帝王院高等学校
リセットしまくれば怖いものなんて!
「何してるの?」

真っ白な白衣。
真っ白な花が咲き乱れている温室の端っこで、せっせと下手な折り紙を折っている男を山田太陽は見つけた。

「ここ暑いねー」

ただの気紛れだ。幾ら喋れる様になったからと言って、英語は読めない。日本語もそうだ。ゲームで使われている漢字以外は祖父から習っていないので、実は殆ど読めなかった。

「この鳥のオブジェを作ってる。君は誰だ?」
「ミッドサン」
「ああ、君が」

仕方ないだろう。幼稚園では大人びた方でも、化け物ではないのだ。まだ3歳なのだから、世間一般では賢い方だと思っている。祖父が言うには、天才の部類だ。

「シューティングゲームでフルスコアを叩いたんだろう?」
「あんなの簡単だよー」
「動体視力に恵まれているんだな」

褒められて悪い気はしない。
何処か顔色が悪く、神経質そうに見える顔立ちの男は、然し悪い大人には見えなかった。痩せっぽちで弱そうに見えたからか、背中を丸めて折り鶴を折っているからか。

「おっちゃんのお部屋で、インベーダーもやったよ」
「オッチャン?学長の事かな?」
「あんなのが流行ってたなんて、昔の人は馬鹿だねー」
「ふ。僕の家にも同じものがあった。厳格な祖父が、初めてああ言う類のものを欲しがったと、母が話してくれてね。何せインベーダーは日本製だ」
「ドラクエの方が面白いと思うけどねー」

一生懸命に折っているのは判ったが、下手過ぎる。
不器用なのかも知れないと思ったが、そもそも折り方を知らないのかも知れない。目の前の男は何処からどう見ても、アメリカ人だった。

「そこ違うよー」
「え?」
「最初は三角、2回折ったら戻さなきゃ駄目なんだよー」

鮮やかな色の紙が、何枚も何枚もぐしゃぐしゃに歪んでいく。勿体ないと言うよりは、見たくないと言う理由だった。汚いものは、何でも嫌いだ。折角綺麗な紙が、蹂躙されていくのは目に毒過ぎる。

「ああ、道理で変だと思ったんだ。メモにしないでプリントアウトすれば良かった」
「背中がにゃんこになってるよ」
「ニャンコ?聞いた事がないスペルだ、フランス語かな?」
「もー、ヘタクソ!」

幼稚園で、折り紙を習った。家では喘息の発作が起きる度に短期入院を繰り返す弟が、玩具代わりに買って貰った折り紙で遊んでいる。ゲームで遊べば良いのに、自分がプレイするより見ている方が好きだと言って、太陽が居ない時には遊ばないのだ。

「ちょいと貸して。アキちゃんがお手本見せたげるねー」
「アキチャン?」
「今のは嘘。ミッドサン」

病院は退屈だ。面会時間は短くて、帰らなきゃならない太陽に夕陽は必ず泣き喚く。帰りたい帰りたいと言うから医者に暗示を掛けてやっても、帰宅するとまた発作を起こしてしまう。その度に父親から『駄目だよ』と窘められて、太陽が悪者だ。

「君は日本人かい?」
「内緒」
「そうだったな。クロノスタシス教授と君の事は、聞いてはいけないんだった」
「見てないと、また判んなくなるでしょ。ちゃんと見て」
「はい、ミッドサン先生」

お絵描きとダンスと歌、どれも大して好きではない。それなのに夕陽は幼稚園に行きたいと言っては泣いて、皆を困らせている。
あいうえおを覚える為の歌もあったが、それを元気良く歌っている先生を眺めている方が楽しかった。いつも笑顔で元気が良い女性を、嫌う男はまず居ないだろう。泣き顔を見たいと思っていたが、今はもう興味は薄い。

「君は上手に折るなぁ」
「まーね。カリスマだもんね。はい、後はやってねー」
「本当に手先が器用だ。僕は数学以外に取り柄がないから、羨ましいよ」
「それってお勉強?楽しい?」
「数学の事かな?僕にとってはね」
「何で折り紙やってるの?お勉強したいならあっちに行かなきゃ。化け物が特別授業やってるよー」
「化け物?」
「真っ黒くろすけ」
「クロノスタシス教授の事か。くくっ、確かに彼は君より黒いな」

皺一つなかった折り紙が、次から次に鶴へと姿を変えていく。ゆっくりと、然し確実に。それでも千羽には程遠い。

「彼とは真逆の人を知っているよ。真っ白で、彼も学部を問わない名誉教授だ」
「病気なの?」

病院でこれと同じものを見た覚えがあるが、目覚めてすぐに病室を飛び出したので殆ど覚えていない。

「千羽折ると、治るんだよねー」
「千羽鶴を知ってるのか。病気じゃなくて、怪我をしたそうなんだ」
「誰が?」
「…説明するのは難しいな。神の奇跡、ジュリアス=シーザーの再来、どれも相応しい様で、全く相応しくない様にも思える」

見ず知らずの他人に話し掛けた理由も、ただの八つ当たりかも知れなかった。人目を避ける様に無人の温室の中に居たから、気になっただけだ。

「お前さんの好きな子?」
「尊敬しているが、どうかな。以前にも似た事を言われたけれど、ラブレターじゃなく論文を読んで貰いたかっただけなんだ」
「判んない」
「余り話したくないんだ」
「何で?」
「自分は隠し事をするのに、僕からは聞きたがるなんて狡いぞ」

千羽鶴は千匹折らないといけない。彼はそれを知っているのだろうか。

「でも、そうだな。カエサルよりも心配している子はいるよ」 
「ふーん。好きな子?」
「…気になる子ではあるかな」

一羽折るのにモタモタ時間を懸けて、丁寧なのは判るが、怪我なんてすぐに治るだろうに。少なくとも太陽は、あっと言う間に治る。それが可笑しい事も知らないくらい、簡単に治ってしまう。化け物だ。知っている。認めたくないだけ。

「気になるのは、好きなんだよ」
「そうかな」
「苛めたくなるでしょ?」
「まさか。どうして好きな子を苛めるんだ?」
「んー。じゃ、好きじゃないのかなー」
「はは。僕の事を知りたがるなんて、物好きな子だ。僕はただの研究生だぞ?」
「お勉強しないで鶴折ってるのに?」
「手酷いな。でも正論だ。論文を書かないと准教授にはなれないのに、僕は何をしているんだか」

少し目を離した隙に、宝石が消えてしまった。
毎日毎日鳴き続けて雌を呼んだ蝉達は、たった一度の嵐で減ってしまった。この世は優しくない。小さな虫にも、化け物にも。

「俺は迎えに来たんだよ」
「誰を?」
「えへへ。お嫁さんかなー」
「情熱的だな。僕には絶対に言えない台詞だ」
「やっぱり好きな子なんだねー。言えないんでしょ?」
「…困ったな。ミッドサンは手先が器用なだけじゃなく、鋭いのか」
「好きって言えば?」

簡単じゃないか。好きならキスをして、プロポーズすれば良いのだ。
時々ゲームの中で煮え切らない事を言うキャラがいるが、選択肢は毎回『ガンガン行こうぜ!』を貫いている。駄目だったら忘れれば良いだけだ。

「嫌われちゃったらおしまいだから、嫌われないよーにすればいいんだよ。でもね、奴隷じゃつまんないでしょ?だから歌ったら駄目なの」
「君の話は難しい。まるで講義を受けている様だ」
「忘れたくなったらお願いしていーよ。ポチってリセット出来るからねー」
「…ミッドナイトサンを忘れる気はないよ。嫌われてるのは自覚している」
「変なの。アキちゃんは先生も好きだったけど、ネイちゃんも好き。先生の事は、忘れちゃったよ?」

人間は簡単に忘れる生き物だ。今、一番太陽の記憶に残っているのは、苦い表情の年寄りから『これが榛原だと?』と見下された事だった。泥があったら埋めてやったものを、残念な事にあの人相が悪い年寄りは、あの男の祖父だと言う。催眠も多少は効くが、効果が薄かった。
冬月と言う一族は、どうも面倒臭いらしい。

「おにおん知ってるー?」
「玉ねぎ?」
「あれ、違った?えっと、んー、あ!オリオンだった」
「ああ、彼は素晴らしい。学長の古くからの友人だそうだが、医学部でも物理学部でも彼は引っ張りだこだ。どうして噂にならないのか、判らない」
「忘れちゃうもん」
「忘れる?」
「お外にね、出ちゃうと忘れちゃうの。お前さんが覚えてるのは、ずっとお外に出てないからでしょ?」
「え?」
「宮様は宮様じゃないけど宮様だもん。トーカコーカンなんだって。特別授業をする代わりに、だーれも俊の顔を覚えらんないんだよー」

飽きた。
勉強は楽しくないし、探しても探しても二葉は見つからない。

「あーあ。ネイちゃん、何処行っちゃったのかなー。アイツがキラキラを取ったりするからなんだよねー」
「アイツ?」
「助けてって泣いてた。ちょいと可哀想だったけど、弱いからしょーがないよね」

連れてきた癖に太陽を放っている男達は、手助けしてくれる気配もなかった。だからと言って助けて欲しいなどとは、死んでも口にしない。探しているのは太陽だ。見つけたいのも太陽だ。

「俊はムカつくけど天才」
「今のは何語なんだ?」
「内緒!アキちゃん帰る、ばいばい」
「あ、ああ、折り方を教えてくれて有難う!」

さぁ、宝物探しを再び始めよう。見つからなかったからそれまでの話だ。
その時はリセットしてやり直せば良い、そうだろう?

















人は日々、岐路に立つ。
それが後悔を含む時、あの時こうしていれば、ああしていればと、通り過ぎた日々に未練を残すのだろう。

やり直したい。
やり直すべきだ。
まるで今を消し去る様に、あの日に戻る事が出来たなら。


さァ、今を大切にしない命よ。その手に抱く業は何色だ?
さァ、後ろばかり気にして立ち止まった魂よ。繰り返される輪廻の中で、お前は一体幾つの後悔を重ねていく?



悲劇の主人公なんて、初めから何処にも存在しない。

















「ゼロ、私の王子様!遊びましょー」
「おみゃあ洗濯物を洗ったまんま放らかして、何遊んどりゃあす?おおちゃくな真似して!」

騒がしかった日の事は、殆どが音で覚えている。

「Hey mom。本日は晴天なり〜。お天気ポカポカでござる、シーツもパリパリにゃー」
「ほからしたら乾く道理があらすか!ちゃんと皺伸ばして干さな!」
「Oh my god、何でゴマカせぬか。バレたにゃー」
「バレん訳がにゃあわ!全く!私が嫁いだ頃は、今みたいに便利な全自動洗濯機なんてありゃせなんだ言うのに、こんたわけ女…!」

古い記憶は幼さ故に明確な輪郭を残していない為、殆どが想像が補完したものだからだ。今とは違う内装、今とは違う庭先、そのどれもが多分、写真や動画を見返した時に補われたものだと思う。

「オニババ、血圧上がりっぱなしでござらっせる?」
「喧しゃあ、誰のお陰で上がったと思っとる?!誰が鬼ババアやて、こんの出来損ない嫁!ちゃっと働きゃあ!」
「It's joke、ママはちっちゃくてカワイイざまーすだに。箱に入れて飼いたいデース、首輪つけてちょーせんか?」
「ちょーらかすのも大概にしやぁ!」
「レイが居ないとママはオニババですね?カゲパパ、ママが欲求不満でござらっせるにゃ。どえりゃーエビフリャーにゃ」
「味噌漬けにしたろか。ちぃっとねやぁ、死んでもええんだで?」

喧嘩していない時を見た事がない母と祖母は、然し食事の時は絶対に同じテーブルを囲んでいた。多忙な父親は朝早くに出掛けて、夜遅く帰宅するか会社の仮眠室で寝泊まりしている様なので、嵯峨崎の屋敷は女の園だ。
大奥の様だと、再放送の時代劇を指差した赤毛の女は笑っただろうか。そしてそれを聞いていた祖母は、それなら殿様は零人だと。珍しく小さく笑って、呟いたかも知れない。どちらにせよ、確かめる術はなかった。あの時、嶺一はいつもの様に仕事に出掛けていて、屋敷にいたのは3人きりだったから。

「零人、おみゃーさんはばーちゃんとおやつ食べましょう」
「ひじき!ママ、エコひじきぞよ!私おやつ大好きデース」
「そんなに好きなら、一人で永遠にひじきでも若芽でも食べとりゃええ。おみゃあみたいな馬鹿嫁、顔も見たくにゃあわ」
「ゼロ、オニババが移るでござるよ。えんがちょ」
「下らない言葉ばっか、上手に覚えとるわ」

祖母は賢い人だった。
屋敷に訪ねてくる誰もが祖母の機嫌を窺っている様だったが、それでも祖母を訪ねてくる人間は引きも切らない。元は華族の末裔ながら、享楽が過ぎた父親の代で没落寸前だった所を、彼女は一代で今の財閥まで押し上げたのだ。

「ママ、ゼロのおやつとお洗濯、どっちがインポッシブル?」
「Screw you, shut up. Let’s take a break, have to go wash your hands before we eat.(もうええ。お茶淹れてきたるで、手を洗ってきやぁ)」
「No good. Please repeat it once again in Japanese.(今のは駄目。日本語でもう一度言い直して)」
「…おやつの時間だで、手ぇ洗って来やぁ言うとるんだわ」
「合点承知之助だにゃー」

嵯峨崎可憐は女帝だった。
口は悪いが、慕う者は絶対に見捨てない人だった。嵯峨崎の屋敷に飾られている立派な掛け軸には天女と書かれているが、亡き嵯峨崎陽炎がしたためたものだと言われている。
金髪には程遠い、茶色と言うには赤が強かった髪を持つ女は、何度も掛け軸の意味を尋ねていたけれど。その度に頬を赤らめ『知らんでええ』と吐き捨てた屋敷の主は、息子の前では寡黙だっただろうか。

「ゼロ、頂きますの前にカゲパパにお供えするデース」
「玉子餡のお饅頭は、陽炎さんの好物だったんだわ。零人の口には合わんかも知らんね」
「Oh、要らないならママが食べてあげまーす。どえりゃーまいうー」
「子供のおやつを取る母親が何処にあらすか!たわけぇ!」

賑やかな。
女達はいつも騒がしかった。それなのに嫌な思い出ではないから、失った後に全てが憎らしくて堪らなかったのに。



「零人さん」
「なに、ばーちゃん」
「貴方は王子様だけど、王様は天におわします」
「おそら?」
「私の大切な姫様と一緒に」

祖父は真っ赤な髪と真っ赤な目を持つ、忍者だったらしい。
幼い頃に聞いた夢物語の様なものだ。ただのお伽噺として思い出す事すらなかったから、

「お祖父様は王様の翼でした。今も何処かで、お天道様と同じくらい燃え盛っているんでしょうね」
「へー」
「…貴方は、陽炎さんにそっくりですよ。ばーちゃんの王子様だわ」

あの時、世界の何処かで。
誰かが慟哭を押し殺していたなんて、考えもしなかった。

憎しみは姿がない。
いつの間にか心の中に宿っていて、そうとは知らない内に誰かを攻撃している。

八つ当たりだったのだろうか。
自信に満ちた弟が哀れでならなかった。そう思えば、自分が立派は生き物の様に思えてくる。王子様だと慈しまれたいつかを思い出して、本物の王子様を見下していたなら。

祖父の様な立派な男には、きっと絶対になれない。
世界を照らす光の様な男には、きっと一生なれはしない。
ぽっかりと左胸の何処かに穴が空いた。

家族を大切にした祖母と、そんな祖母と自分を最後まで笑顔で眺めていた母、彼らを裏切った父親がどうしても許せない。
弱っていく母を裏切って他の女との間に子供を作っていたなんて聞かされて、どうしろと言うのだ。在りし日の母の様に、笑顔で迎え入れる事なんて出来る筈がなかった。

空っぽだ。
体中にどす黒い怒りを詰め込まなければ、名前のままにゼロになってしまいそうだ。


ああ。
燃える様な紅蓮の髪が、どれほど羨ましかったか。









「私は、兄様を支援するわ」

ダークサファイアの瞳に笑みを描いた母親の台詞を聞きながら、その瞳が弟に似ていると思った嵯峨崎零人は頭を掻いた。恐ろしい魂胆を晴れやかな眼差しで言われても、納得するだけの材料にはならない。
後悔しないのかと眼差しで問い掛ければ、視界の隅に彼女と同じ色合いの金髪を見てしまった。憎む対象がすり変わるのは単純だ。諸悪の根源はキング=グレアムではないかと、喚いた所で意味はない。

「…ルークの円卓を壊すってか」
「無謀だと思う?」

寧ろ、そんな事は欠片も考えていなかった。
全てを諸手を挙げて信じた訳ではないが、少なくとも今の帝王院秀皇…いや遠野秀隆から、キングへの怒りは感じられない。隣に妻がいるからかも知れないが、秀隆を被害者と言うなら、嵯峨崎可憐の遺言を守れなかった嵯峨崎一族もまた、加害者だろう。

「アンタは逆に、円卓を欲しがってる側だと思ってた」
「考えた事もあったわ。でも今日、考え方が変わったみたい」
「他人事かよ」
「やっと本当の妹になれた様な気がする。許して、マイローズ」
「許すも何もないわ、クリス」
「レイを殺さないでくれた兄様に感謝しているわ」

ちらりとそちらを見やった嵯峨崎クリスティーナは、己の兄の姿を見つけて柔らかく微笑んだ。傍らに寄り添っている夫とは随分年の差があるが、二人の間に距離はない。物理的にも、恐らく精神的にも。

「だって貴方、爵位なんて要らないでしょ?」
「…やっぱバレバレかよ。あんなもん、佑壱にも押しつけたくねぇな」
「そうね、私もよ。あの子が出ていった時、本当は羨ましかった」

金糸雀。この人を見る時、零人はいつもその鳥を思い出す。
いつか母親だと思っていた女が飼っていた小鳥を、死ぬ前に逃がしてやった光景を思い出すのだ。
彼女は金糸雀に、『イブ』と名づけていた。その意味を知ったのは、ほんの数年前。

「エアリーが私を連れて行ってくれなかった事、本当は怒ってるの。レイを奪った事よりずっと」

報われない恋をした女は、報われない恋をした男を騙して、報われない者同士で奇跡を起こす事にした。残されたお姫様がどれほど悲しんだかは、見ない振りをしたのだ。

『私、バチが当たりました。だから治らなくていいんデース』
『何で?』
『死んだらお空を飛んで、世界中トラベルしまーす。楽しみですね』

だから馬鹿みたいだと言っている。今更そんな事を知らされて、どうしろと言うのだ。何が変わると言うのか。

「私の考えは変わらない」

どれほど思っていようが届かなければ無意味で、恋なんかで死ぬのは愚の骨頂ではないか。恋なんてしなければ、愛なんて知らなければ、彼女はもう少し長く生きられたかも知れないのに。

「エアリーなら判ってくれるわ。私達は頑固な所が似ていたの」

元には戻れない過去を幾ら思い出しても、まるで意味はなかった。何も変わらない。戻れないからだ。そして、あの頑固な女もまた、そんな事は望んでいない。

「私を守る為だったと言われても。黙って行ってしまった事、怒ってるの」
「…」
「手紙も残さないで死んだって言われても困るの。エアリーは勝手だわ。勝手にやってきて勝手に友達になったのに、私を裏切った。私とサラを置いていった。泣いてばかりだった私は、サラを慰めてあげられなかった」

後悔しているのは、誰もがきっと、そうなのだろう。そして過去へは戻れない事を誰もが知っていて、誰もが見ない振りをしている。それが大人なのだ。

「会いたい、って。イールは最後に言ったのよ、ゼロ」
「…は?」

嵯峨崎嶺一の台詞は微かだった。18年近く昔の話だからか、父親の表情は穏やかだ。零人がどれほど父親を蔑ろにしていても、適わないと思う所かも知れない。

「クリスの名前ばかり、魘されながら呟くのよ。母さんから連れて来いって怒鳴られて、恥を忍んで私はライオネル=レイに頭を下げたわ」

初めて聞く話だ。
狼狽えた零人は素早くキング=グレアムへ目を走らせたが、白髪頭のドイツ人と何やら会話している男は、こちらには目も向けていない。

「死ぬんじゃないかってくらい殴られたけど、あの人は面倒見が良かったから。私を連れて、一緒に教会へ行ってくれた」
「まさかライオネル卿の部下として変装してるなんて知らなかったから、驚いたわ。マザーは呆れ果てて、枢機卿と縁を切るなんて…」

視線を感じた。
目を向ければ、白髪混じりの髪を撫でつけた男の真っ黒な眼差しが、静かに見つめてくるのが判る。

「マザーってのは誰の事だ?」
「クリスの世話役だった、元々は技術班の班長だった方よ。コードはテレジア」
「マリア=アシュレイ」

クリスの声と、零人の視界で口を動かした遠野龍一郎が重なった気がした。すぐに視線を外した男は、それからはもう、零人を見る事はなかったけれど。

「私とファーストの母でもあった。…ファーストは、マザーを慕っていたわ」
「あの佑壱が?」
「可哀想な事をしたの。私は被害者振ってレイがくれた宝物を、大事にしなかった。だから私は、」
「…母ちゃんは、母さんの事が本気で好きだったんだ」

そんな事を言った所で、庇えるとは思っていない。
自分以外の誰もを信じていない目をした小さな弟を思い出した所で、たった五歳で海を渡ってきた佑壱を抱き締めてやる事など、今はもう出来ないからだ。

「知ってるわ。でもそれは、生きている内に聞きたかった」

晴れやかな笑みを浮かべている人なら、どんな形であれ、捧げられる思いを無碍にはしなかっただろう。勝手に怯えて勝手に思い込み、勝手に逃げたのはエアリアス=アシュレイだった。彼女が犯した罪は、決して許されるものではない。自業自得だ。会いたいと死に際に願った所で、お姫様が海を渡る前にエアリアスは旅立った。

「だろうな。俺でもそう思う」
「そうでしょう?」

エアリアスを看取れなかった事を、嶺一もクリスも後悔したのだろう。きっと。
再会した恋人達は、けれど再び離れる事を選んだ。嶺一は正々堂々とクリスを迎える為に力を得る方法を選択し、愛しい男が王子様の様に迎えに来てくれる事を、監禁されたお姫様は夢見続けたのだ。
まさか、腹の中で新たな命が芽生えているなど、露知らず。

「私宛の手紙はないのよ。馬鹿なエアリー。自分が死ねば、私とレイが今度こそ結ばれると思ったのね。そんな事は元老院が絶対に許さないから、レイを連れて逃げたのに…」
「日記が残ってたわ。そうは見えなかったけど、あの子なりに日本語を覚えようとしてたみたいね。下手な平仮名と漢字が並んでるのよ、アンタが弟を欲しがってたからって」
「俺が?」

エアリアス=アシュレイの遺言書じみた日記には、零人の弟の名前を何度も考えたのだろう跡だけが残された。最終的に丸がつけられた『佑壱』と言う下手な漢字のメモを、クリスティーナ=グレアムはお守りの様に握り締めて。
親友が眠る国から、恋人が住まう国から、己の子供が暮らす国から、地獄の様な監禁生活へと戻っていく。

「ファーストの名前をつけたのは、エアリーなのよ」

腹が立たなかったのか。
勝手に零人を産んで、勝手に産まれるかどうかも判らない子供の名前を考えた女が。幾ら遺言の様だったからと言って、どうして素直に名づけられたのか。

「女の子の名前はなかったの。エアリーは根っからのイギリス思考だったから、娘が欲しかった筈なのに。ふふ。こんな事は知らなかったでしょう、ゼロ?」
「知らねぇよ。ビビってるし呆れてる。基本的に馬鹿なんだ、あの人は。何回教えても湯船の中で体洗うし、ばーさんに怒鳴られても笑ってるし…」

それでも、彼女が母だった。今でもそう、彼女は零人の母親なのだ。
幾ら物分りの良い大人振ったって、佑壱を羨ましくは思わない。可哀想だとは思わない様にしていたが、彼からは傲慢に見えただろうか。母も父も知らずに一人で成長しなくてはならなかった弟は、いつか、愛されれば愛し返すと言った。

「そして、私からレイを奪っていった」
「…本当に悪かった。母ちゃんを許してくれ」

それでも佑壱は、去る者を追いはしない。零人もそうだった。
だから判っていたのかも知れない。佑壱の口上は建前で、本心は零人と変わらないのだと。知っていてどうして、教えてやらなかったのか。

「ごめんなさい、ゼロ。私はエアリーを絶対に許さない」

恋愛なんてものは、するだけ無駄だと。

「許してしまったら、私はエアリーを忘れなければならないでしょう?」
「!」
「だから許さない。貴方も私を許さなくて良いのよ、ゼロ。お兄ちゃんだからって、全部我慢する必要はないの。私の日本語、あってるかしら?」

言ってしまったら。
そうか、笑いものになっていたのは多分、間違いなく佑壱ではない。己の愚かさに呆れ果てるだけだが、人格なんてものは、すぐに変えられるものではなかった。このまま変わらないかも知れないし、変える努力をしても変われないかも知れない。それは哀れだろうか。

「佑壱に謝りたくて、私は此処へ来たわ」
「…そっか」
「だけど、あの子は頑固でしょう?私が産んで、エアリーが名前をつけた。マザーには素直で良い子だったのに、私には昔からババアって言うの」

だから喧嘩になる、と。
笑いながら呟いた母親は、縋る様だった。

「エアリーの事は許さないけど、私とファーストのチューサイ?チューカイ?してくれないかしら、ゼロ」
「とんでもなく図々しい事言ってんな」
「頼りにしてるわ、お兄ちゃん」

判らない事だらけだ。零人の成績は優秀そのものだが、決して天才ではない。
こんな時は若年寄りレベルを極めている榊雅孝にコーヒーを淹れさせて、優雅なランチを楽しみながらアクセサリーのパーツをパズルの様に組んでいたいものだ。佑壱が居ない時間帯を律儀に教えてくれる雇われ店長に、味つけが濃いだのデザートがしょぼいだの悪態つきながら、下らない事で笑って。

「…行ってくるわ。親父、母さんを頼んだぞ」
「誰に言ってんの糞餓鬼。ファーストを見つけたら、絶対に引き摺って来なさいよ」
「善処する。大人しくついてくるとは思えねぇけどな」

さらさらと、目には見えない小さな雨粒を見た気がする。
空はいつからあんなにも、重苦しい灰色で塗り固められたのか。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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