帝王院高等学校
馬鹿ばっかりで地球は今日も平和です
「あ、マジでアームストロング砲が出撃中」
「ミッチー、さっきはキャノン砲って言ってた」
「変な所で記憶力発揮してんじゃねぇっつーの、まー坊の癖に」

帝王院学園3年Dクラス、バスケットボール部副キャプテンの香川実春は、お洒落の為ではなく体の為につけているスポーツネックレスと首の隙間に親指を差し込み、意味もなく己の喉仏を押した。

「喉乾いたー。折角昨日、バスケ部宛てにドリンクを差入れしてくれた足長おじさんが現れたのに、今頃部室の冷蔵庫の中で冷えてんだろうなぁ」
「部活棟に入れないんだから仕方ないだろ?ジュースだから腐んないって、多分」
「オメーは腐ってても判んねぇだろ、馬鹿だから」
「マジ?」
「知るかクソッタレ!死ねバカロットォ!」

某アニメのダークヒーローの声真似でもしていなければ、やっていられない。摘んだ喉仏を揉みながら声色を変えた香川は、黒いビニールの破片の様なものを拾おうとしている男の尻を蹴った。かなり強めに蹴ったつもりだったが、帝王院学園ナンバーワンの体幹を誇る男は微動だにしない。

「ゴミなんて拾ってんじゃないよ。バスケ部はバスケ部らしくボール追っ掛けて、シャワー浴びて飯食ってサウナで癒されて、寝る前の嗜みとしてシコシコ抜いとくべきだって」
「ラウンジゲートかぁ。そう言えば俺、あそこで星河の君から『ゴリラ邪魔』って言われた」
「いつコネ築いたんだ、中等部3年間帝君だったんだぞ?で、モデルの股下やばかった?」
「見てない」
「何の為にラウンジゲート使用権があると思ってんだ」
「お風呂に入る為だろ?」

馬鹿の正論に言い負かされるのは、精神的に辛いものがある。

「いつだよ、俺だって星河の君に罵られてぇ…つーか、カルマなら全員イケる。輪姦されても良い…」
「式典の時だな」
「相当前じゃねぇか、今まで忘れてたのかよ!」
「何で怒ってるんだ?確かあの時、天の君も居たって流川が言ってた」
「うちの部に流川なんて居ねぇ、春川だろ?!」

バシッと加賀城昌人の手を叩いた香川は、ヒラヒラと落ちた黒いゴミを足で踏んだ。
目を丸めている昌人は『ミッチー生理?』などと首を傾げたので、誰がこの馬鹿に女体の不思議を耳打ちしたのか、探る必要があるだろう。スポーツのルール以外は覚えられない天才的馬鹿なのだから、変な知恵を与えないで欲しい。

「まー坊。生理なんて高尚な台詞、誰に教えて貰った?」
「こないだ野球部が喧嘩してた時、でかい方の平田が言ってた」
「良いかね昌人君、そっちの平田は頭と素行の悪さでFクラスにぶち込まれた、遺伝子組み換えでない生粋の極悪ヤンキーです」
「遺伝子…聞いた事あるぞ。NBA?」
「DHAだ馬鹿」

帝王院学園に於いて、スポーツマンの会話に正解はない。デオキシリボ核酸の略称は皆様もご存知の通りDNAだが、本当の意味で肉食主義の体育科では間違った認識なのだろうか。魚を食え魚を。

「ミッチー頭良い」
「これ以上お前が馬鹿になると困るから、平田太一とお喋りしたらいけません。判りましたか?」
「平田と俺、どっちが馬鹿だろ?」
「…圧倒的に勝ってるよキャプテン」

香川は思い出した。初等部から現在に至るまで、香川の学年の最下位を独占しているのは紛れもなく、目の前のイケメンだ。

「足長おじさん、加賀城敏史さんだってなぁ」
「俺のじーちゃんと同じ名前なんだよ、凄い偶然だな」
「此処まで馬鹿かぁ」

帝君は何度も入れ替わったが、真面目にテストを受けてちゃんと解答欄を埋めているにも関わらず、0点を取る事もある昌人を超える者は居ないと言う事だった。
Fクラスには成績不振と言うより問題児の方が多く、素行に問題はないが持病などで日常生活に不安がある生徒なども含まれている。

「じーちゃんはじーちゃんだけど、じーちゃんじゃないんだ」
「何だって?」
「俺の本当のばーちゃんは旦那さんと一緒に事故で死んだから、父ちゃんは大人になるまでじーちゃんに育てて貰ったんだって」
「本当のお祖母さんは、加賀城前会長の何になんの?」
「父ちゃんにこの話を聞いても黙っちゃって、良く判んないんだ。獅楼にも聞いたけど知らないっぽいし、もしかしたら…」
「もしかしたら?」
「父ちゃんはじーちゃんの愛人の子供かも?」
「それ誰に吹き込まれた?」
「フォンナートが言ってたぞ。アイツは王様の愛人の子なんだって」
「ピピーッ!まー坊、Fクラス接近禁止命令」

工業科に負けず人数が多い体育科では、怪我や病気を理由に部活動を続けられない生徒は少なくないが、大半はCクラスに収められていた。
然し中には車椅子などのサポートがなければならない生徒も居るので、通信講座が主体であるFクラスを、本人が希望する事もあるらしい。帝王院学園に常駐している保健医の中には、カウンセラーやスポーツ医学専門の教諭も居るので、ハンディキャップのある生徒も多く在籍している。

「Fクラスにゃ喧嘩っぱやい奴が多いんだから、マジで関わんな。喧嘩売られたら困るだろ?最後の大会に出られなくなんぞ」
「それは嫌だ。でもミッチー、差別は良くない。獅楼はカルマだけど嫌われてないだろ?」
「そうだけどよ。…まー坊さぁ、せめて3月までは怪我だけはすんなよ」
「俺はCクラスだと卒業出来ないからだろ?」
「就職先の内定は決まりまくってるも同然なんだから、ぼーっとしてたって卒業出来るっつってたぞ、担任が」

要は学ぶ意欲があれば卒業出来るのだ。
何せ基本的に本校の入学試験は初等部だけで、外部からの昇校生はスポーツ特待生か、専門的なカリキュラムに特化した工業科目的が大半だった。稀に進学科に加わる生徒も居るが、昇校システムに限っては普通科は除外される。

「楽しかった新歓祭も今日で終わっちまうし、工業科は就活、普通科は受験で大変な訳だ。お前は恵まれてるんだぞ」
「ミッチーは進学すんの?」
「しがない整骨院の息子だからな。継ぐにしたって柔道整復師の資格が要るし、トレーナーになるにしても大学で勉強しねぇと…」

いわゆる『記念受験』で入学した者、進学科を志しているが報われない者、普通科に在籍している生徒は、ほぼその二つで分けられていた。体育科でも、卒業後にプロへ進む人間は多くない。殆どは最上学部の体育学部へ進むか、社会人チームを抱えている企業の面接を渡り歩く。

「あー、もー、肩凝る話はやめだ、やめ!どっかで何か食おうぜ。左席の出し物って奴も、いつやるか判んないわーけーだーしー」
「んー」
「何してんだよ?」
「この辺に松木と竹林君が居たんだ。梅森は仲間外れかな?」

ああ、真面目な話は昌人の頭には難しかったらしい。芝生の上を眺めている長身は、首を傾げながらボリボリと頭を掻いた。

「知らねぇっつーの。どうせいつもの様に、松木が竹林さんのケツ追っ掛けてたんだろ」
「松木はお尻フェチなの?」
「あー、はいはい、お疲れ童貞」

誉高いインターハイ王者、アメリカのプロチームからもオファーが届いている日本代表の一枠を担う男は、柴犬の様に芝生を走り回っている。確かにブルーシートの規制線を乗り越えてやってきた当初の目的は『神帝スキャンダル』だが、昌人が目撃したと言う中央委員会会長の姿は何処にも見当たらない。

「此処に白百合そっくりな奴がいて、ちっこい子を抱っこしてた。で、この辺にかっちゃんが居たんだけど、こっちにいた裸の奴は顔が見えなかったんだ」

探偵気取りなのか、昌人は彼なりに丁寧に状況を説明してくれている様だった。然し何度説明されても、いまいちピンとこない。

「…ったく。あの神帝が青姦なんかすっか、俺や梅森じゃあるまいに」
「何か言った?」
「空耳ぃ」
「かっちゃん、何で男とチューしたんだろ?」
「さぁ。男にはベロベロしたい時があるからじゃね?」

香川は八つ当たり宜しく宣った。
初等部時代から昌人ほどの美貌に見慣れていると、目の保養を飛び越えて目の修業だ。そんじょそこらの面食いではない。香川は面食いガチ勢だ。然し贔屓目を含めても、香川は雰囲気イケメンレベルだった。邪魔にならない程度のアクセサリーと髪型で武装しなければ、毎朝無精髭が生える平凡な高校3年生だ。

「吸って吸われて揉んで揉まれて、あー羨まし。神帝なら入れ食い状態だろ。スターでドーピングしたマリオってよ。…クリボーの悩みなんて判んねぇんだろうな、お貴族様はよぉ」
「ミッチー、やさぐれモード。竹林君が居ない時の松木みたいだぞ」
「あんな腹黒ド変態と一緒にすんな!アイツが良いのは顔だけだろ!」
「顔?」
「松木はチャラさが鼻につくけど、梅森は男臭い顔してるよなぁ。何で3000円ぽっきり辞めちまったんだろ、もっと早くに知ってたら…」
「3000円で何か買うの?バッシュ?」
「あーもー、何でそんなに馬鹿かな?」

奇跡だ。奇跡の馬鹿がそこにいる。見れば見るほどに整った顔をしているが、千年の勃起も萎えるレベルの馬鹿だった。
どれほどの馬鹿かと言えば、中等部時代に昌人が、部活仲間である高等部の先輩の部屋にお泊まりすると言って、意気揚々と出掛けた時の話だ。久し振りの一人きりの部屋で、誰に構う事なく迸る性欲を右手で慰めていた香川の痴態を、何故か帰宅した昌人は目撃した。
硬直した香川は然し、何とか笑って済ませるつもりだったのだ。何で帰ってきたんだよ、泊まるんじゃなかったのか、言いたい言葉を口にする前に、ルームメイトは躊躇わず首に引っ掛けていた湿ったタオルを差し出してきた。風呂上がりだったに違いない。

『ミッチー、チンコが痒いなら拭いた方が良いぞ。俺も汗疹が出来たら痒くなるから判る。蒸れたんだな』

当時14歳だった。健全な中学生が股間を握っていたら、理由は痒いから掻いているのではない。出すもん出そうとしているのだ。イヤフォンを繋いだスマホでエロ動画を再生しているのだから、普通は判る。だが昌人は判らなかったらしい。

『薬あるから、使って』

股間剥き出しの香川を横目に、ガサガサと鞄を漁った昌人は爽やかな笑顔で痒み止めの薬を差し出してきた。男の体で最も敏感な部位に、『スーパークール』と表記されている痒み止めの薬を差し出してきたのである。
もう一度言おう、見蕩れるほど爽やかな笑顔だった。スポーツマンの鑑だ。馬鹿でなかったらとっくに押し倒していたに違いないが、加賀城昌人は救いようがない馬鹿だった。どれほどの馬鹿かと言えば、現在は勃起すると部活動の最中でも躊躇わず堂々と『あ、たった』とほざくほどの馬鹿だ。

「良いか、まー坊、お前は黙っていれば光王子に負けてない」
「副会長に勝ってるのは身長?」
「顔も。良いから黙って聞け」
「…」
「まー坊、返事は」
「今ミッチーが黙れって」
「返事」
「はい」

馬鹿しかいないバスケ部でも最たる馬鹿がキャプテンだから、部活動中に『シコリンピック』が開催されても止める者はいなかった。バスケ部の顧問はたまに顔を出すくらいで、練習中に現れる事はまずない。

「光王子は天が万物を与えちまった、王子の中の王子、キングオブ王子だ」
「凄過ぎる」

無我の境地を習得した香川はホイッスルを咥えて審判員宜しく、真っ先に射精する部員を見つけて笛を吹く役目だ。
氷河より冷めた目で観察し、元気よく射精した部員に乾いた笑顔で『金メダルおめでとう』と言ってやる。一度も金メダルを取った事がない昌人は、毎回悔しさを隠さない。勝てば勝つほど男としての魅力がただ下がる試合だが、馬鹿はいつでも全力なのだ。

「キングオブ王子に勝つのは人類じゃ無理」
「俺らは人類じゃないって事?…あ、そっか、は乳類だっけ?」
「羽生…?待て、そりゃスケートの王子じゃねぇか。駄目だ、スケートは冬季オリンピックだから」
「はっ!…じゃ、バスケは?」
「夏じゃボケ。お前、今度出るんだろうが」

直訳すると王子の王と言う訳が判らない語彙力の香川と、それを疑問にも思わない昌人の会話は留まらない。ボケしかいないからだ。

「光王子が外で親衛隊にハメてても何も変じゃないが、神帝が外でヤってるのは有り得んティー」
「何で?かっちゃんもチンコついてるぞ?」
「こんな所でガン見されて勃起すんのは、変態か光王子だけだ」

香川は高坂日向を悪気なく罵っている。残念ながら中央委員会副会長が変態ではないと断言する理由が、全くなかった。カルマの副総長を真顔で天使と言ってのけるレベルには、奴はイカれている。

「成程!俺ら体育館じゃ勃起しても、グラウンドじゃしないもんな!」
「声がデカい!」
「ごめん」

オタクに愛らしいと宣える会長とどちらが上かは定かではないが、平凡界の金メダリストと言う呼び名もありそうな山田太陽を『マイフェアリー』と讃える会計とは、良い勝負をしそうだ。
高坂日向VS叶二葉、変態王を決める決勝戦は間もなく開幕するかも知れないし、帝王院神威には歯が立たないかも知れない。

「で、神帝の顔見たっつーのはマジかよ」
「見た!真っ白だった」
「そんくらい知っとるわ!神帝は何とかっつー病気があるらしい」
「何とかって何?」
「何とかは何とかだよ」
「そっかー。かっちゃん可哀想、病気だから勃起しないんだ…」
「勃起はするだろ、男だし。白百合だってするよ」
「白百合はしないんじゃない?」

いや、えげつない膨張力だと山田太陽がほざいていた気がする。

「お前みたいに馬鹿素直な馬鹿は、良い人止まりだろうがな。白百合みたいな奴ほど狙った獲物は逃がさないタイプなんだよ。俺には判る」
「良い人って、そんな褒めるなよ。俺だって、たまに肉が足りなくてタレをご飯に掛けて食べる事もあるんだぞ」

恥ずかしげな昌人は言い難そうにほざいたが、そんな事は香川もやっている。何ならマヨネーズご飯も好きだ。食べ盛りの体育科では卵かけご飯に匹敵するメニューだ。納豆ご飯とカレーライスは神の晩餐会、ご飯が足りません。

「まー坊の馬鹿さ加減にゃとっくに慣れたと思ってたけど、改めて感動しちゃった」
「有難う」
「あらま、皮肉も通じないわこの子。馬鹿の世界チャンピオン」
「そんなに褒めるなよ。恥ずかしいだろ」

馬鹿には悪気がない。人を疑う心もない。
黙っていれば御三家に含めて貰えそうな容姿と身体能力がある癖に、思考回路に致命的な損傷がある。

「かっちゃんは学校で一番モテるんだろ?」
「モテ過ぎて神様扱いされてるけどな」
「パリピ?」
「そりゃバリバリのパリピだな」
「もし弱味を握ったら…」

叶二葉の性格にも致命的な損傷が見られたが、あの男は成績だけは良かった。いや、見た目も良いので成績だけではないか。天は二物を与える事はあっても、三物はないらしい。

「弱味ぃ?」
「ミッチー、お馬鹿?」
「オメーが言うな。古文と社会は70点取った事もあるっつーの」
「天才じゃん」
「崇め奉れ、万年最下位の加賀城昌人君」
「モテるかっちゃんなら、合コン出来るだろ?」

パチンと指を鳴らした香川は、

「合コン目当てかよ!」

怪我をするなと言ったばかりのキャプテンに、見事なドロップキックをお見舞いした。






























「確かめよし!」

でーんと豪快に横たわった毛玉の股が、ぱかっと開かれている。

「?!」

しゅばっと顔を逸らした帝王院俊秀は真顔で混乱し、暫く瞬きを繰り返した後、絞り出す声で『高天原』と呟いたのだ。血を吐く様な呟きだが、その通り、喉から血が出るかと思った。

「た、高天原に神留坐す神漏岐神漏美の命以ちて皇親神伊邪那岐の大神…」
「…何?」

意味もなく祝詞を唱えた俊秀は、米を炒る為の菜箸を振り回す。心臓が弾け飛びそうだが、一瞬でも他人の股を見てしまった罪を祓わずには居られないのだ。

「天神地神八百万神等共に聞食せと畏み畏みも白す…!」
「おい」
「高天原に坐し坐して天と地に御働きを現し給う龍王は…」
「…」
「大宇宙根元の御祖の御使いにして…」
「何処見たはる」

ガサゴソと立ち上がる気配を認め俊秀がゆっくり振り返れば、露出狂同然の顔に張りついた赤み掛かった前髪の隙間から、にゅっと分厚い唇が飛び出した。

「今の何?」
「龍神祝詞、だ」
「初めのは?」
「…天津祝詞」
「全部覚えてはるん?おつむがええ証や」

何故か毛玉は不貞腐れた様にその場で胡座をかき、膝の上にあけびを転がす。

「続き聞かして」
「祝詞を?」
「焔の兄者が下る時に火霧が送らはった餞と、同じやった」

ああ、そうか。雲隠の社には龍が描かれている。陽の宮が大地を乾かす事がない様に、水神を祀っているのだ。彼が暮らす土地には幾つもの田畑があり、太陽と水で成り立っている。

「一二三四五六七八九十の十種の御寶を己が姿と変じ給いて、自在自由に天界地界人界を治め給う…」

俊秀の声だけが響いた。ちらっと盗み見た毛玉は大きな瞳を閉じていて、俊秀の声に大人しく身を任せている。

「祈願奉ることの由をきこしめして、六根の内に念じ申す。大願を成就なさしめ給へと、…恐み恐み白す」

ぱちぱち、拍手が聞こえてきた。
喝采を浴びる様なものではないが、若干落ち着きを取り戻した俊秀は先程の毛玉の様に目を彷徨わせ、こほんと咳払い一つ。

「あの様な振る舞いは、二度とするな」
「振る舞い?」
「…おなごが、易々と腿を開いてはならん」
「俺の体が目当てや思てん。けしからん顔したはるし」

冤罪だ。濡れ衣にも限度がある。
大体、けしからん顔と言うのはどう言う意味なのか。冬月鶻から指摘された事はなく、雲隠火霧からもない。寡黙な灰原の当主は時節ごとの挨拶には来るが、世間話は一切しない。本当に挨拶だけだ。
灰原の当主が言葉を重ねる事で招く事態は理解しているが、そこまで徹底する必要はないだろうに、俊秀とは違う意味で孤独な宵の宮にも、背負うものがあるのだろう。ぶっちゃけ、現当主の声は俊秀には効果がない。鶻も知らない事だ。
然しそんな事を口にしてしまえば、軟禁だけでは済まないかも知れなかった。

「私はその様な事を言った覚えは…」
「男は猿や。陰具が勃起したら、女の股に出さな終わらへん」

ファー!と言う悲鳴を全力で飲み込んだ俊秀は、窒息寸前でケフっと咳をした。とんでもない来客だと痛感したが、既に遅い。

「って、姉様方が言わはる。腰振ってる男はアホみたいに無防備やさかい、簡単に殺せる」
「…そ、うか」
「アホに犯されたない」
「お」
「火霧は強いのに、アホや」

寂しげな娘の声に瞬いた俊秀は、菜箸を下ろす。

「孕めば産むしかあらへん。産めば死んでまう。兄者を下さなあかん日も、見届けてから晩まで泣いてはった。泣くんは弱いもんの証や。泣くんなら、産まへんかったらええ」
「…」
「俺は弱ぁなりたない。戦場以外で死にたない。弱い雄の餓鬼孕んで命縮めるんは、アホがする事や」

雲隠焔は俊秀より一つ年下だったが、物心ついた頃には山で捌いてきたと言う蛇の皮を持ってきて、俊秀の母が悲鳴を上げた事もあった。数を数えるのは苦手だったが、強い男だ。最後に見たのは彼が四つの時だった。

「焔は名を捨ててしまったが、簡単に死にはしない。腕を失った所で、十口の誰より強い筈だ」
「…」
「何より、陽と水を司る雲長の祈りを与えられている。…大丈夫だ」

彼はまだ死なない。
彼が死ぬのはずっとずっと先の事だ。鶻もそう。俊秀だけは知っている。

「十口に落ちたら『不要』なんや。そんなん、生きてても死んでるのと同じやろ」
「芙蓉とは蓮を指す」
「あ?」
「私が東へ移らねば、天網は狂うだろうか」

東。
姿なき何かは、俊秀が生まれた頃からそう呟いた。東は陽が昇る。奈良から京都、京都から江戸へと幕府が移り渡った様に、定められた流れを止める事など出来るのだろうか。
塞き止められた川は氾濫するだけだ。それでも。

「こほっ。…焦げ臭い」
「ああ、いかん。本当に焦げている」

慌てて菜箸で鍋の中身を混ぜた俊秀は、素手で鍋を持ち上げようとして手を火傷した。幾ら幼い子供だからと言って、異性の大事な所を見てしまった動揺は暫く収まらないだろう。祝詞の数にも限りがあるが、全てを唱え終わる前に冷静さを取り戻せるだろうか。

「何しはったん?」
「見ていただろう?手を焼いたんだ」
「今の話と違う。俺はアケビを盗んだ事になってるんや。あそこが月の宮の敷地やて知らんかって、禰宜様が焼いてはった栗の匂いがしはって…」

腹を空かして山を彷徨い肉を探したが見つからず、やっと木の実を見つけたら今度は焼き栗の匂いがしてきた。その所為で月の宮の神職らに見つかり追われたのだと、不貞腐れた毛玉は膝を抱えながら、ぽつぽつ呟いた。

「叱られるのはかまへんけど、連れ戻されるんは嫌で逃げてもうた」
「栗や芋が美味い季節だからな」

ぐーきゅるる、と言う腹の音が響く。抱き締めているあけびを食べる気配はないが、素直に茶が沸くのを待っているなら可哀想だ。

「栗はないが芋はあるぞ、火鉢で焼いてやろうか。それまで、ビスカウトを食べて待っていろ」
「…手、ばばちい」
「水桶を持ってくる」

頑なに上がってこようとしない娘の為に、俊秀は井戸から汲んだ水を貯めている瓶の蓋を外し、柄杓で手桶に水を注いでやった。見れば見るほどに汚れている子供が気後れしているなら、譲歩しなければならない。

「俺が捕まるんは仕方ない事や。でもお前様は何して捕まりはったんや?檻も錠もあらへんさかい、いつでも外に出はったらええんや」

俊秀の一挙手一投足を目で追っていたらしい娘は、膝を抱えたまま首を伸ばしている。そんなに気になるなら近寄ってこれば良いのにと思わなくもないが、もう少しの辛抱だろう。初めより慣れてきた。慣れ過ぎて股を開かれるのは困るが、悪気は感じない。

「私に逃げる気などない」
「何で?」
「何故だと思う?」
「大宮で悪事を働いたもんは、火霧が殺しはる。でもお前様は生きて、綺麗な袴履いたはる。何でなん?」

口を開いた途端に質問責めとは、忙しい子供だ。どうみてもうら若き娘には見えないが、俊秀の体とは全く違った。風呂を嫌がっていたのではなく、俊秀に洗われる事に抵抗があったのであれば、無理もない。

「後で答えてやるから、まず顔を洗え」
「お縁、汚してまう」

桶を縁側に置いたのはわざとだ。然し敵も然ることながら、素直に首を振ってはくれないらしい。目の前に持って行ってやれば早い事は判り切っているが、此処に来て逃げられては堪らない。
日中の大半を座って過ごしている俊秀は、この狭い茶室の中を歩く事しかなかった。山を3里も駆け回って、荘厳な大社の屋根に上り逃げ回る様な体力の持ち主に挑むだけ無駄だ。
春先に珍しい蝶が迷い込んできた時は、ついつい追い掛けてしまった事もあったが、ものの数分で脇腹が痛くなった。そんな格好悪い姿を義弟見られてしまったが、目が合うなり逃げていってしまったので、弁解する暇もなかったのだ。いや、弁解するも何も、果てしない運動不足で自滅しただけではあるが。

「言っただろう、此処には私しかいないと。私が良いと言っているのだから、遠慮する必要はない」
「ほんま?後で体で慰めぇて言わはったら、どつくえ」
「…私はそんなに酷い男に見えるか?」

17歳になっても女の体を見た事もない俊秀に、お稚児趣味なんてものは微塵もなかった。鶻からも何度か、そろそろ女はどうだと言われて来たが、俊秀は首を振り続けてきた。寿明には、側仕えの中に夜の務め役の巫女や『影』と呼ばれるくノ一がいるが、俊秀には居ない。求めれば与えられるのだろうが、求めようと思った事もなかった。

「修業は好き。房中術はあかん。でも、十になったら学ぶ決まりがある」
「それが家出の理由か」

囲炉裏の炉釜から湯気が立ち込めたので、俊秀は立ち上がった。
ピクっと肩を震わせた娘は、中へ入った俊秀を追う様に縁側に張りつき、俊秀の一挙手一投足を眺めている。ヒラヒラと落ちてきた葉が縁側に届くと、しゅばっと手で薙ぎ払うのを見た。掃除をしてくれたにしては、豪快な仕草だ。
お椀に茶巾を広げて乗せ、若干焦げた玄米を匙で落とす。絞った茶巾を椀の端に寄せ、抹茶をひと匙落として柄杓で湯を注ぎ、暫し待つ。ぱちゃぱちゃと水の音が聞こえてきたので振り返れば、桶に手を突っ込んでいる毛玉が見えた。

「然し、そなたは十とは思えないほど痩せているな」
「俺は十やあらへんえ?」

本来なら茶筅で混ぜなければならないが、俊秀は玄米の香りが立つまで少し待ってから、ゆっくりと茶を点てた。

「お前は幾つ?」
「ん?私は、」
「見つけたぞ桐火!」

何の気配もなく上から落ちてきた声に、俊秀の目の前で子供が飛び上がる。俊秀は真っ直ぐに空を見上げ、黒装束の女を網膜に映した。
とうとう雲隠のくノ一が、追跡隊として派遣されたらしい。

「…随分、耳障りな真似をする。此処が龍の宮と知っての振る舞いだろうな」
「こ…これは、宮様…!」
「み、宮様ぁ?!」

視界のずっと下の方で、ガリガリの子供が素っ頓狂な声を上げたので迂闊にも笑いそうになったが、俊秀の目は屋根の上で跪いた女に向けられたままだ。

「下がれ。その娘は私の世話係にすると火霧に伝えるが良い」
「なりません!桐火はお体の優れない長の跡を継ぐお役目が、」
誰に口を利いている?

顔を黒い布で隠した女は怯えた様に肩を震わせると、深々と頭を下げて霧の様に消えた。
ぽかんと口を開いたまま、屋根と俊秀を忙しなく交互に眺めた雲隠桐火は何を思ったのか、あけびを高々と持ち上げ凄まじい勢いで土下座すると、ぐりぐり頭を地面に擦りつける。

「ひ、秀之の宮様とは露知らず、ご、ごぶ、ご無礼を…!」
「顔を上げろ。私は秀之ではない」
「………ほならテメーは何者やコラァ!」

光の速さで飛んできたあけびは俊秀の額を直撃し、パカンと2つに割れた。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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