帝王院高等学校
散り際の鎮魂歌
例えば死んだ後に。
天国へ召される事など決して有り得ないだろうが、万一そうなれば落ちる事も構わず雲の下を覗き込むだろう。
地獄へ落とされたのであれば、首がもげる事も厭わず見上げ続けるだろう。
お前の姿ばかりを探している。
お前の声ばかりを求めている。
気づいた時には、既に手遅れだった。だから後悔を覚えた。
空虚な世界。
いつか囁いた言葉は過去に置き去りのまま、今は限られた時間の中でお前への愛ばかり歌い続けている。
蝉の様に。
壊れたオートマタの様に。
まるで、人間の様に。
「にゃあん」
染み一つない真っ白な子猫が、春を告げる風を避ける様に蹲っていた。
「…そなた、何処から迷い込んできた?」
「にゃー」
真っ赤な瞳と真っ白な毛並みの猫に、大して興味などなかった筈だ。そもそも小動物に興味を持った事はない。だから、まるで鏡の中の自分の様だなどと、そんな馬鹿な事を考えた訳でもなかった。
「にゃー」
「スコーピオに入りたいのか」
子猫には上る事も難しいだろう石階段の麓。見事に手入れされている青々とした芝生と、敷き詰められた暖色の煉瓦道、その極彩色に紛れた白は目についた。理由などその程度だ。
例えば、一度も袖を通さなかったネイビーブルーのブレザー。とうとう一度として登校しないまま卒業式典を迎え、それすら出席しないまま訪れた春は、高等部入学式典よりも先に誕生日がやってくる。
「スコーピオが解放されているのは、就学期間だ。S・Fクラスを除き休暇中の今は、権限なくして中へ立ち入る事は出来ない」
「にゃあん」
「それでも、興味があるか?」
4月3日。日本ではこの日に産まれたのだ。
アメリカに居る間は4月2日に祝福されてきたが、数年前から時間の無駄だと祭典自体をスケジュールから除外している。近頃では思い出す事もなかったこの日に、15回目の誕生を祝いたいと言ったのは、帝王院隆子だ。
「お祖母様を待たせている。私が生まれた日などと言うつまらないものを、祝って下さるおつもりなのだろう」
気が重いのだろうか。蠍座の時計台は目の前だ。けれど良く判らない。
来日してからは、毎朝必ず顔を見せると約束した通り、この国では帝王院神威と名乗っている自分は此処へ足を運んでいる。長期入院中の帝王院駿河の名代で、学園長の役目を全うしている隆子は、定期的な通院以外は外出をしない。彼女が退屈を持て余している事は判っていた。特に春休みに入ってからは、学園に残っているのは進学科の生徒だけだ。
彼らもまた無用な外出を好まない生徒ばかりなので、校内は今、水を打った様な静けさだった。
「にゃ」
「…ああ。子猫かと思えば、そうでもないらしい。だが酷く痩せているな」
「にゃあ」
退屈な世界だ。この地球の何処に居ても、それは変わらない。
恐らくは寂しさを紛らわせているだけの隆子が、己を祖母と呼ばせている理由も。
「教えてやれば良いのだろう。父上の元に、本物の孫が居ると」
そうしない理由は良く判らない。
「だがそうなれば、未だに逃げ延びている父上の平穏は終わるだろう。あのアパートは既に取り壊されている様だ」
それでもそれは、理由としては弱かった。既に自分はもう、彼らに何の興味もないからだ。だとすれば何故、今頃になって日本へ戻ってしまったのか。叶二葉の悪ふざけに付き合ってやる理由は単に、そう、退屈だから。
キング=ノヴァの命令に応じた訳では決してない。
あの男はとうにノヴァで、ノアは自分だ。
ルーク=フェイン=ノア=グレアムに命令出来る人間など、この世には一人として存在しない。
「弟か、妹か。いつか興味があった覚えがある。だが、それは今に至る感情ではない」
そよそよと。穏やかな風に踊る髪に、興味を持ったらしい猫がその白い前足を伸ばしている。然し明らかに痩せ細っている動物は、まもなく蹲った。このまま見て見ぬ振りをすれば、容易く死ぬのだろう。哀れと思わない事もない、それは理由になるだろうか。
「食う元気が残っているのであれば、そなたに機会をやろう。生きるも死ぬも、選ぶのはそなただ」
もう声も出ないらしい白を抱き上げれば、真っ赤な瞳が静かに見つめてきた。
「お祖母様にご挨拶を申し上げます」
「いらっしゃい。あんまり楽しみだったから、早起きしてしまったわ。今日は貴方の誕生日ですね、ルーク」
真っ赤な塔の中は壁一面が白く、調度品はどれもが手入れされていて、ステンドグラスは鮮やかで。幼い頃に見た古びた記憶が再び色づくには、過不足なかった。
「あら、そちら様はお友達?」
「ご迷惑でなければ、同席をお許し頂きたく」
「孫の友人を迷惑だなんて。でも、先にお医者様に診て頂いた方が良いでしょう」
何処もそう変わらない。
O型のノヴァとA型のサラ=フェインからは絶対に生まれない黒羊をノアと呼ぶ大陸も、帝王院秀皇には全く似ていないアルビノを孫と呼ぶ蠍の女王も、全ては幻同然の作り話だ。
「少し我慢して頂戴、栄養剤を打てば元気になるそうよ。元気になったら、私と一緒に美味しいミルクを頂きましょうね」
「にゃー」
「ルーク、この子のお名前は?」
ままごとじみた偽りだらけの生活が、これから3年も続くのか・と。
「…名前?」
「そうよ。名前がないと、呼んであげられないでしょう?」
退屈凌ぎにしては、過ぎる虚しさばかりが。
廻せ
廻せ
羅針盤の針はとうに狂っている
過去も未来も捏ねくり回し
真実と偽りを捏ねくり回し
廻せ
叫べ
歌え
希え
狂い踊れ
赤い紅い、彼の血が滴るのを見ていた。
その指先から落ちる神の血が、漆黒の水瓶を満たすまでのモラトリアム。明日には羽根をもがれ乾いていく運命の蝶が、今は鮮やかに踊っている様に。
赤い。
紅い。
お前の血はまるで上等な果実酒の様だった。いつまで眺めていても飽きないだろう、などと、何の確証もない癖にそんな事を考えただろうか。
ノア。
ノアとは純黒の代名詞だった。
お前以上に無垢な黒など、新月の空でも見た事がなかったから。
「ああ、お前には私の声など聞こえないんだったな」
見慣れた部屋で、見慣れない光景を眺めている。
いつかこの部屋は寂しい場所だった。光など差さず、雑音もなく、いつも冷ややかな。それを望んでいた癖にいつしか、この部屋へ帰る事を放棄したのは何故だったのか。
「構ってくれないならお前の名を呼びながら、自ら慰めるだけだ」
死にたい、と。
いつか願った過去が嘘の様だ。こんなにも命は生を歌っている。こんなにも我が身は愛を繰り返している。
「どうせ、お前には」
今はただ、赤い血を見ているばかり。この深紅の瞳で瞬きも忘れて、儚く淡い星の光として仄かに消えゆくまでの執行猶予。
「俊」
愛するから欲情するのか。
欲情すれば愛だと認められるのか。
「俊」
繰り返し縋る様に呼び続けた所で、今際の際に浮かんだ疑問に答える方法は、一つとしてない。
See ya, my endless noir.
散り際の鎮魂歌
誰か剥ぐるが良い。
この皮膚の内側、内臓と骨に守られたその奥を。
何よりもどす黒い混沌が、ほら。
(宇宙の如く広がっているだろう?)
交響曲第X番
羊が歌う鎮魂歌
「隣の芝生は青く見えるってね。的を得てると思わない?」
誰しも、他人が羨ましい。
そう呟いた遠野俊江は、重苦しい表情で沈黙している大人達を楽しげな目で眺めている。
「どんだけ男ぶったってあたしは女だし、男になりたい訳でもないのよねィ」
人質と書かれた紙を、ぺたりと顔に貼られた女は言葉にならない憤怒を唸っているが、意に介さず人質達の手足を縛り直した女は、少年の様な容姿で独り言を続けたのだ。
「昔から医療業界は女の方が多いのに、医者は男が多いからってさァ、爪弾きされんの。外科医は力仕事だなんてほざく馬鹿野郎も居たわょ。殴り飛ばしてやったら『それでも女か!』だって、笑っちまわァ」
中でも高野省吾の姿は、余りにも哀れだった。
慰めてやるのも憚られる程に、正しく死刑宣告を受けた様な表情だ。表情を凍らせて俯いたまま、微動だにしない。
「仕事にしか興味がない親父は、外じゃ神様扱い。家ん中じゃ、ただの糞親父なのにねィ」
糞親父と詰られた男はそっぽ向いており、沈黙を守っている。
「羨ましいなんて思ってなかった筈なんだけど、強がってたのかしら。人様の事は判るけど自分の事って、逆に見えなかったりすんのよね。自分の意思だと思ってたけど、もしかしたら私も、他人の芝生が青く見えただけだったりして」
他人事とは思えない台詞だと顎を掻いた保健医もまた、意味もなく白衣の襟を正していた。ヘーゼルの瞳を静かに瞬かせた女だけは、何事かを考えている様だ。
「いつか扱き落として、じっちゃんが作った病院を乗っ取ってやろうと思ったから、私は医者になった。外科医以外に目もくれなかったわょー。親戚の皆からは絶対無理だって言われたけど、絶対に無理って言葉がね、マジで嫌い」
「…すまないシェリー、愚かな私には君の本意が見えないよ」
「ね、アリィ。なりたくてなった仕事だったのにね。インターン終わる前に結婚したんだから、私の人生って何なのかしらねィ」
独り言の様な思い出話に口を開く者は居なかった。
「糞親父は糞だけど、自分の思うままに生きてきたんなら、尊敬しない事もないざます。少なくとも喧嘩したくないから逃げるなんて、そんな馬鹿な真似はしないジジイょ。幸せになる為には恨まれる事もある。生かす為に殺してしまう事もある。医者が初めに勉強する事」
彼女が己を不幸だと言っている訳ではない事は、その表情で明らかだ。
「目の前に欲しいもんがぶら下がってんなら、草食動物の馬だって走るわょ。格好つけたって人間の中身は一緒、内臓があって血が流れてて、生きてる内は温かい」
「シェリーは、手に入れた?欲しいものを、一つ残らず」
「手に入れた。他に沢山の何かを犠牲にしてるって判ってて、手放そうと思わなかったんだもの。恨まれてる自覚はあるし、逃げるつもりもないわょ」
「恨まれてる?君が?」
一体、誰に。
ほぼ全ての人間が目で問いかければ、窓の外を眺めた女は暫く景色を眺めると、その黒茶色の瞳を眩しげに細めたのだ。
「失敗したら怖くなんのよ。鬼だの男女だの散々言われてきた私だって、事故れば運転が怖くなった。自分が妊娠してるって判ってた癖に。後ろに子供を乗せただけ。雪ん子みたいな、真っ白な子だった」
独り言は歌う様に。
「あの時、俊はお腹の中に居たのかしらねィ。シューちゃんが18歳の時に妊娠したんだったら、あの子は一年以上お腹の中で隠れんぼしてた事になる。きっと私は何かを知ってしまった」
そして、忘れてしまった。忘れる筈がないと思うけれど、それが出来る人間が存在している。
「善悪なんて、本当は何処にも存在しないのょ。社会の全部、人間が押しつけた価値観ざます」
ちらりと山田大空へ目を配った女は、意味深な笑みを浮かべた。思わず顔を逸らした大空へ、咎める様な視線が二人分突き刺さる。どちらにしても相手が悪い。
「不機嫌なお顔ねィ、レートきゅん。カルシウム足りてない?ストレスにはチョコレートがイイわょ」
「俺は別に」
「おばさんには、何だか居心地悪そうに見えたのょ。ごめんあそばせ」
嵯峨崎零人は唇を吊り上げた。我ながら下手な愛想笑いだと思ったが、外見を遥かに裏切る聡明な女に効果があるのかは定かではない。
「子供の頃より大人になってからの方が、病気って辛いのよねィ。風邪も筋肉痛も若いってだけでへっちゃらなのに、大人はすぐ拗らせんの。だからワクチンを受けたがる、受けたがらせる。大昔にはそんなもんなくたって、人類は生活してきたってのに」
ほら、見ろ。やはり無意味ではないか。
「誰かを好きになるのが怖い?」
「だから俺は」
「馬鹿みたい?」
思わず口篭れば、少年にしか見えない女は年相応の笑みを零す。成程、女は男以上に見た目では計れないらしい。どう見ても零人の母親の方が大人びているけれど、この場の女性陣の中では俊江が最年長なのだ。判っていた筈なのに、零人の脳が理解したのは今だった。
「くぇっ。素直でイイわねィ」
揶揄めいた笑い声は、彼女の息子に似ている。成程、外見は父親似の様だが、その内面は母親似なのかも知れない。俊の話だ。まがりなりにも高等部唯一の外部進学科生で、帝君でもある。
ならば、零人と佑壱はどうなのか。零人は己の臆病さをとっくに自覚している。佑壱もそうなのだろうか。呆れるほど強気な弟も、内面はそうでもなかったりするのか。
「悩まなきゃ答えなんて出ないわょ。考えなきゃ何にも判んないまんまなの。行動するのは覚悟が決まってからにしたら?」
「…は?」
「幸せになる自信がなきゃ、幸せにする事なんて絶対出来ないんだから。隣の芝生は青く見えるけど、本当は自分の足元の方がずっと青いかも知れないのに、気づいてないだけかもょ」
「足元…?」
「背が高いと、空ばっか見上げる様になんの」
訳が判らない。
俊江には零人の何が見えているのだろう。零人にも判らない何かが、彼女には見えているのだろうか?
「あはん。どっかの誰かさんなんて、16歳の頃にはゼロきゅんよりずっと、可愛げがなかったわょ?」
「シエ、それは何処の男の話だ。浮気は許さんぞ、サラリーマンの名に懸けて」
「真っ白なブレザーを着てた、何とか委員会の会長さんかしら。お母さんの診察についてきて、何時間も本を読んで待っててあげる優しい子」
「む?」
「あと出来るなら忘れちゃいたいのに無理だから覚えてるけど、手が異常に早かった」
「俺の事かと思ったが、やっぱり違うな。然しけしからん男だ」
「はァ、俊が似ちゃったらどーしましょ。ま、あっちのサイズが大人しめだから大丈夫だと思うけどォ」
「今のは駄目だ、男が一番言われたくない台詞だぞママ。俺の可愛い息子は可愛いままで良いんだ、あっちもこっちも」
何の話だ。
判りたくないのに判ってしまった零人は条件反射で俊を思い浮かべ、あの見た目でアレが小さいと言うのは可哀想だと思ったが、それ以上考えない事にする。俊には恐ろしい男がついているのだ。それこそ秀皇以上に面倒臭く、頼まれても従弟とは呼びたくない男が。
「見て、シューちゃん。曇ってきたわょ」
「ああ、本当だ。窓を閉めた方が良いかも知れないな」
「大雨が来そうだから、馬鹿息子達には早く帰ってきなさいって言うべきかしらん」
開け放たれた窓の向こう側。
人には見えないものが見える女は、何を見ようとしているのか。
柔らかい肉を貫く痛み。
こちらを真っ直ぐを映した、麗しい色違いの瞳が見開かれる光景を見ていた。
(ああ)
(やっと)
(目が覚めた)
ごらん。
滴るこれは、赤いだろう。
(ああ)
(やっと)
(真実を全て、思い出した)
ああ、…愛しい人よ。
たった今、貴方は荊の牢獄へ堕とされたのだ。
(可哀想な子)
(貴方は唯一の生贄)
(悪魔へ捧げられる白羊)
おいで。
狂った羅針盤は、何処に隠れても貴方だけを指している。
(まるで刺すように)
「っ、東雲村崎!」
「はい?」
聞き慣れない声に呼ばれたと振り向いた瞬間、東雲村崎は我が目を疑った。聞き慣れない所か見慣れた男の姿がそこにあったが、その表情には全く見覚えがない。
などと、普段の彼なら笑いながら指摘したに違いなかったが、突っ込まない大阪人は居ないが口癖の村崎ですら言葉を失ってしまったのは、村崎が顧問を務めている中央委員会会計が抱いている少年が、村崎が顧問を掛け持っている左席委員会副会長にそっくりだったからだ。
「ぼさっとしてないで手を貸せ!」
「は、え、何、山田ぁ?!おい、何やこれ、どないしたん?!」
「一々騒ぐな、腹に刺さってんのが見えねぇのか下等生物が!」
騒ぐなと言う割りに、村崎より大きな声で怒鳴ってくる男は、何度見ても見慣れた男の様だった。然しいつもなら眼鏡で隠されている筈の双眸が、今ははっきりと晒されている。
髪は乱れ、浴衣は乱れ、彼らしくなく汗を滲ませている白肌に、左右で色が違う双眸は、酷く目立った。
「シリウス…冬月龍人はいるか?!セントラルキャノンの保健室も解放されてる筈だろう、向こうにいるのか?!」
「ちょ、待ちぃ!冬月先生なら、奥の保健室には居らへんで?!」
「なら奴は何処に居るんだ!やっと開いた回線は通じねぇ、そりゃそうだ!ルークの野郎がジジイ共のコードを破棄したりするから、」
「ええから少し落ち着かんかい、宵月!」
条件反射で殴ってから、村崎はしまったと顔を歪めた。
叶二葉が抱いている山田太陽を落とさなかったのは流石としか言えないが、代わりに二葉はその左頬で村崎の平手打ちを受けたのだ。避ける余裕がなかったのか村崎の手が早かったのかは、突き詰めるだけ無駄だろう。
「あ、いや、今のはすまんかった、堪忍やで…?」
「はっはっは。ヴァーゴが他人に叩かれるとはねぇ、長生きをすると面白いものを見る事もある」
「…笑い事ではありませんよ」
「私も彼と同じ事を言ったが、お前は足が早過ぎるんだ。若いと言う事は素晴らしい事だがね、私の年齢を考えてくれなきゃいけないよ」
「その体で良くついてこられましたね」
「リンに背負って貰ったからね。有難うリン、重かっただろう」
「平気よグランパ。そんな事より、いつ日本語を覚えたの?」
「健気な妻の姿を知ったから、かな」
アランバート=ヴィンセント=ヴィーゼンバーグの穏やかな声が、緊急事態にも関わらず皆の緊張を解した。村崎だけは彼に見覚えがあったものの、わざわざ口に出しはしない。黙礼で初対面を済ませ、叩いてしまった事を二葉に謝った。
「さっき振りやな」
「気安く話し掛けないでくれる?」
息を切らしている茶髪の少女に見覚えがある村崎は、ふんっとそっぽを向かれながら太陽の顔を覗き込んだ。
「お前、ほんまに汗が酷いで?何があったんや」
「それが判ればこんな所で右往左往しません。この私がついていながら、何たる失態を…」
いつもの愛想笑いがなく、苛立ちを表情一杯に表している二葉は鋭い舌打ちを放つ。そうしていると、顔は全く似ていないが高坂日向との血縁を感じさせた。
成程、普段にこやかな二葉は眼鏡を掛けているので判らないが、目元が二人良く似ているのだ。特に今の様に真顔だと、如実に現れるらしい。
「しっかりせぇ、山田。おーい。先生やで、山田?シノ先生やで、判るやろ?」
「気を失っているだけです。取り急ぎ幾つかの保健室を回ってきたんですが、何処も怪我人で溢れていて対応出来る状態ではありませんでした」
「回ってきた?山田は何処でこんな目に遭ったんや?」
「ヴァルゴ寄りのアンダーラ、」
二葉が言葉を途中で止めたのは、幾つかの足音が聞こえたからだった。二葉と共に振り返った村崎は『ゲッ』と言う表情を晒したが、二葉は気づいていない。
「何の騒ぎですか宮様」
「コラ!テメェ、今こっそり俺の足を蹴りやがったな?!イサオ、躾しろ躾!お前の彼氏だろうが!」
「ちょ、大きいよ声がっ。生徒に聞かれちゃったら困るんだよぉー…って、あれ?!白百合?!えっ、えっ、その子は?!」
「怪我人みたいだね、ハニー」
「何がハニーだ熊相手に。痛!テメェ、ヤクザ舐めてっといい加減ぶっ殺すぞ…あ?!ちょっと待て、そりゃ山田の息子か?!」
二葉には冷静を促したものの狼狽えてしまったのは村崎も同様だった様だが、いち早く騒ぎを聞きつけた大人達が駆け寄ってきた為、太陽は彼らの手に委ねられる。
「…どうなってやがる近頃の帝王院学園は、到底素人の真似じゃねぇ。何処でンなナイフ手に入れたんだ?」
その中の一人、光華会高坂組代行の脇坂享が呟くと鋭い舌打ちが響いた。間違いなくこの場で最も美しい男が放ったものだが、極道は突っ込まない。到底未成年とは思えない殺気の様なものが、二葉から出まくっているからだ。
「ブッチャーナイフよ。抜かなきゃ正確な長さは判らないけど、15cmくらいはありそう。材質は多分、クロムモリブデン鋼」
「へぇ。詳しいなお嬢ちゃん」
「ふん、叶を舐めないで頂戴。…早く抜かないと錆びるわよ、それ」
「ステンレスよりは錆び易いだろうが、刺されてどのくらい経つ?」
「少なくとも、十分は経ってる」
「ああっ、可哀想に可哀想に、痛いよねっ」
執事と熊に挟まれた叶鱗は忌々しげな表情だが、一応は心配していない事もないらしい。チラチラと太陽を盗み見ているが、ピクリともしない太陽の顔色は、今の所それほど悪くは見えなかった。
普通の人間には判らないだろうが、太陽の体に突き立てられた刃は、致命傷には至っていない。柄の部分まで躊躇いなく刺さってはいる様だが、二葉もそれが判っているから抱えたまま走り回っているのだ。適当な人間には任せられないと、二葉はステルシリーのマッドサイエンティストを選んだ。人間性はともかく、ステルシリーに馬鹿はいない。
「祭洋蘭、テメェが山田の息子を刺したのか?お前なぁ、ワラショク舐めてると死…いや、お前は煮ても焼いても死なねぇか」
「失礼な事を仰いますねぇ、脇坂さん。この私がハニーを刺す訳がないでしょう、…お尻ならともかく」
「あ?ハニー?」
「計った様に急所を外れている様ですが、引き抜けば出血は免れません。出来る限り早く対処します」
悪気はないが、山田大空の悪名を痛いほど知り尽くしている元工業科の極道の台詞へ、眉を跳ねた二葉は吐き捨てた。自棄に凛々しい表情だが、彼の言う『対処』が太陽の手当てなのか、太陽の腹に刺さる凶器の持ち主に対するものなのかは、インテリヤクザにも計り知れなかった。
哀れ涙目の工業科講師は、そのごつい体で太陽をそっと抱き上げたが、気を失っている太陽の表情を見て死んでたらどうしようと狼狽えており、傍らのインテリ執事は何処か不機嫌だ。
「そんな小汚い餓鬼、勲ちゃんが運んでやる必要あれへんやろ。ワイが運ぶさかい、こっち寄越しや」
「小汚いって、アキラ君。この子は時の君だよ?」
「時の君ぃ?…って、ほなコイツが宍戸優大はんの?」
「そうだよ!もう、自分の親戚の顔くらい覚えておきなさい!」
「親戚?」
凄まじく低い声が殺気を伴って、東雲財閥お抱えの執事長に刺さる。
御三家大人げない腹黒代表、叶二葉だ。太陽の事に関しては一秒も冷静ではいられない男は、その恵まれた美貌からどす黒いオーラを放っていた。
「…ああ、見覚えがありますよ。有村輝、いや羽柴輝でしたねぇ。山田大志の腹違いの弟が愛人に作らせた男の、忘れ形見でしたか」
「宮様がお世話になっております、叶二葉様。流石は出来損ないの十口、何でもご存じでいらっしゃる」
ダサジャージとヤクザは、迸る火花を見た。
おろおろ、ハラハラ、巨体を揺らしている鈴木勲だけは、恋人と二葉の完璧な愛想笑いに頬を染めたり、恥ずかしげに目を逸らしてみたり、中々忙しい様だ。工業科の生徒は大半がキメッキメのヤンキー揃いなので、インテリ系イケメンへの免疫が低い。
「おやおや。高々東雲財閥の執事如きが、この私に対して何と仰いました?」
「天神にお仕えするべき空蝉の分際で、いつまでも黒き神に飼い慣らされている哀れな犬だと申し上げましたが、お気に障りましたか?」
真顔で遠近両用眼鏡を押し上げた光華会副会長は、これまたインテリ美形ヤクザのスペックのまま頷いたのだ。
「…ありゃ、同族って奴だな」
「えっ?」
「言うてる場合違いますやろ、先輩」
「はっはっは。何だか楽しい子達だねぇ、リン」
「グランパ、笑ってる場合じゃないと思うけど…」
「いや。死が近づいている中でまだ素敵な出会いがあるのかと思うと、笑わずにはいられないだろう?」
へらりと笑った老紳士に、ぱちぱちと瞬いた脇坂は眉を寄せる。
「あ、れ?」
「私の顔に何かついているかな、息子のワンちゃん」
「は?何、俺がワンちゃん?」
視線に気づいた男は、白く霞んだブロンドの下、サファイアの瞳を笑う様に細めた。
「おや、違ったかな?君はヒマワリの部下の一人だろう?」
「何で、親父を呼び捨て…」
「ああ、気にしないでくれ。日本の興信所に調べさせただけで、我が家とは何ら関わりのない人達だ」
ああ、そうだ。
「アレクサンドリアは元気にしているかな?」
今頃理解した。
目の前のサファイアの瞳をした男は、脇坂が崇拝してやまない男の嫁に良く似ているのだ。
←いやん(*)
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