帝王院高等学校
宝箱を開ける時は人目を忍びましょう。
柔らかい肉を貫く痛み。
こちらを真っ直ぐを映した、麗しい色違いの瞳が見開かれる光景を見ていた。

(ああ)
(やっと)
(目が覚めた)
普通は駄目なんだ
誰かを傷つけて得る幸福なんて存在しない

ごらん。
自業自得の顛末を
出来るなら笑ってくれればいい
滴るこれは、赤いだろう。
とんだ道化師だった、と

「さようなら、アキちゃん」
『これ以上、僕の宝物を苛めないで』

その時、聞こえる筈のない幼い少女の懇願が聞こえた様な気がした。縋る様に、許しを求める様に、笑っているのか泣いているのか、良く判らない。

『もう十分でしょう?』
『…何、が』
『君はあの子を捨てたじゃない』
『俺はそんな事してない』
『本当に?』

体の奥底、焼ける様に熱い何かが突き刺さっている。

『坊や、毎日来てくれて有難う』
『ねぇ、知ってる?あそこアイス一万円分買うと、』
『毎日抹茶ばっかりで飽きないかい?』
『アキ』

燃える。
燃える。
じりじり、焦げる音がするのだ。

『こそこそ何を嗅ぎ回っているのかは聞かないけれど。あんまり首を突っ込むのは感心しないね』
『編入試験を満点合格した人間に「偶然」なんて』
『絶対有り得ないと言えるのかい?もし言い切るなら、君の瞳に映るこの世界はとても陳腐だね』

聞こえるか?聞こえるだろう?
(もういいかい)(土の中から)(まだだよ)(それは蝉の声?)
ほら、胸の奥、腹の奥、魂の奥、ずっとずっとずっと、ほら。


『タイトルは「堕落し逝く少年の生涯」』

(それとも、奈落の底から?)

















『嘘つき』




















出会わなければ良かった。
助けなかったら良かった。
どうせ忘れてしまうなら、あんな約束など、初めから交わさなければ。
諦めた筈ではなかったのに、納得して忘れてやったつもりになって、少しも忘れてなどいなかった。
いつから善良な人間になったつもりでいたのだろう。愚かだと嘲笑えば終わる話なら、惨めな未練なんてとうに捨て去れた。


『死に損ないが』
『お前を弟とは認めない』
『私の命を返して』

今になって振り返れば、あれは悪夢なんかじゃなかった。いつか繰り返し魘されたあんなもの、少しも恐ろしくはない。

『父さんを返して、二葉』
『母さんを返して、宵の宮』
『お前など生まれてきたから皆が不幸になった』
『お前さえ居なかったら幸せだったのに』

聞いた事もない姉の声、写真の中でしか知らない微笑み、そうだ。自分は彼女を何一つ知らない。だから物心ついた頃には既に見ていた夢は、妄想の産物でしかなかった。今になってみれば、何に怯えていたのかすら思い出せやしない。

「おい、お兄様が来てやったぞ」

幼い頃の記憶は少ない。覚える暇もなかった命懸けの日々に比べれば多少穏やかな、けれど思い出そうとしない程度には、良いものではない記憶。
登場人物は決まっていた。名前も知らない着飾った女達か、口数の少ない家政婦か、時々やってくる横柄な男達か。

「聞こえてんだろうが。出迎えは」
「お越しやす、月の宮様」
「胸糞悪い笑い方してんじゃねぇ。餓鬼は餓鬼らしく、小便の一つくらい引っ掛けてみろ。ったく」

何が楽しいのか。
真っ白なブレザーを翻し、必ず何らかの手土産を携えて休日の度に帰省してくる男は、見る度に全ての髪が同じ長さだった。仕草も口調もどれを取っても女性らしくは見えない男だが、髪だけは初めて見た時からずっと、長い。艶やかなそれを綺麗だと思った事もあっただろうか。何を話して良いのか判らない相手に、わざわざそれを口にした事はない。

「おら」
「ほかすんどすか?」
「泣かすぞ、ゴミじゃねぇ。中を見ろ、中を」
「どら焼き?」
「カステラも知らねぇのか、お前は」

叶文仁が持ってくる手土産は、いつも甘い匂いがする。一度は綺麗な箱だったので、開けずに仕舞いこんで腐らせた事があった。
掃除中にそれを見つけた家政婦が文仁へどう告げ口したのかは知らないが、後日何とも言えない表情で同じ箱を携えてやってきた文仁は、懇切丁寧に二葉の目の前で中身をかぶりつき、同じ様に食べ終わるまで帰らなかった事があった。

「良いか。下に薄紙がついてるから、それは剥がすんだ。後は食らいつけ」

文仁の帰省を出迎えた家政婦一同が、慌しく走り回っている。茶を運んできた一人が渋い表情で二葉を睨んでいたが、『取り皿や箸を使え』とは言えないらしい。彼らは明らかに叶冬臣に怯え、文仁の機嫌を窺っている。
普段大した用がなくても彷徨いている大人達が、今日は姿が見えない。

「お膳の後に頂きます」
「煩ぇ、良いから黙ってばんばん貪りつけっつってんだろう。ったく、男の癖になよなよしやがって」

豪快に素手でカステラを掴んだ男は、これまた豪快に底の部分の紙を剥ぐと、その美しい顔立ちを不機嫌そうに歪めたまま二葉の口元へ押しつけてくる。此処で『食べたくない』などと宣えば、地味に痛いデコピンが飛んでくるだろう。

「美味いか」
「はい」
「は。ンな糞甘いもんが美味いとか、お前の味覚は死滅してんな。これだからお子様は…」

いっそ清々しい程に腹が立つ男だ。
力では圧倒的に適わないので、どんなに腹が立っても耐えるしかない。ただでさえ叶の屋敷は文仁の信者が多く、後からどんな目に遭うか。表立って目立つ真似はしないが、幼子相手に大人げない皮肉を吐き捨てていく人間は、掃いて捨てるほど存在する。

「おおきに、月の宮様」
「三つ指をつくな、鳥肌が立っただろうが。誰に仕込まれたか知りたくもねぇが、花街喋りもやめろ」

ニヤニヤと、人の悪い笑みを浮かべている男は容赦がない。
弟を心配して律儀に帰省している善き兄、であれば、何処で聞き耳が立っているか判らない状況下で『猫を被るな』なんて台詞は、間違っても吐かない筈だ。案の定、廊下側の障子の向こうに人の気配を感じた二葉は、笑顔のまま首を傾げた。

「あてには難しい事は判らへん」

円形の卓袱台の下、長い足を投げ出している文仁の爪先を、周りからは見えない様に抓る。表情を変えない男は益々ニヤニヤを増したが、

「で、家政婦は?」
「食事の支度以外は来いひん」
「あからさまな嫌がらせじゃねぇか。何で兄さんに連絡しねぇ」

この男の事は嫌いではない。ただ苦手なだけだ。1ヶ月に多くても3回か4回、基本的に東京で暮らしている二人の兄の片方はそれよりもまだ回数が少なく、顔を見る度に『ああ、こんな顔だった』などと考えている。

「皆さん、言うてはりますえ。龍の宮は天上人や。気安う近づいたもんには、天罰が当たらはる」
「…は、教育係を間違えたみてぇだな」

あんなものは悪夢でも何でもない。
時々やってくる横柄な兄より、いつ見ても底知れない笑みを浮かべている兄の方が恐ろしかった覚えもあるが、やはり、それも恐怖とは言えなかった。

「兄さんの目がねぇ事を笠に着やがる馬鹿共は、纏めて掃除しとくか」

夢を見た。繰り返し。
時々やってくる兄が居ない大半の日々、大人達から虐げられるか存在していない様に扱われるか、たった数年間の記憶の中に一人だけ、例外がいた。

二番目の兄が良く帰ってくる様になったのは、彼が大学へ進んだ頃だ。
祖父が残した会社を正式に引き継いだ男は、大学生活と経営者の二足の草鞋を履いている癖に、以前より頻繁に帰宅する様になった。結婚したばかりだと聞いたけれど、嫁らしい女を見た事はない。姪が居るそうだが、見た事もない。興味もない。

宵の宮から見える月の宮には、いつも人が溢れていた。
母屋に覆われた龍の宮を見た事はない。当主である長男は、月の半分は東京の大学にいて、残りの半分は弟子の茶を見てやっているらしいけれど。ほんの時々、庭の生垣の隙間から、母屋の廊下を歩く賑やかな声の中に彼を見る事がある。それだけだ。

「…元気そうで何よりだねぇ、二葉」

次兄の幼馴染みが家庭教師になった。
彼はいつも明の宮を見つめていて、叶の屋敷にやってくる誰もが陽の宮の前で手を合わせるのに、彼だけは明の宮に手を合わせている。それ以外は興味がないかの様だ。

「彼の何がお前の気に障った?」

どんな時でも声を荒らげたりしない龍神から、母屋の中へ招かれた。その時だけは酷く緊張した様な気がする。


けれどそれすら、やはり悪夢でも何でもなかったみたいだ。
悪夢は真夏にやってきた。煩い蝉の音と共に。

『ネイちゃん』

他人は希望と呼ぶだろう、この際限ない悪夢を。忘れた振りをして一体何度、他人の希望を容赦なく潰してきただろう。
八つ当たりなどでは何の喜びも見出せない事なんて、昔から知っていた癖に。



「君を愛してしまった事は、そんなに悪い事なのか」

誰でも構わない。
誰を抱いた所で、誰に抱かれた所で、置き去りにした過去は過去に閉じ込められたまま、未来など見ていないからだ。

「夢を見る事もいけないのか」
「報われない夢など見るものではありません」

それは嘲笑ったのか、自嘲したのか。
浅はかな夢を一時だけ叶えてやろうと宣った癖に、体を這う他人の指に苛立ちだけが募る。宝物に触れる様に大切に大切に触れようとしている男の手を振り払えば、縋る様に抱き締められた。

「離しなさい」
「嫌だ。好きでいる事だけは、許して欲しい」

笑わせる。それすら諦めようとしている自分は、この惨めな男よりもずっと、惨めなのか。

「殺されたいんですか?」
「諦めろと言うなら、いっそ殺された方がマシだ」

あれは誰だったか。
他人だったか、それとも自分の妄想が産んだもう一人の自分なのか。

『死に損ない』
『私の代わりに生きてる二葉』
『死ねば良いのに』
『穢れた出来損ない』
『綺麗だねー』

何処から何処までが真実だった?
(愛、などと)(産まれてきた瞬間から極悪人だった子供に)(そんな高尚なものが理解出来るのか?)

『ネイちゃんのおめめ、キラキラだねー。お星様より綺麗だねー』

あれは本当に、現実だったか?

あの目が眩むほど眩しい過去の景色は、妄想が産んだ幻覚ではないと言い切れるのか?

「ミッドナイトサン」

真夜中に太陽など存在しない。
遠くから照らされた不格好な石が光って、月と呼ばれているだけだ。宵の宮に朝日は昇らない。宵の宮とは、黒で塗り潰された存在してはならない命の事だ。

「…んなに死にたいなら、とっとと消えろ」

縋ってくる男の頭から、真っ赤な何かが飛び散った。
耳障りな悲鳴を他人事の様に聞いていた気がする。そんなものは悪夢でも何でもない。怖いのは、忘れたつもりで未練がましく縋りついていた古びた記憶が、本物ではないかも知れない事だけだ。例え本物だとしても、太陽と同じ名を持つ子供はもう、自分の事なんて忘れてしまっている事だ。



「…淘汰」

可哀想な学者の卵が、悪魔に誑かされた。
一命を取り留めた男はそれから暫く入院していた様だが、頑なに自分が悪いと言い張った為、何らかの処分が下されるのだろう。

「排除する事。選定される事」
「語学に興味があるのか」
「まさか」
「リチャード=テイラーの退院が決まった。延期されていた審査会が、間もなく開かれる」
「枢機卿のお言葉を借りるなら、興味がありませんねぇ。貴方を熱心に慕っていた男が、私の美しさに目が眩んだだけの事ですよ」
「話を聞いた」
「…は?」
「脳挫傷から生還した学者に興味があった。良い退屈凌ぎにはなったぞ」

褒美をやろうと思う、と。
美しい字でレポートを書いた神の子は、白銀の仮面の下から深紅の瞳で見据えてくる。

「そなたも存じているだろう。テイラーはブライアンの教え子だ。学長が最も信頼を寄せている教授から嘆願が出ているとあらば、理事会の採決は荒れる」
「…お好きにどうぞ。彼が戻ろうが死のうが、私には関係ない事です」
「そなたは語学部から恨まれているからな。ブライアンの嘆願に、文系教授一同の賛同が加わっている。ファーストを追い出した犯人だと思われている様だが、誤解させたままとは面映ゆい事をする」
「説明してやるのか、アンタが苛めたから逃げてったって?負け犬が惨めになるだけだろう。弱い奴は淘汰される。ファーストは雑魚だった。感情論に浸りきった右脳共に聞かせた所で、奴らの考えは変わらない」

八つ当たりの対象は慣れている。八つ当たりする事にもそう、慣れた。

「そなたの考えは変わるのか」
「何の」
「いずれ私が爵位を継ぐ事があれば、そなたは円卓と元老院の片翼を統べる立場になろう。脆弱な者が淘汰されゆくのであれば、力を得た者はどうなる?」
「…もしも話は好きではないんですよねぇ。何事も根拠がないと」
「淘汰とは、より良いものを残す為の手段に過ぎない。掃き捨てられたものと引き換えに、必ず守られるものが存在する。肉食獣の繁栄の為に草食獣が淘汰され、象牙を望む人間の為にアフリカ象は絶滅危惧種に認定された」

何年前だった?
それほど時間は経っていない筈なのに、もう大昔の事の様だ。瞳が一つ黒く染まってからも、自分は生きている。寧ろ誇らしい気持ちを抱えて。何一つ忘れていない根拠の一つ。

「だが、人間は淘汰の末に残されるべき種族だろうか?」
「さぁ。世界が不要と定めれば、我々も消えていくでしょう。少なくともそれまでは、地球は知恵を与えられた猿の巣窟ですよ」

宝石の様な神の子。
それほど美しく、いずれ有り余る力を得るだろう男爵の後継者。そこまで強大な力を得れば、手に入らないものなどないだろう。それなのにどうして、羨ましいと思えないのか。

『死に損ないが』
『アキちゃんのお嫁さんになったら、』
『お前は決して、明の宮の身代わりにはなれない』
『毎日いーこいーこしてあげるよー』

何処から何処までが真実だった?

「もし力を得たら、その時に考えます」
「そなたは自由に戯れる子猫だ。望むのであれば、与えよう」
「ふふ。精々、その時まで死なないで下さいねぇ?」

1月30日の雪の日に、僅かな未練は捨ててきた筈だったのに。


























目が覚めて。握っていたのは、キラキラと煌めく石一つ。
あれほど煩かった蝉の声が消えた空は、台風一過の晴れ模様だ。

「ねーねー」
「ちょっと、アンタ何してんの?!」
「お母さん、お注射、取ってー」
「っ、は?!」

泣き腫らした顔の母親が居て。
左頬が腫れている様に見えたけれど、それに疑問を抱く事もなかった。晴れ渡る空を眺める為に椅子へ乗り上がり、窓に触れると、酷く熱かった事だけを強く覚えている。

「アキちゃん、ネイちゃん探してきてもいいでしょ?」
「何訳判んない事言ってんの!寝てなきゃ駄目でしょ!」
「やだー。お注射、取ってー」
「太陽!」

手当り次第に問い掛けた。
あの子は何処、あの子は何処、あの子は。けれど誰も答えを知らない様だ。

アキちゃんはいい子でおねんねしてるから、お留守番しててねー
「…判ったんだわ。行ってらっしゃい」
「行ってきまーす」

魔法使いに会った気がする。
けれど何を話したかまでは覚えていない。
あの雨は何処に消えてしまったのだろう。世界中が水浸しになる様な、強い雨だったのに。雨粒の痛さも冷たさも覚えているけれど、外は何処までも晴れている。

「あれ?!山田太陽君?!まぁまぁ、勝手に点滴を外したら駄目じゃない!」
「アキちゃん、痛いとこないよ?怒っちゃやだー
「大丈夫なら良いの」
「アキちゃん、お出掛けしてくるね」
「行ってらっしゃい」

寝ていなさいと声を荒らげた大人達を黙らせて、黙らせて、黙らせて。真っ白な建物から外へ出る前に、真っ黒な何かを見たのだ。

「うぇ。出たな、しーくん」
「やって来たのはお前の方だ。俺は立っていただけだ」
「あっそ!」
「何処へ行く?」
「寝てろって言わないの?」
「眠たいのか?」
あっちいって
「嫌だ」

ほら。だから言ったのに。
肺炎だの高熱だの、そんなもの他人事なのだ。

「アキちゃん、お前さん嫌い。アキちゃんの言うこと聞かないから」
「お前も俺の言う事を聞かないだろう」
「アキちゃんより強いやつ、大嫌い」
「俺は嫌いじゃない」
「アキちゃんと結婚したいの?」
「いや」
「お前さん、ムカつく」
「気に障ったのか?次からは言い方を考えておく」

怪我がすぐ治る。
弟の夕陽はそうじゃないのに、何故か自分だけだ。
うなじがチクチクする時は、チクチクしない事をすれば良い。チクチクするから行きたくないと言ったのに、母親はパートしたさに無理矢理公園に連れ出した。

「目」
「俺の目か?」
「何で黒いの?」
「俺の目はいつも黒い」
「そうだっけ?」
「ああ」

外は暑い。楽しい訳がない。
キラキラ、光に透けて光る飴色の蝉の抜け殻は綺麗だった。キラキラ、光を反射させながらサッカーボールを追い掛ける子供の瞳の色も、甘い琥珀色だった。泥団子を投げつけてやれば涙目になって、うるうると潤ませられると、益々甘い色合いになる。

「アキちゃん、お迎え行くの」

それでも今は、思い出す事もない。
ラムネ色、緑茶色、二つの違う色をした瞳を見たのは初めてだった。どうして前髪を伸ばしているのか不思議で尋ねれば、気持ちが悪いだろうと。何て酷い事を言うのだろうか。あんなに綺麗なものは、世界の何処にも存在しないのに。

「オッドアイの黒猫はそんなに珍しかったのか?」
「にゃんこ?」
「ネイキッド=ヴォルフ=ディアブロ」
「見張ってたの?ぶっ殺すよ」
「聞こえてきただけだ。迷いなく歩いていくが、場所は知っているのか」
「知らないけど平気」

スタスタと。人の形をした何かの隣を通り過ぎた。
天神とは天におわす神様の事だ。居てもいなくても誰も助けやしない。だから人魚姫は泡になって、だから浦島太郎はおじいさんになったのだ。

「ついてこないでよねー」
「蝉はもう居ないぞ。嵐で死んでしまったんだ」
「弱っちいからすぐ死んじゃうんだよ。アキちゃんね、蝉さんの抜け殻を集めてあげるの。ぎゅって握るとバラバラになって、お日様が当たるとキラキラ光るんだ」
「壊すのか」
「綺麗なんだもん」
「無垢な破壊衝動だ。お前には、幾つかの感情が不足している」
「ついてこないでって言ったでしょ」
「海を渡る覚悟はあるか」
「ち!」

預言者の様に呟く男の声に、舌打ちした。
そろそろ猫を被るのも面倒臭くなっている所なのに、どうしてこうも空気が読めないのだろう。

「誰に言ってんの?」
「取引をしよう。無知故の傲慢か、純粋な慢心か。俺は結果が見たい」
「空蝉を集めるつもりかい。無駄だよ、俺がバラバラに引き裂いてやる。俺はお前を主人とは認めない」
「ああ、お前は俺に従わないんだったな。だったら賭けにしようか」
「ギャンブルは得意だよ。負ける気はしないね」
「もしお前の元に再び蝉が飛んできたら、お前は変わらずその羽根をもげるか否か」
「バラバラにするよ。だってさー、ひとりぼっちが寂しくて堪らないんだって。可愛いよねー、ネイちゃんは」

壊そう。壊そう。大切なものだから、逃げられない様に。
支配してしまえば自分のものだ。冒険の世界でもそう、戦ったモンスターが仲間になる時がある。丁寧に倒してやれば、逃げられなくなるのだ。

「お前の心を俺は修復するぞ」
「無理だよ。王座を放棄した奴なんか、スライム以下の雑魚だろ。責任を捨てたんなら、王様面すんな」
「それならお前が王になればイイ。物語を書き換えてやろう、今からお前は王の器だ」
「物語?」
「もしお前が、俺と同じ様に王の器ではなかったその時は」

馬鹿な男。
王様になれた筈の、可哀想な魔法使い。その空っぽな心の中に幾つもの業を抱えて、壊れていく光景が見える。

「その時は?」
「お前の羽根をもいで、犬に変えてしまう」

だってほら、チクチク、チクチク、全身が(魂が)こんなにも(発狂しそうだ)痛んでいるだろう?

「やれるもんなら、やってみろよ」

もう良い。
判っている。出来やしなかった。あの綺麗な生き物の翼を折る事なんて、自分には一生出来やしない。





廻れ。
廻れ。
ああ、目が回る。

今は過去か、未来か、現在のままか、何処を漂っている?







「Hello, pleasure to meet Mid-SUN.(やぁ、君がミッドサンだね)」

何だ。
まだ終わらない回想に浸らなければならないのか。

「I am Smith, your reputation precedes you from CC.(僕はスミス、君の話は聞いているよ)」
「何、このおじさん」
「お前と握手がしたいんだろう」
「え?やだ」

ああ。やっと真実を全て、思い出した。
これでは正に笑い話だ。間抜けにも程がある。記憶を消されたのではなく単に、思い出したくなかっただけか。

「お前さんがネイちゃんの先生?俺はネイちゃんに会いに来ただけだから、さっさとどっか行ってよ」
「太陽、此処では英語を使え。昨日まではちゃんと覚えていただろう?」

ああ、…愛しい人よ。
たった今、貴方は荊の牢獄へ堕とされたのだ。もう、密やかに育ててきた健気な愛など世界の何処にも存在しない。
(可哀想に)
(可哀想に)
(記憶とはまるでパンドラの箱)
(忘れた振りをしても鍵を開ければほら、簡単に)

「やだね」
「可愛げがない態度を取っていると、逃げられるぞ」
「う」
「お前を年相応のちょっとお馬鹿な子供だと思っているんだろう?」
「う」
「無邪気な振りしてキスを奪う男は、痴漢と同じだ」
「うー」

懺悔に似ている。走馬灯にも。
出来れば目を塞ぎたいけれど、何処までこの悪夢は鮮やかなのだろう。

「やっぱりやだもん。だってアキちゃん、お熱なんてすぐ下がるのに。病院なんか居たくないのにさー!」
「仕方ないだろう。肺炎の診断が下されているのに、半日で完治したと言うのは無理がある」
「アキちゃんはネイちゃんをお迎えに来たんだもん。こんな変なおじさんとお話なんかしたくないもんねー」
「太陽」
「やだったら、やだ!宮様だからって呼び捨てにしないでよ、ばーか!」

(可哀想な子)
(貴方は唯一の生贄)
(悪魔へ捧げられる白羊)
(そうだ、あの日の事を貴方だけが知らないまま)
(何周も何周も、時計の針は回り続けたらしい)
(絶えず)

「…クロノスタシス。私はこの子に嫌われているのかね」
「太陽は誰にでもこんな態度だ。猫を被ってる内は、気にしなくてイイ」
「アキちゃん、ネイちゃんとしか握手しない。チューもしない」
「あざとい真似をするが、俺には意味はない事は理解しているだろう」

おいで。
狂った羅針盤は、何処に隠れても貴方だけを指している。
おいで。
希望に満ち溢れた未来はもう、何処にも存在していない。貫く様に切り裂く様に真っ直ぐ落ちておいで、君が愛した俺はもう、何処にも居ないのだから。

「お前が連れ戻すと言ったんだ」
「違うもん。ネイちゃんに会いたいだけだもん」
「会えなかったらどうする?」

見慣れない国で見慣れない貴方を知った日に。
飛ぶ事も歌う事も出来ないまま、一匹の小さな蝉は死んだのだ。そしてその骸は風化しバラバラに砕けて、目には見えない無数の針と化した。

「この大学に籍を置いているとは言ったが、会えるとは言っていない。交わらない縁なら、早めに断ち切っておけ」
「アキちゃんに命令すんな!ネイちゃんはアキちゃんのだよっ」
「それはあの子の望み、お前の願い、どちらだ?」
「!」

夥しい数の針は眠っている。獲物が掛かるその瞬間まで、時が満ちる刹那まで、追い詰められた蜂が命を懸けるかの如く。

「欲しいのは従順な犬か、気紛れな猫か」
「…煩い」
「このままでは羽根を落とすのは、お前が先だな」

ああ、まるで無数の針で刻みながら刺すように。



「And so, close your truth?(見ない振りをするか?)」

時の破片が古びていく度に、真紅の何かが滴る音がする。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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