帝王院高等学校
くるくると、飽きずに回り続けているのです。
「何とした事だ」
「パパ、お尻丸出しで何震えてんの?お風呂沸いてなかった?」
「ママ、俊が泳いでる」
「そりゃそろそろ一歳にもなれば泳ぐわょー」
「一歳で?!…そうか、そうだったかも知れない」

初めて一人で入った湯船で、手も足も出せずに浮かんでいると、父は充電が切れるまでカメラのフラッシュを光らせた。その背後で旦那を微笑ましげに眺めながら、眉をひくつかせて『テメェ、後で覚えてろ』と眼差しで語る母は、恐らく殺気を漂わせた。

「俊」
「何だ女」
「ママでしょ」
「母」

飛んできた拳骨の痛さは凄まじい。虐待だと呟いたが、手を抜かれればそれを指摘したに違いないのだから、他に言える事はなかった。

「パパは普通のイケメンサラリーマンなんだから、下手な真似したら駄目じゃない」
「だが風呂は泳ぐ所だと東京スパリゾートのCMでも言ってる」
「このテレビっ子めェ」

この世は浅はかで愚かで、何度日が昇り沈んでも、変わらない。そんな事はとっくに判っているけれど、どうして人生は何十年も同じ毎日を繰り返すのか。

「その程度の拳骨じゃ俺は死ねない。もっと強く」
「我が子ながらキショい」
「キショいとは何だ」
「やっぱアンタにはあっちのが効くわね。ご飯抜き」
「えっ」

死にたくないと言う他人の願いが理解出来ない。
生きていく理由を探すのも面倒だ。だからと言って死ぬ方法を探すのも、そろそろ飽きてきた。何をしても自分は、今日もまた生きている。

「うちの狭いお風呂で一歳児が溺れ死んだら、親の監督責任問題になんの」
「そうか。溺れれば死ねるのか…」
「目ェ輝かせてんじゃない。パパったら、早速明日からアンタとお風呂に入るって言って、入浴剤やら玩具やら買ってきたんだから」
「む。奴め、無駄遣いが目立つ」
「それパパに言ったら怒るわょ?アンタみたいな可愛げのない餓鬼を可愛い可愛い言ってんだから」
「母みたいな嫁を貰った男だからか?」
「地獄に沈めんぞ糞餓鬼ァ」

本当に沈めるのが、遠野家のお約束だった。
何処で迷子になったのか、いつもより息を切らして帰ってきた大黒柱は、玄関先で素早く服を脱いで風呂場へ飛び込むなり、沈められている息子を見つけて叫んだのだ。

「シエ!何で風呂の湯が黄色いんだ、まさか?!」
「パパが買ってきた入浴剤ょ。柚子湯って、イイ香りがするわねィ」
「成程、そうか。俺はてっきり俊がおもらしをして沈められているのかと」
「ピュー」

キリッと表情を正した父親が人工呼吸を申し出たので、腹に溜まった水を吹き掛けて辞退した。ファーストキスをすると子供が出来るそうだ。女子向けアニメで観た。

「俊、そんなにパパとチューしたくないのか」
「何故したがっていると錯覚した?」
「確かに、パパも親とチューはしたくない。だがそれはパパの事で、俊はパパとチューするべきだと思う」
「パパイヤ」
「ママ!俊が、俊が、まだ一歳なのにもう反抗期に!」
「あらん、成長が早いわねィ」
「そんな…!もこもこのおむつをつけて、カサカサ這い回ってた俊は何処に言ってしまったんだ…」
「俊のハイハイ、何だかゴキブリみたいなのよね。原因はやっぱり、あんよが短いからかしら?」

毎日毎日、何が楽しいのか。
両親はひたすら毎日仲が良く、季節は4つ巡ると一年が経つ。地球規模でその繰り返し。変わるのは年齢、見た目、景色、他には、他には。

「この短いあんよが可愛いのに、ママは意地悪だな」
「父」
「ん?」
「俺は実は違う男の子供だったりするのか」
「何処で覚えたんだ、そんな世界中の父親が複雑な心境にしかならない台詞を!」
「お昼のドラマ」
「昼ドラはいかん、情操教育が一気に中年じみていく。良いか息子、パパは普通に育ってくれたら幸せなんだ。普通にちょっと度が過ぎるファザコンになってくれ」
「ファミコン?」
「良し判った、パパの3ヶ月分の小遣いでファミコンを買おう」
「まだファミコンって売ってたかしらん?今の主流はプレステじゃなかったっけ?」

一つ何かを覚えるとすぐに出来る様になる。
溺れる方法を覚えた。気が向いた時に死ねる様になったと言う事だ。

「ふむ、話題のゲームだと聞いていたが、これは何処が面白いんだ?」
「RPGってのは駄目ねィ、全然面白くないざます。決められた選択肢しか選べない人生なんか、真っ平ょ」
「全くだ」
「我が家は冒険者には向いていないらしい。ママ、次は格闘ゲームをやろう」
「あらん?ゲームの中でボコボコにしたって、何が楽しいのかしらん?」
「父、母、残ったのは育成ゲームとパズルゲームだ」
「パパはママと俊が育ってくれたら、他には何も望まないぞ。そして二人は俺を育ててくれ」
「パズルにしましょ。解けないパズルはないのょ」
「何が楽しいか、俺には判らない。俺は説明書を読む方がイイ」
「対戦が出来るみたいだな」
「パパと戦うなんてドキドキしちゃう!」

ゲームとは、子供の遊び道具ではなく夫婦の愛を高めるものなのか。









「ただいま」

カンカンと、登る度に音を発てる古いアパートの階段を、足音を消さずに登ったのはいつ振りだっただろう。

「お帰り」
「友達が出来た」

ドアノブを回して玄関へ飛び込めば、窓辺にバケツを下ろしていた背中が振り向いた。ちりりん、と。鼓膜を震わせる風鈴の音。

「へー。今日は何処の物好きな猫ちゃんをナンパしたの?」
「猫じゃない」
「やっぱり犬だったか。アンタ、ワンコには好かれんのよねィ」
「違う。剣道の体験に来てた子」
「…おっと?っつー事は人間かね?」

夏。
3歳を迎える前、暑い夏がやってきたばかりの梅雨明け。

「少なくとも人魚じゃなかった。肺呼吸だったらからな」
「道着脱いだら洗濯機に入れときなさいよ、一ノ瀬さんから買って貰った大事な奴でしょ」
「そうだった。一ノ瀬の兄ちゃんは3段だ」
「そー、凄く強いらしいわょー」
「師範代は4段」
「らしいわねィ、顔だけのイケメンじゃないっぽい」
「今日、勝った」

滴る汗を拭いもせず、窓を拭いていた母親は動きを止めて。ややあってから、深い溜息を吐いたのだ。

「じゃ、辞めなさい」

あっさりと投げ掛けられた言葉、キュッキュと窓硝子を拭く音。大雑把な女の掃除は丁寧とは言えなかったが、暑さを凌ぐには水仕事が最適なのかも知れない。

「判ってる。全員の記憶を塗り替えてきた」
「あーら、仕事が早いじゃないの俊ちゃん。明日からニート?そろそろ保育園デビュー?」
「今度は弓道にする。保育園とは、保育される必要がある幼児が通う所だ」
「確かに幼児じゃないわね、あーたのサイズじゃ」
「弓は借りられて、袴は剣道のものでイイらしい」
「そ。やりたきゃ何やってもイイけど、ちゃんとパパにお願いしなきゃ駄目よ」
「ん。月謝は父の小遣いの範囲内」
「しっかりした2歳児ざます。パパのおビールは外せないから、他の所で節約しないとねィ」

ちりんちりん。窓辺の風鈴が揺れている。ドアを閉め忘れていた事に気づいたが、開いた窓から吹き込む風が玄関を抜けていくので、換気にも風通しにもなるだろう。

「その道着もいつまで着られるか判んないし、ママはバイト増やそっかなァ」

涼やかな硝子の下、涼しげに鳴いている舌が揺れる短冊は、古びた映画のチケットだ。それと同じものが父親の財布に入っている事を、知っている。

「母。我が家はそんなに切羽詰まってるのか」
「あらまー、ちっとも詰まってないわょ?パパのお給料だけで貯金しちゃうとアレだけど、私のアルバイトは儲かるのょ」
「何かを切ったり貼ったり縫ったりするんだろう?」
「時々砕いたり焼いたりもするわょ。あ、お鍋の中に茹でたトサカが入ってるから、酢味噌つけて食べてイイわょ」
「また鶏を捌いたのか」
「自分で捌いたお肉以外は信じられないんだもの。近頃のスーパーには、中々丸鶏は置いてないのよねィ」

狭いアパートへ帰るといつも良い匂いで満たされていて、父親は帰宅するとドアを開くのと同時に、ただいまもなく夕食のメニューを尋ねるのがお決まりだ。一通りお品書きを聞いてから改めて『ただいま』と言う男が『息子よー!』と叫んで飛びついてくるので、それをさっと躱す。働いてきたサラリーマンの帰宅後は、無精髭が武器と化すからだ。頬擦り地獄は勘弁して欲しい。

「母は肉屋で働いてるのか」
「うーん、惜しい。ママはちょっと特殊なお肉を取り扱ってます」
「そうか…もきゅもきゅ、うまい」
「本当に好き嫌いしないわねィ、あーた。普通のお子様なら、鶏の頭見た時点で失禁してるわよ」
「うまいものを見て失禁する理由が判らない」
「あらまー、しつけの賜物かしらん。…あ、後ろ」
「後ろ?」
「ゴキブリ!」
「きゃー」
「ゴーゴー俊、その短いあんよで逃げなさい。奴らは殺しても殺しても蔓延る、カーストの最頂点に君臨する種族ょ!だから殺したらいけません!殺すのは食べる時だけよ!もし殺してみやがれ、お前の口の中に突っ込むぞ!」
「ヒィイイイ」

夏が近づくと音が増える。
空も虫も命の鼓動を増し、鼓膜は容易く使い物にならない。

「掴まったら永遠の闇に取り込まれて、永遠に全身を這い回るのかしら…?!奴らは最後の侍ざます!さァ逃げなさい!この狭い六畳間を!」
「うぇ、ふぇ、うぇーん、うぇぇぇん」
「そうそうその調子、お子様はお子様らしく泣いてりゃイイんざます」

食べて泣いて遊んで寝て。
そんな繰り返される毎日を、母親は毎日変わらず楽しげに眺めていた。

「ゴキちゃんには野生に帰って貰ったから泣きやみなさい」
「ふぇ。ぐすっ、めそり」
「よちよち。それにしても残念だったわね、折角お友達が出来たのに」
「イイ。5分で嫌われた」
「は?」
「試合したいって言われて相手をしたら、睨まれて罵られて嫌われた」

そうだ。やって来た。
久し振りにあの子が、地中から這い出した蝉の子が。

「それ本当に友達?どんな子と試合したか知らないけど、大人相手ならともかく手加減した?アンタの握力80kg超えてんのよ?」
「手加減したら嫌われる」
「しなくても嫌われてんじゃない」
「タイヨーは俺が何をしても怒る」

いつも。新生児室のベッドの上でヘラヘラ笑っていた時ですら、怒っていない時がなかった。どうしてあそこまで嫌われているのか考えたが、答えはまだ見つからない。根深い恨みでもあるのだろうか。だとすれば、いつから?

「タイヨーって言うんだ、あーたの初めてのライバルは」
「ライバル?」
「友達ってのは、色んな話が出来る子よ。すぐプイってする子は友達になんないの」
「ちくわとは沢山話をした」
「ちくわ?」
「む。さくら?子供と話をしたのは初めてだったから、混乱していたのかも知れない」
「2歳の台詞か。こっちが混乱の極みだっつーの、ゴキちゃんに戻ってきて貰おうかしら…」
「ほっぺが桜餅みたいだったんだ」
「美味しそうな子ねィ」
「食べてないから判らない」
「寧ろ食べてなくて良かった。もいっこのお鍋に甘辛く煮たモミジが入ってるから、しゃぶってなさい」

夏がやって来た。
羽化を待つ蝉は、再び天の下へやって来るだろうか。

「もっちゅもっちゅもっちゅ」
「いつまでしゃぶってんの。味なくなってんじゃない?」
「天岩戸。神じゃなくて太陽の場合、どうすれば出てくるか考えてる」
「相変わらず訳判んないわねィ。お風呂に水貯めてるから、プール代わりに水風呂入っといで」
「もいっこ食べたい」
「鶏さんのトサカとあんよ、一匹に幾つ生えてるか知ってるわよねィ?」
「知ってる。もいっこ」
「一緒に煮たレバーは食べてもイイわょ。もいっこはパパの分に残しといて」
「5羽捌いた癖に」
「あはん、つまみ食いって不思議よねィ。作ってる間になくなっちゃうんだからァ」

灼熱に燃える真夏の太陽は、流れ出る血液に如く赤いそうだ。






くるくる。
巨大な天体が廻る音がする。
くるりくるり。
季節が変わって年齢を重ねて、景色が変わって、そして。



『弱虫野郎』
『テメェの弱さが壊したんだ』
『捨てたつもりの過去に、未練があったんだろ?』
『お前の所為で死んだ』
『弱虫野郎』
『お前の所為で、レヴィは死んだ』

『お前が全て悪い。
 償え。贖え。謝罪しろ、ナイト=メア=グレアム』



いつか軋む音がした古いアパートの階段を、時々思い出す。
郵便受けに突き刺さった封筒を取り出して、合格通知なる書類を流し見た。隣の家の軒先で掃き掃除をしていたご近所さんは、いつもの様に挨拶の声を掛けてくれる。

「毎日毎日、寒いわね」
「はい」
「高校生だっけ。早いもんだわ、置いてきた下の子も高校生なのよ」
「千明兄ちゃんは?」
「専門学生なんてお気楽なもんよ。本当に好きな事やれば良いのに、誰に似たのかしらね」

この家が建って何年経ったのか。
庭いじりが生活の一部である母は、冬場は退屈そうだ。近頃は昔やっていたアルバイトにも出掛けず、何処か無気力な様にも見える。

「俊江ちゃん、どうしてる?お父様の三回忌でしょう?」
「ばーちゃんの所は叔父夫婦が同居してるので、今年も行かないと思います」
「姉弟仲が悪い訳じゃないんだ。顔を出してやれば喜ぶだろうに」
「おばさんは?」
「私?」
「旦那さんが帰ってきてくれって言ってるって、千明兄ちゃんが」
「…ったく、余計な事をベラベラとあの子は。可愛がってた千景と離しちまったから、俊君を弟の様に思ってんのかねぇ」

ちりちりと、聞こえない筈の風鈴の音がした。
カラカラと庭先のサッシが開く音と同時に、風鈴を手にした女が顔を覗かせる。

「お帰り、俊。声がすると思ったら、お千代さんとお喋りしてたの?」
「おはよう、俊江ちゃん。寒干ししといた大根の出来が良いんだよ、持ってかないかい?」
「あらん、イイわねィ。はりはり漬けにしよっかしら」
「水で戻して煮ても良いよ。沢山あるから、好きなだけ持ってって」
「後でお邪魔するわね〜」

気さくなお隣さんが家へ入っていき、窓辺に風鈴を括りつけようとしている母親へ、合格通知を押しつけた。代わりに奪った風鈴を軒先に括りつけてやれば、大人しく見上げてきた母親から、ポンポンと胸元を叩かれる。

「…おっきくなったわねェ、もうシューちゃんより大きいんだから」
「計ってないから判らない」
「ここんとこ、アンタとシューちゃんの見分けがつかないって言うのよ、お隣のおばあちゃんがね。シューちゃんが夜中に繁華街歩いてたなんて言われちゃ、堪んないわ」
「すまん」
「受かったんだ、帝王院」
「落ちた方が良かったか?」
「落ちる訳ないじゃない、私の息子が。テストなんて寝てたって解けるわ」
「殆ど寝てたから覚えてない」

乾いた風が吹いている。
ちりちりと、乾いた鈴の音。冬場には相応しくない音だ。

「朝帰り所か何日も外泊して帰ってこなかった放蕩息子が、今は毎日部屋にいるんだから鬱陶しいもんだぜ」
「すぐに出ていく。桜が咲く頃には、入学式だ」
「パパはお仕事が忙しいと思うの。春はワラショクの決算期だからねィ」
「来なくてイイ。卒業式も一人で出る」
「そんなに見せたくないの。ま、私も似た様な学生時代だったけど?」
「来たいなら引き止めないが」
「気が向いたら行ったげる」

他に何かする事はあるかと尋ねたが、曖昧に頭を振った母親はスタスタと居間の中。年中仕舞われない炬燵に潜り、卓上のリモコンを握り締めた。

「寮って大変ょ」
「ああ」
「私もドイツで一人暮らしした事あるけど、アンタ料理なんかやった事ないでしょ」
「必要がなかったからな。食えるものを食っていれば死にはしない。でも、出来るなら美味いものがイイ」
「すっかり舌が肥えちゃったわねィ、イチ君の手料理で」
「自慢の嫁だ。あれを従える天神は幸せだろう」
「他人事ってか」
「他人事じゃないか。俺は遠野俊だ」
「あたしだって、帝王院なんて大袈裟な名字の旦那様に嫁いだ覚えはないわ」
「遠野秀隆を確固たるものに塗り替える。それが母の望み」

取引条件は常に引き換えだった。
何かを失う代わりに手に入れる、灰皇院の能力を全て補完した先に手に入れた、天網恢恢の力だ。父親よりずっと精密で、山田大空よりずっと傲慢で、恐らく帝王院鳳凰に最も似ている。
そう言ったのは、父親と同じ姿形をした男だった。

「…何でも持っていきなさい。育った子供が出ていくってんなら、見送るのが親の仕事ざます」
「等価交換に値するものを持ってないじゃないか。支払いは俺がするから、気にするな。親のツケは子供のツケだ」
「イイ男になったじゃない。朝ご飯は作ってないけど、ご飯は炊いてるから何か食べたら?」
「明太子は?」
「塩でも掛けて食っとけ。アンタにそんなもん与えたら、お米一升じゃ足んないでしょーが」
「ダンボールある?」
「物置に取っといた奴があるわょ。一気に詰めたら生活出来なくなっちゃうから、少しずつ片付けていけば?入学式までに手続きしたらイイみたいだし、アンタ外部生って奴なんでしょ?」
「そうだろうな」
「早く行ったって、向こうは学年中幼馴染みだらけなんだから。アンタみたいな無愛想な奴、とっととハブられちゃうわょ」

そろそろ部屋を片付ける必要があるだろう。
然し母親の言葉は至極尤もだと思ったので、食器棚から一番大きな丼を取り出した。ぺとぺとと飯を盛りつけ、冷蔵庫の中のオカズになりそうなものを物色すれば、作っていないと言ったわりに常備菜がストックされている。昨夜帰らなかった父親の分の食事だろうか。

「愛想良くしてなきゃ。カルマの総長だなんてバレたら、果たし状がどさどさ届くわょ」
「そんなモテ方は嫌だなァ」
「足がもうちょい長かったらモテたのに、残念ね〜」
「制服の採寸日、載ってる」
「家で計って送ってもイイって書いてあるわょ。この辺には帝王院学園提携校がないから、私が計ってあげる。ちょっと股下長めにしとく?」
「俺の股下はそんなにやばいのか」
「シューちゃんより身長高いのに、腰の位置が殆ど変わんないって、そりゃやばいんじゃね?」
「泣くぞ」

レンジでタッパを温めながら、待てないのでごま塩を振り掛けて丼を空ける。2杯目も同量をよそい、チンと言う軽快な音を聞いてからレンジのドアを開いた。

「また解け掛けてるのか、親父の催眠」
「さァ、知らない。何年も前から、たまに帰ってこない事があるわょ。計った様に何日か経ってから、迷子になってたって連絡があんの」
「親父には帰巣本能がある。ただ、皇子にはない」
「パパは普通のサラリーマン。王子様みたいだけど、パパはパパよ」
「そうだな」

昔。
狭い一間のアパートで、親子三人寄り添って眠った時の事を時々思い出す。今は一人部屋で、昔の様に居間で眠る事もない。

「B型は熱し易く冷め易いらしい。そんなつもりはないんだが、俺は飽きるのが早いのかも知れない」
「そうでもないんじゃない?出来る様になると極めたくなるもんだけど、あーたは人より極めるのが上手ってだけ。周りがアンタについてこれない事を逆恨みすんの」
「そうか」
「アンタに判んない事なんてないでしょ?知ろうとしない事はあっても」
「母、折角あっためたが、中身はアスパラのサラダみたいだぞ」
「ざまーみろ。イチ君にはちゃんとお別れした?」
「したつもりだが、怒ってたら謝る」
「カナメちゃんは怒ったらしつこそうね」
「すっぽんよりしつこい」
「ケンケンは?」
「凄い仕返しが待ってそうだなァ」
「ユーヤきゅんは?」
「噛まれるかも知れない」
「ハヤトきゅんはどーよ」
「仕方ないなあ、って許してくれるんじゃないか?親戚だから」
「あっちは知らないんでしょ」
「聞かれてないからな」
「…もし」
「うん」
「アンタより二つか三つ年上、に。雪ん子みたいな先輩がいたら」
「判ってる」

年老いた大家が管理を放棄していたアパートの庭先を、毎朝手入れしていた母親に、近所の誰もが声を掛けていく光景。幾つもの習い事を経験しては、飽きたと言って次を求める子供の傲慢さも、子供の意志を尊重するのが親の責務だと思い込んでいた大人も、最早過去の話だ。

「謝ればイイんだろう」
「やめなさい。お兄ちゃんなんて、冗談でも言ったら駄目。私達は、…恨まれてても仕方ないんだから」
「判ってる」

変わったか。何かが、少しでも。
いつか死ぬ方法ばかりを探していた癖に、何年生きてきたのか。今はもう、あの時とは違う事ばかり考えている。

「恨まれる事には慣れてるからな」

愛を知らなければ、憎まれる事は決してハッピーエンドではなかった筈だ。









俺はその日、愛を覚えた。
他人ばかりが幸せになる物語の中で、男女が交わすそれとは全く違う物語が描かれていたからだ。

何も変な話ではないらしい。
少年漫画の主人公の様に仲間を集めて、幾ら夜を渡り名声を高めた所で、俺はお前には近寄る事も見上げる事も出来なかったから。

その煌びやかな白銀を見上げた事がある。
大きな月で満たされた夜のスクリーン、お前は月光に照らされた神の子で。俺は月の光をも飲み込む、真っ黒な何かだった。



約束を覚えているか。
俺がお前を裏切った8月18日、俺は4歳になったんだ。余りにも寂しげに月を眺めている銀色と、解けた白い包帯を覚えている。忘れる筈がない。だから俺はお前に魔法を掛けた。約束そのものを忘れる様に、と。

狡い男だろう。
俺はお前の物語を紐解いた。その寂しさの根源が何処にあるのか、海を渡り広大な大陸の中で探して、荒らして、そうしてやっと、思い知った愚かな男が俺だ。



俺は恨まれる事が、恐ろしくて堪らなかった。





逃げ出してしまう程に。















解けない方程式を睨んで、睨んで、睨んで。
どうしても解けないと、無意識でシャープペンシルの頭を噛む癖があると知ったのは、仕方ないですねぇと微笑んだ男から指摘された時だった。

「何処が判らないんですか?」
「ちょいと待って、もう少しで解けそうな気がするんですよねー…」
「然し、かれこれ十分は動きが止まっている様ですがねぇ」
「うう」

タブレットを見ていない時は幾つかの新聞、日本語ではない小難しげな雑誌を読んでいる男は、そうしながらも周りの景色が見えている様だ。予習用のテキストと睨めっこをしている山田太陽には、目の前の問題以外は見えないと言うのに。

「もうじき昼食ですよ。自力で解くなら解くで、座卓を空けて差し上げないと、中居さんが困ってしまうでしょう?」
「あ、もうそんな時間かー」

二人きりだった。あの時。つまらない悪巧みで付き合ってくれと言った太陽に、叶二葉が頷いてからの話だ。
畳と檜の匂いがする部屋の中、ガラスの向こうは森の中の秘湯の様に演出されている露天風呂があって、24時間貸切状態。互いが互いの体で知らない所など、恐らくもう何処にもないくらいだった。本来なら午後にクリーニングが入るそうだが、二葉が食膳の上げ下げ以外を断ったので、それ以外の時間は完全に二人きりだ。テレビをつける事も、音楽を聞く事もない。

「やっぱ数学が苦手です。つーかこれ、中等部の選定考査より難しくないですか?」
「多少ですが、試験範囲を前倒ししていますからねぇ。先に済ませておけば、後はずっと楽になりますよ」
「そうでしょうけど!」

休んでいる間のカリキュラムを教えてくれると言った二葉は、太陽が苦手にしている設問を上手く纏めて、タブレットで作った問題をプリントアウトしてくる。何処にプリンターがあるのかと思えば、旅館の若女将が事務所で印刷してくれている様だ。
チェックインした時は初対面だった筈なのに、いつの間にそんなに仲良くなっているのだろう。二葉と話している時の若女将は、どう見ても恋する乙女の表情だった。年齢は恐らく三十代だろうが、綺麗な女性で上品な人となれば、勘繰らない方が可笑しい。

「同じSクラスなのに、レベルが違い過ぎる気がする…」
「ふふ。私は3年生ですからねぇ。君が手こずっている問題は、2年も前に通り過ぎたんですよ」
「そう言う意味じゃなくて」

勉強で判らない所があると、一つ教えてくれる度に二葉は太陽の体の何処かを触る。二葉は見返りだと言っているが、そんなものがお礼になるのだろうか。触ると言っても大抵は髪か頬、首筋や脇腹は反射的に身を竦めてしまうが、その程度だ。
少なくとも、午前中は。

「はー。お腹いっぱいになったー」
「本当に、少食ですねぇ。流石に心配になりますよ」
「別に、普通ですって。運動部じゃないし」

膨れた腹が落ち着くまで寝転がり、暇さえあれば風呂に入る。
同じく部屋からは殆ど出ない二葉は自ら風呂に入る事はないので、太陽が誘わないといけない。

「お風呂」
「またですか、好きですねぇ」

当然ながら、庭先の湯船は貸切だ。二葉の他には誰も居ない。

「…指」
「指?」
「うん。前から思ってたんですけど、綺麗ですねー」

だからそれほど広くはないけれど、だからと言って狭い訳でもない湯船でぴったりくっついていても、誰が見る訳でもないのだ。

「私はいつも、手袋をつけているでしょう?だから乾燥しないんです」
「俺も毎日手袋しよっかな」
「おや、君には必要ないでしょう?」
「何で?」
「手を汚す事がないのであれば、あんなものは邪魔なだけです」
「ふーん」
「何をしているんですか?」
「二郎兄さんの平たい胸を触りまくってます。揉んだら大きくなるって、高野君が言ってたんですよねー」
「…成程、巨乳フェチでしたか」
「や、別に?どっちかって言うと、腰の辺りに目が行きます」
「では代わりに私が揉んであげましょう」

誰から咎められる事もない。
あの狭い部屋、短い時間だけが幸福の全てだった。



『さようなら、アキちゃん』

何の面白みもない平凡な男があれほど綺麗な人間をあんなに独占したのだから、もう充分だろう?

『リチャード=テイラーが来たよ』

王子様は金髪なのだと、いつか見た絵本に書いてあったではないか。

←いやん(*)(#)ばかん→
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