帝王院高等学校
世界は広いのでかけっこは控えめに
「お前は何を企んでいる?」

テーブル型のゲーム機の上に、珍しいタロットカードが散らばっている。ブラインドを下ろした男は窓辺でコーヒーを啜ると、深い溜息を零した。

「企む」
「無謀だと儂は言った筈だ」
「うん、無謀だって言われた」
「ネイキッド=ヴォルフ=ディアブロ、オッドアイの子供。お前から提供された情報は他に、日本語、英語、広東語を介していた事だけだったな」

パラパラと、聞き慣れた音は本のページを捲る音。
読んでいるにしては捲るスピードが早過ぎる。悪戯な風が窓辺の本を撫でるかの様に、その音はいつも軽快だ。己が如何に凡庸な生き物であるかを、知らしめるかの如く。

「然しお前は、初めから大河家を調べれば判ると言っていた。何ら確証はなかった筈だが、お前の言った通り、祭には叶から預けられた子供がいる」
「うん」
「写真は残っていなかったが、出産記録のカルテに記載されていた。叶二葉、お前から聞いた通り、オッドアイの子供だ。母親は叶桔梗、父親はよりによって、アレクセイ=マチルダ=ヴィーゼンバーグ」
「聞こえてくるんだ。何処にいても、決まって何人かの声」
「妄想だと言っただろう。お前には儂とは違う光景が見えているだけだ」
「俺に見えるのは、いつも目の前だけだよ」

何を企んでいる、と、その言葉しか知らないオウムの様に繰り返した。
凡庸な人間だからこそ、抱いた疑問から目を逸らせないのだと知っている。それでも昔は、知識に対する探究心は賢い人間に与えられた欲だと、信じていた頃があっただろうか。

「何も」
「そんな訳はないだろう」
「俺には判らない事の方が圧倒的に多い」
「お前ではなく、あの餓鬼が言うには『赤毛の偉そうな餓鬼』が、そのネイキッドと言う小僧から貰ったものを奪って行った。だから奴は必死で追い掛け、」
「あわよくば、支配してやろうと思ったんだ。タイヨーの声は強過ぎるらしいからな」

確かに、あの平凡な子供には相応しくない力だと、遠野龍一郎は感嘆めいた吐息を漏らす。龍一郎が記憶している帝王院俊秀の声もまた、魔力を秘めた様な不思議な声音だったが、その俊秀が最強と認めた榛原晴空の声には逆らえた試しがない。

「晴空殿との差異は、今になっては確かめる術がないとは言え、…太陽は大空に催眠を掛けた。この事実は覆らん」
「榛原の掟だったな。父親を超えた子だけが嫡男と認められ、その他の兄弟は総じて十口に降格する。実力主義の当主はその瞬間に入れ替わり、灰原を名乗るのは常に、当主だけ」
「ライオンの代替わりに良く似ている。榛原は雲隠とは真逆に、男系の一族だ。儂が知る限り、一人目の子は必ず男子だった」
「但し、過去幾ら遡っても双子は居ない」

ぱたりと、ページを捲る音が止まる。
間もなくパラパラと聞こえてきたのは、先程の音とは少し違った。然し龍一郎は窓辺に体を預けたまま、晴れ渡る空を眺めている。

「だが明らかに次男に榛原の力はない。多かれ少なかれ、榛原の末裔には催眠の技術と耐性が備わっている筈だが、これも時代の流れか。双子の例外か」
「タイヨーは俺の声に逆らえないみたいだ」
「…お前は規格外だと言っただろう」
「榛原晴空の声が効かない男が居ただろう。例えば、冬月龍流」

静かな声音だ。明らかに子供の口調ではない。
けれど大人かと言われれば、それも不似合いな台詞だろう。初めて見るものには目を輝かせて喜ぶ姿を見ていると、年相応の子供にしか見えない。例えば本にしろ、料理にしろ、与えたものは何でも吸収していく。

「確証はない」
「うん。俺に見えただけだから」
「我が祖父である鶻の裏切りにより、冬月は俊秀公の慈悲を失った筈だった。だが晴空殿は雲雀の宮様が出奔なされた際、叶芙蓉の捜索を打ち切っている」
「叶芙蓉と仲が良かったのは、冬月龍流だけだ。十口を軽んじる風習は灰皇院の全てに根づいていた。脆弱を許さない雲隠、榛原を筆頭に、明神も同じだったんだろう?」
「明神には目の代わりとなる耳がある。奴らは人の心の内を聞き分け、己が認めた主人に尽くす奴らだ。引き換えに、認めない相手には容赦がない」
「冬月もそうじゃないか。鶻が秀之を当主に推挙したのは、俊秀を自由にしてやりたかったからだ」
「俊、妄想はよせと言っている。それを証明出来る者は、何処にも存在しない」
「見えないものは見てはいけない。見えるものは選別しなければならない」

ほら、見た事か。
去りし日に天才だと広く歌われた我が身が、如何に平凡だったか。痛いほど突きつけられた所で、孫の見ている世界を知る事など永遠に不可能なのだ。

「昨日、夢でひーじーちゃんが出てきた」
「夜刀?」
「蒲鉾板を積んでた。『俺は悪い事をしたから蒲鉾板で富士山を作らないと、蒲鉾姫の所には行けないんだ』って」
「俊」
「イチは優しいから太郎を助けた。同じ血液型だったから、雲隠の血は偽物の神様を助けられただろう?」
「…俊」
「あとは花子が目を覚ませばイイ。俺は母を守る為に生まれた武士だけど、天神は蝉を守る天なんだ。でも俺はそれにはなれない。何故ならば俺は、夜の系譜」

慎重に。極めて緊張感を以て、与える情報を精査せねばならない。
遠野俊と言う孫はどんな知識も湯水の如く吸い込んで、善も悪もその身に宿すだろう。大天使ルシフェルが堕落するのは、至極簡単な事だった。天使は容易く悪魔に塗り変わる。

「魔術師の正位置。皇帝と戦車の逆位置。さっきは吊し人と運命の輪の正位置だった。運勢は占う毎に変わるのか」

慎重に。与える必要がないものを選別し、淘汰した先の僅かな光だけ見せなければならない。医者の運命だ。救える命と救えない命を見極めろ。少しの油断も許されない。
目の前の子供は、明神の耳を持ち榛原の喉を持ち冬月の脳を持ち雲隠の体を持つ、極めて仏に等しい生き物だ。

「見ろ、下に榛原の餓鬼が居るぞ。飽きもせず駆け回っている様だが、いい加減、どんな馬鹿でも気づく頃だ」
「元気だなァ」
「ネイキッド=ヴォルフ=ディアブロなんて人間は、何処にも居ない」
「居るよ。タイヨーの記憶には、ちゃんと」

他人事か、と。ダークグレーのスーツを纏う男は呟いたが、返事はない。
パラパラとカードをシャッフルする音が数秒鼓膜を震わせて、さっと卓上に円を描く様に広げられたカードの裏面を、龍一郎は横目で盗み見た。

「タイヨーの事を占うと、絶対に太陽のカードが出るんだ。天文学的数字だ。20回は占ったのに、ほら」

太陽の正位置、審判の逆位置。
青年と呼ぶには小さな、子供と呼ぶには強かな、左手を伸ばして円状のカードの山から歌う様な声音で引いていくそれは、人の形をしている他の何かの様だった。

「最後は必ず、世界の正位置なんだ。山田太陽は最後に必ず成功する、強い運を宿す王の器だと思わないか」
「タロットカードに興味があるのは良いが、所詮はまやかしだ。占いなど、悉く何の確証もない非科学的な戯れ」
「女教皇の正位置、法王の逆位置、隠者の正位置…」
「俊」
「イブが言ってたんだ。タイヨーは俺のライバルだって」

己の母親を他人の様に呼ぶ子供は、静かな眼差しに笑みを描く。近頃は良く笑う様になった。但し、何が面白いのかは彼にしか判らない。

「ライバル?」
「…ライバル?」
「お前がたった今言った言葉だろうに」

尋ねているのはこちらだと龍一郎は溜息一つ、いつも何の脈絡もなく満月の夜にやって来る孫は、見る度に大きく育っている。龍一郎には他に二人孫が居たが、どれと比べても俊の成長速度は異常だ。すぐに背の高さも抜かれてしまいそうだが、それはまだ、今ではない。きっと。

「ああ、そうだ。アニメだ」
「お前はアニメなんか観るのか?」
「昨日の敵はいつか友達になるんだ。ライバルは、時々助けてくれる仲間になり得る」
「…現実ではそうそう起きやしない。子供向け番組はお前には合わんだろう」
「そんな事はない。何故ならば俺は遠野俊4歳、デパートのレストランでは決まってお子様ランチを食べてる。まだ2回しか食べた事ないけど」

幼いのかそうではないのか、見る度に判らなくなるのは何故なのか。

「昨日、皆がやっていた数学のテストをやってみたんだ。全然、判らなかった」
「当然だ。数学は定められた定理を覚えておかねば、解ける代物ではない」
「俺には知らない事が多い」
「お前はまだ若い。知るべきものは、その目で選別するが良い」
「そうか」

思考回路が根本から違うのだろうと思えた。人間が作ったIQテストは全く宛にならない。書かれた答えを理解出来る判定員が、大学内に存在しなかったからだ。

「お前のIQが提示された」
「ん」
「理論上は0だ。曰く、判断しようがない」
「そうか。0なら、これ以上減る事はないな」

喜びも絶望的も、孫にとっては差異はない様だった。

「メンサは300でも足らんと抜かしておるが、奴らとて理解出来んのだから所詮は戯れ言と言う事になろう。恥ずかしい話だが、この儂にも幾つか判断が出来ない回答があった」
「俺は馬鹿だから判らない事は判らない」
「お前を馬鹿だと言うなら、人類に聡明な者は居らんだろう」
「タイヨーは判らない事は判る様になればイイと言ったが、数学書がテストの攻略本だと言うなら、タイヨーは教科書を見ないだろう。どんなゲームでも、触った瞬間にクリアまでの道筋が見えると言っている」
「餓鬼の戯れ言だろう」
「タイヨーは天才だ。傍にいれば、俺にはまだ見えない未来が、いつか見える様になるかも知れない」
「お前には何が見えている?」
「力の逆位置。人が作った法や常識に敗北する、脆弱性」

龍一郎がブラインドの隙間に手を伸ばし、くしゃりと歪めれば、差し込む日差しが孫の横顔を照らした。
眩しげに振り向いた漆黒の双眸が、一瞬星型を描く。

「虹彩の模様が星を描いているとは、我が孫ながら面白い」
「眼科の先生が気づかなかったら、誰にも気づかれなかった」
「夜人もそうだった。お前とは形が違ったが、虹彩の一部が星型だったんだ」
「遠野の血だな、きっと。夜刀じっちゃんのお父さんは、星夜」
「星夜の父親は一星と言った。頑固な男だった様だが、宰庄司の残党に施しを与えていた事もあったと聞いている」
「宰庄司…明神の分家の事」
「ああ。明神総代だった坂木本家家が帝王院の血筋から妻を娶った事で、彼らは京都で神社の宮司となった。分社を譲り受けた神坂と錦は、戦時中に社を失った事で野に下っている」
「判ってる。高坂と錦織だ。イイなァ、皆集まったら楽しそうだ」

パラパラと、再びカードがシャッフルされていった。
今度は何を占っているのか、再びくるりと円を描いたカードの山は、然し捲られる事はなかった。

「お前は帝王院鳳凰様の血を引く、唯一の子だ。奴らとは比べ物にならん」
「変だな、雲雀方には大河と藤倉が残ってる筈だ。俺は0だから、時計は回せない」
「時計の針は必ず0から始まり、戻ってくる。お前が幾ら否定した所で、その身には帝王院の血が流れているんだぞ」
「裏切り者の冬月の血と共に」
「…俊」
「そして雲隠の血も。雲隠桐火の母親は雲隠、父親は明神と榛原が混ざった十口」
「やめろ」
「俺は空蝉。俺は天神。俺は遠野で帝王院で、冬月で雲隠で明神で榛原、そして『0』だ」
「…」
「空っぽな俺にぴったり、ほら」

月の正位置だ、と。呟く声を聞いている。
一度本を読んだだけでタロットカードの意味を覚えてしまった孫は、何がそんなに楽しいのだろう。外では相変わらず、見つかる筈のないものを探している子供が居て、蝉の様に呼び続けているのだろうか。

「月の正位置。隠者の正位置。…愚者の逆位置?」
「どうした?」
「この並びは初めて見た」
「そんなものは遊びだと言っただろう。信じる必要はない」
「解説本によって、少し意味が違うんだ。愚者の逆位置には、終わりからの再生と言う意味の他に、無知とか存在しないものと言う解釈もある」

ブラインドの向こう側には青空が広がっていて、太陽は空にもアスファルトの上にもある。『おネイちゃーん』などと、間延びした声が近づいてきたかと思えば、遠ざかっていく。この数日で見慣れたとは言え、学生らは遠巻きにしつつ見守っている様だ。

「俺は何を知らないんだ?不注意、無感覚…つまり何かが俺の知らない内に?」
「下らんな。喉が渇いただろう、何か飲むか?」
「氷が三つ以上入ってるなら、ホットコーヒーでもイイ」
「若い内からカフェインを摂取するのは好ましくない。蜂蜜もまだ早いか」
「お前はいつからそう口煩くなったんだ、オリオン」

一枚のタロットカードを掴んだまま眺めている横顔が、囁いた。
その声が余りにも在りし日のノアに似ていた為、龍一郎はコーヒーカップをサイドボードの上に下ろす。

「趣味が悪い真似をするでない」
「…え?」
「やはり無意識か。そろそろカードを片づけて、榛原の馬鹿を呼び戻せ。もう昼だ」
「もうそんな時間か。午後の講義の準備をしてない」
「先日のIQテストで、お前が面白い図形を書いただろう。その空間認識能力を盗もうと、機械弄りしか脳がない奴らが押しかけてきているそうだ」
「ロボットを作ればイイのか」
「真似事で構わん。面倒であれば、休講を装えば良いだけの話だ」
「構わん。私に不可能はない」

今度は聞き覚えのない声が聞こえてきた。
俊の飲み物をドリンクホルダーから取り出していた龍一郎は、呆れた様に息を吐く。それが無意識なら、直すのは不可能だろう。


「変だな、何かが混ざった様な気がする」

左胸を押さえた子供は呟いたが、言葉の意味を説明する気はない様だ。

「しゅーん!」
「ああ、タイヨー。お帰り」

ドアが蹴破られ、なだらかなほっぺに真っ赤な口紅のキスマークを幾つもつけた子供が、ドスドス入ってきた。しゅばっとソファに飛び乗り、大袈裟な仕草で腕を組むと、ぷくっと頬を膨らませている。

「またモテモテだったのか?」
「アキちゃんは男らしいから、仕方ないよ。おばさんはチューしたくなっちゃうんだって、アメリカの挨拶だもんね!」
「断らない所が男らしいな」
「まーね!」

お茶!
と言う怒鳴り声が龍一郎に浴びせられた。糞生意気な若社長が年上の部下に命じるシーンがあれば、山田太陽以上の俳優は居ないだろう。燗がついた熱い茶を、湯呑みなどないのでコーヒーカップに注いでやる。

「あっつー!」
「ふん、お子様には耐えられんか」
「あっついけど、平気ー。火傷してもすぐ治っちゃうからねー、へっへーんだ」

返す返す腹立たしい。
榛原晴空の父親は榛原だが、母親は雲隠の娘だった。晴空を産んですぐに亡くなっている為、帝王院一族でも知る者は少ない筈だ。あの悍ましいアマゾネスの血が、太陽の代で隔世遺伝しているのはまず間違いない。

「ネイちゃんが何処にも居ないんだけど、どーゆー事だい?お前さん、俺を騙したのかい?」
「俺?」
「あ、間違えた。アキちゃん、お前さんに騙されてたんだー」

カマトトだの二重人格だの、全ての言葉を用いても形容不可能だ。眩い名前を与えられておいて、その子供は明らかに悪魔だった。力こそないが、声があり、強さこそないが、簡単に死ねない体がある。何度殺されても蘇るゲームの主人公の様に、諦めの悪さまであれば、最早最悪だ。

「俊、お前さんはアキちゃんよりちょびっとだけ男前だけど、嘘は駄目だよ。滅ぼしたくなるからねー」
「ドイツでダーク=ディアブロと呼ばれている子供は、まだ帰国してないみたいだ。騙した訳じゃない」
「ダーク=ディアブロって、闇の悪魔じゃん?」
「相変わらず、ゲーム用語には造詣が深いな」
「まーね!」

それは褒められているのかと、龍一郎は沈黙したままコーヒーカップへ口をつけた。冷めきったコーヒーは酸味が強く出ていたが、入れ直す気にはなれない。

「じゃ、アキちゃん帰る。ネイちゃんが居ないなら意味ないもん」
「駄目だ。会えなかったら罰を与えると言っただろう」
「う」
「お前は勝手に病院を抜け出して、心配してる陽子さんと大空おじさんの記憶を奪った。それ所か、看護師や医師、ついでにじーちゃんにまで催眠を掛けただろう?じーちゃんは怒ってる」
「ああ、儂は激怒している。畏くも榛原の嫡男が、私利私欲の為に力を使うなど、あってはならん事だ。恥を知れ」

キスマークだらけの頬を膨らませて、うーうー唸っていた子供は、だんっとコーヒーカップを飲み干すと、しゅばっと駆け出して行った。あ、と龍一郎が口を開いた時にはもう見えなくなっている程には、足が早い。

「あの餓鬼、無駄な足掻きを…」
「どうせ大学から一歩でも外に出れば、俺の催眠が完成するのに」
「俊、何処へ行く?」
「ライバルが逃げたら追い掛けなきゃいけないんだ。大丈夫、俺の足は健吾より早い」
「誰だと?」
「じーちゃんがその内助けに行く、タイヨーの友達だよ」
「待て、ファーストの時に儂がどれほど苦労したと…!」

ブラインドが風に踊る。
開け放たれた窓の向こうへと、天の子は飛び立っていった。


「…簡単に捕まりおって、馬鹿榛原め」

空の下では、太陽の名を持つ飛べない蝉が、天に選ばれた蝉に押し潰されている。


























幸福や絶望には足音がない。
総じて人はそう形容するが、恐らくは雲の様に初めから頭上にあっただけだ。

そしてそれらはまるで木の実の様に、大中小様々な形をしていて、様々な色をしているに違いない。瑞々しく熟れた果実が落ちてくる事もあれば、未熟な果実もあるだろう。例えば傷んだものもあるかも知れない。

そして、毒の実も然り。



「見つからなかった?」
「ああ」

誰も居ない円卓。
歩くのが多少億劫になるほど広い大講堂は、ヨーロッパの大聖堂と内装が良く似ていた。然しその殆どの壁が黒く、瀟洒な柱の飾りが本物の天然石だ。

「中央情報部に保存されていない組織内調査部長のコードは、確かにノアの記述には残っている」

此処は地中の内側。そして宇宙の入口。
その意味を知った今、何かが変わろうとしているのだろうか?それとももう、変わっているのだろうか。

「ノアの記述ですか。私には閲覧権限がありませんからねぇ、そんなものよりヴォイニッチ手稿に興味があります。原本があるのでしょう?」
「ああ。世には出ておらん数ページと写本だが、見たければ好きにしろ」
「有難うございます。で、ノアの手記には、カオスインフィニティと言うコードは確かに記載されていたんですか」
「然し現在に至るまで、カオスインフィニティと言う社員は存在していない。中央情報部のサーバー内に限定された話だ」
「おや。これは謎が深まりましたねぇ、陛下?」
「ほう。そなたはこれを謎と言うのか、セカンド」
「世界中の情報を集積している中央情報部が把握していないのではなく、そもそも取り扱えない情報なのだとしたら…ねぇ?」

ミロのビーナスとは違い、女神像は上半身だけがない。
大聖堂の奥にあるのは円卓と皇帝の玉座だけだと思っていたが、この玉座はエレベーターの役割を果たすそうだ。それもこれも、手に入れたばかりの権限で知った事だった。ナンバーの代わりにチェスの駒を名乗らねばならなくなった、9歳の子供の話だ。

「組織内調査部の性質上、秘匿性は必要でしょう。然しセキュリティを敷いた機密保管サーバーにすらデータがないとなれば、中央情報部の意義に反します」
「ああ。組織内調査部とは言え、円卓の一部であれば中央情報部の登録対象でなければならない。皇帝や幹部にまで秘匿する必要はなかろう」
「ふふ。組織内調査部マスターは、ランクAではないのかも知れませんねぇ」
「…高々部長が、か?」
「どの道、組織内調査部の役員は創設以来、非公表でしょう?特別機動部にも知らされていないのですから、考えられる幾つかの可能性としては組織内調査部長が『社員ではない』、若しくは『ノア同等の人間』」

昨日と今日では何が違う?
一つ年齢を重ねただけだ。エイプリルフールに『国一つを潰してきた』と宣った悪魔は、黒ずんだ右目だけを器用に歪めて笑ったが、嘘でも冗談でもなかった。ネイキッド=ヴォルフは狼少年から、ほんの一日で『魔王』へ塗り替えられる。

「私のコードもランクも登録されているでしょう?ああ、ほら、ちゃんと更新されましたよ。ランクA、コード『ディアブロ』」
「確かに、ランクSは社員名簿に登録されない。必要がないからな」
「ノアに本名や国籍など必要ありませんからねぇ」

例えばいつか、日本人の癖に中国名を名乗った暗殺者崩れがいた。
失敗しようと、飽きもせず何度も手を替え品を替え襲ってくるので退屈凌ぎにはなったが、眺めている内に間もなく、相手の動きの癖を知ってしまう。そうなれば、のらりくらりと逃げる理由がなくなった。

「神は神以外の何者でもない。ランクSとはsingle、唯一の神を示しています。中央情報部ですら、ノアの個人情報を取り扱っていない」

黒い布で顔を隠していた暗殺者の顔を見てやれば、艶やかな黒髪に不似合いな左右非対称の眼差しを見開いた子供は、余程腹に据えかねたのだろう。殺せないなら殺せと宣ったが、そんなものに興味はなかった。

「貴方の個人情報も既に削除されたでしょうねぇ」

猫を拾った様なものだろう。殺せるまで帰らないと言ったが、帰れないと言う意味だろうと考えた。
偽りの空を眺めて過ごしている内に、昔は花を眺めるのが好きだった様な気もしたが、地下世界の植物は人工芝か街路樹か、地上には殆ど生息していない苔くらいだ。

「まぁ、俺が日本人だと言う事も本名も、中央情報部は知らないんですが。何せ中国ではそう珍しくない、産み捨てられた無国籍の捨て子だと思われてますし?」
「祭楼月の狗とは記されておろうが、些細な事だ」
「大雑把なマジェスティですね、O型でしたっけ?」
「私の関心は今、組織内調査部にある。空白ならば、その確証を得ねば納得に至らんだろう?」
「理系なのか文系なのか、本当に読めない人です」

あの男を父とは呼べなかった。
悪魔、金髪に暗い夜の帳の瞳を持つ男爵の事だ。蠍座の時計台から落ちる瞬間を確かにこの目で見ているけれど、彼は傷一つなく現れた。あの日逃げ出した父達と引き換えに、何事もなかったかの様な無表情で。

「数学では判らない事には蓋をするんですよ、いつか誰かが解き明かしてくれるまで。便利な代数が、空いた穴をちゃんと塞いでくれるんです」
「キングの円卓と共に解任されたと思うか?」
「そんなに興味があるんですか?謎解きが好きだったなんて初耳ですよ」

あれを神とは認めていない。今も尚。
けれど傲岸不遜なあの男から取引を持ち出されていなければ、息子を失って錯乱した祖父も、ただでさえ体が弱い祖母も、見たくもない悪魔に怯えながら暮らさなければならなかった。
帝王院秀皇を追い詰めたキング=ノア=グレアムは、駿河にとっても隆子にとっても、毒であれ薬ではない筈だ。

「あれの弱味を握っておきたい。一つでも多く」
「キングは既にノヴァですよ。ベルセウスのキーは陛下のプラチナプレートなので、彼に艦隊の操縦権限はないと言う事でしょう」
「ノヴァは既に、私の敵ではないと言っているのか」
「力は今尚衰えてはいません。無論、陛下の新しい円卓が完成すれば均衡は崩れるでしょうが、軌道に乗るまで多少時間は必要です」
「私に従う者が、果たして何人居るか」
「元老院が保有しているシャドウウィング数台が、先程飛び立ったと聞いています。逃げ出した老耄の事なんて、忘れれば良いのです」

帝王院帝都を名乗った悪魔と共に日本を離れた。初めは殺す為に。途中からは殺すだけでは生温いと考えた。けれど、グレアムの全権を手に入れた今では、何がしたかったのか思い出せなくなっている。
奪い取るつもりだったものを、与えられてしまったからだろうか。

「昨日まではランクAに任命されたばかりの私が、日を跨いで神と謗られるとはな」
「酷い言い様ですねぇ?褒め言葉じゃないですか。今の貴方の命を狙う者は、少なくとも地球上には存在しません」
「そなたもか?」
「ふふ。貴方が帝王院だと知らないままだったら、もう少し暗殺ゴッコが楽しめたんですがねぇ」
「惜しい事をした。戯れで爪を出すそなたを眺めている時は、些か楽しめたが」

過去の話だ。
昨日まではあった筈の何かが、すっぽりと抜け出してしまった様な錯覚。戻れない昨日に縋りついた所で、時間は前にのみ流れていくばかり。

「ステルシリーは名実共に貴方のもの。予定より早かったと思いますが、これからどうしましょうか?」
「…どうとは?」
「欧州情報部マスターには見当がついています。ロンドンに愉快な人が居ますからねぇ」

いつもいつも、昨日と同じ今日はなかった。
けれど毎日繰り返される退屈な時間に、いつからか麻痺していたのだろうか。

「高坂か。暫く会っていないが、どう育っている?」
「セシル=ヴィーゼンバーグが無視出来ない程には、悪魔的にお育ちですよ。今の彼とは敵対したくないものです」
「そうか」
「カオスインフィニティの正体や所在については、一旦保留にしましょう。組織内調査部に相応しい人材が見当たらないのであれば、私が適当に仮想人間を作り上げておきます。お許し頂けますか、マジェスティ?」
「ああ。そなたに任せる」

それでもまだ、今はよりは幸せだったのだろうか。
あの無機質な毎日でさえ、今よりは遥かに充実していたのかも知れない。一つ歳を重ねただけ。8歳から9歳になっただけ。そんな事は判っている。

それでも何故、昨日がこんなにも懐かしく思えるのか。


「それ即ち、唯一神の冥府揺るがす威光を須く知らしめんが為に」

いつか欲した権力を得た喜びなど、何処にも。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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