帝王院高等学校
エンカウントの天才は天災同等!
「…まぁ、何て事」

屋台の前に急拵えで準備されたパラソルの下、手作り感が漂っている木製のベンチに座ってたこ焼きを頬張った人は、口元に手を当てると、きゅっと眉間に皺を刻んだ。

「こんなに柔らかいものを、こんなもので持ち上げられるなんて…」

たこ焼き一粒でそこまで悩ましげな表情を晒す人間は、かなり珍しいだろう。確かに爪楊枝は、万能だ。

「歯に青海苔が挟まったらねぇ、これで取るんだ。お父さんはお好み焼きが好きだったけど、食べた後に必ず爪楊枝取ってって言うよ」
「…マチルダはたこ焼きを食べた事がないのですか?」
「どうだろ、判んない」

記憶は酷く頼りない。
小学校へ上がって間もなく倒れた父の記憶は、差程多くはないのだ。覚えている気になっている思い出だって、月日が経つにつれて真偽はかなり怪しい。

「冬ちゃんなら知ってると思う」

知らない知らない、きっと何も。
叶貴葉の記憶は十歳で途切れていて、次に目覚めたのは何年後だったか。起き上がる事が出来る様になるまでの記憶は、殆どない。

藍色の着流しが普段着だった。それほど多くはない父親の記憶。
キラキラ光る髪の毛と、ビー玉の様な蒼い瞳、ゆったり笑う唇、背はきっと高い方だったと思う。
学校から帰るとランドセルを放り投げて、隠れ部屋の様な龍の宮へ飛んで行った。茶道の家元だった母が日中お弟子の相手をしていると、父は一人できっと待っている。そう思っていたから、寄り道などする筈がない。

優秀な兄達は、貴葉が物心ついた頃には東京の学校へ通っていて。時々やってくる何処かの社長さんに、母は深々を頭を下げていた。立派な仏壇には貴葉の知らない写真ばかりだったが、祖父が亡くなると景色は一変する。立て続けに父が亡くなると、貴葉にはいつか見た社長さんの様に、仏壇の前で手を合わせる習慣が出来た。

死ぬと言う意味を、本当に理解したのはいつだったか。
叶桔梗。病弱な母は然し気丈で、痛いとも苦しいとも言わない女だった。けれど父と夫を失った彼女が、龍の宮ではなくそれを取り囲んでいる母屋で生活をしたのはきっと、多過ぎる思い出に押し潰されそうだったからに違いない。
桔梗の身を案じて時折やってくる彼女の義弟は、貴葉にもとても優しかった。休みの度に律儀に帰省していた文仁も、彼には懐いていたと思う。文仁は好き嫌いがはっきりしていた。京都の男と言うより東京の男の様だと、母はいつも笑っていただろうか。

冬臣は目立つ事が嫌い。
誰よりも頭が良かったけれど、血が繋がっている家族以外は『魑魅魍魎』だと言っていた。お前が考えている事を全て理解してやれる人間は此処には居ないと、冬臣と二人きりの時の父が言っていたのも知っている。

『本当は、僕が理解してあげなきゃいけないのにねぇ。頼りない父親でごめんね、冬臣』
『父さんが謝る事では…』
『この世にはお前より劣る人間の方が圧倒的に多いと思うけど、理解して貰えないからって、お前だけが理解してやる謂われはないんだよ』
『…』
『ふふ。全く君は、僕の子とは思えないくらい優しい男だねぇ。可哀想に、此処は息苦しいだろう』

男同士の話は、男にしか判らない話なのだと。

『和の心だよ、冬臣君。此処には馬鹿しか居ないんだから、とことん見下してやれば良いんだ。馬鹿だから失敗しかしない、馬鹿だから他人を妬ましく思う、馬鹿だから馬鹿な事しか考えない。ね、簡単だろう?』
『はい』
『理解してやる必要はないんだよ。息苦しくなる前に、馬鹿な事を考える余裕がない所まで追い詰めておやり。逆らおうなんて思わないくらい』
『…』
『今はまだ判らないかな』
『申し訳ありません』

二人の雰囲気に割り込めず、仲間外れにされた気分で拗ねた貴葉を宥めながら、クスクスと笑った桔梗の顔も。

『どうして謝るのかな?本心ではね、ずっと判らないままでいて欲しいと思っているよ』

父の前では『立派な兄』ではなかった冬臣の事も、覚えているけれどとても朧げだった。その古びたあやふやな記憶が、紛れもない現実であると断言する材料はない。少しも。

「時計の針をね」
「時計?」

くるくると反対側に回せば過去へ戻る事が出来るなら、貴葉は躊躇わず回すだろう。けれど、若い頃に怪我を負った父を助ければ、彼が来日する事はなかったかも知れない。彼の父親であるアーサー=ヴィンセント=アランバート=ヴィーゼンバーグの様に、アレクセイ=マチルダ=ヴィーゼンバーグは落馬しそうになったお姫様を救い、王室から栄爵を許されたのだから。

「ナイトが言ってたんだ。過去が一つ一つ重なって今を作って。一つ歯車が狂うと、今の時間は全部消えちゃう」
「そうですね」
「お父さんを助けたいけど、僕達はこの世から消えてなくなっちゃうんだ。お父さんが怪我をしたから。日本に来たからお母さんと知り合って、死んじゃって、冬ちゃんも文ちゃんもたまにしか帰って来れなくて…」
「…」
「寂しいねって。僕がいつも一人で遊んでるから、お母さんが、赤ちゃんを産んでくれるって言ったんだ」

アレクセイ=ヴィーゼンバーグは王子様だった。
イギリスのお姫様達は彼の寵愛を欲しがったけれど、きっと誰もが彼よりもヴィーゼンバーグ『公爵家』の名前に重きを置いていて、だからエリザベート=セシル=ヴィーゼンバーグ公爵は己の息子の婚約者に、王室の末娘を選んだのだ。公爵の爵位が意味を為さない、ひたすら純粋にアレクセイを愛していた、健気なお姫様を。

「お母さんも死んじゃった。僕が弱くて、助けてあげられなかったから」
「…ヴァーゴ。貴方は立派ですよ、弱くて狡いのは私の事」

セシルと血の繋がりがない事は明らかだったアレクセイは、王室から爵位を与えられていた事で公爵を継ぐ事を許された。愛人の子だと陰口を叩く者は多かっただろうに、18歳でセシルから爵位を譲られる事になったアレクセイは、最後の我儘と言って留学の話を持ちかけた。
彼はどうして日本に興味を持ったのだろう。どうして日本だったのだろう。

「何で日本だったのかなぁ」
「王子様」
「え?」
「会ってみたいと。マチルダと同世代の王子様が、婚約を発表したと言う記事。出ていってしまった時から、誰にも立ち入らせていないあの子の部屋のテーブルに、新聞が置いてあります」
「日本に王子様なんか居たっけ。皇族の事かな?」
「…帝王院駿河と言う、殿方の事ですよ」

ああ、そうか。天神様はあの日、確かに王子様だった。大学へ進学するのと同時に財閥を継がざる得なかった帝王院駿河は、彼の父親である鳳凰公が息子の為に作った学園ごと財産を相続したのだ。
父親が亡くなる直前に婚約を発表した駿河は、鳳凰が解き放った空蝉を掻き集める事なく、最後まで共にある事を望んだ明神の残党だけを傍に置いて、現在に至るまで帝王院の名を維持している。

「今の宮様、知ってる?駿河様の跡取り」
「失踪した事は聞いています」
「理事長、見た?帝王院帝都って人」
「…あれは神の残骸。幾ら名を変えようと、ケンジントン宮殿にはキング=ノア=グレアムの肖像画が残されています」
「それ、8代男爵様の事でしょう?似てる?」
「生き写しのよう。エイト=ノアの肖像は長髪姿で残されていますが、違いと言えばその程度です」
「レヴィ=グレアムの肖像画はないの?」
「ええ、ロンドンには極秘裏に集めさせた写真しかありません。我が家からエリザベート=マチルダ=ヴィーゼンバーグが嫁いだ時も、男爵が祖国へ戻る事はありませんでした」

セシルの大叔母に当たる分家の娘は、彼女だけが『出来損ない』だった。彼女の姉妹には王族へ嫁いだ者も居たそうだが、出戻ってきたのは、一番戻ってきてはならなかった娘だった。
力を増していくレヴィ=ノア=グレアムの報復に怯え続けたイギリスは、生贄の花嫁を差し出し、男爵はそれを受け入れた。そのまま幸せに暮らしてくれれば、少なくとも妻の故郷を潰す様な真似はしないだろうと言う期待は、ほんの数年で打ち砕かれる。

「跡取りが出来れば僥倖。レヴィから軈て9代へ受け継がれれば、イギリスの血が流れるノアは良い駒になる」
「大人って汚いねぇ」
「結果的に、我が家の血を引くキング=ノアが継承した後も、彼らを取り込む事など出来ませんでした。それ所か、マチルダの子がロンドンの脅威になってしまった」
「祭洋蘭は陛下のお気に入りだよ。冬ちゃんはきっと、どんな手を使っても取られたくなかったんだ」
「ふふ。それでも、まさかアメリカへ渡るとは思わなかったでしょう」
「冬ちゃんは優しいけど判んないんだ。見た目は全然似てないのに、マジェスティは冬ちゃんに似てる気がする」
「…キングからルークへ移ろうと、何も変わらない。下らない野暮で目が眩んだ王室に、女王陛下もお心を砕かれておいででしょう」
「本音は?」
「…」

セシルには王族の血が流れているが、現在の女王とは他人ほどの遠縁だ。国民の誰もが女王陛下万歳を掲げている訳ではないだろうが、畏くも公爵家では絶対に口には出せない台詞だろう。

「全員馬鹿だって思ってたら、食べて?」

澱みなくたこ焼きを頬張ったセシルは、無表情だ。
成程、死んだアレクセイはセシルに性格は似ているらしい。血が繋がっていようがいまいが、成人するまで共に暮らしていたのだから。

「レヴィ=グレアムは銀髪だったんだって。お父さんよりずっと濃い、夜の色の瞳をしてた。だから理事長より、中央委員会会長様の方が似てるかもね」
「…美し過ぎるものを眺める時、その心は決して穏やかではないものです」

確かにあの男は、完璧と言えるほどに綺麗な男だった。彼なら、貴葉には判らない冬臣の考えも理解出来るのだろうか。
ああ、それでもきっと、完璧と言えるほどに漆黒に愛された男の事は、誰にも判らないかも知れない。魔法使いは人の記憶を奪う。人の心を読む。狂った様に踊り歌う他人を眺めて、表情一つ変えない無機質な生き物。

それなのに時々、気紛れの様に見せる笑顔はこの世の幸せを全て固めた様な眩さで、どちらが本当の彼なのか判らない。或いは、そのどちらも偽りなのか?

「グレアムの事はあんまり知らないんだ。レヴィ=グレアムは仕事人間で世界中のデータを集めてたけど、自分の事はねぇ。後から書き加えられた人づてのデータはツギハギだらけ、パズルみたい」
「グレアムは代々、長子で継がれてきました」
「男じゃなくても良いって?」
「フランス在住時には、女性が当主だった事もあるそうです。彼らは、魔術師とも魔女の一族とも呼ばれました。肌が弱かった彼らは夜に行動する事が多く、当時まだ薬として認められていなかった動物の内臓や菌などを用いていた為、魔女狩りと称して追いやられたのです」
「へぇ。フランス人の頭ってフランスパンみたいにカチカチだねぇ」
「本来は8代ノアの子供が継承するべきですが、逃げ延びたのはノアの末の弟だけでした。…だからなのか、彼は生涯キングを名乗っていません」

ぱくりとたこ焼きを頬張れば、少し冷めていた。焼き立てよりは食べ易い温度だが、とろりとしていた舌触りが半減している。

「ナイトだったらどうしたかな?無理だよねぇ、産まれてないから」
「ナイトとは誰ですか?」
「ライオンは緋だから教えられないんだ」
「火?」
「ボロボロで、二度と紡げない糸の事」

爪楊枝より細い、と。サファイアの瞳を細めながら、それほど噛まずに砕けてしまった小さなタコを飲み込んだ。

「アダムとイブは唆されたの。子供はいつだってお母さんの関心を独り占め、お父さんはヤキモチ焼いちゃう」
「やきもち?」
「龍の対は蛇で、真っ赤な林檎は心臓。光は一番初めに嫉妬を、人類は一番初めに羞恥を覚えた。恥ずかしがり屋は隠れんぼ、子供の姿が見えなくなった龍はポロポロ泣いて、光ってた鱗はボロボロ、全部剥げ落ちた」
「悲しい物語ですね」
「光は荒れ狂う炎。愛は嫉妬と絶望を同時に灯して、それは絶対に交わらない。太陽と月の様に。いつか同じだったものは、全く異なるものになってしまったの」

燃える。燃える。紅蓮の業火は地獄の底にも、遥か広大な空の上でも。
漆黒の瞳がまるで黒曜石の様だった男は、抑揚のない声音で言った。歌うでもなく、唱えるでもなく、何ら感情を窺わせない棒読みの様な声で。

「ナイトは王様と入れ替わった。チェスなんだ。騎士で馬で夜のナイトはねぇ、何にでもなれるポーンなんだよ」
「最弱の駒です。真っ先にポーンが動かねば、他の駒を動かせません」
「ナイトは例外でしょ?」
「ふふ。その文句を度々聞きますが、最善の手ではありません」

つまり、ポーンが動いてやっと始まるゲームだと言う事だ。

「うふふ。おばーちゃん、食べ方が綺麗だねぇ」
「そうですか?」
「お兄ちゃん、焼き立てのたこ焼きはまだ?」
「あ、丁度焼き上がった所っス!少々お待ちを!」

ジュージュー音を発てる鉄板ではなく、明らかに場にそぐわない来客の様子を固唾を飲んで眺めていたらしい店主の少年は、慌てた様にプラスチック容器へ焼けたばかりのたこ焼きを詰め込んだ。
午前中に焼いていたらしいたこ焼きは保温機で温められてはいたが、どうしても焼き立てが食べたいと言うと、焼いている間に食べてくれとサービスで作り置きの商品をくれていたのだ。

「お待たせしました!」
「うん、凄く待ったよ。やっぱり、焼き立ての方が美味しいでしょ?」
「お、お口に合えば、嬉しいっス…!」

厳つい見た目の高校生店主は、緊張した表情で続く台詞を待っている。
スキンヘッド同然のモヒカンと言う気合いが入った髪型の癖に、水に脅える子猫の様な表情、とでも言おうか。こんな表情を見ると、どうしても泣かせたくなる性癖は母親譲りだと思う。

「んー、青海苔の良い匂い。あちち。あ、外はカリッと中はとろーり♪」

黙り込んでしまった美しい祖母の傍らで、屋台の店主から名残惜しげに目を逸らし、爪楊枝を持ち上げた。ほかほか湯気を発てるたこ焼きが、霧雨が連れてきた肌寒さを忘れされてくれる。
食べる為に頭に乗せたピエロの仮面が前髪を掻き上げてしまったので、今はいつもより視界が広い。空はあっと言う間に烟ってしまい、薄灰に白濁した天井に太陽の姿はある筈もなく。一般客の姿を昨日までほど見掛けない代わりに、連日イベント運営に励んでいた生徒らが遅ればせながら楽しんでいる様だった。

「どうですかっ?!」
「んー、まぁまぁ食べられるかな」
「…お姉さん、辛口っスね」

一口頬張るなり食い気味に問い掛けてきた店主へ、愛想笑い一つ。
何の掛け値なく正当な評価を下したつもりだが、どうやら自尊心を傷つけた様だ。1パック8個入りと記載されているたこ焼きが、一粒二粒多かったとは言え、評価に加算される理由にはなるまい。

「うふ。おまけしてくれたからってねぇ、忖度しないんだよ。組織内調査部長だから♪」
「へ?」

そもそも『美人にはサービスします!』と先に宣ったのは、屋台の主人だ。客側から求めた訳ではないのに、勝手な下心を含ませてくれては困る。

「それとも、そんなに安い女だと思った?うふふ、そうだよねぇ。君みたいな男が知ってる女なんて、高が知れてるか。期待に添えられなくて、ごめんね?」

正当な評価、純粋な本心だ。傷つけるつもりはほんの少ししかないので、恨みがましい目で睨まれても困ってしまう。とことん追い詰めて泣かせたくなるからだ。

「…美人は手強ぇ」
「んー、やっぱりタコちゃんがちっちゃいんだよねぇ。最終日だから手抜き?」
「してないっス!俺はこう見えて、商売には真面目な男なんで!」
「あっそ。今日は此処以外にたこ焼き屋さん見当たんないから、比較出来ないもんねぇ。口では何とでも言えるもの」
「イジメだ…」
「君みたいな厳つい男の子苛めたって、僕には何の得もないんじゃない?」

訂正。今のは少しだけ嘘、人の不幸は蜜の味だと昔から言われている。

「その割りに、めちゃくちゃ良い笑顔」
「接客業の基本、スマイルはタダでしょ?」
「姉さん、どっかの店で働いてんですか?六本木?銀座?」
「やだなぁ、僕そんなんじゃないもん」

変装以外でメイクをする事もないのに。とは、貴葉の心の中だけの呟きだった。
昔からスカートを履いた事がない。6歳まで性別を偽る家訓もさる事ながら、二人の兄の内、二番目の兄が一番遊んでくれたからだろう。穏やかな長兄とは違って、次兄は茶の席以外ではわざとらしい程に粗野な男だ。
顔立ちが母親である桔梗にそっくりだったからか、文仁は幼少期から現在に至るまで『美麗』が代名詞になっている。本人は心底己の見た目を呪っているのだが、貴葉が覚えている限り文仁は朝昼晩欠かさず牛乳パックを飲み干し、頻繁に小魚をつまんでいた。現在191cmの恵まれた体格は、地道な努力(と言う名の反骨精神)の賜物かも知れない。

「僕はねぇ、宝物で天神様の鍵で、お日様に逆らった悪者なの。失礼な事言うと、神隠しに遭うよ」
「天神?悪者?通りゃんせ〜の神様っスか?」

ああ、天神の学園に住まう教え子は無垢なほど無知だと思う。人より知識で劣ると言うのは、多くの場合で芳しくない。然し知らない方が良い事もある。
知らなくても生きていける無関心さは、少なくとも叶一族にはない。無知が人を殺す事を誰よりも知っていた『出来損ない』の掃き溜めで、誰もが生き残る為に必死だった。出来損ないの犬を、それでも見放さない天神の為に死ぬ事が、唯一無二の存在理由だと信じていたからだ。

「んー。僕、神様って苦手かも。知ってる?神話に出てくる神様は、恋多き神が多いんだよ。日本の神様もそう、イザナギなんて奥さんが死んで、自分の子供を殺しちゃうんだ。それなのに他の女と浮気するんだよ。他にもね、姉妹を娶った癖に片方がブスだからって相手にしないんだよ」
「え、唐突に古典スか?俺、歴史は苦手っつか、工業科なんで数学と化学しか出来ないんスけど…」
「人間だって神様だって、女は嫉妬する生き物なのにねぇ。男は煽りたがるんだってさ、お馬鹿だよねぇ」

可哀想な人。
そうだ、きっと目の前の無垢な少年と差程変わらない年頃だっただろう。最後に見た『初恋の人』は、今では他の女のもので、子供を持つ親で、昔の事なんて忘れていて。いつか遊び相手になった『お姫様』の事なんて、思い出す事もないに違いない。

「ねぇ、君さ」
「へ?」
「僕を美人って言ったよねぇ。付き合いたいって思う?」
「めっちゃ思います!!!」
「あっそ。ごめんね、僕は全然思わないや」

彼もこの少年の様に単純な男だったら。
ほんの2歳の子供に手を出す趣味があるなら、あの時、好きだと言ったその時に手を出してくれたら。全ては今更だ。18年も昔の話。消え去った物語の残骸を、後生大事に抱えているのは自分だけ。

「僕が今気になってるのはぁ、アキちゃんだけなんだ〜」
「あきちゃん?!何処の誰っスか、そんの羨ましいクソ野郎は…!」
「アキちゃんはクソじゃないよ。格好良くて、怖いんだよ」
「惚気かよ!」

見た目は、思い出の中でいつまでと色褪せないあの男に良く似た、平凡な少年。山田太陽を形容する上で最も的確な言葉は、無論『平凡な』に尽きる。
但し、気弱かと思えばそうではなく、強気なのかと思えばそれもまた違う、知れば知るほどに良く判らない。傲慢と偽善が同居している様な、例えるなら『普遍的な人間』だろうか。日和見主義で我が身優先と言うのは、命ある生き物の初歩的なステータスだ。降り掛かる火の粉を払う以前に、そもそも火を起こさない。太陽の生き様を調べた限りは、そう見える。

「魚類が殆ど進化せずに生きてこられたのは、進化が必要なかったからなんだって。人類が二足歩行を始めた理由は、好奇心だったり餌が取れなかったからかも知れないし、まぁどうだって良いんだけどねぇ」
「え?へ?姉さん、難しい話で俺を苛めてません?」
「人類が最初に火を見つけて火を作ったから、文明が始まって人間は弱肉強食の頂点に立ってさ。陸上生物の進化にも絶滅にも関わって、いつからか神様まで作っちゃったんだよ」
「う、うーん?何か判る様な、判んない様な…」
「神様も悪魔も作ったのは人間で、人間以外の生き物からすれば神様も悪魔もきっと、人間の事なんだ。人間は『普通』って言葉が好きだけど、基準なんて自分だけなのにね。自分が普通で他人は普通じゃなくて、だから僕もきっとそうなんだよ。アキちゃんが普通じゃないと思うのは、僕の基準が僕だけだからで」
「結局誰なんスかその男はっ!ノロケなら間に合ってます畜生、俺の恋人はたこ焼きだけだぁあああ」
「変なの。たこ焼きには穴がないから、ヤれないでしょ?」

ゴンッと言う音を発てて、鉄板に生地を流し込んでいた少年がテントの脚で額を打ったのを見た。ビクリとも動かない店主の下で、鉄板にドポドポと零れていく生地がじゅわじゅわ焼けていく音がする。

「大丈夫?君、何かあっちこっち事故ってるよ?」
「…本当は姉さん、白百合の妹だったりするんじゃねぇっスか?」
「僕の兄さんはそんな名前じゃないってば。ふゆちゃんは優しくてお茶の匂いがして、ふみちゃんは楽しくて甘い匂いがするんだよ。ふみちゃんが甘党なのは、僕とふゆちゃんしか知らないんだ」
「…うっうっ、この姉さん天然だ。3年のウメモリより話が通じねー」

少しばかり冷めたたこ焼きが食べ易くなっているので、再び爪楊枝を握った。サァサァと、粉砂糖の様な雨を見上げる様に空へ手を向ける。

(ウメモリ?…あ、判った、わんちゃんの中の一匹か。母親が前鷹翼校長の次女だったよねぇ、俊秀公の義弟を養子にした宰庄司の末裔って事)

面白味のない空に引き替え大地には、昨日まで並んでいた屋台とは違う形をしている。色とりどりの手書きの看板が一新されていて、昨日までとは別の場所の様だ。黙々と上品にたこ焼きを食している人は表情こそ変わらないが、大人しく食べている所を見るに、不味い訳でもないらしい。
勇ましく買い食いをすると宣った癖に、そもそも一人で買い物をした事もない某公爵様は、ヴァルゴ並木道に列を作る屋台群の目前で急におろおろし始めたかと思えば、熾烈な客の獲得争いで『いらっしゃい』コールを始めた店主の少年らに飛び上がり、あーだの、うーだの、日本語でもなければ英語ですらない唸りを放つばかり。

(松木重工社長の妾腹も面白い育ちだけど、一番は竹林倭って子だねぇ。僕がナイトの振りをしてた時、あの子だけ僕を『総長』とも『猊下』とも呼ばなかった。…ふふ。榛原優大の身内、宍戸家は『山王』の系譜なのに、竹林倭には羽柴の血も混ざってしまった)

同時に何人もの少年から話し掛けられたからか、単に日本独自の屋台文化に怯んだのか、目に見えておろおろしている癖に助けてくれとは言わない。恐らく、助けを求めると言う選択肢に気づきもしない、可哀想な程に不器用な人だ。
強がっている訳ではなく、果てしなく要領が悪いだけだろう。良く今まで生きてこられたなと我が祖母ながら感心したが、逆に可愛らしくもある。彼女の本性を知らない者からすれば、真逆の評価だろうが。

(彼は負の系譜で間違いない。打算的で、下心を隠すのが上手い…僕らの『同類』)

叶が狐なら、ヴィーゼンバーグは妖狐だ。
生きとし生けるものには多かれ少なかれ打算がある。

「姉さん年齢不詳っスよね。俺と一緒くらいじゃないんすか?」
「君、何年生?」
「高等部2年っス!あ、LINE交換しとく…?!」
「しない。携帯持ってないもん」
「なんつー手強さ…!」

失語症に陥った人を横目に、サクッとたこ焼き2パックをオーダーした貴葉は、作業着だの作務衣だのを着ている厳つい少年らに『白百合に似てる』と合唱を浴びた瞬間から、愛想笑いの温度を引き下げた。そりゃそうだろう。叶二葉は貴葉の弟だ。
つまり似ているのは貴葉ではなく、二葉だ。二葉より若干髪が長い貴葉はボーイッシュなショートヘアなので、マントじみたボレロを羽織りタイトなジーンズをゴシックブーツに噛ませていると、年齢不詳所か性別不明でもある。然し声のトーンが明らかに男のものとは違うので、口を開けば誤解される事はない。
但し、声域の広い貴葉は何百通りの声を出せるので、彼女がその気になれば男に擬態する事は至極容易な事だ。戦国時代には忍者として活動していた十口の仕事は隠密も兼ねている為、変装は最も初歩的な訓練だった。灰皇院の枠組みでは一芸を持たない不能扱いだが、天神に仕えるべく一族が磨いてきた技は今も廃れてはいない。

貴葉は弱かった。在りし日の叶桔梗にすら適わない、叶の出来損ないだ。
早くからそれを判っていた冬臣や文仁が貴葉に訓練を強いる事はなかったが、父が病床に伏し亡くなるまでの間に、強くなるのだと自ら言い聞かせ、誰よりも厳しい訓練に身を投じた。

けれど天才には適わない。
少しだけ変装が得意で、護身術を知っていて、死に対する恐怖が薄いだけ。ルーク=ノアの前では立っているのがやっとで、榛原の跡取りの声には歯が立たない。だから彼の声を聞かない様に耳栓をして、卑怯な真似をせざる得なかった。あんな子供騙し、普通は通用しない筈だ。山田太陽は抜けている。髪の毛ではなく、警戒心が全くない。歩くだけで敵にエンカウントする、ゲームの主人公程度には。
貴葉には文仁の様に的確に急所を狙える腕もなければ、太陽を殺す気もなかった。ただ、空蝉の王の暴虐を引き伸ばしたかっただけ。彼が公爵に会いたがるのは、想定外だった。

本物の宵の宮。生きとし生ける動物を人形にしてしまう、恐ろしい魔法使い。一人だけの一族、孤独な空蝉、それが灰原だ。蝉最凶の猛毒を持つあの平凡な少年は、命と引き換えにしても構わないほど待ち侘びていた貴葉の大事な弟を、従順な人形にしてしまったのだろうか。

「食べないの?焼き立て、美味しくなかった?」
「私には、少し熱いです…」
「猫舌なんだねぇ」
「ねこ?」

才能と知識に恵まれた大事な弟、世界が畏れるステルシリー最大幹部の魔王様を、いとも簡単に。赤子の手を捻るかの如く。天災の如き力を得た天才は、大人しく眠っていてくれるだろうか?

「貸して。僕がふーふーしてあげる」

彼には、誰もが脆弱なポーンに見えるのかも知れない。シーザーからその座を譲り受けたあの平凡な子供は、神の化身なのだから。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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