帝王院高等学校
紅き巡礼の聖譚曲
「可哀想だねぇ」

雑音。

「僕は知ってるよ。会いたくても会えないのは、寂しいのに一人なのは、凄く痛いんだ」

雑音。

「可哀想だからこれあげる」

雑音。

「どんな時でも笑ってなきゃ」

雑音。
雑音。
雑音。
何処も彼処も何故、煩わしいのか。

探している音だけが見つからない。そうだ、あれはとても静かだった。初めから蝶の羽ばたきよりも静かで、目を凝らさないと見えない生き物だった。


「幸福は近づいてこないんだ」

それなのにどうして手放そうとしたのか、今はもう判らない。


















Bloody pilgrim's oratorio to ourselves.













いつからだ。
いつから俺は、お前に囚われた?
(まるで荊棘の牢獄の様に)
(身動き出来ない事に気づいた時にはもう遅い)


「俺と二人は嫌か」
「やじゃないにょ」

いつからだ。
いつから私は、こうも脆く哀れで弱い、壊れる間際の星の如く。
(痛みもなく)
(だから恐怖もなく)
(今頃になって、恐ろしくて堪らない)


「俊」
「なーに」
「俺を構え」

いつから俺は。
自らの魂の外殻を燃やしてでさえ、お前の視線を欲しがった?
(俺と言う膨大な物語を読めば判る)

お前はその身に宇宙を纏うウラノス。
お前はその身に時限を纏うクロノス。
いつから俺は、お前の頭上に冠を見ていたのか。
(お前を探した理由は、余りにも単純な理由だと)



「今忙しいから、後でね」

お前はとっくに、気づいていたのだろう。
(俺にはもう、宙以外に逃げ場がなかった)










お前がいつか描いたと言う物語を、
一目見た時に私は己を思い知った。

お前が描くピエロ、
感情に踊り狂う哀れな道化師の生涯。













Signals 9th.
Closed our heavenly world.
-天地崩壊-















俺はそれが愛だと、その瞬間まで知らなかったのだ。



(哀れだと)
(愚かだと)
(惨めだと)

(初めから私を嘲っていたのか)








(この世は悪夢に酷似している)

















『フライア?』
『Freyaは女神フレイアだが、Freyrは女神の兄フレイを指す』

笑っていなければいけない。
悲しくても寂しくても痛くても寒くて震えていても、笑っていなければいけない。

『どっちなのかなぁ』
『美の女神、豊穣の神。お前はどちらを選ぶ?』

それが大好きだった父の、遺言。

『世界は箱庭。そして鍵はお前だ』
『鍵?』
『気づいていないんだろう。怯えたお前が閉じ篭っているだけで、本当は鍵なんか掛かっていない』

その澄み切った瞳に射抜かれると、いつも何故か息苦しかった。
彼の為なら死ねるだろうと本気で信じているけれど、諸手を挙げて忠誠を誓うにはそう、この感情は畏怖により近い。

『閉じ篭り続けるのも、外へ出るのも、自由だ』
『やだ。僕を捨てないで、ナイト』
『花子』
『僕にはもう、何処にも行く所がないんだよ…』

捨てたのだ。全て、右腕と共に。
治したって元通りにはならないのだから、そんなものは必要ないだろう?

『良い子にしてるでしょ?ちゃんとマジェスティを監視して、ちゃんと宝箱も隠してるんだよ』
『帰りたいと思わないのか』
『何処に?お母さんもお父さんも、もう居ないのに』
『…すまない』
『ナイトは悪くないでしょう?』
『すまない』
『どうして謝るの?助けられなかったって思ってる?仕方ないよ、神様は誰も助けないんだ』
『お前は二葉を守った』
『ふふ』

大切だったものが簡単にそうではなくなる事を、もう知っている。

『僕は何の恵みも齎さない。綺麗な女神様でもない』

一度進んでしまえば昔には戻れない。先に道がないとすれば、ただずぶずぶと沈むだけだ。

『選ばないのか』
『んー。僕はわんちゃんより、猫ちゃんになりたいなぁ。ねぇ、それなら沢山甘やかしてくれるでしょう?』
『傲慢な俺に、猫は寄ってこない』

時間は前にしか進まない。誰よりも賢い彼が言うのだから、きっとそうなのだ。

『誕生を見守った無は、待つ事しか出来ない虚を抱えて自分を引き裂いた』
『またビッグバンの話?』

死ねないならいつか死ぬ日まで待つだけ。

『生み出す為に剥奪しなければならない、それが俺の業だ』

眠る様に生きていればいつか、その眠りは永遠になるのだろう?

『俺はもう、眺めているだけでイイのに』

触れば壊れる・と。
囁いた漆黒の双眸は、どんな形をしていた?





「っ、何…?!」
「ああああああああ…ぁ」

落ちる様に。崩れる様に。
倒れ込んできた人を反射的に抱き止めれば、何故か逆に抱き締められている事を知った。

「やっ、やめて…っ!ねぇ、離して、ぼ、僕、汚いからっ」
「No, absolutely not! You are not duty!(そんな筈がありません!)」
「やだって言ってるでしょう?!」
「貴葉!」
「っ、何で僕の…?!」

違う。
それは日本語が下手だった父親が、間違えてつけた名前なのだ。本当なら母と同じ『き』で始まる名前で、

『どうして僕は、冬ちゃんや文ちゃんみたいに「ふ」がついてないの?』
『そりゃ、お前』
『大切な妹だからだよ、貴葉』
『大切?』
『そう。君は「貴婦人」で「貴重品」で「綺麗」だから、「不要」ではないんだ』

いつか、困り果てた次兄の傍らでクスクスと笑いながら、優しくて大きい兄から抱き上げられて。大事大事と頭を撫でられた事もあったけれど、何年も昔の話だ。この手は汚れている。この体も。魂も余す所なく、全てが。

「離して…!早く離せよ!」
「God bless you! Please show me your face, your eyes more!(神に感謝します!さぁ、顔を見せて下さい。貴方の瞳も、もっと!)」
「やめて!離して、おばあちゃん!」

我武者羅に突き飛ばした。他人の体温なんて何年振りに触れたのか、体中の震えが止まらない。

「良かっ、た」

それなのに顔中をくちゃくちゃに崩した人は、冷たさを感じさせるアイスサファイアの瞳から、小雨の中でも判る透明な雫をぼたぼたと零しているのだ。

「な、にが?」
「生きていてくれて…!」
「…嘘だよ」
「貴方はあの頃よりずっと、母親に似ていますね…」

ずっと見ていたなんて、今更告げられてどうしろと言うのか。
生まれ年の硬貨を大切に持っているのだと、震える手の中に握られた懐紙を渡されても。受け取る勇気もないのに。

「こ、んなの、要らない…っ。僕なんか生きてたって、誰も喜ばないんだからっ」
「冬臣がそう言ったのですか?」
「…だって、僕は」

いつだったか。目覚めてからすぐの事だ。動きの鈍い体を引き摺って、家に帰ろうとした事がある。死んだ事になっていると聞いていたけれど、目覚めるまで何年も経っているのだと聞いていたけれど、理解していなかったからだ。

「おじーちゃんは、駄目だって言ったのに…」
「その方が、貴方を助けてくれたんですね?」
「僕の成長が止まったら動かなくなった体を治せるって言ってくれたのに、僕、お兄ちゃんに会いたくて…」
「冬臣ですか?」
「…お兄ちゃんは弱くて、出来損ないって言われてたんだ。大おばあちゃんの弟の子供だから、多分、叔父さんなのかも」

触らないでと言ったのに、どうしてこの人は触ってくるのか。
英国ではとても偉い人だと聞いている。もう二度と会えない父親が、時々こっそりと写真を眺めていた事を知っていた。綺麗な金髪に、冷たい青い瞳を持つ美しい人は、絶対に会えない祖母だと言う。

『どうして会えないの?』
『おや、キハは会いたいの?』
『だって僕のおばあちゃんでしょ?会ったら駄目なんて、誰が決めたの?』
『…さぁ、僕にも判らないな。本当に、誰が決めてしまったんだろうねぇ』

彼女は公爵だから、庶民とは話をしないのだと。困り顔で呟いた父は、写真の中の人と同じ金髪に、彼女より蒼みが強いサファイアの瞳を細めた。

「僕、お兄ちゃんが初恋だったんだ」
「…場所を変えましょう。このままでは、貴方の可愛らしい顔がもっと濡れてしまう」
「触ったら駄目だよ。おばあちゃんは庶民と話をしたら駄目なんでしょう?」
「誰がそんな酷い事を」
「お父さんが…」
「まぁ、マチルダは意地悪な子。…私に似てしまったのでしょうね」

ひたひたと、皺だらけの手が握ったハンカチが、顔中を這い回る。時々頬に貼りついた髪を梳かれて、おずおずと覗き込まれた。

「良く勘違いされてしまうのです」
「ぇ?」
「私は公爵ではなく、今は代理なのですよ。貴方のお父さんが跡継ぎを決めなかったので、私が出戻る羽目になりました」

ああ。
綺麗なドレスで身を包む公爵が、雨の中、地面に膝をついている。

「今の私は、昔々に公爵だった事がある、ただのおばあちゃんです」
「駄目じゃない、の?」
「私の日本語が間違っていないなら、お話をしましょう。私はずっと、貴方の声が聞きたかったのです。ああ、それと、貴方のお誕生日を誰かとお祝いしたかった」
「おばあちゃ…」
「スコーンにはたっぷりジャムを塗りたかった。っ、子供を産んでみたかった!つまらないお茶会なんて本当は昔から、大嫌いです…!」

ずっしりと。それほど重くもない筈の小さな包みが手の中で、その存在感を教えてきた。雨を吸って重みを増したのか、それとも。

「…他には?」

いつの間にか体の震えが止まっていた。
けれど目の前の人の手が、目に見えて震えている。そろそろと、縋る様に抱きついてきた時とは真逆に、近づいてくる指先はその白さも相まって、凍えているかの様だ。

「ほ、本当はずっと、誰かに触れてみたかった」
「うん」
「けれど私の手は、とても汚れていて…」
「どうして?おばあちゃんの手、真っ白で、凄く綺麗だよ」

ああ、どうして。
その両手を一つずつ握ってあげる事が出来ないのか。

「だから泣かないで。笑わなきゃ幸せが寄ってこないんだって、お父さんが言ってた…」
「!」
「だから僕は、冬ちゃんは、文ちゃん、は。おじいちゃんが死んで悲しかった時も、お父さんが死んで悲しかった時も、ずっと、ずーっと、笑ってたんだよ」

他の大人達から気色悪いと陰口を叩かれようと、弱い者は死ぬしかない。出来損ないしか居なかったから叶は皇に選ばれず、使い捨ての駒だった。使い捨てにもならない駒は、将棋の歩にもなれずに死ぬだけ。

弱きは滅せよ。雲隠は天狼だった。
脆きは排除せよ。榛原は天狗だった。
響かぬ鐘は砕けよ。明神は神狸だった。
愚かしきは淘汰せよ。冬月は神狐だった。

天神の遣いの骸を埋葬する事が、不出来な十口の存在理由だったのに。


「生きる意味を与えられたら、裏切ったらいけないんだよ。だけどお父さんは裏切った」

犬小屋から連れ出して貰って、綺麗な服と広い部屋を与えて貰って。温かくて美味しい食べ物を与えられたのに、それ以上を望んだりするから天罰が下るのだ。

「優秀な空蝉は裏切らない。でも僕は不出来な叶だからいけないんだ。獅子は気高い猫なのに、お父さんは犬だったから…お父さんは本当は、おじいちゃんの子供じゃなかったから」
「本当に、あの子は意地悪な事ばかり…!マチルダは私とアランの息子です!」
「だってお父さんは、」
「穢らわしい王室の事なんて忘れましょう」

どうして要らないものだと捨ててしまったのだろう。心臓に近い腕を伸ばせば指先を伝って、この酷い心音が届いてしまうかも知れないのに。

「私もお腹が空きました」
「でもおばあちゃんは、待ってなきゃいけないんでしょう?」
「私は貴方を待っていたのかも知れません」
「…違うよ。僕、本当は誰が来る筈なのか知ってるんだ」
「ヴァーゴ」
「え?」

泣くな。笑え。
要らないものだと利き腕を削ぎ落とした時の様に、ピエロの様に。笑え。笑え。笑え。それ以外の事は全て、掃き捨ててきた。

『お前は鍵だ』
「マチルダに娘が産まれたら、ヴァージニアと名づけるつもりでした。アレクサンドリアはアランが名づけてしまったから、悔しくて」

だって。
今更、どの面下げて会えば良い?

『傲慢な大人が作った、無垢な乙女』

大切な宝物だと言ってくれた兄達の前へ進み出るには、我が身の何と見窄らしい事か。年々美しく強く成長していく弟が、羨ましくて憎らしくなっている醜い心を、どうして曝け出せようか。
細い体躯の腹だけ膨らんだ母親に、危険が近づいている事に気づいた。その瞬間、母の静止も聞かずに飛び出した馬鹿な娘が、身を守れなかったのは自業自得でしかない。弱い者は死んでいくだけだ。だから泣かなくて良い。だから叫ばなくて良い。

「もし男の子だったら?」
「ウラノスかヘリオス。昔から沢山考えていました」
「ふふ。それって神様の名前でしょう?ロマンティック」
「そうでしょう?それなのにアランは、いつも勝手に決めてしまう。私に何の相談もして下さらないのです」

白濁していく最後の記憶は、そんな淡い願いだった筈なのに。

「きっと言えなかったんだよ。叱られると思って」

大切な弟。宝物。生きていてくれて良かった。だから恨んだりしない。恨むのはお門違いだ。そう言い聞かせても、心の中に黒い何かが渦巻いている。ぐるぐると。ぐるぐると。

「そうでしょうか。貴方はアランとは違い優しいので、そう思うのですよ」
「…おばあちゃん、公爵様なのに本当に悔しかったんだねぇ」
「誰にも話していない秘密なので、内緒です」
「おばあちゃん」
「はい?」
「眺めてるだけで、満足?」

両頬へ皺くちゃの指先が漸く辿り着いた瞬間、何処かで扉が開く様な音がした気がする。

「おばあちゃんの手、温かいねぇ」

雨に打たれた道化師が、足元で笑っていた。



『Could you change general into special, General Freyr?(お前は普遍を唯一に変える事が出来るか、ジェネラルフライア?)』

























「テンポはグラツィオーソ、コンフォーコ。
 一瞬の油断なく踊り明かそう、魂が一粒残らず砕け散るまで。

 俺は調律を崩す。
 俺は普遍を淘汰する。
 我が名はスケアクロウ、シーザートランスファー(神の依代)。



 聖譚曲第2番、フランツ=ヨーゼフ=ハイドン『天地創造』」
















それは気休めだったのか。
打ちつける雨は間もなく遠ざかり、重苦しい雲間から差し込む光はまるで神の慈悲の如く、地を這う獣を照らしている。


然し世界は容易く崩壊した。時は戻らない。
大洪水を生き延びた者達が視たのは、ただただ広がる絶望ばかりだ。容赦など何処にも存在しない事に、その時は気づいていなかっただけ。

天災とは神の気紛れな裁きである。
箱の中に封じられた希望はとうに、犇めく夥しい数の絶望に染まっていたのだ。









ああ、全てが青い。
目の前に広がる海原も、夜明けを迎えつつある群青の空も、夜を何処かへ奪い去ろうとしている様だ。


「…いつか、濡れたお前の髪を見つけたんだ」

いつか、雨に烟る薄灰色の街並みで濡れそぼる黒を見た事があった。始まりは恐らく、その灰と黒の世界からだ。

「周囲の一切、視界に於ける悉くが灰雨に覆われている。その中で、唯一お前だけが浮かび上がって見えた」

覚えているか。
最早、果たされた所で何ら意味を為さない約束を。初めての待ち合わせにお前は、とうとう現れなかった。酷い火傷を隠して俺は、何時間も月を見上げていただろうか。

「俺の言葉は回りくどいんだったな」
「…」
「もしかしたら俺は、日本語が下手なのかも知れない。指摘された事がないまま生きてきた所為で、今頃気づいた様だ。…だが、もう遅いか」

見ているか。夜を払う黎明が照らす、この醜い我が身を。
この血に濡れたが如く紅い瞳が本物だ。朝から嫌われ、夜からも拒絶された一人のアルビノが我が身の全てだ。他には何も存在しない。

「栄爵に心から祝福を捧げよう、ナイト=ノア=グレアム。それ即ち、唯一神の冥府揺るがす威光を須く知らしめんが為に」
「…」
「あの空の如く、今の俺の心は晴れている」

嘘だ。
言葉にすれば宇宙を埋め尽くすほどの未練が、夥しいほど存在している。腹を切れば見せつけられるなら躊躇いなくナイフを手にしたものを、そんな真似をした所で、人間の心は目には見えない。幾ら言葉を尽くしても、伝わらなければ意味はないと知っている。

「その名をメアで書き換えられなかった事だけが、私の唯一の未練だ」
「っ」
「とうとう表情を晒したな、俊。今、お前の名を『神』にしなくて良かったと思っている。神と言う名の神では、笑い話だ」

世界は反転した。
夜から朝に変わる今の様に、冠を脱いだノアはノヴァへ、冠を掲げた騎士はノアへ。最早この世に、お前が守るものなど何もない。

「I have asked you about it before, Baron Caeser Knight noir.(再び問うぞ、シーザー=ナイト=ノア)」

終わりの時間がやってきた。
(神よ)
(せめて最期に別れの言葉を)


星の光が瞬くのは夜の時間だけ、日の元では誰にも届かない。



「Was I black sheep?(俺は異質だったか?)」

神よ。
愛を患った人間は、異質なのか。
(見ない振りをするなら殺せば良い)











(何故、躊躇う?)
























































「見える時がある。いつもじゃないけど、見えた時は大体、同じ事が起きる」

初めは夢だと思っていた、と。

「それはどんなものが?」
「…言いたくない」
「良くないものか」
「たまに、見えんだよ。訳判んねー」

呟いた男は何処か微笑んでいる様だった。諦めを孕んだ瞳に、仄かな期待が見え隠れしている。

「アンタ、全部ぶっ壊してくれんだろ?」

藤倉裕也が見えたと言えば、サングラスを押し上げた男は肩を竦めた。肯定しているのか違うのか、仕草だけでは判らない。

「俺は、死にたがりを飼った覚えはないんだがなァ」
「ぷ。そうかよ、悪かったな」
「シンデレラ」
「は?」
「俺が一番最初に読んだ童話だ。母親が買ってくれた」

パンドラの箱を探しているだろうか、誰もが。封じられた箱の中に、あるかどうかも判らない一筋の希望を。

「その日から、頭の中で怒鳴ってる」
「誰が」
「魔法は零時で解ける取引だったが、蝉より煩い夜の魔法は解けなかった。彼は特別だ」
「特別?」
「俺は間違っているから、俺の声を探せと怒鳴る」

見つけた所で、それをどうすれば良いのだろう。

「何が間違ってて、何を探すんだよ」
「さァ」

昨日までは幸せだったのに今日は呼吸すら痛くて堪らないとしても、逃げる方法さえ判らない愚かな人間に。僅かな希望を小遣いの様に与えて、何処まで行けと囁くのか。

「アンタにも判らない事があんのか」
「俺に判らない事なんてない」
「でも判んねーんだろ」
「お前にはあるか。判らない事が」
「知ってどうすんの?」

夢を見る。繰り返し繰り返し、恐ろしい夢だ。
いつから始まったのかは覚えてもいない。例えば幼い頃、可愛がっていた大きな犬が眠ったまま起きない夢を見た。その次の日にその犬は、自分の代わりに死んでしまった。

「吐き出せ。俺は人の形をした空蝉だ」

夢を見る。それは悪夢に良く似た、懐かしい夢だ。
見た事もない子供が、女神の口づけを受ける夢。神に愛された子供だった。あらゆる楽器を歌わせる、正に神の落胤だった。

「夜の系譜に堕ちた月だ。回り続ける天体だ。朝にも夜にも渡るが、そのどちらでもない虚構」
「アンタがフィクションってのは、笑えんな」
「聞こえていても聞こえない。見えていても見えない」
「何だ、それ。んな訳ねーだろ」
「俺は人形。犠牲の上に刺さる、物言わぬ十字架だ」

けれど彼は、女神像に押し潰される。悪夢のままに。
あれから何度も何度も同じ夢を見た。もう知っているのに、きっとそれは予知夢ではなくただの悪夢でしかない筈なのに、飛び起きた瞬間に走り出して叫びたくなる。何度も。何度も。

「見たくないものを見てしまうなら、俺と目を交換するか?」
「ふ、流石に無理だろ」

目の前で心配そうに覗き込んでくる男が、『また変な夢見たのかよ』と呟きながら頭を撫でてくれても、だ。

「知ってたのにオレは、誰も助けられなかった」
「ああ」
「犬も、母ちゃんも、カナメもケンゴも、いっこも」
「ああ」
「なのに何でオレは、生きてんだ?」

ただの悪い夢だ。
そう言われる度に吐き気がする。次に眠る時は良い夢を見ろと言われる度に、死んでしまいたくなる。そんなものは見る筈がない。

「お前には視えるのか。俺にも視えないものが」
「アンタも信じてねーんだろ」
「いや。雲雀は視えたらしいぞ」
「ひばり?」
「帝王院雲雀は叶芙蓉と空を飛んだ。いや、実際は海を渡った。渡り鳥の様に」

悪夢の中で見る母親は、あの頃のまま。
悪夢の中で見る健吾は、あの頃のまま。
目覚めて自分の体を確かめると、自分だけがあの頃とは違う形に変わっている。

「過去に戻りたいか」
「…戻れるもんなら」
「そうして母親を助けて、お前は健吾と出会わない生活を選ぶ」
「何でだよ」
「戻りたいんじゃないのか?お前が健吾と出会ったのは、箱の中から飛び出したからだろう?」

そうだ。
広い屋敷のたった一部屋、伯爵の書斎と寝室を改造しただだっ広い部屋だけが世界の全てで、中心だった日の事。あの部屋から外へ出てしまったから、母親はこの世から消えてしまった。あの部屋から外へ出てしまったから、女神の砕けた頭を見た。
悪夢のままに、現実になってしまった。

「オレは…」
「あの頃のまま、母親と二人きりで父親の帰りを待つ生活を選べば」
「どうなってた?」
「自分達以外の誰も信じられずに閉じ篭ったまま、いつか自分達を傷つけてきた大人を殺す事ばかりを考え続ける」

いつか悪夢の中よりも大人びた神の子が、あの頃とは違うオレンジ色の頭を誇らしげに眺めながら鏡越しに、言った。

「…何でも判ってんじゃねーか。本当は総長も見えてんだろ?」
「想像しろ」
「何を」
「殺した後の事を考えたか?」

カルマ。
二人きりの世界に突如として割り込んできた真っ赤な男が名づけた、他人の群れの名前の事だ。家族でも友達でもない、それを仲間と呼ぶのだと。

「目的を喪失した後の事をお前は、一度でも想像したのか?」
「…」
「俺に見えるのは人々が描く物語だけ。そしてそれは紡ぎ合わせて漸く判る。だがそれは、掻き集めた分だけなんだ」
「………オレは見えない方が良かった。見えたって、どうせ何も出来ないんだ」
「あの頃はそうだった」
「どう言う意味?」
「俺には鳳凰。お前には雲雀の翼が宿っている」

そうして、いつしかこの男がやって来た。
鴉よりも黒く、不死鳥よりも強烈な威圧感を以て、何の前触れもなく。

「お前の傍に居れば、いつか俺も見える様になるかも知れない」
「見てどうすんだあんなもん」
「食えないより食えた方がイイだろう?」
「あ?」
「糠漬けを愛せないんじゃない。糠漬けが俺を愛さないんだ。判るか」
「判んねーぜ。茄子と胡瓜の糠漬けは、うめーからよ」

人の幸福も不幸も余す所なく聞きたがる、無慈悲で傲慢な男は囁いた。

「俺は怒ったぞ。お前を毎晩幸せな夢で溺れる刑に処す」

テンポは『エスプレッシーヴォ』、大層賑やかな夢だそうだ。

「プ。何だよそれ、刑になってねーぜ?」
「だが目が覚めるとコロッと忘れてしまう、おまけつきだ」
「台無しじゃねーかよ」
「見返りがない事はしない主義だ。狐は人を化かす方が得意なんだ」
「誰が狐?」
「今はまだ、俺」

飼い主は奇術師の様に、指揮者の様に、そして預言者の様に。話を聞いた分だけ囁いたけれど、夜が明ければ終わり。善悪が曖昧な夢の様だった。

「まだ?」
「月の一族に星が生まれたんだ。お前よりもう少しだけ、俺に近い」
「…全然判んねーぜ」
「あの子にも翼があるんだ。猛禽類の、強かな翼が」
「ハゲタカみてーな?」
「幸せを知らない青い鳥は歌えない」

高野健吾だけは、己の飼い主を『カルマート』だと言う。


「寒い夜に、黄色い狐が見えるかも知れないな」

トランクィッロではない理由は、健吾以外には判らないのだろう。

(#)ばかん→
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