帝王院高等学校
我が身の不運を儚んでも元気です。
「…ヴァルター」

屋敷の角に位置している書斎は、四方の壁の内、半分が窓だ。
日中は殆ど書斎に篭りきりで動かない屋敷の主が、珍しく囁いた声は掠れていたが、厳粛な執事が聞き漏らす事など絶対にない。

「はい。何なりと、旦那様」

極端に可動領域が狭い主人は、目を離せば執事を呼びつける為のベルにも手を伸ばさない様な男だ。じっと座っている定位置のデスクの上に置かれていると言うのに、だ。
一言で言えば病的で、彼を理解出来る人間は多くない。

「………。ふぅ」
「旦那様、ご用を仰って下さい。どうぞ面倒臭がらずに」

実直な執事は、健気に主人を促してやるものだ。
決して諦めず、然し放置もしない、それこそが軍人の国に於ける正しい執事の在り方だと思っている。堅物か酒飲みしかいない国には珍しい覇気のなさである主人は、白髪が混ざる茶髪に新緑色の瞳を誇る大層な美丈夫だが、育ちからか幼い頃から他人を遠ざけてきた。
妾の子供だった為に、事情は察する所だろう。

「………屋根に」
「はい」
「巣…」
「住み着いていた蝙蝠でしたら、既に処置しました。旦那様の目に触れる前に片づけておくべきにも関わらず、対処が遅れ申し訳ございません」
「…殺したのか」

デスクの上に並べた小瓶を時々持ち上げては、ちらちらと外を眺める事を繰り返していた男の目が、久し振りに違う動きをする。いつの間にか屋根裏に入り込んでいた蝙蝠が繁殖していたのは、ほんの数日前の話だ。
この屋敷を主人が購入したのは数年前だったが、当時既に百数年経っていた屋敷だった為、見えない所で多少ガタが来ている。出来る事なら然るべき大工などを招き、屋敷中をメンテナンスするべきではあるが、如何せん屋敷の主が極度の人間嫌いである為に、数少ない使用人達が試行錯誤しつつ補修していた。

「畏れながら、当家には蝙蝠に触れる人間がおりませんでした」

本来ならば雇う筈の庭師も、運転手も、この屋敷にはいない。
主人自らが雇った使用人すら、そもそもこの屋敷には存在しなかった。誰も彼もが自分で仕える事を望み、押し掛けてきた人間ばかりだ。

「メイドのメリッサが箒を振り回し苦肉の策で追い払う事に成功した為、穴が空いていた屋根を私が補修し、屋根裏部屋は封鎖しました」
「…ヴァルター」
「はい、何なりと旦那様」
「メリッサに…」

この屋敷の使用人は元々、とある貴族の家で使用人をしていた者達だが、前雇い主に捨てられそうだった所を現在の主人に救われてからと言うもの、いつか彼の下で働きたいと思っていた者達だった。
紆余曲折の末、本来跡継ぎの立場ではなかった主人が爵位を継承すると、真っ先に『我々もついていきます!』と名乗り出た者達だけが、この屋敷で主人と共に暮らしている。

「調香がお済みになられたのですね。奥様の為にお作りになられたのでは?」
「…今年の薔薇は香りが弱い。これは、メリッサに…」
「手渡しておきます。喜ぶでしょう」

この屋敷の主人は、貴族階級の中では大層若い。
とは言え青年と呼ぶのは躊躇われる程度には、それなりの年齢だ。本来ならば、先祖代々拝領してきた領地を治めている立場だが、そちらの仕事は親族に押しつけて、自分は全く別の仕事をしている。

「旦那様にお手紙が届いておりましたが、厨房担当のラインホルトが山羊に食わせてしまいました」
「…誰」
「宛名はフランツ様でした。中は読んでおりませんので、お答えしかねます」
「………次からは、竃…」
「そうですね、何の罪もない山羊が腹を壊しては事です。ラインホルトにきつく言っておきます」

始まりは交易からだったが、興が乗ると酒造や調香などにも果敢に挑み、そのどれもを成功させてきた商才の持ち主だ。
然し結婚を機に、殆どの稼ぎ口を弟妹に譲っている。手切れ金同然だろうと言う事は明らかだったが、大金と引き換えに主人が手に入れたのは、貴族の肩書きだけ。

高が爵位、されど爵位。大金を積んでも欲しがる者は、多い。

「…ヴァルター」
「はい、何なりと旦那様」

使用人は全員、主人に忠誠を誓っている。
人嫌いで面倒臭がりで金儲け以外に無趣味な主人は、然し初めて自ら欲して爵位を手に入れた。その理由が如何に『アレ』だろうと、使用人の忠誠は微塵も色褪せない。
寧ろ『アレ』な理由のお陰で生家を離れ、大の人間嫌いである男が都会で暮らす覚悟を決めたのだから、喜ばしいではないか。

「………」
「どうぞ諦めないで下さい。ご命令を」
「………鼻が」
「ああ、香りを嗅ぎ続けて麻痺なさいましたか。暫く窓を開けましょう」

例え、屋敷から一歩も外に出ようとしなくても。
例え、屋敷の中に他人を入れたがらなくても。
主人は家族と家族同然の使用人以外は、妻の実家から送られた山羊数匹に鶏数匹、勝手に住み着いた黒猫以外を屋敷に入らせない。いや、数日前からは蝙蝠も住み着いていた訳だが、流石に夜中天井裏でガサコソ騒がれては寝つきが悪かった様だ。屋根裏から追い出しただけで、また何処ぞに住み着かないとは限らないが、今のところ『殺せ』と言う命令はない。

「今日…」
「はい?」
「…メルゼブルクの呪文…」
「は?」
「………間違えた…」

何だったのか。
いつもの様に仕事をしているのかと思ったが、魔法使いにでもなるつもりだったのだろうか。それにしても、久し振りに聞いた台詞ではないか。主人の本意を窺おうとも、デスクに腰掛けて頬杖をついている男の唇は引き結ばれていた。気が向かないと喋らないのは、何も今だけではない。殆ど物心ついた頃からこうだった。

「ブリュンヒルド…」

今度は何を言うつもりだろう。懸命に次の言葉を待つ執事は、表情を変えない。何せこの屋敷の主人より、随分年上だからだ。

「ネルトゥス…ロヴン…」
「旦那様。女神の名前を並べ立てておいでですが、本をお読みになられますか?」
「…」

普通の者なら発狂しているだろうが、有能な執事は沈黙した主人を静かに見守った。

「ヴァルター…」
「はい。何なりと、旦那様」
「………息をする事も、面倒臭いのだが…」

ああ、ただの駄目人間ではないか。

「それはいけません。本日は急ぐ案件はありませんので、暫しご休憩なさいませ。お庭へお出になられては?」
「…眩しい…面倒臭い…」
「それではお茶をお持ち致しましょう」

ラドクリフ=フォン=シュヴァーベン、階級は伯爵。
現在シュヴァーベン行政区に数えられるアウグスブルクに屋敷を構え、仕事らしい仕事は何もしていない。言わば自宅警備員だ。

「…エテルバルドから離れたら、少しは人生が楽しくなると思っていたが…」
「それはいけません、旦那様は楽しくないのですか?」
「………」

幼い頃から人嫌いで、物心ついた頃には人間関係が面倒臭いと言い、盛大に引き籠もり続けた主人は、出来の悪い長男や弟妹、果ては心ない使用人にも虐げられると、いずれ家を追い出されるだろうと悟り、それまでに『一生食っていける金』を蓄える事にした。
だが、普段やる気のない男だが何しろやれば出来過ぎる優秀な人間だったので、あっと言う間に一財産築いてしまう事になる。

開いた口が塞がらなかった人間が、果たして何十人居ただろう。
妾が産み捨てた子供を持て余していた前伯爵も、その妻も、それまで虐待していた癖に、あっさりと掌を返したのだ。本妻付きの使用人は除く、他の使用人が不信感を抱いたのも無理はない。
エテルバルド家が財政難で喘いでいた時には、給金を支払えないと言う理由で追い出される寸前だった使用人全員にラドクリフは給料を与え、不作で領民が苦しんでいると一代で築いたコネで食料を掻き集めるなど、一度やる気を出せば完璧な人物だった。出来損ないの長男は金を使う事は知っていても稼ぐ事は知らなかった為、尚更だ。

果たして、十代の頃に一財産を築いたラドクリフはとある理由から爵位を望む様になった。
義兄であるフランツは他の弟妹を使い色々と画策したものだが、それらを乗り越えて今、ラドクリフは愛しい妻と、押し掛けてきた使用人数人に家畜数匹、エトセトラ数匹と暮らしている。

ラドクリフは財産の殆どを叩いて屋敷を買ったが、それでもまだ暮らしに困る程ではない。
稼ぎ口のほぼ全てを腹違いの兄弟に譲り渡した事になるが、『やっぱり返せ』と言われる事を畏れてか、長男のフランツ以外は、ラドクリフの怒りを買わない様に過ごしている様だ。昔の恨みを晴らされては堪らないと、怯えているのだろうか。

前エテルバルド伯爵には数人の愛人がいたものだが、平民はラドクリフの母親だけだ。そして子育てを放棄し逃げたのもまた、ラドクリフの母親だけだった。

「お茶が入りました、旦那様」
「…」
「お疲れであれば、午睡をお取りになられますか?」

その主人と言えば、数年前に過去に類を見ないやる気を出してからは、かつてないほどだらけきっている。そうは言っても、結婚と同時に新しく構えた屋敷の中だけの事であり、一歩外に出れば何処へ出しても恥ずかしくない完璧な男だった。その肩に伸し掛る『伯爵』の称号に恥じない、紳士だ。

「一人寝は………嫌…」
「そうでしたね。過ぎた事を申し上げました、お許しを」
「ヴァルター…」
「はい。何なりと、旦那様」
「…招かれざる客は?」

然し最近は全く外出しなくなった主人は、元々白い肌が益々青褪めている。
近頃では近隣住民や使用人までもが良からぬ噂を吹聴する始末だが、基本的に人間に興味がない主人は知らない事だ。知っていたとしても、気にも留めないに違いない。今、ほんの僅かな気掛かりと言えば、数年前から嗅ぎ回っている異国の人間達だろう。

「畏れながら、強固な警備の前では彼の英雄ジークフリートでも太刀打ち出来ないものと」
「…まだ、諦めていないか」

しつこいな、と。珍しく眉を寄せて呟いた男が足を組み替えた。
主人の表情が変わるのは珍しい事だが、彼の不安分子を取り除いてやるのは当然、執事の仕事だろう。

「奴らは何処から来た…?」
「この数年、イギリスを嗅ぎ回っていた様です。奥様のご実家に、ウェールズ伯爵の息子がやって来たと」
「…ウェールズ?私と同じ階級か」
「はい。アシュレイはイギリス議会に名を連ねています。昔はロンドンに屋敷を構えていた様ですが、数十年前にウェールズに戻っていました。理由は、」
「ヴィーゼンバーグ公爵家が焼き払った、セーヌの薬師だな…」

賢い主人だ。
幼い頃から引き籠もり、正確には引き籠もる以外に生きる術がなかった生活を強いられながら、独自に学び知識を蓄えていった。ただの面倒臭がりではない。

「一昔前、グレ=シュル=ロワンに神の領域へ踏み込んだ一族が居たと、セーヌ=エ=マルヌでは市民の口伝で伝わっている。…魔女の一族だ」
「旦那様は魔女にご興味が?」
「…全くない」
「でしょうね」
「魔女は火炙りにしなければいけない…とても面倒だ…」
「吸血鬼は日光やにんにくに銀のナイフ、幾つも退治方法があります。魔法使いを捕らえて焼き払うまでに、どれほど命懸けなのか」
「………面倒臭いな…」
「未だに英国王室は逃した残党を火炙りにすべく、虎視眈々を機会を伺っています」
「………イギリス人は馬鹿なのか…」

そよそよと窓から流れ込む風に前髪を弄ばれている男は、くたりと背凭れに背中を預けた。暫く外を眺めていた様だが、手持ち無沙汰なのか、面倒臭げに持ち上げた手で幾つかの小瓶を掴み、コルクを抜いて中身のオイルを適当に混ぜている。

「…だが、グレアムの生き残りはイギリスから離れているのだろう」
「アメリカへ渡った様です。旦那様以上に財を築き、今では国家予算を越えているとまで」
「………面倒な奴らだ。殺すのは、難しいか…」

珍しい。
この男が此処まで敵視するのだから、怪物同士の戦争は近いのかも知れない。ただ一つ判らないのは、何故アメリカの覇者が一介のドイツ貴族を嗅ぎ回っているのか。それも、どうも彼らが嗅ぎ回っているのはシュヴァーベンではなく、この屋敷へ嫁いできた嫁の方だ。

「奥様がこの屋敷に居られる限り、ご安心下さい」
「…」
「現在の我が国はゲルマニア構想の最中。ミュンヘンでもルクセンブルクでもなければ、愚者が王を気取るベルリンでもございません」

この地はアウグスブルク。シュヴァーベンが統べる行政都市は、吸血鬼伯爵の名のままに何者にも屈しない。
当の伯爵がその不名誉な呼び名を知っているかは不明だが、何せやる気がない時は極めてやる気がない男だ。どれほど永く仕えていようと、優秀な執事にも主人のやる気スイッチは今のところ見つかっていない。何の前触れもなくやる気を出し、何の前触れもなくやる気がなくなるのだ。早い話が極度のマイペースと言えるだろう。

「…ヒトラーか。私が此処に存在する限り、奴であれ攻め込んではこない…筈…」
「如何に愚か者でも、旦那様を敵に回しはしないものと」
「あれが騒いでいる限り…奴らがバイエルンにやって来る事はないと…」
「恐らくは。イングランド王室は虎視眈々と機を窺っていた様ですが、戦争破綻した国には選択肢はないも同然。いずれグレアム男爵はアドルフ=ヒトラーでは食い止められない力をつけるでしょうが、それは今ではないでしょう。夢物語の様なゲルマニアが実現すれば、尚更です」
「…なら、良い」

やっと片腕を動かしてくれた主人が、ゆったりと茶を口にした。視界の端で静かにはしゃいでいる家政婦達が見えたが、軽く睨んで黙らせた執事は懐中時計で時間を確かめる。

「昼食になさいますか?」
「…噛むのは、………面倒臭い…」
「段々酷くなっていらっしゃいませんか、旦那様。せめて何かお召し上り下さい」
「ザワークラウト…」
「ああ、ザワーブラーテンが宜しいでしょう。良いワインを仕入れております」
「…カートッフェルズッペだけで良い」
「旦那様。スープは食事に入りません」

とうとう食べる事まで放棄し始めた様だ。
何故此処までやる気を失っているのか、理由は単純だ。とある事情で外へ出なくなった主人は、毎日妻を視界に映して生活している。それならば幸せだろうと思われるが、残念ながら夫婦は現在、寝室を分けている。但し、喧嘩した訳ではない。

「このままではお倒れになられましょう。奥様もご心配なさいます」

渋々茹でただけのブロッコリーを頬張った男は、やはり窓の向こうを眺めたままもさもさと咀嚼した。

「………ヴァルター」
「はい。何なりと、旦那様」
「忘れ去られた神話に…」
「はい」
「描かれていた光景が…見える…」
「は」
「ヴァルハラ…だ」

ぼろぼろと緑を散らしながら、何を宣っているのか。確かに主人の視線の先には薔薇が咲き乱れる見事な庭があるけれど、決して美しい光景とは言えなかった。有能な執事が頑なに目を向けようとしない程には、地獄絵図だ。

「ヴァルハラ?」
「庭の薔薇を裸足で踏み散らしながら踊っているのは、何処の天使だろう…」
「…申し上げ難い事を申しますが、奥様でいらっしゃいます」

主人は庭を凝視している様に見えるが、一体何が見えているのだろう。
少なくとも真面目な執事にはどう見ても『変な女』は映っているが、女神や天使は何処にも見当たらない。無論、オーディンの宮殿も見当たらない。
見えるのは無残に踏み散らされていく薔薇と、何が楽しいのか無表情でくるくる踊っている寝間着姿の女だけだ。それと、顔を覆っているメイド達が数人。

「メイド達が丹精込めて手入れしている花達が、哀れにも蹂躙されています」
「…そうか。天使だろうと不法侵入する者は殺さなければならない所だったが、面倒事にならず済んだのは幸いだ…」
「ご寛容にしてご懸命なお言葉に感服致しました」

皮肉だ。有能な執事にも耐えられない時が、極たまにある。

「まだ出てこないのか…腹は…」
「そんなにすぐには産まれません」
「…」
「奥様には健康なお子様をお産み頂かねばなりません。どうぞ、ご理解を」
「私はいつリリスを抱ける?」

珍しくはっきりした口調だと思えば、昨日と同じ台詞ではないか。

「奥様の事はリリア様とお呼び下さい」
「違う、リリスだ」
「その名で呼ばれても奥様は反応なさいません」
「………リリスを消したくない…」
「名前など何でも宜しいではありませんか」
「…良くない…」

成程、主人は大層拗ねている様だ。然し実直な執事はめげてはならない。
仕える主人にやる気あろうがなかろうが、孕ませておいて『何故妊娠なんかしたのか』と真顔で宣おうと、健康な跡継ぎを待ち侘びる使用人ならば心を込めてお宥めするしかないだろう。

「旦那様」

そう、心を込めて。

「ただでさえ妾腹だの吸血鬼だの不名誉な呼ばれ方をしているだけでも腸が煮えくり返っているのに、この上、伯爵が妊娠中の妻を強姦して流産させたなんて噂が立ってみろ。私は死んでも死にきれん…!」
「…」
「大体、お前が望めばもっと良い縁談はあったんだ!名ばかりの英国末席の娘、それも素性の知れない養子の娘なんて迎えずとも!あの娘はフランツの縁談相手の一人だった!」

神経質げな顔を歪めて大声を上げた執事に飛び上がった家政婦達は、そそくさと消えていく。実直にして有能な執事が、主人の実の祖父だと知っているからだ。

「奥様の報復を恐れたエルザがお前を産み捨てて逃げたからって、わざわざ兄の縁談相手を娶るとは…!」
「…違う。リリスは…」
「判っているのか!フランツは何をするか判らない男だ!」

ラドクリフ=エテルバルド=フォン=シュヴァーベン、孤高の狼を名に持つ子供は幼い頃、野良犬と呼ばれた。当時の伯爵には本妻の他に妾が何人もいたが、メイドの一人だったエルザだけが逃げ出してしまった為に囲われなかったのだ。
残された子供は世間体の手前引き取られ次男として認知されたが、エルザの実父であるヴァルターが優秀な執事だった為でもある。もしも素性が知れないただのメイドが産んだ子供だったら、殺されていたかも知れない。
ヴァルターは孫を連れて逃げる事も考えたが、不作や領主夫婦の浪費癖で当時既に傾きつつあったとは言え、伯爵家の息子を誘拐すれば極刑は免れない。運良く逃げ延びたとして、エテルバルドの執事だったヴァルターは社交界でも広く知られていた為に、逃げ続けるのは難しいと考えた。全て言い訳じみているが、貴族を敵に回した平民の選択肢はないに等しかったのだ。

「ただでさえ知らぬ前に稼いでいた事でフランツ坊ちゃんの逆鱗に触れていたと言うのに、お前は奥様と…っ」
「…私とお義母様は他人…」
「だからと言って現場をフランツに見られる馬鹿があるか!」

虐げられる孫を表立って助けられないもどかしい日々を過ごし、然し伯爵家の名はいつかラドクリフの武器になるだろうと耐え忍んでいれば、とっくに『いつか追い出されるなこりゃ、やべー』と思っていた孫は夜な夜な街へ繰り出し、権力者の妻や名のある家の娘などの寵愛を得て、目にも止まらない速さで幾つかの流通を握るまでに成長していたのである。

そして、いつの間にか義母の寵愛まで手に入れたのだ。その身を以て。

「違う、見せつけた」
「な」
「私は父も母も手懐けているから、お前が何を企んでも無駄だと、面倒臭かったが…」
「何でそんな真似を」
「私は爵位などどうでも良かったのに、懲りず敵視してくる…から、面倒だった…」

呆れて物が言えない。
何にせよ、前当主夫妻が馬車ごと谷へ落ちる事故を起こし、成人して間もなかったラドクリフは一族や領民、プロイセン王室の推薦により伯爵の位を継承した。
当然、他の兄弟は心穏やかではなかっただろうが、社交界の多くの婦人の寵愛を集めていたラドクリフに物申せる者はなく、領地の統治に関心がなかったラドクリフは兄であるフランツに領地の管理を任せた為、それで一応は満足したらしいフランツは今のところ大人しくラドクリフに従っている。
然し何かにつけて自分の息が掛かった縁談話を持ち込んでくる為、未だに油断ならない。既にラドクリフには妻が居るにも関わらず、遥か昔のミュンスター布告宜しく『妻は何人いても構わないだろう』などと宣っていた。

「リヒト」
「その名前は、…もう忘れた」

エテルバルド家の嫡子は代々祖父の名を頂く風習があった為、フランツのミドルネームであるラドクリフと入れ替わっている。以前のルドルフと言う名は前伯爵が名づけたものだが、家族で呼ぶ者はなく、兄弟からは『野良犬』と呼ばれていた。
ヴァルターの娘のエルザが『リヒト』と言う書置きを残した為、ヴァルターだけが極稀にリヒトと呼んだのだ。人目がない二人きりの時だけに。

「前伯爵の事故にしたって、フランツがお前以外の弟妹と結託して企んだんじゃないかと私は思っている。屋敷が傾いた一因は、フランツの浪費にもあったからな。奴が調度品を極秘裏に売り捌いていた事は、伯爵もご存じだった」
「…」
「あの晩、伯爵がフランツ坊ちゃんを部屋に呼びつけた」
「…知っている」
「若くして財を築いたお前こそ嫡男に相応しいと、方々から指摘されていた頃だ」
「それも、知っている…」
「聡明なお前は放棄すると思っていたのに、何故」
「リリスを…フランツに触らせたくなかった…」

手を伸ばした男は、眩しげに目を細めながらひたりと窓に触れた。

「…リリスは今まで見た誰より、綺麗だ」
「確かに、奥様はお美しい方でいらっしゃいますが…」
「貴族じゃなければ結婚出来ないなら、私は我慢する。肩書きがフランツのものになるなら、その前に奪えば良いだけ…」

眩しい眩しいと言う癖にカーテンを引かず、目の届く範囲に妻を置きたがる。リリスが妊娠した事で寝室を分けて以降は、ラドクリフだけではなくリリスも機嫌が悪かった。
日を追う毎に悪化しており、昨日は食事中にテーブルクロスを引っこ抜く暴挙に出たが、今は庭を破壊している。

「…いつの間にか、大人になってたのか」
「…?私はとっくに大人だろう」

然しラドクリフが近づけば、『寂しい』だの『一緒にいたい』だの宣って、夫の琴線を揺さぶるのは目に見えていた。既に何度も危ない場面があったのだ。

「時々…」
「?」
「夜中に目を覚ましたリリスが、リリスとして話してくれる…」
「そうでしたか」
「リリスはいるんだ。今はリリアでも、リリスはちゃんと…」
「旦那様のお心に気づかず、執事の分際で過ぎた事を申し上げました。お許し下さい」
「うん。…ヴァルターは家族だから、良い…」
「有難うございます」
「本当は…」
「え?」
「愛妻家だったお前を欲しがった義母様から、もっと早く開放してやりたかった…」

前言撤回しよう。主人は駄目人間ではなく、優しい人間だが壊滅的に道徳心がないらしい。

「…リヒト、いつからそれを」
「父様が外出している時は、いつもお前が呼ばれていた…」
「………旦那様、お暇を頂きたく存じます」
「お前が辞めたら…困る………かも知れない…」

貴族なんて糞喰らえ。
今にも死にそうな表情の執事の前で吸血鬼の如く青白い顔をした男は、薔薇の刺で足が血だらけになっている妻を眺めながら、もそりとブロッコリーを頬張った。

「リリスの手当をしてやりたい、が…」
「手当だけで済みますか?決して服を脱がせてはいけません」
「………面倒臭い…。子供は…もう…諦める…」
「もし奥様似の可愛らしい娘様が産まれたら、後悔なさいますよ」
「それは………少し困るかも…知れない…」

血だらけの足をそのままに、チラチラとこちらを窺ってくる伯爵夫人が夫に構って貰えず、眉を吊り上げている。そろそろ泣き出すか歌い出す頃だ。歌なら素晴らしいだろうが、彼女の泣き喚く声は州全土に響き渡りそうな周波数なので、リスクの高い賭けは御免被りたい所だった。

「はぁ。宜しいですか旦那様、奥様は大事なお体です。多少足を怪我した所で大事はありませんが、流産や死産で母体が亡くなる事もあるのです。奥様がそんな目に遭っても宜しいので?」
「嫌だ」
「奥様の事が大切なら我慢なさいませ。産まれるまでの辛抱です」
「リリスが男だったら…良かったのに…」

執事は無表情で聞き流す。
有能な執事としても祖父としても、今度こそ口を開けばついでに手も出るかも知れなかったからだ。

「っ、伯爵の馬鹿!嫌いよ!」
「あ…」

身重でありながら捨て台詞を残し血だらけで走り去っていく女を、メイド達は命懸けで追い掛けていく。困った夫人だが、イギリスでは歌姫として謳われるスターだ。彼女が時折聞かせてくれる歌声は、使用人のみならず近隣住民の楽しみでもある。リリア=エテルバルドのお陰で、吸血鬼伯爵は畏れられつつも親しまれているのだ。

「嫌われ、た…のか?」

ぽつりと呟いた男の茶の髪が、力なく靡く。艶やかなシルバーブロンドが美しい彼の妻は、駄々を捏ねる幼子の様な勢いで走り去ってしまった為、フォローは執事の役目だ。
ああ、何が悲しくて立派な孫の嫁があんな赤子の様な娘でなければならなかったのか、悔やまれる。然し口にはしない。執事だからだ。

「………死のう…」
「いけません。妊娠中のご婦人は挨拶代わりに毒づくものです。私は妻からマンドレイクの声を聞けと言われましたが、この通り生きています」
「………」

情けない話だが、愛する妻はエテルバルドの家に残った。前伯爵夫人の愛人紛いの真似をしていたからではなく、彼女もまた、前伯爵と良からぬ仲にあったのだ。
娘が伯爵のお手つきになった事で心を病んだ事もあったが、伯爵夫婦が不慮の事故で亡くなってからは嫡男のフランツに傾倒してしまった。己の孫であるラドクリフよりも、伯爵に似た顔立ちのフランツを愛しているのだから、掛ける言葉もない。

優しいラドクリフは祖父夫婦を仲睦まじい夫婦だと信じていた様だが、夫婦の仲はとっくに破綻していた。娘がラドクリフを産んで逃げた頃から、つまりラドクリフが産まれた頃からだ。

「旦那様が亡くなれば奥様は未亡人となり、何処かへ嫁がねばならなくなるかも知れません」
「駄目だ。リリスは私の妻だ。他の男に譲るつもりはない」
「それでは不機嫌な奥様と産まれてくるお子様の為に、何か贈り物をされては如何でしょう?お子様の名前はもうお決めですか?」
「そうか…贈り物…名前、か…」
「お茶のお代わりは如何なさいますか?」
「ヴァルター」
「はい。何なりと、旦那様」
「仕事を再開する。リリスには新しい服を仕立てて、機嫌を取ってくれるか。暫く私は忙しい」
「畏まりました」

さて、今回はどれほど稼いでくるだろう。
エメラルドの瞳がギラギラ輝いている時は、彼は完璧な男なのだ。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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