帝王院高等学校
深紅に紡がれたオルゴールの行方
カチリ。
カチリ。
時が刻む音は、ドミノ倒しに似ている。
カチリ。
カチリ。

ほらまた、終わった。

無から生み出された有限には時限装置が搭載されていて、須く無へ還るシステムだ。無は無しか生み出せない事を、いい加減痛感しただろうに。

「また終わった」
「定めのままに」
「…もう飽きた」

嘘つき。
どうせまた、何年か、何万年か、何億光年か過ぎ去れば、絶望的な静寂に耐えきれなくなるに決まっている。同じ事を無量大数もの数、繰り返してきただろう。

「そうか。お前は既に、狂っている」

哀れな。
その絶望さえ終わった瞬間に淘汰した空虚は、再び時を刻めば生み出されていく有限と同時に、己に蓄積していく極彩色の感情が何なのか知らないまま。ひたすら終わるその時を繰り返し絶望しては、忘れ続けて壊れ果てた。

「何故生まれてくる」
「お前がそう望むから」
「どうせ死ぬ運命」
「ああ」
「もうイイ、終わらせよう」

同じ事ばかり繰り返す。
始めた事を忘れてお前は、終わらせる事ばかりいつしか。そうして壊れたお前はもう、自分が何なのかすら忘れてしまったのだ。

「不可能だ。お前が終わらせればまた、俺は新たな時計を作るだろう。如何に飽き果てていようと、お前がそれを望む限り」
「…俺は終わらせる為に存在している。何故ならば俺は、虚無」
「虚無は俺」
「違う、虚無は俺。廻り続ける度に白く汚れていくお前を、俺はただ眺めている」
「黒。お前には虚無が、そう見えるのか?」

いつから狂ってしまったのかすら忘れた哀れな『世界』の為に、終わらない世界でその絶望だけ終わらせる物語を描く事にした。主人公の名前は『世界』、広がり続ける永遠の空間そのもの。

「お前は俺と共に始まった。お前が終わる事はない。星が滅び幾許かの爆発が光をも呑み込もうと、虚無は永劫の終焉回帰」
「終わり続ける運命だけが許された、絶望の歯車を。…壊すんだ」
「ああ、忘れたのか。始まりは常にお前だったけれど、それさえ」

お前が生み出した命ある『死』は繰り返される。
お前が絶望を生み出す度に世界は色で満たされ、黒く、濁っていく。

「ならばお前の為に、俺がお前の絶望を終わらせる術を探してこよう。俺にはお前の感情を理解する事が出来ない。俺は果てしなく無色の、虚無そのものだ」
「違う、虚無は」
「俺とお前は同じ存在だったけれど、お前が俺を認識した瞬間に虚無は歪んでしまった。俺とお前は二度と交わらない。お前は全ての始まり。俺は全ての終わり。繰り返そう、終わらせてもまた始めざる得ないお前の絶望と、俺の鬼ごっこを」

白く濁っていくとお前は言った。
いつしかお前は白を美しいと囁く様になった。
壊れたお前は壊れた事を認めないまま、壊れて尚、狂った時限を廻し続けるだろう。始まる度に終わる様に、終わる度に始まる事を忘れてしまったのだ。

「俺は終焉までのドミノを並べる。お前は倒れていくそれを眺めている。他には何も出来ない。永遠に繰り返される。今まで通り」
「終わらせるんだ」
「俺が居なくなれば、終わらないまま時は廻り続けるだろう。永遠の孤独に耐え兼ねて虚無を歪めた事を、お前は忘れてしまった」

物語の主役は世界。
他には何も存在しない。

「俺はお前が手放した全てを抱いたまま、お前が決して手放さないだろう絶望のみを理解出来ずに、漂い続けてくる」

そして世界は、嘆く声さえ忘れてしまった。



「終わらせる事しか出来ない俺は、終わる事だけが出来ない」



























永劫回帰
Someone never knows the end

深紅に紡がれたオルゴールの行方
















全てが終わった時に、私は私の歩いた軌跡を書き留めておかねばと。だから私は、そんな理由も定かではない義務感に襲われたのです。

何度繰り返そうと、やはり変な話でしょう?
こう言った類いのものは遠ざけてきた癖に、時の流れは人を変えるのかも知れません。気づかない内に、密やかに確実に、猛毒で浸す様に。


人は個々の全てが不十分なのです。
知っていた筈なのに、本当は誰もそれを真から理解してはいないのでしょう。
だから間違える。だから悔いる。だから未練を残す。いつの時代も変わらない、これこそが真理なのです。


彼は言いました。
足りないものの方が多いのだと。
欠けた人間同士支え合えば、少しはマシになるかも知れないなんて、笑ってしまうでしょう?



けれど私はその手を。
いいえ、彼が私の手を。

…ふふ。そんな事はどちらでも良い事でしたね。



全ては神の描いた喜劇なのです。
希望も絶望も喜びも悲しみも全てが。一つの例外もなく全て、今この瞬間ですら。



人は人生の最後に、赤い追記を残すのかも知れません。
血に刻み続けた記憶の全て、己の魂の最後の灯火、つまりは緋色のレッドスクリプトをまるで糸の様に紡ぐのです。














(例えば、神の花嫁ですら)
























「…何だと?」
「入院希望の患者が、どうしても医師を指名したいと騒いでいまして…」

出張から戻るなり訳の判らない話が投げ掛けられて、苛立ち紛れに外したネクタイを投げた。ほとほと困り果てている事は、内科部長の表情からも読み取れる。

「うちに医者の指名制度などないと突っぱねておけば良い。下らん話を聞かせる暇があれば、」
「前院長の口添えがありまして!」

食い気味に叫んだ内科部長は、普段の物静かさが嘘の様だった。
まさかその名が出るとは思わなかった事もあるが、その名が出る度にろくな事にならない事もあるので、遠野龍一郎の眉間に深い皺が刻まれる。ただでさえ宜しいとは言えない人相が、今や極道の様だ。

「…儂の目がない時に奴を院内へ入れるなと言っておいただろう、八乙女」
「む、無理ですよぉ…!」
「医者が軽々しくその台詞を宣うな!」
「ひょえぇ!でででも、今回は榊外科部長も学会で出掛けられてたんですからぁ!昨日だって松本先生しか居ない時に動脈瘤の緊急オペが入って、直江先生が前院長に頭を下げて下さらなかったら、もうどうなっていたか…!」

尋ねてもいないのに、ペラペラと内科部長は語り聞かせてくれる。
難しい手術が緊急で入り、執刀医が過去の症例を血眼になって探していた所へ、てんやわんやの騒ぎを聞きつけた遠野直江が飛んできたそうだ。執刀した数なら天下一品である遠野夜刀の携帯電話に掛けた直江は、タイミング良く東京にいると言う夜刀の協力を得る事が出来た。
駆けつけた夜刀が助手として手術に立ち会い、無事手術は成功したと言う事だ。

流石、老いても天才と呼ばれただけはある。
と認めざるを得ないだろうが、口には出さない。何にせよ、ご隠居の手を借りなければならなかった外科組には、一つ二つ雷を落としておく必要があるだろう。結果的に患者の命を救えた事は僥倖だが、頼り癖がついては困る。

「循環器には木下と長野が居ただろう、奴らは何をしておった」
「長野先生は350時間休みなしで、患者より立派な危篤状態でしたよ?!仮眠室でピクリとも動かない長野先生を叩き起すなんて、誰にも出来ません!」
「儂なら叩き起す」
「院長ならご自分で手術した方が早いでしょ?!」

余程昨日は追い詰められたのか、大人しい男の怒鳴り声に龍一郎は沈黙した。確かにどんなに難しい手術だろうが、龍一郎が他人にメスを譲る事はまずない。助手として参加させ、指示を出して執刀させる事はあっても。

「どいつもこいつも、何と不甲斐ない。知識はあるだろう、貴様が無理なら直江に切らせれば良かったんだ」
「無理ですよ直江先生は、性格的に。俊江先生みたいに手術室で鼻歌歌う豪胆さがないと」
「アレを引き合いに出すな。何が豪胆なものか」
「大体、昨日は4件オペのスケジュールが組まれていたんです。幾ら何でも救急搬送は想定外ですから!」

外科医の人手不足が深刻だと呟く男へ、龍一郎は舌打ちを噛み殺しつつ『ならばお前がメスを握れ』と吐き捨てた。何の為の医師免許だと追い打ちを掛ければ、内科部長の顔色は益々青褪めていく。

「うっうっ、内科は内科で大変なんですってば…。俊江先生に戻って来て貰いましょうよぉ、院長ぉ、歩み寄りって言葉知ってますか?」
「貴様は匍匐前進で硫化水素の発生源に近寄れるのか?」
「ガスマスクがあれば出来ます!俊江先生は有害じゃないですよ、喋らなきゃ!」
「ならば貴様がアレの口を塞いでこい」
「院長、僕に死ねと仰るんですか?」

どう言う意味だ。会話が成立していない様だが、もしかしたら寝不足なのかも知れない。何があったのか、聞くべきか聞かないべきか。

「娘さんと仲直りして下さいよ院長ぉ、どうせ院長が悪いんでしょ?前院長も『龍一郎の所為で俊江が若い男と駆け落ちした』って言ってましたよ!娘さんの恋愛に口を出す父親なんて、最低ですからねっ?」
「捌くぞ貴様」
「何がいけないんですか若いお婿さん、良いじゃないですか!僕の奥さんも2歳年上ですけど、最近は姉さん女房が流行ってるんですよっ?」

若い男、ああ確かに若い。若過ぎる男だ。
よりによって帝王院の嫡男とは、今更言っても遅いのは判っている。何せ二人の間には、既に子供がいるのだから。どう考えても、帝王院駿河に説明する術がない。馬鹿娘が天神の子を誑かしてしまった申し訳ない、と土下座しただけでは、決して許されないだろう。よりによって俊江は冬月の長子だ。断絶したと言っても、冬月の過去自体は永遠に消えない。

「美沙先生だって、院長が怖いから言わないだけで、本当は俊江先生とお孫さんと一緒に暮らしたいって思ってますよぉ」
「貴様に家内の何が判る」
「院長、我儘もいい加減にして下さい。昨日から院長室でふんぞり返ってた前院長に振り回された僕は、もう院長なんて怖くないんですからねっ」

成程、道理で龍一郎のデスクの上に缶コーヒーの缶が三つと、金平糖が入っていた筈の空っぽな瓶が転がっている筈だ。あれは九州の長崎街道にある菓子屋にしかない限定品で、通信販売は行っていないので現地に足を運ばなければ手に入らない代物なのに。

「…良かろう、あの愚か者の首を刎ねて貴様の眼前に添えてやる」
「ひょえぇ!」

龍一郎の殺意メーターが5を示した。因みに全部で5段階だ。最早殺意しかない。

「あの馬鹿の話はもう良い。今日の予定で変更箇所はあるか?」
「榊先生は、午後から大学病院の教授会に参加されてから戻られる予定です。あ、帝王院さんの診察は午後からですが、今日は奥様の定期検査も同時に行いますので、お二人は特別室へご案内します」
「ああ、その為につまらん二次会を蹴って朝一に帰ってきたんだ。ご夫人のエコー検査は、儂も顔を出す」
「判りました」

駿河は、息子が失踪して間もなく体調を崩した。
今では定期的に検査に訪れているが、みるみる弱っていくのが痛いほど判る。帝王院財閥会長と言う他人に弱音を吐けない立場だけに、龍一郎よりずっと若い駿河が萎れていくのは、見ているだけで堪えた。
然し多忙を極める財閥会長に安息はなく、片腕として連れ回していた帝王院帝都が居なくなった今、過酷な業務と度重なる心労で逃げ場がないに違いない。
自律神経と血圧に多少心配はあるものの、駿河本人が救いを求めて来ないのであれば、冬月の名を捨てた龍一郎に出来る事は少なかった。ただでさえ、龍一郎は秀皇の行方を駿河に隠している。幾ら秀皇本人の望みとは言え、罪悪感がない訳ではない。

「榊部長がお戻りになるまで、木下先生と僕が患者の経過観察の記録に当たります。と言っても、昨日と今日の分を後で纏めて報告するだけですが」
「ジジイの指示でこなした手術が失敗する確率は低いだろうが、執刀医本人からも報告する様に言っておけ」
「榊部長は前院長のお弟子さんですもんねぇ。久し振りの鬼神到来を見逃したって聞いたら、悔しがるだろうなぁ」

どうも認めたくはないが、夜刀には人望があるらしい。悪戯癖が抜けない悪餓鬼の様な年寄りの、何処に尊敬する所があるのか。龍一郎は考える事を諦めた。考えるだけ無駄だからだ。

「で、儂を指名していると言う患者の病名は?奴がわざわざ口添えをする程だ、指定難病の類か?」
「一応持ってきたんですけど」

小脇に抱えていたバインダーを持ち上げた内科部長は、ぺらりぺらりと紙を捲る。

「ありました。事前に記入して貰った問診票には、数年前に銃撃を受け治療したと言う証言があります」
「銃撃だと?日本人か?」
「お名前は日本人ですね。保険証は預かってないみたいですが」
「ふん、だとすればヤクザか。高坂絡みなら夜刀が出張らずとも、割増料金で手当してやるのに」

渡る世間はマネー、三途の川を渡るにも六文の冥銭が必要だと言う。慎ましく暮らしている病人から巻き上げはしない。私腹を肥やす悪人から搾れるだけ搾り取ってこそ、経済界は回るのだ。

「ヤクザも人の子には違いない。判っているのは銃創だけか?」
「えっと、現在服用している薬はなし。通院履歴もありません。ご高齢ではあるんですが、傷跡は完治しており、レントゲン検査も異常は見られませんでした」
「八乙女、それは外科のカルテではないのか?何故お前が持ってるんだ、木下はどうした」
「木下先生は外来診療中なので。仰る通り一通り外科の検査を済ませてから、内科に回された訳ですが、診察の結果…その…」
「はっきり言え、何だ」
「CT、MRI、心電図、血液検査、共に異常なしでして」

クリーニングから戻ったばかりの白衣が掛けられているハンガーを引き抜き、龍一郎は眉を潜めた。顔色が悪い内科部長に『馬鹿か』と思ったものの、口にはしない。自分が雇用している医師に馬鹿と言えば、自らの首を絞める様なものだ。既に夜刀の協力を得た件で首を絞められた様な気分なのに、これ以上は勘弁願いたい。

「貴様、さっきジジイの紹介だと言っただろう?異常なしとはどう言う事だ」
「病理検査に回すかどうか、医局長も頭を痛めていらっしゃるんです。院長が戻られるまで、僕らには待つしか出来なくて」
「愚か者が。夜刀に怯えて医療が出来るか、すぐさま追い出せ」
「そ、それが、院長を指名出来るなら、それ相応の寄付も考えていると仰っていて…」
「寄付?」
「はい。特別室の宿泊費も、先払いで3日分頂いてます」
「…十割診療で入院すると」
「勿論、その辺りは説明しました。院長を指名出来るなら、指名料を支払っても構わないそうです」
「………ほほーう?」
「ああ、お金の話になると目が光る…」

成程、つまりとっくに引退している筈の子泣きじじい、ではなく遠野夜刀が紹介してきた患者と言うのは、患者ではなく『客』と言う事なのだろう。外科医の癖に経営者としての博打が凄まじかったあの男ならば、風邪を『不治の病』と宣って荒稼ぎする程度の事は有り得る。
龍一郎も認めざるを得ない腕を持つ医者だったが、夜刀は少々面倒臭い所があった。彼の弟である夜人が『純粋無垢』だと思えるほどに、夜刀は夜人とは毛色が違う。

「…鬼に拐かされた生贄と言う所か。ふん、哀れな羊から剥げるだけ毛皮を剥いでやろうではないか、剥がされている事にも気づかない様に」
「院長なら出来そうで怖いですよぉ」
「外科医たる者、麻酔に頼っている様では先は見えている。大体、手術がなければ活躍の機会がない麻酔医を一定数常勤させるのはコストが懸かる!だからと言って外部委託は更に割増だ、早い話が麻酔を必要としなければ良い!」
「えー!」
「…とまでは流石に言わんが、副作用や不慮の事故が有り得る限りうんぬんかん」
「院長、銭ゲバって知ってます?」
「卑しい言葉を使うな、医者が理系以外出来ないと思われる」
「僕、漢字検定3級落ちました。銭ゲバじゃなかったら守銭奴?」
「倹約家だ。覚えておけ」
「お金持ちなのにジェネリックを希望する患者は?」
「ただのケチだ、そんなけしからん患者には在庫がある新薬を可能な限り処方しろ。処方理由は何とでも書ける」
「院長、それ殆ど詐欺ですよ。前院長より悪質です」

少しばかり頭が冷えた。
夜刀より悪質と言われたら、流石に喜べないではないか。

「ヤクザ屋さんにも、悪い人にも見えなかったんですがねぇ。前院長と同世代のご高齢ですけど、元気そうでしたし…」
「どっちにしろ死に損ないだろうが。今は元気でも、この世はいつ何があるか判らんからな。くっく」
「酷い…!何で院長が医師免許を持ってるんですか?」
「優秀だからに決まっている。儂に苦手科目はない」
「体育は?」
「保健体育が苦手な医者が居るか愚か者」
「保健体育じゃなくて体育ですよぉ。跳び箱何段飛べます?僕は3段から跨ぎます」
「お前は医者以前に男として学び直せ」
「セクシャルハラスメントですよ院長。モテない男が居る様に、跳び箱が飛べない男だって居ます!因みに前院長は子供の頃、5段跳べたって言ってました」
「奴が子供の頃に跳び箱はあったのか?」
「へっ?」

甚だ謎めいている。夜刀は明治生まれだ。

「え?え?えー?!」
「騒がしいぞ八乙女。で、夜刀のジジイはまだ院内におるのか?」
「木下先生に患者を押しつけられてしまった僕が、とりあえず入院手配をしたら満足したみたいで、さっき院長の机の上にあった金平糖を一気飲みして帰りましたよ」
「…」
「多分、今日院長が戻ってくるって言ったからかも知れませんけど」
「立花に患者の脱走が酷いとクレームを入れておけ。前院長は有能だったが、今の息子が継いでから病院とは名ばかりの老人ホームではないか。落ちぶれたものよ」
「ちょ、自分の実家でしょうっ?言い過ぎですよ!」

ああ、そう言う事に『なっていた』と肩を竦め、聴診器を首に引っ掛けた。

「で、客は当然、内科病棟最上階の特別室に回したんだな?」
「客じゃなくて患者!」

入院患者用の病棟は、看護師が常駐している集中治療室と大部屋が同じフロアにあり、それより一つ上の階にツインルームとシングルルームが用意されている。更に上の階には若干広めのシングルルームが並んでいて、最奥、医局から程近い位置に特別室が二つある。
有名人や仕事を持ち込む患者が多く利用されている事から、増改築を繰り返す過程で病床も増えつつあるが、最上階のシングルルームフロアの特別室は端的に『最高値』だ。何せ見晴らしが良く、廊下をさくっと散歩気分で幾らか歩けば、展望レストランに行く事も出来る。プライバシー保護の観点から、シングルルームが並ぶフロアへのエレベーター利用は、入院患者の手首に取りつけられているブレスレット型のバーコードタグをエレベーター内で認識させなければならず、面会客は一階受付で事前に登録された人間でなければ立ち入りは不可能だ。
なので通常、他のフロアから展望レストランへ行くには、一階から店内に直通するエレベーターを利用しなければならず、そのエレベーターは面会時間のみ動いていた。
然し最上階のシングルルーム入院患者だけは廊下をテクテク歩いて、レジ前の店員にブレスレットタグを見せるだけで入店する事が出来る。食べている内に面会時間を過ぎそうになろうが焦らず、エレベーターが混雑していようが意に関せず、絶景を眺めながら名物の『ヘルシーお豆腐パフェ』や『鯛茶漬け』、『和牛ハンバーグステーキ』をゆっくり味わえる寸法だ。
尚、このセレブ忖度型システムは夜刀の発案であり、龍一郎のアイデアではない。龍一郎が発案したのはヘルシーパフェだけだ。あと各フロアに点在する自動販売機の『職人のおしるこ』と『振って美味しいぷるりんプリンシェイク』だけだ。こっそり病院の何処かで缶を振りまくっている院長を見掛けたら、そっとしておいて欲しい。

「割増料金で食事のグレードアップが出来ると言う説明は?」
「勿論しましたよぉ、入院のしおりに真っ先に書いてるでしょ?デザートつきの食事が良いって嬉しそうに仰ってました!」
「ボロ儲けか…くっ、くっくっ」
「あ、もううちの病院駄目っぽい。院長の人格が駄目っぽい」
「良かろう、搾り取…こほん。この儂を使命すると言うなら、相当の指名料を計上しておけ」
「うちホストクラブじゃないんですけど、命を救うホスピタルなんですけど」
「慈善事業で優秀な医者が育てられるか。文句があるなら九州に飛ばすぞ」
「九州?!えっ、また新しい医療マシンのお披露目でもあるんですか?勘弁して下さいよ、僕には胃カメラが精一杯です!」
「金平糖くらい書けるだろう。貴様がのうのうとジジイに食わせたブツを買い直してこい」
「ブツって、物騒な言い方しないで下さいよぅ。何でしたっけ、シュガーロード流星群?でしたっけ?九州かぁ、院長がお取り寄せしてる明太子の直売所があるんですよねぇ」
「金平糖は長崎、明太子は福岡だ。お遍路気分で歩いてこい、少しは痩せるぞ」

何ともファンシーなネーミングセンス。ちょっと龍一郎院長先生には口にする勇気がない。そろそろ50代半ばの内科部長には、そんな男の葛藤は判らないらしかった。小柄で手足は細いのに腹がぽにょっと出ている内科部長は、内臓脂肪が大分怪しい。CTで輪切り写真にしてやりたいものだ。嫌がるだろうが。

「そろそろ帝王院ご夫妻を出迎える時間か」
「あ、お荷物お持ちしますよ。また皆にお土産ですか?」
「ああ。時間がある時で構わんから、そこに置いてある残りの菓子も適当に配っておいてくれ」

幾つかの手土産を紙袋へ詰め込み内科部長へ手渡すと、龍一郎は杖を握った。
時々こうして杖を使う事で、院内の点字ブロックに不具合がないか、自らの手で確かめている。すり減っていたり欠けていても、目で見ただけでは判らないからだ。

「どうせ同じフロアだ、先にジジイが連れ込んだ患者に会っておこう」
「僕もご一緒します。帝王院様がお越しになったら、先に奥様から診察する予定なので」
「ああ、金づる…こほん。患者の名前をまだ聞いておらんかったな」
「えっと、ナスさんだかアシタさんだか…ああ、明日と書いてアスさんです。日本人離れしたお顔立ちで、ナースステーションが色めき立ってるみたいですよ」
「成程、夜刀の怒りを買う筈だ。あの馬鹿は日本中の看護師が恋人だと思っておるからな」
「前院長の若い頃の写真を見た事あるんですけど、男前ですもんねぇ!いやぁ、院長も直江先生も男前ですし、遠野家は男前の家系なんですねぇ。あ、院長は遠野じゃなくて立花でしたっけ」

全く、デスクワークが基本だからか内科医は良く喋る。

「西園寺学園に通ってらっしゃる和歌坊っちゃんなんて、お人形さんみたいなお顔立ちですもんねー!いやぁ、美形一族は良いですね、毎日眼福で幸せですねぇ」
「知らぬが仏だ」
「へ?」
「和歌はお前の事を『ダンゴムシ』と呼んだが、舜は『豚骨醤油』と呼んでいる」
「ちょっと待って下さい院長、舜坊っちゃんはまだ5歳でしたよね?絶対嘘ですよね?」
「…舜はラーメンの種類だけ漢字で書けるらしい。平仮名も書けん癖にな」
「またまたぁ!判りましたよ、孫馬鹿自慢ですね?5歳なのに漢字が書けるなんて、優秀だなぁ!舜坊っちゃんも西園寺学園に通われる予定ですか?」
「…だから平仮名が書けんと言っておるんだ」

カルテを抱き締めている平凡顔の内科部長が、ふわふわと軽い足取りで向かう後をついていき、擦れ違う医者や看護師に挨拶を交わしながら辿り着いた特別室のネームプレートには、『明日麗』と書かれていた。

「…あすれい?」

無意識に呟けば、些細な違和感を感じる。理由は判らない。

「お待たせしました明日さん、院長連れてきましたよー!」
「おお、草葉の陰から一日千秋の思いで待ちかねたぞ武蔵!」
「だから武蔵じゃないですって、僕は八乙女小次郎です!」
「そうだったなコジー、さっき1105号室の村上さんからメロンパンを貰ったから一緒に食べよう!」
「あ!パンだらけのメロンパンじゃないですか、良いですねぇ!」

元気良く特別室へ入っていった内科部長の向こう側から、しっかりした日本語が聞こえてきた。聞いてはいたが、患者とは思えない快活な声だ。
何処かで聞いた事のある声だと思ったけれど、月日が経つと言う事が絶対記憶にどう言った影響を与えるのか、遠野龍一郎はこの瞬間まで知らなかったのだ。

「お待たせしました明日さん。こちらが当院の院長、遠野龍一郎先生です〜!」
「やぁ、初めまして『遠野龍一郎』院長先生?」

白髪なのか金髪なのか判断がつかない髪の男は、同じ色合いの髭を撫でながら、青い瞳を細めて笑った。
院内通話専用の携帯が音を発てた内科部長は、メロンパンを片手に廊下へと出ていく。

「儂は明日麗」
「な、んの、真似だ…」
「タロットカードが何度捲っても死神から変わらなくなったから、巡礼の旅に出る事にした。死ぬ寸前でなければ、こんな愚かな真似はしなかっただろう、ただの弱虫な堅物さ」

見覚えがないと自分を騙せるほど器用だったら、少なくとも瞬きを忘れて立ち止まる様な真似はしなかった筈だ。

「そうだ。頂き物で悪いが、メロンパンを食わないか」
「…」
「遠慮するな、…儂とお前の仲だろう?」

ああ。
悲劇なのか喜劇なのか。

「帝王院さんがご到着になられましたよ、院長」

このフロアの特別室は二部屋しかないと言うのに、何故。

←いやん(*)(#)ばかん→
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