帝王院高等学校
どこもここも闇で病みすぎですか?!
「対空管制部と区画保全部はノア派の筆頭、と思ってイイのか」
「その様だな」

チュドーン!
と言う、まるで砲台が吠える様な凄まじい音が響いている。如何なる時も冷静であれ、と定められた黒服達の表情に微かな動揺が窺えるが、ポキッと首の骨を鳴らしながらうなじを撫でている男も、凄まじい美貌で微笑んでいる銀髪の男も、今の音が聞こえなかったと言わんばかりの冷静さだ。

「ノア直属の筈の特別機動部が、一枚岩じゃないのは間違いないだろう。対外実働部はまず間違いなくイチ派閥の筆頭だ」
「恐らくではあるが、元老院にファーストの味方を作ったのはコード:ロバートかコード:アートのどちらかだ。11年前に大規模な人事刷新が行われている形跡がある」
「あ、それなら…」

人員管轄部の主任の立場にあると言う男が、おずおずと手を挙げた。黒と金が複雑に混ざった髪の男は、北欧系にもアジア系にも見える顔を幾らか歪め、窺う様に口を噤む。まるで怯えているかの様だ、と。考えた瞬間、髪も目も黒い純日本人の目元が細められる。

「…タイヨーに喧嘩を売った割りに、弱気な態度だな」
「は?」
「俺はあの子より怖いのか?」

問い掛けの意味が判らないのだろう。沈黙している男が困ったとばかりに眉を下げたので、遠野俊は何でもないと首を振った。

「11年前の人事について、何か知ってるんだろう?」
「ああ、はい。当時は入社前で、現場を知っている訳ではないんですが…」
「判ってる。続けて」
「はい。当時、元老院の議長だったアシュレイ執事長がノアの世話係としてセントラルに招かれ、キャノンテイターニアに復帰していました。今から23年前に、執事長の長女のエアリアスがクライスト=アビス…日本名は嵯峨崎嶺一と、本国から永久追放されて以降、父親のフルーレティ=ジャン=アシュレイは引退した筈でしたが、ノアの命令だと思われます」
「ふ。あのナインが命令する様になるとは、私も歳を取る筈だ」
「お前はとっくに死んでる上に、そもそも『あのナイン』を知らないだろう?」
「オリオンが完全にアーカイブしたナインについては、お前より詳しいと思うが?何なら夜人を起こそうか」
「…あれはイチより説教が長い」

奇妙な光景だ。
アンドロイドが笑いながらジョークを飛ばし、ロボットより表情がない男の方が口籠もっている。突っ込めば良いのか見ない振りが正解なのか、誰にも判らない。

「で、今のでお前はどう判断したんだ?フルーレティがイクスの世話係になって、何故ファーストの話に繋がる?」
「単純な話だろう。アシュレイ元老院筆頭はキング=ノアの忠実な下僕だったと言う事だ。引退した理由も、復活した理由も、総じてノアの為なら」
「ステルシリーにとっての礎である事が、元老院の存在意義だ。組織内調査部が他部署の監察を行うのであれば、男爵の監察を行うのが元老院の本分」
「だが、フルーレティ=アシュレイは違った。犬は何処までも犬でしかない、そんな男が議長だと言う事に、少なからず嫌悪感を持った人間が元老院の中に居ても、可笑しくはない」
「ふ。やはり、私はお前に統率符を与えてみたい」

元老院議長が不在の間、元老院は複雑に歪んだのだろう。
素性が確かではないルークに対する嫌悪、同じく男爵の子供ではないファーストを良しとしない者もあれば、実に様々な意見が交わされたに違いない。交わされていないのであれば、心の中だけで皆が、幾つもの考えを秘めていた事になる。

「3歳になる前に迎えられたルークは、翌年に枢機卿として認知されている。ステルシリー内での枢機卿とは、ランクAと一部のランクBを指す言葉だ。マスターないしサブマスター相当の人間に対して、敬意を込めて配下の人間が使う」
「そうか」
「推測だが、フルーレティの教育でルークの知識が間もなく満たされたのは、ほぼ確実だろう。ステルシリーのスカウトはメンサ相当のIQを保有しているか、表向きに抹殺されている人間が大多数を占めている。コードを与えられず、セントラルへ招かれる事もないランクDの名無しだけが、表社会に残されるんだ」
「一流企業の社長、会長がステルシリーでは名無し扱いか」
「政府官僚にも、少なくないがな」
「規模が大きい話だ。平凡な俺には、理解出来そうにない」
「お前が平凡?随分と面白い事を言う」

ファーストの教育係として招かれたと思われていたアシュレイ議長は、間もなくルークの教育係へと変わった。当時ファースト派だったと思われる勢力は、ルークを目の敵にした事だろう。然しその中にも、幾つかの派閥が産まれたのは想像に難くない。

「そして、奴が現れた」

そうこうしている頃、枢機卿として認知された神の子の元に、一匹の獰猛な獣がやって来た。何処からやって来たのかも、どうやって現れたのかも定かではない、アジア系の子供の事だ。

「奴をランクDとして推挙したのは、イクス枢機卿だったと言われています。然し奴は名無しですらなかった頃に、セントラルへ紛れ込んだ。随分人員管轄部でも議題になった様ですが、稟議の結果、奴は間もなくランクCに登録されました」
「スカウトもなくCAPITALから始まるとは、余程の人材だと中央情報部が認めたと言う事か」
「はい。当時から数学に関しての知識が、著しく一般人を超えていた様です」
「成程。ナイト、心当たりがあるだろう?」
「ない事もないが、道理でイチと相性が悪い筈だ。十口は不良品の集まりだが、だからこそ意味のない死を嫌っていた」

どうせ死ぬなら意味のある死を。
無駄死にはしない、空蝉唯一最大の美徳とされている。


「元老院は失態を犯した」

ぽたり、と。
目には見えない雨粒が、鼻先を叩いた様な気がする。

「失態?」
「議長の目が逸れている間に、統率が薄れていく。何かの為にと言う大義名分があれば、利己的な考えも正当化されただろう」

空は薄い雲がゆったりと泳いでいるが、所々晴れ間が覗いていた。お日様の匂いに、微かな雨の匂い。雲は音もなくやってくる。まるで、野生の獣のよう。

「一触即発の所へ、3人の子供が揃う。3とは均衡を現す数字だ。命から魂、そして業へと帰依する」
「お前の話は難しいな。私のCPUでは、演算が間に合わない」
「当時の対外実働部マスターはライオネル=レイ」
「それがどうした?」
「ジャック=レイナード=アシュレイ」
「な?!畏れながらナイト=ノア、サーバーにも載っていないデータをどうして?!」
「ライオネル=レイは、俺の曾祖叔父を遺体ごと保存していた。遠野夜人、生前の名は、ナイト=メア=グレアム」

人員管轄部主任は見事に表情を崩し、沈黙した。他の男達も似た様な表情だが、冷静を取り繕っている。

「知っていたから俺を迎えに来たんだろう?俺が帝王院秀皇の息子で、冬月龍一郎の孫で、つまりはシリウスの姪孫だと」

判っていても理解に及ばない事は、ままある筈だ。
それでも優秀な人材が揃う世界最大企業の幹部が、揃って冷静を取り繕わなければならない理由は、それほど多くない。

「判ってる。俺を理解する人間は限りなく少ない」

洪水がやってくるよ。
と、いつか言った時に、船がなければ泳げば良いのだと鼻で笑った人がいた。母親の事だ。遠野俊江、家族以外に何の依存もない、あらゆる希望を淘汰した女の話。

「何かを守りたいと望んだ時、人は他人に殆ど話さない。己の最も大切なものほど隠したがるのは、テリトリーを主張する動物の本能だ。つまり、同じ元老院と言う区分の中だろうと、意見が完全に一致する事はまずない」

例えば、同じ病気の患者に対して処置の方法は医者の数だけ違う。
手術をしなければいけないと言う医者が居て、投薬で治ると言う医者も居て、暫く様子を見ようと宣う医者も居るだろう。
ステルシリーに忠誠を誓い、ノアに平服する事で一致している世界の裏側でも、それ以外の分野では相違している筈だ。例えば『ノア』が誰を指すかで、世界の仕組みは容易く移り変わる。

「例えば今、俺が爵位を手に入れればルーク派閥の対空管制部ですら、俺に跪く。そう言う事だろう?」
「は、はぁ、はい…」
「方法を間違えれば、どんな事でも失敗する。幼稚園の頃に食中毒が流行って、『食べ物はしっかり火を通したものを食べましょう』と教えられた子供が、以降、どんな料理をしても黒焦げになる事がある。学んだ通りに調理しているだけなのに、一度も成功しない」

それならどうして黒焦げになるのか、誰かにアドバイスを求めれば良いのだ。けれどそうしないままなら、今後もそのままだろう。何も変わらないまま、変わる事を求めていないのであれば、尚更の事だ。

「元老院の人間は肌で感じていただろう。互いが互いに異なる考えである事を。そして誰かが行動に移すと、止めようとした人間や機に乗じた人間が絡み合い、無駄に騒ぎを起こした。ルークもファーストも殺せず、まして、子猫まで巻き込んだ事で獣の怒りに触れたんだ」
「ん?それはどう言う意味だ、俊」
「王でありながら王である事を捨てた人の形をした獣は、地獄でも天国でもない場所で、その永遠の束縛のみを選んだなら。変わる事を望まなかった。変わらない事を選び続けた筈だった。人の心が容易くうつろう事を、自身が一番良く知っていたからだ」

目の前に、一人の男が立っている。
真っ白い猫を抱いて、真っ直ぐに見つめてくる。この男は朝からずっと見えていた。いや、この学園に初めてやって来たその日から、見えていた。けれどじっと見つめて来るだけだ。他には何も。

「あの子は俺と取引をした」

そしてその光景を覚えている。それなのに、今は自信がない。

「俺は『俺』ではなく俺だと信じているけれど、今は鏡の中にいる様な気分だ。俺はどうして、あの時の言葉を否定出来なかったんだろう」
「あの時の言葉とは?」
「少しずつ、過去と未来が混ざっていく様な気がする。12歳なのか15歳なのかそれとも18歳なのか、線引きが曖昧だ。俺は今、どの俺なんだろう」
「難しい事を言う。皆が困惑しているが、私はどうすれば良い?」
「散らかした後は、片付けをしないといけない」

楽しい楽しい新歓祭が、間もなく終わろうとしている。明るい明るい晴れ間が消えていく様に、時間の流れは誰にも止められない。

光と影は背中合わせだった。
太陽の元に命が育まれ、夜には星明かりと静寂なる子守唄。巨大な天体に包まれて、人は星と共に廻り続ける。
始まりから、終わりへと。

まるで、生きる時計のよう。


「言っただろう。蝉の寿命は短いから、無駄な事はしないんだ」

俺はいつか、愛を覚えたそうだ。
(降り注ぐ雨の中)
(拾ったチラシには幾つかのBL漫画が紹介されていて)










(主人公と言う名の他人が幸せになるだけの物語だった)


























子供じみた夢なんてものを抱いて、それだけで満足していた頃があった。
もう思い出すのも難しい遥か昔の話だと、穏やかな口調で話す男性DJの声から懐かしい洋楽へとすり変わる。いつの間にか、FM放送を流しているラジオに耳を傾けていた様だ。

「まだ許してモラえんデスか」
「…」
「セーコ」

そろそろ他人の後頭部を眺めながら煎餅を齧り、然程多くない来客を待つのも飽きてきた頃だ。と、ペンを握った右手で電卓を弾きながら足を組み替えた女は、帳簿とは名ばかりのチラシの裏に一週間の売上を書き込むと、左手に持ったままだった醤油煎餅をパリッと齧る。
この歴史だけはあるが狭い商店には、『キヨコ』と言う名札をつけた店番と、『おきよさん』と呼ばれている生き字引の様な老婆がいるだけだ。
店主である齢97歳の喜代美おばあと言えば、ある意味商店街の看板娘だろう。数年前までシャッター街だった商店街で、唯一、年中無休を貫いた。

「おきよママ、お昼は何を食べます?」
「ふぁー?キョーコちゃん、何か言ったかい?」
「キョーコじゃなくて、キヨコですよ。そろそろお昼だから」

招き猫宜しく、日がな一日、座布団の上に座っている店主は、ご覧の通り耳が遠い。ボケているのかいないのか怪しい具合だが、算盤を弾かせたら天下一品だ。
昔ながらの駄菓子屋の風情を残す店の奥の、住居と隔てる障子を開けば、店主の生活空間である。昔ながらの掘り炬燵が中央に置かれた8畳の居間には、立派な仏壇の上に先祖の写真が並んでいた。

「もうお昼かい。テレビをつけないとね」
「昼ドラをそんなに大きな音で観てると、また駐在さんが駆けつけてくるわよ」

部屋に不似合いな液晶テレビの画面から零れる音は、爆音じみている。補聴器を忘れているのだろうと思えば、仏壇の前に供えられている大福と補聴器を見つけた。大事なものを仏壇に置くのは良いが、そのまま置いた事を忘れてしまうのも日常茶飯事だ。

「何でも良いなら、川端さんのピザでも良い?」
「きゃるまのグラタンが食べたいのぉ」

本当にボケているのだろうか。まぁ、置物と大差ないご長寿が少々認知機能に欠けた所で、小さな商店に打撃はないけれど。何せこの店の常連客は、店主を母親の様に慕う同じ商店街の年寄りか、斜向かいの洒落た喫茶店のアルバイトか、絶対に万引きはしないヤンキーだけだ。

「あたしゃね、電話帳にきゃるまの電話番号を書いてるんだよ」
「はいはい、知ってます。でもね、おきよママ」
「あたしゃね、マサやんの顔を見ないと一日が始まった気がしないんだ」
「ママ、榊さんなら朝寄ってくれたでしょ?今日は臨時休業にするって、ギューってハグされて『仕方ないから今日だけだぞ☆』って言ってたじゃない」
「はて、そうだったかい?マサやんは喜与絵の彼ピなのに、あたしゃ、ギューしたのかい」
「きよえママは一昨日から韓国旅行中でしょ」
「お土産は酢豚かね?あたしゃ、酸っぱいのは嫌いだよ」
「酢豚は中華よ」

店番は店主に微笑みかけると、電話帳からピザ屋の番号を見つけて受話器を持ち上げた。
オフィス街からは些か離れている商店街の端のピザ屋は、季節に応じて限定メニューを作っている。そのメニューが若者の口コミで評判を呼び、決して良いとは言えない立地ながらも繁盛している様だ。

「嵯峨崎オーナーが協力して企画してるメニューだから、カルマファンなら喉から手が出るほど食べたいでしょうけど。…相変わらず、此処は電話に出ないわね」

日曜日だ。それもカフェカルマが臨時休業している。カルマに入れなかった客が流れているのだろうと思われるピザ屋は、何度コールしても出ない。
デリバリーピザと10坪程度のイートインスペースで店内調理も兼ねている、それほど大きい店舗ではなかった。近頃繁盛している為に焼き釜を増やした事で、スペースが足りず従業員も増やせないとなれば、電話ではなく直接店へ注文に言った方が早いかも知れない。

「冷凍グラタンがあった様な。おきよママ、レンジでチンした奴でも構わないかしら?」
「マサやんはまだ帰ってないのかね?」
「はいはい、榊さんが大好きだって事は判りました」

今日の売上は今の所ゼロだ。
昨日は、毎日2箱の煙草を買いに来るカフェ店長が賞味期限間近の駄菓子を幾つか買っていってくれた。土曜日の夕方は商店街の会合があるので、閉店間際までそこそこ来客があったのだが、今日はこのまま望めないかも知れない。商店街で賑やかなのは、店主が見ている昼ドラだけだ。

店内に置かれている小さなクーラーケースの中、アイスクリームに紛れて幾つかの冷凍商品を置いている。数年前から、三代目の看板娘を任されている『キヨコ』が提案した事だ。この商店街で毎日繁盛しているカフェが、度々食糧難に襲われていたからである。儲かるのも大変らしい。

この付近にスーパーはなかった。駅前のワラショクが開店した事で軒並み閉店に追いやられた様だが、ワラショクグループは商店街の周辺には絶対に店舗を持たないと言われている。同業に配慮した形ではある様だが、商店街の過疎化は止まらなかった。今の時代に適応出来ないだけで、大型店が全ての原因ではないだろう。

とは言え、商品を私物兼用にするのは本心ではなかった。
ピザ屋が電話に出ないからとか、カフェが臨時休業だからと言う理由があるものの、高齢者には辛うじて保っている商店街だけでは、生活の彩りに欠けるのだ。

「ねぇ」
「?!」
「毎日毎日、良く飽きないわね」

どう見ても土下座のポーズで、然し正座でも胡座でもない乙女座りの様な格好で、床に額を擦りつけたまま動かないグレーブロンドの男は、弾かれた様に顔を上げた。
まさか声を掛けて貰えるとは思わなかったのだろう。キヨコの方こそ、自分の行動に驚いている程だ。

「そろそろお昼にしたいんだけど。いつまでも座り込まれたら、迷惑」

声に嘲笑とも呆れともつかない響きを込めて呟いた女は、掛け慣れた安い伊達眼鏡を押し上げながら髪を耳に掛ける。

「メーワク?」
「そう。今日はお向かいさんが休みだから、もしかしたら坊主かも知れないのに」
「ぼ、ぼーず?」

日曜日だと言うのに活気がない商店街は、店先のサッシを開いたままでも静かだ。
そろそろ昼時なのに、斜向かいの喫茶店が店休日の札を掲げているからか、急な店休に残念がる人々は絶えないのに、だからと言って幾つか営業している他の店舗に流れ込む様な事はまずない。
昔からのしきたりだの何だの、同じ飲食店でも業種が違う事が開店条件だ。商店街の南端に古くから定食屋がある所為で、カフェカルマは喫茶店の体で軽食を出す事しか出来ない。表通りに面している南口ではなく、通りから細い路地に入った先の東口に嵯峨崎佑壱が開店した理由も、以前はホストクラブだった居抜き店舗を持て余した不動産が、相場より遥かに安く売りに出したからだろう。

『そもそも俺ぁ、店なんか出すつもりはなかったっつーの。家に帰れねぇ奴らが、人目を気にしねぇで集まれる場所なんざ、寂れた公園か寂れた商店街くらいだろ』

金持ちの考える事は判らない。
料理が趣味の様な男は、カルマの人数が増えるにつれてマンションだけでは足りないと、厨房機器が揃った店舗を探したそうだ。ある程度の広さがあり、誰の迷惑にもならず寝泊まりが出来る程度の『場所』さえあれば、家族に恵まれてなかったと言う理由で、舎弟達が人生を棒に振る真似をしなくても済むのではないか。当時13歳の少年が何を思って選択したのかは不明だが、ただのアジトの予定だったカルマの拠点が、それから間もなくカフェとして開店したのだから笑える。

「お客さんが来ないと、商売上がったりって事よ」
「セーコ、お客さんいない、困るマスか?」
「おきよママの年金だけで賄ってる様なお店だから、そりゃ困るわよ」

子供だからと言って侮れないのは、医学生がメンバーに含まれていたからだ。医学生と言うだけで年寄りの評価は高く、榊雅孝を嫌う人間は、少なくともこの商店街には居ない。同じく、言動の端々にヤンキーを感じるものの、それと同じだけ育ちの良さも感じさせる佑壱を嫌う者も、今では居ないだろう。

「私のお給料だけでも、ママには迷惑を掛けてるの」
「う?」
「判らないわね。そりゃそうね、お金持ちのお坊ちゃまには生きていく大変さなんか判る訳ない」

極めつけは、シーザーだった。
あの佑壱を舎弟として連れ歩く恐ろしい男は然し、週末の商店街掃除に顔出したり、一時期は中止を余儀なくされていた夏祭りの準備を自ら手伝ったり、元々ヤクザ絡みのホストクラブが出店していた事から、ガラの悪い人間が商店街を荒らす様なトラブルに見舞われていた事があったのだが、それを一人で解決してしまった。

「セーコ…。もすこし、ゆっくり、お願いシマス。ワタシ、判らない、いっぱい」
「バイクで乗りつけてきた男達をバイクごと投げ飛ばしたって言うんだから、出刃包丁振り回してチンピラを追い払ってた金物屋のおじさんも、腰が抜けたでしょうね」

片言の外国人には見向きもせず、女はショーケースから取り出した冷凍グラタンをレンジへ放り込む。
そろそろ昼ドラが佳境を迎えていて、いつも通りこれ以上なく良い場面でエンディングソングが流れるだろう。悔しがる店主が座布団の上でジタバタする前に、ほかほかの食事を提供したい。

「セーコ、無視しないで下サイ。もっとお話するデス」
「人様に迷惑しか掛けないヤクザと話す事なんて、ないわ」
「やく?やくざ?セーコ、判らない」
「その程度の日本語能力で、良く日本に来たわね?どれだけ土下座されても、どれだけ粘られても、許せないものは許せないままよ」
「Seiko шевели хвостом и возвращайся.(セーコ、戻ってきてくれ)」
「Hу отойди.(帰って)」

昔、夢を見ていた事がある。
水平線まで続く、真っ白に凍った大地を見てみたい。キラキラと大気に凍るダイヤモンドダストを見てみたい。次から次に出てくるマトリョーシカ、骨董品を集めていた父親にねだって譲って貰った可愛らしい女の子の人形を、飽きもせず抱いて眠った事がある。いずれも昔の話だ。今はもう、見たくもない。

「世間知らずの子供が、素敵な大学生だと信じて恋をした相手がマフィアのボスの息子だったなんて、きっと昼ドラじゃ良くある話でしょ。ね、おきよママ」
「あぁぁ!マサトがミユキとデキてたなんて、あたしゃ信じないよぉ!」
「おきよママ、年齢を考えて頂戴。そんなに泣くと、榊店長もユーヤ君も吃驚するわよ?」
「やだね、ユーヤが来たんなら教えておくれ。あの子は何て男前だろうねぇ、死んだじーさまが生き返った様だよ」
「おきよママの旦那さんは、ゲゲゲの鬼太郎のねずみ男にそっくりだったんでしょ?ユーヤ君は全然似てないわよ…っと、はい。あっつあつのグラタンが出来ましたよ」

面食いの店主がユーヤは何処だと騒ぐ前に、涙をいっぱいに溜めている外国人を見やった。未だに下手な土下座の真似をしている男から、きゅるりと腹の音が聞こえてきたからだ。

「グラタンが食べたいなら、400円よ」
「はっ。よ、よんひゃく…おいっ」

テレビを切れば、店内は再び静かになる。
入口の前でマネキンの如く佇んでいた男達の存在を今の今まで耐えていたと言うのに、高々400円すら自分で払えず部下に頼ろうとしている男の後頭部を見据えたまま、店番の看板娘は片足を振り上げたのだ。

「人の話を聞いていたのかしらね、この腐れゲス野郎。何で清志郎はこんな男に似ちゃったんだろ、愛人に子供産ませといて戻ってこいだなんてどの面下げてほざいてんの?」
「セ、セーコっ、セーコ!い、痛いデス!」
「私、18年前にアンタとは別れたつもりだったんですけど?勝手に籍入れて、そっちの内輪揉めに巻き込まれたら堪らないのよ。子供が出来たって言うからやっと諦めてくれたんだって喜んでりゃ、アンタの愛人が殺しに来るなんて昼ドラ展開にも限界があるのよ?」

踏みつけた頭へ笑いかけたまま、伊達眼鏡が落ちない様に押さえつつ。
耳が遠い店主はグラタンに夢中で、店先の騒ぎになど気づかないだろう。例え気づいていた所で、戦争で旦那と3人の息子を殺された後、再婚した男の連れ子を育てながらこの店を切り盛りしてきた強い女性だ。少々度が過ぎる痴話喧嘩など、見飽きている。

「ねぇ、黙ってないで頭下げろよカス野郎。ヤクザの娘が一般人の嫁になりたいなんて甘い夢見たから馬鹿にしてんのか、ああ?!」
「ひっ。セ、セセセセーコっ、ごめ、ごめんなすって…!許して下サイ…!寂しかったんだ!セーコが居ない毎日に耐えられなかったんだ…!」
「あーあー、糞うぜぇ、昼ドラで覚えた台詞だけ流暢かよ。とんだカスを引っ掛けちまったもんだ、社会的にだけじゃなく、マジで死にたい…」
「セーコ!生きてくれ、アタシの為に!」
「良いから黙ってろアゼルバイジャン、石油の海に沈めんぞ」

にっこり。
どの角度から見ても歴女かインテリ系秘書にしか見えない美女は、野暮ったい伊達眼鏡を外し古びたレジの脇に置くと、男の頭から足を下ろし古びた椅子に座り、その長い足を組んだ。

「お金を払ってくれるんなら、貴方は素敵なお客様になるわね」
「はっ?」
「この店にある商品を買ってくれるなら、にっこり微笑んでСпасибо(有難う)って言ってあげるわよ?」

わざとらしくゆっくり囁きながら、顔を上げた男の頬を撫でてやる。感極まった男が色素の薄い目からボタボタと涙を迸らせたので、『キヨコ』は笑顔で『きったね』と呟いた。が、部下に流暢なロシア語で何事か指示しているマフィアは、店番の暴言などお構いなしだ。

「セーコ!」
「キヨコ」
「キョーコ!此処に6万ドル用意しているデス!これで君を売って下さいまし!」
「ごめんなさい、私はそんなに安くないの。それっぽっちじゃ、この店の商品全部買ったらおしまいかしらね?」
「う。だったら、全部買いマース!」
「ほんと?スパシーバ!毎度あり、カモ野郎」

8区の某商店街。
ヤクザすら怯えるカフェカルマの斜向かいの商店で、マフィアを『カモ野郎』と呼ぶ恐ろしい店番は、レジ袋の代わりに一番大きいゴミ袋をバサッと広げた。

「買ったらとっとと帰って頂戴。売り物がなくなったから今日の営業は終了よ」
「っ?!セ、セセセセーコ?!待っておくんなさい、清子!」
「おきよママ、ちょっと川端さんのお店に行ってきます。あそこのミートグラタンの方が美味しいから」

広げたゴミ袋を無言で待機している男達に押しつけ、商品詰めをセルフサービスで任せる事にする。
幾ら小さい店とは言え、店内全ての商品を詰めるのは骨が折れるからだ。

←いやん(*)(#)ばかん→
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