帝王院高等学校
二度目の異文化交流は楽勝です!
お気に入りの庭。
と言うにはやや味気ない、玄関から最も遠い位置にある心療内科の入院施設の目と鼻の先には、浄化槽のタンクが幾つかと、遠野総合病院内で回収された資源ゴミを一時的に保管する為の物置と、奇抜なデザインのトーテムポールが並ぶ、そんな不思議な場所がある。

基本的に職員以外には無用だろうが、廊下のドアから誰でも出入り可能になっているのは、敷地を囲うフェンスと植木で敷地内外の行き来が難しいからだった。
外部からの侵入、内部からの脱走、どちらにも向いていないほんの些細な空間。敷地の形から、病院の角地には余分なスペースが幾つか存在している。
創設当時より増改築を繰り返してきた為、増設された病棟と以前からある病棟の継ぎ目には渡り廊下が多く、それは一階も例外ではなかった。病院である以上、患者が行き交う院内で一時的にでも外に出なければならない構造は好ましくないので、渡り廊下の様な形状の通路は壁で囲われ、雨風は完全に凌がれる。幾ら投資しても年々手狭になっていく病院設備に、金銭感覚が麻痺した前院長がギャンブルじみた改築計画を提示したのは、もう何年前の話だったか。

当時若き外科部長として手腕を揮っていた婿養子は、とうとう堪忍袋の緒が切れたのか『貴様はクビだ』と宣った。前述のギャンブラー院長が遠野夜刀の事で、後述の若き外科部長が現在の院長、遠野龍一郎その人である。
夜刀が銀行から恐ろしい金額の融資を受けた所為で切迫した経営状態を、帝王院財閥と言う巨大なスポンサーを得る事で華麗に回避した龍一郎の経営手腕は、鬼を越えて神とまで謳われた。外科医の腕では負けていないと夜刀が喚いた所で、経営手腕が同様とは言えまい。

死ぬまで現役医者を続けるつもりだった夜刀は、こうして定年退職を余儀なくされたのだ。いや、世間的には普通の話だろうが。

血も涙もない鬼の義理の息子もまた血も涙もないらしく、向こうから連絡を寄越す事は更々ない。どれ程ないかと言えば、初孫が産まれた時ですら連絡を寄越さなかった程だ。
幾らその頃、旅にハマっていた夜刀が日本中を渡り歩いていたからとは言え、連絡くらいくれても良くない?君の初孫って事はアタシの初曾孫でしょ?何で教えてくれないの?ねぇ龍一郎ちゃん、どゆこと?パパとっても悲しいにょ。
そんな事を夜刀が涙ながらに語った所で、深夜の霊安室よりクールな龍一郎から返ってくる台詞など知れている。『煩い』か『今忙しい』だ。何たるクールビズ、底冷えする温度によって寧ろネクタイを何本も巻きたい。龍一郎の前では速やかに温もりに包まれなければ、心が凍え死ぬ。例え猛暑日だろうが。


「ふむ」

病院内の一階には、各地に休憩スペースがある。
建物内部にも談話室は点在しているが、日向ぼっこや軽い運動をする為の中庭や、患者のみならず面会客や職員なども自由に使える、多目的なテラススペースもあった。そのどれもに、若干デザインの違うトーテムポールが置かれているのは、病院名物だ。
院内一階通路は、外来診療時間は施錠されていない為、誰でも出入りする事が出来る。但し、余程の物好きでもない限り『14番トーテムポール』が何処にあるのか知らないのではないかと、遠野夜刀は考えた。

「これがあれか、デ、デ、デ………デバブ」

引退した夜刀が、娘夫婦が勤めている病院へやって来たのは、久し振りの事だった。前回訪れた時には、孫より若い少女と異文化交流した覚えがある。

「いや、ケバブだったか?」

現役時代は外科を貫いた夜刀だったが、婿養子に病院を任せてからは暇があれば各地の病院の視察に出ていた。一番の目的は各地の看護師の白衣デザイン(女性限定)だったが、引退する前に妻を亡くしている夜刀には家に話相手が居ないので、必然的に患者との世間話の頻度が増える。一番好きな女子は無論ナースだが、女子に垣根はない。90歳を超えた夜刀にとっては、80歳だろうが女子は女子だ。

引退後にそうした状況から地方へ旅をしていた夜刀も、孫の直江が結婚し娘夫婦と同居する事になった為、ぶらりナースの旅に目処が立てば、引っ越す事にした。
ぶらりナースの旅の最中に初曾孫の和歌が生まれていた訳だが、初めて喋った言葉が『虫けら共』だったと言うので、龍一郎の血としか思えない。そんな顔は可愛いのに中身は全く可愛げのない曾孫に夜刀は絶望した。
夜刀の初曾孫は西園寺学園初等科から最年少生徒会長をしている様だが、何を考えているのか判らない所は俊にそっくりなものの、中学進学時には夜刀より背が高くなった、大変けしからん曾孫である。夜刀は自分より背が高いイケメンが嫌いだ。曾孫の和歌はばっちりこのピンポイントな条件に符合していた。
因みに直江も現在の夜刀より長身だが、何せ中身がヘタレなので『ぶっちゃけ俺の敵じゃない』と思っている。

引き換えに夜刀より遥かに背が低い孫娘と言えば、若かりし頃の夜刀より女性にモテた。
モテ過ぎて男にしか興味がないと宣言していた某ヤクザの跡取りから求愛されていた程だったが、『お前に俊江はやらん!』と夜刀が叫ぶより早く、夜刀の可愛い孫娘が暴力で叩きのめしまくっていた為、高坂向日葵が外科受診する度に、包帯を多めに巻いてやってくれと夜刀は思ったものだ。

昔から喧嘩が弱かった夜刀や直江は、俊江に腕相撲で勝った試しがない。長女と長男が反対なんじゃないかと未だに思っている。本音で言えば、俊江が子供を産んだと娘の美沙から聞かされた時、夜刀は真顔で『産ませた?』と聞き返した程だ。ついでに『俊江の嫁はどなた?』とまで宣った。

『秀隆さんと言って素敵な人らしいんだけど、うちの人が煩くて。俊江からはまだ紹介して貰えてないの。あの人、直江の所に男の子が産まれたもんだから、跡取りこれ以上は必要ないなんて言うのよ…』
『龍一郎め、可愛い孫だろうに。判った、俺から口が酸っぱくなる程ガミガミ言っといてやる。で、和歌は元気か?』
『手がつけられないわよ。あの子ったら、母親を「女狐」って言うの。可哀想に、育児ノイローゼもあるのかしら。お嫁さん、何かにつけて直江に当たり散らしてるみたいで…』
『パパは生後一週間で龍一郎を「クソジジイ」っつった俊江を思い出さずに居られない』
『私もよ…。ああ、でも、俊は産まれた直後に私におばーちゃんって言ったんだけど、産声がそう聞こえただけよね…?』
『う、うーん?』

ハイハイするより早くベラベラ喋っていた初孫を、夜刀は思い出した。
何万回龍一郎に対して『ちょっとチミ、高坂さん家に頭下げて来なさい』と言ったか知れない。遠野の本宅と高坂の屋敷は近所にあるので、年頃の近い俊江と向日葵は幼馴染みだ。高坂組の極道達が訓練していた道場に忍び込んでは、大人相手に格闘技を習ったと言う俊江は、年上の向日葵より強くなっていたらしい。子供は少し目を離すと何をやらかすか判らない、俊江が良い生き証人だろう。いや、当時高坂組を率いていた組長の高坂豊幸が俊江の才能に目をつけ、あれこれ仕込んだのが悪かったのか。
俊江に帝王院学園への入学を勧めてきた豊幸に対して美沙が目を丸めた時、豊幸は哀れなほど青褪めたものだ。まさか女子だとは思わなかったと、夜刀の前で土下座した豊幸は腹を斬りかねない勢いだった。俊江の顔立ちは母親似だが、目つきは完全にヤクザ顔負けの父親似なので、致し方ないだろう。

さりとて、帝王院鳳凰を『殿』と呼んでいた豊幸から『叔父貴』と呼ばれていた夜刀は、悪餓鬼だった向日葵から『じっ様』と呼ばれていた。大人しく優柔不断で人見知りな直江より、快活で裏表がない向日葵を可愛がっていた覚えもある。向日葵は三人目の孫の様な存在だ。
未だに年賀状のやりとりをしているので、向日葵に和歌より一つ年上の息子が居る事も知っている。年賀状に印刷されている写真をどの角度から舐め回して見ても、超がつくほど可愛い娘っ子にしか見えなかった。何ならうちの孫娘と交換して欲しいレベルだ。何故だろう、夜刀には一人娘しかいないが、孫も曾孫も男ばかり。俊江は男だと思わざるを得まい。良くぞ嫁の貰い手があった。有難う世界。

「…うーむ。然しケバブは食べ物じゃなかったか?」

そんな爆裂孫娘の俊江は、大学時代に留学して以降実家を離れていて、現在は先述の通り勘当同然になっている。留学以前から父娘の仲が悪かった為、帰国後医師免許を取得した俊江が研修医として勤めていたのは、都内の別の病院だった。
勤務中に上司を殴り飛ばし騒ぎを起こした事から、俊江が他の勤め先を見つけるのは困難を極めた。医者が暴力沙汰を起こせば免許剥奪も有り得る所だが、被害者に相当の落ち度があった事から、表沙汰にこそならなかった。然し狭い業界、トラブルの噂は風より早く千里を走る。

結局、龍一郎が手配し俊江の研修は遠野総合病院で行われた。院長の娘だからこそ、誰よりも甘やかされない立場だったが、身内の贔屓目ではなく、彼女は誰より努力していたと夜刀は考える。進んで手術助手を務め、時間が許す限り過去の症例を見返し、仲間とのコミュニケーションも忘れず、中学生男子にしか見えなかったからか、年配患者からは『孫みたい』だと慕われていた。
そんな俊江が昼休憩の時に医学書を読み老けていた場所の一つが、『14番トーテムポール』だ。入院病棟の面会時間は昼の2時以降の為、一般病棟から少し離れている最奥の心療内科病棟の辺りには面会時間以外の人気はない。研修医の昼休憩は入院患者の昼食時間と同じ時間帯で保護されているので、慌しい内勤医より優遇されている。これは夜刀が院長だった頃から、徹底してきた事だ。休憩時間にも自習をする者の努力は、絶対に報われる。つまり休憩時間の過ごし方を見ていれば、人となりが見えると夜刀は思っている。どんなに忙しくても必ず食事を取った亡き夜刀の両親は、患者からも同業者からも慕われていた。

「…何にせよ、この光景に俺は見覚えがある」

夜刀の目や鼻や何なら耳の穴に入れても痛くないだろう曾孫なのに、直江の元にいる和歌や舜にはいつでも会えるが、俊江の息子には全く会えないのだから世知辛い。せめて盆正月くらい会いたいと年賀状にびっちりしたためた所、『クソジジイに会いたくないから無理』と言う返事が届いたので、『だったらじーちゃん龍一郎が居ない所に引っ越すからァ!』と言った経緯だ。
引っ越した直後の正月に、俊江と秀隆が連れてきてくれた曾孫を見た時、遠野夜刀は産まれて始めて嬉ションした。加齢による尿漏れではない。在来線改札口から出てきた曾孫を見て、その曾孫が『ひーじーちゃん?』と呟きながら駆け寄ってきたものだから、ジョバっと吹き出てしまったのだ。涙と鼻水とついでに嬉ションが。
初めて会った時の俊は2歳とは思えないサイズ感だったが、1歳になっても喋れない舜とは違いしっかり会話が出来たので、もう嬉ションが止まらない有様だった。3歳の和歌とは違って、夜刀を『干からびた虫けら』と呼ぶ事もない。可愛さ余って殺意が湧く。

「龍一郎が午後から出張だって言うから抜き打ちチェックに来てみれば、お目当ての心療内科はこの夜刀さんに『面会時間は厳守』とほざきやがる。前院長に対する敬愛の念はないのか。何が『ご用件は院長にお尋ね下さい』だ。俺だってちょっと前まで院長先生だったろうが。そう言う所だぞ。いつから我が遠野総合病院は龍一郎の操り人形になったんだ」

夜刀が母方の実家である立花病院のケアホームへ入居してからは、認知症患者の機能改善がライフワークだった。
元が医者なので、患者との交流を突き詰めている内に精神疾患で苦しむ患者の心のケアの重要性に気づいた訳だが、義理の息子に睨まれるので頻繁に上京する事はない。今日上京した理由も、可愛過ぎていっそ食べてしまいたい俊が小学校に入学したと連絡を受けてテンションが上がっただけであり、病院へ立ち寄ったのはついでである。何せ入学式自体は先週終わっていたのだから。何故前もって連絡してくれなかったのかと、夜刀は迸る涙でティッシュ2箱を消費したが、入学祝いと称して焼肉バイキングに連れていったら俊江と俊から『じっちゃん大好き』と言って貰えたので大満足だ。仕事中の秀隆が不参加だったのが誠に残念だが、5分も食べたら満腹になった夜刀は、電話で秀隆と長話をしつつ俊江&俊の胃袋へ消えていく肉を見守った。

『シューベルト、食費に困ったらじっちゃんに連絡しなさい』

夜刀は本気で言った。
まさか秀隆が鳳凰の孫だとは考えもせずに、何なら夜刀の預金通帳を預けても良いとさえ思った。牛より食べる人類を二人も目撃すれば、さもありなん。大黒柱の力量が試される、恐ろしい食べっぷりだった。
食べ放題なのに、お支払いする時には流石の夜刀も申し訳なくなる程だった。鬼の目にも涙。店長の目には絶望が窺えた。心を病んだら心療内科へお越し下さい。

「…そうとも、俺は迷える患者をメスを使わずに救う、カニカマ心療内科医」
「カリスマ?」
「このトーク力で、片言の女の子と通じ合った男だ。恐れるな俺、自分よりデカくても患者は患者。熊の様なジジイにも救いの手を差し伸べてやれ!」
「さっきから大きな独り言だとは思っていたんだが、君はかなり失礼な男だな」
「うっひょう!」
「何と面白い悲鳴だろう」

入れて貰えなかった面会時間外の心療内科の入口を横目に、窓辺からこっそり外を覗き見ていた夜刀は飛び上がる。トーテムポールに抱きついていた熊の様な男が、くるっと振り返るなり立派な日本語を口にしたからだ。

「はァ?!何だお主、厳つい体に石像みたいな顔乗っけやがって、何で日本語喋ってんだボケェ!」
「ご老人、人を見た目で判断するのは如何なものかな?」
「誰がジジイかァ!そっちこそジジイだろうが!」
「失敬な。儂はまだピッチピチの93歳だぞ」
「何だと?俺もまだ96歳だっつーの、パラパラも踊れるっつーの」
「パラパラ?儂より老人じゃないか」
「黙れ変態ジジイ」
「変態だと?酷い言われ様だ、声を大にして異を唱えるぞ。儂に変態の素質はない!」
「こんな所でトーテムポールに抱きついてる93歳の、何処にまともな要素がある!」
「くっ、何たる正論…!」

悔しげに唇を噛み締めた髭面の男に、しゅばっと窓から顔を突き出した夜刀は『勝った』と呟いた。何に勝ったのかは本人にしか判らない。

「だが男たる者、自分より大きいものを見るとつい抱きつきたくなる時があるだろう?」
「む。確かに、判らん事もない」
「特に儂は、父親とはある程度物心が育つまで離れて暮らしていたんだ。だから抱いて貰った記憶がない」

それを言われると、夜刀にも似た様な思い出はある。
ヘロヘロのもやし体型だった夜刀の父は、白衣を着ていない時は朴念仁だった。米俵も抱えられない非力な男だったので、3歳になる頃には夜刀を抱き上げようとした父親がひっくり返って怪我をした事もある。以降、医者が怪我をしてどうすると祖父に怒鳴られた父は、夜刀を抱く事はなかった。夜刀ですらあそこまで非力ではない筈だ。

「御託を並べて言い逃れようったって、こんな所でトーテムポールに抱きついてる蝉の様な年寄りは、変態か認知症に決まってる」
「認知症になって堪るか、ただでさえ親を親とも思わない血も涙もない息子に四六時中馬鹿にされているんだ。この上で本当の馬鹿になったら、ポイっと捨てられてしまう」
「お前ん所の息子は鬼か?俺ん所の息子並みの鬼か?」
「怪我をした時に一度だけ手当をしてくれた事があったが、それ以外は基本的に凄く冷たい子なんだ。かき氷には甘さがあるけれど、あの子には甘さの欠片もない」
「あァ、うちの馬鹿息子も甘いものが好きな癖に、人格にゃ甘さの欠片もねェ」

夜刀は変態紳士と目で通じ合った。気がした。

「この病院はあちらこちらに立派なオブジェが置かれているが、此処以外は人で賑わっていて近寄り難かったんだ。見逃してくれご老人、老い先短い者同士だろう?」
「俺は150歳まで生きる予定だからまだ死なん気配」
「然し儂もそうだが、君も自分より若い者を次々に看取って来ただろう?」
「ぐ」
「タロットカードを捲ったんだ。生涯唯一の友が死んで50年も経っていた事を、ふと思い出してしまったから」

のそりと名残惜しげにトーテムポールから離れた男が、トレンチコートのポケットをゴソゴソと漁りながら近づいてくる。患者にしてはお洒落な男だと夜刀は眉を跳ねたが、白髪なのか金髪なのか判らないオールバックではなく、彼の青い瞳が、日本人ではない事を教えてきた。
然し流暢な日本語だ。以前この場所で知り合った少女とは、まるで違う。

「タロット?トランプみたいなアレか?」
「似た様なものかな」

夜刀の目の前でカードの束を取り出した男は、青い瞳を細めた。近くで見れば見るほどに日本語が似合わない男だと思ったが、夜刀に負けないほど不躾な眼差しで見つめてくるので、若干居心地が悪い。

「このカードはウエイトカードと呼ばれている。アーサー=エドワード=ウエイトは、ゴールデン・ドーンのウィザードだった」
「ごーるでんどん?ういざーど?何だそれ」

夜刀の発音が余程可笑しかったのか、カードを握った手で口元を押さえた男は、吹き出すのを耐えて、ゆったり頷いた。

「いわゆる、魔術師だ。200年程前に我が家の祖先が本人から贈られたそうだが、これと同じものを友人にも贈っている」

それがどうしたと言う前に、

「その百年後、彼らの友情は途切れた」

きな臭い台詞が投げ掛けられた。

「心優しい薬師を、愚かしき獅子が焼き払ったんだ」
「喧嘩にしちゃ、ヤバい匂いしかしねェなァ」
「君からは懐かしい匂いがするよ」
「あ?」
「くっ。喋り方も似ている」
「は?何だって?」
「…一枚、引いてくれないか?」

奇妙な男。然し不気味ではない。
独り言めいた呟きを零して一人で笑ったかと思えば、扇子の様に広げたタロットカードを差し出してくる。断る理由など全くないので素直に一枚抜き取り、夜刀はカードの絵柄を見やった。

「お、星だ」
「夜に相応しいな。カードの意味は、希望」
「俺にぴったりじゃねェか。流石は、」
「夜の王、遠野夜刀」

名乗った覚えがないのに、目の前の青い瞳の男は言った。
瞬いた夜刀は『まァ、医学界のレジェンドだから当然かも』と心の中で自画自賛したが、にやにやと顎髭を撫でながら笑う男にムカつかない事もない。

「喋り方も気配も似ているけれど、そうか。脊髄反射で喋っていたナイトとは、やはり違う人間なんだな」
「は?」
「儂の古い友人は、祖国に残してきた兄の話を度々聞かせてくれた」

そこまで言われて判らないと首を振るほど、夜刀は鈍くはなかった。

「…テメェ、その熊面で夜人のお友達だってのか」
「熊面は初めて言われた悪口だ」
「俺がさっき此処を通って心療内科に入るまで居なかった癖に、わざとだな?」
「バレたか。儂から近寄るよりは警戒されないと思って」
「いつから俺を付け狙ってやがった?」
「若い娘と幼い子供を連れて、朝早くから食事に行っただろう?」
「いつからだって聞いてんだ、狸ジジイ。この場で捌かれたくなけりゃ、吐け」
「冗談、オリオンを飼い慣らす様な恐ろしい男を騙す気はないよ」
「おにおん」
「君は帝王院鳳凰の友人だった。オリオンが身を隠すにはこれ以上ない宿り木だろう、『聖地』のよりによって『遠野』に居るなんて、シリウスすら考えつかないに違いない」
「…冬の大三角」

夜刀が呟いた瞬間、目の前の男はわざとらしい笑みを滲ませる。

「成程。テメェの本当の目的は、馬鹿息子の方か」
「はは、本当だ。ナイトには全然似てない、貴方は優秀だなぁ」
「エビの社員で海を渡ってくる馬鹿は、対外実働部以外に考えられねェ」
「…へぇ、堅物のオリオンは何処まで話しているんだろうか」
「舐めるなよ若造。冬月まで病的じゃなくても、俺も記憶力には自信がある方だ。貴様、ライオネル=レイだな?」
「ジャック=レイナード=アシュレイ、若造と呼ばれるのは久し振りだよ」
「エビ野郎に可愛い弟を持ってかれて、死に目に会えなかったこの俺が、遺骨すら未だに戻ってこないこの俺が・だ」

握っていたタロットカードを投げ捨て、笑う男の顔を睨めつけた。伊達に鬼と呼ばれた訳ではない。ノアの一族を夜の一族と呼ぶなら、夜の王と呼ばれた遠野夜刀は逃げも隠れもしないに決まっている。

「この期に及んで、グレアムの手下を、可愛い息子と会わせてやると思うか?」
「無謀にして暴挙である事は、先刻承知の上だとも。わざわざ貴方の行動を待った理由を察してくれないか」
「…何だと?」
「シリウスに会ったか?彼は貴方の名を知らなかったから、後で相当驚いた様だ。まさかナイトの兄だとは思わなかったと」
「誰の話をしてやがる」
「この場で。十年前、君はサラと接触している」
「何で知ってんだ?」
「…つい先日、彼女が産んだキリストがノアを継いだ。シリウスはあの日から戻ってこないままだ。家出した娘を探しているのかと思えば、片田舎に隠れ住んでいるのを見つけたんだ。我ながら迂闊な真似をしたよ。その所為で、彼は穏やかな暮らしを捨てざるを得なかった」

世界中の何処にも戸籍がないのに、と。微かな呟きを聞いた夜刀は、屈み込んで星のタロットカードを拾う男の旋毛を静かに眺めた。

「…シリウスってのは、」
「すまない。儂に答えを求めないで欲しい。彼は陛下と共に、先頃から山奥で暮らしている。2代目のナイトが消えてしまった事で、帝王院駿河氏には苦痛を味わせてしまったからな」
「2代目?」
「帝王院秀皇。我が主、キング=ノアが後継に挙げた日本人だ。…然し儂とシリウスが犯した過ちによって、神の子は消えてしまった。オリオンが知れば、儂の首は瞬く間に飛ぶだろう」
「はァ。…何処まで調べた?」
「貴方が、孫の内縁の夫の身辺調査を依頼した直後に、病院の記録から帝王院秀皇に関する全データを抹消した、と言う所からは大体」
「…舐めやがって」
「オリオンの娘は帝王院の子を産んだんだ。マジェスティからナイトの統率符を与えられたノアの正統後継者、戸籍上ルークの父親」
「秀隆は俊の父親だ。サラが出産したのは、」
「あってはならない事なんだよ、夜刀。子を作る事が出来ない陛下の子供が存在する事は、許されないんだ」
「何?」
「イブがファーストを産んだ様に、ゼロのDNA配列がエアリアスのものとはまるで異なる様に。…どうしてこの世に、神話じみた出来事が起こってしまうんだ?」

それは問い掛けだったのか、懺悔じみた独り言だったのか。

「…ほら、俺は何度引いても死神が出てしまう。恐らくもうすぐ死ぬんだろう。運命は受け入れる。逆らうつもりはない」
「此処が何処だか判って抜かしてるんだろうな。簡単に死ねると思うなよ、若造」
「ふ、ナイトの兄は意地が悪い」
「龍一郎と龍人は夜人が育てた」
「知ってる。ずっと見ていた」
「冬月は帝王院を裏切った家だ」

熊の様に体格が良い男が握りしめているカードを奪い、夜刀は死神と言う絵柄を睨みつけた。こんなものの何が怖いと言うのか。生前の祖父、遠野一星の方が余程、閻魔大王の様な顔をしていた。

「末裔が結ばれる事などあってはならないと、息子は思い込んでる」
「オリオンはイギリス人の俺より石頭だった。昔からだ」
「俺の言う事を聞くなら、手を貸してやらん事もないが?」
「それは良かった。俺はナイトに負けないほどブラコンだったから、兄に逆らった事は一度もない」

今日は晴れているが、外はまだ肌寒い。4月の中旬だ。

「父の代わりに俺を抱いてくれたのは、オリヴァーだったんだ」
「俺だって夜人を背負って学校に通ったもんだ。生後一時間でファーストキッスも奪った。小さい頃は兄ちゃんの嫁になるって言ってたのに、何でエビなんぞに嫁いでったのか!畜生、お主ちょっと話に付き合え。コーヒー奢ってやるから」
「スタバかな?マクドナルドかな?最近はケンタッキーやタリーズも嗜んでいるけれど、コーヒーよりキャラメルマキアートが好きだよ。プリンにはチェリーを乗せて欲しい」
「男は黙って缶コーヒーしばくもんだ。お前の死因は糖尿病だな」
「入院が必要だろうか?」

茶目っ気を感じさせる問い掛けに、自称カリスマ心療内科医は暫し考え込みつつ小銭入れを取り出し、売れない場所だからか品揃えが悪い自動販売機の前で、ニタァと唇を吊り上げたのだ。

「即日入院が必要だ。紹介状を書いてやるから、今夜は俺の愚痴大会に付き合え」
「OK、ホテルを借りてるから場所はそこで構わないかな」
「男とホテルに泊まる趣味はない。人目につかず防音がしっかり守られている所となると、」
「判った、宇宙だ!」
「馬鹿野郎、カラオケに決まってんだろうが!」

夜刀は華麗に突っ込んだ。
こんなすっとぼけた男と会話をするのは久し振りだったが、帝王院鳳凰と雲隠陽炎以上ではない事を、今はただ祈るばかりだ。

「ブラックは駄目だ。黒は神の色だって宗教上定められているから本当に無理なんだ、儂ぽっくり逝っちゃう」
「カフェオレ売り切れてるから仕方ないだろ、微糖で我慢しろ」
「尾藤イサオ?」
「お前は目ん玉の色が黒けりゃ日本人だな」
「黒は駄目だよ黒は、恐れ多い色なんだ。夜刀なら判ってくれるだろう?」
「判るか。大多数の日本人が生まれつき真っ黒だボケェ」

追伸。
缶コーヒーをデカい体躯で握り締めたまま小首を傾げている青い瞳の男は、プルタブの存在に何分で気づくだろうか?
缶に歯を立てて穴を開けて飲むスタイルだった陽炎は、死ぬまで気づかなかったものと思われる。

←いやん(*)(#)ばかん→
[戻る]


第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
無料HPエムペ!