帝王院高等学校
脈々と受け継がれる狼の系譜
画面の向こう側のレディース&ジェントルメン、こんにちはあ。

はあ?お前誰だって言った奴、廊下に立ってなさい。
スペシャルデリシャスボスがメンタル的行方不明みたいだからあ、もうほんとに仕方ないってゆーかあ、それもこれもスペシャルバンダム級スーパースターの運命ってゆーかあ、世界が認めちゃってる感じでえ、日が昇って朝が来るくらい自然の流れなんだよねえ。

と言う訳で、帝王院学園高等部一年Sクラス2番、カルマ四重奏所属イケメンモデルの神崎隼人君が出血大サービスでナレーションしてあげます。もお、こんな事は二度とないと思うからさあ、おいなりさんとかエビフライとかお供えしてくれてもよいんだけどお、



…今は、流石の隼人君も、ちょっと食欲ない感じなんだよねえ。





「ぼ、ぼっ、僕…っ」

何度その言葉を聞いたのか。
段々苛々して来ている錦織要の組んだ足が小刻みに震えていた。神崎隼人は上半身だけ徐々に要から離れていくが、二人掛けのソファなので逃げ場は高が知れている。

「僕は…っ」

頑張れ。隼人は無意識に応援した。
真っ赤な顔で握り締めた両手の拳を膝の上で震わせながら、過呼吸寸前に陥っている神崎岳士が今から言わんとしている台詞を、残念ながら隼人は判っている。どうせ母親との交際を報告した上で、結婚させてくれと頭を下げるつもりなのだ。恐らくこの場の誰もが気づいていると思われた。嵯峨崎佑壱に『黙って見ていろ』と宣った青髪が、岳士に向かって『さぁどうぞ』とお膳立てした所為で、だ。この状況でどうぞと言われた岳士の性格を知っている隼人は、心底同情した。
無意識に岳士を追い詰めた要はそれに気づかないまま、短気な癖にグズグズしている岳士の言葉を待っている。要に悪気がない事は明白で、借りてきた猫の様に大人しく岳士を見守っている佑壱は、隼人の母親と睨み合いながらも無言を貫いた。

「あ、良かったらコーヒーどう?」
「いや、コーヒーは」
「え、嫌い?どうしよ2杯淹れたんだけど。オーナー、どっちも飲んで」

インスタントコーヒーしか淹れられない斉藤千明が、手持ち無沙汰の余り淹れてくれたコーヒーを飲まなかった高坂日向は、神崎家の事情には関わる気がないので勝手に紅茶を淹れている。

「冗談だろ、何でインスタントがンな不味いんだ。これを2杯飲めってか」
「普通に淹れたって!オーナーの舌が可笑しいんだって」
「面接で落としときゃ良かった」

佑壱に睨まれて肩を落としつつ、慣れた手つきの日向を無言で眺めていた斉藤は、感嘆めいた息を吐いた。

「凄ぇ、プロみてぇ。なぁ榊、ティーバッグじゃない紅茶って急須で入れるんじゃねーの?」
「お前なぁ。紅茶の淹れ方は前に教えた筈だぞ」
「そうだっけ?でも、今のは榊に教えて貰った奴と違った気がする。くんくん。何か超良い匂いするし…」

日向がポットで茶葉を躍らせている間、子供の様に顔を近づけて来る斉藤は目を輝かせている。さらっさらの髪に緩いウェーブが掛かる斉藤の頭を一瞥し、日向はカップを二つ取り出した。

「多めに淹れたんで、飲むなら?」
「飲む。飲みます」
「そ」

何で敬語なんだと眉を跳ねた日向は、申し訳なさそうな榊から黙礼されて肩を竦める。斉藤の事はカフェカルマで時々見掛けた為、話した事はないが面識はあった。それ所か、街中で遠野俊と歩いていた所も見掛けた事がある。カフェで俊と斉藤が話していた記憶はなかったので、当時は妙な組み合わせだと思ったものだ。

「榊、リプトン以外の紅茶なんてあんの?」
「リプトン以外の方が多いくらいだが、教えても覚えないだろうが。恥ずかしいから黙っとけ」
「くんくん。ふんふん。はぁ。何か高級そうなカホリがするぜ。なぁなぁ、これってアールグレイ?」
「「ダージリン」」

日向と佑壱の声が揃う。
離れた所で渋い顔をしながらコーヒーを飲んでいる佑壱は、どうやら匂いだけで答えた様だ。流石だな、と顔を上げた日向は、窓辺でコーヒーを嗜む赤毛を盗み見て、眉を跳ねた。
黙っていれば文句のつけようがない男前さだが、佑壱の目は真っ直ぐにこの場で唯一の女性に注がれている。その佑壱へはリチャード=テイラーの目が刺さっているが、わざとらしい程に佑壱は彼を見ない。つまり人見知り発動中らしい。

「なぁなぁ」
「…何?」
「あれだろ。杉下警視みてぇに、高い所から淹れるんだろ?」

日向に慣れたのか、随分馴れ馴れしくなった斉藤が期待の眼差しで見上げてきた。子供の様に腰を屈めているから、低い位置にある鼻がふんふん動いているのが見える。そんなに珍しいだろうかと首を傾げた日向は、ポットの側面を撫でて温度を確かめると、ポットの取っ手を握った。

「確かにそんな淹れ方もあるっちゃある。こんな狭い所でやったら大惨事だがな。今回は普通に」
「マジか」
「もう良いぞ。ミルクと砂糖はお好みで」
「サンキュ」

気がつけば、日向と斉藤の声しかしない。
岳士はどうなったのだろうかと、カップに注ぎ終わった日向が振り返った瞬間、佑壱の背後が派手な音を発てた。

「…何やってんだテメーら」
「うひゃひゃ(*´艸`) どーも、株式会社カルマ営業部長の高野っス(*´σ`)」
「株式会社カルマ枕営業部長の藤倉っス」
「「枕?!」」

斉藤と岳士の声が揃い、佑壱と日向が同時に目を覆う。
自由な校風が売りの帝王院学園でも、稀に見る奇抜な二人組が恐らく西指宿だと思われる男を踏んだまま、ヘラヘラ立ち上がった。保健室からは一年Sクラスの生徒らが興味津々の表情で見つめており、両手で顔を覆った隼人の隣で要が吐いた溜息の長さと言ったら、過去最長だと思われる。

「ケンゴ、ユーヤ」
「「さーせん」」
「ウエストが死ぬ前に退いてあげなさい。ABSOLUTELYに借りを作ったら、殺しますよ」
「「イェッサー、ボス」」

しゅばっと立ち上がった高野健吾と藤倉裕也は、素早く佑壱の背後に隠れた。
潰されていた西指宿麻飛は隼人と同じく顔を手で隠したまま、頑なに立ち上がろうとしない。無理もない話だ。この場には隼人の母親の姿があり、西指宿にとって彼女は父親の不倫相手だったと言う事になる。
幾ら本妻である西指宿の母が彼女を恨んでないとしても、その逆もそうとは限らないだろう。

「おい、テメーいつまで寝てやがる」
「おわっ」

出来る事なら起き上がりたくないけれど、そんな西指宿の葛藤など知った事じゃないとばかりに、凄まじい力に引っ張り起こされてしまった。西指宿のシャツを掴んで持ち上げたのは、クラスメイトだ。
早い話が2年Sクラス帝君、髪と目が赤いゴリラの化身である。

「阿呆カルマめ、お前にゃ血も涙もねぇのか…!」
「あ?訳判んねぇ事ほざきやがって、帝君に向かって誰が阿呆だと?やんのかコラァ」
「うっせ!離せ、気安く触んな赤頭っ」
「はぁ?起き上がれねぇっつーから起こしてやったんだろうが、礼儀がなってねぇ奴だぜ」

ぺっと西指宿から手を離した佑壱は、バシッと頭を叩いてやった。
叩かれた西指宿が痛いと叫ばなかったのは、痙き攣った表情の女と目が合ったからだ。

「は、初めまして、高等部自治会長の西指宿です…」
「…どーも」

目が合ったからには無視は出来まい。
お育ちの宜しさで、逃げ出したい気持ちをグッと飲み込んだ西指宿は、不格好な愛想笑いを浮かべた。完全なるアウェイだ。紅茶を優雅に啜っている中央委員会副会長と言えば、肩を震わせている。舎弟が死にそうな時に、笑うのを我慢しているのだ。何と言うドS野郎だろう。流石は叶二葉の従兄、血も涙もない。

「丁度良い所に来ました。良い機会なので、ウエストは此処に座って下さい」
「「は?」」

立ち上がった要が西指宿を手招くと、隼人と西指宿の声が揃う。
顔から手を離した隼人は信じられないものを見る目で要を見上げ、頑なに西指宿を見ようとしない。

「な、何、ちょ、冗談だろ?!」
「ボスがご指名っしょ、早よ行けや(ヾノ・ω・`)」
「男なら黙って逝くしかねーぜ」
「え?は?や、待っ」
「「ご愁傷様」」

隼人と要を交互に見つめた西指宿は、早くしろとばかりに眉を顰めた要が動くより早く、佑壱の背後から出てきた健吾と裕也に背を押され、抵抗虚しく隼人の隣に座らされてしまったのだ。
何度目か判らないが言わせて貰いたい、健吾と裕也は地獄へ落ちろ。

「え、えっと…」
「…本当にすいません、邪魔してすいません」
「あ、いや、邪魔って程じゃ…」

殺気を放つ隣の義弟を見られない西指宿の向かい、困った様な表情の男へ頭を下げた西指宿は逃げ出したいけれど、傍らに立っている要が邪魔で立つにも立てない。ソファの後ろには健吾と裕也の姿があり、早速『サイトー、茶』などと宣って斉藤をパシリにしている。

「あれ?兄さん、何してるの?」
「へ?ち、千景?あっ、千景!」
「うん、僕」

遠慮なく保健室から覗き込んでいる一年Sクラスの生徒らの中に、果たして赤縁眼鏡を掛けた武蔵野千景の顔はあった。スケッチブックを抱き締めている所を見るに、裁判画家の真似事をするつもりだったのだろうか。

「え?武蔵野君のお兄さん?」
「武蔵野にはお兄さんが居たのかい?」
「初耳なのさ」
「うち親が離婚してるから、兄さんは名字が違うんだよ。学校もずっと公立だったから」

にゅにゅにゅっと、眼鏡が顔を覗かせる。
帝君によってクラス委員長を押しつけられて以降、責任感が増していく野上直哉を筆頭に、武蔵野と共にメガネーズを名乗っている溝江信綱と宰庄司影虎も、興味津々の表情だ。
神崎岳士のあからさまな告白を待っていた隼人は不機嫌を隠さず、タイミングを華麗に逃がした岳士は頻りに顎を掻き、場はカオスを窮めた。空気を読むスキルが枯渇している要は、岳士を真っ直ぐに見つめているが貧乏揺すりはやめない。

「見事に滅茶苦茶じゃねぇか」
「俺の所為じゃねぇっしょ?(´ω`)」
「だったらオレの所為でもねーぜ」

流石の健吾と裕也も目を逸らしているので、それなりに罪悪感はある様だ。此処で彼らを責めた所で意味はないだろうと、佑壱は腕を組んだ。要が我慢しているので黙っていたが、岳士の気の弱さに佑壱も若干苛立っていたのだ。
途中で割り込んだ佑壱は事情を知らないものの、見ていれば岳士と隼人の母親がそれなりの関係である事くらい、判らない方が難しい。佑壱程ではないにしろ隼人にも人見知りのきらいがあるが、隼人は岳士には気を許している様に見えた。

(要が殆ど暴露してた気もするが、あのオッサンなりに隼人に気を遣ってるっつー所か。あの面じゃ、放っとけば日が暮れても終わらねぇだろうなぁ)

何故そんな所は鋭い癖に、某中央委員会副会長から向けられる感情には一ミリも気づかないのか。オカンは男らしくお節介を焼く事にした。隼人の母親はムカつくけれど、その恋人に恨みはない。

「黙ってないでどうにかしろ自治会長、隼人はテメーの弟だろうが」
「無理。こんな状況で笑ってられんのは、マスターとノーサだけだっつーの」

西指宿の視線は落ち着かない様だった。
隼人とも、その母親とも目が合わせられないのだから、必然的に岳士を凝視し続けるしかない。遠慮と言う言葉を知らないクラスメイトが雁首を並べている戸口を見ない隼人は、足を組み頬杖をついたまま、見事に不貞腐れていた。西指宿の存在はスルーする事にしたらしい。

「おい。お前の舎弟が諦めたぞ高坂」
「自治会の失態は中央委員会長の責任だろうが、俺様の知ったこっちゃねぇ」
「そんじゃ、ルーク呼ぶか。今以上に混乱するの請け合いだぞ」

呼んではいけない男ナンバーワンの名前が出るなり、室内の殆どが目を見開いた。
誰よりも青褪めているのはカフェカルマ店長だが、大人しく佑壱を見つめていたリチャード=テイラーの顔色も負けていない。

「ケ、ケルベロス…!カエサル居る?!」
「居るぞ?つーかテメーの日本語の発音、酷ぇな」
「Why?!」
「何でって、居るから居るんだろうが」

今にも倒れそうなアメリカ人に首を傾げた佑壱は、毒には毒だと呟いて、暴挙に出る事にした。顔一杯に『信じられない』と書いている神田詩織に対して、ちょっとした嫌がらせがしたいだけだ。

「セントラルスクエア・オープン、コード:ルークに繋げ」
『何の用だファースト。俺は忙しい』
「テメーなんかに用なんざあって堪るか寝言は死んで言えサノバビッチ、召されろハゲ」
『つまらん用ならば直ちに黙るが良い。馬鹿の相手をしている暇はない』

ブチッと、カルマ副総長の血管が数万本切れる音がした。
然し誠に残念ながら、同じ帝君でも満点しか取った事がない帝王院神威に『馬鹿』と言われても、佑壱には反論する術がなかったのだ。神威の珍しく判り易い不機嫌加減に眉を跳ねた日向は、笑うのを耐えながらカップを置いた。

「おい、帝王院。シリウスの娘が居るんだが、興味は?」
『高坂か。道理で俺を毛嫌いしているファーストが通信して来た筈だ、お前が苛めたのか』
「テメェと一緒にするな。誰が苛めるか」
『そなたらが何をしているかは興味すらないが、先程まで俺の方にも面白い女の姿があった』
「あ?」

部屋中に響く神威の声へ、返事をしているのは日向だけだ。
怒りの余りカップを粉砕した佑壱を斉藤が宥めているが、過去最高血圧をマークしているボスワンコは今にも犯罪を犯しそうな表情で震えている。

『アーサー=ヴィンセント=A=ヴィーゼンバーグが来日した話は、聞いているか』
「…冗談抜かせ、祖父さんは末期癌でイタリアの療養所だ」
『冗談ではない。マダムライオネスが飛び立ったのと同時に、中央情報部へ英国議会連名で申請が届いている』

日向から表情が削げ落ち、要の表情が強ばった。不貞腐れていた隼人も無意識でスピーカーを見上げており、目を丸めている。

『よもやグレアムの現当主たる俺の住まう国へ渡るとは、考えもせなんだと言う言い訳めいた詫び状が添付されていた様だが、弱小国の公爵などに一々構っている暇はないと、そなたから伝えておけ』
「…テメェ、さっき女っつったな」
『ああ。女だ。アランバートには会った事もない』
「舐められやがって、テメェはそれでもノアか糞が」

鋭い舌打ちを放った日向へ全員の視線が集まった。世界広しと言え、グレアム男爵本人へ『役立たず』と宣うのは、高坂日向だけだ。

「何で入国禁止にしねぇ」
『理由がない』
「あの女の祖父から先祖をぶっ殺されといて馬鹿か。ギリギリまで仕事はしねぇ、一年のクラスに紛れ込んで人様に迷惑掛けまくる、任期の途中で勝手に引退宣言しやがる、しまいにゃ死に掛けのババアには舐められる。テメェは糞以下の糞だ、悩まず死ね糞男爵」
『愛らしい事を宣うが、そもそも俺は男相手には役立てた事がない。最近まで女にも不能だったからな』
「何の話をしてやがる変態」
『お前に変態と呼ばれる謂れはない。俺をそう呼ぶ権利があるのは俊だけだ』
「「死ね」」

日向と佑壱の声が揃った。
拳を固めた佑壱が振りかぶって窓を殴ろうとしたので、斉藤は悲鳴を噛み殺しながら佑壱の腕へ抱きついたが、『あっ』と言った佑壱が目を見開いたのでつられて外を見やり、同じく『あっ』と目を丸めたのだ。

「何の気紛れか知らねぇが、あの女の目当ては二葉だろう」
『そうでもない様だったが、興味はない。用がないなら切るぞ』
「シリウスの娘は」
『実にどうでも良い話だ。捨ておけ』

ブチッと切れた回線と同時に舌打ちした日向は、

「総長!」
「すんこ!」

佑壱と斉藤の声が同時に鼓膜を震わせたので、弾かれた様に目を上げた。




























「起きている様に見えるが、どう言う魔法を使ったんだ…?」

痩せ細った少女の様な女を前に、研究員達がざわめいている。
多国籍の彼らが介す言葉は、社内公用語で定められている日本語で統一されていない。だからと言って意思疎通が計れていない訳ではない所が、有能な人間ばかりを採用してきた結果だと言えるだろう。

「呼吸、脈拍、血圧共に安定している。瞼は開いているが反射反応がない。なのに定期的に瞬きをしてるのだから、俺には起きている様にしか見えないんだがなぁ」
「榛原の兄者の術に掛かっているだけだ。国へ帰れば、全てを忘れる」

作業中の研究員の何人かが、チラチラと赤毛の男を盗み見ていた。
地上の人間がズカズカと踏み込んできたかと思えば、警備員を一人で倒してしまった挙句、鳥の巣の様な黒髪の下から覗く真紅の瞳で、突然の来訪者は言ったのだ。

『貴様らがステルシーか。レヴィは何処にいる?』

ステルシリー創設時の社名を知る者は、然程多くはない。
最期まで8代男爵代理を名乗ったレヴィ=ノヴァの死後、9代男爵として多忙を極めているキング=グレアムは、この数ヶ月ほど留守だった。試作機として技術班が作り上げた乗り物の安全性に目処がつくと、何ら躊躇わず、男爵自ら初号機への搭乗を名乗り出たからだ。

「陛下へはラジオ無線で連絡を試みている。この中央区内であれば何処に居ようと即時対話を可能する仕組みだが、流石に『上』ではそうは行かないんですよ」

技術班研究室はただでさえかなりの広さを誇る、ステルシリーの重要拠点だ。中央情報部の資料に雲隠陽炎の名と、レヴィ=グレアムと共に写る古い写真が残されていた事から、ライオネル=レイの立場としては、彼の来訪を受け入れざるを得ない。
歓迎の茶会を装って陽炎を休ませている間に、レイリーは社内に駐留していた幹部枢機卿を掻き集め、意見を取り纏めた。

「サーの希望を受け入れるには、」
「サーもミスターも不要だ」
「そう言われても、陛下の客人を粗末に扱うのは…」
「遠野夜人が生きていれば失笑ものだろう。あれは目上の俺に対して『赤鬼』と言った」

困った事に、特別機動部長が不在の今、幹部陣はレイリーに判断を委ねたのだ。陽炎が注意人物である事は、この目で見た訳ではないが40人もの人間を相手に大立ち回りを披露しておいて、息一つ乱していなかった事から疑いようはなかった。

「他に…ああそうだ、『兄貴に近づくな』『女形野郎』、他にもあったと思うが、大殿ならば覚えていらっしゃるだろうが、馬鹿な俺は思い出せん」
「ナイトがそんな事を?」
「20年以上前だったか。俺がにゃあと出会う以前、呆けた顔で大殿の事を眺めていたかと思えば、夜刀兄者に指南を受けていた俺にあの餓鬼は殴り掛かってきた」
「殴…?!…その節は、我らのナイトが本当に申し訳ない事を…」

然し、共に茶を啜り話をしてみると、注意人物には変わりないがどうも悪い人間ではない様だと思う。対外実働部長として、永らく世界中を回ってきたライオネル=レイの経験による評価だ。兄の本名を知っていたから、などと言う贔屓目はない。

「…ではミラージュ、暫く閉ざされているケイアスラボを開かないといけないんだが、そこには一つ問題があってな」
「問題?」
「残念だが、今この場にその権限を持つ者が居ないんだ」

CHAΘS。
混沌を示すプレートが掲げられた、研究室の最奥。スペルの『O』だけが、数字の9を示す『Θ』で置き換えられている為、発音はケイオスではなくケイアスと定められている。
と言っても、それを定めたその部屋の持ち主の片割れは、前男爵の冥福を祈る為の喪が明けた頃には既に姿がなかった。現男爵が重要視していない為に未だ正式発表はされていないが、一部の幹部からは失踪したのではないかと言う話も出ている。

「此処に白衣は居ないのか。灰衣は初めて見る」
「白衣を好むのは、それこそ奥の部屋の主達だけだよ。我が社の優秀な社員達は仕事の速さが売りだが、衣食住を忘れがちな所が欠点でね」
「白は汚れが目立つからか」

そんな筈がないと喚いた所で、消えたオリオンが戻らねば説得力はないのだ。誰よりもそれを知っている冬月龍人は表面上冷静を装っているが、研究室での仕事が片づくと今回の様に出掛けて行った。男爵がそれを許すなら、異論を唱えられる者はない。

「あそこにオリオン、シリウスと書いてあるが、あれは?」
「特別機動部マスターとサブマスターのコードネームだ」

陽炎の質問に短く答えたレイリーは、わざとらしく研究員達へ目を配る。その件についてそれ以上聞かれては困ると、表情に出した訳ではなかったが、陽炎から双子への質問はなかった。
陽炎もまた、人形の様に動かない女を取り囲む研究員達の一挙手一投足を、目を逸らさず真っ直ぐ見守っている。

それにしても、と。
レイリーは無言で顎を掻いた。突然やって来た面識のない男の黒髪がカツラだった事にも驚いたが、はたまた、彼の双眸が見事なまでに真っ赤だった事にもそれなりに驚いたものだが、論点はそこではない。

『ノアからシンフォニアの話を聞いている』

陽炎が中央区の外れで暴れた為に、急遽呼ばれたレイリーが駆けつけた時、挨拶もなく投げ掛けられた言葉だ。それはステルシリーの最重要機密だった。特別機動部預かりとなっている技術班の研究員でもない限り、ランクAだけが知るプロジェクトである。
間違っても外の人間が知る筈がない秘密を、陽炎はよりによって生前のレヴィ=グレアムから聞いたと言い張った。

「今、彼らは何をやっている?」
「一次サンプルとして髄液抽出の準備と、多角的に子宮の状態を調べる準備だ」
「あの機械は見た事があるが、あっちのものは初めて見た。今にゃあの腕に打った髪の様なものは、注射か?」
「くく、流石に珍しいだろう?ご覧の通り、我が社は一般には情報開示されていない機材を、多数保有している」

何十年も日本語を話しているレイリーの語学力はネイティブ程ではないにせよ、陽炎との会話に不自由さは感じていない。同じく陽炎もまた、日本人は思えないほど英語が話せる様だった。随分興味深いのは、シルクロードを行き交う商人の様な、各地のスラングが混ざっている所か。
前後の文脈を読めば意味を履き違える事はないだろうが、ネイティブスピーカーには違和感以外の何物でもない。陽炎が喋る英語は英語に良く似ているだけの、複雑怪奇な暗号の様なものだった。

「特別機動部の副部長は、定期連絡として送られてくる日程表に宿泊予定のホテルが明記されているから、間もなく連絡がつくだろうと思うが…」
「承知した。時間は幾らでもある。成就するまで俺は、この国を離れない」
「それは構わないけど、ゲストルームは同じ方が良いのか?」
「大殿のお声添えがあったお陰だが、俺達は正式な夫婦だ」
「…了解」

外出中のキング=ノアへの通達と共に、陽炎がステルシリーの拠点へやって来た最大の理由の為に、絶対に欠かせないあの男を呼び戻す。キング=ノアの円卓は今、それぞれの部署が速やかに行動しているだろう。
コード:シリウスは暫く姿を見せていない双子の兄を案じ、ヨーロッパ諸国を巡っている最中だ。数週間から数ヶ月、ふらっと出て行っては日程表の通り戻ってくるので心配はないが、以前の彼とは別人の様に口数が少ない事を案じている者は少なくない。

「レヴィの息子からお前達が叱られるなら、俺が刺し違えてでも止めてやる」
「それはやめて下さい。そんな事より、彼女は幾つなんだ?」
「にゃあは俺より若い」
「それは見れば判る…」

頭痛を覚えたレイリー=アシュレイへ、作業に取り掛かると研究員の一人が声を掛けた。

「シリウスが戻るまでの間にサンプル摘出を済ませておきます」
「レヴィ=ノヴァの大切なご友人だ。無礼がない様に頼む」
「畏まりましたマスターライオネル=レイ」

作業中の研究者達を穴が空くほど見つめている陽炎は、その場を動く気配がない。然し念の為に言っておこうと、レイリーは口を開いた。

「暫く時間が懸かるけど、その様子じゃ傍で見ているつもりだろう?」
「当然だ。貴様らアメリカ人は信用出来ん」
「おいおい、信用出来ない相手に『俺達の子供を作ってくれ』なんて良く言えたな」
「孕ませる事が容易なら、わざわざ榛原の兄者に頼みはしない」

巨大なブラウン管モニタにレントゲン写真が映し出され、俄に研究員達がざわめく。医療に明るくないレイリーには判らないが、どうも想定外の問題が発生した様だ。その辺りの事情は、後で詳しく説明させるしかない。

「生前のノアからシンフォニアの話は聞いたが、当時の俺には良く判らなかった。今も良く判らない。だからにゃあを連れてくるしかなかった。だが俺が素直にそう言った所で、にゃあが頷く確率は低い。56年生きているが計算が出来ない俺は、仕方なく刹那殿に相談したかったが『お前は黙っていても煩い』と言われ、追い出された」
「は?58歳だって言わなかったか?」
「む。計算を間違えたか?俺は大殿より8歳若い筈だ」
「いや、俺は大殿の年齢を知らないんだが…」

アジア人をそれほど見慣れていないレイリーも、陽炎は美形だと判る。その美貌そのままに両手を広げ、『ひいふうみいよ』と数えている陽炎は、本当に算数が苦手らしかった。

「1+1は2か3のどっちかだから、大殿が還暦を迎えたのが………何年前だった?一昨年は何年前の事だ?駿河の宮様の七五三は確か…」

あの遠野夜人も此処まで阿呆ではなかったと、レイリーは乾いた笑を零す。夜人が酷かったのは英語の発音くらいで、英語が通じなかった訳ではない。ゆっくり喋ってやればちゃんと通じたし、計算は早かった方だ。
夜人にプレゼントを渡す事が人生の楽しみと言っても過言ではなかったレヴィ=グレアムが、何かを買ってくる度に幾らだったか問い詰め、高いだの勿体ないだのお説教をしたものだ。

「なぁ、ミラージュ。アンタの奥さんが居なくなって、向こうは騒いでないのか?」
「嵯峨崎はにゃあがよりすぐった優秀な社員ばかりだ。念の為、幹部全員に『下手な真似をしたら殺す』と言い含めている。妹の夫にも協力を頼んだ。高森伯爵は聡明な男だ。大殿程ではないにせよ、不可能はないに等しい」
「そ、そうか。それは良かった…」

なんて凶暴な男だろう。万一今回のプロジェクトが失敗したら技術班の存続に関わるのではないかと、対外実働部長は苦笑いを歪ませながら背を正した。
これに関しては夜人と言う前科があるので、日本人は油断ならない。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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