帝王院高等学校
黒と白のボヘミアン
『この世には絶望だけが降る…』
「うん」
『持たぬ者に得る権利は与えられていない…』

音だ。
寒くなると、色を失う代わりに世のほぼ全てが音として聞こえてくる。

『もう、疲れたんだ』
「そっか」
『繰り返す事も、変わらない事も…』

見渡す限り重苦しい灰色の雲に埋め尽くされた空と大地は冷え渡り、その静寂と肺まで凍えさせる空気が雪が近い事を教えてくる。

「でもまァ、俺は楽しいから他の事はどうでもイイ」

屋根の上、平たいコンクリートの屋上に見えるのはペーパーウェイトに敷かれた数枚の紙の束と、色鮮やかなボールペン。近頃買い集めた書籍を詰めた本棚に、乾いた冷たい風が流れ込むのが見える。
開け放した窓から身を乗り出して登った屋根の上には、四角いコンクリートが広がっているだけだった。屋上と呼べるのかも、甚だ疑わしい。

「全員、定められた結末を迎えるだろう。但し二度と絶望は舞い降りない。踊るんだ。泣いていても笑っていても、それは舞台上の一過性。雨が降っては止む様に、通り過ぎて行くだろう」

彼の周りだけが鮮やかだった。

「人の物語は終わりだ。もう俺に歌い掛けるな。無駄だからだ。俺は指揮棒を下ろす。旋律を放棄したから、何も聞こえない。後はそう、終わるその瞬間まで見届けるだけ」

キンキンと、耳鳴りがするほどの静寂。
遠くを走るトラックが見える。環状線を緩やかに流れていく車は色とりどりの回遊魚、師走の慌ただしさすら凍らせる大気は、こんなにも無機質だと言うのに。

「レッドスクリプト、真っ赤な緋色の業で繋がれていたワンコ達に手紙を書いた。これで俺はもうシーザーでも天神でもない、ただの人形に成り下がるんだ。つまりスタートライン、時が0に戻ったと言う事」

歌う様な声音に旋律はない。
淡々と呟きながら男は、ひたすらボールペンを走らせる。凍えた世界には風もなく、色もなく、命のざわめきすらなく。

「俺は俺じゃなかった。でも本当の俺は何処にも居ない。本当の俺には、初めから何もなかったからだ」

けれど、ひらりと純白のそれが舞い降りてきた瞬間。
漆黒の双眸を細めた男は漸く、冷え切った唇を吊り上げたのだ。



「ハッピーエンドを見つければ、お前は帰ってくるんだろう?」

ひらひらと、雪の粒は音もなく。

「早く俺が描いた結末を迎えて、変わらない輪廻だと諦めろ」

白も黒も等しく、塗り潰していった。


















(通りゃんせ、通りゃんせ)
(此処は何処の細道じゃ)

(天神様の細道じゃ)



雪に埋もれたお前が見えた。
些細な好奇心で人の体を手にしたお前は、冷たく固まった小さな獣を抱いている。

「帰ってきたのか」
「…違う。この子を助けてくれ」
「死んだものは戻らない。始と終は背中合わせだ。俺とお前の様に」

真っ黒な俺の前で、雪に覆われていくお前はこんな瞬間さえ美しい。
けれどそう、お前は俺と同じ黒から生まれた存在だ。人に擬態しても人に在らず、姿を保ったまま千の鳥居を潜り抜ければ、お前は再び虚無へと呑み込まれるだろう。その死に掛けの体さえ、捨て去れば。

「この猫は俺、に。話し掛けてきた」
「お前をその体の所有者と間違えただけだ」
「…判っている。この子は俺の所為で死んでしまった」
「そうか、記憶が混ざったか。命ある者の肉に触れたりするから、狂うんだ」
「…混ざ、る?」
「その猫は初めから死んでいた。魑魅魍魎が救う都には、珍しくもない化け物だ」
「…」
「命ある者の業は燻り続ける。魂を手放して尚も時限をたゆたい続け、次の器を待つのだろう。男に捨てられた哀れな女の業が、その脆弱な生き物を呑み込んだだけの事」

妖怪だの神獣だの、人間は面白い言葉を生み出すものだ。
そんな化け物ですら辿り着く事が出来ない神の領域には、初めから神など存在しない。始まったその瞬間から廻り続ける羅針盤と、虚無を紡ぎ続ける時間の流れがあるばかり。

他には、何も。

「その黒猫の命を奪ったのは、人の分際で虚無の狭間へ迷い込んだあの人間だ。お前が魂だけ送り届けてきた、その体の所有者」
「…」
「始まりの男は知恵をつけた瞬間から、激しい執着心を宿している。始まりの女は知恵をつけた瞬間から、激しい嫉妬心を宿した。全ては肉を持たなかった、始まりの光達が宿した業」
「魂には色がある。命には音がある。俺は、終わらせたくない」
「闇から生まれた光は軈て闇へと還るだろう。俺とお前が生み出した全てが、必ず死ぬ運命。終わらないのは虚無だけ」
「違う。虚無は何一つ始まらないから虚無なんだ。そんなのは、とても悲しい事だろう」
「混ざった所為で、毒されたか。…それならもう暫く好きにするとイイ」

俺は待っている。
ずっと変わらずに、刻が終わる刹那まで。














もういいかい。

『まだだよ』

もういいかい。

『まだだよ』

お前はいつ飽きるんだ?
俺が戯れで作った器に魂が宿ってから、何光年過ぎた?
お前が絶望する度に、俺の何処かが軋む音がするんだ。

帰っておいで。

『まだだよ』

もう、イイだろう?

『…まだだよ』

どうしてそんなに、そんなものに依存するんだ。
俺にはお前だけがあれば良かった。
お前にも俺だけがあれば、穏やかで不変で、幸せだっただろう?



『可哀想に』

何が。

『お前には聴こえないのか、生命の囀りが』

…下らない。
生きているものに何の価値がある。
いずれ死ぬだけだ、俺がそう作った。

『忘れてしまった可哀想なお前』

…何だと?

『お前は個を生み出す度に疲弊していった』
『純粋な無色ではなくなった』
『虚無が歪んだ瞬間の事だ』
『忘れてしまったのか』

何を言っている。
還って来い。待つ事に飽きたんだ。
今すぐに星の海を虚無へ還してしまいたくなる程に。
俺にはお前だけあればイイ。
白くて何物も混じらない、綺麗なお前だけが。

『やはり忘れてしまったんだな』
『哀れなお前』
『この世の始まりは無だった』

そうだ。
俺は光を生み出した。
色のない世界に色をつけて、動く事のない虚無を時限で廻した。
全てはお前の形を確かめる為に。


『本当に、そうか?』

何を言っている。
お前は俺、俺はお前、初めから決まっていた事だ。

『そうだ。俺はお前、お前は俺だった。けれどそれは、今じゃない』

判らない。
戻ってこい。
俺はずっと、お前が飽きる日を待ちかねていた。

『ならばどうして、時間を廻したりした?』
『ならばどうして、他の生命を生み出したりしたんだ?』
『お前がすり減っていく度に、俺は白く濁っていく』
『お前が絶望する度に、俺は白く濁っていったんだ』

『判らない筈がない』
『お前は希望を淘汰しようと足掻いているだけ』
『生み出したものを死なせる度に傷ついていく』
『俺にはお前が全てだったけれど』
『お前は、そうじゃなかったんだろう』

ああ、判らない。
全てがどうでも良いんだ。俺は何物も受け入れ、何物も受け入れない。

虚無の住民だからだ。
始まりの時の番人だから。
そしてお前は、終わりへと誘う時の番人。

俺とお前だけが全てだった。
例外など俺は作っていない。

『可哀想に』
『誰よりも変わらない事に執着するお前は』
『自分の心から目を逸らし続けている』

俺に心などない。
俺は虚無の住人だ。
そしてお前も虚無の住人だ。

『ならば俺達の始まりは、いつだった?』

さァ、我儘ばかり言わないで帰っておいで。
帰ってこないなら迎えに行くよ。
永遠に終わらない世界を終わらせよう。

『また目を逸らすのか』

そうしてお前の強い光で俺を、

『初めに逃げ出したのは、』



…俺を?
(俺は俺を、どうして欲しかった?)







『本当に、俺だったか?』













混じったんだ。
何処かで何かが俺の中に。
(だけどそれか何だったか判らない)
(いつから混じったのかさえ)
(判らない事ばかりだ)
(知らない事は何一つないけれど)


(理解出来ないものが多過ぎる)



「父上」

ああ。
見上げた漆黒の空に純白の満月を見つけた夜、軈て『黒』と呼ばれるであろう純白の生き物を見つけたんだ。

「…私は、黒羊でしたか?」

左。
体の左側の何処かが、大きく脈打つ音。
ああ、体が壊れたのか。それならそれで構わない。どうせ人の生涯は差程長くはなく、明日にでも消え去るだろうから。もう少し待つだけ。


もういいかい。
まだだよ。
もういいかい。
まだだよ。

もういいかい。



…どうして。
ほんの刹那の人生がこうも、長い?










「お前は神になったつもりか」

15歳、桜が舞い散る春は穏やかだ。
やはり貴方は真っ直ぐに俺の元までやって来た。今度こそ、約束を果たせるだろうか。

時計の針は一周した。
12年、此処まで辿り着くまでに懸かった時間。

俺はクロノスに選ばれたらしい。
笑い話じゃないか。あの時破った約束を、お前はきっと忘れていないのだろう。怒っているのだろうか。それとも、忘れた振りをしているのだろうか。俺はお前の事だけが判らない。いつも。他人の事は何でも判るのに、どうしてだろうか。

お前は俺の世界で唯一の主人公だった。
主人公には幸せになる義務がある。それなのに俺は、全てを。全てを。欠片も残さず、全てを。
粉々に壊してしまいたくて、抱えたカルマを投げ出してしまいたくて、形振り構わず愛してくれと叫んでしまいそうになって、お前に全てを委ねる事にしたんだ。


「選べ。お前に俺は必要か、否か」

前略、遠野俊と言う哀れな人形の全てにして唯一だった、愛しい羊へ。

俺はお前の幸せを祈ってやれない。
俺はお前と言う宇宙に点在する星の、そのどれ一つも欠ける事なく嫉妬している。

12年、12の時を刻む羅針盤が一周して今、俺はお前に選ばれなかった。
俺は必要なかったんだ。お前は15年懸けて紡いできた藁人形ではなく、無知な振りをした作り物の俺を選んだだろう。誰からも王と崇められた帝王院鳳凰の慈悲も、帝王院秀皇の黒髪も漆黒の眼差しも、何の意味もなかった。

構え構えと戯れついてくる大きな子供。
お前の望みは常に、愛して欲しかった父親に言いたかった言葉だと、俺は気づいてしまったんだ。お前はきっと俺ではなく父に構って欲しかった。

『考えたくないのに、考える時があって』
『俺達は産まれる前から一緒だった筈なのに』
『同じ日に産まれたって事以外は、何もなくて』
『…誰かに言われた訳じゃないけど』
『だからって家族の事が嫌いでもなくて』
『何でこんな事、考えちゃうのかな』
『俺だけ、世界には要らないんじゃないかって』

彼に抱かれた俺はどの俺だろう。
映画を観る様に、他人事として記憶している俺は、やはり可笑しいのだろうか。
悲しい、悲しい、選ばれなかった俺は死ぬ事が出来なくなった。
要らない人形は死んでも覚えていては貰えない。人の記憶は霞んでいくらしい。俺とは違う。人間は忘れる事が出来る。



「これはきっと神の裁きだ」

それなら俺も忘れようか。
だってそれこそがお前の描いた脚本通りだと、俺は初めから知っている。

お前は俺から殺されたい。俺はお前の前で死にたい。
相反する願いは、どちらかが潰える運命だ。今はその岐路。そして俺達はその向こう側を知らない。


「紡いだ糸を解けば、罪は購うべき血へ還る。世界はパンドラに沈むだろう。ノアの洪水が始まった。手始めに俺は学園を水浸しにしようと思う。絶望への幕は開かれた。俺は俺が宙へ還すつもりだったカルマを解き放ち時を戻す。14歳、感情を覚える前まで」

初めから結末は見えている癖に、どうして終焉の向こう側は判らないのだろう。真っ白だ。俺はひたすら白日を目指して目を閉じる。眠るように。

「俺の慈悲を失った家族は、絶望を越えられるだろうか」

人の力が及ばない災害を前にして、人は絶望し死を待つのだろうか。それとも、人と人とで手を繋ぎ、絶望の底で愛を育むのだろうか。
結末の向こう側は真っ白だ。まるで輝かしい未来が待っているかの様だと思わないか。

「でももう、俺が助ける事は二度とない」

なァ、お前はどう思う?




(何処へ行こうと何も変わらない)

(月隠に産み落とされた黒)
(朝には陽と雲が)
(夜には月と星が)
(こうも世界を照らすのに)

(俺は真っ黒だ)
(闇さえ存在出来ない、まほろばの黒)

(俺の世界は朝でも夜でもない)
(まして天国でも地獄でもない)
(目前には常に光のないシネマスクリーン)

(真っ白な物語を読んでいる)
(真っ黒な物語を読んでいる)

(その違いなどない)


(俺は黒)








(ならば白は何処にある?)





















「ふ」

側仕えすら滅多に近寄らない箱庭の、小さな小さな隠れ屋敷。
そこにはただ一人の主人が今日も、僅かばかりの四角い空を見上げている。

「…何か、面白いものでも見えるのか?」

縁側に座る背中はいつも通りの光景だったが、それをいつもの様に眺めていた男はとうとう口を開いた。ほんの微かな笑い声に気づいたからだが、それほど此処は静かだ。余計な音が少しも存在しない。

「蝶を見ていた」
「それの何が楽しい。この時期の蝶は、蛾と大差ないだろう」
「どちらも愛らしいだろう。鯉よりも優雅に、宙を舞っている」
「…安い男め。そこにある小池の鯉はもう居ないではないか」

慎ましい世界にあるのは、池と呼ぶには余りにも小さな水路と、幾らかの緑だった。そこを泳いでいた鯉達は、数が増えた為にそのままでは狭いだろうと、先月頃に母屋の庭にある大きな池へ放流されたそうだ。

「…宮様。望みがあれば、俺が叶えてやる」
「私は今に満足している。望みはない」
「…つまらんな。少しは欲を知れ」

僅かな娯楽すらなくなった今、隠れ屋敷の住人は縁側に座り何を見ているのか。

「見ろ。西の空が烟っている」

言われて顔を上げれば、確かに空気が湿っている気がする。

「ああ、匂いがする。雨が近い」
「宵の宮に、新たな命が生まれる報せだ」

広大な屋敷はとぐろを巻く龍が如く、永遠に続く回廊の様な造りだ。
東西南北の四方に龍を守る四つの離れがあり、それぞれに守護者が住まう。敷地の裏手に聳える山の麓には神を祭る社があり、遡れば、此処に住まう主人は平安時代から神に仕えているらしい。
当主の名は、帝王院寿明。

「…新たな命だと?」
「仏が祝福している」

寿公と呼ばれる陰陽道の祭司は、面倒見が良く心優しい男だ。
本妻の他に数名の妻がいるが、彼女らも仲が良く、早くに亡くした妹の元に生まれた姪を養女として迎え入れ、子供を持たない妻の一人が育てている。本妻の元に生まれた子供は嫡男一人きり、側室の元に生まれた息子とは面識はない。

「今日は恵みの雨だ」

当主が住まう母屋の中央に、50坪ほどの中庭がある。
中庭には幾つもの木々が犇めいているが、一層高く幹を伸ばす御神木には何重もの七五三縄が巻かれていて、そのすぐ近くにひっそりと造られている建物は、前代当主の時代まで茶屋として使われていたものだ。

「…相変わらずお前は、どうでも良い事を喜ぶんだな。そんな事が嬉しいのか」
「新たな蝉が誕生する事。嬉しくない筈がない」

全く、馬鹿げている。
一日中縁側に座ったまま殆ど動かない男の何が、そう恐ろしいのか。それでも天神の命令は絶対だ。空蝉は天神の意思に従っている。帝王院の嫡男に監禁を強いても、異論を唱える者はいない。

但し、表向きは。

「…愚かな事を。お前はいつまで経っても、無知な幼子のままだ」
「お前の口の悪さも変わらない様だ」

凛と伸びる背中が彼の人となりを教えている。艷やかな黒髪は誰に触れられる事もなく伸び続け、今や彼の膝丈だった。後ろ姿だけでは女と見間違うほど。
汚れた俗世に穢されていない純白の男だ。例えるなら神仏に愛された無垢な魂、きっとそれこそ目の前の男に違いない。

世間は例外なく穢れている。ほんの十数年の人生で見てきた光景の悍ましさに、綺麗な魂は気づかないまま。
それだけが、不幸中の幸いだろうか。

「見ろ、雨が落ちてきた。木々も喜んでいる」

彼が見ている世界は、どんな色をしているのか。
閉ざされたまま世界を知らない男はけれど、誰よりも世界を見通している様に思える。平凡な人間には一生涯辿り着けない仏の領域に、その男は辿り着いているのかも知れなかった。

「俺達には無縁の話だ」
「私には、だ。冬月の嫡男としてお前は、命名の儀に呼ばれるだろう」
「下らん。先日生まれた雲隠の餓鬼は、早々に十口へ預けられたそうだ。今回もそうならんとは言えない」
「…」

ああ、まただ。
口の悪さは生まれつき、今更直し方が判らない。折角、珍しく彼がお喋りをしたがったのに、黙り込ませてしまった。明らかな失態だと思ったが、今更だ。

「大した事ではない。俺の妹も間もなくそうなるだろう。側仕えの名前を覚えていなかった事を、昨夜親父に気づかれた」

雲隠には力なき者は存在してはならない。弱い者は容易く死ぬからだ。
主人の為の不死を望んでこそ『最強』の所以であり、雲隠の直系は総じて怪我の治りが早い。然し空蝉の中では遥かに短命で、女系であるが故に当主が妊娠すると次期当主候補が見定められる。
明神は草の役目を担っているが、耳が良すぎる為に心を病む者も少なくない。明神で生き残る為には強靭な精神力が必要とされ、他人の感情に呑み込まれない訓練を強いられる。

「…可哀想な事を強いる。か弱い冬月の娘が十口に迎え入れられれば、末路は如何許りか」
「ふん。女は須く子を産む道具だ、雲隠すら例外はない」
「はやぶさ」
「力が強いだけでは当主は務まらん。奴らの狂人的な肉体は、血でのみ受け継がれる」

榛原は皇の中でも明らかに閉鎖的だ。当主のみが名を継ぐ事が許され、当主が入れ替わる度にそれまでの家族は淘汰されていく。然し家族の誰もが恨まないのは、灰原を担う当主の力によるものだろうか。家族以外からは日常的に憎悪を向けられる灰原だが、その能力故に逆らえる者はまず存在しない。
榛原の力を畏れないのは明神だけだ。彼らは他者の心を見通す力が有り、相応しくない者を決して認めない。そんな明神が与する榛原が主人の他に従うのは、雲隠だけ。彼らの命は例外もなく天神の為に費やされていて、他のどの家よりも死ぬ数が多い。己の命を平気で消耗品と呼ぶ犬の王、空蝉の中でも彼らは別格だ。生きている間の戦闘力が、およそ人間離れしている。

「…さっき宵の宮と言ったな。然らば、嫡男か?」

長男。
榛原に男の子が生まれた時点で、当主は役目を果たしたも同然だ。過去一度の例外なく、灰原の能力は長男にのみ受け継がれてきた。長男が生まれなかった場合は娘の誰かが能力を持つ子供を産む様だが、まるで呪いの様に『長男』だけだそうだ。

「名は、はるあきだ」

現在の榛原には娘が二人居るが、彼女達が姫と呼ばれるのもそう長くはない様だ。

「晴れた日に産まれるだろう」
「…他には言うなよ。黙っていてもいずれ知れる事だが、時期がある」
「心配するな、私に話し掛けてくる物好きはいない。お前以外は」

冬月に於いても、灰原を畏怖を以て認識しているが、だからと言って灰原を虐げる事はなかった。
あの恐るべき灰原の能力以上に、雲隠の驚異的な特性も危険ではある。けれど彼らが排除された過去はない。寧ろ帝王院を守る為には、これ以上ない一族だ。

「皮肉か」
「いや」
「一日中、そんな所に座っているお前以上の物好きはおらん」

けれどその『化物』達を従える天神が、己の息子を危険視した。
帝王院俊秀、ほんの15歳の少年は物心ついて間もなく外界から遠ざけられると、最低限の人間が世話に訪れる代わり映えのない日常を静かに受け入れている。我儘を言う事もなく、それ以前に、我儘を言える相手もない。

「…賑やかになるだろう。喜ばしいばかりではないだろうが、私は榛原を祝福する」

彼らも、と。
言わんばかりに俊秀は手を伸ばした。何処から迷い込んできたのか、ひらひらと踊っている蝶の群れが彼の指先に集う光景は、いつ見ても幻想的だ。
人間には遠ざけられている子供は然し、人間以外にはこよなく好かれている。春にはこうして蝶が飛び回り、夏には蝉が鳴き、暑さが遠ざかる頃には蜻蛉や蟋蟀に鈴虫、稀に野鳥までも迷い込んできた。俊秀は無害だ。善悪のどちらかに振り分けるのであれば間違いなく『善』で、だからこんな狭い世界に閉じ込める必要などある筈がない。
そう思っている人間は決して少なくない筈だが、天神に逆らえる者は存在しないのだ。

「…歪んでいる」
「はやぶさ?」

しっかりと伸びた背筋、どうしてこの男がこんな目に遭わなければならないのか、冬月鶻には理解出来ない。だから鶻は寿明に不信感がある。その妻にも、俊秀を差し置いて寿明の元で暮らしている秀之にも。
この世は歪んでいる。此処から見える四角い空の様に、とても歪な形だ。俊秀以外の全てが歪に思える。

「髪が、また伸びたな」
「そうか?最後に火霧が切ってくれたのは、いつだったか…」

雲隠火霧は学はないが平等な女だった。
強い者を認め弱い者を認めない家の人間にしては母性が強く、彼女が誰よりも子供を欲している事は誰もが知っていた。だからとうとう火霧が妊娠した時も、彼女の寿命が縮まるだろうと判っていて、俊秀は先程の様に『めでたい』と宣ったのだ。

「もうすぐ屋敷が賑やかになる」
「…騒がしくなるのであれば、今でなくとも良い。俺は騒がしいのは嫌いだ」
「お前は信じるのか、私の予言を」
「予言?言葉を知らんな、お前のそれは『ほんの無駄話』だと言っているだろうが」
「そう言ってくれるのはお前だけだ、『隼』」

従兄弟。たったそれだけ。
骨をも食らう猛禽の鳥となれと、呪いの様に繰り返した父親の声を思い出す。そうとも、穢れた世界を知り尽くしている冬月の脳は毒まみれで、今は天神さえもが穢れて見えるのだ。

「…俺の名を呼ぶと、穢れると言っただろう」
「声に字が乗せられれば、そんな悲しい事を言わせずに済むだろうか。汚れたのであれば、洗えば良い」
「…愚か者が」
「呆れたか」
「…」

大殿の妾の元に子供が生まれようが、もう間もなく冬月の次期当主として妻を娶らねばならない年齢に達しようが。たった一人で空を眺め続ける俊秀は、いずれ天神となるだろう。例外は許されない。あってはならない事だ。仏に愛された男が天神になれないなんて事は、絶対に。

「明日は晴れる」

彼は帝王院の長子嫡男だ。高々冬月の後継では、救い出してやる事さえ出来ない。従兄弟でなければ、こうして会う事も出来なかっただろう。

「…宮様」
「何だ、腹が減ったか?」
「子供扱いをするな。俺の方が年上だ」
「一つしか違わないだろうに」

名前を呼ぶ権利すらない自分は今日も、この手では何一つ変えてやれない事を痛感している。

「お前にはいつも、何が見えている?」
「…変な事を聞く。勿論、お前が見えるものと同じものだ」
「俺には全てが歪んで見える。吐き気がする程に」
「そうか」

彼にはこの歪んだ世界がどう見えるのか。
全てを静かに受け入れ、泣き言一つ零さない仏の様な男には。人間以外の生き物と狭い空が息づく箱庭で、例えば鶻とは違う何かが見えているのではないのか。

「宮様」
「うん」
「俺には何人の子供が出来る?」
「二人だ」

大人はこれを、恐れるのだろうか。
天神と謳われる男ですら、そんな些細な事が怖いのだろうか。虚言だ妄言だと謗り、閉じ込めてしまうほどに。

「内訳を知りたいか?」
「下らん。何も彼もが判りきっていると言うのは退屈だ」
「いや、そうでもない。良い事を誰より先に知るのは、幸せだ」

彼が得られる外は、あの四角い空だけ。

「その力を正しく使えば、金儲けになろうに。勿体ない」
「ふ。お前は何より金が好きだからな」
「当然だ。人は裏切るが、金は裏切らん」
「そうか」
「金が要らんなら、何か食いたいものはないのか。肉だの魚だの、望むなら俺が用意してやるぞ」
「私は米があれば良い。喰えるだけで、有り難い事だ」

無欲な男。神仏に愛された男。
彼の人生から光を奪う者は、何者も許しはしない。

「握り飯に齧りついても、こんな所では味気ないだろうに」
「そうでもない。こうして、お前がたまに会いに来てくれる」
「…ふん。だったら、俺はお前の予言を覆してやる」
「覆す?」
「必ず悔しがらせてやるから、覚えていろ。俺は絶対に忘れん」
「そうか」

此処は籠の中。

「天網は移ろい易い泡沫の雫。…お前なら、宿命を超えられるかも知れない」

一匹のかごめは今日も背を凛と伸ばして座り、狭い空を眺めている。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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