帝王院高等学校
全ては混じりっけなく神秘的なっ
「可哀想な餓鬼だと思わねェか、悪餓鬼」

何回目の事だったか。
穢れなき純白の病院には、存在してはならない気配に気づいた。

「いつから慈善家になった」
「おいおい、俺らは端から偽善者じゃないだろうが。金を貰って治療する、医者の正しい行動だ」

わざわざそれを教えてやったと言うにも関わらず、電話の向こう側。いつもと何ら変わりなく悪態をついて一方的に叩き切った息子は、後になって、学会なる出事に出席していたと知った。(まるで逃げる様に)(『判った対処する』なんて空返事、対面だったら言わなかっただろう?)

「お前は想像以上に俺を舐めてやがったな、龍一郎」
「…」
「うちに紛れ込んだ『青ストラップの白衣』が、老耄の隠居如きに見つけられる筈がないと高を括った。テメェは俺が誰が忘れたのか、あァ?」
「…遠野夜刀。ナイトの兄だ」
「判ってて俺を騙せると思ったのか、若造の分際で」

久し振りに封を解いた、自慢のメスは数年振りに握っても重く、艶やかな銀色だった。銀は吸血鬼を殺すそうだが、鬼は殺さない様だ。

「遠野は男も女も、鬼と雪女だと虐げられて故郷を棄てた。陸奥から江戸に下り、俺の親父は戦火に負けた。鬼も戦争相手じゃ、歯が立たないっつー事だ」
「…何が言いたい」
「昨日言っただろ。わざわざ電話で、俺はお前が出掛けてるなんて知らなかったからな」

見慣れない外科医を見つけたのだ。
近頃は頻繁に古巣を訪れていた。孫娘と同じく孫息子が研修医として収まった頃から、遠野夜刀の楽しみの一つになっていたからだ。気弱だが丁寧な治療で先が楽しみな直江も、気が強過ぎる所が玉に瑕だが、少ない休憩時間すら過去のカルテを見て学ぼうとする俊江も、夜刀にとっては自慢の孫でしかない。

「今度こそしっかりネームプレートを確かめた。俺の記憶力はお前や俊江程じゃないが、かなり優秀な部類だ。この年齢でボケる様子もない」

跡取りは直江だと、龍一郎は何年も前から宣言していた。俊江が初めて医者になると言ったその日から、それだけは最後通牒の様に何度も。
男尊女卑だの女は家庭を持つだの、流行らない台詞だと娘の美沙も言っただろうか。俊江が留学すると言った時も、龍一郎だけは『無駄な事をするな』と言って、娘を応援する気配はなかった様に思う。

「女房が先にくたばったっつーのによォ。俺はまだ、あっちからは呼ばれてねェんだろうなァ」

夫婦喧嘩が絶えなかったそうだ。
気弱で大人しい娘が、頬を膨らませて自棄酒などしていたから、年齢を考えろと叱りつつ愚痴に付き合った。龍一郎は俊江にだけ冷たいだの、龍一郎はおかちめんこだの、大人しいと思っていた娘の口からは、実に色んな毒が飛び出したものだ。腐っても医者と言う事だろう。

「龍一郎。同じ父親の立場として、お前の気持ちは判らんでもない。俺には美沙しか居なかったからな、アレが婿を取らなかったら俺の代で病院畳んじまうか、活きの良い後継者を適当に見つけて譲ってやったんだと思う」
「…だから儂に目をつけたんだろう、貴様は」
「くぇーっくぇっくぇっ!そりゃそうだ、死んだ筈の冬月がやって来やがった!俺は覚えているぞ冬月龍流を!」

吊り目のままに、気が強い外科医がいた。何処の病院から引き抜いたのかは判らないが、当時人事を任せていた男が太鼓判を押す技術の持ち主らしい。そんな話を聞いたら、鬼が生贄に寄越せと言わない筈がない。

「お前の父親は、お前の片割れにそっくりだ」

呟けば、学会帰りの龍一郎は諦めた様に帽子へ手を掛けた。
白衣を脱げば私服には殆ど拘らない男だったが、婿入りに際して、夜刀は口煩くスーツを勧めたものだ。いつか見た、帝王院俊秀が上等な背広を纏ってやって来た日の事が、夜刀の脳裏にいつまでも焼きついていたからだろう。

「で、考えた。お前が垂れ目だったらどうなるか。福笑いの要領だ。成程、あの歳若い外科医は昔のお前に良く似ている。あの男が現れるのは、いつも一人の餓鬼が現れる時だ」
「いつもだと」
「ああ、3回目だ。一度目で俺は奴を見掛けてる。婦人科で散々騒いだ餓鬼が2度目にやって来たのは先週だが、診察に来た訳じゃねェ。話し相手が欲しかったんだろう。俺を探していただけだった」
「…変わった人間ばかり、興味を持つ男だ」
「俺がそう言う性分だって、知らなかったのか?」
「知ってるに決まってる。俺を娘とつがわせる様な、奇天烈野郎だ」
「お陰で助かっただろう。お前には戸籍がなく、俺は鳳凰の親友で、駿河の主治医だった。陽の王は、死んだ餓鬼を一人甦らせるくらい、朝飯前だ」

今からそう、25年前の事だ。孫は揃いも揃って医学の道を選び、揃って医者になった。内科医も外科医も医療の現場はいつも人手が足りないから、本心はもう数十人くらい孫が欲しい。

「とんだじゃじゃ馬を飼ったもんだ」
「今頃後悔するか、遠野夜刀」
「いや?俺の唯一のミスは夜人を捕まえられなかった事だが、お前は別にミスでも何でもない」
「強がるな。言えば良い、俺は裏切り者の冬月で、裏切り者のオリオンだ」
「お前は俺の、可愛い…と言うにはちょっと語弊がない事もないが、まァ有能な息子だから」
「…は。ABSOLUTELYが聞いて呆れる」

内緒話をしたいのだ。
夜刀の言いつけ通り上等なスーツを纏い、上等な帽子と上等なネクタイでキリッと背を伸ばして歩く、馬鹿息子と。

「お前の世迷いごとが如何に愚かか、教えてやろうか」
「パパをお前と呼ぶな。いっぺんくらい可愛くパパと呼べ」
「夜人は俺が殺した」

内緒話がしたかっただけなのだ。
最近出来た話し相手が余りにも不憫だったから、一度だけ内緒でやった悪戯を暴露して、龍一郎とサラを会わせたかった。近頃夜刀は電子辞書なるものにハマっていて、サラとの会話はずっと飛躍している。オリオンとオニオンの違いも、今なら判るのだ。

「嘘だな。お前にンな勇気はない」
「嘘じゃない」
「はいはい、嘘です」
「嘘じゃない!夜人に俺がっ、」
「そう言えば、お前は伯父を殺したっつってたか。それも疑わしいよなァ、脳死判定を下された患者の死亡を頑なに認めないお前が、生きている人間を殺せるもんかってな」
「俺が殺したと言っているだろう!貴様は何が言いたい?!」
「冬月から運び出された遺体の内、綺麗に形を保っていたのは2体。火床のリビングではなく自室で息を引き取ったと思われる冬月龍流と、その傍らに倒れていた女だ。こっちに関しては面白い事に、偽名だった事が判っている。戸籍上、冬月龍流は独身のまま子供を認知した事になるか」

呆然と。
膝を崩し座り込んだ男が見上げてくるのを、夜刀は眺めていた。夜刀より幾らか背が低い龍一郎は、然し夜刀が歳を重ねるにつれて殆ど目線が変わらなくなっていたのに、今なら久し振りのつむじが見えるかも知れない。若返った気分だ。

「高森伯爵家に養子として迎えられた娘の、それ以前については隠される様に消されていた。大方の予想はつくが、世間的にお前達は、愛人が産んだ子供の扱いだ。4歳そこらの子供が焼け落ちた屋敷から見つからないのも無理はないと、当時の捜査当局は判断している。長官の叶焔が下した結果だが、何かの力を感じないか」
「…」
「まるで、お前達を逃がすかの様だろう。例えば、未来の出来事が見えてしまう人が居たとして。己の娘が居なくなる事を知りながら、止める事も、まして探す事も出来なかったなら、その人が出来るのは、娘の幸せを祈る事だけだっただろう」

二度と失いたくないと、例えば息子を監禁しても無理はない。
そう呟いた夜刀は、見上げてくる義理の息子の目線に合わせる為に腰を下ろした。

「象徴とはそれ以上でもそれ以下でもない。日本は王を飼い殺しにする、愚かな国だ。いつもいつでも犠牲を求めている。何かにつけて、今この瞬間さえ」

立ったり座ったりする時に膝や腰が痛む様になってきたとは、口が裂けても言わない。夜刀はまだ80代の、ヤングシニアなのだ。四捨五入すれば90歳だが、今は忘れよう。鯖を読むのはシニアの嗜みだ。

「俊秀様は幼い頃から耐え忍んできた。何度も、何十回も、何百回も。彼が口にした我儘はたった一度きり。彼の弟の子を産む為の道具となれと言われた女の為に、自分の嫁として迎えた、その一度きりだ」
「…どうして、お前は、そこまで知っている…?」
「燃やされ、行き場を失った冬の月が欠けた状態で遠野へ落ちると、俊秀様は仰った。いつになるか判らないが、その時まで彼らが羽根を休めるに相応しい宿り木であって欲しいとな。だから俺は、死に物狂いで医者を続けたんだ」

弟が居なくなってしまって、仕事以外の全てが手につかなくなり、当時の婚約者に逃げられても追い掛けもしないまま、それでもメスを握り続けた。鬼だの金の亡者だの散々陰口を叩かれながら、それでも夜刀は病院を大きくする事を優先した。
いつか半月が落ちてきたなら、その優秀な子供に病院をあげよう。彼の父親がいつか語った診療所の話は、夜刀の心を強く擽ったのだ。やはり、口が裂けても言わないけれど。鬼が慈善事業なんて、笑い話だろう?

「お前は何もやってない」
「違、う。俺は…」
「俊江の事か」
「!」
「お前と美沙からO型が産まれたから、ビビってんだな」

医者の癖に、と。夜刀は笑い飛ばす。O型は血液型の覇者だ。どんな組み合わせからも産まれる可能性がある事を、知らない医者など存在しない。

「安心しろ馬鹿息子。お前が美沙の体内に入れようと企んでいた意味深な試験管はなァ、この夜刀さんが『俺のおたまじゃくし』と書いた紙を貼って、こっそり冷凍庫に入れてやったぞ!」
「な、んだと…?!」
「かっかっか!だからお前が美沙に産ませようとした試験管の中身は!お前のおたまじゃくしと美沙の卵を、この俺が自ら掛け合わせて作ったものだ!」
「っ」
「極めて単純に一言言うぞ、冬月龍一郎。お前が今まで美沙の子じゃないと思い込んでいた俺の孫娘は、疑うべくなくお前と美沙の娘だと言う事だァ!」

残念だったな!
高笑いする夜刀の前で、明らかに腰を抜かしている男は暫し動きを止めて。たっぷり時間を懸けた後に、ぽろっと一粒の涙を零した。驚いたのは夜刀の方だが、粋な鬼は簡単に弱味を見せないものだ。

「あ、あーっと。サラがどうしても子供が欲しいっつーんだ。年頃は高校生だが、その場の勢いじゃなく、相当の覚悟がある」
「…偽善者め」
「お前の事だから、知らない筈ないだろう?」
「サラ=フェインはイギリス議会に名を連ねている、スコットランド貴族の娘だ。その父親は、…面識がある。遥か昔の話だがな」
「ふん?で?」
「で、と、言われても…」
「俺は別に、『俺のおたまじゃくし』を美沙にバラしても良いんだが?」
「貴様…!」
「お前が今まで娘と思って育ててきた俊江の事を、お前の夫だけはお前の娘じゃないと思い込んで、そりゃ手酷い仕打ちを与えてきたんだよィ。ってな、お茶目なパパがうっかり悪戯心を出してしまうかも知れないが、仕方ないよなァ。龍一郎ちゃんがパパを蔑ろにするからァ」

ああ。
龍一郎の血圧を測りたい。今なら確実に200を超えていそうな表情だ。殆ど表情が変わらない息子の面白い顔をじっくり見たい所だが、遊びはこの辺りでやめよう。お出掛け帰りの息子を出待ちして、ビジネスホテルっぽい所へ連れ込んだのは良いものの、どう見てもこの部屋はビジネスではなかった。だからと言ってエコノミーでもない。それは飛行機の話だからだ。

「龍一郎、そろそろ硝子張りのお風呂が気になって俺は尻が痒い。息子に掘られる前に帰りたい気持ち」
「誰が貴様の汚いケツなど掘るか。殺すぞジジイ」
「腹上死は堪忍」
「死ね」
「冬月龍人と言うネームプレートを下げた医者に関して、見なかった事にしてやっても良い。あの男がサラを監視しているとなると、事態は芳しくないんだろ?」

そう尋ねると、龍一郎は苦虫を噛み潰した様な表情だった。これもまた、珍しい。

「…遠野をステルスに関わらせるつもりはなかった。日本だからと言って油断していたつもりもないが、聖地へ足を踏み入れる馬鹿が居るとはな」
「おいおい、夜人ががっつり関わってるっつーのに、今更かよ」
「…お前には恐怖と言うものがないのか」
「はっ。ンなもん、散々人の生き死にに関わった末期の麻痺患者に言う台詞じゃねェだろ?」
「………そう、だったな」
「今更、誰が死のうが何も感じやしねェよ。お前じゃあるまいに、いつまでもとっくに死んだ奴らに囚われて、生きてる自分まで殺す様なマゾヒストと一緒にするな。俺はお前、鬼と呼ばれた遠野夜刀さんだぞ」
「ハーヴィと同じ顔をしている餓鬼を見た」
「はーび?」

近頃、夜刀は電子辞書なるものにハマっている。けれどそれだけでは、発音は鍛えられない様だ。

「姿型が似ているだけならともかく、遺伝子配列まで殆ど変わらない。寧ろオリジナルの筈のハーヴィの方が、欠陥品に見える」
「ふん?ああ、成程。お前が置いてきたっつー、兄貴の事か。夜人が育てたエビの餓鬼」
「レヴィだと言っただろう」
「けっ、知るかそんな奴。俺に嫉妬して俺と夜人の仲を裂いた奴なんか、あの世で鳳凰と殴りあってれば良いんだ。鳳凰は喧嘩が強かったからな。俺は吃驚するほど弱かったがな」
「自慢げにほざくな…」
「俺が弱い癖に近所の餓鬼共からビビられてたから、夜人は勉強そっちのけで体を鍛える事ばかり優先したもんだ。俺としても弱いより強い方が良いと思って好きにさせてたら、まさか軍人を性なる意味で襲う男になっちまうとは…」
「やめろ」
「俺が大人しく夜人におケツを差し出してたら、エビに取られなかったのに!」
「やめろ。死ね。いや殺す。夜人はお前のケツなんか狙ってない」
「そーなの?ちぇっ。兄ちゃんっ子だったのになァ、俺の可愛い弟は…」

冗談に込めた真実を、大人は見て見ぬ振り。
随分、狡い大人になったものだ。夜刀にとって叔父は弟同然で、慕ってくれる夜人のそれに恋心が含まれている事など、初めから知っていた癖に。見ない振りをしてきた。諦めさせようと婚約者を連れてきたりしなければ、夜人は出て行ったりしなかったかも知れないなんて、今更だ。

後悔などしない。それは医者が最もやってはいけないものだ。

「どうにもならないならそれでも良い。どうにかなるなら、サラの願いを叶えてやってくれ。あの子の未来が、今より少しは良くなる様に」
「…シリウスの目がある所では、この俺とて下手な真似は出来ん。悪いが、出来てモルモット扱いだ」
「構うもんか。産みたい産みたいっつってんだ、産ませてやれば満足なんだろ。それ以上の事は自分で責任を負わせろ。医者はそこまで関知しない」
「優しいのか無慈悲なのか、いつもながら良く判らん男だ」
「優しい奴に医者が出来るか。混じりっけなく人工的なサイコパスだけが、メスを正確に握り続けると俺は思う」

悲劇を喜劇の様に繰り返し、心をとっくに殺した者だけが人の命を救う権利を得る。なんて馬鹿な事を宣えば、世界中から非難轟々だろうと思われた。



「…夜人の最期を看取ってくれて有難う、龍一郎」

けれど心はとうに死んでいる。
可愛い弟を医者にしなくて良かったと、声を大にして叫べるほどには。































「何とした事だ」

と、黒一色の男は呟いた。
呟きながらしゅばっとプールへ飛び込み、スイスイと潜水しながらプールの底と言う底を隈無く確かめて、息が限界を迎える前に水面から顔を突き出したのだ。

「いかん。頭巾を被ったままの潜水は、どの修行よりも辛い事を初めて知った。俺はまた一つ、学んだらしい」

ずぶ濡れのままグッと左手を握り締め、ぽっくり逝ってしまう寸前で顔に張りついた黒布をしゅばっと剥がす。素顔を晒す事は、忍者にとっては裸を見られるよりも恥ずべき事だが、今現在アンダーライン内部にある屋内プールに人の気配はないので、今だけは特別と言う事にする。

「宝塚は何処へ行ったんだろうか…」

3年Fクラス李上香は、理事長そっくりな美貌を曇らせる。一つだけ確実である事は、理事長に似ているなら中央委員会会長にも似ていると言う事だが、それは李にとって最たる禁句であるので指摘してはならない。
しょぼしょぼとプールから上がった男は、濡れた金髪を鬱陶しげに掻き上げながら濡れた上衣を脱ぐと、ぎゅぎゅっと絞る。それからバサバサと適当に振って適当に乾かしたつもりになると、同じくスラックスも脱いで同じ様に適当に絞り、やはり適当に振り回した。心身共に忍者だと信じている男の下着は、ネットショッピングでゲットした奇抜めな褌である。

どのくらい奇抜かと問われれば一言、アジアンテイストなタイダイ染めでカラフルに染め抜かれた、パッと見レインボーな褌である。イッツワンダフル。

「俺は此処で待てと言った筈だが、よもや柚子姫に呼び出されたか?待ち合わせの場所には行かないと言っていたのに、約束を破る事に抵抗があったと言うなら、理解出来ない事もないが…」

嵯峨崎佑壱には劣るとしても、高坂日向には張るだろう見事なボディーを晒したまま呟いた男は、とりあえず湿った服をもう一度着る事にする。制服をまともに着た事がない李上香は、然しシャツとスラックスだけ学園指定の制服を愛用していた。理由は単に、黒いからだ。
黒ければ、祭美月の美貌にフラフラと誘われてきた不埒な輩を、殴ろうとしばこうと沈めようと殺そうと、汚れが目立たない。

暴力的な真似はやめろと道徳の教科書には書いてあったが、物心がぱっと芽生えた生後半年目くらいから現在に至るまで、ハイハイをするより早く美月と出会い美月に一目惚れした李は、ハイハイをすっ飛ばして歩行訓練から始めると、言葉を覚える前に修行を始めた。魂が騎士道を求めていたからだ。理由などない。

なので李は3歳まで満足に喋れなかったが、四六時中絶えず美月の傍にいたので、不便などなかった。李より数ヶ月遅れて産まれた美月はハイハイするまでに半年懸かり、それからまた数ヵ月後に初めて立つと、それから数週間後に初めて歩いたのだ。李は感動の余り、美月の母親より泣いた。喋れない癖に、ぼたぼたと泣いた。

「恐らくあれは、俺の中に眠る母性本能によるものだろう」

そんなもんは存在しない。カラフルな褌が守っている股間に、彼の性別を示すものが垂れ下がっているからだ。あるとすれば父性だが、少女漫画と時代劇で言葉を覚えたと言っても過言ではない忍者には何を言っても無駄だろう。

かくして自称忍者は、しゅばばばばっと屋内プール中を探し回り、宝塚敬吾の姿がない代わりにアリーナ左側の非常口のドアが壊されている事に気づくと、その美貌を微かに歪めたのだ。

「向こう側から壊されていると言う事は、この向こうからやって来た敵襲によって宝塚の身に何事かが起きたに違いない」

ああ。
必ずしも悲劇が訪れる少女漫画と、必ずしも敵が現れる時代劇によって価値観が固定されまくっている男は、己がオタクと呼ばれる部類の人間だとは露ほども知らないまま、然しその抜群の妄想力で殆ど正解を導き出してしまった。
その通り、宝塚敬吾はステルシリー悪役部門エキストラによってぽっくり攫われ、現在地より3階層地下にある業者用通路の物置部屋に閉じ込められている。フロアには叶の見張りが数人と、部屋の中には叶藍も居るのだが、流石の忍者オタクもそこまでは妄想が及ばない。

「ユエ以外がどうなろうと余り興味はないが、宝塚はシーザーに憧れ、男らしい男になろうと足掻いた結果、光炎親衛隊と共に騒ぎを起こす決意をしたと言っていた。同じ男として、死に際に一花咲かせたいと願う気持ちは、…判らなくもない」

困った事だ。
高野健吾には何の興味もないが、嫌いではない。生徒達がキャーキャー言っているカルマと言えば都内でも屈指のチームで、常に黒いジャケットを纏い暗黒皇帝と謳われていた総長に関しては、李も心の中だけでキャーキャー言っていたものだ。

「まさか弟だったとは知らなかったが、こうなっては俊に誇れる兄でありたい欲が、ない事もないのは、仕方ない様な気がしないでもない」

ああ。我が弟ながら、設定を詰め込み過ぎではないのか。
地味な変装でやって来た外部生帝君は、初日から中央委員会相手に全校生徒の前で喧嘩を売り、実はカルマの総長で、実は帝王院財閥の跡取りだった。最も声を大にして言いたいのは、

「週刊一年Sクラスの編集長…!」

そうだ。そうなのだ。
あの悉くにホモ要素しかない日誌とは呼べない日誌は、現在帝王院学園中にウイルスの如く蔓延している。
表立って左席委員会を擁護していない生徒は、初めこそ左席委員会が配布していたチラシや小冊子などを受け取り拒否したり、受け取っても廃棄していたが、あっという間に入手困難なまでの人気を博した。理由は単に、巻頭のイケメン特集記事だ。

創刊された頃、誰もが欲しがっていても手に入らないカルマのメンバーの写真や記事が、これでもかと惜しみなく掲載されていた。最も入手困難とされているのは、孤高の狼、嵯峨崎佑壱が掲載された号だろう。
手に入れても見もせずに捨てた馬鹿な生徒らは、口コミで頭を抱え、高値で所有者から譲り受けたりもしていたらしい。

嵯峨崎佑壱、錦織要、神崎隼人、高野健吾、藤倉裕也。
イケメングラビアと名がついた特集ページだけに留まらず、連載小説や連載漫画、巻末の編集後記では親衛隊持ちではないものの今後に期待が持てる生徒の紹介文や、何故かゲームの裏技なども書かれている。これがまた、コアなファンを獲得する要因だった。

そして何をとち狂ったのか、左席委員会が定期的に配っているチラシにオススメBLゲームやBL漫画が、何処ぞの回し者ばりに記事として掲載されると、生徒らはこぞってアマゾンに殺到した様だ。いや、アマゾンばかりがネットショッピングではないだろう。ともかく、山奥の全寮制生活の潤いは、ネットショッピングだ。

さてさて。
漫画、小説、素晴らしい日本の文化ではないか。ゲームで躓いてもノープロブレム、一年Sクラスの日誌を見れば、左席委員会副会長がゲームクリエイターかと言わんばかりの攻略情報を書いてくれている。因みに毎週日曜日、リブラガーデンではモンスターをハントする密やかにして静かな、熱い会合が行われているそうだ。
然し噂によると、『S』と名乗る絶対覇者がランキング1位を独走しているらしい。

「俺の予想では、Sとは洋蘭か山田太陽のどちらかだ」

はてさて。
ずぶ濡れの忍者は産まれて始めて着衣したままプールに飛び込み、何だかハイテンションだった。

「俺はユエの狗。王の駒。ヒロインを影ながら支える忍者だが、正統派ヒーロー道をナチュラルに踏襲している俊の兄でもある。…それを言うならルークも似た様なものだが、あの様に破廉恥な男と俺は違う」

李上香は知っている。いや、洋蘭と言う名の悪魔から聞いた話だ。
ルークなる男は非童貞で、把握している限り一万人近くの女性と関係を持っていたらしい。

「俺は、違う!」

しゅばっと忍者は走り出す。
中央委員会会長そっくりな美貌で、左席委員会会長そっくりなオタク力を備えたFクラスの優等生は、式典に制服を着てこないと言う理由で、問題児としてみなされている。それ以外はほぼ無害だ。

「王の狗たる俺が、中央委員会より早く助けに行こう。待っていろ宝塚、俺がお前の王子様だ…!」

ただ少し、妄想力が迸り過ぎているだけで。























(憎いのか)

「何が?」

(お前を殺した奴らと、無慈悲な世界が)

「まさか。全然」

(そうか)

「貴方はどうなの?」

(どう、とは?)

「この世には時を産む神と、時の最期を見守る神がいる。傷ついているのはいつも、母親の方に決まってる」

(…)

「私は裕也を守った!だから死んでも良いくらい、幸せだったんだぜ!」






彼女の物語を紡いだ後。
脳内で会話する彼女は常に、ポジティブだった。他の誰もが幾らかの闇を抱えていると言うのに、彼女だけが異端だった。藤倉涼女と言う、この世には居ない女の話だ。それが初めての経験だった。

「…所詮、まやかしだ」

ただの想像。空想。限りなく現実に近い、常世の産物。可能性の一つ。
ああ、騒がしい。目を閉じようと耳を塞ごうと、世界は死者の存在さえ淘汰していない。

地球は丸い物語。
この星が回った数だけ紡いだ時の流れは、この星が消えるまで物語を描き続けるのだろう。虚無から産まれた絶望が紡いだ箱の中に、生きとし生けるものは、飽きもせず希望を抱いている。



「虚無から産まれるものなど、ある筈もないのに」

俺は初めから全てを知っていた。
誰もが焦がれる主人公など、時空の始まりから何処にも存在しない事を。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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