帝王院高等学校
重なり合う異なる岐路のその先
「無知である事は、己を守る最も有効な術です」

吐息じみた声は呟きの様に、密度の高い霧の様に降り始めた雨の中へ溶ける。
それを聞いていた道化師は小首を傾げ、持ち上げた両手を目線の高さにまで伸ばすと、ぱっと両手の指を開いたのだ。

「選べないなら選ばなければ良いじゃない」
「ええ。今までの私はそうでした」

けれど、黒い手袋が嵌められている手は、右側だけ動きがぎこちない。それに気づいたエリザベート=セシル=ヴィーゼンバーグ公爵は、膝の上に置いていた手をピクリと震わせたが、とうとう彼女の手が動く事はなかった。

「変わらない日々に疑問を抱いてしまえば、目を逸らし続けるのは難しいのです」
「でも今までは平和だったんでしょ?」
「…」
「変わらないんじゃなくて、変えなかったんじゃない?それって、変わりたくなかったからでしょう?」

聡い人間だと思う。
公爵家に産まれた誰もが、幼い頃から英才教育を強いられているけれど、傍らの道化師はその誰もと重ならない。子供の様に見えて、随分と大人の様にも思えた。

「それなのに今は違うんだね?それって、おばあちゃんが変わりたいって感じてるから?」
「恥ずかしい事に、私には判りません」
「ピーターパンはずっと子供のままなんだよ。大人になったら、夢の世界はなくなっちゃうんだ」

変わるなと言っているのだろうか。

「何で変えようとするの?」

道化師はピエロの仮面の下で、嘲笑っているのだろうか。単に他人事を聞き流しているだけなのか。ピエロの表情はピエロのまま、五本の指を開いていて時折落ちてくる雨粒を受け止めていた。雨に喜ぶ雨蛙の様にも、やはり幼子の様にも思える光景だ。

「…自分には余り時間がないと言う事を、自覚したのかも知れませんねぇ。近頃、死んだ後の事を考える様になりました」
「うふふ。死んだら終わりでしょう?」
「そうですね」

若いな、と。唐突に考えた。
そうだ。昔の自分も同じ事を考えていたし、それに疑問もなかった。いつの間に考え方が変わってしまったのか、今では死を怖がる事がない代わりに、死の向こう側を考える様になっている。

「終わったら何にも出来なくなるんだって。僕はいつか終わってた筈だったのに、今もこうして続いているよ」
「終わっていた?」
「うふふ。僕はねぇ、終わりの向こう側に住んでるんだ」
「終わりの向こう側とは、どんな所ですか?」
「この世でもあの世でもない世界。次の終わりまでは、僕は聞き分けの良いワンコなんだよ。駄目って言われたら駄目なんだ。良い子にしてないと、神様に嫌われちゃうから」

ピエロは腕を肩の高さに持ち上げたまま、ゆらゆらと肩を動かした。鼻歌混じりの台詞も動作も、まるで踊っているかの様だ。とても楽しげに見える。

「僕ね、お母さんから駄目だって言われたのに退かなかったから、お母さんを悲しませちゃったんだ。僕が余計な真似をしなかったら、お母さんは心臓発作なんて起こさなかったかも知れないのに」

懺悔の様な声だ。意味は判るが、合っているのか自信がない。初めて学ぼうとした40年前から知っているが、日本語は大層難しいのだ。英語とは文法がそもそも違う。

「お母さんは弱かったけど強かった。僕は強いと思ってたけど弱っちくて、兄さんにちらし寿司のイクラを取られて泣いちゃうんだよ」
「貴方の話は不思議ですね。私には貴方の景色が見えない」
「うふふふふふ。物語も映画も、最初だけ観たって判んないでしょう?普通はねぇ、神様じゃないからねぇ。うふふ」
「ふふ。神様を知っているんですか?」
「知ってるよ。神様は何もしてくれなくても神様なんだ。だからね、懺悔を聞いてくれるのは神様じゃなくて、牧師様なんだって」
「懺悔。…そうですね、私はこれまでの罪を知らしめたいのかも知れません」

生きている内に積み上げた罪の数だけ、死後は迷惑を掛けたくないなどと宣えば、何百人から綺麗事を言うなと吐き捨てられるのか。心の中で呟いたセシル=ヴィーゼンバーグは、やっと肩から力を抜いた。服が湿っている気がするけれど、ロンドンも雨は多い。

「罪なんて、忘れちゃいなよ。やってしまったらどうにも出来ないでしょう?死んだら終わり。誰かに気づかれたら犯罪。だったら、バレなかったら良いんだよ♪」

秒刻みのスケジュールに刻まれているお茶会は、霧雨程度では中止にならなかった。化け狸ばかりが雁首を並べる茶会など、誰が望んでいると言うのか。

「僕は楽しい事しかしないって決めたんだ。おじいちゃんから怒られたから。折角助かった命を大事にしないと、ご主人様から嫌われちゃうから」
「ある人が、私を探しているそうです」

セシルは呟いた。それは世界の皇帝が去り際に宣った、予言じみた別れの挨拶だ。

「世界で最も神に近い一族の王が、己と同等の人物だと言いました」
「へぇ。僕の神様は真っ黒なお星様だけど、おばあちゃんにはどんな神様が来るんだろうねぇ」
「誰が来るのか判らないけれど、私はこうして待っています」
「ねぇ、知ってる?雨が降ってるよ」
「今更何処へ逃げられたものでもない」
「ねぇ、神様がもし来なかったらどうするの?」

いつの間にかピエロの腕は、セシルと同じ様に膝の上にちょこんと下りていた。マントの様にもローブの様にも見える黒い布は、もしかしたら暗幕の様なものなのかも知れない。

「神様は怒ってて、おばあちゃんに意地悪しようとしてるかもしれないよ。それでも待ってるの?」

覗き込むかの様に、ピエロが近づいてきた。ピエロは何処までもピエロでしかないけれど、子供が母親の顔色を窺っているかの様な仕草に思える。勘違いだろうけれど、古びた記憶を思い出しかけた。

「僕は後悔なんてしないんだ。したくないんだ。後悔はこの世で最も無駄だって、おじいちゃんが言ってたよ。ねぇ、おばあちゃん。世界には楽しい事がいっぱいあるかも知れないじゃない」
「楽しい事」
「だから、」
「私にはもう、何も残っていません。アレクセイもアレクサンドリアも居ない」

犬小屋で犬と同じ扱いを受けていた、金髪の可愛らしい男の子の仕草を。

「僕のにゃんこも死んじゃったけど、良いんだよ。殺す為に生まれた子は殺されても仕方ないんだ」
「いいえ。死では何も解決しません」

そうだ。後悔が残るだけだ。
アレクセイの代わりなんて、可哀想な役目を押し付けてしまった可愛い娘。あの子が死んでしまうと覚悟した時に、セシルは本物の悪魔へと心を塗り潰された。身内だろうが全て殺し、女であれば殺されるのならと、娘を殺して息子して育てる道を選んでしまった。

けれどどうだ。
成長するにつれて女らしくなっていくアレクサンドリアは、軈てその秘密を知られてしまうかも知れなかった。犯す事も殺す事も躊躇わない公爵家の愚かな男共は、いつかその歯牙であの子を再び傷つけようとするだろう。幾ら最強の公爵と謳われていようが、この目を盗んで馬鹿な真似をする奴らは幾らでもいる。

そうして娘を海の向こうへ追い出せば、また一人ぼっちになってしまった。誰の代わりでもなかったのに。汚さない様に大切に大切に育てたつもりだったアレクセイも、傷つけられない様に匿ったアレクサンドリアも、どちらも居なくなってしまった。

『…アレクサンドリアが妊娠している?』
『どうなさいますかママ。アレクサンドル殿下が男ではないと、間もなく知られます』

だからそう。
寄るなと言ったのだ。叶桔梗が四人目の子供を孕んだと聞いた所で、妻に裏切られた可哀想な息子だと痛む心を抑え込み、誰にも日本には近寄るなと言ったのだ。

それなのに。
桔梗は死んだ。誰の子か知れない息子だけを残し、彼女に良く似た貴葉と一緒に死んでしまった。写真でしか見た事がないサファイアの瞳をした娘の、何と可愛らしかった事か。あんなに可愛らしい娘が、とうとう声を聞く事もなく死んでしまったのだ。神は何と無慈悲なのだろう。

エリザベート=セシル=ヴィーゼンバーグは呪った。公爵とは名ばかり、何一つ守れない己とその宿命を。けれど彼女の葛藤を誰も知らない。
だからアレクセイそっくりな冬臣はヴィーゼンバーグを敵視し、アレクサンドリアが女だったと知って焦った馬鹿な甥が、彼女の一人息子を誘拐した事にも。数ヶ月に渡り監禁し虐待していた事を知った後、高坂豊幸に日本刀を突きつけられても。


「死は容易く慣れてしまうのです。だから私は何もしなかった。私は私が死ぬ事も厭わない。生きると言う事は、死よりも悍ましい事。長命とは私にとって、贖いなのです」
「難しい言葉、知ってるんだねぇ」

死のうが殺されようが、麻痺していたからだ。
失う事に慣れ過ぎて、殺す事にさえ慣れ過ぎて、彼らが去った後に辛うじて生きていた甥の眉間を躊躇わず撃ち抜き、ピラニアの餌にしても。この心は少しも揺るがなかった。それ所か、トドメを刺さずに帰って行った日本のヤクザを浅はかだと笑っただろうか。

「孫の顔など見たくもなかった。どんなに哀れな姿をしていたのか、この目で見ていれば私は、悪魔の次に何になっていたのでしょうね」

殺してやったのだ。救ってやる様に。甥だった。そう、それだけ。たったそれだけのちっぽけな存在を、わざわざこの手で。許しを乞う哀れな姿を見下しながら、蟻を踏む様に殺した。後悔などしていない。だから、ベルハーツの事などすぐに忘れてしまった。

「それなのにあの子が、戻ってくるなんて…」

無慈悲な神よ。
無慈悲な悪魔の孫は、あの時にきっと、悪魔と契約してしまったに違いない。あの幼い心で重いピストルを引かざる得なかった哀れな子供は、軈て誰もが恐れるディアブロへと成長していった。

「あの子はメデューサ。ヴァーゴの様に何の計算もなく、自らの敵になりえる人間はその美貌で惑わせ、残らず虜にしてしまった。我が家にあの子の敵はいません。それなのに何故、あの子の命を狙う者がいるのか。何度考えても答えは出ない」
「生きてれば敵もいるよ。僕なんか敵だらけだよ、楽しいねぇ♪」
「主は自己の死を罪であると定めました。それなら私は、裁きを待つだけです」
「どうしても待つんだ」
「はい。私は待ちます」
「…どうして?後悔するかもしれないのに?」
「老いた私を必要とされているなら、善も悪も受け入れましょう」

ぷらぷらと足をばたつかせていた隣が、沈黙する。やはり面白くなかったのだろうかと目を配れば、マネキンの様に動かない。

「貴方、目が青色なのですね」

けれど、セシルは目元に皺を刻む。笑うと言う仕草に慣れていないセシルは、笑いたくもない社交界で愛想笑いを浮かべる以外は、目だけで笑う癖がある。それをいつか指摘したのは夫だったが、それを知るのはセシルだけだ。

「私の夫の瞳に良く似ています。私の瞳は、彼より色が薄いのですよ」
「…もしかして僕、余計な事しちゃったかも」

セシルから顔を背けたピエロは、ぼそりと呟いた。何となく先程までの陽気な雰囲気はなく、何処か落ち込んでいる様に見える。

「でも、仕方ないよねぇ。もうやっちゃったんだもん。アキちゃん、絶対に許してくれないよねぇ」
「あきちゃん?」
「うん。不細工でチビで、可愛いんだよ」
「不細工と可愛いは噛み合わない言葉でしょう?」

そう言えば、先程初めて目にしたノア=グレアムもそうだ。小雨に濡れそぼる子犬の様な、所在なげな背中だった。とてもあの恐ろしいステルシリー会長とは思えない、年齢相当の青年にしか見えなかったのだ。

「ねぇ、おばあちゃん」
「何ですか?」
「雨、やまないね」
「そうですね」
「僕、お腹が空いちゃった」

ヴィーゼンバーグ公爵は暫く目を丸め、軈て傍らに置いていたハンドバッグを掴むと、その年齢からは考えられないほど背を正し、立ち上がる。

「この先で、何かを売っている少年達を見掛けました。この国へ訪れる前、コベントガーデンでフィッシュアンドチップスを売っている少女を見掛けましたが、私はロールスロイスから降りなかった」

屋敷の外は不思議な光景ばかりだ。
そう言えば以前自主的に外出したのは、アレクセイ=マチルダ=ヴィーゼンバーグの元に、娘が産まれた日だったか。

「興味がある癖に、私は運転手に止めてくれと言えなかった。エッグベネディクトと同じですね」

長男と次男が産まれた事を知ったのは随分後の事で、アレクセイの婚約者が成人した頃の事だった。単身で叙爵を認められたアレクセイは、17歳の時に5歳の少女と婚約したのだ。その婚約を彼が認めていなかった事を知ったのは、日本で勝手に国籍を取得した時だった。これでは母親失格だ。そんな事はとうの昔から知っていたけれど、それを誰からも指摘されなかったから。

「我慢するのはやめましょう。スタイルを気にする年齢でもありません」

公爵のハンドバッグの中には、何十年も前から、日本円が数枚入っている。
孫が産まれた年代の硬貨は全種類、666円が4セット入っていた。日向と二葉は同じ年の生まれなので、4セットで5人分と言う事だ。

「サー=クラウン。それともサー=ハーレクインでしょうか?」
「僕はピエロだよ」
「ピエロはフランス語ですよ」
「そうなんだ、知らなかった」
「私はお小遣いを沢山持っています」
「え?」
「一人でマーケットデビューするのは少し怖いので、付き合って下さいませんか」

いつかアレクセイに呼ばれたら。
いつかアレクサンドリアに呼ばれたら。
有り得ない想像を何万回繰り返したか、懺悔するならそれも白状するべきだろうとセシルは考えた。

「…でもおばあちゃんは、此処で待ってなきゃいけないんじゃない?」
「待つと言うのは、大人しく座っていなければならない訳ではありません」

愛しい子供達。彼らに何事かあればすぐに飛んでいける様に、20ポンド紙幣を日本円に交換した事もある。誉高き女王の肖像を外貨へ変えてしまう罪深さに、少しばかり高揚した事もあっただろうか。
けれど今に至るまで一度も使われないまま、日本の紙幣は随分前に絵柄が変わっている様だ。古臭い新札の封を切った所で、店主が対応してくれるかは判らない。何にせよ行動しなければ、判らないままだ。

「ずーっと待ってても誰も来なくて、もし死んじゃったらどうする?」
「この国では自業自得と言うのでしょう?」
「本当におばあちゃん、いっぱい勉強したんだねぇ」
「ふふ。そうですよ、先程も褒められました。私が日本語を話すなんて、皇帝陛下にも想像出来なかったのでしょう」

白銀の皇帝の姿はとっくになく、彼は意味深な言葉を残して何処ぞへ消えていった。雨が降ろうがお構いなく、『シュン』を探しているのだろう。我を忘れているのか心底本気なのかは知らないが、時代を変えていく人間とは、総じてイカレているのかも知れない。
変わらない事を望んでいる人間は、淘汰されたままだ。何からも。誰からも。

「…おばあちゃん、僕やっぱり一緒に行けないや」
「何故ですか?お金なら心配ありませんよ」
「僕がピーターパンじゃないって知ったら、おばあちゃんは僕が嫌いになるんだ」
「私が貴方を嫌いになる?不思議な事ばかり言って、年寄りを揶揄ったらいけませんよ」
「本当だよ。僕ね、悪い子なんだ」

道化師の左腕が持ち上がり、細い手首が見えた。

「大好きだったお兄ちゃんが結婚したって聞いて、奥さんが憎いんだもん。子供が出来たって聞いて、殺したくて堪らなかったんだもん」

黒い布の下には生身の肉体がある筈なのに、その仮面が現実味を損ねている。
他人の体温は苦手だ。セシルは潔癖症だ、などとアランバート=ヴィーゼンバーグは笑うが、それは絶対に違う。この手が汚れるのではなく、この手で汚してしまうのが嫌なのだ。

「僕には触ってくれなかったお兄ちゃんが、弟には触ったんだって。だから冬ちゃんは怒ったんだ。お兄ちゃんはね、手首を切ったけど死ねなかったんだって」

けれどそれも、言わなければ誰にも伝わらないのだと。

「僕も同じ所を切ったけど死ねなかったんだ。何度も何度も切ってくと神経まで切れちゃって、元々殆ど動かなかった指が全く動かなくなったから、今度は腕を全部切っちゃった」

知ったのは、つい先程の事だった。


「僕は最初から言ってたのに」

からりと。
道化師の仮面は不気味に笑う表情のまま、幾らか勢いを増した雨の下に転がった。

「うふふ。おばあちゃん、気づかないんだもん」
「…?」
「そりゃそうだよねぇ。お父さんが追い払っちゃったんでしょ?お母さんが言ってたよ。お父さんは皆を守る為に、捨てなくて良いものまで捨てちゃったんだって」

雨に烟る白百合の様な美貌に煌めくサファイアが、不器用な笑みを描くのを見た。

「僕は言ったよ。始めからねぇ、おばあちゃん…って」

この顔と同じ顔をした女を知っているけれど、彼女とは絶対的に違う双眸の色合いは、愛しい息子と良く似ているのではないか。

「あ、なた、は…」
「ほら。僕の事、嫌いになったでしょう?だって僕は僕が大嫌い」

神よ、と。
声なき呟きに震える唇を手で覆い、アイアンメイデンとまで謳われた冷血公爵は膝から崩れ落ちた。



「あの時、ちゃんと死んでおけば良かったのにねぇ」


これはそう、奇跡に違いない。
そう叫びたいのにどうしてこの唇は、震えてばかりなのか。


























「総長!」
「すんこ!」

滅多に見掛けないイケメンが二人、窓から顔を突き出している。
一人は一重に近い奥二重の眼差しを爛々と輝かせ、一人は半泣き寸前の眼差しで縋る様に、それぞれ同じ所を見ている筈だった。

「えっ?」
「うわ、フェニックス…?!」
「うっそ、本物?!」

然し、帝王院学園高等部2年Sクラス嵯峨崎佑壱と、斎藤千明が網膜に写しているのは、それぞれ別方向の人間だったらしい。辛うじて共通点があるとすれば、窓から顔を突き出した佑壱を見るなりざわめいた人間の誰もが、示し合わせたかの様に同じ格好をしていた所だろう。

「…何だコイツら」
「愚問だぜオーナー、帝王院に受からなかった俺に聞かないでくれる?」

目を丸めた佑壱の傍らで、ふっとニヒルに笑った斎藤は立てた人差し指を振る。この状況が判る者など、恐らくほぼ居ない。

「は?何この騒ぎ?(´_ゝ`)」
「知らねーぜ。新歓祭だからだろ、つーかしれっとケツ揉むな」
「あ、悪い。無意識☆(´∀`)」
「揉むなら前にしろや」

佑壱達から離れた窓から外を眺めた高野健吾は、無意識に揉んでいた藤倉裕也の尻から手を離すなり、べしっと頭を叩いてやった。3cmの身長差など運動神経に恵まれた健吾の敵ではない。しゅばっと飛んで、ベシッだ。

「それにしても、コイツら揃いも揃ってファーつきのレザージャケット着てるし、紫のサングラス掛けてるけど…すんこが増えたらこの世はザエンドだよ?」
「紅桔梗と言え。ついでにジエンドだ馬鹿が。見たままの情報なら俺だって判ってるっつーんだボケ」
「ちょっと、年上に馬鹿とかボケとか!たまには先輩って呼べよ!」
「あ?」
「すいませんオーナー、忘れて下さい」

カフェカルマの経営者が拳の骨をゴキっと鳴らした瞬間、ふっとニヒルに笑った呉服屋の長男は佑壱から目を逸らした。が、外にはやはり、大量のレザージャケットが見えるばかりだ。

「見ろ、カルマだ!あそこカルマが揃ってるぞ!」
「本物だ!あの赤毛は間違いない、フェニックスだ!」
「あっちのオレンジはケンゴじゃねぇか?!」
「ユーヤがいる!」
「えー!シーザーは何処っ?!」

コスプレイヤーが如く、何故かカルマ総長と同じ姿をしている男女が、凄まじい勢いで詰め寄ってきた。無表情で窓を閉めた佑壱に続き、真顔で鍵を閉めた斎藤は硝子の向こうを頑なに見ない。

「え?え?!何でか写真撮られまくってる!これってカーテン閉めた方が良くね?」
「その程度でガタガタ抜かすな。ネクサスに謝れ」
「この場合、肖像権で訴える権利があんのは俺じゃないかしら?」

窓辺で佑壱相手に軽口を叩いている専門学生の背中に、複数の視線が突き刺さった。然し『人見知りだけどカーテンを閉めたら負けだ』と言う、謎の男気を発揮している赤毛は決して背中は向けまいと腕を組み、般若の形相でコスプレ集団を睨む。

「つーか何でシーザーが大発生中なの?ゴキブリでも増えるのは夏だよ」
「俺が知るか。総長に憧れる奴は昔から大量発生しまくってる。斯く言う俺が、その筆頭株主だ」
「言っとくけど、俊は異常に要領が良いだけで、知らない事は吃驚するほど知らねぇかんな?知ってる事は何でも出来る奴だけど」
「は。知ってても出来ねぇ奴のが圧倒的に多いだろう」
「そりゃそうだ」
「そもそもテメーは、顔とシステマ以外に取り柄がねぇ。多少強いかと思えば、ゼロ如きにビビる童貞臭さが鬱陶しい」
「言い方」

記者会見か。
迸るフラッシュに晒されたまま、シーザーそっくりな偽物集団を暫く眺めていた赤毛は、段々苛立ってきた様だ。パタパタと爪先で床を叩いているが、貧乏揺すりにしてはリズミカルだった。

「隼人」
「えっ、何?外どうなってんのお?」
「とりあえずお前、此処に立ってアレやれ」
「アレ?」
「何かあんだろうが、テメーお得意の奴だよ。カメラ向けられてヘラヘラ笑うだけの商売だろうが」

酷い言い様の佑壱が顎で『立て』と言っている為、神崎隼人は仏の表情で長い足を組み替えた。パリコレに立つモデルがカメコの餌食になって堪るかと、断固として立たない覚悟らしい。

「判りました副長。ハヤトの様にヘラヘラ笑うのは得意ではありませんが、俺に任せて下さい」
「おう。黙らせろ」
「は?えっ?ちょ、何してんのカナメちゃん?!」
「ちょっと脱いで撮らせれば満足なんでしょう?金にならない事はしない主義ですが、時と場合によります」

頑なに立ち上がらない隼人の隣でしゅばっと立ち上がった錦織要は、女顔の健吾よりも儚げな美貌で躊躇わずシャツのボタンを外しながら窓辺へ近寄ると、凄まじい悲鳴を浴びながら窓を開けた。

「いやーっ!カナメ様ぁあああ!!!!!」
「キターーー!四重奏キターーー!!!!!」
「笑ってケンゴー!!!」
「こっち向いてくれ、ユーヤ!!!」
「お願い、出てきてハヤトー!!!!!」
「騒いだら殺します。撮りたければ撮って、とっとと消えなさい」

記者会見か。
呆然とした隼人は呟き、迸るフラッシュに晒されている要の背中を眺めた。然し騒ぐなと言われているので、聞こえるのはシャッター音だけだった。それと多分、鼻息だろう。
悪ノリした健吾もシャツのボタンを外し始めたが、外した端から裕也によって元に戻されているので、彼の胸元にある狼のタトゥーは隠されたままだ。

「あら?オーナー、渋い顔して何か考えてんの?アンタどう見えも二十歳超えてるよね、渋みが」
「煩ぇ」
「たった今凄い事に気づいちゃった俺が居るんだけどさぁ」
「あ?」
「あのさぁ。この状況でネクサスとか言っちゃって、良いのかしら。とか」
「悉く遅ぇ。どっかの馬鹿男爵が、セントラルの虫共を飛ばせやがった」
「はい?」
「ネクサスに探させてるアルデバランが、あっちでシリウスラボを漁りまくったそうだ。流石にCHAθSは開けられなかったらしいが、中央情報部にも登録されてねぇ資料を持ち出してても、不思議じゃねぇっつーこった」
「おい」

呆れた様な声が投げ掛けられると、佑壱はわざとらしくなけなしの眉を跳ねる。今気づいたとばかりに、腕を組んだまま肩越しで振り返った。

「何を苛ついてるか知らねぇが、部外者に聞かせる話じゃねぇ」
「は、部外者な。欧州情報部の魔王閣下は、北欧で指名手配されてる極悪人のデータを把握してねぇってか?」
「嵯峨崎」

咎める様な高坂日向の声に、グレアムの名を持つ男はカラーコンタクトで染めた赤い眼差しを細め、唇を吊り上げる。

「ロシア船籍のクルーザーに素手で乗り込んでマフィアとドンパチ繰り広げた挙句、コンテナ詰めの草300kgを海に流した餓鬼なんざ、あのライオネル=レイですら出来るのは『島流し』だけだ」
「何の話をしてやがる」
「此処の馬鹿の話だよ、勘が悪い奴だな。テメーの父親が貿易会社の社長で、餓鬼の癖にジジイの目に留まりやがった」

フラッシュに晒されている要以外の目が、しがない専門学生に突き刺さった。ポカンと目を丸めているカルマ店長の視線に気づいた斎藤は、何故か恥ずかしげにモジモジしている。

「やだな、若気の至りじゃんかよ。あの頃、俺は仮面ダレダーに憧れてたんだ。だからすんこにも観ろって教えてやって、一通りの武術を教えてやったら、あの野郎いつの間にか俺より強くなりやがって。千明兄ちゃんはジェラシー感じます」
「…マジかよ」
「で、だ。何度コイツを引き抜こうとしても母親が嫌がるから、せめてその身体能力だけでもコピーさせろってな。すったもんだしてる内に、コイツは母親ごと消えやがったらしいがな」
「さっきの件、イーストと何か関係があるってのか」
「ない事もねぇくらいだろ。かなりデカい組織だったが、その一件でステルスに睨まれたと思ってトンズラしちまったからな。アゼルバイジャンが力をつけたのは、その頃だ」
「テメェ、神崎の親が凍りついてんぞ」

呆れ果てた日向は紅茶を啜り、諦めた様に呟いた。

「考えても考えても判んねぇ。何で総長のパチモンが紛れてんのか」
「シーザーが出没したって話は、式典の後から噂としてはあるだろうが」
「だからだよ。新歓祭の一般入場は昨日からだ」
「それは…」
「テメー、真っ赤な鼠なんか見たか?レッドスクリプトみたいなバイオジェリーを」

無意識に肩を押えた佑壱の呟きは、シャッター音の嵐に掻き消える。

←いやん(*)(#)ばかん→
[戻る]


第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
無料HPエムペ!