帝王院高等学校
懺悔のお供はメロンパンとコーラで!
「青い手毬は八つ。赤い手毬は四つ。僕と宵の宮がそれぞれ半分こにすると、幾つずつになる?」
「青いのが4つ、赤いのが2つ」
「君は数えるのが早いね、文仁さんみたいだ」

平凡な男。
物静かで、喋らなければ存在感を忘れてしまう様な、この屋敷では珍しい存在。

「前回教えた、いろはとあめつちは覚えてくれたかな?」

パチン、パチンと。
開け放たれた庄司の向こうから、軽快な音が聞こえてくる。今日はお茶の日だ。毎月初めのお茶の日には長兄が帰ってきて、お茶の後に皆で囲碁や将棋を囲むのだと言う。

「色は匂へど散りぬるを。…この音、将棋やろか」
「さっき、お女中さんが碁石を運んでいたよ」
「あては、連珠が気に入りどす。白と黒の石が揃って並ぶと、ほんま綺麗どすえ」
「五目並べは一人じゃ退屈だろう?」
「せんせが一緒に遊んでおくれやす。ほな、退屈やあらへんでしょう?」

生徒の大半は分家の娘か、府内で長くから商いを営んでいる老舗の娘、または十口流を贔屓にしている顧客だ。碁石を鳴らしている中で叶と言う名前は、家元である叶冬臣だけだった。
叶を名乗っているのは本家にして宗家の十口流のみで、叶桔梗は表向き一人娘として扱われているが、腹違いの弟は社会に出る頃には『小林』と言う名を手に入れているらしい。全て、聞くともなしに聞こえてきた大人達の噂話だ。体が弱い桔梗に家督を継がせるのは難しいと、分家や株主面した贔屓客が当時の家元を随分責めた。子作りを急いだが妻に妊娠の気配はついになく、叶不忠は妾との間に子を成した様だ。

「僕は教師として雇われているんだよ。だから君とは遊べない」
「石頭」
「…昔も、同じ事を言われたな」

然し産まれた子供は『守矢』と名づけられて以降、宵の宮に閉ざされて育った。事実、彼は叶のしきたりにより6歳まで女として育てられた挙句、東京の私立校へ送られたそうだ。まるで、叶に男は『不要』だとばかりに。

「卸屋の宮川さんが、守矢はんは遊んでばかりで能なしや言うてはったえ。東京暮らしの月の宮が孕ませたのは、守矢はんの悪影響やて」
「宵の宮。そんな話は忘れなさい」
「ふふ。月の宮は、ケラケラ笑いながら聞いてはったのに」
「…全く、あの人は」
「タヌキとキツネは、お喋りが大好きなんどす。騙して騙されて、馬と鹿の化かし合い。魑魅魍魎が馬鹿試合」

ざらざらと、算数の数合わせの為に用意されたおはじきの硝子玉を、意味もなく座卓の上で混ぜる。ちりんちりんと硝子の風鈴が揺れて、遠くから大人の笑い声が聞こえてきた。
母屋はいつも賑やかだ。龍の宮が戻っているからか、魑魅魍魎達は常になく優等生の皮を被る。

「怖い怖い、龍神は天神の依代。仏と神の声を聞けるんは、龍の宮だけ」
「宵の宮、大為爾の歌は覚えた?」

小さな溜息を零した男が、微かに苦笑いを零した。
大人しく勉強している時には見せない表情だ。駄々っ子を装って我儘を言った時だけ、目の前の平凡な男は表情を崩す。まるで、此処には居ない誰かを見ている様に。

「田井に出で菜摘む我をぞ君召すと、求り追ひ行く山城の、うち酔へる子ら藻葉干せよ、え舟繋けぬ」

あの次兄を唯一名前で呼ぶ男は、毎日昼を過ぎる頃にやってくる。
真っ先に仏壇へ手を合わせて、数分間動かない。彼がその時、誰に何を語り聞かせているのかも判らない。退屈な男だ。目障りと言うには平凡で、弱いから誰もが嫌がる子守りを断れない、哀れな男だ。

「おい、ヤる事ヤってるか」

玄関のサッシではなく、少しだけ開けていた庭側の襖が凄まじい音を発てて弾け飛んだ。
蹴り飛ばした瞬間のまま片足を持ち上げている長髪の男は、みたらし団子を一本咥えたまま、唖然としている同級生に持っていたお盆を押しつける。

「今日はいつものババア共に小便臭い小娘も加わって、何処もかしこも煩くてやってらんねぇ」
「げ、玄関から入って来なさいよ…!今の変な言い回しも、誰が聞いてるか判らないのに…!」
「っせぇな、テメェはいつから俺の母親になった。俺の母さんは美人な桔梗ママだけだ、殺すぞ」

ズカズカと畳の上を横切った文仁は、仏壇から母親の遺影を持ち上げてわざとらしくチュっと口づけた。高校を卒業し大学生になってすぐに妻と結婚式を挙げた男は、本業の学業も新婚生活もそっちのけで、アレクセイが興した旅行業に力を入れている。

「貴葉、みたらし団子と八つ橋どっちが良い?何だって?兄さんが代わりに食べてだと?全く良く出来た妹だなぁ、お前にもチューしてやろう」
「っ、君には月の宮としての自覚が足りないって言ってるんだ!」
「喧しい」

食べ掛けの串を同級生の口に突っ込んで黙らせた男は、どかっと座布団に腰を下ろした。

「おい二葉、茶」

押しつけたお盆の上から、両手でみたらし団子を一本ずつ取り上げた文仁が、一本を二葉の口に突っ込み、もう一本に大口を開けて噛みつく。茶と言われても、二葉はまだ2歳だ。
普段は家政婦が朝一で持ってくる、作り置きのお茶が入ったポットから注いで飲んでいる。夏場は麦茶だ。

「違う、そっちじゃねぇ」
「え?」

然し文仁は、グラスに麦茶を注ごうとした二葉に容赦なく首を振った。

「急須と茶筒を持ってきた。それでやれ」
「…」
「熱過ぎずぬる過ぎない、きっかり60℃で淹れろよ」

ニヤニヤと、何がそんなに楽しいのか。
いつもお茶の匂いがする叶家の子供は、歩けるようになると茶の湯の練習を始めるのだと文仁は言った。二葉はとっくに歩けるが、今の話は初耳だ。

「出来なきゃ殴る」

こんな亭主関白との新婚生活など、金を積まれても御免だろう。

































「…そうか」

ドアをレールに沿って滑らせれば、ベッドの上で何をするでもなく起きていた男は暫くの沈黙を置いて、ぽつりと。

「儂はもう、天国へ辿り着いているのか」

囁きじみた声音は来訪者に向けられたものと言う割りにささやかで、まるで独り言の様だった。

「何を言っている?」

純粋な疑問から首を傾げれば、スライドドアの取手を握ったままだった右手が肩ごと少しズレて、ドアの何処かがキシリと軋んだ音を発てる。こんなに静かな夜の病院では、自棄に響く音だと思った。

「…ちょっとしたポエムのつもりなんだが、響かなかったか?」
「ポエムだったのか」
「此処は常に、生と死が犇めいているだろう。さっきまで生きていた誰かが、今この瞬間に死んだかも知れない、あの世とこの世の狭間の様だ」
「俺はただの病院だと思う」
「ふむ、理解は得られんか。我ながら詩的な表現だと思ったんだがな」
「天国が?」
「少なくとも、儂は此処を地獄だとは思っていないんだよ」

聖地だ、と。彼は顎を撫でながら呟いた。
初めに感じた警戒心や不審感の様なものは、顎を撫でるその手からは感じられない。適応能力の高さが判る。年齢によるものか、何らかの覚悟を固めているからか、或いは『神の従者』だからか。
判断材料はまだ、足りないらしい。

「死神が来る事はとっくの昔に知っていた。一昨年くらいからだ、本当だぞ?」
「そうか」
「同じ空間に見知らぬ誰かが存在する。それなのに不安はない。今日会ったばかりの誰かが明日死んでしまうかも知れないと判っていて、それでも誰かと関わる事をやめられないのは、老い先短い年寄りの我儘だと思うか?」

独り言にしてははっきりとした声だ。問い掛けの様だが、普通は言葉足らずだろう。それとも、そう謗られる事すら織り込み済みなのだろうか。いや、もしかしたら試されているのかも知れない。

「死ねば天国へ行くと信じているのか」
「揺るがない信仰心を持つ敬虔な信者じゃなくても、普通はそうじゃないか?」
「天国とは人間が作った創作にのみ存在する世界の事だ。この世には不確かなものなど、一つとして存在しない」

そうだ。
見えないものは存在しない。判らないものは存在しない。この世は単純な仕組みの上に成り立っている。時が流れているから、産まれては死ぬのだと。

「死ねば意識を失った体が残る」
「魂が召された後と言って欲しい」
「意識は永遠に止まっている。だから心臓が動いていても脳が停止したら、意識は止まったままだ。人が唱える魂なんて、初めから何処にも存在しない」
「それで?」
「鼓動を止めれば再び血が巡る事はなく、何もしなければ微生物の餌になるだろう。保湿しない毛穴からは残存体液がゆっくりと流れ出し、数日で腐食していく」

例えば今、ドアの取手を握ったまま。手放せば自動的に閉まってしまうドアを押えている手の反対側、左手の指先にすりすりと鼻を寄せてくる犬が居たとしても。こんな所にいる筈のない犬を一瞥もしない部屋の主には、恐らく見えていないのだから。つまり犬など何処にも存在しないと言う事だ。

「…医学的には正しいが、お前には夢がないなぁ」

たったそれだけの事。

「夢?」
「夢魔の方が余程可愛げがあるぞ。真夜中にアポもなくやって来る不躾な子供には、死神の方がお似合いだな。儂の首を落とす死の大鎌は、その小さな体の何処に隠している?」
「俺が死神ならばお前は何だ。その体は既に死んでいるだろう、ヤコブ」
「ふ。…誰からその呼び名を聞いたのかな?その名は、もうこの世には居ない兄と友人しか知らない筈なんだが」

キラキラと。
薄暗い一人部屋のベットヘッド、ライトが照らす男の髪が光を帯びている。温かみを帯びた白熱灯の淡い光は金色にも、緋色にも見えた。

「ユダヤはヤコブの子孫だ。ヤハウェの子は信仰心が篤いと、本に書いてあった」
「難しい本を読む。賢い子だ」
「楽園から飛び出した俺の犬を可愛がってくれていたのは知っている」
「犬?」

ページを捲る時だけは、退屈な時間を忘れる。
自分ではない誰かが書き紡いだ物語、フィクションもノンフィクションも、全ては自分以外の別世界で起きた話だった。読者はいつも蚊帳の外。自伝でもない限りは、例外なく。

「血を吸う鬼には銀の銃弾が効くらしいが、アレに鉄の弾を打ち込めば大人しくなると思ったのか?」
「!」
「鬼は殺せるだろうが、雲を殺す事など誰にも出来ない。雲が落ちる時は、雨として叩きつける瞬間だけだ」

そうして再び、雨粒は空高く上るだろう。永遠に繰り返される。星の命が尽きるまで、誰にも止められない。

「…くっく、そう言う事か。聖母の息子をペット扱いとは、可笑しい事を言う」
「然しお前は、俺の犬を傷つけた。一般的に人間は、家族を守る」

つまり然るべき報復を。それが人の世界の義務だった。大して興味はないけれど、正しい人間は義務から逃れてはならない。

「俺は『護る者』でなければならない。何故ならば、黙示録とはしがらみを外す事。何ものも覆わず、許し、愛し、解放する事だ」
「解放、か」
「赤い鳥は失敗した」
「赤…ファーストの事かね?」
「二度と天神に光が落とされる事はない」

言葉足らずだと言わんばかりに、男は眉を跳ねた。生物として正しくない音を刻む目の前の男は、この狭い空間を生死の境目と言ったけれど、ならば彼はどちらにより近いのか。

「『鳥』は永遠の『雪』の中、二度と太陽を崇める事のない冷たい『月』に捉えられた筈だった。然し罪を負った天の他にも、天の系譜は続いている。その体に宿る緋色の血を以て、鳳凰は朱雀の輪廻へ…」
「悪い子だ。ハロウィンにはまだ早いと言うのに、作り話で年寄りを揶揄っているのか。もう遅い、早く母親の元へお帰り」
「本当の俺が産まれる筈だった予定日は、春だった。夏の終わり、秋に作られたからだ」
「本当の君?」
「罪は人の数だけ存在している。産まれられなかった俺の代わりに、飛べない鳥が産まれた。天使は産まれながらに堕天し、空を知らずに死ぬ運命と定められた。違うか、『踵を掴む者』よ」
「!」

神などいない。
聖書など記号の羅列、そこに唱えられた神は何処にも存在しない。何故ならば神もまた、何者かに作られた存在だからだ。ならば始まりの向こう側は何だった?時間の概念が始まる前、二度と戻れない創世記の向こう側は。
誰もが描く事が出来ない、物語の向こう側は。

「お前にとってのヨセフはあの子じゃなかったが、あれは俺の犬だ。いや、俺じゃないかも知れない。帝王院の系譜に命を捧げる蝉だ。何年土の下に閉じ込めようと、蝉は空の下で羽化しなければ死ぬ事はない」
「…」
「俺か、或いはもう一人の天神候補が望むまでは、勝手に殺すな」
「…お前は儂を裁くのか」

キラキラと。
白とも金ともつかない髪を掻き上げた男は、青い瞳を細めて笑った。観念した様に。

「それならせめて、名乗るべきだ。名無しの権兵衛から裁かれたくない」
「黒羊」
「…趣味が悪いぞ」
「俺の宝石をそう罵ったのは、お前達だろう」

とうとう明確な怯えを見せた男は、然しそれすら間もなく消化した。やはり諦めたのだろう。

「気難しいミラージュが王と呼んだのは、帝王院鳳凰と言う男だった。彼は新たなマジェスティノアの、曽祖父に当たる」
「奇遇だな。俺の曽祖父の名前と、ぴったり同じだ」
「…やはりか」

虚勢が意味を成さない事を、彼は正確に理解したのだ。

「キリストを犬と呼び、神を宝石と呼ぶとは。…恐ろしいなぁ、最近の子供は」
「俺は騎士。例え忘れられても、それは永遠に変わらない。俺が俺に誓ったからだ。他の誰にも邪魔する事は出来ない」
「騎士。つまり君はナイト」
「人形が人形の名を知りたがるのか?」
「アンドロイドと同一視しないでくれないか。今の儂は…そうだな、例えるなら機械仕掛けのシンフォニア」
「肺も心臓も胃も偽物だ。一般的な医療機器では見抜けないだろうが、俺には聞こえている」

カチカチと。
鼓動には程遠い、余りにも微かな歯車の音が鼓膜を揺さぶり続ける。

「そうとも。儂の体はとっくに死んでいる。一昨年だ。多臓器不全、ただの老衰だった」

だからアメリカでは葬式も済ませている、と。揶揄めいた声が囁くのを聞いた。

「我が友人、と言うには若いが、君は儂の良い友人になれるかな?」
「お前が翼をもいだあの子は、一人ぼっちになってしまった」
「…悪い事をしたと、少しだけ思っている」
「喧嘩両成敗と言う言葉があるぞ。仕返しは何発?」
「二発だ。儂は一つ逸れたが、あの子の弾は見事に命中した」

成程、と笑えば、ぱちぱちと瞬いた男も後から笑う。

「お前は笑っていた方が良いな。死神だとしても、チャーミングだ」
「そのままミュータント同然で生き続けるつもりならば、今までの物語とこれからの物語を、包み隠さず懺悔するとイイ」
「死神かと思えば十字架だったか。くっくっく、クロスはXに良く似ているからな」
「お前の罪を俺は知っている」
「…そうか。儂もお前の父親が正式な十番目だと知っているが、最早手遅れだ。イクスはルークに塗り替えられた」
「遠野夜人とリヴァイ=グレアムの体は何処にある?」

キシリと、ベッドが軋んだ。
リクライニングを緩やかに起こしているベッドは、揺りかごの様に彼の背中を受け入れたのだろう。

「…これは、参ったな。オリオンへ懺悔する前に、子供の姿をしたノアに脅される羽目になるとは。死人同然の分際で、今が余りにも幸せだったから、欲を出し過ぎたのか」
「選択しろ。俺はお前の選び望む瞬間を、視ている」
「…判っているよベイビー=ノア。彼に謝ったら、潔く死ぬつもりだ。甘えん坊のシリウスには、全て明かす事は出来なかったから」
「墓荒らしか」
「我らステルスにとって、地球の幾つかの島は聖地だ。巡礼と呼ぶには罪深い真似をした時に、日本へ渡る事だけは絶対にないと誓った筈だった」

取手から手を離し、部屋へ入る。
音もなく閉じたドアへ背中を預ければ、防音には心もとない即席懺悔室の完成だ。

「…ああ、メモが必要なら儂の万年筆を使うと良い。ABSOLUTELYへ召し上げられた際、陛下より賜った筆がある」
「俺には必要ない。全ては『此処』に集約される」

空いた右手人差し指で、右側のこめかみをトントンと指し示した。目で見たもの、耳で聞いたもの、五体で触れたもの。人の全ては脳に残る。

「…流石だなぁ、オリオンの血か。彼も素晴らしい記憶力だった」
「冬月に課せられた些細な業だ。何も素晴らしくない」
「笑わせてくれる。それが凡庸だとでも?」
「俺にとっては普通の事」
「ああ、神の戯言にしか聞こえないな」
「無駄に時を先延ばしにしている。既に死んだ体で、今尚、死を恐れているのか」
「…どうだろう。とうとう死ぬまで独身を貫いてしまったが、今は少し、後悔しているよ」
「何に対して?」
「気紛れで下手な真似をした。どうせなら最後まで一人を選ぶべきだったんだ」

きっとそれは懺悔だった。
神父の気持ちになってみようと想像したが、此処には十字架も聖書もない。

「…儂の足はゴルゴダの丘にあって、酷く重い。エルサレムへの門が開くとは、露ほども思っていないがね」
「そうか」
「愛されているなんて甘い事は思っていないけれど、愛しているのは本当だ。賢くて優しい、寂しい子を選んでしまった。…自分が寂しかったからかも知れない」
「そうか」
「ジャック=エアーは己の宿命を呪い、嘆いただろう。最愛の息子を残して逝かねばならなかった己の身を。彼の名を知った時、迂闊にもそう思った」
「お前は身代わりになったのか」
「…そんな綺麗事じゃない。言っただろう、気紛れだと」
「お前が身代わりにしたのか」
「死神はボキャブラリーが貧困だな、ファーストの爪の垢を煎じて…揉め?」
「飲まずに揉むのか」
「これでも随分待ったんだよ。まだ絶望を知らずに済んだ頃、罪を犯す前の俺は友と良く語り合った。ハーヴェスト殿下の子供を見るまでは死ねないなんて、…今になれば酷い呪いの様だ。こんなものを持っているから、黄金の夜明け団の呪術か」

枕の下をゴソゴソと漁った男が、ポイっと無造作に輪ゴムで束ねたカードを投げるを見たのだ。タロットカードらしいが、随分古いものの様に見える。

「先に裏切ったのは銘なき神の方だ。奴はいつの時代もグレアムにだけ辛い試練を課してきた」
「ロンドン、セーヌ、イスラエル」
「何故そこまで知っている?それはノアですら知らない、Forbidden Bible(未完の聖書)」
「ノアは神の代名詞。彼らが渡り歩いた国はいずれも、カトリックを信仰している」
「…始まりのノアは、神から知恵を与えられた王だった。とても長い間、絶望を繰り返したんだ。最後に彼らは天を見放した。グレアムは、神の子だが人の罪の証でもある」
「名を変えたのはフランスへ辿り着いてからか。今は十番目だろう」
「…知識に飢えた、正しくソロモン王の生まれ変わりの様な男だ。とても9歳には思えない」
「あれはソロモンなんかじゃない。俺の宝石だ」
「ノアは黒でなければならない。光を嫌い、炎を憎み、密やかに冷静に、星の内側から人類を支配するんだ。エルサレムを必要とせず、大雨に怯える事もない」
「荒れ狂う船で大海原を彷徨う事もなく?まるでハデスだ」
「…その通り。唯一神は、冥府の皇帝だよミスター」

何が楽しいのか、満面の笑みを浮かべた男から手招れた。断る理由はない。

「一人で来たのかい?」
「じーちゃんのスペアに連れて来て貰った」
「じーちゃんのスペア?」
「二号機だ。俺が設計して、じーちゃんが作った。目を離すとロクな事をしないじーちゃんを監視する為だと思う。じーちゃんは、じーちゃんにだけ勝てないんだ」

ベッドの脇、小さな冷蔵庫が収められたサイドボードの前にあるパイプ椅子へ腰掛ければ、天板に乗っていた紙袋を男は指差した。

「良く判らないが、メロンパンは嫌いかな?」
「嫌いなものは少ない。今の所、母が掻き混ぜるのを忘れて放置し続けた糠漬けだけ、好まないけど。勿体ないから食べたのに、尻を叩かれた。二度と食べない」
「くっく、そうか。ああ、冷蔵庫の中に貰った炭酸水が入っているんだ。大抵のものは飲み食い出来るが、炭酸だけは儂の中身と相性が悪くてな。生前から好きな方ではなかったが、今は遠慮するしかない。長話になるだろう?折角の好意を無碍にするのも何だ、儂の代わりに飲んでいってくれると助かる」

断る理由はなかった。
遠慮なく冷蔵庫を開ければ、珍しい瓶のジュースの他には何も入っていない。ベッド脇に見えるゴミ箱の中には幾つかのペットボトルが捨てられていて、ベッドの上にあるキャスターテーブルの上にはミネラルウォーターのボトルがあるので、炭酸水以外は口にしたのだろう。律儀な男だと思った。
生真面目で融通が効かない、初見で受けた印象のままの人間だ。

「此処には栓抜きがないんだ」
「イイ。いつも歯で開けてる」

カポンと口で栓を抜けば、とうとう腹を抱えて肩を震わせ始めた男は、深夜だからか声を耐えていた。

「この世に神は存在すると思うか?」
「しない」
「くっく。自分より知能で勝る人間との会話は、気後れするが不思議と嫌な気にならんな。お前は何処か、亡き陛下に似ている」
「レヴィ=グレアムの補完はまだ足りてない。じーちゃんの記憶は50年前で途切れてるから」
「補完だと?それが済んだらどうなる?」
「俺の中に刻まれるだけ。俺は『人形』だ」
「刻まれる…?」
「貴殿の記憶に眠る私を聞かせてくれないか、ライオネル=レイ」

ああ、甘い。
齧りついたパンを流し込む様にペットボトルを煽れば、唇を震わせた男は瞬きを忘れたまま額に手を当てた。

「驚い、た。儂はとんでもない勘違いをしているのか。ミスター、君は奇術師?」
「声真似くらい、十口にも出来る。雲隠の回復力は不死鳥の如き、灰原の声は天神さえ眠らせる。俺はそれに似た事が出来る」
「くも?はい?」
「俺の場合は、治るんじゃない」

無理矢理に抜いた所為で歪んでいた鉄製の栓を握り締めれば、ぽたりと真っ赤な液体が流れ落ちる。目を見開いた男の前で、表情を変える事なく握った拳を開けば、驚きの表情だったレイナード=アシュレイの表情は一瞬、凍った。

「ほら、消えるんだ」
「…」
「油断したらすぐ消える。油断しなければ、治さない事も出来る。でも寝ると駄目だ。朝になると消えてる」

こんな風に、滲んだ血だけを残して、掌には握り潰されて細くなった金属が一つ。傷跡など何処にも存在しない。

「知っていると思うが、儂はジャック=レイナード=アシュレイだ」
「ルームプレートには、じーちゃんの字で明日麗って書いてあった」
「判った、夜刀の事だな」
「さァ、どうだろう」
「意地悪だな」
「俺は鬼の末裔だから」
「死神じゃないのか。ハロウィンのリトルゴーストは菓子を強請るけれど、スタバのマフィンを買っておけば良かった」
「マフィンならお母さんが焼いた方がうまい」
「君のママ?」
「さァ、どうだろう。俺もまだ食べた事がないから、判らない」
「はは。変な話をしているなぁ」
「あの子の面倒見の良さは、お前から学んだのかも知れない。今はまだ証明する事は出来ないけど」
「さっきからまだだまだだと、まるで予言の様な事を言ってくれる」
「可能性は幾つもの分岐点を周到に用意してる。同じ死でも、意味のある死と無駄死にがある様に」
「正論だ。君は食べるのが早いな」
「良く言われる」
「…名前を。聞いても宜しいかな、ミスター」
「俺は必要性を感じない。話を聞きたがるのはいつも俺だ」
「君も知識に飢えているのか?ソロモンの様に」
「知識はどうでもイイ。終わらない物語が読みたいんだ」
「物語は必ず終わるよ。未完の作品は、ただの駄作だ」
「知ってる」
「映画で見た武士の様だが、サムライはもう居ないんだろう?」
「俺は騎士」
「騎士は好んで名乗りたがるものだよ。自信家ほど、聞いていない事まで聞かせたがる」
「そうか」

三つあったメロンパンが消えてなくなり、膝の上に零れ落ちたカスまで拾って頬張った。恩には礼儀で返さねばならないと、普通の日本人は教えられている。

「遠野俊6歳(独身)、区立第8小学校一年一組11番だ」
「6歳だと?!」
「何か?」
「はぁぁぁ、いや何でもない。…儂の友人と同じ苗字だが、恐らくそれは真実じゃないんだろう。ステルシリーじゃ、名前が幾つもある奴は大して珍しくないからな」
「帝王院俊。帝王院神。何でもイイ。名前は所詮、個の肉体を識別する標識だ。ペットをドッグタグで縛りつける様に」
「何をしてる?」

よいしょっとベッドの上に腰掛け、グイグイとレイナードの上体を起こした。怪訝げな男は青い瞳を瞬かせたが、されるがまま抵抗する気配はない。

「お礼に肩を揉む。俺は深爪だから、爪の垢が取れないから揉めない」
「おお、肩揉みなんて初めてして貰うよ」
「お年寄りには優しくしなければならないと、先生から言われた」
「良い先生だ」
「有難う?」
「変な子だなぁ。力が抜けた」
「良く言われる」
「儂の体は機械仕掛けの人形同然だが、お前は本物の人形と言う事か。こんなに可愛げのない愛らしい子供を見るのは、二度目だ。ファーストの方が余程、無垢な子だったよ」
「俺が天を手放す事にしたのは、地獄同然の楽園で産まれた天使が本物の天を救ったからだ」
「うん?ああ、エンジェルの事か」
「懺悔とは救いを求める人間が気紛れに始めた、ただの気休め。だから俺は全てを許し、全てを許さない」

立派な背中、年齢の割りに広い肩だった。
死んでも未練が残るほど、この立派な体は後悔しているのだろう。

「救いは常に、人々の心の中にのみ存在する」
「…良いだろう。夜人の肉親である夜の王の血を引き、陛下が統率符を与えたナイトの血を引き、混沌の鍵を持つオリオンの血を引く、体も魂も黒に愛された純黒のキリスト。その目と耳を以て、死に逝く老兵の業を背負ってくれ」
「月へ祈り朝を願い、時の歯車が止まるその刹那まで。期待している」
「…はっは。未来ある若者が、老耄に何を期待するんだ?」

ポンポンと、肩を揉み解していた手を優しく撫でられた。

「今から得る負の遺産が、果てしない空虚を埋める一握の砂となるよう」

価値ある死と無駄な死、果たしてこの男はどちらを選ぶだろうか。

←いやん(*)(#)ばかん→
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