帝王院高等学校
退屈な昔話の上映中はマナーモードで!
「モルモットで間に合わないのであれば、もう少し大きい鼠を使えば良い」

口にした直後、まるでマリーアントワネットの様だと思った。
人類の著しい発展の影には夥しい数の犠牲があり、それを知らない者、知っていても見て見ぬ振りをする者、初めは抵抗があったのに軈て忘れていく麻痺した者も居れば、初めから何も感じない人種も居るだろう。

「ハツカネズミより高価なモルモット。彼らよりずっと数が多く無価値な生き物とは何か、判りますか」

例えば、自分の様に。

「言うに及ばず、人間の事ですよ」
「然しマスターディアブロ、アビスプリズンの検体も限られています。そもそも我が社の社員で最も多いのはA型、次いでAB型となっており…」
「天才肌と呼ばれる血液型が多いとは、微笑ましいですねぇ。流石はステルシリー」

黒い手袋を填めた手は白い。
白衣姿の研究者達が犇めくラボの最奥には、混沌と掲げられた開かずの間が一つ。

「然しシリウスズシンフォニアは、その悉くがO型です」
「そう、どんなに隠していても所詮は隠居ジジイの魂胆です。現円卓の人柱たる私に、調べられないものなどない」

気高いノア。
黒は高貴の象徴であり、神の呼び名であり、男爵の事。ステルシリー本部社員の制服は黒いスーツだが、シャツやネクタイまで黒い人間は皆無だ。つまり例外の様な異端児は、自分だけと言う事だ。

「シリウスの作ったシンフォニアは恐らく、初期計画から外れたものです。幻の特別機動部長オリオンが、その存在ごと闇へ葬ったとされる元々のプロジェクトでは、恐らくレヴィ=ノヴァのDNAがオリジナルでしょう」
「マジェスティレヴィの血液型はAB型だったと、保存されている検体を調べた上で判明しています。O型のキング=ノヴァのデータを素体にすれば、成功する確率はプロトタイプよりも低い」
「レヴィ=グレアムには、キング以前に8人の死んだ子供がいます。まともに出産に至ったのはキングを含めても二人、それ以外は全て死産」
「当時の特別機動部長は失敗作をも検体に利用したと、歴代技術班史書に記されています」
「当時のマスターはオリオンですか?」
「いえ、コード:ルシファーです」
「は」

可哀想な可哀想な、スケープゴート。
生贄と言う言葉には羊が良く使われている。鼠ではなく、穏やかに草を食む無害な獣の事だ。悪魔の代名詞は山羊なのに、笑い話ではないか。

「オリヴァー=ジョージ=アシュレイは、やはり悪魔でしたか。崇拝する神の子を、遺体と言うのも憚られる人のなり損ないとは言え、モルモット代わりに使うなんてねぇ。究極の合理主義者とも言えますか」
「どうなさるおつもりですか、マスター?」
「悪魔の息子、現元老院にはアシュレイが残っています。長女の一件で引退した筈だったんですが、陛下の世話係として中央区へ戻ってきた年寄り。後妻が、私より一つ年下の双子の男の子を産んだそうです。二人共ウェールズで暮らしています」
「アシュレイの子を検体に?」
「あははははは!まさか!そんな真似をしたら、流石にアシュレイを敵に回しますよ。私にとっては他人ですが、陛下にとってフルーレティ=ジャン=アシュレイは育ての親同然ですからねぇ」
「それでは、この計画は破棄ですか?」
「それこそまさか」

人生で一度だけ、我が身を振り返らずに人を助けようとした事がある。
全人類がモルモットに見えるサイコパスにも、そんな美談じみた過去が一つくらいあるものなのだ。などと宣った所で、叶二葉と言う15歳の人間が現在までに助けたのはその一人だけで、生かした人間よりも殺した人間の方が圧倒的に多い。

「綺麗事をしようと思います」
「は?」
「折角、極東行きのチケットを手に入れたんですから。例えるならそう、芋虫が土の中から出るとすぐに羽化する様に、私も空を泳ぐ権利が欲しいのです」
「空軍ならば既にお持ちでしょう?それとも新しいシャドウウィングをご希望ですか?」
「おやおや、そんなもので太陽まで行けるんですか?有人ロケットにしたって、月へ行くのが精々だと言うのに」
「太陽?」

モルモットの中にも、稀に特別な存在が見つかるものだ。
理由なんて何でも構わない。二葉にとってそれが、偶然『従兄』だっただけの話だった。喜劇じみた美談には、これ以上ない素体ではないか。

「先に海を渡った王子様の為に、彼の犠牲心が彼の命を奪う前に我らが王子様の延命治療を発展させましょう。高坂君に二次成長の兆しが見えないのは、明らかに極度の貧血が原因です」
「ほぼ毎週1リットル程度の血を抜いていますから、無理もないでしょうが…」
「それに引き替え、代謝が宜しいどっかの誰かさんは最も効果的だと思われる輸血には協力する気がなく、妥協案のカプセルもまともに飲んでいる様ではないとなれば、問題は山積みですからねぇ」
「…」
「おや、何か?」
「いや、…楽しそうですね」
「へぇ、私が楽しそうに見えますか?だとすれば、もう一度学生生活を送れるからかも知れません。ああ、そう。まかり間違って、私がハーバードを大学院まで卒業した挙句、名誉教授などと言うつまらない立場にあるなんて事が露見しないよう、ちゃんと隠して下さいね?」

だからそう、オリオンやシリウスの様な下手な真似はしない。

「死ぬなら焼死が良いと思うんです」
「…は?焼死、ですか?」
「ええ。美しい我が身を塵も残さず燃やし尽くす、核の業火。太陽系に存在する人類が最も恐れ崇める灼熱の星にならば、その権利がある。私はそう思うんです」
「そう、ですか」
「おやおや、うちの部署の社員なら感動してくれるんですがねぇ。やはり生身の技術者には、理解出来ませんか」

成功しない実験に、ゼロに等しい希望を見出して飽きず失敗を繰り返す様な真似は、絶対にしない。捕まえられない太陽に手を伸ばす様な真似に、意味はないからだ。

「私はただ、長閑な日向ぼっこがしたいだけなんですよ。我が身を燃やし尽くすほどのエネルギーの前で、残酷な夢ばかり見たまま」

親愛なる、私を忘れた貴方。









(欲しがったりなんて、)
(そんな愚かな真似は、しない)


(傍に居るだけだ)
(悪夢を見る様に眺めているだけだ)
(いつか死ぬまでの暇潰し)



(叶わない夢を実現させる努力なんて)








(…絶対に、しない。)
















「ね、ねいちゃ…」

うん。大丈夫。

「ネイちゃ、ネイちゃん、起きて、ネイちゃん」

問題ない。
全身が少しだけ、暑い様な気がするだけだ。何故だか意味もなく寒い様な気がするだけだ。お前がそんなにか細い声で呼ぶから、瞼が重いだけなんだ。

「う、うぇ、ネイちゃぁん」

いつもの騒がしい声で呼べば良い。
人の迷惑などお構いなしに、引っ張り起こせば良い。
小さくて大きくて狭くて広い宵の宮、叶の敷地のほんの片隅だけが世界の全てだったいつかの哀れな子供が、自由を得ても何処にも行けないまま鳥籠の中。

宵の宮から出ても辿り着いたのはノアの国。
俺の世界には夜ばかり、陽の宮は初めから無人で、明の宮は主人が死んでやはり無人で、月の宮にはいつも人だかり、龍の宮は母屋の中央にあるそうだ。見たのは一度だけだった。何回目かの誕生日、つまりは姉と母が死んだ8月31日、最後の日に。

『お前は此処にいてはいけない。判るかな、宵の宮』

横暴な文仁には似ても似つかない、もう一人の兄が言ったのだ。例えば、哀れな家庭教師を一人絶望へ落としても、家政婦の食事を不味いと言って捨てても、雨蛙に火をつけても、庭先の百合の花を一つ残らず摘んでも、ただの一度も怒らなかった穏やかな表情の男が初めて、無表情だった日の事。

『暫く、外で暮らしなさい』

暫くとはいつまでですか。
貴方は叶家の当主であり、長兄であり、十口流を率いる西の皇の棟梁。それでもきっと、家族ではなかったのでしょう。怒る価値もなく、飼い殺す価値もなく、ならば自分は、殺された方がずっとマシだと思うのです。


『判りました。龍の宮様』

その日が誕生日だったと、貴方は知っていましたか?



守る価値もない子供が、殺す価値もなかった子供が、何の目的もなく生きている。これ以上の笑い話があるだろうか。

数学は良い。
必ず答えが存在するからだ。方程式は生まれた瞬間に死ぬ運命。解かれた瞬間に死んでしまう。まるで人間の様だろう?

「起きて、ネイちゃん。起きてよ、早く…」

何故こんな事をしたのだろう。
ああ、冷たくて熱くて、訳が判らない。雑音が犇めく騒がしい世界でその声だけは、どんなにか細くても聞こえるのだから、益々訳が判らないのだ。数学は良い。必ず答えが存在している。まるで人間の様に。

ならば今は判らない自分の心理にも、結局はつまらない答えがあるのだろう。

「ネイちゃん」

助けて、と。
言われた訳ではなかった。ただ、その光景を見てしまったからきっと、勝手に体が動いたのだろう。では何故、勝手に体が動いたのか。判らない。知らない方が良い。どうでも良いだろう、他人など皆、モルモットなのだから。



「俺と取引をしよう。全ては等価交換だ」

やめろ、と。
心の奥底で恐らくは魂が、叫んだ。










穢れなき太陽が翳る、その瞬間に。





















通りゃんせ。
通りゃんせ。
此処は何処の細道じゃ。

天神様の細道じゃ。





(その先には何がある?)









「地図を見なさい」

巨大な地球儀が部屋の中央に鎮座している。
此処へ来る度に少しずつ描かれている地形が変わっていくのは、此処ではない外の世界の出来事の所為だと言う。

「此処から此処まで、全てがノアのプライド」
「…自惚れ?」
「No」
「じゃ、自尊心?」
「No。プライドとは、野生動物が築く群れを指す言葉。主にライオンの群れ」
「らいおんって、何」
「大きいだけの猫」

パシリ・と。
男は時折教鞭で掌を叩いたが、それは彼の癖の様だった。彼がやってくる前の『先生』ならば、そんな真似はしなかったけれど。今では、その甲高い音に怯む事もない。
そう、つまり音が大きいだけだ。叩いているのは彼自身の手で、他の何でもない。

「我らの住まう中央区は、未開発エリアを含めると、ユナイテッドステイツの領土のほぼ8割に及ぶ。残りの2割は開発自体が不可能の火山帯、地盤の脆い沿岸地区に当たる」
「海ってどんなの?」
「今知る必要はない事」

大人は皆、口数が少ない。
良く喋るのは金色の髭を生やした、あの大男だけだ。けれど最近は姿を見ていない。世界中を飛び回る仕事だと言うのが彼の口癖だから、こんな事はしょっちゅうだ。

「ライオネル=レイはいつ帰ってくる?」
「技術班の私が知る事ではありません。無駄口を慎むよう」
「…でも」
「こんな事だから余所者に株を奪われるのです。穢れなき混沌に紛れた穢れは、急速に中央区を呑み込んでいる。貴方にプライドはないのか、ファースト」

パシリと。また。
此処は銀河の片隅、深淵への入口、ギャラクシーの一部。巨大なノアズプライドの、ほんの一粒でしかない。此処では生きる為の術は、たった一つだけなのだ。

「『ファースト』の癖に、今の貴方は2番目」
「っ」
「…それもシリウス如きが作った粗悪なシンフォニアの残骸に劣るとは、IQ200が聞いて呆れる」
「アルデバラン」
「先生と呼びなさい、出来損ない」

パシリ。
パシリ。
パシリ。
男は穏やかな口調はそのままに、教鞭の音だけを響かせる。判ってきたのは、『混沌』と言う言葉を好む『先生』の感情は、その音が知らしていると言う事だけ。馬鹿な自分には、出来損ないの子供には、生き残る術は殆ど存在しない様だ。

「ルークに適わない貴方の生きる術は、精々あの混沌のブラックシープに媚びへつらい、最低限の保証を得る事」
「義兄様に…?」
「言語に於いては、ファーストのIQは200を示しています。今後限界値を超えるのは難しくはないでしょう。然し、去年までIQ160だった子供が昨日の再テストでIQ240をマークした。この事実は覆らない」

中央区はカオスに陥った。
男は機械じみた声で宣い、再び己の手を叩く。

「マスターオリオンが五歳で示したIQに届いた事実は、最早軽視されない。今はまだ漣の様な動揺は、軈て期待へと移り変わるでしょう。ルークこそ神の子、シリウスが作った出来損ないの痕跡は、時と共に薄れゆく」
「シリウスは何をしたの」
「何も」
「何も?」
「聡明なメアの存在を消し、CHAθSを乗っ取った背徳者」
「メア」
「強き雄の傍にある事が許されるのは、強い雌だけである。プライドの掟」

外には海と空があるそうだ。
丸い巨大な地球儀よりもずっと大きい地球は、中から見ても外から見ても青いと本に書いてある。けれど、やはりそれは外の話。

「ライオンは百獣の王であり、ノアは全人類の王」

外からやってきた真っ白な生き物は、名前を教えてくれなかった。
透き通った緑の瞳をした白髪頭の男の人に、二度と名乗ってはいけないと言われた自分の名前を教えたのに。

「我らステルシリーは神の為に生き、神の為に死する傀儡であるべきだ。ならばマスターは、今も尚、神の為に生きている」

エアフィールド。誰も呼んでくれない本当の名前。
皺だらけのシスターと、いつもぼんやりと何処かを眺めているか、伏せて泣いているだけのイブが時折呼んでくれるエンジェルは、エアフィールドの愛称だった。けれどもう、それすら誰も知らない事。ノアの国では価値のない、捨て去った過去の話。

「マスターが戻るその日まで、何としてもシリウスの独裁を許す訳にはいかないのです。即ち、貴方がルークに劣る事は許されない」
「義兄様に勝てる訳…」
「誰が勝てと言いましたか。お前こそシリウスが作った粗悪な紛い物、神と同じ遺伝子を得た紛い物が産んだ、禁忌の子だ」

パシリ。
この部屋では、その音より大きい音は聞こえない。

「シンフォニアを名乗るのも烏滸がましいホムンクルスを、何故ノアは生かしておられるのか。理解に苦しまない訳ではないが、神の命令は絶対でなければならない」

匂いは本の匂いと、良く判らない薬品の匂いと、饐えた血の匂い。フルーレティ=アシュレイからはいつも上質な葡萄の匂いがしたけれど、アルデバランはワインを好まない様だ。いつも変な匂いがする。口調と表情以外も変わらない。

「けれど、教会にはマスターの痕跡があった。死後暫く放置されていたテレジアの手に、漆黒の十字架が戻っていたのだから」
「それ、僕は知らないって言っただろ」
「『僕』ではなく『俺』だと言ったでしょう。オリオンは誰よりも気高く、常に聡明な方だった。紛い物ならば紛い物なりに、少しでも彼に近づく努力を」
「…見た事もない人の真似なんか、出来る訳がねぇ。頭可笑しいんじゃねぇか、テメー」
「まともな頭脳でステルスの研究が出来ると思いますか、ファースト」

この国で生きる為には、先入観を捨てなければならない。
名前も過去も国籍も、外で生きた証も悉く捨て去り、神の手足として忠実に暮らすのだ。いつか神の為に死ぬ瞬間まで。

「CHAθSの再生は近い。来るべきラグナロクまでに、咎人は罪を贖うよう」
「アンタは何がしたいんだ」
「あるべきものを、あるべき姿に戻すだけ。仏教用語でカルマ、でしたか」
「カルマ?」
「一度負ったカルマを拭い去る事など、神にも不可能でしょう。けれどこの中央区ではノアが絶対。ギャラクシーコアへの鍵は、始まりと終焉の二本が揃わねばならない」

此処はいつも明るい世界。
太陽に愛されなかったグレアムが、焦がれる陽光を作り出した世界。地下に広がる銀河の、ほんの入口。

「オリオンが持ち出した始まりの鍵は戻った。残りは、CHAθSの鍵だけ」
「そのケイアスは、何処にある?」
「知恵の実に唆されたイブの子が、知る必要はない事」
「…気狂い野郎が」
「私が?く、くくく、緑の島でナイトの遺体を掘り出した男に比べれば、私などまともな人間でしょう。我らは悲願している。ノアに子が残せないのであれば、…そう」

皇帝の命令は絶対だ。
彼らはその悉くが神の従者。神の為に生き、神の為に死ぬまでの間は、須くノアの為の時間である事が誇り。

「メアの子孫が落ちてくる日を待つだけだと。」

但し、唯一神は変数と同じなのだと、男は囁いた。








(数学は嫌いだ)
(初めから答えが判っているなら)
(どうしてわざわざ解く必要があるのか)


(簡単な話だ)
(まるで宗教の様に)
(神の定義は共通していない)







(…それだけの事だろう?)



















妻が死んだ。
その一報を聞いた瞬間、零れたのは涙ではなかった。

握り締めた拳の内側から、折れた万年筆のインクは、どろり・と。
艶やかな黒に幾らかの赤を混ぜて、溢れ落ちたのだ。

「あの子は…」
「ご無事です。警察に保護された後、特別機動部の監視下に」
「…そうか。暫くそちらは任せる」
「御意」

妻が死んだそうだ。
我ながら情けない事に、遺体を見る勇気はない。いつか似た様な話をしたイギリス人を嘲笑った事があったが、笑い話にすらならないではないか。まさか自分が同じ立場に陥ったなんて、口が裂けても言えやしない。

妻は殺されたそうだ。
彼女を殺せる人間が存在したのかと考えて、意味もなく笑えてきた。恐らく動揺していたのだ。混乱していたにしては、その時の自分の行動はスムーズだった気がする。


「お久し振りです、フリード夫人」

今、あの小鳥は何処で冷たく凍えているのだろう。
二度と囀る事のない愛する人の冷たい体は、何処に安置されているのだろうか。そんな心配は、時を追うごとにやってきた。時間が経つにつれて、頭が冷えてきたらしい。自覚はない。

「涼女が死にました。…ええ、全て私の責任です」

若い頃、大きな劇場で歌手だった母は己の母親を亡くし心を病むと、働き詰めで青春らしい青春を送れなかった母親を演じる様になったそうだ。
ほんの17歳で天涯孤独になり里子に出された少女の名は、リリス=シュヴァーベン。シュヴァーベン地方領主だった貴族の末端の家へ預けられたが、その家は子爵だった。数年後、彼女はフォン=シュヴァーベン伯爵へと嫁いだ。

「そちらにご迷惑を掛けるつもりはありませんが、巻き込まない約束は出来ません。『上』で起きた件は、外で解決せねばならない」

結婚後の名は、リリア=エテルバルド。
自分を母親であるリリアだと思い込んでいるリリスの為に、ラドクリフ=エテルバルド=フォン=シュヴァーベンは、妻の戸籍を作り上げたのだ。

「私が中央区から離れ、ベルリンの財団にもハイデルベルクの別荘にも、ましてアウグスブルクの屋敷にすら戻らなければ、アメリカとドイツの政府は何処の国よりも早く行動するでしょう。ラルフ=フリード大将の耳に入れば、私が何をするのか、私が何故そうするのか、間もなく露見する」

まともな会話も望めない妻を、周囲の反対を押し切って娶った男の我儘は、人生でその一度きりだった。彼は家の為に生きて、そして家を残して死ぬまでの間、妻以外の一切に関心を持たないまま。
例えばそう、生後間もない跡継ぎたる一人息子の人権を容易く売り渡す程には、子供にも関心はなかったに違いない。そして自分もまた、そんな男を笑えない人間だったのだ。

「私の邪魔をするなら、貴方も貴方の夫も殺すしかなくなる。命が惜しければ、くれぐれも私の逆鱗に触れる様な真似をなさらない事だ」
『…ふ。ふふふ、ふふふふふ。私がそんな真似をすると思っているのですか、カミーユ=リヒテンシュタイン=エテルバルド=フォン=シュヴァーベン』
「…いいえ。念の為、事前確認ですよ」

どろりとしたものが、手からも腹の奥からも零れ落ちる。止まる気配はない。万年筆のインクはとうに尽きているけれど、ぽたぽたと。滴るそれは、徐々に赤みを増していく。けれど口を開く度に腹から溢れていく目には見えない何かは、多分、真っ黒だ。

『私の可愛い孫の事が心配ですけれど、我が家に招く訳にはいきません。ラルフは頭も体も弱い非力な男なので、決して孫を道具にしないと約束出来ないので…』
「我が国の空軍大将にまで上り詰めた方を、非力とは」
『あんなに弱い男なのに、それでも私は見捨てられない。けれど、そうね…。涼女も朱花も、私の可愛い娘でした。朱花は私が産んだ子ではないけれど、とても良い子だった。どうしてかしら…?どうして二人共、天国へ飛んでいってしまったのかしら…』
「ミセスフリード」
『殺して下さる?』

優しげな声音で、同年代の義母は呟いた。
声だけ聞けば死んだと言う妻に良く似ている。けれど妻は快活な口調だった。いつも、いつも、ほんの昨日の電話でも。

『しっかり、一人残らず皆殺しにして下さる?』

時の流れは残酷だ。一方通行、決して巻き戻らない。

『決して生き残らせてはいけませんよ、カミューさん。我が子を殺した人間がのうのうと息をしていると判れば、この私が彼奴らを探し出して喉笛を掻き切ってやりますからね…ふ…ふふふ…』
「承知しております、藤倉斑鳩様」
『私達は鳥の名を与えられた、天から零れ落ちた抜け殻。決して交わらぬ運命の天と地が混じり、私達は鳥でも蝉でもない迷子になった…』

迷子。
ああ、そうだ。それは多分、今の自分の事だ。本当はどうして良いか判らない。妻がもう居ないのだと頭では理解していて、それを認めたくないのだ。

『通りゃんせ、通りゃんせ』

母が狂った意味が判る。
父が譲らなかった意味が判る。
愛とはこうも容易く人を殺す、猛毒だ。

『…ああ。お祖母様はどうして、この悲劇を予言して下さらなかったのでしょう。酷いわ。私と白燕さんは従姉弟同士なのに。私の可愛い娘をあげたのに、白燕は朱花を守れなかったのね…』
「…申し訳ありません」
『そう…貴方も私の可愛い子を守れなかった、何て弱い生き物かしら…』

ライオネル=レイ。
今なら貴方の気持ちが痛いほど良く判る。ナイト=メア=グレアムの遺体を見ても、彼の死を受け入れられなかった貴方の気持ちが。


「神、の」

マスターオリオン。
今なら、貴方の気持ちが痛いほど良く判る。レヴィ=グレアムとナイト=グレアムの葬儀にも姿を現さなかったと言われている貴方が、何十年経っても戻らない気持ちが。

「神の手記に頼りたい気分なのだよ」
『ふふ。ステルシリーであれど、賢者の石の錬成は不可能でしょう』
「ヴォイニッチは陛下の手元にある。時間は懸かるかも知れないが…」
『死んだ体は戻りません』

神に縋りたい。神だ。およそ世界中の人間が口にする、あの神だ。わざわざ人の子であるイエス・キリストを殺してから復活させた、快楽主義者の様な神でも構わない。妻を生き返らせる力を持つなら、例え悪魔であろうと。

『魂は黄泉比良坂を下り六道で洗われ、果てで再生されるのです』
「…それは藤倉が信仰する宗教かね」
『帝王院に伝わる、天照皇大神の教えですよ。始祖天元は一度六道へ落ちたとされていますが、時同じく姿を消した帝を殺した犯人だとも言われています。狐の子だの、狐に育てられただの、お祖母様の昔話にはお狐様が良く出てきました』
「ああ、そう言えば、帝王院は陰陽師だったか…」
『太陽に見放された地下の民には、無用の長物でしょう』

唯一神はノアを指す言葉だ。
ノアは人を統べるだけの皇帝であり、それ以上でもそれ以下でもない。ただただ経済界の動きをチェス代わりに操り、遊びで金を稼ぐ手腕を持つだけの神。グレアムは万能などではない。キング=ノア=グレアムには性別があってない様なものだと、自分は知っている。我が主は、自らが不完全な人間だ。

『…さぁ、私が藤倉たるかフリードたるか、貴方の活躍次第です。万一失敗したのであれば、殻を割り羽根を広げましょう』
「…羽?」
『この身に宿る、空蝉の血のままに』

愛していたのだ。
いつか死ぬ体で生まれ、何を残そうといつか死ぬだけの宿命を負った獣でありながら、それでも同じ運命の雌を愛してしまった。彼女を天の定めた寿命以外の何者かが奪っていったと言うなら、生かしておく訳にはいかないだろう?

『私の口が一つきりの内に、娘達の命を奪った奴らを殺して頂戴』
「…口?」

例えそれすら、いつか死ぬ哀れな生き物だと知っていたとして。

『十口は夜の如く黒い血に染まる、墓守りなのよ』

何せもう、愛しい女は翼を手にして、天の国へと飛んでいってしまった。
二度と戻ってこないのだ。何がどうなろうと、例え自分が死んだ所で、もう二度と会えないのだから。

「ふ。私の祖先も、随分愉快な呼ばれ方をしていた事はご存知かね」
『エテルバルド=フォン=シュヴァーベンの悪名を知らぬ者はありません』
「吸血鬼の方が墓守りよりずっと、化け物じみているのだよ」

血を流そう。正義の味方の様に、悪者を退治するだけだ。但し、一人残らず。
真っ赤な薔薇の花を愛した人の為に、吸血鬼の末裔が悪足掻きを始めるらしい。陳腐な小説のタイトルくらいには、なるだろうか。


「二度と、失敗はしない」

残された一人息子がその時どうしていたのかになど、気づきもしなかった哀れな男の退屈な物語だ。

←いやん(*)(#)ばかん→
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