帝王院高等学校
心が狭い男の地雷が襲ってきます!
「何を見ているのかと思えば、その十字架は?」
「ん?」

何年振りかに片づけたクローゼットの中から出てきた『嫁入り道具』を手に、暫く物思いに更けていたらしい。いつの間に戻ってきたのか、部屋着に着替えている途中のパートナーが肩越しに覗き込んできた。

「お帰り、気づかなくてごめんな」
「余りに動かないから寝ているのかと思った」
「今日は仕事もなくて暇だったからさ、大掃除してたんだ。本当は大晦日にやるもんだけどな」
「オリオンとシリウスの姿が見えないな」
「女遊びに呆けてる。…って理由ならまだしも、『空を作る』っつって出てったまんま帰って来ねェ」
「ああ、本気だったのか」
「洞窟の凸凹を磨いて、テレビジョンみたいにするとか言ってたけど話についてけなくて、全然判んないだよなァ。アイツらいつから俺を置き去りにして大人になっちまったんだろう」

親の愚痴の様だと笑えば、額にキスが落ちてくる。

「ナインの結果が出た。数値は余り芳しくない」
「…そっか」
「新たな外科手法を試す為に、暫くラボに泊まらせる事になった。正月休みをくれてやれない技術班には申し訳ないが、テレジアが上手く進めてくれるだろう」
「ん。マリアさんに任せておけば、安心だな」
「それで、これは?」

握っていた古びた十字架が、するりと手から抜けていく。
濃い夜明けの空に似たダークサファイアの瞳を細めている美丈夫は、出会った頃から少しも変わらない愛しい男だ。自分ばかりが老けている様な気にならなくもないが、出会った頃より随分大きくなった双子や息子を見ていると、否応なく時の流れを感じてしまう。

「あー、これ。…親父の形見だって言ってた」
「お前の父親か」
「本当は、俺の兄貴らしいんだけどさ。それ知ったの、俺が13歳の時だった」
「兄?お前の兄は、」
「これまでもこれからも、俺の兄貴は夜刀兄さんだけだ」

この世界には朝も夜もない。空がないからだ。
海岸線から延々と続く洞窟は潮の満ち引きで入口が隠される為、物好きなダイバーや迷い込んできた深海生物以外の来客はほぼない。数年前に洞窟周辺の土地を丸ごと買い上げてからは、いよいよ招かれざる来客はなかった。それがステルシリーだ。

「ああ、いつ聞いても妬ける。お前は私よりも国に置いてきた兄の方が余程大切なんだろう」
「何拗ねてんだよ、レヴィ」
「もしも、夜刀がお前に帰って来いと懇願したらどうする?」
「今更」
「『愛しているから帰ってこい』と言われたら」
「…」

そんな世界の覇者と言えば、その美貌に嘘臭い笑みを滲ませ、背後から眼前に回り込むと長身を屈め、わざとらしいほど顔を近づけてくる。逃がさないと言わんばかりに、両腕は椅子の肘置きに置かれていた。遠野夜人が動きを止めたのは、質問への返事に窮した事だけでなく、恵まれた美貌が視界を覆った事にも起因するだろう。然しそんな人間の心の機微など、神と呼ばれる皇帝には何ら意味を成さない。

「ああ、悩んだな?」

ほら、見ろ。
恐ろしい笑みで容赦なく責め立ててくる男爵は、夜人が知る限りこの世の誰よりも狭量だ。どれほど心が狭いかと言えば、ステルシリー幹部で唯一と言って良いほど純粋無垢な男であるライオネル=レイと世間話をしていただけで、脈絡なく数ヶ月規模の出張を命じるほどには心が狭い。病んでいると言っても過言ではないだろう。

「ちょ、今のは狡いだろ?!俺が悩むの判ってて言ったんだなっ」
「ふん。私の妻は流され易いにも程がある。愛を乞う男なら誰でも良いのか?」
「んな事いつ言ったよ!」

二人きりで良かったのか否か。
こんなみっともない言い合いを誰かに見られたら死にたくなるに決まっているが、誰もいないと言う事は仲裁してくれる人間もいないと言う事だ。己の短気さをどれほど理解していようが、直そう直そうと思っていてもヒートアップする時はある。特に今は、考え事をしたくなくて掃除に逃げてしまった様な今は、特に。

「ああ、そうか。初めてお前を視界に入れた時もそうだった」
「あ?!そうって何がだよ?!」
「つまらない男に股を開く所だっただろう?」

添い遂げる覚悟で海を渡り何年経ったのか、愛しい男は時々心の内側を覗いてくる。彼に判らない事などないのではないかと思っているが、こう言う時は感心するよりも憎たらしくてならない。今の今まで言わなかった癖に、どうして意地悪を言うのだろう。あの時と今では事情が全く違うのに。

「判っているとも。愛した男にそう告げられないもどかしさから、お前は代わりを求めた。そうでなければ私の前に現れる事はなく、私がお前に興味を持つ事もなかっただろう」
「っ」
「オリオン、シリウスを見つける事もなかったかも知れない。帰る場所を失い、橋の下で寄り添っていた幼子になど私が気づく事は有り得ないだろうからな」
「…ん」

あれはいつだったか。
確かそう、軍人や華族で犇めく社交界の場で出会った銀髪の美丈夫に、何故か何度も求愛されていた頃だ。始めの頃は逃げ回っていた夜人は、何故か毎回見つかって捕獲される事に慣らされつつあった。
年老いた祖父、いや父親は診療所を夜刀に任せる様になっていて、日中の大半は往診に費やしていただろうか。レヴィ=グレアムから逃げ回っている道すがら、往診から戻る途中の遠野一星に呼び止められた事がある。夜人は一星と会話した記憶がほぼなかった。物心ついた頃には夜刀にべったりだったし、仕事一筋で寝ている時でも急患の報せがあれば飛び起きて飛んでいく様な祖父だったから、『怖そう』だの『兄貴と良く喧嘩してる』と言う印象しかなかった。

「兄貴がいなきゃ俺は、とっくに死んでたと思うんだ。どんだけ馬鹿な事やったって、ふと『俺が死んだら兄貴が悲しむかも』って思って、立ち止まっちまう」
「胃が焼ける話だ」
「嫉妬なんか似合わねェからやめろって、レヴィ。昔の話だぞ?」
「いつの話だろうが関係ない。お前の全ては私のものだ」
「…ハーヴィの自慢の父ちゃんでいろって言ってんの。また龍一郎が『嘆かわしい』って言うぞ」
「オリオンはオリヴァーに感化されている様だ」

背が高くて顔立ちが整っていた夜刀は、彼の父親である星夜よりも母親に似たらしい。
海辺の町で診療所を開設している立花病院の娘だ。夜人は彼女を母親だと思って育ったが、顔は知らない。もうすぐ戦争が終わると言う時に、亡くなったそうだ。星夜は重傷を負いながらも診察を続け、最後は真っ黒な血を吐いて死んだと言う。
その少し前に生まれた夜人はそれからずっと夜刀に育てられた様なもので、両親は死んだものだとばかり思っていた。まさか診療所に手伝いとして通っていた看護婦の一人が、祖父と恋仲にあったなんて考えもしなかったのだ。当時そんな話が近所に広がれば遠野の信用に関わると言うのは薄々判ったいたが、それを従兄弟から聞かされるとは思ってもみなかった。

夜人が立花方の親族に預けられる様になったのは、大学の卒業を控えて多忙を極めていた夜刀が苦渋の決断をしたからに他ならない。家事が出来ない一星には任せられないと思ったのだろう。夜人はまだ10歳ほどだった。必ず迎えに来るという夜刀の言葉を信じて待っていたけれど、数年が経つ頃にはすっかりやさぐれていたのだ。医者の修行がどれほど大変なものか、考えもせずに。

「捨てられたと思ったんだ。たまに会う兄貴はずっと格好良いまんまで、患者も立花の皆も手放しに褒めてて、何処に出しても恥ずかしくない完璧な兄貴だった」
「私は恥ずかしいのか」
「はァ、お前こそ完璧な男だろ。言わせんな」
「言わせたい。何度でも言え、喉が枯れるまで」
「ちょ、顔が近い」
「キスをする」
「んな事はわざわざ言うな!」
「抱いてくれと懇願せねばならない男と私は違う。お前の愛に気づかない愚鈍な夜刀ともだ」

初めて抱かれた男は従兄弟だった。殆ど好奇心で、理由は単に顔が似ていたから。
立花方の親族には背が高い人間が多く、顔立ちも良かった。夜人と夜刀は吊り目がちな目元が似ている以外は、殆ど共通点がないのに。それはそうだ。夜人に立花の血は流れておらず、大人達が夜刀に言い含められて隠していた事実を、夜人と同い年だった従兄弟が暴露してしまったのだ。
彼もまた優秀な立花の落ち零れで、親族からは穀潰しと呼ばれていた。勉強しても結果が出ない夜人に同族意識を持ったのか、立花に預けられてからの夜人には従兄弟だけが味方だった様な気がする。従兄弟も夜刀に憧れていたから、夜人が羨ましかったのかも知れない。どんなに出来損ないの弟でも、夜刀が夜人に『穀潰し』だの『要らない』だの、そんな辛辣な言葉を投げ掛けてきた事は、一度もなかった。

『お前、目だけ夜刀兄さんに似てるよな。他は全然似てないのに』
『そっちこそ、鼻も口も似てるだろ。声も似てる気がする。馬鹿な癖に』
『俺も遠野に生まれたかったよ。同じ優秀な兄貴なら、夜刀兄さんが良かった』
『…兄貴は俺の兄貴だ。お前にはやらん』

そう言って誘ってきた手を拒絶しなかったのは、同じ事を考えていたからだ。夜人よりずっと夜刀に似ていた従兄弟と、互いに傷を舐め合っていたのかも知れない。だが然し、夜人が知る限り4歳の頃から口が悪かった冬月龍一郎曰く、『貴様の事に関して、陛下は兎の尻の穴より心が狭い。発言には重々注意しろ』なのだ。自分こそ過去に三人も妻がいた癖に、夜人の過去の男にも堂々と嫉妬する男に聞かせれば、立花が消されてしまう可能性があった。幾ら短気でも発言には気をつけねばなるまい。

「何を考えている?」
「…あ、いや、何も。お前の顔が綺麗だなって思って、ぅん!」

以前、中国でかなりの男前と出会った事がある。夜人とそう変わらない年頃の男だったが、何があったのかその若さで髪が真っ白だった。瞳の色が黒かっただけに神秘的に見えたものだが、ぼーっとしているかと思えば初対面で殴りかかってくる様な獣じみた男だった。
いや、初対面で開口一番『うわ、男前。昔の俺だったら食ってんな』などとほざいたからだろうか。日本語が通じるとは思わなかったが、お陰で夜人は初めて『嫉妬に狂う男爵』を目の当たりにしてしまった。無表情で発砲しまくる夫と丸腰で避けまくる白髪黒目の男が『目障りだ消えろ』だの『武器に頼るとはやはり蛮族』だの囁きながら争っていた地獄絵図は、今にもたまに夢に見るほどだ。

「そう言えば、白雀って俺より3つも年下だったんだよな」
「…キスの感想かと思えば、他の男の話か」
「お前の所為で黄河一族には睨まれてんだから、反省しろよ」
「奴らは大河に改名した。あの国の王政は廃止され、民主主義が幕を開けた。黄は死んだと言う事だ」
「大変そうだなァ。アメリカもあったんだろ、独立戦争」
「時代が変わると言う事だろう」

心底馬鹿にした様な声音だった。逐一争わねばならない人間を見下しているかの様に、聡明な男は呟いた。

「お前の心の狭さはいつ変わるんだ?」
「私にも不可能はあると言う証明になろう。で、これは何だ?」

ちゃらりと、わざとらしい笑みを浮かべた男の白い手に握られた金属が音を発てる。形見だと説明した筈だが、星夜が本当の父親ではない事を目の前の男は知っているので、詳しい説明をしろと言っているのだろう。下手にはぐらかせば何をされるか判ったものではないが、素直に話して嫉妬心を煽る事になってはどちらにしろ泣かされるのが目に見えている。
性に翻弄された十代の頃ならいざ知らず、二十代の終わりに近づいている夜人の性欲は毎晩激しめに解消されている為、そろそろ『お腹いっぱい』なのだ。などと宣えば、ステルシリーの誰より(何なら幼い頃の双子よりも)純粋はレイナード=アシュレイは顔を真っ赤に染めて『聞きたくない!』と言うだろう。

「私が帰ってきた事にも気づかないくらい見蕩れていたものだ。余程の理由があるのだろう」
「え、えっと、いやァ、それほどのものじゃ…」
「親の形見を捨てろとまでは言わないつもりだが、お前の関心を惹きつける理由くらいは知る権利があるだろう?私はお前の夫であり恋人であり、お前が最優先するべきもの」
「うう」
「言いづらいなら仕方ない。間もなく夕餉の時間だが、体に聞く事にしよう」
「おわっ!や、やめ、判った!判ったからっ」

抱き上げられそうになり叫べば、わざとしい笑みを浮かべていた男が無表情に戻る。若干残念そうに見えなくもないが、五十を過ぎても衰えない体力は何処から湧いてくるのだろうか。流石はアメリカ。いや、目の前の男はイギリス生まれだったか。元々はフランス人らしいが、突っ込む余裕はない。

「ハーヴィが心配で、さ。じっとしてると考えちまうから、掃除で気晴らしするつもりだったんだ」
「ああ」
「日本から持ってきたもんなんて殆どないから、それも本当はすっかり忘れちまってたょ」
「夜刀か」
「ん。やさぐれてた俺が、兄貴が迎えに来てくれる前に親戚の家から追い出されそうになった時にさ、兄貴がくれたんだ。親父と母ちゃんが結婚した時に、お世話になってた人から譲って貰ったもんなんだって」
「そうか」
「誰だったかなァ、舌が麻痺しそうな名前だった気がするけど、忘れちまったや。お公家様だった様な気がする。とんでもなく偉い人…っと、そうだ。確か兄貴の親友の親父さんだった!」
「夜刀の親友?それは初めて聞く話だ、どんな男だ?」
「無茶苦茶色男で、声にも色気が迸ってるっつーか」
「…」
「何か、この世のもんじゃない様な感じの人。俺はちょっと苦手だった」

そう言えば、初めてレヴィ=グレアムと言う人間を認識した時もそうだった。顔立ちが整い過ぎている男は、時に生気を感じさせない。夜刀の様に喜怒哀楽が判り易ければとっつき易いが、表情が変わらない相手にはどうしても身構えてしまう。だから夜人は初めて帝王院鳳凰を見た時、関わってはいけない人種だと本能で感じたのだ。但し、同じ無表情で美丈夫でも雲隠陽炎は別だ。あの男だけは八つ裂きにしても足りないと思っている。

「でも、トカゲ野郎は別だ…!」
「蜥蜴?」
「アイツだけは…!」

夜刀より少しだけ年下だった異常に綺麗な顔をした男は、あろう事か夜人を差し置いて夜刀を『兄者』と呼び、夜刀と恋仲にあった女と口ではとても言えない事をしていたのだ。それも、あろう事か夜遊び中の夜人が男漁りをしていた『そう言う場所』でだ。

『何を思い違いをしているか知らんが、誘ってきたのは女からだ。あの様に尻の軽い女だと判ったのは、正に僥倖だろう』
『何だと?!兄貴の前でも同じ事が言えんのかテメェ!』
『何故言えないと思うか俺には理解出来んが、夜刀兄者にあの低脳な女は相応しくない。夜の王たる兄者は宮様の友人であり、俺が教えを乞う師。然るべき家柄の娘を娶るのが世の道理だ。あの女では相応しくない』
『な、な、なん…っ』
『何より、しまりが悪かった。あの器で耐え忍ぶ兄者が哀れでならない』

遠野夜人は人生で最も怒り狂った。男を引っ掛けるのも忘れて殴り掛かり、蹴り掛かり、それはもう暴れまくった。

『ちったァ避けろ愚か者がァ!』
『俺は弱くない。何故ならば宮様の蝉だからだ。故に逃げる事は有り得ない』
『テメェ、心底舐めやがって…!』
『何を言っている?俺は飴以外を舐める事はない』

何を考えているのか夜人からされるままだった男は、何の抵抗もしなかったが表情一つ崩さなかった事だけは忘れない。切った口元から血が滴ろうが、骨が折れる様な音で我に返った夜人が狼狽えようが、痛いともやめろとも言わなかった男だ。どんなに綺麗な顔立ちをしていようと、気味が悪いだろう?

「確かに俺は結構な面食いだけど、顔が良ければイイってもんじゃねェ!中身がスカスカな男と黙ってる事が格好良いと思い込んでる唐変木は、対象外だ!」
「そうか」
「何で笑ってんだ?」
「ふ。私がお前の対象外じゃなかった事を喜んでいるんだ。ミラージュは見つからなかったが、生涯の伴侶を見つけられた」

恥ずかしげもなく宣う美貌に溜息一つ、奪われたままの形見を取り戻す。覚えてもいない両親の形見を感慨深く眺めるような繊細な心を残念ながら夜人は持っていなかったが、これは夜刀から貰ったもので、嫁ぐ時に持ってきた唯一のものだ。
夜刀が婚約者と結納の話をしている姿を見たくなくて、レヴィの求愛に答えた時は半ば自棄だった。今ではその時の自分を褒めたい気持ちだが、もしあの時、夜刀が独り者だったら夜人がアメリカへ渡る事は絶対になかったと思う。無理矢理拉致されてもきっと、死に物狂いで家へ帰ろうとしただろう。

「何を考えている?」
「…ん、兄貴元気にしてるかなって」
「お前は余程嫉妬に狂う私の顔が見たいらしい」
「はァ?今の何処に嫉妬する要素があったよ」
「知っているかナイト、私が日本を聖地と定めた理由を」
「へ?俺や龍一郎達の故郷だからじゃないのか?」
「違う。再びあの国へ踏み込めば、恐らく私は夜刀を殺すからだ」

駄目だ。この男は麗しい笑みのまま、一体何をほざいているのか。

「私はお前以外を愛した事がないのに、どうしてお前はそう何人もの男に目移りするんだ」
「おい、人を尻軽みたいに言うな。否定出来ない時もあったけど…」
「私がどれほど我慢していると思っている。お前と関係した男を片っ端から消してやりたい所を、寛容な心で我慢していると言うのに」
「付き合ったのも結婚したのも、後にも先にもお前だけだって言ってんだろ。お前こそ嫁さんいっぱいいただろ、俺ばっか責めんなょ」
「妬いているのか」
「や、別に。昔の話だし…」
「ほう。お前は愛しい私が他の女を抱いていたと言うのに、嫉妬もしてくれないのか。お前は私に抱かれながら夜刀の事を片時も忘れず、私だけがお前を愛していると言う事だな」
「言い方」
「やはり、殺すか…」
「コラ!兄貴は俺の大事な人なんだから仕方ねェだろ?!」
「成程、私と夜刀が倒れていてもお前は私を見捨てて兄を助ける訳だな。私達には既に三人も息子がいるのに、私達を捨てて夜刀の元へ行ってしまうのか。私は寛大な心で耐えるだろうが、オリオンはどうだろう?シリウスは?ナインは頼りない視界でお前を探し、足元の障害物に気づかず転んでしまうかも知れないが、その時お前は他の男と愉しんでいるのだろう」
「大人げねぇえええ!!!」

ああ、社員全員に見せてやりたい。神と崇められる男はこんなにも心が狭い、嫉妬の塊だ。然程表情が変わらないから冗談の様に聞こえるだろうが、レヴィ=グレアムは基本的に冗談を言わない男だと誰もが知っている。欲しいと言ったら宇宙でも手に入れる男だ。

「何とでも謗らうと良い。私は浮気など考えた事もないが、お前は簡単に私を捨てて他の男を選ぶのだから」
「レヴィ、俺もそろそろ怒るぞ」
「心の狭い私はお前が逃げようとすれば、必ず連れ戻すだろう。怒り狂おうが泣き喚こうが知った事ではない。手足を切り落とせば思い悩まずに済むと理解しているが、オリヴァーやテレジアにもそれに関しては諭された」

ぎゅむっと抱きしめられながら囁かれた台詞に、組織内調査部長は全身から血の気が引く音を聞いた。この無表情で地下に広がる断崖から、罪人を躊躇いなく落とせる男だ。時間が惜しいと昼食代わりのスコーンを齧りながら、『生きて帰れた暁には自由を約束しよう』と宣って、底が見えない奈落へ突き落とす。無論、戻ってきた者はいない。

「この命に代えても、お前を兄の元へは帰さない。いや、他の誰の元へも」
「…」
「相手の男は最終的に殺す事になるだろうが、私に歯向かった事を存分に後悔させた上で裁こうと思っている。目の前でたっぷり私達が睦み合う姿を見せつけたい。触れたくても触れられないお前の痴態に苦痛を感じながら、嫉妬を憎悪に塗り替えた目で男は私を睨むだろう」

少なくとも千メートル以上はあるだろう地球の中枢へ落とされれば、研究者曰く『木っ端微塵』または『落下中に窒息死』または『運良く意識があっても地殻到達後に消し炭』らしい。格子もなく見張りもいない死へ一直線の監獄は、アビスと呼ばれている。

「アビスへ落とす寸前までたっぷり絶望を味わせ、気が済めばアビスへ開放してやる。生きて戻れば自由だ」
「ヒィ」
「何を面白い顔をしている?今のはほんの冗談でもなんでもなく、本音だぞ?それだけの事を為す権力と嫉妬心が私にはある。ふ、まだまだ若いな」
「リ、リバイさん、冗談がお上手になりましたねィ…」
「私以外の人間がそう呼べばアビスへ落としている所だが、お前が呼ぶと大変愛らしいな。喉が枯れるまで呼んでくれ」
「お前、ちょっと機嫌悪かったりする?」
「お前が私に黙ってこんなものを隠し持っていたから?」
「やっぱり」
「私はお前の事は全て知りたいと望んでいる。知らない事は耐えられない」
「俺だって、今の生活がなくなるのは耐えらんねェよ。ハーヴィも龍一郎も龍人も大切だし…」
「何故そこで真っ先に我が名が出ない」
「あのなァ、流石に餓鬼共にまで妬いたりすんなよ?」

本当は余りしたくない真似だったが、すりすりと頬を擦り寄せれば抱き締めてくる腕の力がほんの少し弱まった。機嫌が悪く拗ねているだけかと思ったが、どうも様子が可笑しい気がする。確かにレヴィの嫉妬は凄いが、今日は常になくねちっこいからだ。

「何かあったのか?そう言えば、レイリーが戻ってきたんだろ?」
「…ああ、もう耳に入っているのか」
「オリバーさんと難しい顔して話し込んでたって、昼飯持ってきてくれた子から聞いたんだ」
「区画保全部には随分口が軽い社員が存在するらしい」
「レヴィ。判ってんだろ、俺が組織内調査部長だからだ」
「それ以前に私の伴侶だからだろう。メアに嘘をつく者は少ない」
「盗み食いした大福を食ってないって惚ける双子には心当たりがあるけどな」
「リリアの行方が判ったんだ」
「…へっ?リリアって、確かお前の」
「リヒャルト兄上の娘だ。屋敷が襲撃された夜、私と共に逃げ落ちたが離れ離れになってしまったままの、姪」
「本当かよ?!良かったな!」

本心から言えば、困った様に笑った男は曖昧に頷いた。ダークサファイアの瞳は相変わらず涼しげだが、夜人には微妙な表情の違いが判る。

「レヴィ?」
「亡くなっていた」
「は?」
「生きていれば四十と少しだが、…若過ぎる」

やっと見つかった家族が、居なくなっていたなんて。どれほど悲しいのだろう。離れていても夜人には夜刀がいるけれど、レヴィにはもう、いつ死ぬか判らないハーヴェスト以外に血の繋がった家族はいないと言う事だ。どう言葉を掛ければ良いのか、夜人には判らなかった。

「紆余曲折があったのだろう。私と共にロンドンを離れてから、数年後にカンタベリーの修道院に拾われた様だ。然しそこで暫く過ごし、宣教でやってきた神父と共に巡礼の旅へ出たらしい」
「そっか」
「暫くはイギリス各地を巡っていた様だが、神父が病に倒れると間もなく出産した様だ。当時の事を覚えていた人間から証言を得ている。エディンバラに死んだ神父の墓が残されていたが、修道女の身で出産したリリアの姿はなかった」
「父親はもしかして…」
「恐らくは。リリアにはリヒャルト兄上から預かったロザリオを巻きつけていたが、そのロザリオがエディンバラに残っていた事で足跡が判明した。拾われた修道院では、狼に育てられた娘と呼ばれていたらしい」
「狼…」
「数年懸かったが、リリアが死んだのはストラトフォードだと判明した。ロンドンから然程離れておらず、幼い子を抱えて娼婦紛いの真似までしていた様だ」

どうしてもっと早く見つけてやれなかったのか。悔やんでいる様な声音だったが、イギリスを離れた後のレヴィにも様々な苦労があった事は、聞かずとも判る。
ヴィーゼンバーグの追手から逃れる為にアメリカへ渡り、一人で英国王室に対抗出来る力を蓄えたのだ。生きる事に必死だった彼が、手放してしまった姪の事を忘れた事などなかった筈なのに。

「それで、その子は?」
「リリアが死んで間もなく、精神を病んだそうだ。己をリリアだと思い込み、子がなかった子爵の元に養子として迎えられている」
「貴族の?」
「歌が上手い娘だった様だ。物心つく頃には酒場で歌い、成長すると劇場で歌っていたそうだがリリアの死で精神を病んでからは、人前には出ていない」
「迎えに行ってやろう」
「門前払いだったそうだ」
「は?」
「ライオネル=レイに従わない、質の悪い男に囲われている。ステルスの名が効かない国は随分減ったと思っていたが、社会主義が根づいたナチスは例外だ」
「ナチス?!」
「ああ。リリアの娘は、シュヴァーベン領を治めているエテルバルド伯爵家へ嫁いでいた。爵位を継ぐ筈もない次男だが、何故か数年前に長男を差し置いてヘルを叙爵し、領地を兄に押しつけアウグスブルクへ屋敷を構えた」
「つまり、…どう言う事?」
「爵位を継承する以前は、若くして財を築いた男だった。私が見聞するに、長男は後継に相応しくない男だったのだろう。エテルバルドには他にも何人か子供がいる様だが、次男は素性の知れない平民の子だ」
「でもそいつが伯爵になった?」
「理由は定かではない。前伯爵は夫人と共に、馬車の事故で亡くなった。長男の継承が妥当な所だが、継いだのは次男だった。そしてその男は、子爵の娘を迎え入れた。それがリリアの娘だったと言う事だ」
「諦めるのか?」
「娘は私の存在を知らない。それ以前に、…会話が出来る状態なのか」
「何でこう、この世には難しい問題ばっかなんだろうなァ」

ロザリオ。十字架。人間は誰もが磔にされてるのだろうか。まるでイエスキリストの様に、明日には断頭台の上かも知れない。底知れないアビスの穴は、目に見えないだけで、本当はすぐそこにも。

「…俺は諦めねェぞ。ハーヴィの手術の目処がついたら、行くぞナチスドイツ」
「ふ」
「ん?」
「お前ならそう言うだろうと、アシュレイ兄弟が既にスケジュールを組み立てている。オリオンとシリウスが超大型ビジョン作成に取り掛かっている事も、知っているだろう?」
「それが何だってんだ?」
「外で暮らしていたリリアの娘を迎え入れる為に、空を知らないナインの視力でも朝日を見る事が出来る様に。優しい息子達は、バースデイプレゼントで与えたラボを早速使い倒してくれている」
「はァ。確かに、ランプや電球じゃ空には似ても似つかねェもんな。死人が出なきゃイイけど…」
「シリウスはともかく、オリオンはそこまで無茶はしないだろう」
「馬鹿野郎、龍一郎が一番信用出来ないんだ」
「いや。あれはテレジアの目がある所では、比較的素直だ」
「は?…え?マリアさんの目って、え?えっ?ちょ、まさか、でもマリアさんは…っ!」
「良い機会だ。思うのは勝手だが、私はお前以外を愛せない。オリオンがテレジアを娶れば、お前に嫉妬させる事もないだろう」
「いや、だからしないって」
「何故しない」

この男は駄目だ。
落ち込んでいたかと思えばもういつものペースに戻っている。知っていたが、心配するだけ無駄だったのだ。

←いやん(*)(#)ばかん→
[戻る]


あきゅろす。
無料HPエムペ!