帝王院高等学校
在りし日に散った泡沫の破片
「お帰りなさい」

今日は機嫌が良いのだと、看護師役の誰かが言った。
白衣を纏う医者ではない他人を他に表す言葉を、残念ながらあの時の己は知らなかったのだ。

「ただいま、イブ。どうしたんだい、楽しそうだね」

真っ白な部屋の壁だけが赤褐色に染まった部屋の中、『キング』の迎えを待つ姫様気取りの女だけが青白い。

「さっき、久し振りにエアリーが来てくれたのよ。昔のままだったわ」

何を言っているのだろうか。どうせ尋ねるだけ無駄だ。
彼女は己の手元しか見ていない。それは会話ではなかった。つまりは、独り言。

「昔のままって変よね。でも会ったのは夢の中だったから、何も可笑しくないでしょう?ふふっ。エアリーったら、パパとお別れして部屋に閉じ籠る私の手を掴んで、窓から連れ出そうとするのよ。大変よね。ママに見つかったら私が叱られちゃうのに」

何の歌かも知れない鼻歌交じりに、ベッドの上で人形遊びをしている女は乾燥した蜘蛛の巣の様に絡んだ赤毛をそのまま、『イブ』と名づけた女体の人形と『アダム』と名づけた男体の人形を、キャスターのついたベッドテーブルに並べている。

「エアリーはウェールズの伯爵なの。曾祖父様と祖父様は、イギリス議会の議員だったのよ。お父様は執事を養成する学院を営んでいて、王室御用達なの。ロンドンに大きな御屋敷があるそうよ、でもイングランドには戻らないんですって」

丁度戸口から覗き込んだ瞬間に聞こえてきた『お帰りなさい』の台詞は、孤独なままごとのシナリオの様なものらしい。彼女の一人遊びはいつも違う。

「そうだね、イングランドはヴィーゼンバーグの支配下だ。グレアムを迫害した猫には、お仕置をしなければいけないね、イブ」

看護師兼医者役の社員から許可が出た玩具は、その日の内に用意されるそうだ。
然しどの玩具も興味がなくなれば捨てられて、興味がなくなった女は暫し動かなくなり、眠ってばかりの日が続く。起きている日数の方が少なくなったからか、今では四六時中の監視はついていない様だ。

「だけどアダム、エアリーは狡い子よ」

真っ白な部屋。
廊下を歩く誰もが白衣を纏っているが、部屋の中の女だけは薄い桃色のパジャマを着ている。最後に見た時と同じ服だったが、この数日は寝たきりだったと聞いているので、着替えていないだけなのかも知れなかった。

「ほう、どうして狡いんだい?」

ああ。確かに、機嫌は悪くないらしい。
歌う様な女の声音が、アダムと思わしき低めの声で尋ねている。

「陛下の愛を手に入れた癖に、お姫様から王子様を奪ってしまったの。シスターはずっと泣いているわ。どうして?どうして?どうして?」

今日はいつもより饒舌な様だ。耳障りな悲鳴を上げないだけ、正気に見えない事もない。けれど、それだけだ。恐らく会話は通じない。会話が通じるのは、耳障りな叫び声を上げながら、憎悪を込めた目で『お前など生まれて来なければ良かった』と、ひたすら繰り返している時だけ。

「可哀想よ。なんて可哀想なの、シスターはあんなに美しくて、とても優しいお姫様なのに。王子様はお姫様と幸せにならなければいけないのよ。だってどの物語にもそう書いているんだもの」

誰の問い掛けにも応えず壁を生爪で掻いている時よりは、ずっと正気に見える。

「エアリーは物語を歪めてしまったのよ。だから狡くて悪い子なのよ。あの子はお姫様が欲しくて堪らない癖に、自分が穢らわしい生き物だって知っていたんだもの。エアリーは賢いのね。でも弱くて狡い、卑しい悪魔の血が流れてる…」

サラ=フェイン。現在このエリアに収容されている患者は、彼女だけだ。窓には防弾硝子が嵌め込まれ、区画保全部が『雨』と示した日以外は開放されているけれど、窓の向こう側には鉄格子も嵌め込まれていた。彼女はこの部屋から出る事を許されていない。己の息子の目を、万年筆で突き刺そうとしたその時から。

「エアリーは罰が当たって死んでしまった。シスター=テレジアの幸せを奪って、私の邪魔をしたんだから当然なのよ」

彼女の眼差しは人形に向けられたまま、あれほど身嗜みに気を遣っていた過去が嘘の様だ。何日もベッドの上で、何日も繋がれた点滴には『抗うつ剤』と記されている。彼女は死ぬまでこの部屋で、ずっと変わらない日々を暮らすのだろう。

「良い気味。私は知っていたわ。あの子が幸せになれる筈がないって、ずっと前から…」

コードを持たない教育係は言った。
あの女に会うのは貴方の為にならないのだと。けれど彼の目を盗んでやってきた理由は何だろうかと考えても、答えはない。目の前の女が「母」だった事など一度としてなかったけれど、ならば他にどう呼ぶべきなのか。

「だって、皆を裏切ったんだもの」

着せ替え人形の服が、シーツの上に散らばっている。
服を着ていない人形が2つ転がっていて、そのどちらも赤毛の女体だ。綺麗に着飾っているテーブルの上の「お姫様」だけが金髪で、その瞳は鮮やかな青だった筈だが、狂った女が油性マジックで黒く塗り潰してしまったそうだ。

「陛下はまだかしら。良いわ、私はずっと待っているもの。イブみたいに泣いたりしない。レディは取り乱したりしないものよ。パパが言ったもの。良い子で待っていれば、また会えるのよ。そうでしょう、アダム様…」

彼女は「王子様」にキスをした。
機嫌が良ければ起きている女は、日中はこうしてずっと独り言を繰り返している。彼女が待ち続けているキング=ノア=グレアムは決して立ち寄らない、キャノン=テイターニアの中庭にある施設は『檻の入口』だ。黒こそ尊い皇国で、この施設だけは全てが白い。
元は創設者であるレヴィ=グレアムが屋敷を構えていた場所らしいが、現皇帝に政権が移ると屋敷ごと宮殿に取り込まれた為、この場に建っていた建物はそっくりそのまま姿を消している。

『貴方が過ごしていらっしゃる場所こそ、マジェスティ=キングがお生まれになった屋敷でございます。今ガーデンに残されているのは、当時屋敷に併設されていた侍従用詰所でした。今や区画保全部が管理しています』

教育係が初めに説明したステルシリー施設の中に、この建物についての概要があった。

『坊ちゃんには無用の場でしょうが、役目は主に2つ。一つは、キャノン入場権限を持たないランクCの休憩所兼医療施設として。一つは、アビスプリズンへ続くゲートとして』

サラは監獄の入口でのみ生きる事を許されたのだ。
彼女が待ち焦がれる皇帝は、決してやって来る事はない。

「…ああ。此処は、懲罰棟の様なものか」
「アビスゲートへようこそ、殿下。点滴の取替を行いますので、失礼致します」

この世界へやってきて何日経ったのだろう。いつか毎朝取り替えられていた包帯は、この世界では必要ない。遥か彼方頭上に敷き詰められた巨大なスクリーンに映る空にある太陽は、偽物だ。

「何をするのエヴァグリーン」
「名前で呼ぶのはやめなさい。点滴が終わる前に報告をしろと言ったでしょう、サラ。子供ではないのだから覚えて」

やって来た白衣の女は、区画保全部の社員だろう。軽口を叩いている所を見ると、患者とは親しい間柄らしい。然し表情は能面じみていて、へらへら笑っているのはサラだけだ。

「どうしてこんな所に居るの?医者なんだから、ロンドンに帰れば良いのに」
「針は取替える必要がないので、外さないで」
「貴方、エアリーの家庭教師だったんでしょう?狡い女にはお似合いね。ネグロイドの癖にコーカサス振っているのは、哀れよ」
「終わりました。次は薬剤が尽きる前にコールする様に、サラ=フェイン」
「っ、余計なお世話よ!出ていって!」

ああ、まただ。
コードを持たない女はランクを持たない為に、この世界では名無しのランクDと立場は大差ない。だから窓の向こうに見える、聳え立つ漆黒の宮殿に立ち入る権利もなく、愛する男に会う権利もない。
どれほど願い続けようと、皇帝たるキング=ノア=グレアムが姿を現す事など有り得ないのだ。

「相変わらず、大きな声が聞こえる」
「これは、ライオネル=レイ!何故この様な場へ…?!」
「良い良い、楽にしろ」

サラに怒鳴られても顔色一つ変えなかった女が、左胸へ手を当てた。
ぽんと肩に置かれた大きな手に目を走らせれば、高い位置から見下ろしてくる男の青い瞳とかち合う。髭を生やした口元に笑みを描いた男の顔には、見覚えがあった。

「随分懐かしい顔だと思った。成程、お前がルークだろう?」
「…初めてお目に掛かります、マスターライオネル=レイ」
「3歳児の癖に、儂を見て怯えんとはな。どれ、陛下のトイレを占拠してネルヴァの頭を痛めた面を見せてみろ」

誰かに似ている気がする。
誰だったかと暫く逡巡していると、肩に乗っていた手がグイッと顎を掴んだ。

「何だ、エンジェルには全く似とらんわ」
「…エンジェル?」
「ああ、まだ会ってないのか。アシュレイを取られたと、先週大騒ぎしていたが…いや然し、見れば見るほど陛下にそっくりだ」
「お戯れを」

強引な手を振り払いながら呟けば、目を丸めた男は払い落とされた右手を何度か見つめ、からっと笑った。対外実働部部長である事は知っていたし、区画保全部の女が目を見開いたのも判ったが、構う事はない。

「悪かったな、『ナイトの息子』に興味があっただけだ」
「…」
「ふ。そう睨んでくれるな、他意はない」
「…」
「何だぁ、無口な子供だわ。オリオンですらもう少し騒がしかったものだが、今の餓鬼はどいつもこいつもこんな感じなのか?だったらさっき儂に出会い頭に蹴りを入れてきた山賊の様な餓鬼は、餓鬼の姿をしたケダモノだったのかも知れんな」
「…」
「いや、これは失敬。今のはジジイジョークだ。果てしなく広がるウユニ塩湖の様な目を向けないでくれるか、年寄りのハートは存外脆いからな」

ガシガシと頭を撫でられて、髪が幾らか乱れた。
一言で言えば『喰えないジジイ』だが、当時はそんな台詞は知らなかった。本能で祖父に似ている様に思ったが、当時の記憶では祖父と呼べる男は一人しか居ない。
何度か『じーちゃん』と呼んでくれとせがまれたが、一貫して『お祖父様』と呼び続けた為に、随分落ち込ませてきたと思う。こうなる前にどうして一度くらい、望みを叶えてやれなかったのか。
過ぎた時間は戻らないのだと、今はもう知っている。何度となく逃げ出そうと企んだが、この広大な世界は果てが見えない。中央区の正確な広さすら知らない赤子に、何が出来るのだ。

「違うか。お前は儂が憎いのだろう?対外実働部長でありながら、此処に居る儂が」
「…」
「帝王院秀皇の件は聞いている。ナイトの御身は対外実働部が探さねばならない案件だが、聖地への上陸許可が降りなければ不可能だ」

目の前の男とは違って、ノアに会う権利もない。世界各地を飛び回る事などどう足掻いても無理だ。太陽の下を満足に歩けない哀れな子供に、世界は果てしなく厳しい。

「…余計な真似は為さらぬ事だ。父上に仇なすおつもりであれば、私はそなたを決して許さない」
「くっく。威勢が良いのは感心するが、今のお前にそれだけの力があろうか?」
「…」
「だがまぁ、想定内だ。古今東西、侍魂を捨て切れない日本人は恐ろしい。黒を崇拝するステルスに、日が昇る極東の民が混じれば化学反応が起きない筈がないだろう?」

教育係の目を盗んで動き回れる範囲も高々知れている。
母親の病室へやって来るまで、実際こうして何週間も懸かったではないか。そうだ、まだ知らない事が多過ぎる。英語ですらそうだ。まだ辞書を流し読んだだけで、日本語しか喋らない大人達に聞かせた事はなかった。

「帝王院神威だったな。今はまだ仮初の銘がギャラクシーに届くか、よもや黒を統べるか。儂は心底、お前に期待しているぞ」
「…期待?」
「ああ。お前は『豊穣』よりも『光』に似ているからな。まぁ、主に髪型だけだが」

知らなければ何も出来ない事を嫌でも思い知った。まして神を殺す事など、あと何週間あれば可能なのか。顔を見る事すら嫌悪感で吐き気がするのだから、予想も出来ない。
祖父である駿河よりずっと年上だろうライオネル=レイは終始笑顔で、わざとらしく近づけていた顔を遠ざけた。サラに聞かせない様に声を潜めていたのか、単に気紛れなのか、良く判らない。

「土産をやりたかったが、先刻言った通り追い剥ぎに蹴り取られてしまってな。今回の所はこれで退散するとしよう」
「私には、枢機卿に目通りを願う権利はございません。次回などあろう筈も」
「かーっ、可愛げのないお子様だ事ッ!次に会った時はそっちから小遣いをねだる様にしてやるから、財布洗って待っていろ!」

またガシガシと頭を鷲掴まれて、押しつける様に撫でられた。振り払う前に離れた手が、ひらひらと宙でそよぐ。

「何だ、堅苦しい日本語を使う癖に『無礼者が!』とは言わんのか?」
「私が邪魔なのであれば追い出せば良い」
「儂が、お前をか?職務規定違反だな。対外実働部にそんな権限はない」
「…世迷いごとを」
「出来ん事の方が圧倒的に多いくらいだ。残念だったな、小僧」

最悪だ。
帝王院秀皇の息子に興味があったと言う事は、先程の『陛下にそっくりだ』と言う台詞とはどう考えても符合しない。現在の円卓で最重要ポストにあるライオネル=レイは、元老院監査の右元帥でもある為に、元老院にも近い位置にある。
元老院がサラ=フェインの扱いに頭を痛めている事は教育係のアシュレイから聞いているが、秀皇の息子とキングの息子では、今後の扱いに違いが生じるのだろうか。

「第一、儂がノアのトイレを占拠すれば特別機動部の魔王から首を刎ねられるわ」
「…」
「またな、皇太子殿。余りアシュレイを困らせてやるなよ、奴は儂よりハートが脆い男だからな」

かっかっかと快活に笑う男は、ベッドの上で再び人形遊びを始めた女を一瞥し、意味深な笑みを零して去っていった。
結局、何をする為にやって来たのかまでは判らない。彼が言った台詞を丸々信用した訳ではないが、値踏みする為にやって来たのであれば、もっと早くに呼びつければ良いだけの事だ。何せあちらは対外実働部長で、こっちは日本からやって来たばかりの部外者なのだから。

「…それでは失礼します、殿下」
「私に構う必要はない。区画保全部には恨まれていると聞いている」

金髪の悪魔の顔を見たくないばかりに篭っていた部屋は、どうやらトイレだったらしいが、運び込んだ本を読み終える前に新しい部屋を用意されていた。あれ以上篭っていてもあの男には何の効果もないと判っていたから、外へ出たのだ。
その騒ぎで、区画保全部が駆り出された事は教えられていた。皇帝たるマジェスティノアのトイレが使えないのであれば、社員が狼狽えるのも無理はない。数時間で新たなトイレと子供部屋を作り上げた区画保全部は、社員総出で増改築に追われた様だ。

「…私が誰の子か判った所で、何が変わるのか」

どうせこの世界には、何処にも外など存在しない。
紫外線が存在しない地下帝国には、紫外線の影響を軽減する目薬も、免疫力を増幅させる投薬もあるそうだ。然るべき年齢に達せば、太陽の元で生活する事も出来ると研究者は言った。
例えば今より成長し、ステルシリーに逆らわず従い続けてランクを与えられ、コードを手にすれば。

「ねぇ」

この部屋にはベッド以外のものが殆どない。
カーテンもなければ、筆記用具も撤去されている。武器になりそうな一切がない代わりに、彼女は『生きる事だけ』を許されたそうだ。他には何も、許されていない。

「ねぇ」

人形の服を弄る女の目が、瞬いた。
パリパリとマジックテープを剥がす音がして、裸にされた王子様に興味をなくしたのか、人形を手放した女がゆっくりと振り返る。

「どうして喋らないの、ルーク」
「…ご機嫌よう、母上」
「キング様は一緒じゃないの?」
「…」
「どうしてお前だけ生きてるの。何でお前が生きているの」

まただ。
けれど今日は、まだマシだった。区画保全部が定例報告で『機嫌が良い』と宣う程には、いつになく。穏やかな声音と言うだけだ。

「あの子は血液型が違っただけで、死ななければならなかったのよ。あの子に謝るべきだわ」
「…申し訳ありません」
「のうのうと生き永らえたルーク。お前とあの子に何の差があるの。私を母と呼ばないで頂戴、穢らわしいナイトの子…」
「…」
「ふ。ふふ、くふ、ふ、ははは」

ああ、それももう間もなく終わる頃だ。
判っていた癖に何故、足を運んでしまったのか。姿を現さなければ、『母体が会いたがっている』などと言う区画保全部の報告を、アシュレイが決して言わない理由も判っている癖に、何故。

「壊れた子。アルビノじゃなかったら死んでいた癖に。アルビノだったから産声を上げる前に連れていかれた子。私はお前は抱かなかったのよ」
「存じ上げております」
「私が抱いたのはあの子だけ」

知っている。
サラは日本に居た頃から繰り返し、帝王院秀皇や榛原大空の目を盗んでスコーピオへやって来ると、虫を見る様な目で繰り返した。お前は身代わりだと。大切な子供は『あの子』だけだと、何度も。何度も。

「…っ、善人面した秀皇に臍の緒を渡されたわ!忌々しい、本当は何も彼も判っている癖にあの男、陛下に告げ口したのね…!だから私があの子を殺した事を知っていたんだわ!きっとそうよ、『死産だったのは残念だ』なんて、なんて白々しい…!」

そう、今の様に。

「お前が医者を騒がせなかったら、秀皇に見つかる前に殺したのに!あの子のタグをお前のAB型と取り替えてさえいれば、あの子を捨てずに済んだのに!ああ…あああ…私が!私が、私が私が私がぁあああ、私があの子を殺したぁあああ!!!!!」

構う事はない。
用が済んだ区画保全部の誰もが、もう付近には存在しない。神たるノアですら対応に難儀している『アルビノの子供』の周りには、教育係のアシュレイ以外は近づいてこない。だから部屋の戸と窓を閉めてしまえば、真っ白な部屋は完全防音の密室だ。

「返してぇ…!わた、私の赤ちゃん、陛下の赤ちゃんを返してよぉ…!」
「…」

投げつけられた着せ替え衣装が頬や額に当たっては、ポトリポトリと落ちていく。帝王院神威には同じ日に産まれた弟が居る事は、既に秀皇や大空も知っている事だ。けれど帝王院帝都に知られてはならないのだと、何度も言い含められている。
正気である時間の方が短いサラも本能で理解しているのか、こうして騒ぐのは憎いアルビノの前だけだ。

「…気が済むまで吐き出せば良い。如何に嘆こうと、過ぎ去りし日は戻らない」

だからこの部屋にやって来なければ、彼女は寝ているか、一人で遊んでいた筈なのに。とうとう持ち上げられるものがなくなった女は、丸めたブランケットを投げつけてきた。この半年近くベッドの上で暮らしているからか、既に息が上がっている。随分苦しそうだ。

「はぁ、ぜぇ、はぁ、お前さえ生まれて来なければ…!」
「…」
「あの方がっ、彼が居なくなってしまう筈がないのに…!」
「うっせぇなぁ、泣いてんのか叫んでんのかどっちだよ」

閉めたばかりの窓がガラリと滑り、鉄格子の向こう側からひょこっと真っ赤なそれが飛び出してきた。

「やっぱ女だった」

紙袋を片手に、ホットドッグの様なものを貪りながらダークサファイアの瞳で覗き込んでくる。

「あ?何だお前、何で布団なんか被ってんだ?」
「っ、誰!」
「誰だと?お前、もぐもぐ、女の癖に身嗜みも出来ねぇ奴が人に名前を聞くんなら、まず先に名乗りやがれ」
「失敬な…!私を誰だと思っているの、貴方!」
「知るかバーカ。ボケ。タコ。イカ。サバ。いんきんたむし」
「っ、な…?!」
「馬鹿そうな顔の癖にクイーンズイングリッシュなんか喋りやがって、もきゅもきゅ、お前はイギリス人だろ!ジジイから聞いて知ってんだからな!イギリスのプリンはウンコの味がするんだろ!」
「な、なん、ななな…!」
「ウンコなんか食べてるからボサボサ頭になるんだよ、ブース!」

ホットドッグを慌てて頬張ると、猿の様に鉄格子を掴んだままひょいひょいと登ってきた赤毛は、爪先で鉄格子の隙間から窓を少しずつ開くと、息を吸い込んで叫んだ。『ブース!』の部分だけが鼓膜を突き破らんばかりに響き渡り、慌しい足音が遠くから近づいてくる。

「そこで何をなさっておいでですか!」
「此処は立ち入り禁止区域だとご存知でしょう?!」
「Shit、面倒臭い奴らに見つかった。お前の所為だぞブス女!ババアもお前もめそめそ泣いてんじゃねぇ、ばーか!どうせお前も男に捨てられたんだろ!ターコ!」
「降りて下さい殿下!ライオネル卿に飛び蹴りをなさったとは何事ですか!」
「ベテルギウスとアルデバランを呼びますよ!」
「何だと?!区画保全部の癖に命令すんな、ばーか!象形文字も読めない低脳がチクったらぶっ飛ばすぞコラァ!」
「また、そんなはしたない日本語をお使いになられて…!」
「もう我慢なりません、今夜の食事のデザートを減らしますよ!」
「そんな事したらジジイの髭燃やすぞハゲ!バーカ!バーカ!お前ら全員シね、バーカ!」

冷静である事を求められているステルシリー社員が声を荒らげ、たった一人の子供を数人で追い掛けて行くのを見た。子供の悪口に呆然としているベッドの上の女は、わなわなと震えたまま、泣く寸前の表情で唇を噛んでいる。

「母上、お気になさらず。分別のない子供の言う事です」
「…そうね、子供…そう、判っているわ」

だが然し、年頃の変わらない子供が居るとは思わなかった。今のが誰なのか調べておく必要があるかも知れない。殿下と呼ばれていたからには、コード持ちの誰かの子供か、またはあの子供自体がコード持ちである可能性がある。
何処まで話を聞かれたか判らないが、口止めをする方が首を絞める結果になるだろうか。判断材料が余りにも少ない。

「ルーク」
「…はい?」
「帰って頂戴」
「ですが母上」
「疲れたから、休みたいのよ…」

久し振りに、本当の意味でまともな彼女を見た様な気がした。
日本に居た頃は、思い出した頃に会いに来ては繰り返し呪いの言葉を投げつけたが、最後には泣きながら『許して頂戴』と謝った女は、その時だけ手を握ってきた。抱き締められた事など一度もないが、だからと言って触られた事がない訳ではない。
殺されそうになった事はあるが、こうして今、生きているではないか。

「畏まりました。それでは、」
「貴方はもう、此処へ来ては駄目。私はまた、貴方に酷い事を言ってしまうわ」

聞き飽きた。
それでもまた、どうせ同じ事を繰り返すに違いない。カレンダーの中だけでは初春がやってきたと言うのに、一年中過ごし易い温度で定められているこの国には、変わらないものの方がずっと多いからだ。

「…そして、何があっても決してノアに逆らわない様にしなさい。主は恐ろしい方よ。ゴルゴタの丘に向かう息子を助けず、天国への道を示した神の様に」
「…」
「神は我が子を殺したと、聖書に記されている。弟子は殉教こそが天への道だと信じたけれど、誰がそう言ったのかしら…」

静かな声音だ。狭い世界の狭い建物の狭い部屋に閉じ込められて、永遠に自由を許されない監獄の患者は、死ねばアビスへ落とされるのだろうか。罪人が落とされるアビス監獄の入口と言われている建物には、然しそれらしき扉は何処にもない。
アビスとは深淵を指す言葉だと学んだ。地下の更に奥深くには、地球の核がある。燃える様に赤い、マグマの海だけが。

「ノアは自分の命すら躊躇わず消す方よ。私だけは、あの方の恐ろしさを知ってる…」
「お戯れを仰らぬよう。防音とは言え、誰の耳に入るか知れません」
「………そうね。貴方は賢く育っているわ、私とは大違いよ」

狂った女はまた、子供に会いたいと泣くのだろう。
手元に残してやれなかったもう一人の子の面影を探す為に、見たくもないアルビノの姿を探してしまう。


「お休みなさいませ。…良い夢を」

そしてそれが、彼女が彼女だったと思われる姿を見た、最後だった。

←いやん(*)(#)ばかん→
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