帝王院高等学校
その時、アレはアレしてアレでした。
「もう諦めましょう…」

神の領域に踏み込もうとしている男の背中へ、泣き疲れた女は呟いた。

「僕は諦めない。どうにかなる筈だ。院長の論文を読めば、何とかなるんだ…」
「雅孝は死んだの。脳も心臓も、もう…!」
「助かる!僕らは医者だろう?!どうして諦めろなんて言える?!」
「貴方…」
「思い出せ、僕らは榊だ!君には聞こえないのか?!君には見えないのか?!僕らの息子の声が、僕らの息子の未来が!」

神よ。
何処に居るのか、神よ。

「世界に雅孝を残すんだ」
「どうやって…」
「欠片でも良い。あの子が残る方法を考える」
「けど、あの子が心停止してから、もう何時間も…!」

生きていく事が辛いなら死んだって構わない程の絶望に落とされながら、それでも縋っている。

「心移植はエラー、脳移植も成功率は一桁」
「血液型が違うもの。雅孝はRh+のAB型、こっちの検体はどちらもAB型だけれど、Rh式では判断が出来ない…」
「どうすれば…っ。…いや、方法がない事もないか?」
「…貴方?」
「骨髄を移植すれば、血液型なんて関係ない」

絶望の底では、どんなに悍ましい事も希望の様だった。
医者としては絶対的に間違っていると判っていても、それを止めるだけの理性など、最早何処にも存在しない。

「貴方、死人に移植なんて出来る訳が…」
「私を使え」

ああ、神よ。
神とは金色の髪と、ダークサファイアの瞳をしているのだと。

「君、は…?」
「急げ、時間がない。オリオンの監視を逃れる事は難しい。罪人の体で構わなければ、心臓も血液も一欠片とて余す所なく使え」
「意味が判っているのか?」
「そなたらは駿河公の空蝉だろう。ならば、私が救わない道理はない」

神とは、やはり天から舞い降りてくる存在なのだと。

「どうして私達に、そこまで…?」
「君は誰なんだ?」
「…我が名はCAPITAL」

その瞬間、初めて知ったのです。



「帝王院帝都だ」

























「それは何のジョークだ、ジジイ」

いつも通り何の連絡もなくひょっこり顔を出したかと思えば、どこの国の何の食べものが入っているのか判らない紙袋を、『お土産』などとほざいて押しつけてきた男に、お決まりの憎まれ口を一つ叩いてやろうとした時だ。
曾孫が居ても可笑しくない年齢の割りに体格の良い男は、髭面にいつもの食えない笑みを浮かべたまま、ぐらりと倒れ込んできた。

「連日休みなく射撃訓練と雑用で満身創痍の俺に、血塗れのベーグルなんか食わせるつもり?」
「…いやぁ、多分中身は大丈夫だろう?」
「どう見ても、全然大丈夫じゃない」

口から飛び出した台詞は、渡された紙袋の事ではない。呼吸もまともに出来ていない、目の前の男の事だ。

「安い再生紙使いやがって。何処の国だよ、一丁前にスターバックスのロゴをコピーしてやがる」
「ニューヨークのスターバックスだ、味は保証するぞ」
「テメェの寿命は保証外みてぇだがな」
「パパが痛がってるんだから、少しは心配してくれないか。スタバの店員は慌ててレスキューと保安官とFBIを呼んでくれたのに」
「ホワイトハウスが青褪めたんじゃねぇのか。誰にやられた?」
「ふ。心臓は逸れてる筈だが、骨が何本かオートミールになっていそうだ」

どうやら、犯人の名を言うつもりはないらしい。
ライオネル=レイは背中を丸めたまま、ふらふらと壁際へ近づいていく。左腕を持ち上げようとして下ろしている所を見ると、力が入らない様だ。

「とりあえず弾を抜こうと思うんだが、手を貸してくれないか?」
「だから此処を選んだのか、とんでもねぇジジイだ」
「完全防音だから、多少叫んでも気づかれないだろう?最近はお前が鬼気迫る表情で『備品を減らしてる』と、区画保全部からクレームの嵐だ」
「悪かったな、俺はまだ対外実働部じゃねぇのに」

ステルシリー本社務めが許されるランクCに選抜された程度では、社員証を与えられただけの雑用係。

「反省文なら何万枚でも書いてやるし、謹慎しろっつーなら、アビスにぶち込まれても構わねぇ。糞共が同じ糞を嗤ってんのが、腹立つんだよ」
「弾とターゲットなら幾つでも使え。お前が消費した倍、区画保全部に寄付しておく。愚痴は宣えても、文句は言わんだろう。…ビル、ピンセット持ってない?傷口に突っ込んでも痛くないやつ」
「持ってる訳ねぇだろ」

知能指数だけで這い上がれるほど生温い階級社会ではないので、ランクCを雇用していない対外実働部を目指すには、心身共に鍛え上げねばならない。ウィリアム=アシュレイは養父の名前を除いても、同期の中では優秀な人材だ。然し、いち早くウィリアムをスカウトした中央情報部長に入部を拒否した事から、同僚達から反感を買ってしまっているのは事実だった。

「はぁ。やっぱり此処でこっそり手当するのは、無理か」
「馬鹿でも判る筈だろう。またファーストに笑われるぞ」

武芸に秀でている者達は多少IQが低くても、ステルシリー登用前から銃の扱いに慣れている者が多い。ランクCに認められた最たる理由でもある。出身国も年齢も様々な同期達は、優秀さだけで選ばれたウィリアムを快く思っておらず、喧嘩で鍛えた独学の体術を馬鹿にしている節がある。
射撃場は年中無休で解放されているが、上記の理由で使用する者は少なかった。怪我をした社員がリハビリがてら訪れたり、新しい銃の試し撃ちに使用する為の施設だと聞いているが、ウィリアムはコード:アートを手にしてから、毎日欠かさず此処へ足を運んでいる。連日の事なのであっという間に噂が広がり、数日前までは用もないのに見学に来ては『下手糞』だの『備品の無駄』だの、わざとらしく騒いでいく者もいた。然し一切相手にせず、ひたすら撃ちまくってとうとう肩を脱臼するトラブルに見舞われてからは、殆どの者達が近寄って来なくなった。今頃、アイツは頭がイカれているとでも陰口を叩かれているのだろう。

「ファーストは笑わないよ」
「はぁ?」
「渡り鳥の様に、飛んでいってしまった」
「とうとう脳死寸前か?」
「…良いなぁ。俺は一度も行った事がないのに、陛下もファーストも、狡いんだもんなぁ…」

半分寝ている様な声音に舌打ちし、ウィリアムは紙袋をブースの脇にあるテーブルへ置いてから、社員に支給されているウェストポーチを漁った。止血剤と簡単な救急用品ならあるが、果たしてライオネル=レイのスーツの下はどうなっているのか。
苛立たしい程に、見たくない。どうしてこの男がこんな無様な姿になっているのか、頭が理解しようとしていない事が判った。

「おい、寝るなよ。増血剤は」
「最初に打って、止血剤はスタバを出てから飲んだ」
「コーヒーでか」
「いや、ベンティバニラノンファットアドリストレットショットチョコレートソースエクストラホイップコーヒージェリーアンドクリーミーバニラフラペチーノチョコチップだ」

ウィリアム=エアー=アシュレイ(19歳独身)は、その優秀な頭脳を暫しフリーズさせ、エキゾチックさを感じさせる榛色の瞳を、忙しなく瞬かせる。緑に黄色が強いオレンジ虹彩が混ざるヘーゼルの瞳は、彼の鮮やかなブロンドに良く似合った。

「…待てよ、今のは何語だったんだ?」
「何語かと言われたら、和製英語だな。ニューヨークじゃ通じなかったが、ジェスチャーと日本語でゴリ押ししたらちゃんと凄いものが出てきたぞ。何が凄いって、ハイカロリーな味と量が」
「英語で注文しろイギリス人」
「儂は漢字なら、『明日麗』にしたいって思っているよ」

どばっと吐血しながら宣う年寄りは、このまま放っておいても死にそうになかったが、どうにも内密にしたい理由がある様なので、仕方なくウィリアムはウェストポーチからモバイル端末を取り出す。
中央情報部のアーカイブから、銃撃された時の処置の方法を調べ、サバイバルナイフにエタノールを吹き掛けた。

「肺、片っぽ潰れてるな?射撃場に来る暇があったら医務班に駆け込めよ、自分を幾つだと思ってんだ」
「永遠のティーンエイジャー」
「死ね」
「ああ、いつからそんなに日本語が上手くなったんだ。何十年も日本人を嗜んでる儂より上手いのは狡いぞ」
「何処が日本人だパツキンジジイ、テメェは産まれも国籍もイングランドだろうが」
「全然違うぞビル、ウェールズだ。…ぐっ」
「真隣だろ!Fuck、いっそマジで死ね!」

他人の体にナイフを突き立てたのは、これが初めてではない。
絶対忘れないと思っていた過去を、いつの間にか忘れ掛けていた事に気づいた。饐えたスラムで、名前すらない子供、手足がないホームレス、後暗い他人の寄せ集めを家族の様に思っていた何年も昔の話だ。

「Mierda! Fucking gilipollas no mames wey!(ざけんなよ!くそ、やべぇ、やべぇやべぇ、もう!)」
「アメリカとスペインとメキシコがサンバを踊ってるぞ、ビル。儂はお前にそんなヘンテコな辞書を買ってやった覚えはないぞ」
「良いから黙ってろ!何で肉抉られてんのにベラベラ喋ってんだジジイ、痛がれ!」
「当然の報いだからなぁ。…俺は渡り鳥の翼を折ろうとしたんだ」
「はぁ?この忙しい時に鳥が何だって?!っ、あったぞ!弾は一発だな?!」
「ちゃうちゃう、2発ですねん」
「Pinche chingada!(糞ジジイ!)」
「もう、帰ってこなかったら良いなぁ」

キング=ノアの円卓では、間違いなく一番の古株だ。
レヴィ=ノア時代から仕えている、元老院でさえ一目置く男だった。

「ナイトは戻ってきて死んだ。…恨んでも仕方ないのに、オリオンには悪い事をした…」
「ジジイ?!」

この男が死んでしまえば、間違いなく円卓は混乱するだろう。ランクA、対外実働部長に致命傷を与えた犯人は組織を上げて探し出し、必ず制裁する筈だ。

「やっぱりアビス行きだろうか…」
「何を訳の判らない事!ほら!2発目も取れたぞ、血も止まってきた!しっかりしろ!」

キング=ノアは普段こそ自ら命令を下す事はないが、冷徹且つ合理的に采配を下す。ライオネル=レイ以外にもレヴィ時代から仕えていたランクAの幹部が、歪んだ性癖で部下を数人殺した時は、本人に直接『堕ちろ』と命じたらしい。その幹部は円卓の場でアビスプリズンに落とされたそうだが、その後を知る者は誰も居ない様だ。

「何時間出血してんだテメェはっ」
「陛下もナイトもマリアも親父も兄貴も見送ったのに、エンジェルまで。何も出来やしない俺がまた掘り返す前に、いっそ…」
「大丈夫か?!くそ、もう医務班呼ぶからな!ステルシリーライン・オープン、コード:アートより区画保全部医務班に緊急要請!」
「…ビル」
「何だよ!」
「パパが死んだら骨は富士山の下の琵琶湖に沈めてくれ」
『…100%。こちら区画保全部。非常事態の様だが先に一言宜しいか、ライオネル卿』
「マスターライオネル=レイ、発見しました」
「コード:アート、後は我々に」

流石は本部セントラルを知り尽くした区画保全部だ。
区画保全部の部署へ通信が繋がると同時に、射撃場入口のドアから数人の社員が駆け寄ってきた。もしかしたら初めから外で待機していたのかも知れない。頑固で面倒臭いライオネル=レイが、大人しくなるまで。

『琵琶湖は滋賀県、Mt.富士は山梨県だ』
「…馬鹿な事を。山ナシ県に富士山があって堪るか、富士山は東京だ!」
『東京は浅間山でしょう!貴方ほどのジャンクフード狂が、謎肉ブームを巻き起こしたカップラーメンをご存じではないか?!中央情報部に確かめても宜しいんだぞ!』
「望む所だ若造、カップラーメンはカレーが一番だ!」

この会話は全て日本語だったが、日本への渡航歴が全くないランクA達の会話なので、

『中央情報部アーカイブより検索結果をお答え致します。富士山は静岡県と山梨県に跨る活火山、浅間山は長野県と群馬県の境にある活火山です』

対外実働部と区画保全部の両部長は沈黙し、無機質な機械音声だけが響いたのだ。

『またカップラーメンはシーフードが一番だと、特別機動部マスターネルヴァのアンケートがございます。オススメアレンジは乾燥キャベツ3倍増し』

何処までも無機質な音声をBGMに、テキパキと治療を進めていく医務班は流石だった。
但し、医療従事者以外は心に多大なトラウマを抱えかねない光景ではあったと、最後に記しておこう。



















通りゃんせ
 通りゃんせ




眩しい。
初めて踏んだ本物の地面、送風機から吹く風ではなく、踊る様な自然風に全身を撫でられた事を覚えている。

『本当に行ってしまうのかい』

優しい母の手に撫でられた、いつかの様に。
見えない目で、けれど大切に育ててくれたあの人に、何処か似ている女の子が走り去って行った時も、風を感じた様な記憶があるのだ。

『お前は楽園に戻ってしまうんだね』
『僕のエデンは此処だけだよ、マザー』
『…いけないよ。私を母だなんて、恐れ多い事を口にしては』
『何故?』
『お前は神の子だ』

彼女と離れるのは心苦しかった。心から。

『陛下は僕達に名前を下さった。ロードとクリスティーナ、僕はロードになったんだ。神の子じゃないよ』
『今まではお前達を大人にしない様に育てて来たけれど、私はきっと、間違っていたんだね…』

本当は行きたくなかった。平気な振りをしていただけだ。母も妹も、我が事の様に喜んでくれたから。

『素晴らしい事だよ。誠心誠意お仕えしなさい、ロード』
『うん。でもマザーはアダムで良いよ、此処にネルヴァ様は居ないから』
『もう此処に戻る事もないだろうね』
『僕はすぐに帰ってくる。マザーの好きな、摘みたてのコーヒーを持って来るよ』

けれど、送られてくる物資の中に、彼女が好むコーヒー豆や、幼い妹が好む甘い果実は滅多に入っていない。
神の元で真面目に尽くせば、少しでも母と妹に楽な暮らしをさせてやれるのではないかと。

『何年懸かっても兄様のお望みを叶える』
『…ナイトだったね』
『そう、ナイトはクリスと同じくらい小さいんだ。僕が兄様の代わりに逢いに行くんだって』

いつか皆で外へ出られるのではないかと、疑いもせずに。

『行ってらっしゃい、アダム』

そう願ったのは、いつだった?



(神の城の中で)
(真っ先に教育係は)
(正しい英語を覚えろと言った)

(その時まで、自分が何語を喋っていたのかも知らなかったのだ)

(英国嫌いの女から習った米語)
(三十路から日本語を覚えた女のイントネーションとボキャブラリー)
(英語も日本語もどちらも酷かったらしい)

(どうして『ノア』には出来る事が出来ないのだと)

(教育係は冷淡な声で繰り返す)
(『オリオン』なら『完璧なシンフォニアを作った筈なのに』と)



(独り言の様な呟きを、一体何度聞いただろう)





『兄さん』

眩い光の国。
何処までも広がる青空。豊かな緑の中に、雲の如く白い建物が幾つも並ぶ、絵本の中の楽園の様な学園で。

『…兄?私の事、か?』
『本当に約束を守ってくれたんだ!』

出迎えてくれた少年は、ステルスの誰もが羨む黒を全身に纏っている。
この子がナイトか。これほど見事な黒髪と瞳ならば、ノアに相応しい男へと成長するだろう。側でその成長を見守れるなら、こんなに幸せな事はきっと、他にはない。

『絶対忘れてると思ったのに!兄さんは神様なのに、来てくれた!』
『…何故、喜ぶ?』
『嬉しいからに決まってる!俺との約束を守る為に来てくれたんでしょ?』

目に映る全てが、この世の全てから祝福されている様に、余りにも光り輝いていて。

『ああ。お前に会う為に、私は此処へやって来たんだ』

慕ってくれる子供。労り、慈しみ、名前まで与えてくれた新たな父母。
日本は見渡す限り、辞書に記されている楽園だった。いつも暗い穴ぐらの中の小さな教会での暮らしを忘れ掛けてしまう程に、心から、幸せだったんだ。

『兄さん、今日はカレーだよ』
『帝都さん、本当にこんな簡単なもので良いんですか?』
『隆子のご飯は何でも美味しいから、不満なんてあるものか。なぁ、帝都』

本当に、心から。
(本当の兄弟の様に錯覚していて)
(本当の家族になったのだと信じていて)
(だからこの幸せは永遠に続くものに違いないと)



『会いたかった…!貴方に会いたくて私は此処まで来たんです、アダム様!』

いつか己が口にした台詞と、全く同じ台詞を口にした赤毛の少女が現れるまでは。

『兄さん』
『兄さんは凄い』
『兄さんみたいになりたいんだ』

やめろ。

「…私はお前の兄なんかじゃない」
『兄さん』
「やめろ秀皇、違うと言っている」

鏡。(かごめかごめ)
鏡。(籠の中の鳥は)
鏡に映る神の姿は、どんな形をしている?(いついつ出やる)

『陛下に生殖機能はない』
『判るかロード』
『つまり、お前にも』

この世界は、鏡の外なのか?
それとも、あの小さな教会よりも遥かに窮屈な、鏡像の中なのか。


『あってはならないと言う事だ』


昨日までの道はもう見えない。
今は何処を歩いているのでしょう。上っているのでしょう。落ちているのでしょう。
先も見えなければ、後ろを振り返る勇気もない癖に。


「アダム様」
「その名は捨てたと何度言えば理解する?」
「も、申し訳ございません…っ」
「…エアリアスなら、そんな失敗はしなかった。名無しにさえ選ばれなかった貴族の娘では、やはり荷が重いか」
「お許しを、マジェスティ」

いつか見窄らしかった無知な子供に、神は戯れで力を与えた。
いつかの見窄らしい過去はもう、何処にも存在しない。いつか愛した女はもう、この空の下には。

(昨日までの幸福は今日)
(欠片も存在しない)



「エアリー、が。…死んだ?」

天も地も最早全てが見えない漆黒の中、願いも祈りも希望も絶望ももう、見えないのです。

憎い。(何が)
恨めしい。(どうして)
神と同じ姿形をしている自分には、何の力もなかった。(逃げ出す勇気も)(愛した女を幸せにする権利も)(守ってやる事も)(ああ)

「嵯峨崎嶺一を殺さなければ…」

腹の底がマグマの様に沸いている。ふつふつと、ぐらぐらと。

「無駄な真似はやめろ、ロード」
「止めるなアルデバラン!あの男はクリスを唆しておいて、エアリーとの間に子供を作った。許す事は出来ない」
「声を荒らげるな、ノアに相応しくない所業だ」
「っ」
「シスター=テレジアが出産した」
「…っ、何だと?!そんな筈がないだろう!第一、私達に生殖機能は…!」
「ないと思っていたのか、本当に」

どうすれば良かったのか。
何にこの激情をぶつければ良かったのか。

「シンフォニアの目的は、『複製』ではなく『補完』だ」
「な、にを言っている…?」
「マスターオリオンであれば、自我すら神と同一の完全体を作り上げていたろうに。劣化版のシリウスコピーでは、やはり不可能だったのか」
「劣化、版だと…?」
「全知全能たるノアの最大唯一の欠点は、生殖だ。それを補い、完全なノアを作り出す事がお前の誕生理由だった」
「!」

神か。世界か。理不尽な大人達か。

「結果的に、身体機能を修復する為にシリウスが取った手段は、中央情報部に保存されていたレヴィ=ノヴァと、マチルダ=ヴィーゼンバーグの遺伝子を用いた計画だ。欠損したノアのDNAでは、成功率は低い」
「…それ、なら、私は」
「遺伝子の配列に於いてはキング=ノアに酷似した、複製には程遠い似非クローンだと言う事。名実共に、お前はノアの弟、十番目のキリストになるだった」
「十番目、私が…?」
「然しイクスノアの候補に選ばれたのは、ロードではなくナイト。お前が12歳の時に産まれた、帝王院秀皇だ。劣化コピーが選ばれる筈はない」

如何なる状況であれ、決して狼狽える事のないノア=グレアムには、とうとうなれないのだと思い知った。

「だが、ナイトが存在したお陰でお前はセントラルへの招待資格を得た。元老院が持て余していたお前達に、ノアが生きる理由を与えたのは帝王院秀皇の為だ」
「…」
「帝王院秀皇はAB型、既に6ヶ国語を理解している聡明な子供だ。クイーンズすら話せないお前とは、明らかに違う」

壊れていく音がする。幸福な世界、永遠に続く筈の楽園が。

「アルビノのルークから採取した遺伝子では、帝王院秀皇とサラ=フェインの血液関係を証明出来なかった」

何の前触れもなく。

「然し、出産時に保存された臍の緒からは、確かに帝王院秀皇との血液関係を証明する結果が出た。然し奇妙な事に、その臍の緒の血液型はO型」
「…何を宣っているんだ。ルークは秀皇と同じ、AB型だろう」
「AB型とO型では明確に区別される。理論的には合致する事は有り得ない。骨髄移植を行わない限り…」

ああ、世界は秒刻みで絶望を運んでくる。刻一刻と新たな不幸を、音もなく。

「考えられるとすれば、サラ=フェインが保管していた臍の緒とルークが、別人である場合」
「アルデバラン、何が言いたい?」
「間違う筈がない。あの日、あの病院で出産したのはサラだけだった。とすれば、可能性は限りなく少ない筈だ」

神よ。
これは天罰でしょうか?分不相応な望みを抱いたから。幼い少女を誑かし、権力を得ようなどと企んだから。

「サラが生んだ子供は一人じゃなかった…?」
「その通り。一人の母親が、二人の男の子供を二卵性双生児として出産したケースは、過去にもある」
「それならもう一人は何処に、」
「死んだか、或いは。然しその疑問を解決する前に、最大の疑問がある筈だが?」
「最大の疑問?」
「もう一人については、顔立ちもその存在さえも判明していないが、ルークは実在している。不可解な事に、アルビノである事を差し引いたとして、あれは帝王院秀皇にもサラ=フェインにも似ていない様だ」

憎い。
神と同じ姿形をしておきながら、絶対にキングにはなれない我が身が。神と同じ姿形をしておきながら、彼とは違う我が身が。宿命が。業が。全てが。

「だが、サラ=フェインとお前の間にルークは産まれる事が出来ない。親子鑑定をするまでもない話だ」
「…本当に、私には子供を作る能力があるのか?」
「自分が一番判っているだろう、陛下に『処理係』は充てがわれていない。角膜移植3回、肺切除、腎臓摘出、40年以上前に繰り返された手術の後、高カリウム血症による内分泌異常が見られた。当時治験を急がれた薬が完成するまでに、実に8年だ」
「8年…?」

悲劇の主役の様な気分だった。
何一つ上手くいかない。思う様に回らない世界に嫌気が差して、目に映る全てが色褪せていく様な気がする。

「不完全な体は代謝異常に耐え、命は永らえたが、引き換えに13歳当時のノアは停留精巣による自然下降が見られず、発達の可能性は極めて低いと診断された。先天的なものだと判明したのは、同時期の様だ」
「手を打っていれば、兄様に生殖機能はあったと言う事か?」
「どちらを優先する?」
「優先?」
「レヴィ=ノアには9人の子供がいた」

この世で最も尊敬する神は遥か海の向こう、同じ遺伝子で産まれたのに話をする為には申請が必要で。定期連絡に心を弾ませれば、あちら側から尋ねられるのはいつも決まって『秀皇の事』だけだった。

「とは言え『まともな形をした』子供は、エイトとナインのみ」
「そんな…」
「8番目の子供は生後間もなく死に、数年を経て体外受精で生まれた9番目だけが、誕生日を迎えられたと研究室には記録されている。技術班が優先したのは跡継ぎの延命だ。ただでさえキングには複数の欠陥が見られた。一度手術をすれば、二度目までには時間が必要だ」

いつからこんなに黒く重い感情を、抱く様になったのだろう。

「何度も繰り返し、高カリウム血症より優先されたのは、急速に衰えていく視力と壊死寸前の内臓だった。技術班の叡智により、キング=ノアは現在に至るまで存命している。手遅れになるまで精巣は優先されなかった、それだけの事だ」
「…」
「ただ一人、最後まで悔いていた男がいた。彼の聡明な頭脳でも、解決策は見当たらなかったのだろう。CHAθSの鍵と共に、英雄は永遠に消えてしまった」
「それは誰の事なんだ」
「シリウスは所詮、犬。幾ら輝けど、ベテルギウスやリゲルの様に英雄を形造る事は不可能」

ああ。
神に良く似た劣化版だと、嘲笑われているかの様だ。ギャラクシーを司るステルシリープラネットの皇帝と、そのほんの一部でしかない失敗作では、比べるまでもない。

「ルークがお前の子であれば、円卓の怒りは免れない。お前がノアの影武者である事は円卓の総意で元老院には伏せている今、少しでも疑いを持たれれば、教育係である私も処分されるだろう」
「私はどうすれば良い?」
「ルークの顔を知られてはならない。あれは悍ましいほどお前の目鼻立ちに似ている。私でなくとも、疑念を抱く程に」
「殺せと?折角、統率符を手に入れられる所まで辿り着いたのに…!」
「サラの元に子が生まれた事は、今更隠しようがない。帝王院の籍に置くとは愚かな真似をしたものだ。何故私生児のままにしなかった?」

けれどその駄作を、褒める少年がいた。兄さんは凄いと、偽物だとも知らずに慕ってくる。正体は何の力もない失敗作だ。必死で神の振りをしているだけ、どう足掻いても神にはなれない。
力が欲しかった。統率符さえあれば、秀皇の言う『兄さん』に相応しいのではないかと。神に等しいキングに近づけるのではないかと。ああ。

「帝王院駿河が望んだからと言って、サラと秀皇が婚姻関係に至るまでサラの籍に置いておくべきだった。何故ノアと同じ遺伝子を兼ね備えながら、そうまで愚かしいのか」
「陛下にルークの事は伝えていない!幾ら千里眼の中央情報部とは言え、判る筈が…!」
「シリウスが極秘来日していた。秀皇の元に子が産まれた事は、既に円卓に伝わっている」

どうすれば良かったのか、何度考えても判らない。


「よりによって、ブライアン=スミスの一人娘とは…」

初めはきっと、本当の兄弟になりたかっただけだった。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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