せ」
「お前らが俺よりラムネを愛している事が凄く良く判った。明日は覚えとけよ、拍手喝采の頃にはオメーら全員、屍だ」

ラムネ欲しさにぞろぞろ集まってきた外国人達に、乾いた笑顔でパッケージを投げつけた省吾は、下手な泣き真似をしつつ一人息子に抱きついたのだ。

「健吾、皆がパパを苛めるんだ。とっちめてやれ」
「ビシッとしろよ」

ラムネに群がった団員達は、省吾が大幅に書き込みを加えた譜面を覗き込み、早速ミーティングを始めている。後はコピーして皆の手に渡ったら、個人的に譜面の暗記を始めるだろう。揃っての通し練習は、早く見積っても昼過ぎだ。

「あー、腹減った。お前ら何か食った?」
「全員、ホットドッグ食べたっしょ。親父は呼んでも反応しなかったから、冷める前に俺が食べてやったぞぃ」
「ちょっと待て、朝飯の恨みは恐ろしいぞ。何で食べちゃったんだ?パパに残してあげようって思わなかった?」
「母ちゃんが食べて良いっつったんだべ?」
「しょーがねぇ、昼飯が届くまで我慢すっか。ラムネも取られたし…」

珍しく夜明けより早く起きた省吾は、『閃いた!』と寝起きとは思えない勢いで騒ぎ立てた。
夜遅くまでコンサートの演目を練習していた妻の睡眠を妨げ、本番前は神経質になるタイプが多い団員達を『俺が起きてるんだからお前らも起きろ』と訳の判らない理由で叩き起すと、ミサイルが落ちても起きないだろう息子の健吾をひょいっと担いで、数日前から借りている劇場の倉庫兼控え室へやって来たのだ。

舞台には稼働が難しいピアノが既に運び出されているが、神経質な高野佳子は最後の最後の調律を依頼し、朝から負けじと駆け回っている。奏者それぞれが自前の楽器を本番当日まで肌身離さず持っているのに対し、佳子のピアノは劇場から借りているものなので、いつもより彼女の神経質に磨きが掛かっていた。

「何か買ってきたら?外は死ぬほど寒いらしいけど、先月行ったデンマークに比べりゃオーストリアなんて常夏だべ」
「ケンちゃん冷たい…。パパ悲しいよぉ、慰めて」
「はいはい、かわいそー」
「そんなんじゃやる気にならない。明日はタクト振れないかも」

言うに事欠いて『明日の演目を幾つか変更する』と宣言した指揮者に、反対する者は殆ど居ない。やっと太陽が昇り始めた時間帯だったから、誰もの頭が回っていなかったのだ。
斯くして漸く皆の目が覚めた頃、既に譜面を睨んで集中モードだった省吾は、『考え直せ!』『本番は明日だぞ?!』『折角、音合わせが終わったと思ったのに!』と言う悲鳴じみた反論が出ても、譜面しか見えない極限の集中力を発揮し、スルーを貫いた。
もしかしたら聞こえていて無視していただけかも知れないが、時すでに遅し。
何のコネもなく日本から飛んでくるなり、音楽家の世界では神のまで目される巨匠の元に押しかけ、『アンタの指揮でピアノを弾きたい!』と臆面なく言ってのけるメンタルの持ち主だ。

「んじゃ、俺が代わりに指揮してやるっしょ」
「やめろ。これ以上、俺の自信を傷つけられて堪るか。お前に指揮の才能があったらどうする」
「コンサート大成功!で、平和的解決じゃね?」
「そして、後には首を吊った元天才指揮者の姿があった…」
「サスペンスかよ!」

半ば引退を考えていた老指揮者は最後の弟子として省吾を受け入れ、スパッと『お前にピアノの才能はないっちゅーの』と叩きのめし、だったらバイオリンをやる!と宣った省吾に自由を許した上で、指揮者へと育て上げた。
ピアノもバイオリンもそれなりにこなせる『神の弟子』として脚光を浴びた若き指揮者は然し、師匠にどれほど『お前は演奏の才能がないなぁ』と溜息を零されても諦めなかったプレイングコンダクターの座を、生後間もない息子の才能を見た瞬間に諦めたのだ。

『…ああ、本当だ。俺には才能が全くねぇわ』

以降、省吾が演奏をする機会はほぼない。
未だに昔の評判を覚えているクライアントがリクエストした時は別だが、歩くのもやっとなほど幼い日本人が『現存するあらゆる楽器を弾き熟す』と言う評判が駆け巡り始めているので、今後は益々二足三足のわらじを履く指揮者の出番は減っていくだろう。
神の指揮と謳われた男を以てして、『私のタクトを譲る相手は省吾しかいない』と褒め讃えられた二代目の神指揮者は、その遺伝子で神の子を作り上げた。

高野省吾は天才だ。
然し高野健吾は天才の枠組みを遥かに凌駕した、天才が聞き惚れる真の天才だった。子供が冷やかしにやって来た、と初めは苦笑いを零す劇場の客が、演奏が始まるなりスタンディングオベーションをする光景は、世界各地のメディアで取り上げられている。

「で?」
「ん?」
「編曲してたんだろ?完成作はどんな感じ?」
「めちゃめちゃスゲーのが書けた。聞いて驚け、泣いて笑って踊っちゃうヴュルテンベルク第4番だ」

天才とは一種の爆弾の様なものだ。
省吾が納得した演目で失敗した事はなく、彼がどんなに鬼畜めいた演奏を指定してきても、それを弾きこなせない者には端から命じもしない。皆が絶対に無理だと思っていても、省吾だけは何ら疑いなく『出来る』と断言し、結果的に彼の言葉通りになるのが通例だ。自分でも出来る筈がないと思っていても、省吾の指揮の元、必死で食いついていると本当に出来てしまう。その喜びを知れば、もう昔には戻れない。

「それってクラヴィーアの変ロ長調?」
「やだね、若い奴の覚えの早さったら。嵩張るクラシックCD集が、ワンクリックで買える時代に感謝感激だわ」
「つーかソナタじゃん」
「おう、お前の大好きな弦楽四重奏がベースだな。ピアノ、チェロ、バイオリンで最初は大人しめに始まるんだが、途中でコントラバスとトランペットが暴走を始める」
「マジかよ、お淑やかな管楽器の中に荒くれ者が混じる感じ?」
「やばいだろ?」
「やべぇっしょ!だからさっき、おっちゃん達が譜面見て変な顔したんか〜」
「途中でハープソロも入ったら面白ぇと思うんだけど、今回はハープが居ないからなぁ。何か面白い楽器ないか、休憩中の奴がさっと弾ける簡単めな」
「オカリナとか?」
「劇場の規模判ってんのか?今回のキャパじゃ聞こえねぇって」

それを痛いほど判っている気心知れた仲間は、半ば諦めの心境でそれぞれの楽器の最終メンテナンスで時間を費やした。省吾が譜面を書き上げれば、すぐに練習を始めなければいけないからだ。

「クラシックコンサートだからって、無闇やたら真面目な形式じゃなくても良いと思いませんか」
「上品なレディース&ジェントルマンは、お堅い短調を聞きに来てんじゃねぇの?ソッコー眠くなるベートーベンとか」
「イ短調を見くびるなよ健吾。トルコ行進曲もイ短調だぞ」
「あ、そっか」

各自『天才』と呼ばれる演奏家ばかりだが、本番を目の前に昨日までとは異なる譜面を渡されれば、緊張しない方が可笑しい。然し『人生で一度も緊張した事がない』と宣う天才指揮者には、理解出来ない感情なのだろう。

「大体、俺の指揮を聞きに来てる物好きが普通のクラシックで満足する訳がない」
「物好きってw」
「新しいもんを求められるってのは、結構なプレッシャーなんだぞ。昨日まで新しかったもんが、今日はもう通用しないんだからな」

父親の声が珍しく真剣味を帯びているので、健吾は頭を掻いてから、仕方なく両腕を広げた。ぱぁあっと目を輝かせた省吾は、がばっと遠慮なく抱きついてくる。

「今回は、ソナタなのに管楽器じゃ出ない音が欲しいんだろ?」
「パパの気持ちを一発で判ってくれる息子に、チューしちゃる」
「やめれー」
「俺は誰もが認める超天才指揮者だがな、知っての通り人の意見を聞く男でもあるんだ」
「へー、知らんかったっしょ」
「どうしたら良いと思う?パパを助けてよぉ、ケンちゃあん」

がばっと抱きついてきた省吾がグリグリと頬擦りをしてくるので、ぷらんぷらんと爪先が浮いている健吾は全身から力を抜いた。どうせ力では全く適わないのだから、抵抗するだけ無駄だ。

「ピアノしかねぇと思う。今更ソロパート追加なんて言ったら、母ちゃん壊れるんじゃね?今回めっちゃギスギスしてんじゃん、超怖ぇー」
「ですよねー、俺も怖くて目が合わせられない。やっぱりもう一台ピアノ増やして、俺が弾きながら指揮するしか…」
「仏像かよw」
「仏像?」
「腕がいっぱい生えてるやつ、じーちゃんが送ってきた写真の…何だっけ?」
「ああ、千手観音か」
「親父の腕が4本あったらイケるだろーけど、天才指揮者でも無理げじゃね?」
「あーあ、何で俺には腕が2本しかないんだ」
「増やせば?」
「サイボーグか!出来たら苦労しねぇんだよなぁ、健吾が二人居たら悩みは解決すんのに…」
「俺にグランドピアノ弾けってか?指が届かねーっつーの」
「ケンちゃんのお手て、小さくて可愛い。食べちゃいたい。いや、食べる」

べろっと手を舐められる感触にゾゾっと震えた健吾は、小さい足で省吾の脇腹を蹴った。然しほぼダメージはないらしく、べろんべろんと指の股まで舐められてしまう。抵抗するだけ無駄だ。判っているが、息子はおやつじゃない。

「ひー、気色悪っ。だけど、今からピアニスト探すのは無理っしょ。本番、明日だし?」
「それ以前に俺が天才過ぎて業界から嫌われてっから、雇いたくても雇えねぇ」
「乙」

天才とは得てして憎まれるものだ。
特に巨匠の最後の弟子にして、彼の指揮棒を送られた省吾は兄弟子達からも睨まれており、オファーは多いが共に仕事をしてくれる人材が限りなく少ない。この場に集まっている音楽家達も、腕はあるが他の楽団では仕事が出来ない人間が多く、不遇に悩んでいた所を省吾が拾ってきたと言う経緯がある。その分、絆は固いが演奏出来る楽器の数が限られていた。

「こないだ辞めたサックスは、殆どお前の所為だぞ?何十年もあれ一本でやって来た若き天才が、自分より遥かに若いお前のサックスで、ポッキリ折れちまったんだ」
「うひゃ、飛び火したっしょ。何が折れた?」
「プライドとかハートとかだよ。俺は同情するね、大体あの日初めてサックス吹いた癖にルパン三世たぁ、やり過ぎの頂点に立つわ」

やっと雇えても何処かからか引き抜きされてしまったり、省吾の指示についていけないと逃げてしまったり、長いメンバー以外は辞めるのも早い。プライドが高い人間が多い音楽家に、神の指揮棒を継ぐ男のリクエストの難易度は、自尊心を容易く傷つけるのだろう。

「ってか、何十年もやったってんなら自信ある筈だろ?俺がトランペット吹いたって、ワーグナーのおっちゃんは辞めてねぇし。プロなんだから、俺がトドメ刺したみてぇな言い方やめろし」
「いや、刺した。お見事に貫通したね。健吾は天才キラーだ、天才だけを瞬殺する暗殺者になったんだ」
「意味不明」
「だが心配するな」

誰もが健吾の神憑った演奏で気づかないが、健吾が初めて舞台に上がったのは3歳の誕生日だった。その若さで既にバイリンガルである事もメディアを騒がせる理由の一端だが、世界中に神童と呼ばれる子供が存在する。
最も目立つ『演奏』と言う健吾のスキルが持て囃されるのは無理もないが、健吾の語彙の多さはやはり同世代の誰と比べても異常だ。然し慣れた仲間達も、両親も、それには気づかない。音楽家が何よりも優先するのは、音楽だった。

「息子が人殺しをしたら、死体を隠してやるのが親の務めだ」
「あちゃー、親父がまた変な事言い出した」
「また言うな、天才に向かって」

健吾は最近覚えた自意識過剰と言う言葉を言おうとしたが、やめた。健吾の周囲には、自意識過剰を絵に書いた様な大人しか居ないからだ。プロの世界には、自信がない者は存在しない。居たとしても消えていく。

「コンマス、流石に色々間違ってるって」
「天才に間違いなどない!お前は安心して惨殺しろ。処理は俺が任された」

グッと親指を立てた省吾の肩越しに、頭を抱えている母親の姿を見た健吾は愛想笑いを浮かべた。親子の会話は日本語だったので、幸い他のメンバーには伝わっていない。

「親父が逮捕されたら他人の振りすると思うけど、泣くなよ?」
「全く、親より先に大人になるとはふてぶてしい息子だ。老後は任せたぞ」
「あいあい、判ったから朝から付き合ってくれてる皆にちゃんとお礼言っとけよ」
「恋愛も知らないお子様が大人ぶりやがって、こんのハイドンフェチが。ブルク劇場を作らせた不死鳥国王と、お前の大好きなハイドンは別人だぞ」
「そうなん?!つーか、不死鳥って何?」
「さては、フランツ=ヨーゼフって名前だけでググったな?」

マスター不在のミーティングを仕切っているのは一番の古株であるバイオリニストと、調律師との話が終わった佳子の様だった。早速ぐちゃぐちゃ書き込まれた譜面をコピーし、各自読み易い様に清書を始めた様だ。

「オーストリア・ハンガリー帝国の愛され国王様は、国民から親しみをもって不死鳥と呼ばれたらしい。理由は知らん」
「ふーん。ハイドンの親戚かと思ったのに、違ぇのかよ」
「ハイドンの方が遥かに年上だからな」

ドイツを拠点にしている省吾の楽団のメンバーは実に多国籍で、共通語を英語にはしているが、英語が苦手な奏者も少なくない。なので省吾が譜面に書き込む時は、基本的に音楽記号だけだった。然し、記号を手書きで表した場合の難所は、似た様な記号がある場合に見分けがつかない事だ。特に殴り書き状態であれば、その可読性は著しく落ちる。
過去に何度もその手の指摘を受けた省吾は、紛らわしい記号の上に注意書きとして日本語で書き込む事があった。後で見返した時に、省吾本人でも見分けがつかない記号があった時の保険だと思われる。
なので現在は、佳子が日本語部分を英語やドイツ語に訂正し、皆の混乱を招かない様に気遣っていた。メンバーの誰より経験で劣る事を引け目に思っている妻の本音には気づいているが、省吾は彼女の心遣いを有難く思っているので、止める事はない。

「弦楽四重奏曲第77番」
「神よ皇帝フランツを守り給え。俺、国歌好き」
「お前も俺も国籍は日本だっつーの。でもまぁ、ドイツ国歌は洒落てるよな」
「君が代は気が重くなるっしょ。何であんなに暗い音にすんの?」
「重厚と言え重厚と。日本は激動の時代を超えて今に至ったんだ。ま、俺は産まれてねぇから受け売りだけどな」
「適当な事ばっか言ってんな」

学生時代にオーストリアとイタリアの留学経験がある佳子は、プロピアニストになってから英語を叩き込み、実に4ヶ国語を操る才女だ。健吾に対しては妊娠中から胎教と称して、クラシックや語学CDを聞かせた過去があり、産まれてからも毎日色んな国の言葉で話し掛け、健吾の耳を養う努力を重ねてきた。
その努力が報われたのか、単に健吾が器用だったのか、多国籍な大人と触れ合っている内に、健吾だけメンバー全員と彼らの母国語で交流出来る様になった。とは言え理解度は日常会話程度で、ネイティブには及ばず、字が書ける訳でもない。

「音楽家の趣味が音楽で何が悪いってのは賛成だが、それしか知らない奴の音楽っつーのは、新しさがねぇわな」
「何だよ急に」
「大人にはなぁ、音楽よりも大事なもんが、たまーにあるんだよ」
「はぁ?」
「いっぺん惚れたら、簡単には忘れられないって事だ。まだ判んないだろうな?」

父親から抱かれていた健吾がやっと下ろされると、微かな笑みを浮かべた省吾に頭を撫で回される。そろそろランチタイムだ。

「だってさ、おっちゃんの彼女はトランペット吹かせてくれないんだろ?俺だったら、オメーは一生ご飯食べんなっつってやんよ。音楽家は、音楽でご飯食べてるんだもんな」
「大人だね〜、お前は本当に俺の息子か?」

がさりと。
音を発てて散らばった譜面のすぐ傍らに、青褪めた女の姿が見えた。





























「良い事でもあったんスか?」

何度目の『失恋応援会』だかで、主役よりも騒ぎ立てる慰め役を他人事の様に見つめながら、無意識で唇を撫でた瞬間に。壁の呼び出し電話から受話器を引き上げる為、安普請なソファへ片膝をついた男が呟いた。

「あ、さーせん。レモンソーダ4杯と、お好み焼きとかあります?」

何が言いたい、などと口を開く前に陽気な口調でフロントへ話し掛ける年上の男の目だけは、何かを窺う様に真っ直ぐ見つめてくる。
騒がしいカラオケルームに片側の耳を小指で塞ぎ、あれこれと注文を続けている男からすぐに目を逸らしたのは、今の問い掛けに心当たりがあるからだろうか。

「あと烏龍茶も一つ。はーい」

カラオケルームへ入るなりセオリー無視のバラードから始まった数十分間で、藤倉裕也がマイクを握ったのは初めの一回だった。既に何を歌ったかも覚えていない、2時間以上前の話だ。
以降、馬鹿と阿呆しかいない舎弟らに馬鹿大将が加わって、独占されたマイクは裕也の手へ届く事はなかった。
バラードばかりが繰り返されるBGMの様な他人の歌声へ、律儀に合いの手を入れたのは始めだけだ。今は聞き流しているだけ。いや、本当は聞いてさえいない。
誘われるままこの空間に混じっているだけで、別れたばかりの恋人の顔を思い出す事も、本当は。

「もー、喉カラカラっスわ〜」
「そーかよ」
「ユーヤさん、しれっとウーロンハイ飲んでたでしょ」
「知らねーぜ」
「じゃ、息吐いて貰えます?」
「あー、オレの呼吸はたった今止まったぜ。屁ならこいてやっけどよ」
「ひっど」

どさりと隣に座った男は一重瞼の瞳を細め、お気に入りの一張羅だと言うシャツに絞めていた細いネクタイを弛める。
男ばかり5人組に割り当てられたそれなりの広さがある部屋の中、わざわざ隣に座ってきた理由を推測するのは、面倒臭い。

「歌、入れましょうか?アイツら放っとくと、予約リスト2桁から減らねぇんで。じゃんじゃん割り込みましょーや」

何曲目かに押しつけられた借り物のタンバリンは膝の上、一度も使われていないが誰からも指摘されないままだ。理由など何でも良いのだろう。何かにつけて騒ぎたいだけの十代の本音は、楽しければ万事OK、それだけなのだ。
例に漏れず、浮かない程度に合いの手を入れつつソファの上で胡座をかいた男は、電子リモコンをタッチペンで操作しているが『じゃんじゃん割り込め』と言った癖に、裕也の意見を聞こうとする様子はない。ピコピコとランキングリストを開いて、懐かしいだの知らない曲だの呟いては、何が面白いのかケタケタ笑った。

「そんな面倒臭そうにしないで欲しいっス」
「言い掛かりだぜ」
「このイケメンポーカーフェイスにゃとっくに見慣れましたけどね〜、もう少し楽しそうにしても罰当たんねぇっつーか」
「うぜー」

伸びてきた他人の手が、グリグリと眉間を弄んでくるので鬱陶しげに腕で振り払う。痛〜い、などと呑気な声を出しながらケタケタ笑った男は、おもむろに手を叩いた。どうも間奏に入ったらしい。裕也は聞いてすらいなかったが、器用な男だ。

「きゃー!ケンゴさん抱いてー!」
「うひゃ、よっしゃ来い!(ヾノ・ω・`)」
「ぎゃはは、うめっちは重ぇから無理っスよ!ケンゴさん、産まれたての子馬みてーになってる!」

ああ、騒がしい。
真顔でタンバリンをシャンシャンと震わせた裕也は、すぐに飽きて隣の舎弟へタンバリンを押しつけた。

「俺の慰め会って言った癖に、主役ほっぽってはしゃいでんじゃねーよ」
「あ?」
「って言いたそうな顔してたんで」
「勝手に人様の顔を見んな、殺すぜ」
「やだやだ。ケンゴさん以外にはすーぐそれだ」
「…んだよ」
「ケンゴさんが今の台詞言ったら、『殴る』か『蹴る』だったでしょ?」

何十曲めかのイントロは、今までとは趣きが違う。長かったバラードリレーが、たった今、終わった様だ。梅森をコアラの様に抱いている健吾は、松木が持っているマイクに向かって歌い出したが、選曲ミスとしか思えない早口のラップ責めで、開始早々酸欠気味の様に見える。

「面倒事が嫌いな癖にどうでも良い女と仲良しこよしゴッコするの、俺は絶対にごめんだな〜って思うんスよ」

アップテンポなJポップは、聞こえなくて良い声を掻き消してはくれなかった。寧ろ怒鳴り散らしている様な歌声とは真逆な声音は、鼓膜に伝わると異彩を引き立たせる。

「何か美味いご褒美があるんでしょ?」
「…さーな」

騒音を消し払うかの様に、隣の声だけが鼓膜を。

「脳天気なケンゴさんでも、振られたら三日は落ちてんですよ。どっかの誰かみたいに、次の日にはケロッとしてたりしない」
「見て判んねーかよ、ばり凹んでんだろーが」
「悩ましげに唇触ってるかと思えば、氷咥えてガリガリやってる面が凹んでる様には、ちょっと見えないかな〜?」
「舎弟が使えねーから氷しゃぶってんだろーが。グラスが空く前に追加すんのが、出来る舎弟の仕事だぜ」
「いつものユーヤさんだったら、涎垂れ流してグースカ寝てるって。起きてるってだけで異常事態っスわ」

ああ、煩い。狭い空間にすし詰めで、本当に呼吸が止まりそうだ。

「ポーカーフェイスじゃ全然隠せてないニヤケ面、一人で噛み締めてるとこ見ちゃうとね〜。何か良い事あったんかって、竹林さんは思うわけ〜」

どうしてこの世には、自分だけの世界が存在しないのだろうか・と。いつか考えた事がある。そして、社会の仕組みなど一つも知らない癖に、いつか自分だけの世界が作れるものだと信じていた事も。

「大抵のもんは、変える気がなかったら変わんないもんでしょ」
「あ?」
「変える気がないか、変えるのが怖いか。…自分も騙してる様じゃ、まだまだお子様ランチっスね〜」

無意識で振り上げた左拳が、隣の男に届く事はなかった。
引き替えに、丁度ドリンクを運んできた従業員がドアを開いた瞬間だった為、思いのほか響いた気がするソファの背持たれを殴りつけた音には、誰の関心も向かなかったらしい。

「…あっぶね。ケンゴさんの拳骨だったら避けらんなかったかも〜」
「避けんな」
「自分が無関心だからって、他人もそうだと思わない方が良いっスよ?人を疑わないうめことも、案外ピュアなまつことも違って、たけこさんはリアリストなんで〜す」

タンバリンを振った年上の舎弟は、高校生になったばかりとは思えない大人びた表情で笑う。

「…うっぜ、それ持って向こう行け」
「リーダー命令か〜。優秀な舎弟だから、言いつけは守りますよーだ。タンバリンマスターの実力見ててよねっ」
「知らねーよ」
「おい、ユーヤ!サボってねーでオメーも歌えし!(・3・)」

凄まじい大声を通したマイクは、綺麗にハウリングした。

←いやん(*)(#)ばかん→
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