帝王院高等学校
狸と狸寝入りと所により道化師注意報!
「Hi、そこのお兄さん」

この世で二番目にムカつく男が、伸びるだけ伸びた前髪をわざとらしく掻き上げている。目が覚める様なネイビーブルーのブレザー、黒に似たディープダークグレーのシャツに白いネクタイだけが浮いている様に見えた。

「…本当に入学したんですか」
「これでも多忙に尽きるスケジュールを掻い潜って来たんですがねぇ。お陰でヘアカットの予定が崩れました」
「後ろだけ切った後が見えますが?」
「そう。途中で取り止めなくてはいけない事態に陥ったんです。梅雨前にも関わらず、あんまり寒かったので」

狸め。
現実味のない鮮やかな片目が、器用に笑みを刻んでいる。

「何で初等部エリアに居るんですか」
「転校生が来たそうですね。本校へ全くの外部から中途編入するのは、初めてだと伺いました」
「転校生?あ、そう言えば朝礼の時にそんな事を聞いた様な…」
「お前はもう少し他人に関心を持ちなさい」
「儲からない事はしません」
「人脈は飯の種ですよ。儲け話は待つのではなく、自ら生み出すのです」

数ヶ月前に見た時より、彼は髪も身長も伸びている様に思えた。性格の悪さは変わっていない事を祈りたい。つまり今が限界値であるべきだ。今でも十二分に手遅れなのだから。
然し、経済的なあらゆる能力もまた、限界値を超えているらしかった。狸だが、秒刻みでお金を生み出す魔術師でもある。そこだけは尊敬に値するだろう。言わないけれど。

「アジア首脳会議が延期になったみたいですね、ニュースで見ました。偶然にも、直前までただの低気圧が台風に変わった様で」
「技術班が開発した降雪装置のバージョンアップ版が、うっかり暴走しましてねぇ。降雪所か豪雪を起こしそうだったので、軍用機を3機ほどお借りして、海上の雲を吹き飛ばしてみました」
「…損害賠償で首を絞めましたか」
「経費で落ちますからねぇ」

ああ、死ねば良いのに。認めたくないがこの男を殺すのはまず無理だ。

「私は先に前髪を整えて来ます。お前は私の荷解きを手伝いなさい」
「は?何で俺が」
「仕方ないでしょう、特別機動部員を同行する訳にはいかないのですから」

確かに、人にしか見えない人形が気安く徘徊していれば、大問題だろう。最低限の倫理観があったのかと失礼な事を考えたが、ポーンと飛んできた札束を条件反射で受け止め、初等部指定制服の黒いハーフパンツに突っ込もうとして、瞬いた。

「…何ですかこれ」
「髪を切る為に交換させたリンギットです。100ドル紙幣が、400リンギットに変わりました。荷解きの駄賃です」
「まだ手伝うなんて言ってない」

日本円では一万円くらいだろうか。
確かに大金だが、随分分厚いのでもう少し期待してしまった。成程、使わなかった外貨を持て余し、押しつけようとしているのだろう。ありがた迷惑だ。小学5年生にとっては、分厚い札束より小銭の方が判り易い。

「いつか外貨預金します」
「アジア通貨は割りに合わないと思いますがねぇ。買うなら元、香港ドルですよ」
「円は?」
「ステルシリーが関われない国の発展は、期待しない方が宜しい」

見慣れない髪型の男は、笑顔だ。
関われない筈の国へ躊躇わずにやって来れたのは、この男の生まれ故郷だったからに違いない。もう子供とは呼べない体躯にブレザーを纏えば、女性じみた美貌の彼は、とても魔王と呼ばれる実業家には見えない。

「日本は聖地でしたっけ?見放されているだけですか?」
「さて、今の所は陛下に日本への関心がないだけですけど。社訓など、マジェスティの気持ち一つで如何様にも変わります」

この国では叶二葉と呼ぶべきか。
白いカトレアの花言葉は『魔力』だ。文字通り、祭家では白肌の悪魔を洋蘭と呼んでいたらしい。祭美月ですら口にしたがらない名は、ある意味の禁忌なのだろうか。

「洋蘭、何で眼鏡が歪んでるんですか」
「ちょっとスイートルームに寄ってきたんです」
「スイート?朝から懲罰棟方面が騒がしかったんですけど」
「ああ、君はアンダーラインに住んでるんでしたか。地下はどうですか?香港よりマシでしょう」
「ミミズになった気分ですよ。昨日まではゴキブリも居なかったので」
「おやおや、この穢れを知らないビーナスの如き美を誇る私にゴキブリが這おうものなら、軍用機3機の自爆程度じゃ許しませんよ?」

黙れゴキブリ野郎、と。錦織要は笑顔で呟いた。
ゴキブリにも嫌われるに違いない人格崩壊者と言えば、フレームが歪んだ眼鏡を外しながら、傷つきました、などと呟いている。

「実は風紀委員長になりました。逮捕しちゃうぞ」
「冗談は存在だけにして貰えませんか?お前の様な犯罪者に正せる秩序なんかが、あって堪るか」
「強過ぎる力は善悪問わず正当化されるものです。昇校早々、あらゆる意味で目立ってしまった王子様の為にも、私が一肌脱ごうと思ったまで」
「光王子は中央委員会副会長に指名され、受け入れました。彼はもうこの学園で敵はいません」
「言ったでしょう。強過ぎる力は善悪問わず、あらゆる場面で正当化されるものだと。嵯峨崎零人が親王陛下である限り、遅かれ早かれ、ファーストが中央委員会役員へ任命される」
「…つまり、何が言いたいんですか」
「私が会計に収まってしまうと、ファーストは絶対に指名を蹴ります。彼は美的感覚に著しい損傷を持っているので、私の美しさに靡かないんですよねぇ」

当然だろうと要は舌打ちしたが、突っ込む事は諦めた。幾ら性格が崩壊していようと、二葉の外見は間違いなく極上だ。顔が幾ら良くても二葉の中身はゴキブリ以下なので、偉そうでも食べものをくれる嵯峨崎佑壱の方が、何億倍も人が良いと思う。二葉は金はくれるが、それ以上にストレスも押しつけてくる男だ。

「ファーストはどうしていますか?駄目元でしたが、ちゃんと懐に入り込めたみたいですねぇ。偉いですねぇ、青蘭」
「子供扱いするな」
「子供でしょう?何ですかその短いパンツは」
「背が伸びたんです」
「買い替えなさい」
「もうすぐ進級するんで、金の無駄です」
「まだ大方2年もあるじゃないですか。全く、仕方ないのでパパが買ってあげますよ」
「誰がパパだ」
「遠慮しなくて良いんですよ。中央委員会役員のカードは、上限なしの奨学金扱いなのでねぇ」

二葉がペッと投げてきたプラチナカードには、Sクラスのマークとクラウンを示す王冠のマークが刻まれている。来日すると言う話を聞いた時から予想していたが、やはり軽々しく進学科へ選定された様だ。この男には欠点がないのだろうか。

「夜遊びは程々に。風紀に見つからなければ、ある程度は目を瞑ってあげます。私としても、出来るだけ嵯峨崎君とは揉めたくないのでねぇ」
「はっ。お前にも苦手な人種が居たんですか」
「気持ち悪いんですよ、あの人」

いつもの笑顔で吐き捨てた二葉からは、本音が見えない。然し苦手意識があるのは真実なのかも知れないと思った。二葉が理性的なら、あの赤毛の男は明らかに、本能的だ。

「京都生まれの私より京言葉を知っているなんて、変態臭いと思いませんか?」
「一言一句そのまま伝えてあげましょうか?」
「出来るものならどうぞ?お前が祭の人間だと知れれば、なし崩しに私との接点が明るみになる。そうすればお前が何故近づいてきたのか、お馬鹿な王子様にも理解できるでしょうねぇ」
「…あの人はとっくに気づいてますよ、きっと」
「それだとすれば、泳がせてくれる間は平和ですねぇ。彼が本気を出せば、お前など一瞬で殺されている筈ですから」

あの人はそんな事しない。
目を吊り上げた要が口を開く前に、さらりと前髪を掻いた男はサファイアの瞳を細めた。何が楽しいのか、嫌らしい笑みだ。

「金の悪魔と呼ばれたライオネル=レイを殺し対外実働部ABSOLUTELY枠を手に入れた、彼は有能な右元帥ですよ」

大丈夫。
嘘つきの台詞なんて、信じない。

「皮肉のつもりなら下手ですね。何万人殺したか判らない貴方の台詞とは思えない」
「おやおや、息子に馬鹿にされました。老いては子に従え。パパは前髪を揃えてお風呂に入って今は一人しかいない風紀局の人事に頭を悩ませつつ、中央委員会執務室へご挨拶へ行ってきます」
「まだ行ってないんですか?中央委員会へは、真っ先に行くべきでしょうに」
「おや。だから言ったでしょう?」

去っていく魔王から渡された札束と、無駄に煌びやかなカード。駄賃の追加で購買中の品物を買ってやろうかと考えたが、やめておこう。

「私と同じ転校生に興味があっただけです」
「…嘘つきめ」

何故初等部の生徒が中央委員会役員カードを持っているのか、不審に思われるのが関の山だ。



























「あっちから乗ってきた癖に!」

握り締めたマイクを手放す様子のない男は、腹の底から絞り出した声で、カラオケ屋の狭い一室を支配した。凄まじいハウリングで、聞いていた者の鼓膜を破かんばかりだ。

「声でけー」
「マイク吹っ飛びそー」
「テーブルはお立ち台じゃないよ、ケンゴさん」
「何が、『女の子とヤってるみたいで耐えらんない』『私より可愛い男なんて死ね』だボケ!俺の何処が美少女か言ってみろし!m(´ω`m)」
「「「顔?」」」
「竹田、松田、梅田、オメーら後で半殺しな(ヾノ・ω・`)」

どうも舎弟の名前を覚えていないらしい主役は、部屋の隅で咥えたストローをプラプラと揺らしている男を見つけた。見つけたも何も、10坪もないだろうカラオケルームに今現在5人の育ち盛りが詰め込められているのだから、見えない方が無理な話だ。

「おい、そこでスカしてる兄ちゃんよ。今この部屋は、振られた健吾氏を全力で慰めて、新しい恋を応援する以外のコマンドが使えねぇんだぞぃ(´_ゝ`)」
「あっそ」
「んなにストロー噛むなし。潰れて吸えなくなんだろうが(・ω・`)」
「どーでもーいー」
「あ?ストローが?俺の励まし会が?」
「どっちも、どーでもーいーぜ」

面倒くせー。
藤倉裕也の口癖が、ストローと共に飛んでくる。狙いすましたかの様に高野健吾の額を叩いたストローは、ピンッと跳ねて安いソファに落ちていった。

「おいおい、藤倉の旦那。昨今の中坊がンなやる気のなさでどうすんべ?」
「どーもしねー」
「お前も恋してみろって。新しい扉が開けっかもよ(*^o^*)」
「開く気もねー」

白々しい台詞に、自分だけが心底呆れ果てている。
そうなれば諦められるだの忘れられるだの、一体これから先、何万回同じ事を繰り返すのだろうか。一度目で痛いほど判っている筈だったのに。

「やだー、これが近頃の中坊の会話なのー?」
「爛れてんね〜」
「爛れてる中坊代表のまつことうめこ、竹林さんのポテト勝手に食べないでくれないかしら〜」
「お代わり頼んだら良くない?」
「ケンゴさんが奢ってくれるって」
「オメーら、今日が何の集いか判ってんのかよ?(´ω`)」
「「「ケンゴさん慰安会」」」

現金な舎弟達に癒す気があるのかないのか、甚だ不思議でならない。

「ケンゴさん、ユーヤさんはこないだ振られたばっかじゃんか〜」
「ケンゴさんほど短くなかったけど〜」
「2週間の内、会ったのはたったの3日間なのに振られるなんて、流石はケンゴさんですね〜」

極めて一般的なカラオケ屋の一室には、マイクが2本置かれている。一本ではデュエット曲を歌うのに不都合があるからだ。今の様に、一本のマイクを健吾が独占している様な場合にも、都合良くもう一本のマイクがあれば、チャラい三匹が合唱する事も出来た。

「うめっちの一番古株のお客さんはぁ、何年目〜?」
「え〜。3年目だけど〜?あ、3年目の浮気入れちゃう?」
「馬鹿言ってんじゃないよ。大体、ケンゴさんがあの女と付き合った理由は『おっぱいがデカい』だったろ?」
「全く、ケンゴさんの癖にウブなんだから〜。女の子は胸じゃないだろ、大切なのは穴だよ?」
「たけりん先生、松木先生が加藤鷹みたいな事ほざいてます〜。ゴールドフィンガー振ってるんですけど〜」
「松木君には抗菌手袋と、性病のお薬を出しときますね〜」

明らかに完璧とは言えない、陳腐な防音設備だ。恐らく馬鹿共が代わる代わるマイクに向かって吐いた台詞は、ドアの向こう側の廊下まで聞こえているだろう。

「えー。だって、どっちみち穴でしょ?老いも若きも、穴は一緒だしさ〜」
「まー、確かに!女は良く判んないけど、ケツの穴でも出るもんは出るからね〜。オレ的に、締まり良過ぎる穴より使い込んだ緩めの穴の方が良い感じなんだけど、これって変?」
「うめこはチンコでかいもんね〜」
「やだ、まつこもエグい感じで反ってるわよ〜?」
「はいそこ、馬鹿松と阿呆梅。お口がスピード違反ですよ?そろそろ黙らないと、竹林さんの必殺技『絶交』を発揮します」
「「いやー!捨てないで、おたけ様ぁあああ!!!」」

何の騒ぎなのか。
これでは『振られた健吾君を慰めよう会』ではなく、赤裸々に性癖を晒しているだけではないか。因みに健吾の股間は極々普通だ。どっかの赤毛の如く、凄まじい重量感もない。

「マツとウメって、そんなやべーチンコ持ってたっけ?ユウさんのラオウとどっちが凄ぇん?(*´σ`)」
「ケンゴさん、副長のアレはチンコなんて可愛いもんじゃないよ」
「俺らが線香花火なら、ユウさんは4尺玉の打ち上げ花火」
「オレら線香花火かよwww」

下らない会話で何とか盛り上げようとしてくれている仲間達に賛同する様に、健吾もまた、わざとらしく声を上げて笑った。くわっと欠伸を発てて、歌う気などない癖にカラオケの端末を弄っている男のエメラルドだけは、全く笑っていない。

「ユーヤ、烏龍茶お代わりしたら?」
「ビール」
「お前w未成年だろw」
「大して傷ついてねー奴をこうして慰めてやってんだから、見逃せや」
「ンだそれ。俺の事かよ(´`) めっちゃ傷つきまくってるっつーの」

いつから。
振られたと言う言葉を呪文の様に、使う様になったのか。悪いのは誰でもない。判っている。全ては意気地無しがそう仕向けただけだ。

「振られたのはオメーだけじゃねー。オレもだぜ」
「えっと…」

一人っ子と一人っ子が兄弟の様に育ち、どちらも兄で弟で、それは大人になっても変わらない筈だった。いつかまでは。それが変わったのは、片方が邪な感情を抱いたからか?それとも、見て見ぬ振りをして蓋をしたからか?

「よっし!ケンゴさんは放っといても大丈夫そ〜だから、ユーヤさんを慰めよー!」
「お。うめっちのエンジンが始動しました、一曲目行ってみよー!」
「入室一時間目にしてやっと一曲目って、面白過ぎるだろ俺ら。先に延長しとこ〜」

好きでもない相手を好きだと平気で言える男が、それと同じ事を兄弟の様に育った親友へ強いたなら。
矛盾しているのはそれを促した健吾なのか、素直に従った裕也なのか。

「面倒くせー。オレは寝るぜ」
「ちょ、それが相棒の態度ですか?!つれねぇ事言ってやがる奴は殴るぞ?!(´`)」
「何人もオレの眠りは妨げられねー。グースカピー」
「お休みが早くない?( ゚ω゚`)」

答えを知るつもりもない癖に。































見事なイングリッシュガーデンが広がっている。
豊かな緑の庭には、白塗りのウッドテーブルと同じ作りの椅子や、ベンチなどが幾つか並んでいた。時々は水色のものもあるが、定期的に塗り直しながら備品を大切に使っている事が、その端々から窺える。

「ねぇ、おばあちゃん」

オフホワイトの制服を纏う子供達と、ブラウンの制服を纏う子供達が、乙女座を掲げる庭でランチを広げながら談笑している様子を、エリザベート=セシル=ヴィーゼンバーグは意味もなく眺めていた。何をしているのかと問われれば、何もしていないと言うのが正しい。人を待っていると言うには、誰を待っているのかも判らない様な有様だ。

「おばあちゃん?」

夫にも家族にもメイド達にさえ内緒で何年も前から日本語を勉強して来たと言っても、実践経験は皆無に等しい。
つい先程、地球で最も恐ろしい男相手に口火を切ったばかりだ。通じていない事もなかった様だが、ヒアリングは想像以上に難しく、経験が乏しいので自信が足りず、言葉数はどうしても減る。元々、英語でも殆ど喋らない性分である。

「ねぇってば」
「…?」
「やっと気づいた。目を開けたまま寝てるのかと思ったよ。おばあちゃん、こんにちは」
「…私の事、ですか?」
「そうだよ。他に女の人、居ないじゃん」

他人の幸せそうな顔を眺めていると、ピエロの仮面を被った誰かが近寄ってきた。
新歓祭で賑わう広大な学園中に、ピエロやメイドに扮した少年達が居る事を、既にこの目で見ている。下らないエンターテインメントだと思わなくもないが、このくらいの年頃の子供達は、どんな事でも幸せそうに笑うのだ。きっと仮面や化粧の下でも、彼らは楽しげに微笑んでいるに違いない。

「何ですか?」
「なんでこんな所に座ってるの?日向ぼっこなら、今はやめた方が良いよ。もうすぐ雨が来るから」
「知っています。段々、暗くなってきましたね」

ほんの時折、雨粒が落ちてくる。その程度では、少年達の楽しい語らいは終わらない。
広い3人掛けのベンチの中央に座っているセシルの隣に、ピエロの仮面を被った誰かは、遠慮なく腰掛けた。

「お腹空いてない?あの子達が食べてるのって、たこ焼きかな。良い匂いがするねぇ」
「…変な道化師ですね、この私の隣に座りたがるなんて」
「どの私?僕には普通のおばあちゃんにしか見えないよ」
「ふふ。そうですか」

ガウンの様なローブの様な、不思議な衣装と仮面を纏うピエロの僅かに見える肌は、眩しいばかりに白い。
セシルもその肌の白さを昔から称えられてきたものだが、この年齢になれば肌の色よりも皺の方が目立つだろう。挨拶代わりの社交辞令だ。褒め言葉を素直に喜んだのは、何十年前までの話だったか。

「確かに、妙に興味を惹かれる香りがします。昔、晩餐会で一度だけ中華を口にした事がありますが、あの時の料理から似た香りを嗅いだ事がありましたか」

ローブから伸びる細い脚に、寸足らずのレギンスの様なものを履いているピエロは、ショートブーツを履いた足をぷらぷらと弄ばせる。我慢が出来ない子供の様な仕草だ。

「中華ってどんな味?」
「食べた事はありませんか?私もそれほど詳しくはありませんが、世界中で愛されている料理でしょう?」
「うーん。僕ねぇ、昔からあんまりご飯に興味ないんだ。食べてるより遊んでる方が楽しかったから」
「子供ですね」
「そうだよ。僕はず〜っと、十歳のまんまなんだ♪」

ぱっと開いた両手の親指を結んで、ヒラヒラと蝶々の様に手遊びを見せてきたピエロの声が、笑っている。

「歳を取らないなんて、ピーターパンですね」
「ピーターパン知ってるんだ。意外〜」
「子供は皆、ピーターパンの冒険が好きでしょう?」
「冒険が嫌いな子なんて居ないよ」
「沢山遊べばお腹が空くでしょう。私の様な『おばあちゃん』は遊ばないので、お腹が空かないのです」
「じゃあ、僕が遊んであげよっか」
「貴方が、私と?私では、すぐにくたくたになってしまいますよ」
「くたくたになったら、一緒にご飯食べようよ」

誰かと食事を取ったのは、いつの事だったか。もう思い出せないほど昔だ。
最後に見たのは誰が食べる姿だったろう、と思いに更ければ、ピエロはまた手遊びを始めてしまった。ああ、無視されたとでも思ったのだろうか。

「何を食べるんですか?貴方は食事に関心がないと言いましたね」
「うん。いつもはね、美味しくてお腹いっぱいになるから、おむすび食べてるよ」
「おむすび?ライスボールの事ですか」
「うん。味付け海苔を巻いてる方が、好きかも」
「海苔は知っていますよ。食べた事はありませんが、寿司に巻かれているのを見た事があります」
「お寿司かー。うちじゃ、お寿司は鮒寿司か押し鮨ばっかりだったなぁ。たまにちらし寿司が出てくると、お兄ちゃんと取り合いになるんだ」

少年の様で少女の様でもあるピエロは、けれどセシルより幾らか背が高い様だった。
座っているセシルが立ち上がっても、160cmあるかないかだ。若い頃は166cmほどあったものだが、いつの間にか随分縮んでいる。気がつかない内に、あっと言う間に死んだ両親より年上になってしまった。

「お父さんが好きだったのは、鮭とおかかだったよ。他の具には見向きもしないで、お父さんはその二つばっかり食べたがるんだ。だから猫ちゃんみたいって、お母さんはいつも笑ってた」
「そうですか」

見ず知らずの他人と、二人きりで会話をする日が来るとは思いもしなかった。旅の恥はかき捨て、日本の諺にそんな言葉がある。もしかしたら、今の状況がそうなのかも知れない。

「お母さんの好物はね、お肉だよ」
「お肉?」
「うん。それも牛肉ばっかり。体が弱い癖に、好き嫌いが多くて栄養が偏ってるんだ。おじいちゃんが『野菜も食べなさい』って言うとお母さんが睨むから、おじいちゃんはすぐ僕に泣きつくんだよ。『お前からも注意してやれ』って」

不思議な気分だ。処刑を待つ死刑囚の様な緊張感もあるが、何処か待ち遠しい気持ちでもある。BGM代わりの他人の会話を聞きながら、久し振りに笑った。饒舌なピエロは然し、ゆったりと穏やかに喋ってくれるので、リスニング練習に丁度良いのかも知れない。
そう思えば、不思議と口を開こうと思ってしまう。素性が知れない相手に、誰からも畏れられている公爵が。

「私も、好き嫌いは少なくない方ですよ」
「へぇ。おばあちゃんの好きな食べ物は?」
「アップルパイと、エッグタルトです」

林檎と卵。
子供の頃はタルトにアップルジャムを塗って、そればかりを食べては叱られたものだ。公爵家の娘がスコーン以外にジャムを塗るなんて、などと、訳が判らない理由で家庭教師は手を叩いてきた。あの教鞭の痛さを覚えているけれど、今になればそんなに痛くなかった気もする。人間の記憶とは、笑えるほどに曖昧だ。

「本当はエッグベネディクトも好きなんです。けれど誰にも言っていないので、数える程しか食べた事がありません」
「言えば良いのに」
「私もそう思います。けれど私は、自分が雇ったコックの顔も知らないのです」
「どうして?」
「当主は下々の者と気安く話してはいけないと教わりました。家の雑事はメイドに任せているので、私は最後に承認するだけの役目です」
「ふーん。例えば、どんな?」
「雇用するに値する問題のない人間であれば調査報告書を渡され、目を通すだけ」
「社長か!」

何が可笑しいのか、ピエロは腹を抱えてケタケタ笑った。それを見て笑ってしまう口元を一瞬押さえたが、良く考えれば、我慢する必要などないのだ。

「おばあちゃんの日本語、上手だねぇ。いっぱい勉強したの?」
「ええ。独学ですが、いっぱい勉強したんです。時間だけは沢山ありましたから」

大切に育ててきた筈の息子が居なくなった。
だからと言って連れ戻す事も、帰ってきてくれと懇願する事も出来なかった。40年も昔の話だ。我儘らしい我儘を言った事がなかったアレクセイが、初めて留学してみたいと相談してくれたのだ。断る理由が何処にあると言うのか。

「どうして勉強しようと思ったの?」
「私に興味があるなんて、奇特な人だ事。ふふ。この場合、奇特なピエロですか」
「そうだよ。ピエロは楽しい事に飢えてるんだ。だから僕ね、これと同じお面をプレゼントして来たんだよ」
「どなたに?」
「うふふ。王子様みたいな、王様かなぁ」

面白いピエロだと思う。
その仮面の下の顔に興味が湧いたが、見えないからこそ楽しいのかも知れない。外して頂戴と言えば外してくれるかも知れないけれど、それは野暮と言うものだ。

「私も、似た様な人に出会いましたよ」
「へぇ?王子様みたいだった?」
「ええ。あれほど美しい人間を、余り知りません」

いつまで話し掛けてくるつもりだろう。変わったピエロだ。
こんな老婆の会話など面白くない筈なのに、コロコロと笑っている。仮面越しにも楽しげなのが判る。

「おばあちゃんの周りには、美人が沢山居るんだねぇ。楽しそう」
「そうですか?外見の美しさが内面を表している訳ではないのですよ」
「うふふ。そうだよねぇ、僕のお母さんは物凄く美人だったけど、怒ったらすっっっごく!怖かったもの!」
「ふふ。そんなに怖かったんですか」
「すっっっごく!お父さんはね、他の誰も怖くないって言ってたけど、お母さんが怒った時だけ慌てるんだ。ビシってワンコみたいにお座りして、お母さんが落ち着くまで待ってるんだよ」
「わんこ?」
「そう。犬みたいだった」

犬か。
愛しい息子もそうだった。幼い頃は大人の顔色ばかり窺って、怒らせる様な事はしなかった。

「僕ねぇ、良い事したんだ」
「良い事?」
「うん。おばあちゃんは、何かするの?」

翻訳が間違っているのだろうか。まるで心の中を読まれたかの様に思えた。

「…私は、何をすれば良いのでしょうか」
「判んないんだ?」
「選択肢は限りなく多い様で、然し、本当は一つもないのかも知れません」
「難しいねぇ」

小鞠を転がす様に。ピエロは笑った。
もしかしたら少女なのかも知れないと思ったが、『僕』は男性の一人称だと認識している。けれど自信はない。

「私も」
「うん?」
「良い事をしてみたいのです。然し方法が判らない」
「方法はいっぱいあるよ」
「…そうですか。私の様に歳を取ると判らない事と出来ない事ばかり。若い人は本当に、器用に生きてるのに…」

今までずっと、何をするにも一人だったのだ。

←いやん(*)(#)ばかん→
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