帝王院高等学校
女性の腹黒さに男は長年怯えてます
「お帰りなさい、天守」
「…此処は常世か」
「いいえ、残念ながら現世です」

目覚めると、世界の音が変わっていた。風が凪いだ世界は静かだ。

「すっかり姿が変わってしまったな、狐の子」
「貴方ほどではありません。艶やかでしょう、今の私は」
「梅にも桃にも似ているが、桜だな。どれほどの血を吸えば、そう鮮やかに咲き綻ぶのだろう」
「私は帝のお帰りを待ち続けます」
「…富士は堕ちた。最早あの山に仏はいない」
「貴方の家族は?」
「…家族?私にそんなものは初めからないだろう?」
「…そうですか。貴方は絶望を捨てたんですね」

煌びやかな都だった。
それは今も何一つ変わっていない筈なのに、今はどうだ。

「妖怪も仏も居ない、静かな世界。そして帝もまた、お隠れに…」
「もう良い、お前は静かに咲いていろ。平和な世に、物怪の子は必要ない」
「陽が落ちました。東屋の犬と狼は、神の依代となったのです」
「…」
「ゆめゆめお忘れなきよう、天守様。私は狐の子でしたが、貴方は狼の子」

闇に落ちた太陽の国は今、新たな空を出迎えたけれど。

「私達は、宮様の信頼を得られなかった同士。私の体は間もなく散りゆき、富士から流れる安倍川を揺蕩うでしょう」
「…お前が守護した都は、今後も残り続けるだろう」
「帝は死んだのでしょう。だから都から加具土命の庇護が消えた。いつか呪っていた我が身には今、何も残っておりません」
「お前は母なる仏の子ではない、狐の子だ」
「我が母は奈落の底に」
「…」
「そして我が父は、歩んではならない虚無への鳥居を潜ってしまった。貴方より先に、貴方と同じく獣の骸を抱いて」

昨日と同じ明日はとうとうやっては来なかった。そしてまた、今日とは違う明日がやって来るのだろうか。それとも。

「けれどあれは、本当に帝だったのでしょうか?」
「…何?」
「誰も信じず、御簾から出た事さえない彼の人に、富士の先へ往く覚悟などあろう筈もないでしょう」
「戯言を。帝はお隠れになられた。世にはもう、偽りの陽が昇るばかり」
「天守様。貴方は何を見たのですか?」
「…私は何も」
「ならば問いません。いつか光龍が踊った空はもう、鴉さえ羽ばたかない」

静かだ。
昨日と同じ今日の景色に、人以外が存在していない。

「笛の音を下さい。私が散るまで、ささやかな葬送の音を」

きっと失った幸せはもう、何処にも存在しないのかと。
















(猫)
(愛らしい、俺だけの黒猫)

(その本性が何であろうと構わなかった)

(綺麗なお前が綺麗な姿のまま)
(永遠に変わらないのだとしたら)



「此処は天国だね」



(神様)
(仏様)
(素足で登る雪山は凍える寒さだろう)
(優しい優しい神様)
(魂は此処にある)
(お前が抱いている狸が化けた黒猫は)
(ただの箱だ)


(輪廻からは逃れられない)
(…本当に?)


(二度と巡らない朝を探して)
(己の過ちに気づいてももう遅い)
(空っぽな体が死んだとしても)
(俺の魂は此処にある)

(永遠に変わらない時間軸の果て)
(輪廻を淘汰した虚無の手前で)



「永遠に一緒にいるんだ。消えず変わらず永遠に、だから」



(もういいんだよ)
(体なんかもう要らないんだ)
この子を二度と傷つけない為に
俺は来世を捨てる
絶望させてしまった愛しい魂を抱いたまま

(幸福に等しい絶望の底)
(時を止めたんだ)




(前略)
(死に逝く命を生み出す事しか出来なかった、哀れな神様)


(お前さんの代わりに時が死に逝く様を見守るよ)
(永遠の虚無に浸ったまま)
(繰り返される輪廻を眺めているよ)





「だから俺の代わりに、神様」










俺の体ごと死んでおくれ


















クリスマスパーティーの準備をする、と。
誰よりもサンタクロースをリスペクトしていそうな男は、真っ赤な髪をしゅるりと一纏めにしながら呟いた。今正に死地へ赴く侍の様な眼光だが、大量の買い物袋と箱を抱えている少年らは皆、一様に『やれやれ』と言わんばかりの表情だ。

「さーせん、副長。俺はこの辺で…」
「おう、急に呼び出して悪かったな。詫びになるか判らんが、荷台に乗せといたからプライムビーフ持ってけ」
「良いんすか?さっき飯もご馳走になってんのに、いつもスんません」
「流石にバイクじゃコストコに乗り込むのは無理だからな。タクシーに拒否られるとは思わなかったからよ、焦ったぜ。マジで助かった」
「副長にはチームから抜けた後も世話になってんス、また何かあったら呼んで下さい」

侍なのか調理師なのかいまいち判らない赤毛の男は、コックコートを羽織りながら先程降りたばかりの車の運転席に近寄ると、運転手と拳と拳を合わせる。

「総長に会っていけって言いてぇ所だが、仕事が詰まってんじゃな」
「宜しくお伝え下さい。あんだけ夜遊び息子って馬鹿にしてた親父が、配達中に見た総長のオーラに感銘を受けて、今じゃ近所にも客にも、うちの息子はカルマだって言い触らしてんですよ…」

呆れ混じりに呟く運転席へ、嵯峨崎佑壱は唇を吊り上げた。
中学時代には手がつけられないほど荒れていた男は、高校に通わないままニート状態で喧嘩三昧の生活を送っていたが、佑壱に喧嘩で負けてカルマを作り上げてから暫くすると、せめて高校は出ておきたいと一念発起する様になる。

「もう抜けたんだから勘弁して貰いてぇんですけど、俺の文句なんか聞きゃしねぇ」
「ケンの所も似た様な状況らしいぞ。ま、お前らが揃って社会って奴の一員になってんなら、カルマのお陰だって認められんだろ?俺も鼻が高い」
「相変わらず、なんすかその男気。やめて下さいよ、うちのババアも姉貴もユウさんに骨抜かれてんスから」
「は。親父さんは総長だもんな?」
「や、親父もユウさんに惚れてますよ絶対」

当時カルマ最年長組だった男につられる様に、高校受験を控えていた中学生メンバー数人も勉強したいと言い始めた。一年目は駄目だったメンバーも、二度目では『絶対無理』と言われていた高校に合格する事があり、悪化していた家族仲に回復の兆しが見えてくる様になる。佑壱の目の前で父親の愚痴を楽しそうに語る青年も、定時制高校に通う傍ら実家のスーパーを手伝っているそうだ。

「さっき副長から連絡貰った時も、店は良いからとっとと行けって、ケツ叩かれて。元々荒っぽいジジイでしたけど、最近以前より手が早くなってます」
「元気な親父さんじゃねぇか」

軽ナンバーのバンが到着するより僅かに早く、ひと足先にタクシーで戻った少年らは手早く荷物をカフェに放り込むと、久し振りに顔を合わせた脱退済のメンバーに駆け寄った。

「あっ、まだ居た〜!タダシさん、車あざっす!」
「『中嶋マート』って書いてなきゃ、もっと感謝したけど〜!」
「良いな〜、竹林さんは益々車の免許が欲しくなったよ〜。絶対春休みの内に取るんだから〜!」
「まさか此処まで大荷物になるとは思わなかったので、助かりました」
「あは。持つべきものはバンを持ってる舎弟だねえ」
「ハイゼットってさ、働く男が乗ってる車なイメージっしょ?(´Д`*)」
「シート倒せば楽々寝られる広さだったぜ、侮れねー」

郊外にある倉庫型の業務用モールに引っ張り出された少年らは、悉く奇抜だった。最も大人しげに見えるのが茶髪の少年らだが、それぞれ着ているオレンジの作業着は完全に目立っているだろう。
買い物には付き合わなかった神崎隼人も、佑壱と同じくコックコートを纏って髪をヘアピンで纏めていたが、大人しく留守番していた訳ではない事は、若干濡れているエプロンが物語っていた。

「隼人、そっちはどうだ?」
「玉ねぎ5kgとじゃがいも10kgの皮剥きと、茄子の灰汁取り、オクラと胡瓜は板ずりして塩揉みしといたよー。豚ガツは寸銅で茹で零して、水換えて沸騰させてから蓋したまんま放置中。あと良く判んない卵の黄身が繋がったやつ?は、言われた通りホルモンっぽい部分と卵に分けて、冷蔵庫の中」
「きんかんだ。見た事ねぇのか、養鶏場のおっさんに世話になってたんだろ?」
「畠中のおっちゃんの家は卵専門だったの!」

買い物要員として駆り出された錦織要とチャラいの代名詞、疾風三重奏の三人はタクシーのトランクに乗るだけの荷物と共に先に出発し、高野健吾と藤倉裕也はタクシーに乗らなかった大型の荷物と共に、佑壱が呼び出した旧メンバーの車の荷台に詰め込まれたのである。

「思ったよりスープ用のセロリ余ったから、5束だけ白だしとお酢で浅漬け作っといたけど、良かったあ?」
「浅漬け?鷹の爪は入れたのか?」
「入れる訳ないじゃん、そんな猛毒」
「馬鹿か。唐辛子は防腐効果が増すばかりか塩の尖りを中和して、味が締まんだよ。ぼーっとしやがって、垂れてんのは目だけにしろタコ」
「吊り目より垂れ目のがモテるんですう!唐辛子みたいな頭しやがって、カプサイシン中毒で寝込め」
「塩分過多、糖分過多で死ぬ奴は聞いた事があるが、唐辛子過多で死ぬ奴は聞いた事がねぇなぁ?コストコで糞デカいティラミス買ってきた、それ食って寿命縮めとけ」
「わあい、ママ大好きー」

佑壱が助手席へ追いやられたのは単に、身長も体格も育ち過ぎていた事と、誰よりも荷台に乗るのが似合わなかったからだ。この日は二日懸かりで撮影に駆り出されていた隼人は、皆が買い出しに出るのと入れ違いに帰ってきていたらしい。

「榊は?」
「さっきクローズの札出したから、休憩行ったよお。向かいのおばあの所で、またキヨエマミーとチュッチュしてんじゃない?」

カフェに榊の姿しかなかった為、ランチタイムで客から揉みくちゃにされるのを嫌がった隼人は、従業員用の控え室兼クローゼットで軽く仮眠を取ってから、佑壱から届いていたメールに従って厨房の奥で雑務をこなした様だ。

「マミーはヨン様で韓流に染まった、根っからの眼鏡フェチだもんねえ」
「喜与絵ババアは還暦過ぎてたんじゃねぇか?」
「今年めでたく還暦かなー。戦争でおばあの前の旦那さんと3人の息子が死んだから、おばあは33歳で再婚したんだよねえ」

いつも通り賑わったランチタイムの客が引けた所で、後片付けをバイトと隼人に任せた榊雅孝は遅い休憩を取る事にした。本日のバータイムで提供する軽食は、佑壱が仕込むと先に言っておいたからだ。

「マミーより一回り年上に腹違いの兄さんが居るって言ってたけどお、ヤクザに片足突っ込んで何十年も前に死んだんだってさあ」

余程忙しく時間がない時以外は、商店街で細々と営業を続けている店に顔を出している榊は、斜向かいの商店の店主母子に気に入られている。どうも眼鏡キャラに転身した頃から、贔屓にされている様だった。

「良く知ってんな、相変わらず女共に取り込むのがうまい奴だぜ」
「ご無礼なんですけどお?聞いてもないのに話してくるんだもん、おばあが」
「あ?喜代美が喋ってる所なんざ、俺ぁいっぺんも見た事ねぇぞ?」
「あは。耳が遠いからねえ、副長の甲高い声は聞こえないんじゃない?」
「ちげーぜ」

厨房に入っていく佑壱と隼人を、カウンターに座って半分寝ながら眺めていた裕也は、隼人が漬け込んだばかりの漬物の瓶を開けつつ、いつの間に用意したのか割り箸を口で咥えてパチっと割っている。

「喜代美はよ、アメリカ人が嫌いなんだぜ。旦那と餓鬼を殺した国だからよ、副長がアメリカ生まれだって聞いて、殺せそうにねーから、無視する事にしたんだと」
「ちょっと待て、誰がババアに俺の生まれのネタ振ったんだ?」
「つーか、ユウさんアメリカ生まれだったのお?…神帝は日本生まれだって言ってたのに」
「うひゃひゃ!キョン婆が光王子をアメリカ人だと思ってたから、アイツはイギリス人でアメリカはユウさんの故郷だって、良かれと思って訂正しちゃった☆(ヾノ・ω・`)」

隼人のお駄賃であるティラミスの特大パックを、いつの間にか開封して貪っていたオレンジ頭が、悪びれなく宣った。
ゴキッと首の骨を鳴らした赤毛の隣で、同じくゴキっと拳の骨を鳴らした金髪垂れ目は、それから十数分に渡り健吾を追い掛け抹殺しようとしたが全く捕まらず、奥の巨大冷凍庫と倉庫の在庫チェックを終えて戻ってきた青髪から、揃って首根っこを掴まれる事になる。

「クリスマスまで2日しかないと言うのに、何で遊んでいるんですか?何でセロリの漬物に唐辛子が入ってないんですか?俺はパクチーは嫌いですけどセロリは食べられるんです、満月を過ぎたからって舐めてるんですか?」
「「スんません」」

ああ。
どうして要の前では真面目にボックス席のテーブルを拭いているのだろう、健吾と裕也とチャラ3匹は。

「…アイツらは要領が良過ぎる」
「カナメちゃんにパクチー食べさせてヒィヒィ言わせたいんだけどお、よい手ないかなあ?」
「死ぬ気か?」
「カナタ、偶然にもポテチのパクチー味を携えた俺が来たぞ。あーん」

何の気配もなく現れた銀髪の男がサングラス越しに囁けば、錦織要はパカンとお口を大きく開いて、あっさり克服。

「総長!初めて食べましたが、美味しいです!」
「そうか、メリークリスマスイブのイブ」
「メリークリスマスイブのイブ!」

真っ赤なシャツに黒のレザーパンツ姿の男は、誰よりも早くクリスマスを満喫している様だった。何故ならば年末セールでイベント開催中の商店街の外れでは、現在福引きを催している。

「総長、その大量の袋は何スか」
「太郎が喜与絵ちゃんと喜代美ちゃんとピザ屋でデートしてた所に空気が読めない俺が声を掛けたら、川越のおっちゃんが『ピザは8枚で勘弁して下さい』と言って福引き券を百枚くれたんだ」
「あのがめつい喜代美からピザ奢って貰う男なんざ、総長くらいっスよ」
「ボス、また一等引いちゃったのお?」
「いや、特等の魚沼産コシヒカリ60kgと、2等のデジカメ3個と3等の期間限定おやつ詰め合わせが21個だ。多少嵩張るから、リアカーを借りて運んできたぞ」

成程、4枚で1回抽選の様だ。この寂れた商店街の福引きでその成果なら、根こそぎ景品を乱獲してきたに違いない。

「ユウさん、一等って何だったっけ?」
「…ラスベガス1泊のホテルチケットだった筈だ。しょぼくれた景品だが、まさか喜代美が圧力掛けてんじゃねぇだろうな」

真相は闇の中。
近年滅多に見掛けない米俵で力比べが始まる中、最も数が多い菓子の詰め合わせに入っていた『青唐辛子まるごと焼いちゃいました☆』と言う、巫山戯たパッケージに目を輝かせているのは、青いアイツだけだった。





























「シユ、出ておいで」

最初の記憶は、闇の中。
何か恐ろしい夢を見ていた様な気もするけれど、何故だろう。優しい声に呼ばれるともう、忘れてしまった様だ。

「良かったわ。あんまり静かだから死んでしまったかと思ったのだけど、そこまで弱い子じゃないわね。ふふ、ちゃんと信じていましたよ?」
「お、かあさま。ぼく…」
「…お母様?僕?」

にこやかに微笑む人が、納屋の鍵をカチャリと持ち上げるのを見た。
その優しい微笑みが一瞬凍ったので、自分は間違えたに違いない。もう暗いのは嫌だ。もう一人ぼっちは嫌だ。体中が悲鳴を上げようと、青痣だらけだろうと、もう二度と泣いたりしない。ちゃんと望まれる人間にならなければ、笑みを浮かべている人が押さえている扉は、再び閉ざされてしまうだろう。

「こんな見苦しい所に閉じ込められて、自分では出られもしない薄汚い餓鬼に、私を母と呼ぶ権利があるんですか?」

今度こそ、永遠に開かないかも知れない。
嫌だ。それだけは絶対に嫌だ。この家は、日出ずる国に住まう八百万の神仏の加護を受けた、誉高い神主の家。耳を澄ませば魑魅魍魎の息吹が聞こえてきそうな暗闇の中には、二度と戻りたくなかった。

「お前は甘えん坊の村崎ですか?」
「…違う、俺は紫遊」
「そう。幸村様の跡取りは、納屋に閉じ込められたりしませんね。東雲の嫡男たる者は、生まれながらに秀でていなければなりません」
「はい」
「判るでしょう?私だってこんな真似はしたくないのですよ、可愛い子」

判っている。忠実な犬とは、決して逆らわない駒の事だ。与えられた使命を本能の様に、死ぬ瞬間まで歌い続ける蝉の事。そこに意思は必要ない。使えないものは、落とされるだけだ。

「十口に落ちる事になっても良いのですか?」
「嫌だ」
「羽ばたけぬ者は地を這う運命。蝉になれない犬なら、這いつくばって惨めに吠えるだけです」

嫌だ。捨てられたくない。
帰る所がなければ彷徨うしかない犬より、自由に飛び回る蝉の方がずっと良い。そう教えられてきた。疑った事などない。そして羽根は軈て翼となり、東雲の名に相応しい男になれる。例えば、父親の様に。例えば、父親の命を救った王達の様に。

「さぁ、私の大切な可愛い子。我が家の家訓を唱えなさい」
「弱きは滅せよ」
「宜しい。お腹が空いたでしょう、紫遊さん」

にこりと。優しく微笑む時の母親は、何処までも優しかった。
不出来な息子に失望する顔を見たくないばかりに、下らない嘘をついたのは何歳の時だったか。

「貴方は村崎さんではないのですから、幸村様と同じ食卓につく事は許されません」
「はい」

彼女が口にする私の愛しい子は、東雲村崎の事だ。東雲の嫡男は完璧で、決して失敗しない。
彼女が口にする私の可愛い子とは、立派な空蝉の事だ。東雲に劣らない雲隠は、犬であり蝉でもある、狼の一族だった。一度決めた主人を決して裏切らない、気高い命の事だ。

「今日は私と一緒に、使用人の休憩部屋で頂きましょう」
「はい」
「良いトリカブトが手に入りました。それと、ベニテングタケのスープも用意していますよ」

繋いだ手から震えが伝わってしまわない様に、嫌だと叫び出しそうになる唇を血が滲むほど噛み締めて、ひたすら置いていかれない様に足を運び続けるばかり。

「沢山お食べなさい」
「…はい」
「そして繰り返される死出の旅路から蘇り、不死にも等しい力を手に入れるのです。村崎はいずれ、宮様のお役に立たねばなりません」
「はい」
「幸村様は駿河公の盟友。固く結ばれた絆は決して千切られない」

痛くても苦しくても、いつか慣れるそうだ。何度怪我をしてもいつか治るそうだ。そうすれば、辛くても悲しくてもいつかは慣れて、麻痺して、涙など出なくなると母親は言った。

「私を恨んでいますか?」
「…」
「良いんですよ、憎んでも。秀皇の宮様は間もなく中等部へ進まれます。幼い頃の年の差とは無粋なもの。我ら雲隠を差し置いて、榛原の子がお傍にあるそうです」
「…はい」
「東雲には比べるべくもない、格下の家が。詐欺まがいの真似しか出来ない脆弱な鷺が、天に最も近い頂で羽根を休める愚かさを思い知らせなければ」

天とは雲の上の存在の事だ。
神とは帝王院の事だ。東雲はその頂きに最も近い位置にあり、雲隠とは天神に最も近い、最強の忍を示す。東雲であり雲隠であるなら、弱さなど捨て去らなければならないと、東雲栄子は言い続けた。

「憎しみが強さを育むのであれば、私は幾らでもその憎悪を受け入れます。女である事が、駿河様のお傍に居られなかった理由なら、私は娘を必要としない」
「…」
「雲隠の男は総じて脆弱な生き物でした。姫様を連れ去った十口の嫡男も然り、穢れた女を娶った男も然り、けれど村崎は違います。あの子は犬であり鳥であり蝉でありそして、雲である」

恐らくは記憶が始まる前から、村崎と名づけられた我が子を、いつからか紫遊と呼んでいた様に。

「村崎が傷つく事などあってはなりませんね。判るでしょう?」
「はい」
「お祖母様は比較的往生なさいましたが、それでも70歳は迎えられなかった。私の母は30代で亡くなった。隆子さんのお母様もそう。この母も、この先、何年生きられるか判りません」
「…はい」
「私より先に死んではいけませんよ、紫遊さん。その為に私は貴方に、お祖母様と同じ名を与えたのです」

違う、東雲村崎だ。父がつけた名前が自分の名前なのだ。
でもそれを口にすれば、母は笑みを忘れて踵を返すに違いない。脆弱な生き物ならば殺される前に死ねと、何ら躊躇いなく暗い物置の中に放り込むのだろう。

「判ってくれますね、紫遊さん。村崎は光。そして貴方は影。強き光の影である為には、甘えは捨てなければいけません」

もう叩かないでと泣いただけで、彼女は我が子を蹴り飛ばし、持ち上げ、投げ飛ばした。気を失っている内に運ばれた先は、明かりもなく窓もない納屋だ。何度叫んでも固く閉ざされた扉は開く事なく、過呼吸を起こしても誰が救い出してくれる事はなかった。
多忙な父親は帰宅した後も来客を迎えていたり、仕事をしていたり、夜中に緊急の呼び出しがあれば出掛けてしまう。最近は特にそうだ。もう何日まともに会話していないか、思い出せない。

「一時も早くあの悍ましいノアを屠らねば、帝王院に災いを招きかねない」

がらんと静まり返る屋敷の外れ、いつもは使用人達で賑わう広い食堂には誰の姿もなかった。照明が消されている部屋のドアを閉じた人は、呟きながらつかつかと暗い食卓へ近寄っていく。
冷めきった料理が辛うじて見えた。白いカーテンで閉ざされた窓が布越しに透けて見えていたが、暗さを消し去る事は出来ない。

「8歳差なんて大人になれば微々たるものです。判りますね、紫遊さん」

庭を走っていると笑って見守ってくれる庭師も、廊下を走っていると笑いながら危ないでしょうと小言をくれる家政婦も、誰も居ない屋敷は静かだ。

「皆、は?」
「お盆休みです。15日は御先祖のお墓参りに行かなければなりませんね。その時まで村崎にはゆっくり休んで貰いましょう」
「…」
「さぁ、手を合わせなさい。頂きましょう」

弱いものは淘汰され、残るのは強い者だけだと。

「もし今日、私が死ねばそれは私の弱さによるもの。だから村崎さんに、決して泣かないで下さいと伝えて下さいね」
「…はい」
「私も母様が亡くなった時、涙は出ませんでした。子を子とも思わない鬼の様な女でしたから」

信じて生きてきた。
例えば、心がズタズタに引き裂かれる寸前だった、いつかの話。

「貴方も私が死んだ時は、ざまあみろと笑って下さいな」

望まれるまま、強くなったつもりだった。
いつか彼の傍に立つ男になる為だ。いつも笑っている男の様に、空をたゆたう雲の如く当然の様に、風を呼び雨を降らせる支配者になる為に。





「…皇子が、姿を消した?」

けれど、天から皇子が消えてしまった。
折角強くなったのに(心を殺してまで)大きくなったのに(それでもいつか憧れた白いブレザーには届かない)年齢が離れているからだ、なんて。納得する材料になる筈がないだろう?

「ええ、何処まで忌々しい事…っ!大殿は心労が祟り倒れられて、潰瘍だそうです!あの害虫が大殿の業務を代行していると聞いた時は、怒りの余り目の前が真っ暗になりましたよ…!」

弱いからか。
もっと全てに動じない男にならなければ、目の前の女の様に喚き散らす真似をしない冷徹な心構えさえあれば、もっと。せめて悩み事を相談されるくらいの男に、なれたのか?

「恭!何処にいるのですか恭!」
「母さん、恭には自由にさせてやれって言っただろう。犬は俺だけで良い」
「何を仰るの村崎さん、貴方は東雲の大事な嫡男ですよ?!恭が居るんですから、空蝉のお役目はあの子の宿命!」
「…随分とまぁ、綺麗に掌返しするもんだ。黙れババア、雑魚は喚くな」
「まぁ…!」

全てを捨ててきたのに。
欲しかったものはもう、何処にも居ない。ならばどうすれば良い?

「そこまで言うって事は、理事長が関係してるのは間違いないのか?」
「当然…!私には悪しき者を見極める、この耳があるのですよ!こんなものを手にしたばかりに、私は雲隠としては脆弱な女なのです…!穢されつつある帝王院家に、私の出来る事の何と少ない事でしょう…!ああ、口惜しい!」
「学園は渡さない。帝王院もだ」

認めない。

「今はまだ無理だけど、必ずグレアムの手から取り戻してみせる」
「…貴方がそう仰るなら、私はこれ以上申しません。宮様の行方は、幸村様が秘密裏にお探しして下さるでしょう」

認めてはいけない。
(殺して来たんだ)(何度も己の弱さを)(何処までが自分なのか判らなくなるくらい)
弱い者が消えていく運命なら、


「弱者は淘汰されるべきだ。例外は存在しない」
「ああ…!その通りですよ、紫遊さん」

あの人も弱かった、それだけだろう?

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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