帝王院高等学校
勇者が刺されたって本当ですか?!
「あらん?」
「どうした?」
「あっちにイチきゅんみたいなゼロきゅんが居る」
「は?」

窓から顔を突き出している小さな背中の呟きに、さり気なく肩を抱きながら覆い被さった男は見ない振り。嵯峨崎零人がつられる様に外を覗けば、米粒の様な人々が見える。零人の視力は悪い方ではないが、現代っ子レベルでの話だ。

「佑壱みたいな俺?」
「あっち、カフェのテラスみたいなとこ。あそこのご飯、お洒落よねィ。食べる前に連れてかれちゃったんだけど」
「すまんママ、後で食べに行こう」
「パパ、あの子って誰だっけ?」
「ああ、見覚えがある。大空が指輪を貸した、東條清志郎だ」
「え?ロシアマフィアの息子、下にいるのかい?」

山田陽子を膝に抱いていた男が目を丸め、幾分減った髪を掻き上げる。

「で、お裁きはどうなったんだ?」
「…お前が金的で使い物にならなくなってる内に、ヤクザな真似をする方向で纏まっちまった。俺は堅気の指揮者だっつーの、どうすんだマジで」
「ああ、トシが加わった時点でまともな解決策は諦めろ。奴は全てを暴力で片づけるババアだ」
「テメェ、それでもヤクザか。世のため人のために何とかしろ」
「国民栄誉賞が控えてる御方を助けるなんざ、烏滸がましい話だろう?男は黙って尻に敷かれてろ、それしか打開策はねぇ」

如何にして高野佳子を追い詰めるか会議は意見が分かれ、げっそり窶れた表情の高野省吾は全てを諦めた。普通に謝る方が簡単に思えてきたから、不思議だ。

「イースト?俺には全然見えねぇなぁ…」
「ほら、真っ赤な頭の子が居るじゃない。何か茶色い子達に囲まれてるけど、あれってイチきゅんの真似してんじゃないかしら?ちょっとイイ体してるざます」
「ママ、俺は比較的簡単に嫉妬する男だぞ。加賀城獅楼が好みなのか?」
「獅楼?!」

飛び上がった加賀城敏史が窓辺に張りつき、うっかり落ち掛けた所を零人に助けられ、恥ずかしげに深呼吸した。

「おお、確かに赤いのがおりますな。全く見えんが、可愛い孫の輪郭は判りますぞ」
「へー、獅楼ちゃんって言うの。見覚えがあるよーなないよーな、変な感じねィ」
「俊に記憶を混ぜられたんだ。仕方ない」
「あァ、そーゆーコト。消す事は出来ないんだったっけ?」
「あはは。僕らの今までの努力は何だったんだろーね、秀皇。俊江さんは、想像以上に何でも知ってるみたいだ」

何処に獅楼がいるのか全く判らない零人は、ひたすら目を凝らした。確かにカフェテラスは校舎から差程離れていないが、それでも数百メートルはある。加えてこの高さからだ。誰かが居るのは判っても、その詳細までは判る筈がない。

「あ、大変」
「「は?」」
「右席委員会、集合!」

帝王院秀皇と零人の声が重なったが、快活な声で掻き消される。
遠野俊江の声にわらわらと集まってきたのは、魔女三人とオレンジ色の作業着だった。集合してしまったものの、『あ、オレ左席だ』と呟いているのだから、無意識だったのかも知れない。

「アラスィー、左席なら右席にも入らないとおばさんは納得しませんょ?」
「姐さんの命令とあっちゃ、この梅森嵐、竹林君に後で叱られても断れねぇっス。だってオレ、カルマだもん☆」
「狡いぞ梅森の癖に!」
「俺だって、俺らだって、陽子姐さんの命令なら聞くんだからな!」
「は?え、何で私の命令なら聞く訳?」
「「「ご主人様の犬っすから!」」」

チームワラショクに太腿をぐるぐる巻きにされている陽子は、この時点でチームエルドラドを掌握した。自称太陽の犬共は、可愛らしいスヌーピーグッズで汚染されつつある、平和な不良達だ。

「普通の親は息子がグレたら叱るもんだけど、私はそんな古臭い女じゃないんだわ!大人しそうな振りして太陽ったら、私に似たのかしらね!」
「陽子、子供の悪ふざけに付き合わなくていいんだよ」
「アンタは黙ってて。今は子供でももう何年か待てば、いい男になるかも知れないんだわ」
「陽子?僕は秀皇ほどじゃないけど、比較的簡単に嫉妬する男みたいだよ?」
「あっそ。私はしないんだわ、どんどん女遊びしたら?」
「しないって言っただろ!もう!」

塩っぱい表情のワラショク社長には誰も気づかず、悪い笑みを浮かべた陽子は、手始めに『お座り』と吐き捨てる。ぴっちり座ったスヌーピー達に、満足げな表情だ。

「アンタら、揃いも揃って結構厳ついじゃないよ。体育科?」
「エルドラドは殆ど工業科っス」
「総長は金持ちのボンボンなんでFクラスっス」
「つーか、王族の末っ子っス。家督争いで命がやばかった所を、亡命したらしいっス」
「何なの、何処のドラマの話?」
「陽子ちゃんや。帝王院じゃ有り触れた話だよ、そんなのは…」
「マジ?」

山田大空の呟きに目を丸めた陽子は、携帯が震えたので胸元からしゅばっと携帯電話を引き抜いた。ガコンと大空の顎にヒットしたが、『あ、ごめん』で終わりらしい。

「あ」
「誰から?夕陽かい?」
「別に、アンタには関係ない」
「男だね。ちょいと見せてごらん、陽子。ネットか。ネットで男を引っ掛けたんだろ、俺が社会的に死んだ事になってるから早速引っ掛けたんだろ、判ってるんだよ俺は。携帯を貸しなさい」
「いや。私が誰と浮気したって関係ないでしょ」
「僕はお前さんの夫だよ?関係なら大ありだろうが!二人も子供作っといて、今更関係ないなんて誰が信じるんだい?!」
「うっせ」
「陽子!」
「『夕陽から連絡を貰ったんだが、太陽にはまだ会えないのかい?』」

ワラショクの激しい夫婦喧嘩が始まる前に、俊江からどうにかしろと目で訴えられたオレンジの作業着は呟いた。大空から携帯電話を覗かれまいと振り回していた陽子の手から、素早く携帯電話を奪ったからだ。

「差出人は、榛原ユーダイ?」
「…ユーダイじゃなくて、マサヒロ。僕の父だよ、梅森君」
「そっスか。良かったっスね、浮気じゃないみたいで」

むすりと頬を膨らませて黙り込んだ陽子を抱えたまま、大空は深い息を吐く。

「いつから?」
「…二回目の七五三くらいから」
「五歳か。十年とはまた、長いこと隠し通してきたねー」
「アンタが会わせようとしないからじゃない。隠し事ばっかりで、私だけアンタが榛原社長の息子だって知らなかったんだわ」
「知ってたら、僕と文通なんかしなかっただろ?」
「そりゃそうでしょ、誰が父親を解雇した男の息子なんかと」
「義父さんは希望退職だよ。誰の首も切れなかった情けない経営者に代わって、辞表を書いたんだ」
「…知ってるわよそんな事。父さんが辞めてすぐに、榛原社長が辞任したんだもの」
「勿体ないと思ってたんだ。本当だよ?」

膨れた妻を撫でている男は、困った様に微笑む。全て打ち明けている事だが、何度懺悔しても己の愚かさを再確認するだけ。

浮気してもいいかい?

取り返した携帯を抱き締める陽子へ、大空は呟いた。その意味に気づいたのは彼の親友だけで、他の誰もが判っていない。

「好きにすれば」
殺してくれないか
「オオゾラ!」

だから、その言葉の意味を理解したのもまた、遠野秀隆だけだった。
焦った様に指を鳴らした男は、父親と妻以外が動きを止めたを確かめてから息を吸い込んだが、大空へ怒鳴り散らす前にパシンと言う音が響いたので、出足を挫かれる。

「舐めてんじゃないんだわ、殺してなんかやるもんですか。アンタが言うなら叶えてやりたいってのが妻の望みでも、出来る事と出来ない事がある」
「…うん。今のは嘘だよ、ごめんね」
「馬鹿ね、アンタ。私が催眠術で言いなりになってたのか、望んで言いなりになってたのか。判んないんだったら、聞けば良かったんだわ」
「…」
「どんだけ出産が辛かったか判る?帰ってこない旦那のご飯用意して夜中まで待ってる悲しさが、ガレージにわざとらしく落ちてるイヤリングを捨てる時の気持ちが、家に入った事もない女から馬鹿にされる気持ちが!」

パシンパシンと、大して痛くもないだろう平手打ちの音は、微かに大気を揺らしただけだった。再び指を鳴らした秀隆は肩を竦め、ニヤニヤしている妻の頭を撫でる。

「イイわねィ、痴話喧嘩」
「しないぞ。勝てないからな」
「やだ、やってみないと判らないざます」
「しないぞ。やってみなくても判る」
「放っといて良いんですか、あれ」

獅楼が見つけられないので不貞腐れた零人は、ボクシングマシーンばりに引っぱたかれている大先輩を横目に、呟いた。叩かれているのにヘラヘラ笑っているドSは、サドではなくマゾなのかも知れない。

「洋蘭」

ぽかんと山田一家の夫婦喧嘩を眺めていた一同は、微かな囁きを聞いた。
振り向けば、奥で窓辺に張りついている長髪の男の髪が、風に踊っている。

「ヨーラン?ヤーレンソーラン?」
「祭洋蘭、叶の3番目の事だろう」
「ああ、本当だ。二葉が誰かを抱えて走っていくな」
「素敵。まるで王子様の様だわ、見てレイ」

俊江の台詞に秀隆が呟けば、点呼で整列していた高坂アリアドネもまた窓から顔を出し、つられて嵯峨崎クリスティーナもすぽっと外を覗いた。恐ろしい速さで走っていく浴衣姿の男の後ろに、凄まじい速さでついていく誰かが見える。『ん?』と眉を跳ねたアリアドネには、誰も気づかない。

「ディアブロが殺した相手を埋めようとしてるみたいよ」
「クリス、流石に日本で殺人なんてしないわよ、幾らあの子でも…」
「おや?」
「どうしたんですか、守義さん」
「陛下が叶二葉だと仰った男が抱いているのは、まさか…」

ビタっと凄まじい勢いで窓に張りついたワラショク専務は、忙しげに眼鏡をクイクイ押し上げてから、わなわなと震え始める。傍らでドン引きしている彼のパートナーは、近年老眼に悩まされているので、どれほど目を凝らしてもぼやけた視界で判るものは少なかった。

「まさかって、何です?俺には何も見えないんだが…」
「それでも一度は剣の道を志した侍ですか!」
「ちょっと待ってくれ、何十年前の話をしてくれるんだ。中央委員会に入ってから部活はやめたんだぞ」
「何処からどう見てもあれは、太陽坊ちゃんでしょう!」
「え?!」

ビシっと小林守義が指差す先、全員が目を凝らしたがそこには誰も居ない。
見間違いだろうと誰かが呟いたが、ニタァと笑った女…否、右席委員会会長だけは、袖を捲っている。

「緊急事態発生!スヌーピーとクリスとレイ様は此処で人質を見張っててちょーだい!副会長、剣士長、オマワリとアラスィーは俺について来やがれ!」
「シェリー、何が起きたんだ?」
「馬鹿かお前は。シェリーじゃない、シエ会長と呼べ」
「アレク、いい加減トシは放っとけ。馬鹿が移る」
「俊のマブダチが刺されてるって時に、何をゴネてんだヤクザ部長!」
「ヤクザ部長?!テメ、そりゃ俺の事か?!」
「シエ、俊のマブダチとは誰だ?」
「タイヨーきゅん。ライバルみたいなもんらしいわょ?」
「太陽が刺されてるって、どう言う事?!」

しゅばっと立ち上がった巨乳が豪快に揺れると、つい身構えた右席会長はごくりと唾を飲み、両手で己の胸を揉んだ。ない。肉の気配が全くない。どう言う事だ。何と言う格差社会だろう、これでは息子の短足を全く笑えない。

「くぇっ。俺について来れるなら、そのけしからんおっぱい…ゲフンゲフン、お主も来たまえ!」
「何処にでも行くんだわ!怒りで頭が可笑しくなりそうなんだわ、誰が私の太陽にそんな酷い真似をしたの?!大空、抱っこ!」
「ちょいと待って陽子ちゃん。抱くのはいいんだけど、まさかこのまま走れなんて言わないよね?」
「はぁ?!アンタは太陽が心配じゃないの?!」
「いや、そうじゃなくて、第一あの子をどうやって刺すって言うのかなー、とか思ったり。そもそもあの子は昔から、危険な類の察知が凄かったと言うか…」
「大空!」
「はいはい、判りました。言われた通りの場所に運んでいけばいいんでしょ、この僕が」
「嫌ならいいんだわ。誰か他の人に頼むから」
「冗談はやめなさい陽子、お前さんは黙って俺の腕に掴まってな」

ワラショク社長のチョロさがカンストを迎えつつある。
後にも先にもこんなに恐ろしい人間だらけの委員会は存在しないだろうが、最後までごねた組長は妻に置いていかれたくない一心でついていっただけで、他意はないと記しておこう。

「貴方も行っておいで、ゼロ」
「あ?何で俺が」
「ステルスが壊れる時が来たわ」

夜を誘う空の如く暗いサファイアが、微笑んだ。



























「あ、のさ」
「…おう」

雑音。
つまり何かが奏でる音。
ノイズ、いつか耳障りでしかなかった、それ。

「俺ら、付き合ってからそろそろ3年だろ?」
「それがなんだよ」
「だ、だから…さ」

今も、命の数だけ世界中に犇めいている。
今更ながらに思うのは、視界が幾ら薄彩色であろうと、音は如何なる時も豊かだと言う事だ。近頃では思い出す事もない遥か昔、鼓膜だけで世界を感じていた事もあっただろうか。

「色々、ほら。これからの事とか考えないと駄目だなー、って」
「お前は進学するんだろ」
「それもだけど、それじゃなくて!俺らの関係とか!」

地球には端々に愛が潜んでいる。
こんなにも密やかに、こんなにも騒がしく、ほら。今、この瞬間も。

「…どうせ本気じゃねぇ癖に」
「え?」
「お前の本命は白百合だろうが。Sクラスのお姫様と体育科の俺じゃ、笑っちまうほど比べもんになんねぇもんな」

漫画や小説の様に数ページで語り尽くせるほど生易しい感情じゃない。心の中はもっとずっと複雑怪奇、思うまま文字で語れば、際限なく溢れ出てしまうだろう。

「待てよ、俺は閣下とお前を比べた事なんてないぞ?」
「無理すんな。卒業しちまえば、俺らの関係なんか終わりだろ。そもそも、付き合ってるって言えんのか?…お前も俺も、手近な所で間に合わせてただけなのに」
「違う!おい、何でそんな事を言うんだ?!」
「何も違わねぇだろ!」

積み重なった書類の山すら可愛く思えるほど、この地球上を原稿用紙で埋め尽くしてしまうかも知れない。声が聞こえるのだ。雑音だと思っていたざわめきの中から、こんな醜い感情は要らなかった・と。嘆く声が。

「第一、Aクラスのお前が厳つい俺なんか抱いて満足する訳ねぇもんな!今まで昇格しなかっただけで、もし昇格してたらお前は俺なんか相手にしなかった…!」
「そ、れは」

蝉と言う言葉を知ったのは、この国ではなかった。
日が一層強い夏場に外へ出た記憶はなく、ほんの時折スコーピオを抜け出したのは、秋と冬と春の、いずれも夜だっただろうか。いや、数える程ならば、明るい早朝もあったかも知れない。

「何が3年だよ!そうだよ3年だよ!卒業しちまえば、俺とお前は他人だ…っ」
「ああ、もう、煩ぇ!良いから黙って左手出せ!」
「何でだよ、っ、触んなって!」
「指輪!」
「っ?!」

嘆いても、喚いても、耳障りな程に惨めったらしい悲鳴でも、簡単に。愛を歌う者達は幸せを見つけるらしい。愚かだと思わなくもないが、聞き耳を立ててしまうのは単純に、興味があるからだ。

「俺は18号でお前は21号って何だよ、巫山戯けやがって!」
「な、んだよ、これ…」
「お前が柔道続けようが就職しようが、終わりになんかさせるかよ!18歳になったら結婚するって決めてんだ!」
「な、お、おま、何を馬鹿な事…っ」
「お前に馬鹿にされたくない。厳ついわ汗臭いわデカいわ指すら太いわひねくれてるわ、白百合に比べたらダイヤとじゃが芋だけど」
「そこまで言うか…」
「それでも俺が選んだのはお前との未来なんだよ!判ったらさっさと受け取りやがれ、ばーか!」

耳を澄ませば、雑音の中にはこんなにも幸せに満ちた声がある。煩わしいとばかり排除していた今までが遠い昔の様だった。腹の底がチクチクする。羨ましいのかと問われれば、良く判らない。ただ足が止まってしまったのは、彼らが気になって仕方ないからだ。他に理由などない。

「こ、んなのしてた、ら。風紀にバレちまう…」
「煩いな、進学が決まったら謹慎になろうが関係あるか。俺の単位は足りてる。ざまーみろ、定時に帰れるAクラスだからな」
「ふはっ。…開き直んなよ」
「って言うかお前こそ、ずーっと紅蓮の君の追っ掛けやってただろ。もういい加減やめとけよ。俺が推薦入試前に嫉妬で倒れたら、責任取らせるからな…」
「紅蓮の君とお前じゃ月とすっぽんだろうが。比べねぇよ、こんな貧相なもやし」
「悪かったな。ガリ勉Sクラスが、あそこまでムキムキな方が可笑しいんだぞ」

繰り返し何度も何度も悪夢を見る。
愛しいお前を抱き締めて、飢えた動物の本能で貪り続ける、夢。報われない悪夢ばかり。

「…バレたらどうする?」
「駆け落ち」
「馬鹿だろ。大学どうすんだよ」
「だから推薦が決まるまで待ってろっつってんの。大丈夫、金はそれなりに貯めてきた」
「…金持ちのボンボンはイカレてる」
「は、町医者なんか金持ちに入るかよ。家はSクラスだった兄貴が継ぐから、出来損ないは御役御免だろ」
「そっか。捨てられちまうんだったら俺が、拾ってやっか」

他人はこんなにも、幸せで満ち溢れているけれど。雑音はこんなにも幸せな音を奏でているけれど。



『綺麗なお顔ねィ』

二人きりになると、彼はいつもその台詞を耳にした。雑音など何処にも存在しない世界、二人きりの世界で。その時には何も感じなかったと思っていたが、こうも強く覚えているのだから、本音は違うらしい。
擦り寄れば抱き締め返される。そんな当たり前な日常が、如何に幸福だったのだろうと、今頃。

『待っててね、カイちゃん』
『いつまで待てば良い?』
『んー、内緒!』
『そうか』

口付けの合図の様に。
子供扱いするな、と拗ねた振りで抱き寄せた。何度も、何度も。

『カイちゃん』
『どうした?』
『呼んだだけ〜』

文字にしたら宇宙中埋め尽くすのではないだろうか、と。
自己満足の吐露と判っていてもきっと、止められないのではないだろうか。などと、考えた事がある。


『俊』

お前と言う牢獄の中に一生囚われたまま。
想いの丈を書き連ね、神経全てに積み重ねて行くのだろう。文字にすれば少しは楽になるのたろうか。それとも、痛みが増すだけだろうか。

『なァに』
『呼んだだけだ』
『酷っ!僕を弄んだのね?!』
『お前も俺を弄んだだろう』
『根に持っちゃう感じ、ヤンデレ萌え』

思い出すのは、たった一人の事。
醜い動物へ成り果て、我が身に渦巻く底知れない感情を持て余す運命。人である限り、姿無き本能の欲求に刃向かう事は出来ない。

いつか驟雨に烟る街中で、美しい黒を見た。
明らかにあの時はそう、羨ましいと感じた気がしている。今頃。あれほど艶やかに濡れる黒を見た事がなかったから、どうしても触れてみたくなったのだ。

けれど、逃げられた。
触れる前に殴られたけれど、あれは触れられたと言えるだろうか?



「Two hearts joined as one.(異なる二つの心が交わった)」
「「え?!」」

雨を避ける様に、蝶が草の中で羽根を休めているのが見えたけれど、可哀想な真似をしてしまった。がさりと踏み込んだ茂みの中からヒラヒラと逃げていく様を横目に、然し蝶へ謝る前に口から零れた台詞は、まるで牧師の様ではないか。

「True love is inexhaustible. The more you give, the more you have.(真の愛は無限である。与えた分だけ手に入れていく、等価交換)」
「な、何だよ…?!」
「誰だ?!」

警戒するなと言った所で、無理があるのは理解している。彼らが怯える理由は、堅物な風紀委員会が招いた事態だ。

「3年Aクラス坂下悠、3年Dクラス村野真」
「っ、何で名前…!お前、風紀かよ?!」
「畜生、お前だけでも逃げろ…!」
「俺は風紀委員ではない。同級生の素性くらいは知っておけ、…と言いたい所だが、判らんのも無理はないか」

人気を避ける様に森の中、小雨に濡れるのも構わず手と手を取り合う二人を見た。どちらも互いを庇う様に身を乗り出し、驚きと共に警戒しているのが判る。
そう言えば、道中で貰ったものがある事を思い出した。押しつけられたとも言えるだろうか。左手に目を落とせば、捨てもせずに持っていた。

「これで判るか?」
「「ピエロ?!」」
「やはりそうか。想定の域を超えない面映ゆい解答だが、違う。俺の胸元のバッジを見ろ、馬鹿共」

煌めく金のSバッジに、王冠を模したクラウンバッジ。現在の中央委員会に役員は三人しか居ない為、クラウンを携えているのは三人だけだ。

「高坂日向でも叶二葉でもなければ、答えは単純だろう」
「し、ししし」
「神帝陛下…?!」
「何度聞いてもつまらん二つ名だが、口内炎よりはマシか。如何にも俺が中央委員会会長だ、崇めるが良かろう」
「ははー!」
「ちょ、土下座はやめろって!」
「冗談だ。そなたらは左席委員会で流行っている俺様ジョークを知らんのか?」
「「えっ?」」

騒がしい世界、緑で埋め尽くされた世界、目の前には寄り添う二人。羨ましいと言うのは、やはり少し違う様だ。あの時の様に触りたいとは思わない。

「知らんのか。何故だ?神崎隼人が同じ台詞を宣った時は、錦織要の痛烈なツッコミが決まったものだが…」
「おおお畏れながら陛下、な、な、んで素顔でこんな所に…?」
「お、俺らは別に何もしてないです!」
「狼狽えるな、目障りではないが多少耳障りだ。報われない愛を育むそなたらを、左席委員会会長に代わって祝福してやると言っている」
「は?!」
「ああ、まだ言ってなかったか?」

生徒の幸せを願うのが生徒会長の役目だ。
そう言ったのは、帝王院秀皇も遠野俊も同じだった。彼らは親子だ。古びた記憶の中でいつも書類を眺めていた男と、新しい記憶の中でいつも漫画を読んでいた男の根っこは、恐らく全く同じ。
羨ましいかと問われれば、やはり良く判らなかった。秀皇を父と呼ぶのは、幾らかの抵抗感がある。幼い頃も今も、考え方は変わっていない。

「何、何ですか?!」
「祝福?!陛下が、俺らを?!」
「俺はもう中央委員会会長ではない。名乗る名と言えばルーク=フェイン=ノア=グレアムだけだが、俺はこの名の一言一句、微塵も好ましいと思わん。だから呼ぶな。手元が狂って殺してしまうかも知れんからな」
「「!」」
「冗談だ。俺はセカンドとは違い、気が向いた時以外は生かす事も殺す事もせん。そう怯えるな」

いつか風紀委員会が引き裂いてきた恋人達の中にも、彼らの様に互いを慈しむ真実の愛があったのだろうか。容易く引き裂かれる安いそれとは違い、何度引き裂かれても必ず結びつくだろう、永久の愛が。

「顔に怖いと書いてあるが、俺はそんなに恐ろしいか」
「え?!い、いや、そそそそんな事は…っ」
「ぶっちゃけ、アンタが怖くねぇ奴なんて居ないんじゃ…」
「ちょ、マコ!正直者か!」
「成程。見た所、大変興味深いカップリングの様だが、今は萌える気になれん」
「「は?」」
「私が中央委員会会長である内に、懲罰除外名簿にそなたらの名を書き加えておいてやる。曰く『魔王』は、今後そなたらを生温い目で祝福するだろう」
「ま、魔王って白百合…?」
「生温い目って何だ?!」

探しているのは、人間か、彼が持つ王としての素質か。
見つからないのは見つける覚悟がないからか?いつまで彷徨えば赦される?何から赦されたいと願っている?判らない事だらけだ。知りたくないからか?
つまり、本当に逃げているのは。


「Enough talking to me. You have to follow my orders, you right?(無駄口を叩くな。そなたらは従っておれば良い、判るか?)」
「はぁ?」
「判りました!マコは英語が苦手なんです、すいません!」
「そなたらは如何なる時も離れず、共に在る事を選択した」
「は、はい。そうだよな、マコ」
「そうだけど…」
「ならばセカンドに怯える必要はない。あれもまた、同じ穴の狢だ」

悪夢を見ていたのだ。
学園の誰もがそうと気づかない内に麻痺していた悪夢を、いつの間にか引き裂いた矛は。

「これでは罷免されても仕方ないと言う事か」

その身の内に真紅の血を抱く、漆黒の執行者だった。

←いやん(*)(#)ばかん→
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