帝王院高等学校
凶暴な狼と、命懸けの交流を!
「いつまで居座ってやがる」
「貴方が俺の名前を呼んでくれるまでです」

まるで合言葉か漫才か。

「本気か」
「冗談でベランダにテントまで張りませんよ、紅蓮の君」

もう何度目だろう、この不毛な会話は。終わらない事は二人共、判っている筈だ。

「その呼び方やめろっつっただろうが」
「じゃ、赤い人」
「殺すぞ」

初等部の寮はアンダーライン内部にあり、基本的に窓の様なものは廊下側にしかないと思っていたけれど、敷地の外れに位置する幾つかの部屋には、山に面した窓があると知った。6年生で最も優秀だと噂されている嵯峨崎佑壱の部屋が、正にその例外に当たっている。

「烈火の君の弟だから紅蓮の君なんて、イカしてるじゃないですか。中央委員会会長が身内なんて羨ましいです、やりたい放題でしょ?」
「頭沸いてんのか」
「沸きませんよ、秋なのに」

一匹狼をそのまま擬人化した様な男の口数は、初日に比べて増えている気がするけれど、距離が縮まったかどうかは謎だ。周囲に人を置きたがらない割りには、案外世間知らずでもないらしい。直接的な指摘こそないが、初めから何も彼も知られている様な気がしていた。
例えば、近づいた理由。

「ゼロが欲しけりゃくれてやるが、テメーに兄貴は必要ねぇだろう」

ほら。時々、知っているぞと匂わせてくる。それならどうして力ずくで追い返さないのか、不思議で仕方ない。無理矢理追い出そうとするなら、もっと違う対応を考えた。いつまでも、人様の部屋のベランダに居座ったりなんてしない。

「ゼロなんぞに近寄れば、テメーなんざ秒で喰われるぞ」
「優しそうじゃないですか、陛下は」
「世間知らず此処に極まれりだな。どう考えても、月の君の方がマシじゃねぇか」
「さぁ。何年も話をしていないので、俺の事なんか忘れてるんじゃないですか?」
「他人事かよ」
「優秀な方なので、予想通り帝君らしいです。あ、でも光姫だか光王子だかも昇校試験で満点だったんでしょ?何で二番になったんですか?」 
「俺が知るか」

佑壱の同室の東條清志郎と言う生徒は一つ年下の幼馴染みにべったりで、基本的に誰とも喋らない様だった。連日その幼馴染みの部屋にお泊まりしている様で、錦織要は東條の姿を今のところ見た事がない。

「紅蓮の君も帝君になるんですか?因みに俺は学年で一番成績が良いです。道徳以外はオールA判定なので」
「それをオールっつーのか甚だ疑問だなぁ、糞餓鬼」
「糞餓鬼じゃないです、錦織要です」
「だから何だ」
「紅蓮の君は記憶力が悪いのかと思って、再確認しました」
「喧嘩売ってんのか」

その前情報は叶二葉から与えられていたので、要は堂々と佑壱の部屋のベランダに居候しているのだ。広大なアンダーラインの南東の山中には切り立った崖に面している箇所が幾つかあり、地上から地下駐車場を含めた地中階の一部分が、谷間に突き出ている様だった。

「お金にならないものは売りません。絞め殺されて外に埋められたら、見つけて貰えそうにないですから」
「絞殺は趣味じゃねぇ。やるなら撲殺だ」
「外の木にサンドバッグが吊るされてますけど、ボクシングが好きなんですか?」

なので佑壱の部屋にあるベランダの手摺りの外は、鬱蒼と繁る木々の下に枯葉が積み重なり地面が見えない光景が広がっている。要が原風景の様だと呟けば、意味が間違っていると面倒臭げに指摘されただけだった。

「でも俺が住み着いてから一度も外に出た事ないですよね。もしかして先住民の忘れ物だったりします?」
「良く喋る餓鬼だって言われねぇか」
「一度も言われた事はありません。俺はクールなキャラなんです」
「理解力の欠如って奴だ。道徳の他に国語もやり直せ」
「国語は嫌いじゃないですけど、算数の方が役に立ちます。俺は計算が好きなので」
「ああ、テメーとは永遠に判り合えねぇ気がしてきた」

そこに不似合いな革張りのサンドバッグが吊るされている以外は、佑壱のプライベートな庭みたいなものだろう。何故か燻製に使われる様な箱やチップも置かれていて、使った形跡もある。佑壱の私物かどうかは、今のところ不明だ。

「はぁ。もう少し可愛い後輩と友好を深めようと思わないんですか、嵯峨崎先輩」
「一つ聞いてやろう。お前の何処が可愛いんだ?」
「さぁ、俺には判らないので見つけて下さい」
「本気で締め出してぇ」
「昔、一度だけ指が綺麗だと言われました」

シスターに、と。尋ねられてもない事を呟けば、ソファに転がっていた男は音もなく立ち上がり、ダイニングテーブルの向かい側に近づいてきた。

「あれも育ての親って奴なんですかね」
「俺が知るか」
「知ってるんでしょう、本当は。だって貴方は王子様なんですよね?」
「気色悪い事を抜かすな」

それまで読んでいたらしい雑誌をテーブルに置いて、ミネラルウォーターのボトルを取り出している背中を見つめる。160cmに届いていない要より遥かに背が高い佑壱は、何故か今日は髪が短い。肌寒くなってきた頃なのに、イメチェンだろうか。

「古い施設でしたが子供は沢山居ました。寄付なんかも多くて、たまにおやつの差し入れがあると、例えばドーナツだったりしたら、俺はいつもプレーン。クリームが入ってたりチョコがついてたりするドーナツは、あっという間に売り切れるんです」
「シンプルイズベストっつー言葉を知らねぇ貧乏人は、品性を疑うぜ」
「揚げたてにお砂糖をまぶしたドーナツが一番美味しいんです」
「ほう、テメーの舌はマシな方だな。冷蔵庫の中に昨夜の酢豚が残ってっから、食え」
「パンに挟んでも良いですか?」
「好きにしろ」

可愛らしいサクランボの様な赤い宝石がついたストラップが、ダイニングテーブルの上の携帯電話についている。他にも幾つかストラップが散らばっていたが、少しずつ増えている様な気がした。
その隣に無造作に置かれている食パンとコッペパンは、どちらも消費期限が今日までだ。

「コッペパンに酢豚を挟むのは初めてです」
「奇遇だな、俺も見るのは初めてだ」
「何でこんなに料理上手なんですか?俺は林檎を剥いてる途中で手の皮を剥いてしまうんですけど、何が悪いんでしょうか」
「そもそも剥こうとすっからだ。林檎なんざ皮ごと食え」
「成程、確かにそうですね」

二脚ある椅子のどちらが佑壱の指定席かは知らないが、生徒の自炊を推奨している学園の方針で、全室キッチン完備である。然しリビングの冷蔵庫の中身は大半がミネラルウォーターのボトルで、佑壱の言う冷蔵庫は、彼の部屋にある別の冷蔵庫の事だ。

「ワイルドって言われませんか」
「まぁな」
「俺も先輩みたいになりたいです」
「無理だ、出直せ」
「これ美味しいです」
「…ふん」
「食パンが余ったんですが、お代わりありますか」

佑壱の冷蔵庫にはいつも色んなものが入っているが、購買で見掛ける様な品物は一つも入っていない。定期的にダンボール箱が届いているので、ほぼ取り寄せているのだろうと思われる。日中授業がある時間帯には要も登校しているから、誰が運んでいるのかは不明だ。

「図々しい、ジャムでも塗っとけ」
「冷蔵庫に入ってた赤い瓶ですよね?イチゴジャムなんて給食でしか食べた事ないです」
「柘榴だ」
「ザクロって何ですか?」

料理が出来ない、と言うより料理に掛ける金が惜しい要は基本的にパンしか食べないので、自室のキッチンに近寄る事はない。ルームメイトが使っている姿を何度か見たが、何故かいつも味噌汁しか作らない様なので、彼もまた使用頻度は少ないだろう。

「昔は死ぬほど食いたかった」
「ザクロを?」
「…今になりゃ、大して美味いもんじゃねぇな」

呟く様に言った佑壱の目は雑誌に注がれていて、独り言じみていた。
勝手知ったる佑壱の部屋の冷蔵庫を開けてジャムの瓶を取り出した要は、再びリビングへ戻る。ベッドと冷蔵庫しかない部屋は、いつも清潔に整えられているが、何処か物寂しい。

「あ、結構好きな味。先輩、部屋に何か置いたりしないんですか?」
「あ?」
「俺の部屋には四年生の時の担任から貰った、弦が切れたギターがあります。俺がバイオリンを持ってると言ったら、皆には秘密って言ってくれたんです」
「別モンじゃねぇか」
「俺もそう言ったんですけど、買ってから殆ど弾かない内に壊れたらしくて、持て余してたそうですよ。多少直したら売れそうな気がしたので、とりあえず貰っといたんですよね」
「しぶとい餓鬼だ。世話係の顔が見てぇ」
「中等部一年一組に居ますけど、見ます?」
「聞こえねぇなぁ」

要の部屋のクローゼットで埃を被っているより、佑壱の部屋にある方が似合う様な気がする。メトロノームの正確なテンポの様に、佑壱の日常は同じリズムを繰り返しているからだ。
決まった時間に起きて、決まった時間に水の音がして、決まった時間にご飯が炊き上がると、面倒臭いとばかりにベランダの鍵を開けて、おはようの代わりに『まだ居やがる』と吐き捨てる。そうして要がテントから顔を出すと、『顔洗って歯ぁ磨いてこい』と言うのだ。何せ外には鬱蒼と繁る樹海が広がるばかりで、洗面台などはない。

「バイオリンたぁ、高尚な趣味だ。似合わねぇな」
「ピアノも弾けますよ。一度聞いた曲は大抵弾けますけど、それだけです」
「ふん。それだけ、な」
「本物の天才は一度聞いた曲をすぐにアレンジする事が出来て、初めて触る楽器の音を初めから完璧に演奏出来るんです。それに調律を必要としない」

要は昔、本物の天才を見た。
要の耳には音階が狂っている様に聞こえたグランドピアノを、彼は物ともせずに弾きこなしたものだ。
準備中のパーティー会場に藤倉裕也と共に忍び込んで、勝手に触った艶やかな鍵盤は、オルガンとは比べ物にならないくらい固かった。

「耳があっても出来ないんです。寧ろ聞き分けてしまうからこそ、俺は自分の限界を知り尽くしたんだと思います。天才は天が才能を与えた人の事でしょう?努力すれば実を結ぶなんて綺麗事は嫌いです」
「僻み根性が染みついてんな」

生きる為に弾いていた要とは全く違った。高野健吾は真実の天才だ。
音を生かす為に奏で、音に愛される為に生まれてきたのだと本気で思った事がある。彼の音には、明らかに命が存在していた。まるで神が宿っているかの様に。

「昔一度だけ褒められたこの指で、初めて本物のグランドピアノを弾いた時に、天才だと褒められた事があります。俺はその時、素直に照れました」
「嘘つけ」

その神憑った技術に震撼した要は、己の力量を痛いほど思い知った。ピアノが弾けたから褒められ、生かされていた自分は、けれど天才などではなかったのだと。
健吾の音を聞くまでは、本気で自分を天才だと思っていたものだ。うまいうまいと笑顔で褒めてくれる健吾と、気持ち良さげに目を閉じて聴いている裕也の、二人から見守られて馬鹿みたいに弾いただろうか。

「ノクターン。初めて弾いた曲です」

けれど健吾が鍵盤を叩くと、エメラルドの瞳を見開いた裕也はそれまでの警戒心を忘れて、ほんの数分で眠ってしまった。その前の晩、一睡もしていなかった事を要は知っている。
初めて出来たお友達の部屋にお泊まりする緊張感、とうとう眠れなかった要は、窓辺で朝まで外を眺めていた裕也の背中を眺めていたのだ。

「弾くならジャズにしろ、クラシックは眠たくなる」

然しそんな光景を知らない男の台詞は、情緒がない。

「オルガンを教えて貰った事しか覚えてませんが、シスターの手は皺だらけでした。あの手で撫でられると、チクチクするんです」
「まだ生きてんのか」
「死んだらしい事は聞きました。俺がいた施設は祭家が取り潰してしまった様なので、今は跡形もないと思います」
「逃がした愛人の子を囲ってたんだ、消されねぇ訳ねぇか」
「惜しいんですよ、ユエは」
「あ?」
「死ぬ筈なのに生き長らえている俺の学費とか、いわゆる雑費が。だから見返りを求めるんです」

祭楼月は焦っている。
大河グループ幹部の中で最も若く、入婿の様な形なので尚更だ。

「手っ取り早く地位を手に入れようとしている、って聞いてます。俺には良く判りませんが、今まで一度も成功してないみたいですね」
「大河はそこそこデカい家だ。日本じゃ帝王院クラス、幹部争いなんざ日常茶飯事だろう。大河の現トップは学園長より幾らか若いが、お前の同期に息子が居たろ」
「朱雀はただの馬鹿ですよ。話してると殴りたくなるので、近寄りたくないです」

己もまた愛人の子だったけれど、本歳の子である兄弟を殺して家を乗っ取り、その婚約者だった娘と結婚した。つまり、それこそ祭美月の母親。
なので夫婦仲は結婚前から最悪だったらしく、美月の母親は別宅で暮らしていたが、要が引き取られた頃に一時期香港へ戻ってくれた事もあった。母親を失った要の身を案じての事だと、今なら判る。

「テメーにも苦手な奴がいるのか」
「苦労知らずのお坊ちゃんは大嫌いです」
「お前が知ろうとしてねぇだけで、苦労知らずって訳じゃねぇだろ」
「朱雀の何を知ってるんですか」

あの悍ましい男の妻とは思えないほど美しく、凛としていて心根も優しい人だが、楼月の前では冷淡な表情を崩さない。美月は間違いなく母親似だろう。

「俺が初めて来日した頃だったから、7年前くらいになるか。大河の当主の嫁が、北京で殺された」
「大河朱花の事でしょ?知ってますよ、それくらいは」
「それからすぐにシアトルに飛ばされてんだろ。眼帯なんかしてたそうだぞ」
「は?」
「ラスベガスでカジノも持ってるビール製造会社の、こっちで言えば専務取締役の娘だった。リーマンショックで倒産したらしいな」
「それ、何の話ですか?」

佑壱の話は難しかった。一度そう言うと、以降英語しか喋ってくれなくなった佑壱は、満面の笑みでゴーアウェイを繰り返してくれたので、要はその日の会話を諦めたものだ。
グーグー腹を鳴らしていると、呆れ果てた佑壱が『窓閉めてても煩ぇ』と言ってサンドイッチを分けてくれたので、結果的に仲直りが出来たのかも知れない。とりあえず困った時は飢えておいた方が良いと悟った要は、普段から良く購入している、購買で比較的安価な食パンを佑壱に年貢として収めた。間借りしているベランダの家賃と、食費みたいなものだ。
味気ない食パンが大変美味なサンドイッチになって帰ってくるのだから、安い買い物だろう。何も塗らずに、もりもり食パンを頬張っている二葉の様な真似は、要には難しい。とは言えジャムは無駄遣いだと思っていて、要は自室の冷蔵庫にある調味料を時々失敬していた。ルームメイトの私物だが、マヨネーズやケチャップが少しずつ減っていても、気づく者は居ないだろう。

「国語の問題みてぇなもんだ。テメーで考えろ」
「真っ赤っかの人がムカつきます。洋蘭よりマシですけど」
「白いカトレアの花言葉は魔力だとよ」
「魅力じゃないんですか?自信満々にほざいてたと思いますけど、本人が」

世界一面倒臭い二葉が来日した。お陰様で、要は佑壱と親密な仲にならざる得ない。
本来ならば二葉から殺されている筈の要だが、二葉が美月に真逆の頼みをされた所為で『延期』状態になっている。楼月と美月のどちらに肩入れすれば、より儲かるか。二葉が判断するまでは、要の生死は保留と言う事だ。

「俺が生かされているのは、利用価値があるからなんです。今はまだ」
「どっかの悪魔に踊らされてるだけだ、テメーの毒親は」

然し楼月が黙っている筈もなく、時々二葉をせっついているのだろう。
昔と違って、今の二葉は楼月が気安く命令出来る相手ではないが、あの悪魔の様な性悪二重人格者の事だ。格下の楼月を口八丁手八丁で誑かし、上手く操っているのかも知れない。

「でしょうね。それでも、洋蘭は大河を裏切る真似はしないでしょう」
「何で言い切れる?」
「男なら肉を食えと言って、元気だった頃の朱花様が、洋蘭に食事を与えたそうです。毎月、生活費の様なものを持ってくる美月の警護から、聞いた事が」
「生活費だぁ?テメー、食うにも困るほど貧乏なんじゃねぇのか」

怪訝げに睨まれて、要は苦笑を噛み殺す。道理で頻繁に食べ物を与えてくれる筈だ、同情されていたのだろうか。

「裕福ではないですよ?ただ、祭のお金は出来るだけ使いたくなくて」

然しもう一人のパトロン、端金のお駄賃でもくれるだけマシな二重人格者には、用がなければ近づきたくもない。性格は最悪だが、くれと言えばくれるとは思っている。己より劣る者を見下しながら微笑むのが三度の飯より好きそうな、世界一の悪魔だ。

『おやおや、大嫌いな私から施しを受けなければならないなんて、可哀想なお子様ですねぇ。ヴィーナスの再誕と謳われるこの私が、慈悲を差し上げましょう』

何と言う事だ。簡単に情景が想像出来る。

「成長期の餓鬼が、マセた事を抜かしやがる。くれるっつーなら黙って貰っとけ」
「美月がくれるお金は、奥様かユエのものです。どうしてそんなお金を俺が受け取れるんですか?俺は、愛人にもなれなかった女が勝手に産んだ子供なのに」

最近、良く眠れる様になった気がする。
毎日美味しいものを食べて、毎日決まった時間に起きて、寝ようとすると風呂に入れと怒られて。

「は。祭には死神が二匹居るっつー話だが、命じた相手が悪かったな。李上香なら躊躇わず殺してるだろうが、もう一匹は命令されて従う様なタマじゃねぇ」
「俺の事に詳しいんですね、グレアム先輩」
「気持ち悪い呼び方すんな」
「どんな呼び方すれば満足なんですか?」
「さぁな」
「先輩、早く俺とマブダチになって下さい。じゃないともうすぐ殺されてしまいます。まぁ、生きていても良い事はあんまりないんで、死んでも困らないと思いますが」
「弱ぇ奴は殺される。世の中の仕組みは単純だ」

案外、物を大事にする男だ。
食べたものは片づけろと言う癖に、要が動く前にさっさと片づけてしまう。料理をしている所を見た事はないが、きっと無駄のない計算され尽くした動きだと判る。

「お茶碗洗うのは得意なのに、俺の仕事を取らないで下さい」
「毎日毎日ご苦労なこった。何が面白くて俺の機嫌を取ってんだ」
「グレアムは大河のお屋敷より大きいんでしょ?お金持ちとのコネは大切にしろって言ってました」
「また『洋蘭』か」
「洋蘭は5ヶ国語を喋るんです。俺よりずっと忙しいのに、勉強方法が違うんですかね?」
「24時間洋楽聞いてろ。いつの間にか覚えてるもんだ」
「そんな訳ないでしょ。あ、コーヒーお代わり下さい」
「…図々しさが増してやがる。セルフサービスっつったろ、テメーでやれ」
「俺が淹れると不味いんですけど」
「知るか」

手早くシンクを片づけた男は、ラップを巻いた皿を持ってきた。初めからあるのは知っていたが、見ない様にしていたものだ。ミネラルウォーターしか入っていないダイニングの冷蔵庫に、ぽつんと紛れていたそれを要は見つけている。

「これも余りもんだ。図々しいついでに残飯処理しろ」
「折角美味しい蒸しケーキがあるのに…」
「…Shit!うぜぇ餓鬼だ、洗いもんはやれよ」
「そんな事言って、また自分で洗っちゃう癖に」
「あ?」
「頂きます」

家庭に複雑な事情を抱えている生徒は少なくないので、余程のトラブルを起こさない限りは教師が介入する事はなかった。お陰様で、要も加賀城獅楼と言う大人しいルームメイトに『俺は暫く帰らないので、チクったら殺す』と脅しておいた為、今のところトラブルにはなっていない様だ。何せ野暮ったい髪型で目元を隠しているルームメイトは、蚊が鳴く様な声で喋る。

「紅蓮の君はお菓子作りが趣味なんですか?」
「ンな事聞いてどうする。食ったら帰れ」
「無駄です。俺に選択肢がない事なんて判ってる癖に」
「祭家が滅びるかも知れねぇっつってもか」

大人しげに見えるが滑舌の良い要は、同室になった初日に『鬱陶しい』と説教をしてやったので、以降獅楼は要の怒りを買わない様に息を潜めている様だった。それもまた鬱陶しいのだが、殆ど目が合わないので指摘するまでもない。

「どうぞ。あ、でも中等部に上がるまで待ってくれませんか?Sクラスに入れば授業料が免除になるので、もう少し生活費に回せると思うんですよね」
「だからテメーは何で貧乏なんだ、金貰ってんだろ?」
「先輩、本妻の息子が愛人の息子にお金をあげるなんて、どう考えても変ですよ?きっと後から返せと言われたり、一生奴隷になれとか言われたりするんです」

使うのは必要最低限、残りはちゃんと貯めておく。いつ最悪の状況に見舞われても良い様に、今は少しでも早く大人になりたいだけだ。使った分のお金を補填して、返せと言われれば全額返す。

「だから俺は良い成績で卒業して、自立した大人になって」

一生誰かの言いなりなんて、冗談じゃない。
誰かに恋をして、奪って、奪われて、死んで行った愚かな女の様には、絶対にならないつもりだ。どうせ捨てるなら何故、産んだりしたのか。生きていたなら聞いてみたかったが、知った所で面白い話ではない事は判っている。

「一人で、行きたい所があるんです」
「一人か」
「気楽なんで」

名前の由来はと尋ねられて、いつか必要とされる男である様にと答えた事があった。笑うと顔がしわくちゃになるシスターが、そう言ってくれたからだ。けれどどうだろう。要と言う文字は、『必要』にも『不要』にも使われるのだ。

「見返りを求められていると、生きてて良い様な気がします。変ですか?」
「…価値観は人それぞれだろ」
「裏表が激しい人は苦手です。見ていると疲れます。でも洋蘭は判り易いので、嫌いですけど嫌じゃないです」
「何だそりゃ」

顔色ばかり窺ってきた。
優しいシスターでさえ、時々要を鬱陶しく思っていた事を知っている。だからいつも、差し入れの品を選ぶ権利がない。余り物でも貰えるだけマシでしょう、と。その目が語り掛けてくる。それが当たり前だったから、一方的に与えられる事には慣れていない。

「最低限のプライドは備わってんな。ひょろひょろしてる割りに、男じゃねぇか」
「俺は男ですよ?女には見えないでしょ、顔が鮫に似てるらしいので」
「誰に言われたんだ、そりゃ」
「洋蘭です。俺の瞼は一重っぽく見えるそうなので、鮫にそっくりなんですって。ジンベイザメですかね?」
「褒め言葉じゃねぇと思うが、喜んでんなら良いか」

ごろごろ角切りのフルーツが入っている蒸しケーキはほんのり甘く、二つあったケーキのもう一つは、ごろごろ角切りのチーズとシーチキンが入っている。片方は優しい甘さのものだったが、片方は惣菜パンだ。

「クラスメイトのお母さんが、時々手作りのパウンドケーキを届けてくれるって言ってたんです。レーズンたっぷりの」
「あ?」
「ユウさん、パウンドケーキって見た事ありますか?」

命じられて近寄った癖に、今はどうして此処まで執拗に離れたがらないのか判らなくなっている。嫌がられたら距離を置こうと、初めはそう思っていた癖に。

「俺は見た事があります。どれでも好きなものを食べて良いと言われたのに、何故かあんまり食べられなかったんです」

ずっと昔、誰かに優しくされた事がある。
ずっと昔、誰かに強く、憧れた事がある。
覚えているのは、凄まじい爆音と共に砕け散った白灰色の女神像が隕石の様に落ちてくる地獄の様な光景と、悍ましい不協和音、砂煙なのか黒煙なのか。

「逆らったんですよ。初めてあの時」 
「良く喋る餓鬼だ」
「聞いてくれたって良いじゃないですか、先輩の癖に」
「可愛げのねぇ後輩はお断りだ」
「じゃ、洋蘭みたいにクネクネしましょうか?あはん、うふん、佑壱さぁん」
「鳥肌が立った、殴るぞ」

忘れた振りをしている。
決して許される事ではないと知っているから、なかった事にしようとしている。

「俺に優しくしてくれるのはユウさんだけです」
「した覚えはねぇ」
「逆らったんですよ、俺。きっとユウさんから見たら雑魚みたいな男なんでしょうけど、俺にとっては、何よりも怖い男だったんです」

一人だけの世界に行きたいと思った事がある。大人のいない、子供だけの世界に、いつか。そうすれば嫌われる事を怖がる必要も、捨てられる事に怯える必要も、きっとないと思ったからだ。
でも今は、何処へ行っても何も変わらない気がしている。見ない振りをしているだけだ。

「ユエの怒りを買えば殺される事なんて、きっとあの時から判っていた筈なのに」

今まで誰にも言わなかった事だ。
こんな事を聞かせてどうするのだろうと、何処かで自分が笑う声がする。

←いやん(*)(#)ばかん→
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