帝王院高等学校
寂しい王子様の元に毛玉をお届け!
東。
東。
東。

幼い頃から聞こえてきた『世界』の囁きが、近頃強くなっている気がする。いつの頃からか、聞こえてこない日は殆どなくなった。けれど耳を塞いでも意味はないと知っている。
人は慣れる生き物だ。姿なき精霊の囁きは今、生活の一部として溶け込んでいる。

「…私は何処へも往かない」
(東屋の犬は吼え猛る)
(天が待っている)
(赤き鳥居は凍りつき、灰とも白ともつかぬ常世の頂きに)
「私の御魂は都に産まれ、都に沈むが宿命」

この体に翼はなく。
然れど鎖で繋がれている訳でもないのに、籠の中。四角い空を泳ぐ雲の様に生きられるのなら、などと。身の丈に合わない望みは、抱いた事もない。

(お前の系譜は翔く)
(お前は仏に牙を剥く)
(東。罪深き緋色の血が、創造と終焉を紡ぐ)

生活の一部だ。
風邪がそよぐ様に雷が轟く様に地が震える様に、人の身では逃れる事が出来ない。ただただ聞いている。返事をした所で『彼ら』は、人の子の声になど耳は貸さないのだ。

「…いつか隼が言った様に、私にも運命を変える力があるのだろうか」

立派な杉だ檜だと、いつか大人達が茶を啜りながら褒め讃えた『神の木』を、今はもう誰も気に掛けない。初めて見た時から知っていたけれど、口にしたのはいつだっただろう。
けれどあの時、あんな事を言わなければ良かったなどと、後悔している訳でもない癖に。

(東)
(陽が宿命を紡ぐ)
(東へ…)

それなのにこの声は、酷く心地が良い。覚えている筈のない母親の腹の中に似た、穏やかな揺らぎを与えてくる。逆らおうと思わせない為だろうか。それとも。

「…私は、」

がさり・と。
見るともなく眺めていた樹齢数千年の大木が音を発て、ばさりばさりと葉を落とした。四季から遠ざけられた『蛇』の傍らにあるそれは、一年中緑の葉を茂らせていて、時々やって来る生き物をいつもは静かに受け入れている。

まるで吹雪の様に落ちた葉を目で追って、地面に緑が広がりきったのを確かめると、再び目線を上へ走らせた。静まった御神木に巻かれている注連縄のまだ上、夏の盛りをとうに過ぎた筈の木々に生えた青々しい葉の隙間に、果たして『それ』は居たのだ。


「珍しい来客だな」

猿かと思えば鳥だった、と。
囁く男の漆黒の瞳が、柔らかく細められた。ただでさえ此処から見える空の殆どを独り占めしている大樹の葉は陽光を浴びて、隙間から眩い日差しを注いでくるのだ。目を凝らしても『それ』の輪郭は、良く判らない。

「大きな鳥がいたものだ」

何かを咥えている薄汚れた『それ』はまるで獣の様に、母屋の屋根から飛び降りてきたのだ。それだけはこの目で見た。
僅かな静寂は、遠くから近づいてくる足音で忽ち掻き消される。一つや二つではない。もっと大勢だ。

「よもや大宮に上がるとは。…彼奴め、何処ぞへ往んだのか?」
「通り庭には居らなんだえ」
「おのれあの悪童め、性懲りもなく…!影を呼べ!宮仕えの番犬でも、ごんた一匹捕まえる事くらいでけるやろ」
「禰宜の身なりで荒くたい言葉使たらいかんえ。宮様の耳に入る前に捕まえな…」
「そやな。どやすのんは、大宮から出はってからにしはり」
「えぞくろしいてかなん。大人をおちょくった罰や、座敷牢に放ったる」

騒がしい声は何処か現実味がない。
ピクリと肩を震わせた『それ』が、毛を逆立てている野良猫の様に見えたからだろうか。

大宮とは母屋の通称だ。
離宮も合わせると五つの建物で大菱形を描いている帝王院の母屋の敷地は、街一つ分ほどある。正しくは稲荷大社の一つだが、遡れば平安時代から天狐と言う通り名がある帝王院の社は天宮と呼ばれ親しまれており、他の四つの社は最も近い宵の宮以外、他の街にあった。

「祇園の賑わいはとうに終わったと思っていたが。神職にしては、余りに賑やかしい」

人々が参る表の大宮から入る事が出来ない天宮の中心部、口の字を描く帝王院の屋敷の中央には、龍の宮と言う離れ茶室がある。隠れ屋の様なそれは草木に覆われていて、50坪以上あるだろう隠れ庭の、その中央に佇む御神木の傍らに寄り添う様な造りだ。
四季が移り変わっても景色が変わる事が殆どない箱庭は、時が止まった牢獄の様だった。蛙や蝉や鈴虫が集う時期は賑やかだが、一年の大半は静寂に包まれている。

「…アケビ?」

つい先程までは。
然し騒がしい足音が遠かって消えてしまうと、いつもと同じく余りに静かだったから、見間違いかと思ったほどだ。畏れ多くも天狐大宮に祀られた御神木は、何事もなかったと言わんばかりに聳え立っている。
然し枝葉の隙間からぽとりと落ちてきた木の実が、先程舞い落ちた葉布団の上にコロコロと転がると、やはり見間違いではなかったのだと知らしめてきた。

「…追われている理由はそれか」

丸々と太ったあけびを眺めていると、獣が唸る様な音が聞こえてくる。まるで『それはやらん』と言っているかの様だったが、あけびから目を離し再び見上げても、御神木と日差しに身を隠している唸り声の主は良く見えない。

「案ずるな、彼らが此処へ踏み込む事はない」

秋口に迷い込んでくる蜻蛉を呼ぶ様に持ち上げた手で、神木の枝に張りついている『それ』を呼んだ。
警戒している猫の様な、やはり猿の様な『それ』は落ちたものと同じく大振りのあけびを咥えたまま、帝王院俊秀が差し出した掌をじっと睨んでいる様だった。落ちてきた時はがざりと音を発てたものの、以降は動く様子がない。慌ただしい足音が遠ざかって尚、静寂に紛れるかの様に、息を潜めていた。

「何故ならば、天宮に住まう天狗は蛇を嫌う」

空は晴れている。
立派な御神木に大半が埋め尽くされた四角い空からは、容赦なく煌めく陽光が覗いていた。その眩しさに目を細めつつ、逆光で身を潜めている獣へ笑い掛ける。怯える必要はないのだと、伝わるだろうか?

「いつか見た西の山の麓には、それが豊富に実ったな。もう熟れているか?」
「…」
「そなた、月の宮へ忍び込んだな。此処から3里はあるだろうに、走って逃げてきたのか?」

蝶は春先に。
蝉は夏の最中。
近頃頻繁に迷い込んできた赤蜻蛉の姿を見なくなって、何日目だったか?

「祭主の声が聞こえたが、冬月へ輿入れした娘が懐妊した為に日夜祝詞をあげている筈だ。気高き翼ですら羽を休めておるのに、祭主が天宮へ戻る理由は限られていよう」
「…」
「時期が悪かったな。鶻は大殿の甥も同然、その妻が丁重に扱われるのは定められた道理だ」

寂しい箱庭への久し振りの来客を、みすみす逃す気はない。
口は悪いが優しい冬月鶻は皇の決定のまま嫁を迎え、近頃は顔を見ていなかった。何事に於いても合理的な思考の持ち主なので、手っ取り早く『求められる仕事』を果たしたに違いない。

「見つかれば座敷牢だと言っていたが、聞こえたか?」

祝言を挙げると不貞腐れた顔で報告にやって来た男が、間もなく父親になる事は初めから判っていた。それが娘だと言う事も判っているが、娘の名前までは視る事が出来ないままだ。捻くれ者の冬月鶻ならば、俊秀にも思いつかない、さぞかし面白い真似をするのだろう。

「月の宮へ忍び込み、大宮へ忍び込めば仕方ないだろうが、暫く隠れておれば彼らの怒りも治まるだろう。禰宜や出仕は、そう暇な役ではないからな」
「…」
「…そうだ。昨日、千鶴殿から頂いたビスカウトがある」

鶻の足が遠ざかったのと引き換えに、何故か腹違いの弟が忍び込んでくる様になったが、俊秀と目が合うとすぐに逃げてしまうのでまだ話はしていない。流石に、初対面で名前を呼んでしまったのは失敗だったのだろう。『世界の囁き』が早くから報せてくるから、俊秀は楽しみにし過ぎていたのだ。

「南蛮渡来の煎餅だ」

縁側の下に隠している火鉢を座ったまま取り出し、俊秀は持ち上げた。茶室の囲炉裏は必要な時に火を起こしているので、火鉢を使うには竈から種火を取らなければいけない。
毎朝宮仕えの誰かが運んでくる種火は、俊秀が消すまで土間の竈を温めている。『夏場は地獄だ』とは、歯に衣着せぬ従兄の口癖だ。

「玄米を炙って、茶を淹れよう。刈り取ったばかりの稲穂は良い香りがする事を知っているか?」

お前の事は初めから知っていたなどと宣えば、普通の人間は不気味がる。いつか鶻が言っていた。

「私は煎じた茶に玄米を入れたものを好んで飲む。米を炙ると、日に焼けた稲穂よりも強く香るんだ」
「…」

かさりと、御神木の葉が音を発てる。
竈の中から二つ取り出した炭を落とした火鉢を抱え、囲炉裏に一つ炭を分けてやってから、縁側の真ん中に火鉢を置いて暫く放置しておく。小さな鍋に米をひと握り落としたものを乗せておけば、焦げる匂いがするまで待つだけだ。

「これで良い。後は湯を沸かしながら、待つ」

また、かさりと御神木が音を発てた。戻ってきた俊秀の頭を覗き込んでいるのか、今度の音は先程よりも大きい。何をしているのか不思議に思っているのか、不審がっているのか。どちらにしても食いついている様だと小さく笑ったが、此処で下手に動けば逃げられてしまうかも知れない。
懐かない獣を見るのは初めてで、俊秀はどうしようもなく気持ちが弾んでいる。けれど急いては事を仕損じるのだ。ゆっくりゆっくり、牙を剥く獣の尖った心を宥めてやるしかない。

「腹が減っているのだろう?…降りてこい、南蛮の煎餅は大層甘いぞ」

だから知らんぷりをしている。
寡黙な来客の正体に見当はついているが、決して口にはしない。向こうから名乗るまで、向こうから近寄ってくるまで、決して。

…ああ、静かだ。
精霊の囁きも聞こえてこないのは、とても珍しい。彼らも予期せぬ来客に驚いてしまったのか、それとも、御神木で羽を休める罰当たりな鳥に憤慨しているのか。

「私が一人で喰らうには、量が多いんだ」

例え御神木の枝葉に身を隠す、鳥でも猿でも猫でもない『それ』が小汚い獣の様な身なりだろうが、俊秀には久し振りの客だった。義理の妹と言うだけで話す事もない帝王院千鶴は、こうして度々女中に土産を託けてくれるが、義父である帝王院寿明に恩がある限りは彼を裏切る様な真似はしないだろう。
数年前に生まれた帝王院秀之と千鶴の仲は、誰が見ても睦まじい様だ。帝王院の娘として巫女の務めを負っている千鶴は、俊秀が幼い頃に課せられていた禊を秀之が行う様になってからは、秀之の世話役として仕えているらしい。仲睦まじい姉弟と言うより侍従の様だと思わなくもないが、恐らくそれは、帝王院の子としては間違った見解なのだろう。

「昨夜の夕餉の後に一つ喰らうたが、アケビより甘かったぞ」
「…テメー、姫巫女様、知ってはるんか?」

やっと『それ』は口を開いた。
カラカラに掠れた声音は男なのか女なのか、良く判らない。この広い敷地を走り回れば、流石に当然だろう。大宮だけでもかなりの広さだが、天宮も複雑な迷路の様な造りだ。だから屋根の上を走り回る羽目になったのだと推測するが、一時的とは言え空蝉を撒いたのだから、中々の曲者だ。とは言え、社仕えの禰宜や権禰宜は明神や冬月から下った者が多い為、身体能力に関してはそれほど優れてはいない。

「昔一度お会いしたきりだが、千鶴殿は姫巫女と呼ばれているのか」

相手が雲隠ならば、苦戦するのは当然の道理だ。特に雲隠のくノ一は、遥か戦国時代から伊賀上野の忍も一目置いている。徳川の時代が長引くにつれて減っていった他流派の忍者とは違い、女が多い雲隠は今も続いていた。

「巫の緋袴は、千鶴殿に良く似合うだろう」

宮司たる帝王院に仕え、神でも仏でもなく帝王院の為に生きては死に、彼女らは新たな狗を育てている。雲隠の女は強かったが、次から次に死んでいく。死ぬ間際まで子を産み、産めなければ育てて、鋭利な牙を磨ぐのだ。鋭利な牙に育たない子は十口へ落とされ、また新たな牙の器を探すだろう。まるで呪いの様に。
俊秀の母親がそうした様に、呪われているのは雲隠だけではなかった。

「…変な訛り」
「何?」
「見ぃひん顔や」

がさりと木々が音を発てる。恐らく龍の宮を覗き込んでいる様だが、茶箱を開けて取り出した筒の蓋を開けていた俊秀は振り返らない。縁側から畳へ足を進め、火を起こし囲炉裏の上に炉釜を置いた。朝一度沸かした白湯が入っているので、水から沸かすよりは早い筈だ。
ぱちぱちと爆ぜる炭の音は、縁側に置いている火鉢から聞こえてくる。真っ先に火を起こした木炭が、漸く焼けてきたらしい。

「祝の袴は紫。…何でテメーは白い袴着てん、宮司様しか着られへんもんや」

覗き飲む為に両手で枝を掴んだまま口を開いた所為か、ポトっと落ちてきたあけびが、コロコロと土の上を転がった。鹿威しが鳴るだけの小池を囲っている小石にぶつかると、身振りの良い果実の皮に、くっきりと刻まれた歯型が見える。

「大宮には居ないから知らないだろうが、禰宜や出仕には浅葱の袴を纏う者もいるんだ。そして大宮司であらせられる大殿がお召しになっている袴には、見事な白紋があしらわれている」
「…」
「見えるか。私の袴は、ただただ白いだけだ」

二つの木の実は沈黙したまま、風も舞い込めない箱庭にあるのは炭が爆ぜるささやかな音ばかり。

「…俺はテメーなんや見た事あらへん。天宮の中を歩いたはるのんは、巫女様か祝様、それと宮司の殿様だけや」
「私はそのどれでもない」
「…怪しい」

目が光に慣れてきたのか、御神木に同化した獣の姿形が縁取られていく。
然し鋭い眼差しが見えてくると、俊秀は苦笑した。落としたあけびと俊秀を、忙しなく交互に眺めている様だ。食糧を取りに降りたいが警戒を解く事は出来ない、ああどうしよう・と、微かに見える表情が語っている。いや、表情ではなく仕草か。どうした事か、顔は全く見えない。

「降りておいで。そう睨まずとも、お前の大事なアケビを取ったりはしない」
「…」
「私を信じられないなら仕方のない事だが、そこは危ないぞ。何千年も神仏を祀ってきた神木と語り継がれているが、…もう咲く事のないただの桜だ」

神も仏も宿ってはいないのだと、幼い頃に父の前で呟いた時は、母親から罰当たり者と叱られた。昔の話だ。
あの時、それが真実であっても口にするべきではなかったのだと判ったのは、この小さな屋敷に放り込まれてからだった。当時の親族は挙って『仏を侮辱した嫡男』を非難し、あのままでは内部分裂が生じただろう。すまないと呟いた父親の表情が余りにも痛々しいものだったから、以降、俊秀は両親と会話していない。

「…くんくん。焦げ臭い」
「鼻が良いな。だが、まだだ」

帝王院の嫡男を閉じ込めた事で灰皇院に動揺が走った様だが、秀之が産まれるとそれも落ち着いている。今は平和なのだ。それを壊すつもりはない。

「じっくり炙ると米が軽やかに爆ぜる。…実はそのまま喰うのも美味いが、同意を得られた事はない」
「米を炊かずに焦がして喰うんか。おくど使わへんの?」
「炊いた飯とは違うが、本当に美味いんだ。食めば、芳ばしい香りと共にカリカリと音がする」
「…変な奴」

榛原の当主の元に嫡男が産まれて、雲隠にも娘が産まれて、今度は冬月に子供が産まれるらしい。『化け物』を龍の宮に閉じ込めた後は、良い事ばかりが続いている。平和だ。例えそれが他人事だとしても。

「ああ、良く言われる」
「お前は俺を捕まえへんのか」
「木登りはした事がない。私には無理だな」
「どんくさい男」
「そうだな。何年も此処から出ていない私の足では、屋根に上がる事も出来ないだろう」
「…何年も?」

ぱちぱちと爆ぜるのは炭だ。米は少しも変化していない。
怪訝げな問い掛けに答えなかった理由は、自分の事ながら良く判らなかった。言いたくない訳ではない筈だ。大宮に仕えている誰もが、俊秀の存在を知っている。盆正月にわざわざ俊秀の元にも挨拶へ来るのは灰原の当主くらいだが、だからと言って忘れ去られた訳ではない。見て見ぬ振りをしているのだ。この世のものではない何かを見ている俊秀を、恐らくは畏れて。または天狐たる天神の命令だから。

『犬も狐も同じ穴の狢よ。世に蔓延るのは常に、馬鹿と弱者ばかりだ』

ああ、口が悪い男の声が聞こえてくる様だ。
あれほど気高い男でも、天の命令に逆らう事は出来なかった。命じられるまま妻を娶り、大人しく従っている素振りで然し、天網の定めを食い破ろうとしている。何もせずにただ終わる日を待っているだけの俊秀と鶻は、まるで違う。

「おい。往んだか?」
「…ああ、残念ながらまだ生きている」
「残念?何が残念?」

カサカサと葉が擦れる音がした。
急に黙り込んだ俊秀を訝しんでいるのか、声が先程よりも刺々しい。コンコンと咳が聞こえてきたと思えば、ぺっと吐かれた痰が落ちてきた。やはり獣の様だ。

「焦げ臭うて適わん。鼻が曲がる」
「まだだ」
「そやかて臭いもんは臭い。俺をいちびるつもりやったら、しばく」

ボキボキと恐ろしい音が聞こえてきたが、降りてくる気配はない。丸々育ったあけびが寂しげに沈黙しているが、目を凝らすと小さな蟻がよいしょよいしょと集っていた。歯型がついている、最後に落ちてきた方だ。

「そなた、美霧の娘だろう?」
「そんな女、知らん」
「ああ、そうだったな。焔は元気にしているか」
「兄者はもう居らん。腕を落としてからに、弱ぁならはった」
「…そうか」
「お前、何でこないけったいな所に居るん?ぐつ悪いんか?」
「何処も悪くはしていない。…そうだな、此処も座敷牢の様なものだ」
「あ?」
「それよりも、早く降りてこないと蟻がお前のアケビを食んでいるぞ」
「お前、咎人なん?!」

しゅばっと降りてきた『毛玉』が、しゅばっとあけびを拾って蟻を手で払い落とすと、ビシッと指差してきた。その小さな指先に小さな蟻が一匹ついているが、気づいていないらしい。

「そなたにはどう見える?」
「天の宮には、殿も宮様もおらはる!」

大きな声に似合わず、痩せ細った毛玉は余す所なく汚れていた。此処から西に十数キロはあるだろう冬月の屋敷の山から、山伝いに大宮まで逃げてきたのであれば、判らないでもない風体だ。

「テメーにえぐい魂胆があったかて、無駄や無駄!天罰が下る前に諦めぇ!」
「特に魂胆はない」
「…あ?嘘つきは明神の禰宜様が吊るさはるえ?」
「そなたこそ面白い話し方をする。…ああ、そうか。陽の宮は奈良府に近い」
「奈良は府やない、県や」
「うん?変わったのか?いつから変わった?」
「よう知らん。俺は字は書けへんけど読めるさかい、知ってる」
「そうか。山を駆けてきた様だが、猪に襲われなかったか?」
「鹿より猪のが美味い」

ボロボロの着物を帯とも呼べない様な紐で縛った体躯は痩せ細っていて、無造作に伸び切った髪で顔の殆どが隠れている。酷く汚れて固まった前髪の隙間から、ぎょろりと大きな瞳が覗いているが、近くで見ると、その髪は赤みを帯びていた。余りにも汚れているので見間違いかと思った程だが、純粋な黒髪ではないのは間違いない。

「美霧は黒髪だったが、火霧の赤毛は美しかった。お前は火霧に似たのか」
「…」
「美霧と火霧に血の繋がりはない筈だが、不思議な事もある」

険しい山の中で日夜修業に励んでいる雲隠は、毒に耐性をつける食事が義務づけられていた。だからか髪の色が薄い者が少なくなく、年中軽装なので夏場は日に焼けていて、潔癖の嫌いがある者からは野蛮人と謗られる事もあった。
髪が日に焼けると赤くなる事があると言ったのは、鶻だった。陰口を叩く大人を嘲笑う鶻の聡明さには、寿明も一目置いている。鶻を言い負かせる者は少ない。だからこそ鶻は、俊秀の軟禁状態が寿明の命令でさえなければ、すぐにでも解放を求めた筈だ。少なくとも俊秀が閉じ込められた直後、誰よりも暴れ回ったのは鶻だと聞いている。

「陽の宮は月の宮とは真逆、此処からずっと東にある。東から昇る太陽は、陽の宮を真っ先に照らす」
「…」
「だから陽の宮の社は、鳥居も瓦も赤い」

そして鶻は、間もなく座敷牢へ放り込まれた。
あのまま反抗を続けても、解放が長引くだけだっただろう。一人軟禁されている俊秀の身を案じた鶻は反省を装い、牢から出されてからは従順を装い続けた。俊秀が遠ざけられた後に産まれた秀之を皆が跡取りの様に扱い始めると、空蝉の当主たる雲隠火霧の元にすっ飛んでいき、喚き散らしたそうだ。

『宮様には不自由を敷いているが、弱きは淘汰されるが世の道理。幼き弟君が天狐の器でなければ、我が殿に申し上げよう』
『ふ。…だが、秀之は賢い子だろう?』
『…』
『私を案じてくれる気持ちは有り難いが、このままで良いと鶻にも言った』
『…宮様』
『私が希う事はただ、争いのない平穏な世だ。平穏な朝を迎え夜が明ければ、再び平穏な陽が昇る事。…判ってくれるか?』

彼女は良く、俊秀の髪を梳いてくれた。
いつか俊秀の母が毎朝そうしてくれた様に、つげの櫛で撫でられるのは大層心地が良い。恐らくもう、彼女に会う事はないのだろう。夏の盛りはとうに通り過ぎ、東から昇る太陽は遥か遠く。
陽の宮を灯す残り火は、冬を待たず消えるだろう。

「…何だ?私の顔に何かついているか?」
「…けしからん顔してる」
「顔?」

毛玉の様な子供はキョロキョロと辺りを見回しているが、まだ警戒心は解けていないらしい。

「ほんまは猪狩りに行ったんえ。三日三晩山篭りしたけど、きゃあらへんかって」
「寒くなってきたから、獣達は奥へと隠れたのだろう。山の獣は雪が降ると眠る」
「この時期はあかん。腹が減って仕方ない。冬は好かん」
「そうか。だが陽の宮には米があるだろう?明の宮から連なる水田は、秋になると黄金色の穂をつけると言う」
「…俺は帰られへん」

絞り出す様な呟きが聞こえてきた。

「帰らない?何か理由があるのか?」
「火霧が死んだら終わるんや」
「…終わる?」
「俺は、」

何か言い掛けた子供は、然しカポンと鹿威しが鳴ると、しゅばっと小池へ注がれる水へ口をつける。空腹には耐えられても、喉の乾きは我慢出来なかった様だ。牛の様にごっきゅごっきゅ飲んでいるので、止めるのは躊躇われたが、流石に構わない訳にはいかない。

「裏に井戸がある。その水は飲まない方が良い、腹を下すぞ」
「…ぷは!阿呆くさ、こんで死んだら十口にも笑われるわ。俺が往生してもお前に関係あらへん」

ぎょろりと睨まれたが、先に目を逸らしたのは向こうだった。
暫し観察した上で判ったのは、何故か『毛玉』は俊秀を長く見つめていられないと言う事だ。ちらっとは見つめてくるが、すぐにプイっと目を逸らされてしまう。暫く無言が続いたかと思えば、唐突に毛玉は池の中へ頭を突っ込んだ。

「な」

流石に意味が判らなかった俊秀は切れ長の瞳を見開いたが、池の水でジャバジャバと豪快に顔を洗った毛玉はずぶ濡れの前髪を顔に貼りつけて、波立った水面をじっと凝視している。
水浴びする犬の様だと思ったが、犬の様に身体を震わせて水切りをするでもなく、じーっと水面を睨んでいる様子は不気味だ。

「ど…うした?池に何か居たか?」
「…めちゃちゃついとった」
「目やに?」
「ばばちいやろ…」

ぽつりと呟いた毛玉は、ゴシゴシと顔を着ている着物で拭いてからも池を覗き込み、ちらっと俊秀を盗み見ては俯いた。先程までの騒がしさは何処へやら、何故かもじもじしている。

「その顔で見んといて」

また顔か。
何が言いたいのか全く判らない。どうしてこんな時にお喋りな精霊達は沈黙したままなのか、流石に腹が立つ様な気もする。姿なきものに腹を立てても無駄だと判っているが、さっきまでいつもの様に煩かったのだ。

「震えているが、寒いんだろう?おいで。炉で湯を沸かしているから、まずは顔を拭け。後で風呂を沸かし、髪を洗ってやる」
「…はぁ?!」
「落としてしまったアケビも、井戸水で洗った方が良いだろう。ほら」

俊秀は手を差し伸べたが、もじもじしている毛玉は屈んだまま動かない。あーだのうーだの唸り、あけびを抱えたままオロオロと、忙しなく周囲を見渡している。

「どうした?」
「お、俺…」
「うん?」

歳の頃は8つか9つくらいだと思うが、雲隠は鶻曰く『無駄に発育が良い』人間ばかりなので、もしかするともっと幼いのかも知れない。俊秀は17歳の若者だが、幼子から見れば大人と大差ないだろう。

「何を気にしている?私以外には誰も居ないぞ」
「!」

そう言うと、座り込んだ毛玉が目に見えて跳ねた。ぷるぷると震えているが、寒いのであれば火鉢に当たらせたい。米が爆ぜ始めた火鉢からポンポンと軽快な音が聞こえてくるが、毛玉はぷるぷると震えたままだ。

「何だ?」
「帰る」

すくっと立った毛玉から、ぼたぼた水滴が滴り落ちた。
そのままくるっと背中を向けたので慌てて『待て』と言えば、ピタっと足を止めた毛玉のボザボサな後ろ髪が一度だけ揺れる。汚れて絡まった髪は野良犬の尻尾の様だ。

「せめて夜になるまで中に居た方が良い。見つかれば、座敷牢に連れていかれるぞ。あそこは、夜になると酷く冷えるそうだ」
「せやし、ばばちい」

くしゃりと汚れた着物の裾を握った手が見える。恐る恐る振り返った子供の顔には相変わらず髪が張りついていて、ぎょろりと見開かれた大きな瞳はやはり俊秀を直視出来ないらしく、あちらこちらへ泳いだ。

「俺、臭うから…」
「だから洗ってやると言っただろう?」
「何で…」
「風呂は嫌いか?心配せずとも、私は風呂炊きは得意だ。いつも自分で炊いている」
「何で咎人が風呂に入ってはるん」
「ん?」
「何で天宮に住んでるん?何で生かされてるん?」

ぎゅっとあけびを掻き抱いた毛玉が、しゅばっと顔を上げた。

「お前、何がしたいんや?!」

然しその表情の大半は見えず、大きな目だけが俊秀を見据えている。芳ばしい香りが漂ってきたが、構う余裕もない。

「俺を拐かして手篭めにしはるん?!」
「は?」
「房中術目当てやったら諦めぇ、修業してへんしおもろないぞ!」
「な、にを言っている?ぼぼぼ房中術…?」
「嘘や思たら、確かめはりよし!」

どさっと座った毛玉が、その場でパカっと股を開いた。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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