帝王院高等学校
腹ぺこでは戦は出来ませんので悪しからず
「食事は皆で頂きましょう」

繰り返し思い出す記憶の中で、最も強い母の言葉はその台詞だった。
早起きが苦手な父親も、寝惚けたまま必ず食卓の席に着いて、船を漕ぎながら手を合わせる。甲斐甲斐しく父の分の箸やスプーンを握らせてやる母は、誰よりも早く起きて皆が目を覚ます頃には髪を整え、化粧を済ませていた。

「母様、祖父様は?」
「龍人さん。あの人は私達の家族ではありません」
「手酷いねえ、僕の奥さんは」

ヘラヘラと笑いながらスプーンを孫の手で握る男は、スープで口の周りをべったり汚している。己の父親を『ゴミ』と謗って憚らない男だから、満面の笑みだ。庇う気配はない。

「天に見放された父さんにはねえ、金儲けしか生き甲斐がないだけなんだよ。可哀想だよねえ、本当に欲しいものは絶対手に入らないんだからさあ」
「あら。龍流さん、お皿にトマトが残ってますよ」
「あれえ?おっかしいなあ、さっきちゃんと食べた気がするんだけど、勘違いだったかなあ」
「あら。龍流さん、お皿にお茄子が残ってますよ」
「あは。こーら、龍一郎。今、僕のお皿に茄子を投げたよねえ?悪事千里を走る、お前の悪事は見てたよお?」

種がある野菜が子供の頃は苦手だった。基本的には優しい母親だったが、家族の健康の為に家庭菜園で栽培している野菜を豊富に使った料理だった為に、残すと目に見えて落ち込むのでどうしても気が引ける。
だから大体ぼーっとしている父親の皿へ放り込んでいたのだが、その日はとうとうバレてしまった。それも自分の所為ではなく、双子の兄の所為で・だ。

「龍一郎さん、トマト好きだったでしょう?どうしてお父様のお皿に入れたんですか?」

口元を汚しまくる父を甲斐甲斐しく拭ってやりながら、困った様に呟いた母はテーブルの上の出来事を見ていない。茄子を堂々と放り込んだのは確かに冬月龍一郎だったが、トマトを父の皿へ放り込んだのは龍一郎ではなかった。
然し龍一郎は黙り込み、母の質問に答えようとしない。弟を庇ってくれているのか定かではないが、龍流にバレてしまったからには、二度と同じ真似は出来ないだろう。父親は一度起きた出来事を二度と忘れないからだ。

「お子様には茄子の美味さが判んないのかなあ。仕方ないよねえ、お子様だもんねえ。僕なんて30過ぎても獅子唐が食べられないんだから、誰にだって苦手なものはあるよねえ」
「龍流さん、甘やかしたらいけませんよ。この世には食べたくても食べられない人が大勢いらっしゃるんですから」
「うんうん、糸魚君の言う通り。龍一郎、お母さんを悲しませたら駄目だよお?悪い子は納屋に閉じ込めて、僕の調べ物のお手伝いをさせるからねえ?」

見当違いな事を笑顔で宣いながら、スプーンでスープを舐める男の食べ方は子供の目で見ても汚い。
仕事にしか興味がない父親と、そんな父親に逆らえない大人しい母親に育てられた冬月の嫡男は、家事を任されなかった母親の代わりに家政婦が作った食事で育ったと聞いている。龍流の姉である巳酉は実母と共に食事を摂っていたそうだが、長男である龍流だけが上げ膳据え膳で家族とは食卓を分けられていたそうだ。

「あ、また零しちゃったあ」
「ふふ。良いんですよ龍流さん、ゆっくり召し上がって下さい」
「ありがとー、糸魚くん」

それを知った冬月糸魚は、嫁いできた日から必ず食卓を共に囲んできた。
出産してからもそれは変わらず、糸魚が台所に立てない日は龍流は何も食べない様になったそうだ。

「あ、そうだ。母さんのお見舞い、そろそろ行こうと思うんだけどさあ」
「そうですね。お義母様も、寝たきりではお寂しいでしょう。お義姉様とご相談して、お日取りを決めましょうか」
「そうだねえ」

未だに力が衰えない前当主の冬月鶻は、龍流が結婚すると同時に表向きは隠居した事になっているが、未だに商談があれば出掛けていく。巳酉が嫁いだ男は鶻の懐に上手く入り込んだ為、龍流を差し置いて鶻の後継者と言う認識の様だ。

「流次はどうしようかなあ。引き取ってから育てたのは母さんだから、流次にとっても母さんは母さんだと思うけどさあ」
「お義母様のお心をお汲み下さいませ、龍流さん。私はあの男を家族とは認めておりません」
「言うと思ったあ。僕にとっては腹違いでも弟なんだよねえ、流次がどう思ってるか知らないけどー。姉さんとは仲良くしてるそうだよ?」
「…ふん。巳酉お義姉様をあんな馬鹿男に嫁がせたお義父様は、冬月始まって以来の愚か者でしょう。妾を孕ませだだけでも重罪だと言うのに、その子供をお義母様に育てさせるなど言語道断に尽きます。百万回殺しても飽き足りませんわ…」

龍流と巳酉を産んだ鶻の妻は、龍流が独身の頃から体調を崩し入院生活を送っている。糸魚との結婚を誰よりも喜んでくれた人だった様だが、鶻が愛人の元に子供を作った事で思い悩んだ過去があった為、龍流には『外に子を作るな』と念を押した様だ。
鶻よりもずっと面倒臭い龍流が、そんなヘマをする筈がないとは思うが、彼女には彼女なりの葛藤があったのだろう。何せ、結婚前の龍流の遊び癖は酷かったらしい。

「糸魚君…」
「はい?何ですか、龍流さん」
「もしさあ、僕が浮気したらどうする?」
「したんですか」
「例え話だよ?」
「したんですね」
「してないしてない、ごめん、今のはやっぱり聞かなかった事にしてくれないかなあ?糸魚君、ちょっとナイフから手を離そうか」

然しながら、独身時代の冬月龍流の一切合切には箝口令が敷かれている。
高森伯爵家から嫁いできた若妻は、牡丹に劣らない美貌を誇りながら、曼珠沙華よりも苛烈な程に燃える情熱を秘めていた。つまり嫉妬深いのだ。普段は物静かで貞淑な妻たが、一度感情に火がつくと蛇よりも執拗だった。花瓶は飛ぶわ包丁は飛ぶわ、龍流が死にかけたのは一度や二度ではない。
現に今も、恐ろしい笑みを浮かべた顔色の悪い冬月糸魚は、左手に握ったハンカチーフで夫の口元を拭ってやりながら、右手に握ったナイフで龍流の喉仏を撫でている。

「母上」
「…なぁに、龍一郎さん」
「親父は垂れ目だからモテない」

父親に負けず劣らず口元を汚している冬月家の長男は、吊り上がった目を見開いた。小さな手で握ったスプーンは正しい握り方だったが、何がどうなれば鼻の頭にまでスープの具材である葱がついているのだろう。

「龍流さんはモテないんですか?」
「え?えっと、あは、そうそう」

全く、似合いの夫婦だ。
慎ましく大人しい忠実な妻は然し、猛毒の棘を持っている。腐っても、雲隠最後の当主だった女に育てられただけ、頭の螺子が外れているのだ。

「私が出産に臨む直前、贈り物を手ずから届けて下さったご婦人の事を覚えていらっしゃいますか?…ふふ、龍流さんの腕に身を委ねておいでだった森永様とは、ただならぬ仲かと邪推しておりましたのよ…」

龍流がポロリとフォークから落としたトマトが、ぺちょりとテーブルクロスを汚す。長男は動じずにスープを飲んだが、次男は垂れ目を微かに細めた。父親のポーカーフェースは見事だと思うが、態度が宜しくない。
それでは、『そうそう、その子と遊んだ事ありまくるんだよねえ』と言ったも同然ではないか。

「ああ、それと…藤井様のご姉妹も、疑っておりましたの。揃ってお美しい方々なので、糸遊姉様の足元にも及びませんが…特に藤井様のお姉様の方は、龍流さん好みのお顔立ちでしょう…?」

龍流がフォークを滑らせ、刺さらなかった蚕豆が勢い良く宙を舞った。あわあわと体を揺らした龍人の傍らで、無表情のまま蚕豆を一瞥した龍一郎は湯呑みを持ち上げる。

「…母上」
「どうしましたか、龍一郎さん」
「トリカブトの量が、多少多かったのでは?それと、トマトと思っていたこの野菜だが、食感が木耳に似ているのでは」
「火炎茸ですよ。灰皇院では古くから親しまれている茸です」
「父上のスープに沢山入っている様だが、毒性はトリカブトの数倍だろう」
「この程度で死ぬのであれば、致し方ない事でしょう?冬月の当主たる者、不可能などあってはなりません」

哀れな。
龍流が学生の頃に冬月は帝王院から追放されている為、龍流は殆ど修行をしていない。姉の巳酉は本来なら十口に落とされていた女だが、龍流まではないが優秀だったので、冬月の力を持っていない事がバレないまま追放されている。
十口を見下していた鶻が『冬月から出来損ないを出す訳にはいかない』と言った事もある様だが、生まれつき悪知恵が働いた龍流が口八丁手八丁で誤魔化して来た事も、大きな要因だろう。姉弟仲はずっと良好だが、鶻が巳酉に宛がった婿のお陰で、姉弟仲に隔たりが生まれたのは事実だ。

「あは。僕はよいけど、灰皇院を離れた頃に生まれた流次には食べさせらんないねえ」
「寧ろ食べさせてやりたいと思っていますが、あの男は家族ではないので仕方ありません。食卓は家族で囲むものだと、お兄様は仰いました」
「流石、高森伯爵。モテる男の台詞は、女性の心に残るよねえ」
「お兄様はおモテになられましたが、求婚なさったのは糸遊お姉様だけ…」
「僕が求婚したのもさあ、糸魚くんだけだよお?」

抜け目なく宣った父親に、母親の顔がほんのり和らいだ。
双子は目を合わせ内心安堵するが、父親を庇うつもりは毛頭ない。何せ屋敷の使用人の中に、愛人紛いの人間が複数存在するからだ。
とは言え、冬月の屋敷は母屋が二つ並ぶ珍しい造りなので、巳酉夫婦が鶻と暮らしている屋敷は庭を挟んだ向かいにあり、龍流が糸魚と結婚した後は、ほぼ全ての使用人がそちらの屋敷で働いている。龍一郎と龍人が知る限り、龍流が使用人を呼ぶのは向こうの屋敷へ何らかの連絡を入れる時だけ。例えば、巳酉に手紙を渡す時など、野暮用が殆どだ。

高森伯爵の義妹として嫁いできた糸魚は、伯爵家の都合で時々出掛ける事がある。表向き産まれたのは龍一郎だけと言う事になっているが、伯爵夫婦には事情を伝えているので、糸魚が出掛ける時には息子のどちらかを連れていく事になっていた。
パーティーなどの社交の場を、幼い頃から経験させておくのは為になると言う伯爵の計らいでもあり、普段滅多に外出する事がない龍人の為でもある。

「…」
「ん?なーに、龍一郎。僕の顔に何かついてる?」
「別に」

龍人が糸魚と出掛けている際、龍一郎は何度か目撃した。
鶻側の屋敷からこっそりやってきた使用人に懇願されて、龍流が客室に入っていく所だ。吊り目がちの龍一郎が目を吊り上げてしまったのは、相手が女だけではなかった事だろう。糸魚の目がないと判るとやって来る使用人や来客は、女も男もひっきりなしだ。

「…龍一郎くん」
「何だ」

なので龍一郎はいつか、堂々と情事の途中に邪魔をした事がある。
あの時の龍流の顔は死んでも忘れないだろう。何しろ、冬月龍一郎なのだ。

「あは。えっと、僕のデザート食べるー?」
「食えと言うなら貰ってやる」
「父上、龍一郎だけ狡いぞ。いつも龍一郎だけではないか」
「あ、あは、ごめんごめん、ほら龍一郎の目が父さんに似てるからさあ、あは、あは」
「ふふ。龍人には私のデザートをあげましょう。ほら、沢山召し上がれ」

人知れず、裏庭で毒草や毒茸を栽培している美しい女は料理上手だったが、如何せん作る料理は全て有毒だった。鶻や巳酉ならともかく、他の者が迂闊に口にすればまず命はないだろう。
つまり龍流が浮気した事が万一糸魚に知られれば、一家心中も有り得ると言う事だ。毒の配分は、雲隠の女が嫁入りの時に習う門外不出のレシピであり、糸魚の匙加減で生死は簡単に別れる。美男で知られていた高森伯爵が、30代の頃から急速に白髪が増えたと噂された事があるそうだが、龍流曰く、糸遊の料理の所為らしい。そんな恐ろしい嫁を貰い、三人の娘に恵まれた伯爵は幸せなのか、不幸なのか。永遠の謎だ。

「龍流さんには、穢らわしいお義父様の血が流れています。巳酉お義姉様も龍流さんも素晴らしい方ですが、私は心配で仕方ないのですよ…」

いつもより毒々しい食事で手が麻痺しているらしい龍人は、母親に貰ったデザートを犬食いし始めた。我慢しているだけで龍一郎も冷や汗が止まらないが、龍流の手元が覚束ないのは、料理の所為ではないだろう。いつ龍一郎がうっかり口を滑らせるか、はたまた滑らせなかったにして、もし糸魚が知っていたとしたら。
ヘラヘラしている外見に反して大層聡明な頭は、今頃火を噴かんばかりにフル回転しているに違いない。龍人はともかく、龍一郎には目に見える様だった。

「お義母様を裏切り、外で子供をお作りになられたお義父様の様な真似を龍流さんがなされば、冬月の家名に関わります」
「そうだねえ、うん、家名なんてとっくに地に落ちてると思うけど…」
「龍流さん?」
「糸魚君」

自棄に凛々しい表情で妻を見つめた男は、どの角度から見ても嘘臭い。

「僕の奥さんは後にも先にも君だけだよ。それでもまだ疑うならさあ、離婚する?」
「っ。…龍流さんが私をお捨てになられるなら、仕方ありません」
「あは、捨てる訳ないじゃん。僕が捨てられるならともかくさあ」
「父上が捨てられたら誰が父上の面倒を見る事になるのかのう?放っとけば何ヶ月も同じ白衣を着て、蛆が涌くぞ」
「ふん、焼却炉で燃やしてしまえ。当主が消えれば冬月を継ぐのは俺だ、その後で母を迎えに行けば良かろう」

事情が判らない筈の龍人までも『気持ち悪い顔』などと呟いているので、龍流の心境を把握している龍一郎は必死で笑うのを耐えた。龍流の為ではなく、糸魚の為だ。彼女が泣き喚く所など見た事もないが、何をするか判らない。
ただでさえ、糸魚には毎月定期的に猜疑心が増す時があり、龍流は『お月様が来ちゃったからじゃない?』などと宣っているが、双子はその意味が判らなかった。流石に3歳児に月経を教えても、覚えるだろうが把握は不可能だろう。

「しっかりしてるよねえ、龍一郎は。誰に似たんだろう」
「龍流さんにそっくりでしょう?」
「あは、だよねえ。糸魚くんに捨てられたら本当に燃やされそうだからさあ、捨てないで欲しいなー」
「けれど、私の様に心の狭い女では、龍流さんに相応しくないと思っております。嫁いできた日からずっと、この悩みは消えて下さいません」

いや、こんなに似合いな夫婦もない。
何せ糸魚は大層美しく、慎ましく、誰からも羨まれる良妻賢母だ。自己顕示欲の塊である雲隠の女とは、似ても似つかない。賢いが外見に恵まれなかった冬月巳酉は、幾つかの縁談を断られた経験から内向的な性格に拍車が掛かり、今の旦那に依存している節がある。野心家で独裁者気質の巳酉の夫は、浮気は日常茶飯事、巳酉に手を上げる事もある様だ。
然し巳酉が耐えているのは、自分と結婚してくれる男はもう居ないと思っているからだろう。彼女の性格を知れば惚れない男は居ないと龍流は思っているが、外見が与える印象が如何に強いか知らない訳でもなかった。

「巳酉お義姉様はご立派です。糸遊姉様は『浮気したら殺せ』と仰いますが、巳酉お姉様は耐えていらっしゃるでしょう?お義母様も、冬月の女ならば、耐え忍ぶ事が美徳だと教えて下さいました」

灰皇院の中で、一夫多妻が見られるのは明神と十口だけだ。
雲隠は執着心が強く、榛原はそもそも人間嫌いが多い。その性質からか嫁選びには手間が多く、嫡男以外の子供はいずれ十口に落とされる為に、肉親の情と言うものも薄いらしい。冬月鶻の母親が榛原から落ちた娘である事は周知の事実で、その姉は帝王院寿明の妻だった。
前天神には二人の妻が居たが、現天神である帝王院俊秀には雲隠桐火以外の妻はない。嫡男の鳳凰が誕生すると同時に亡くなっているので、以降、俊秀は独身を貫いていた。長女の雲雀は未だ行方不明のままだ。

「我慢は体に悪いんだ。美徳である筈がない」
「よい事言うねえ、流石は龍一郎。そうだよお、苛々するとよくないホルモンが分泌されるんだって。カナダの学者が証明したんだ。ストレッサーはホルモンに何らかの影響を与えるんだ」
「おお、また父上の弁論大会が始まった。医学は、そんなに楽しいものなのかのう?」

帝王院が東京へ移り住むと、山奥に構えた屋敷が榛原や残った明神の住処になったらしい。跡継ぎ争いで宰庄司に下った俊秀の義弟は、内部分裂した明神の大半を連れて野へ下り、その内の神坂と言う家の娘と結婚した。
息子が産まれた事は風の噂で聞いたが、最早帝王院とは無関係とされている。

「楽しいよお。星夜君が死んでから勉強し始めたんだけどさあ、知れば知るほど奥が深いってゆー感じい。でもねえ、医療は凄くお金が懸かるんだ」
「当主とは名ばかり、医学書を買い漁って引き篭っておれば、財産を義兄や義弟に握られるのも無理はない」
「痛烈批判だけどお、正論だよ龍一郎。パパは何で医学と経済を学んでおかなかったのかなあ、大学時代は数学の魅力に取り憑かれてたんだよお」
「抜かせ。女遊びに更けておったのでは、」

口を滑らせた龍一郎はそのまま動きを止め、龍流は呼吸を止めた。
笑顔が凍りついている妻に見つめられた男は、垂れ目を限界まで見開いてフォークを握り直す。

「あは。僕は全然モテないから、糸魚くんに出会うまで独り者だったんだよお。全く龍一郎はお子様だねえ、3歳だもんねえ」
「…確かに、妻が思うほど亭主はモテないと糸遊姉様も仰っていました。ふふ」
「あは、あは、あは」

もう笑うしかない。
糸魚の目が本気で龍流を殺しそうだった為、龍一郎も龍人も見て見ぬ振りで食べ進めるしかなかった。
然し基本的に好き嫌いがない龍一郎ならともかく、野菜自体が余り好きではなかった龍人の咀嚼速度は、子猫以下だ。龍流の言葉ではないが、どうしても苦手な食べ物は誰にだってあるだろう?何せポイズンポイズン。

「あら、龍流さん。スープがなくなってしまいましたね。お代わりは?」
「お願いします」

機嫌が直った妻に安堵した冬月当主は、張りつけた様な笑みで宣った。空いた皿を片手に台所へ去っていく背を見守りながら、額に浮かんだ汗を拭っている。

「龍一郎。さっきの発言で僕を助けたつもりなんだろうけど、もっと違う言い方でもよいのではないかね?」
「ふん、そんな事は俺の知った事ではない」
「後で家族会議しよう。それよりその喋り方、完全に父さんの真似してるよねえ。こないだ言われたんだよ、『龍一郎に何を吹き込んだか知らんが、あれは俺を舐めている』って…」
「その通りだと言ってやれば良い。猛禽類だか何だか知らんが、鶻が怖くて龍が飯を食えるか。愚か者が」
「自分の祖父をそこまで馬鹿にする3歳児は、僕とお前だけだよねえ」
「おい、零すな糞親父。貴様は子供か」
「僕に負けないくらい零してるお前に言われたくない」
「師君ら大人げないぞ」

互いに落とした米粒を拾って投げあっている龍流と龍一郎に、耐え切れず呟いた龍人はどうしても食べられない胡瓜の薄切りを龍流の皿へ放り込む。ついでに欠片の様なトマトと、種がついていたピーマンも放り込んだ。

「う。龍人、僕もピーマンは苦手なんだけど?」
「戦争の所為で食糧難が続いている。闇市で簡単に手に入るのは、ピーマンだ」
「残したら勿体ないのは判ってるんだがのう、僕は南瓜か栗が食べたい」
「昔からああ言うのは女子供が食べるものだって言われたもんだけど、甘〜い茹でたとうきびをしゃぶると、幸せな気分になるよねえ」
「それを人に言ったら、冬月が代用食を貪っていると陰口を叩かれるだろうのう。美味いものを美味いと言ってはならんとは、変な事が罷り通る」
「腹が減っては戦は出来ん。龍人、貴様は好き嫌いが多いからいつまで経っても垂れ目なんだ。食え」

唯一の吊り目が宣った台詞に、垂れ目親子は瞬いた。どう関係があるのかは謎だが、妙な説得力が何故かある。

「んー、そうだねえ。確かに勿体ないから、食べちゃお」
「父様、また兄上に騙されてるのう」
「貴様は鶻の所為で爪弾きにされた癖に、何を生温い事を宣っている?悔しくないのか、お前に戸籍があれば配給の少なさで母上が頭を悩ませる事もなかったんだぞ」
「こーら龍一郎、龍人は何も悪くないでしょ?それは父親の癖に子供を守れなかった、僕の所為だからねえ」

双子。同じ日に産まれた、たったそれだけの事だ。
閏年、2月29日に産まれた双生児と言うだけで、後から産まれた子供だけが存在を隠されなければならなかった。他に方法はあった筈なのに、殺されるくらいなら産まれなかった事にした方が良いと暴虐を許した龍流の判断が、正しかったのかまでは判らない。ただ、古くから双子が認められて来なかった国に産まれたと言うだけだ。

「生きていてくれたら、それだけで僥倖だと思っちゃったんだ。馬鹿だよねえ、灰皇院から追い出されただけでも一大事だってのに、大殿に助けて貰おうにも姫様からは嫌われてたし、雲雀の宮様は居なくなっちゃうしい」

冬月が灰皇院を去ったのは、龍流が幼い頃だった。帝王院雲雀が産まれる以前、帝王院俊秀が雲隠桐火を娶った頃に遡る。
当時嫡男でありながら隠されて育った俊秀を後継者とする灰皇院の中で、冬月だけが腹違いの弟である秀之を後継者として推挙した。そこにどんな理由があったかは定かではないが、灰皇院当主である雲隠は帝王院秀之の追放を榛原と画策し、クーデターは未然に防がれたと言う事だ。
その際、数が多かった明神は分裂状態だったが、龍流より一回り年上の刹那と言う男が当主として名乗り出ると、一枚岩として俊秀への忠誠を誓った。秀之方に加担した神坂も追放されたが、外戚だった宰庄司ともそれを機に縁が切れている。

「ふむ。雲雀様は何処へ言ってしまわれたのかのう?」
「判んないんだよねえ。何せ、雲隠の血を引いてる十口の嫡男と逃げちゃったからさあ。見つけられる筈がないんだけど」
「おい。宮様と叶芙蓉は、従兄妹同士ではないのか?」
「ちょっと違うかなあ。雲隠はかなり特殊な一族でねえ、明神もそうだけど、力が強ければ雲隠を名乗れるんだよお」
「ほう、変わっとるのう」
「血が繋がってなくても、養子縁組で兄弟姉妹になる事があってねえ。雲隠焔は火霧の息子だったけど、桐火様の血は引いてないよー。確か火霧の種違いの姉だか妹だかが、桐火様を産むのと引き換えに死んだとか…」

現在の明神は宗家である神木が榊へ改名した為、筆頭は小林に替わった。
戸籍上は俊秀の妹になっている従妹が神主を継いだ為、榊の当主夫婦は使用人である錦一族と共に、東京都に属している島へと下っている。
帝王院が京都を離れた折に屋敷ごと残された十口の代わりに、明神の中でも力が弱い星と言う一族が草の役目を全うしているそうだが、灰皇院から離脱した龍流は星一族とは面識がない。榛原や冬月の様な、単独血統の家の方が珍しいと言う事だ。

「明神は有象無象の集まりって感じだったねえ。十口に落とされても可笑しくない人間も多かったけど、明神が他と違ったのは、訓練すれば誰でもそれなりに出来る様になる技だったって事かなあ?」
「人の心が読めると言ったが、眉唾物だな」

更に榛原は完全に血縁主義で、嫡男と認められるのは大抵長男だった。
子供が親を超えた瞬間に当主が入れ替わる為、歴代当主以外は灰原を名乗る事が許されない。嫡男の時は榛原を名乗り、当主になれば灰原を名乗る。そこで全ての榛原が削除され、新たな当主が家族を作ればまた、榛原が産まれると言う流れだ。
灰皇院はどの家も特殊だが、帝王院は更に特殊だと言えるだろう。天才だけを残して平凡を淘汰してきた灰皇院とは違い、帝王院には天才しか産まれない。人智を超えた力を得た者は時に、平凡な人間から爪弾きにされてしまうものだ。

例えば、帝王院俊秀の様に。
そして、帝王院雲雀の様に。

「そう言えば、居なくなった姫様は、頻繁に誰も居ない所で独り言を言ってたねえ。何か聞こえてたのかもお」
「他人の心が読めれば便利だろうが、四六時中聞こえてくるのは煩わしいだろう。俺は明神には産まれたくない」
「僕も明神は嫌だのう。十口に落ちた方がマシだわ」
「人を羨んで、妬むのは馬鹿のやる事だからねえ」

窓の向こう、彼岸花が咲いている。
食器を片づけた人が淹れてくれるお茶だけは、極普通のものだ。ほんのり甘い麦茶には、菜園目当てにやって来た蜜蜂が集めたり蜂蜜が少しだけ混ざっている。

「双子が凶なんてさあ、科学的根拠なんて一つもないのにねえ。冬月が一番馬鹿だよ。流次だって病気が治れば、自信がつくと思うんだけどお」
「流次叔父は悪人ではないと思うが、巳酉伯母以上に世間知らずだからのう。龍一郎兄には度々菓子を持って来てくれるわ」
「ふん、弟の躾は兄の義務だろう。放置している親父が悪い」
「血が繋がってるからこそ難しいんだよお、龍一郎、龍人。他人には出来る事があ、身内だから出来ない事もあるわけえ」
「…ああ、僕はもう駄目だ。眠くてならんぞ…」
「流石に火炎茸を食えば、彼岸が近づくのも無理はない…ちっ!龍流の所為だ、俺が死んだら化けて出てやるから、覚えてい…ろ」

食後に茶飲んでから昼寝をするのも、冬月の習慣だ。
起きたらまた、毒々しいが美味い料理が食卓に並んでいるのだろう。

「んー…絶対忘れないから、お休みー」
「「ぐー」」

揃って寝落ちした子供達を眺めて目を閉じた男は、死んだ筈の親友が『こっちに来るな!』と叫びながら手を振っている夢を見た。素直に引き返したから目が覚めたのか、単なる夢だったのかは、定かではない。

「あは。…ありがとー、星夜くん」

夢か彼岸の入口か。
親友はついでに『身辺整理しろー!』と声高に叫んでいたので、冬月当主は素直に従う事にした。そもそも浮気がしたい訳ではないからだ。

「あっち側の状況を探る為ってのが一番の目的なんだけどねえ、仕方ないかあ」
「何が仕方ないんですか、龍流さん」

庭の向こうに見えるもう一つの屋敷を眺めていると、すぐ隣から妻の声が聞こえてくる。
悲鳴を上げなかっただけ、褒めて貰えないだろうか?

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あきゅろす。
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