帝王院高等学校
全く、ワンコが天使過ぎて困ります。
「誰にやられたか判らねぇだと?」

心底馬鹿にした声音が投げ掛けられるのを、苦い気分で眺めている。
いつもであれば即座に言い負かそうとする筈の従弟が、今回ばかりは分が悪いのか引き攣り笑いを懸命に耐えていた。
顎を撫でながらにまにましている久し振りに見た祖父は、叶二葉の瞳の色にそっくりなサファイアの瞳を細める。底意地の悪い孫が言い負かされている光景に感慨深いと言うより、純粋に楽しいのだろう。

「Virgo was funny sweet that I just got diabetes maybe.(乙女が甘すぎると、こっちまで糖尿病だね」
「あ?」
「I mean I got grateful days. What is flipped his switch?(今日は愉快な事ばかり起きるってね。ヴァーゴは何の病気なんだ?)」

高坂日向が知る限り、アランバート=ヴィーゼンバーグと言う男は極めて合理的な男だ。
社交界では、王族に近い位置にあるヴィーゼンバーグ公爵を支える良き夫と言う評価だが、それは決して正当な評価ではなかった。殆どが皮肉に等しいだろう。人間不信になっても不思議ではない生活だが、日向が英国で暮らしている時に限っては、この男だけは敵ではなかった。
気が置けない仲と言う訳ではないが、祖父が話し掛けてくる時の決まり文句が『ベアトリスは元気かい?』だったからかも知れない。

日向の返事は極めてシンプルだった。

『…ロンドンから出てねぇ俺様が知るか。本人に訊け』

その度に祖父は腹を抱えて笑い、ジュースとおやつを広げるのだ。
然しそれがワインとチーズだった事については、余り触れるまい。お陰様でロンドン生活時代、日向が安心して飲めたのは食事中の水や茶ではなく、祖父が持ってくる酒だけだった。

「He is naughty. It's a terrible thing for parents to outlive a child.(悪い子。親より先に死ぬ以上の不孝はないだろうに)」
「…さぁな。直接本人に訊けば良いだろう、二葉は目の前だ」
「He's far too different today, it looks like so kid.(小憎たらしいヴァーゴが、今日だけは年相応の少年だ)」

現女王の祖父、前王の父親が息子の嫁に手を出し孕ませた挙句、秘密裏に産ませヴィーゼンバーグの分家筋に当たる家へ里子に出した事から、アランバートの生涯は始まっている。
現王室でこの事実を知る者が果たして何人居るかは不明だが、アランバートの実父である前々代国王は息子可愛さに、物心つく前にアランバートの婚約者を指定していた。それが年頃の変わらない、外戚の血筋であるセシル=ヴィーゼンバーグだ。二人は王室に命じられるまま、セシルが爵位を継承する事になる数年前に結婚式を挙げている。

「テメーの部署製の装備にゃ、社員に貸与する前にシリアル振ってんだろう?そっちはどうなってる」
「…その程度の事はとっくに。まっさらな新品ですよ、それは」
「盗まれた若しくは、偽造品っつー事か」

にやついている祖父の視線の先、山田太陽の手を握っている二葉の背中に話し掛けている男は、普段滅多にお目に掛かれない二葉の旋毛をぐりぐりしている。普通は鬱陶しいだろうに振り払わない二葉は、単に感覚がないだけかも知れなかった。もしかしたら、そんな事に構っていられないほど心が穏やかではないのか。

「貴方は私と変わらない様だが、日本人は総じて若く見える。失礼だが、年齢は?」
「ぴっちぴちの107歳だ。この忙しい時に気さくに話し掛けてくんなジジイ、サインは後で書いてやる」
「Oh、ひゃく…百と言うのはone hundredで…えっ?冗談だろう、どんな魔法を使った?」

遠野夜刀が止血剤と手術に必要な道具を手の空いている男達に命じている傍ら、自らも準公爵の肩書きを持つ男は自分とそう年齢が変わらないだろう夜刀に、少しばかりイントネーションが可笑しい日本語で話し掛けると、大袈裟に驚いてみせる。ちらっと夜刀を盗み見た嵯峨崎佑壱は、それと感じさせない態度を装ってはいるが、アランバートの行動を多少気にしている様だ。
遠野俊の身内に万一があれば、今でこそ冷静な振りをしているグレアムの紅鏡王子はその牙を剥くのだろう。カルマの代名詞であるレッドスクリプトは、そもそも佑壱の最強伝説によって生まれた単語だ。赤毛の総長がその拳を振り上げた時、眼前の障害物は一つ残らず破壊されていく。

フェニックスの通る道は燃えるブラッディロード、描く足跡はその髪の如く真紅に彩られる。

『やんのかコラァ』

その台詞が始まりで終わり、レッドスクリプトの語源だ。


「容易く複製可能な代物が存在するとは考え難い、とだけ言っておきましょう」

暫く沈黙していた二葉が、諦めた様に息を吐く。
佑壱の指摘は尤もだが、その程度の事は二葉もとっくに考えていた筈だ。理由はどうあれ、太陽の腹に刺さっている刃がステルシリー製である事に変わりはない。誰が犯人であるか以前に、何故ステルスが極めて平凡な高校生に牙を剥いたのか。一番の疑問はそこに尽きる。

「…ナイトの親友の餓鬼、ってだけじゃ流石に薄いか?」
「ルーク派が最大派閥なのは間違いないとして、元老院に多いだろうキング派閥はナイトに刃向かう事を許す筈がない。黙示録が存在するのであれば、ルークVSナイトの絵図であるべきです」
「秀隆さんに喧嘩売る馬鹿が居るなら、山田より父親を狙った方が手っ取り早ぇ」
「若しくは、帝王院秀皇本人を」
「…ルークの父親をか。んな馬鹿が、」
「ノヴァに敵対するよりは、多少容易でしょう?陛下を恐れる様に、キング=ノヴァを畏れる者は多いのですからねぇ。君はどうですか、嵯峨崎君?」

佑壱が沈黙すると、二葉は再び息を吐いた。
感情論が先立つ佑壱はともかく、誰よりも合理的な二葉にも判らない最大の謎は、未だ突き刺さったままのナイフと微動だにしない少年だ。犯人の予測は幾つか成り立つとして、その目的の糸口が少しも見えてこない。それは日向も同じ事だ。

「ナイフの設計図は、40年程前にシリウスが開発したものです。現在我が社が取り扱っている備品の殆どがシリウスブランドなので、それ以外の方が少ないんですがねぇ」
「ギャラクシースクリーンとベルセウスはオリオンブランドだろう」
「オリオンの正体を我々は知らされていない。はっきりしている事は、シリウスの双子の兄である事だけです」
「冬月龍人の片割れを、テメーが知らねぇ筈がねぇ」
「実家に、ほんの僅かな記録が残っていましたからねぇ。陛下にはすぐに報告しましたが、冬月は学園長が産まれるずっと前に灰皇院から追放された家です。燃えて失くなった家を追跡するのは、どれほど難しいと思いますか?」

白々しい会話だ。

「は。何処ぞの王室が歯痒い思いをした程度、ってか」

薄く笑って吐き捨てた佑壱は、太陽のデコをピンっと指で弾いて、即座に二葉からその指先を払い除けられた。

「設計図はテメーん所だけじゃなく、当然中央情報部も保有してんだろうが。…ま、セントラルマザーをハッキングする物好きなんざ居ねぇだろうがな」
「ええ。南米統括部の支配下にある鉱山で採掘した鉱石を、中央情報部直下の開発班が精製しています。完成品は残らず特別機動部で認可している。数を偽ればすぐに露見する事です」
「とっくに調べてるっつー訳か。で、山田がこうなってる事は言ったのか」
「陛下に?まさか、報告する必要はありません」
「ステルスの武器が使われてるのに?必要がないんじゃなく、言いたくねぇだけじゃねぇのか」
「…だったら何だと言うんですか。元老院査問委員会に、私の不信任案でも提出するんですか?」

この状況をステルス社員が見れば、誰もが動揺するに違いない。この二人は、右元帥と左元帥だ。元帥とは元老院と円卓を繋ぐ立場の存在であり、12柱の中で常に二人存在している。
ステルシリー全体を極めて中立の立場で静観する元老院の始まりは、レヴィ=グレアムの崩御と時を同じくしている。キング=ノア誕生時に発足した初代元老院長老はオリヴァー=ジョージ=アシュレイ、コード:ルシファーだった。然し彼は間もなく退役し、ウェールズに戻って生まれたばかりの息子と共に余生を過ごした様だ。
英国議会議員でもあった伯爵家は、優秀な執事を養成する学校を営んでおり、息子であるフルーレティ=ミズガルズ=アシュレイは経営を引き継ぐ傍ら、ステルシリーへ入社した。現役時代は中央情報部長だったが、経歴を考えると特別機動部でも良かった筈だった。然し同世代のカミュー=エテルバルドが学生時代に特別機動部長へ収まり、キング=ノア時代の成功の立役者として認知されている。

「誰がしてやるか。喜ぶのが目に見えてんじゃねぇか」
「おや、バレましたか。そうです、私は辞職したいんですよ。セントラルの部屋を引き払って、都内の超高層タワーマンションでも買おうかと悩んでいましてねぇ。無論、最上階を買いきりで」
「馬鹿と煙は高い所に登りたがる。いっそ成層圏で暮らせ、テメーが吸う酸素が勿体ない」
「高山病など望む所ですよ。いずれ体を改造して、太陽で暮らします」
「宵月の分際で過ぎた望みを語んな」

判らないのは、何故ネルヴァだったのかと言う一点だ。中等部へ昇校する際、帝王院神威から半ば押しつけられたも同然の欧州情報部マスター権限を以てしても、日向にはその辺りの事情を探れなかった。
二葉が知っているか否かは不明だが、現在藤倉を名乗っているドイツ伯爵にも伺い知れない何かがあるのだろう。ならば誰もが知らないだけで、太陽にも似たような事情があるのか。

「余り見つめないで下さいますか、高坂君」
「…は?」

太陽を眺めたまま呟いた二葉に、日向は顔を上げた。見つめた覚えは全くない。

「美しいヴァーゴを見つめない男はいないだろう。なぁ、ベルハーツ」
「…嫌がらせがわざとらしいんだよ、祖父さん」
「怒っていても声を荒らげない紳士な孫、君は私の自慢の王子様だ」
「気色悪い事を抜かすな」

夜刀と親交を深めたらしい祖父は、わざとらしいほどに晴れやかな笑顔で日向の隣に戻ってきた。終始沈黙している従姪と言えば、膨れっ面をしているかと思ったが何故か夢見る少女の様な顔をしており、考えたくないが、その目は佑壱を見ている様に思える。
叶文仁の娘は一卵性双生児だが性格が全く似ておらず、姉の鱗は腹黒く打算的で強か、妹の藍は随分地味で大人しい。英国生活時代は日向に負けず劣らず悪名を轟かせた鱗の影で、必死で悪ぶっていると言うのが、藍の印象だった。ゴシックロリータの格好で人形じみた外見を装っていた双子は見分けがつかない事も多かったが、一度口を開けば、日向にはすぐにどちらか判る。

「山田は榛原の末裔だ」
「おや、君は帝王院の系譜には興味がないと思っていましたよ嵯峨崎君」
「判ってんだろうが、性悪眼鏡」
「…そうですねぇ。宮様が二人存在するとなると、ステルスのみならず帝王院でも分裂が起きるかも知れません」

然し保健室の影に張りついている従姪は、どちらか見分けがつかなかった。
イギリス時代はビラビラしたお人形の様な出で立ちしか見た事がなく、いつもタロットカードで遊んでいた記憶しかない。けれど日向の視界に映る少女は、ボーイッシュな短髪によれよれのワンピースと言う、見覚えのない姿なのだ。

「雲隠。本来は女系だった空蝉は、分かれた」
「分かれた?」
「ふ。君は知らないんですか」

二葉の目が佑壱から離れ、東雲村崎を一瞥する。
つられて目を向けた佑壱は、狼狽えている生徒達を宥めている村崎の背中を見たのだろう。その真紅の瞳は明らかに怪訝げだが、素直に知らないから教えてくれと言える様な性格ではない。

「誰かが描いたシナリオの様に、空蝉だった我々は二つに分かれてしまった。例えばカルマとABSOLUTELY、中央委員会と左席委員会の様にねぇ」
「何が言いたいんだコラァ。山田が此処で死のうが、俺の知った事じゃねぇ。弱い奴から消えていくのは世界のルールだ」
「そうですね。けれどこの人は、天の君の蝉なんです」

太陽の頬を撫でながら呟いた二葉に、佑壱はガリガリと頭を掻いた。
太陽が死のうが佑壱はどうとも思わないが、俊が悲しむのであれば話は変わってくる。単純明快にして面倒臭い相関図だった。結局、遠野俊を中心にカルマは描かれていて、帝王院神威を中心にABSOLUTELYは描かれる。ABSOLUTELYは帝王院秀皇が作った組織であり、キングが与えたナイトの統率符はルーク=ノア=グレアムに譲られないまま。

「は、特別機動部も舐められたもんだ。だからテメーは『叶』なんだろうよ」
「痛い所を突いてくれますねぇ。…そうですよ、私は昔から陛下が羨ましくならなかった。君がクライスト卿の息子だと知ってからは、君の事もね」
「あ?」
「嵯峨崎陽炎。君の父方の祖父の名前です」
「会った事もねぇ他人だ」
「随分虐げられた入婿だったそうですねぇ。彼の旧姓をご存じですか?」
「…だったらどうしたってんだ」
「雲隠陽炎。長子後継が伝統である叶だったら、今の雲隠当主はゼロと言う事になります。然しゼロには嵯峨崎財閥の嫡男と言う肩書きが既にある」

グレアムの名を持つ『塔』には帝王院の名が与えられ、帝王院の名を得られなかった『馬』には天神帝王院鳳凰が唯一友と呼んだ『夜の王』の名が与えられ、全てが反転した事になる。

「君にはグレアムを捨てても雲隠の名が残るんです。…羨ましい話ではありませんか、捨てられた私達とは違う。君は山田太陽君と同じく、天神の蝉」
「七日ぽっちで死ぬ虫と一緒にすんな」
「ああ、君は鳥でしたねぇ。だから私は貴方の事が嫌いなんですよ」
「奇遇だな、俺もテメーが嫌いだ。山田は総長の犬だ、気安く触んな」
「陛下の、でしょう?戸籍上、学園長の孫は陛下だけです」
「知った事かよ。太陽なんざ所詮、永遠に広がる宇宙の中じゃ塵同然だろうが。カルマはカオスシーザーが神で、例外はねぇ。嘘っぱちのノアなんざ足元にも及ばねぇ」

ノアが天神で、天神が夜の王とは、何処までも笑い話ではないか。

「八つ当たりの様な真似をしなくても、言いたい事は判っていますよ嵯峨崎君」

眉間に皺を寄せた太陽が、もごもごと口を動かしている。
非常事態の当事者であるわりには、すーすーと健やかな寝息を発てているのだから、本人が一番暢気だ。普通は痛がって暴れまわっても良いくらいだが、気絶していると言うより寝ている様にしか見えない。

「結局の所、我々は元帥の立場にありながら元老院の動向を把握する事も出来なかった。円卓最高位の立場も、ノヴァの円卓には無力だと言う事です」
「…俺はルークの駒になった覚えはねぇ。死に損ない共の抑止力になれなかったのは、テメーが無能だからだ」
「判っているでしょう。陛下が私達を元帥に指名したのは、我々の『支援者』振っている阿呆共が私達の預かり知らぬ所で暴走する事を嫌ったからです」
「…」
「12年前の失態を繰り返さない為にも」

ああ。黙り込んだ佑壱には悪いが、勝手に感慨に耽らせて貰おうか。
あの当時の佑壱は妖精だった。などと、無表情の日向が考えたかどうかは不明だが、孫の精悍な美貌を見つめたアランバートが唇の端を吊り上げた所を見るに、日向の顔が多少トラブルを起こしていたのかも知れない。若しくは、日向の背後にいる曾孫に対する笑みかも知れなかった。

「理事長が山田太陽君にプレートを渡したそうですが、コード:ブラックジャックを知る者は少なくともアメリカにはいない。組織内調査部長の命を狙う馬鹿は少なくないでしょうが、幾ら何でも早過ぎます。中央情報部にも登録していないのですからねぇ」
「何処の早漏野郎が先走ったか知らねぇが、野放しにしとく訳にはいかねぇぞ」
「ああ、嵯峨崎じゃあるまいになぁ。帝王院と言い理事長と言い、グレアムには馬鹿しか居ねぇのか」
「…おい、そりゃどう言う意味だクソ高坂シね。今の台詞に俺まで入っちゃいねぇだろうな。俺を奴らと一緒にすんな」
「残念だが嵯峨崎、テメェは帝王院以下だ。せめて足し算くらい出来る様になれ」
「出来るわボケ!何なら割り算もいけるわタコ!」

ぷんすか憤慨している佑壱の台詞に、日向は小さく笑った。それが馬鹿にされている様に見えたらしく、佑壱は苛立たしげに右足で床を蹴る。

「反応が面白いからって、そう苛めるものではないよベルハーツ」
「…変な言い掛かりつけんな。ベルハーツはやめろっつってんだろう」
「ゼロ=アシュレイの弟は、王宮のティータイムで度々話題に出る。君も知っているだろう、ハーバードのケルベロスを知らない文学者は居ない」

アランバートの台詞を確実に聞いていたのであろう佑壱が、スラックスのポケットに突っ込んでいた手をスポっと引き抜いた。勝ち誇った表情を何とか引き締めている様だが、ちらちらっとわざとらしく日向を窺ってくる。褒めろと言わんばかりの表情だ。若干、イラッとしない事もない。

「祖父さん、馬鹿が図に乗るから黙ってくれるか」
「素直に参ったと言え馬鹿猫。料理上手で話上手、ついでに床上手のパーフェクトヒューマンが俺だ」
「何かほざいたかハイウェイドッグ」

ベッドに横たわる太陽を挟んで、にやにやした佑壱が見つめてくるので、日向も晴れやかな笑みを浮かべた。即座になけなしの眉を跳ねた男は、恐ろしい目で睨みつけてくる。

「日本のハイウェイは犬も走っているのか?」
「さぁな。んな事より、それ以上そのネタを引きずると今度こそグレアムに睨まれるぞ」
「泣かすぞベルハーツ=ヴィーゼンバーグ、俺をその名で呼ぶんじゃねぇ。気軽に佑壱様と呼べ」
「犯すぞテメェ」
「おや。彼は君の趣味だったか?暫く見ない内に、私の孫は変わってしまった」
「…祖父さん、アンタは黙ってろ」

アランバート=ヴィーゼンバーグにはミドルネームが多い。イングランド七不思議と言うものがあれば、その内の一つに数えられるだろう。エリザベート=セシル=ヴィーゼンバーグでさえ、祝福として王室から送られた名前は一つだった。
アーサー=ヴィンセント=アランバート=ヴィーゼンバーグ。彼のファーストネームを探した時、それを見つけられる者は恐らくこの世には存在しない。何故なら、彼には自分だけの名前と言うものがなかった。
産まれてきてはならない禁忌の子として誕生し、臍の緒を切られる前に里親が決まっていた男はAbandoned child(見捨てられた子供)の頭文字である『A』と呼ばれ、いつからかアーサーと呼ばれる様になった。里親になった男のミドルネームであるヴィンセントJrと呼ばれる様になると、準公爵の爵位を与えられた折りに女王からアランバートの名を与えられたのだ。

つまり、彼が現在名乗っているヴィーゼンバーグ以外の全てのスペルがミドルネームであり、彼の本名と言う意味での名前は存在しなかった。その事実を知る者は現女王と、彼の妻だけ。
日向が知ったのは、欧州情報部の権限を手に入れた後の事だった。ほんの最近の話だ。

日向が多少調べて判った事なので、二葉は勿論、佑壱にも知れているだろうと思われる。
視界に居るにも関わらずアランバートを見ようとしない佑壱は、ヴィーゼンバーグに興味がないのか、はたまた心底見下しているのか。日向には判断が出来ない。幾らグレアムの名を嫌がろうと、先祖を抹殺した公爵家に少しも関心がないと言うのは、幾ら何でも奇妙ではないだろうか。

公爵夫婦の元には、とうとう子供は産まれなかった。表向きの話だ。
民の心ない噂ではセシルに産む能力がないだの、アランバートに子種がないだの散々な言われようだった様だが、アランバートが30歳を迎える頃に愛人に産ませたと言う男児を引き取ると、セシルはその子を嫡男として宣言した。それが二葉達兄弟の父親にして、前公爵アレクセイ=ヴィーゼンバーグである。

「数日前から、アルデバランの行方が判りません。陛下の命令で枢機卿一同が出国した後は、ベテルギウスのコードが抹消されています」
「はっ。…ベテルギウスたぁ、元老院のくたばり損ないじゃねぇか。あのサイコパス兄弟が絡んでんのは、ほぼ間違いねぇ訳だ」

成人を迎える頃に留学先として日本を希望したアレクセイは、一度は帰国してセシルの爵位を継承したが、婚約者だった王室の末娘との結婚を放棄し国外へ逃亡した。王室はアレクセイの行方を執拗に探させたが、アレクセイは国外逃亡の際、元CIA諜報員だった庭師の協力を得て別人の名で出国しており、叶桔梗と結ばれるとアレクセイと年頃が変わらなかった帝王院駿河の庇護の元、間もなく帰化する事に成功している。

「魂胆が共通しているかどうかまでは不明でしょう。シリウスの代理として技術班を統括していたアルデバランはともかく、ベテルギウスはキング=ノヴァの忠実な下僕です」
「他人の内心までは判りゃしねぇ。んな初歩的な事も判らなくなっちまったかセカンド、左元帥が元老院に舐められる様じゃ、ルーク政権も高々知れてるっつーこった」

王室が勘づいた頃にはもう、手が出せなかったと言う事だ。
何しろステルシリー前会長が聖地と定めた日本には、キング=ノアが銘を与えたと囁かれる『ナイト』が存在する。帝王院秀皇は駿河の一人息子で、帝王院に睨まれる事はグレアムを敵に回す事と同意義だった。
レヴィ=ノア時代以上に成長を果たしていたキング政権下では、精々目をつけられないように息を殺す事くらいしか出来なかっただろう。当時アメリカは地球最強の大陸であり、日本は表向きアメリカの同盟国だった。
果たして逃げ延びたアレクセイに入れ替わり、アレクサンドルが新たな後継となる。アレクセイが成人して間もなく引き取られたアレキサンドリア=ベアトリス=ヴィーゼンバーグと言う養女は、数年後に死んだ事になっているからだ。その数年後にある程度成長した子供が新たに引き取られると、アレクサンドル=ヴィンセント=ヴィーゼンバーグとして社交界に知れ渡った。

ロンドンのみで言えば、日向の母親は戸籍上『男性』と言う事だ。
そこにどんな事情があったかは知らないが、日本でアリアドネに改名した日向の母親を彼女の父親は『アレクサンドリア』か『ベアトリス』と呼んでいる。そう呼ぶ様になったのは、男性だと思われていたアリアドネが日本で出産していた事実が露見した頃からの様だ。
セシルとアランバートが数十年貫いた嘘に狼狽したヴィーゼンバーグの人間が、その真偽を確かめる為に日向を誘拐したのも無理はなかった。日向にとっては思い出したくもない過去だが、死装束でロンドンへ乗り込んできたアリアドネは久し振りに面会したセシルに対して、『二度と会う事はない』と言い放つ事になる。
当時まだ健在だった高坂の祖父に抱かれていた日向は、表情一つ変えず義理の娘を見つめていたセシル公爵の顔を覚えていた。そうですか、と他人事の様に呟いた声音すら。
高坂の家族に助けられて帰国してからは、数ヶ月に渡る監禁生活で日向が日本語を忘れていた事もあり、幼稚園には通わずに過ごした。日向自らロンドンへ戻る決意をしたのは、あの悍ましい公爵家の全権を手に入れる為だ。

曼珠沙華。
小川に囲まれた実家の庭に咲き誇る、鮮血に似た赤は苦手だった。忘れてしまいたい地獄を思い起こさせる。それでも日向がそのトラウマを乗り越えたのは、黄昏に染め上げられた真紅を見たからだった。

「日向、どうした?」
「…いや、別に。つーか、暫く見ねえ内に上達してんじゃねぇか、日本語」
「君に褒めて貰えると嬉しいねぇ」

日向の表情から何かを悟ったのか、英名ではなく日本名で呼んだ祖父が無邪気に笑う。二葉を言葉で虐めて機嫌が良いのか、何となく血色が良い男の赤い目が見つめてくる事に気づいた。
何だと眉を跳ねた日向は然し、佑壱の視線が自分と祖父を交互に行き交っている様だと気づくと、何とか舌打ちを噛み殺す。佑壱が逐一煩いからだ。自分こそ舌打ちが似合いそうな外見をしている癖に、育ちの良さからか佑壱はいつも小綺麗な出で立ちをしている。スラム街に飛び込んでも決して同化しないだろう、しゃんと伸びた背筋からも清潔感が漂っていた。

「マチルダも、随分苦労して言葉を覚えたんだろうね。ベアトリスはマチルダが日本へ行った事を知って興味を持ったんだろうが、言葉と言うものは早ければ早い方が覚え易い」
「お袋は惚れた相手の国に飛んでっただけだ」
「そうそう、シェリーだ。当時ハイデルベルクでライン川を眺める生活を楽しんでいた私の元にやってきて、結婚したい相手が居ると言ったんだ。まさか相手が女性だとはねぇ。まぁ、無理もないかな」
「全部アンタらの責任じゃねぇか」
「然し、フェンシング王者だったあの子が投げ飛ばされたと言うんだから、相手のレディは戦車だったのかも知れない」
「…今の台詞、遠野のおやっさんに言うなよ」
「どう言う意味だね?」
「人の趣味は人ぞれぞれって事だ。お袋の趣味に関しては黙秘するが」

そうとも、一言で言えば佑壱は天使だ。もう何度でも言ってやろう。女神が遥かに霞む、地球の奇跡だ。
自分でも頭が悪い事をほざいていると判っているが、それでも日向はそう思っている。分厚い唇も、奥二重で吊り上り気味の双眸も、健康的な小麦色の肌も全部が完璧に見えてならない。日焼けした試しがない日向は、男にしては白い己の肌が母親似だと判っているが、二葉が未だに『抱きたいランキング』なる馬鹿げたランキングの覇者である理由が美貌もさる事ながら、その色白の肌も関与しているだろうと思っていた。
所謂『女顔』が日向と二葉の共通点だが、それを武器にしている二葉に対し、日向は正反対だ。特にロンドンを離れ日本へ戻ってきて間もなく、初等部の制服が全く似合わない見上げるほど長身だった後輩に、女と間違われたその瞬間から。

「還暦を迎える頃から始めた私や、留学が契機になったマチルダよりも、ベアトリスの方が…なじ、なじ…る?」
「馴染む」
「それだ。馴染んでいるんだろう、…っと。これは、プリンスファースト」

初めて佑壱から話しかけられた男は、少しばかり表情を引き締めた。
本人は認めないだろうが、佑壱は結構な人見知りだ。最後まで無視を続けると思っていたが、そうでもないらしい。

「アンタが『名無しの公爵』だろ」

容赦を知らない馬鹿犬は、特大の爆弾を真顔で落としてくれた。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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