帝王院高等学校
老いも若いもロクなもんじゃねぇ!
ぬるり。
体が重く冷たい何かに包まれている感覚。心臓の下、骨盤の上、脇腹が余りにも痛い気がしたので舌打ちすると、鈍い痛みが走った。

「何これ、すっごい痛い。お腹がすっごい痛い」

苛立ち紛れに呟けば、目を閉じていたらしい。
ぱちっと開いた視界が果てしなく白いので、「ああ、またか」と呟いてから、首を傾げた。

「…また?またって、俺こんな所に来たコトあったっけ?」
「うん。でも、さっきとは違うだろ?」

投げ掛けられた言葉に動きを止めたのは、聞き覚えがある声だったからだろうか。けれど自分が良く知っているその声とは、何処か響きが違った。誰よりも知っている筈なのに、凄まじい違和感がある。

「ここには花も氷もなければ、敵もいない。俺の魂に入ってくる権利がある奴は、俺しかいないからね」
「…変な感じ」
「何が」
「自分の声を耳で聞くと、自分の声じゃないみたいな気がする」
「へー、お前さんは俺の声を耳で聞いてるんだ?変態じゃないのかい」

くすくすと、何が楽しいのか。
自分の声が響いているのは、随分と下の方からだった。ぬるりぬるりと下半身を包む真っ黒な湖には波紋一つなく、見上げれば白一色の世界の半分、視界を下に落とせばそこには黒しか存在していない。

「男なんて皆さ、多かれ少なかれ変態性を持ってるもんだよ。女の子だってきっとそうだよ。多感な息子の前でさー、風呂上がりに裸のまんま寝転がってる女もいる訳だし」
「お蔭様で、一般的に抜きネタな筈のエロゲーを賢者タイムのまんまクリア出来る俺は、男としてちょいと不味いよねー」
「高野君は巨乳じゃないと勃起しないって言ってたけど、俺としては胸なんてどうでもいいわけ。母親ので見飽きてる」
「枯れてるよねー」
「足って言うか、太股の付け根だよ。普段隠されてるからこそいいよねー、レオタードとか。新体操の選手とか」
「エロいねー、いいよねー」
「ま、誰にも言わないけどねー」
「そーそー、誰からも聞かれないもんね」
「空気だし?」
「Sクラスだし」

暇なので真っ白な部分を暫く眺めていたが、空がある訳でもなく少しも面白くはなかった。そもそも根っからのインドア気質だ、子供の頃も生きている虫には差程興味がなかった覚えがある。
他の子供が虫取り網を携えて、蝉やカブトムシを探しているのを横目に、蝉の抜け殻やダンゴムシばかり集めていた。ダンゴムシは動きが遅いので、生きていても触れたんだったか。

「あのさー、お腹が痛いんだよねー」
「ずっぽり刺さってたから、痛くない方が変だよねー」
「やっぱり、貴葉さんだよね?」
「お前さんがそう思ってるなら、俺も同じ意見なんだけど?」
「あー、自分と議論は出来ないって奴か。やっぱ話し合いには否定派が居ないと駄目だ」
「刺される理由は判ってるからなー。いつから俺のこと監視してたのか知らないけど、可愛い弟が俺なんかに血迷ってたらさ、そりゃ殺したくなるよ」
「まーねー。二葉先輩のファンが俺の下駄箱に悪戯したみたいに?」

他人事の様に淡々と、呟いてみる。
始業式典直後から始まった悪戯は、然し数年前からたまにあった事だ。今では遠野俊の凄惨な下駄箱の状況が有名だが、山田太陽の靴箱や机に時々仕掛けられた悪戯は、今ほど酷いものではなかったが、脅迫文じみていたものもあった。

「白百合様に気安く近寄るな」
「何様のつもりだ平民が」
「被害者ぶっても無駄だ。下心が見え透いてる」
「俺ってさー、こう見えて中等部から一貫して進学科じゃん?」
「かなり優等生の部類だよねー」
「Sクラスの靴箱や教室の机に嫌がらせする奴なんてさ、限られてくるじゃん」
「同じSクラスじゃないと不可能だもんねー、システム的に」
「剃刀が入ってた訳じゃないけど、筆跡が判んない様にちゃんと文書にして印刷してくるし」
「たまーに、表計算ソフトっぽい手紙もあったよねー。エクセル風味のやつ」
「セキュリティカメラに映ってたら、普通問題になってる筈だろ」
「でも誰にも気づかれてないよね、多分」
「やっぱ犯人は風紀だねー」
「白百合親衛隊の拠点だからねー。不幸中の幸いは、腐っても風紀委員だからいびり方がしょぼいってゆーか」
「暴力は絶対にないもんね。寧ろ制裁された方が色々好都合だったんだけどさー」

人気のない所に呼び出されて、例えばそう、ナイフでも振り回してくれれば。
いつかの誰かの様に自ら奈落へ落ちていく馬鹿な人間であれば、叩き潰すのはとても簡単だったのだ。

「林原は可哀想なコトをしたね」
「…まさか逆ギレするとは思わなかったよ。あの時の俺は声を失ってたから、本当にやばかった」
「本当に?」

くすくすと、自分の声が笑っている。
面倒見が良い自分に酔っていたお節介なルームメイト、困っていると言えば宿題を手伝ってくれる便利なルームメイト。ただ少し度が過ぎるミーハーな性格が、時折煩わしかった。

「降格したのは林原が勉強しなかった所為だろ」
「俺の宿題を手伝ってくれたり、レポートを代わりにやってくれたよね。卒業前の考査前日もそうだった。俺が卒業レポートが終わらないって言ったから、手伝ってくれたんだ」
「ルームメイトが降格したら汚点になると思ったんじゃない?」
「そうだねー、林原はプライドが高い奴だった」

人気があったり外見が良い生徒には片っ端から近づき、家柄の良さを傘に着て友人振っていたからだ。それを快く思わない生徒は少なくなかったが、Fクラスの中にも知り合いがいると言うのが林原の口癖だった為、彼が表立って非難される事はなかった。
代わりに何故か、太陽が彼をどうにかしろだの、お前も同罪だなどと責められる羽目になる。

「しんどかった」
「あのまま二人共進級してたら、同じ事の繰り返しだっただろうね。Sクラスのお坊ちゃまは林原と同室になるのを嫌がってたから、順位変動がない限り部屋割りは持ち上がりだったもん」
「英語と数学がなかったら、俺も一人部屋狙えたかなー」
「神崎と錦織、高野に藤倉に大河、この時点で無理だろ。上位の順番は一年間変わんなかった」

直接暴力を奮われる様な事はなかったが、ルームメイトだからこんな目に遭うのだろうと思った事は、一度や二度ではなかった。
実際こんな目に遭っていると本人にそれとなく伝えた事もあったが、地味な君が悪いだの、それでも男かだの、一生に付されて終わりだ。彼はナルシストだった。己が選ばれた人間だと言って退ける傲慢な所があった為、目立つ人間を傍に置きたがったのだろう。

「結局、自分に下手な自信があった林原は勉強を怠り過ぎた。学園中にセフレがいた大河に抱かれただの騒いでて、あの頃から勉強が二の次になったんだ。物好きだね、大河君」
「林原がヤったって騒いでた次の日には、俺に一発ヤらせろってほざいてたよね」
「自分の右手すら月に一回しか使わない俺にね。お馬鹿さんだよね、あの子」
「ぶっちゃけ顔が好みじゃないんだよねー。大河って藤倉と同じ顔してるし」
「眉の剃り過ぎで、よりヤクザっぽい」
「俺、美人じゃないと興奮しないんだよねー」
「奇遇だね、俺もだよー」
「だけどネイちゃんには興奮しまくった…」
「やー、人に触られたの初めてだった訳だし、仕方ないよー」
「判ってくれる?」
「判る判る。つーか二葉先輩、指が長いからか手がおっきいんだよねー」
「すっぽり握られたのムカついたよねー」
「俺の手じゃはみ出たもんねー」
「ああ言う所が判ってないよね、あの人」
「男心の脆いをチクチク突いてくる所あるよね、あの人」
「性格悪い癖に優しいし」
「車運転してたし」
「いやいや、アメリカの免許はアメリカ限定だろ」
「細い癖に筋肉凄いし」
「そりゃイチ先輩が特別視する訳だ。俺が二葉先輩を落とすって言ったら、あの人ってば真顔で『ノルウェー』って言ったんだよ」
「『ノーウェー』じゃなかった?」
「そうだっけ?英語判んないだよねー、ヒアリング」
「いっぺん覚えた筈なんだけどねー、アメリカにトラウマがあるからかなー」
「そんな事より、今は二葉先輩の話だよ」
「何であの人って、擦れ違う度に女の人から名刺やら電話番号書いた紙やら渡されてんの?そんな男なんてゲームの世界にしか居ないんじゃないの?リアルでだよ?有り得る?」
「ほんと有り得ない。つーかゴリラみたいな大学生にまで狙われてたし」
「俺が追い払ってなかったらやばかったよね」
「恐らくゴリラ達の命の方がやばかったと思うけどね。ま、嫁を守るのは夫の役目だしね」
「嫁って、美人な癖にチンコでかいもん?俺、初めて見た時ちょいと気絶し掛けたんだけど?三度見した様な気もするし」
「だよねー。そう言う所だよね、あの人の駄目なトコ。勃起してる時もしれっとしてるし、平気で人のもん舐めちゃうし」
「俺なんか毎回鼻血吹きそうだったのに」

一頻り吐き捨てれば、会話が途切れた。
目を逸らしていた事が幾つもある。林原の件でもそうだ、彼はプライドが高い男だった。己が降格して太陽が進級を果たせば、どうなるか予測出来なかった訳じゃない。

「…林原、今頃何してんだろーね」
「どっかの魔王が良からぬコトをやったみたいだってさ」

彼は愚かだ。
けれどその行動力は素直に賞賛する。降格した癖にSクラス生徒以外立ち入れない北寮へ侵入し、Fクラスの人間に己の身を投げ出してまで報復に来たのだから、例えそれが八つ当たりだとしても素晴らしい行動力だ。決して馬鹿ではなかったからこそ、悔やまれる。

「俺の所為」
「俺の為だよ。言い方を変えるだけで罪悪感が紛れる気がしない?」
「お蔭様で俺は、皆が憧れる白百合様から助けて貰ったんだ」
「こないだまで知らなかったけどねー」
「だって、青っぽい鉄製のお面被ってたしさー」
「狐のお面被ってた浴衣の人にかき氷買って貰ったよねー、半分こした」
「うう、知らなかったとは言え今頃になってちょいと恥ずかしい」
「顔見れば、口で負けない様に構える癖がついてたもんね。でもあの時は懐いちゃったってゆーか」
「お面の下でどんな顔してたんだろ、二葉先輩」
「綺麗な顔だよきっと」

上には白。
下には黒。
目線を水平線へ向ければ、白と黒が綺麗に二分割されているのが見える。何もない寂しげな世界なのに何処か落ち着くのは、此処には自分以外が存在しないからだろうか。

「何もないね」
「白と黒はあるよ。どっちも混じらないんだ。俺の中はこうなってる」
「灰色は存在しないって事?」
「曖昧なものが嫌いなのかな。自分のことなのに判んないなんて、変だよね」
「俺にも判んないから、誰にも判んないって事かなー」

けれど、これこそが人間の本質なのかも知れないと思った。
善人も悪人も、心の全てが白い訳でも黒い訳でもない筈だ。誰かを助けるのは自分の正義感を満たす為で、人のものを盗むのは多くが生活の為だろう。四六時中、誰かを助けようと思っている人間は存在しないだろうし、同じく悪い事をしようと考えている者も存在しない。

「このバランスが崩れるとどっちかに染まるのかも。良い奴にも悪い奴にも、人間は簡単になれる」
「哲学的だねー。選択カリキュラム、哲学に変えた方がいいかも」
「…遊園地を見たんだ。小さい俺がメリーゴーランドに乗ってて、俺の体を欲しがるんだ」
「そしてお前さんは、か弱い子供を踏み潰した」
「ぐちゃって。肌色だった小さな俺が、真っ黒に塗り潰されたんだ。あそこにも、白と黒しかなかった」

いつからこんな悍ましいものに浸かっているのかと考えたが、太陽には判らなかった。そう言えば刺されたんだったと思い出したけれど、痛みを自覚するよりも先に気を失ってしまったのだろうと思う。

「口が裂けててさー、化け物みたいだったよ」

何度も名前を呼ばれた様な気がする。叶二葉が取り乱す所など見た事もなかったが、簡単に表情を想像出来るのは何故だろう。

「罪悪感は?」
「さっぱりないんだよ。怖いよね」

そう言えば、さっきまであの男が居た様な気もするけれど、今この場には自分しかいない。聞こえてくる自分の声に良く似ているけれど何処か違和感が拭えないもう一つの声の主は、波一つない真っ黒な地面の何処かからか湧き出ているのだ。
太陽の腹から下をどぶりと呑み込んだまま、だからと言ってそれ以上沈む様子もない。体が丁度半分、白と黒の世界に分けられていると言う事だ。他に説明のしようはなかった。

「俺は俺しかいないのに俺になりたがるんだからさ、つまり死ねってコトだろ?殺られる前にやっただけだよ。正当防衛。俺は悪くない」
「俺には俺の声が効かないんだ。俺に逆らえる奴なんかいないのに、自分が敵になるなんてとんだ笑い話だよねー」
「まだあるだろ。榛原の掟、自分より力が強い息子が産まれたら終わりなんだよ」
「俺はとっくに父さんを超えてただろ。明らかに3歳の時には証明されてたんだ」

体は少しも沈まない。けれど足はビクリとも動かない。
反射すらしかないどす黒い地面は水面と言うよりタールか、墨汁を敷き詰めた様だったけれど。浸かっていた腕を持ち上げても、その腕が黒く汚れている訳でもない。ぬるぬるする感覚に舌打ちしたい気分だったが、それよりもまず、この盛大な独り言をどうにかしたい。姿なき相手と会話する趣味はないのだ。

「お前さんさ、何処にいるの?」
「あはは、探してご覧よ。俺はいつもお前さんのすぐ側に居るから」
「はー、動けないから言ってんだけどねー。で、3歳が何だって?」
「居なくなったネイちゃんを探しに行った時だよ。覚えてる筈だ」
「知らないよ、そんなの」
「塗り潰されてしまったからね。でも消えた訳じゃない」
「訳判んないよねー」

本心だ。自分相手に嘘を吐いたりしない。

「また宮様の悪ふざけかなー」
「此処には俊も入れないんだよ。俺が俺であるだけの、俺だけの空間だからね。時限に関与しない、俺だけの次元って言ったら判るかい?」
「線は一次元で平面が二次元、立体は三次元。アニメの実写は2.5次元だって知ってるかい」
「勿論さ。俊から教えて貰ったんだ」

これが悪趣味な催眠ではないなら、ただの深層心理と言う事になる。悪趣味なのは自分だと言う事だ。こんな何にもない世界が本当の自分だなんて、信じたくはない。けれど居心地が悪い訳でもないのだから、呆れてしまう。

「折り鶴。俺はあれが、誰に向けて祈られた鶴なのか知らなかった」
「日本人だったら知らない奴いないだろ?鶴の折り方なんて、折り紙で遊ぶ時には一番初めに習うんだし」
「自分のものを欲しがられるとさ、イラッとするよねー。それが大して大事じゃなくてもさ、俺がクリアしたゲームをヤスがプレイしてると、取り上げたくなる」
「否定出来ないけど、改めて言われると俺って最低だよね」
「執着心と独占欲は人間のベーシックな感情さ。愛情だってそうだろ、執着心の傍系だよ。お綺麗な言葉で特別なものみたいに飾り立ててるけど、恋愛なんて、一枚皮を剥いだらどす黒いもんなんだ」
「おっとなだねー。俺にそこまで語れる恋愛経験なんてさー、あったっけ?」

思い出したくない何かが、どろりと渦巻いた気がした。
ぬるりぬるりと体を撫でる黒へ目を落としたまま、何も映らない漆黒に自分の顔が見える様な気がしたけれど、やはり気の所為だ。

「…ねー」
「何だい」
「俺は今、白でも黒でもないって事なのかな。灰原だから?」
「俊はそれを求めなかっただろ。俺は初めから一貫して俊に逆らってたし、俊は俺を否定しなかった」
「だけど俺は、灰原なんだ」
「取引をしたからね。本当は、神様は誰も助けないんだ。森羅万象に平等だから、神様って呼ぶんだよ」
「俺は助けてって言ったのかい」
「…言ったよ。宮様に」
「どっちの宮様に?」
「判んない。あの時、どっちも居たからね」

叩きつける雨。
世界を走る雷鳴は紫紺で闇を切り裂いた。

「俊にも判んないのかな」
「聞けば良かったね。記憶をなくしちゃうくらい悲しい事があったのかも知れないよ」
「折角会いに来てくれたのに、親友なんてカッコばっかだ。俺は俊の事をなんにも判ってない」

昼間とは思えない混沌の世界、血に染まる赤がどれほど恐ろしいものに見えただろう。

「一つだけ判る事がある。俊を天神にしちゃったら、友達じゃなくなるんだ」
「…そっか。犬になるって事だもんね」
「俊は望んでないよ。でも俺が従ってしまう事を、とっくに判ってる」

そう、恐ろしかったのだ。
恐くて逃げ出したくなるほどに、忘れたくなるほどに。だから忘れてしまった。身を呈して助けてくれた人がどんな目に遭ったのか想像すらせず、ただ会いたくて。会いたくて。会ってどうするかなんて、少しも。

「俺がずっと嫌がらせを受けてた事も、きっと判ったんだ。だから自分も同じ目に遭ってる。俺がどんな気持ちだったのか理解しようとしてくれたんだ」
「あはは、俊にはダメージなさそうだけどねー」
「逆に毎日ハァハァしながら下駄箱覗いてたもんねー」
「神の君と天の君のどちらかを選ばなきゃなんないんだったら、俺は神様を選ぶよ。帝王院の系譜は、帝王院を名乗る奴が引き継げばいい」
「そうだね、きっと俊もそう思ってる」

こぷり、と。
泡立った漆黒から、ゆらゆらと黒い陽炎が立ち上る。

「無欲な我が君。蝉と犬を集めて、孤独な俺を普通の人間にしようとしてる」

現実離れした光景だったが、恐怖はない。
ゆらゆらと浮かび上がった闇は、轟々と業火の如くうねり、軈て人の形へと変わっていく。

「王でも姫でも蝉でもない本当の俺は、俺と同じ姿をしてるんだね」
「だって俺は、山田太陽以外の誰でもないだろ?」
「うん」
「そして平凡な俺の本音は、簡単だ」

平凡な人間の中身まで平凡だなどと、そんな道理が通用するのはそれこそ、現実離れした次元の話だ。

「平凡なんてクソ喰らえ、どいつもこいつも俺の前に平伏せばいい。昔から偉そうな奴が嫌いなんだ」
「全部理解してる振りして、ほんとは何にも判ってない親友の泣き顔が見たい」
「うわー、我ながら酷いよねー」
「もういいかい。平凡な真似をするのは」

ああ、腹が痛い。


「もういいよ」

白も黒も全部混ざって、混ざって、混ざって。





















(絶望への歯車が廻り始める音がした)



















何かが混ざった様な気がする。(体か、魂か、或いは)
そう感じたいつか、何が混ざったのかは判らないまま結論を先延ばしにし続けて、判った事は一つだけだった。

「楽しそうだな」
「箸が転がっても楽しいお年頃」
「俺を無視して書くラブレターはそんなに情熱的なのか、息子よ」
「とびっきり」

判らないなら知るしかない。
いつ混ざったのかは大体見当がついている。だから言っただろう、先延ばしにしたのだ。

「父ちゃんの事も構って欲しい」
「今忙しいから後で」
「息子よ、居間で待つ」

臆病者。
何も彼もから逃げ出して、何も彼も投げ出して、押しつけてやったポーンは幾つもの亀裂を抱えて、プロモーションする前に壊れ掛けている。

「またぷよぷよじゃねェか」
「負けたまま終わるパパじゃないぞ」
「くぇ。良く言ったなァ、逃げ出した癖に」

可哀想な俺。可哀想な主人公。臆病者の王様。裸の王様が纏っているのは、目には見えない嘘だけ。

「逃げ出した?どう言う意味だ?」
起きろ、帝王院秀皇

情熱的な。
とびっきりの愛を込めて、自分で書いた入試願書の最後の空欄は、保護者の記載箇所だけだった。本来なら遠野秀隆の署名を求められる空欄を指でトントンと叩きながら、キャスターつきの回転椅子に座ったまま振り返る。

「…おはよう、元気だったか?」
「生まれてこの方、病気はした事がねェなァ。馬鹿は風邪を引かないんだ。悪かったな、とんだ馬鹿息子で」
「それは何だ?」
「願書。保護者のサインが要る」
「ほう。よもや帝王院学園の外部受験申込書を、この私に書けと」

他に誰が居ると肩を竦めれば、視界に映った男は髪を掻き上げた。嘲笑じみた笑みが見えるが、自嘲かも知れない。

「何卒よしなに、大先輩」
「残念ながら、私は卒業資格がない。あるのは大学入学資格検定と、大学の卒業証書だけだ」
「あ、それ今は高等学校卒業程度認定試験って言うらしいぞ」
「何処まで本気だ、俊」
「お綺麗振んなよ親父ィ、頭ん中弄ったって他人は誤魔化せてもテメェは騙せねェだろうが」

立ち上がれば、目線は殆ど変わらない。
いや、いつの間にか若干越えている気がする。ほんの微かな差だろうが、他人から見ればどちらが息子でどちらが父親なのか、一見では見極められない程には。

「理解の乏しいおっさんでも判る様に言ってやろうか。俺がお前の代わりに卒業してきてやっから、とっととサインしやがれェイ」

ボールペンを投げてやれば、パシッと受け取った男は諦めた様に瞬いた。

「随分、言葉遣いが悪い。誰に似たんだ」
「母ちゃん」
「殺すぞ馬鹿息子、シエはお前みたいに馬鹿じゃない」
「土砂降りの中で見た兄ちゃんはキラッキラしてたけどねィ。親父の血の片鱗は一ミリも感じなかった」
「だろうな。産まれた時から全く似てなかったが、指摘されるとお父さん悲しくなるから手加減してくれ」
「置いてきた癖に」
「…子供は母親と一緒に居た方が幸せだろう」
「逃げただけだろうが、正当化すんなチキン野郎」

壁に申込書を押しつけるのと同時に、耳元で囁いてやる。それと同時にガブッと耳朶を噛まれたので、全身にぶるりと電流が走った。蹴り飛ばしてやろうか。

「ぶっ殺すぞテメェ」
「俺にそっくりな顔で可愛くない事を言うからだ」
「いや、似てない。全身全霊で似たくない」
「これ以上パパの心を傷つける真似はやめろ」
「プゲラ」

仕方ないとばかりにボールペンを握った父親が、カリカリと壁に押しつけた用紙に記入していく。コンクリートの壁の凹凸に手こずっているのか、筆致が多少歪んでいる様だ。

「汚ェ字だなァ、親父ィ。総務課長ってのはデスクワークのプロじゃねェのか、ガタガタな字がくたびれたサラリーマンの悲哀を演出しまくってんじゃねェかコラァ」
「反抗期を満喫し過ぎだぞ俊、誰の影響なんだ」
「ん、俺の可愛いワンコ達に感化されたのかも知れん」
「ワンコ?…ああ、そうか。祖父さんが放した蝉を集めたんだったな、灰皇院は曲者揃いだったろうに」
「一番はっちゃけてたのは、冬月だったぞ。金属バット持ってきた」
「冬月?お前以外には、直江君の所の和歌と舜だけだろう?」
「オリオンには星が連なってる。リゲル、ベテルギウス、シリウス」

溜息が聞こえてきた。
いつまでも父親相手に壁ドンする趣味はないので、開け放たれたままのドアを潜り抜ける。

「いつの間にかお前は、私も知らない事を知っているらしい」
「俺に判らない事はない。何故ならば、」
「どんな手を使っても知ろうとするから」

彼は屁理屈だと、言葉ではなく瞳で伝えてきた。

「それ、書き終わったら封筒に入れといて」
「学部の希望を書いておかないと、基本的に普通科へ回されるぞ。お前の場合、通信簿がオールA判定だから尚更」
「テスト以外受けてないのになァ」
「私も似た様な学生時代だったから口煩く言わないが、秀隆は心配しているんだ。少しは父親の気持ちを汲んでくれ」
「他人に興味がないのは俺だけじゃねェだろーがクソ親父、母ちゃん以外どうでもイイ癖に」
「…そうでもなかったさ、昔は」

知っている。
だけどそれがどうした、全て過去へ置き去りにしてきた事だ。

「普通の俺には普通科がお似合いだょ」
「お前が普通だったら、この世から特別が消滅するな」
「泣かすぞぷよぷよで」
「お前は親を何だと思ってる?」
「今時の中学生は大体こんなもんなのょ、なんてったって思春期☆」
「神威もこうなっていたら、確実に私の所為だな」

復讐などしない。興味すらない。
望みと言うものがあるなら、一貫して変わらないだろう。

「お前の本棚に私のリングがある。持っていけば、役に立つだろう」
「要らね」
「中央委員会会長の権限だぞ。欲しがれ」
「とっとと切手貼っといてちょーだい。腹減ってんだよ俺は」
「随分舐めている様だが、高等部から入学する事の意味を理解していない様だ。落ちたら笑ってやる」
「馬鹿親父がカイチョーやれるんだから落ちないっつーの。中学受ける前に教科書暗記したし、教科書様々ですねィ。ぶっちゃけ特待生じゃないと母ちゃんを説得出来そうにないからァ、パヤトには悪いが首席交代して貰う予定ざますん」
「はぁ、世の中の舐め方が昔の俺にそっくりだ。よもや俺の復讐に加担する訳じゃないだろう、何しに帝王院に通うんだ?」

全く、他人は等しく全て馬鹿なのではないだろうか。わざわざ尋ねるまでもない事だろうに。

「父よ、全ては腐男子の運命」
「は?」
「ハァハァするからハァハァしに行くんだ。他に理由はない」
「心臓に異常があるならシエに診て貰え、大丈夫か?」
「テメェ、手始めに40連鎖で泣かす」

物判りの悪い父親はとりあえずゲームで叩き潰して、飯を食おう。
腹の音で家が壊れそうだ。

←いやん(*)(#)ばかん→
[戻る]


あきゅろす。
無料HPエムペ!