帝王院高等学校
家族の認知は相互認識が欠かせません
「さぁ、今日からお友達になる皆さん。楽しいお絵描きの前に、仲良くなる為の自己紹介をしましょう!」

白いフェルト生地に、真っ赤な飾りが二つ。
可愛らしいうさぎ柄のエプロンをつけた初めての先生は、一番最初にそう言った。

「私はうさぎ組の先生です。太刀川飛鳥と言います。好きな色はこのうさぎさんと同じ、白色です。皆さん、アスカ先生って呼んで下さいね!」
「はーい、あすかせんせー!」

元気な声が幾つか重なって、他は恥ずかしげに俯いているか、泣きべそをかいているか。覚束ない子供の反応はそれぞれだ。

「じゃあ、まずは元気いっぱいな君から自己紹介して貰いましょうか?お名前と好きな色、言えるかな?」
「はーい!あたしは、えはらじゅのん!すきないろは、ピンクー!」
「まぁ!大変良く出来ました、お上手だね〜!」
「えへへ」
「そんくらいぼくもできるよっ!ぼく、すぎやまだいち!すきないろはブラック!仮面ダレダーはブラックがかっけーんだぜ!」
「はい、元気に出来ましたね!」

出来る子、出来ない子、初めての幼稚園は賑やかだった。良くも悪くも、平凡だと言う事だ。それを悪いとは思わない。

「なかはらゆみちか!あのね、きょーね、おたんじょーびなの!」
「わぁ!おめでとう!皆、ゆみちか君がお誕生日だって!後で一緒にハッピーバースデーのお歌を歌おっか!」
「わーい、あたししってる!」
「ぼくしらなーい」

つまらない訳ではないのだ。
母親が恋しいと泣く子供を見ても、つられて泣きたくもならない。大人しく座っていられずに立ち上がる子供を見ても、同じ様に走り回ったりもしない。同じ年令の子供達でも、良く喋る子もいれば、一言も喋らないまま啜り泣く子もいた。

「じゃあ、最後は君だね。大きな声で自己紹介して下さい」

そして、それを咎める者はいない。
此処には聖職者と、他人を糾弾するほどの知恵がない子供しか居ないからだ。

「山田太陽。血液型はA型、誕生日は1月30日、星座は水瓶座、好きなテレビはビデオ入力2」
「え?えっと…?」
「ビデオ入力1にはDVDレコーダーがついてるよー」

ただただ新しいスモックを纏い、新しいクレヨンと真っ白な自由帳、大きな文字で平仮名が書かれている本が幾つか。与えられたそれらを携えて、気分を例えるなら、そうだ。


「好きな色は、赤かなー」

まるで、冒険者。


























一歩歩く度にビクビクと辺りを警戒しながら、へっぴり腰の男は短い金髪を両手でボリボリ掻き乱す。
今にも心臓が止まりそうだ。年寄りの扱いが酷過ぎる。

「…そんな事を言っても、あのデビルサイコパスに通用しないのは判ってるんだなぁ」

人気がない事を確かめては、年甲斐もなくシュバババと豪華な廊下を走り抜けた。走り難いので、脱いだジャケットは肩に掛けている。胸元辺りにあるジャケットのポケットから愛用の使い古した手帳を取り出し、男はへっぴり腰でページを捲ったのだ。

「エレベーターはランクプレートがないと開かないんだったな。内装が変わっているかも知れないと言っていたが、変わり過ぎ所か、これじゃまるで別の場所じゃないか…!」

ああ、憎い。そんで超絶怖い。
それもこれも、あの悍ましい悪魔、サタンの再来と言っても過言ではないカミュー=エテルバルドの所為に決まっている。あれは悪魔だ。魔王だ。悪びれず人を絶望へ突き落とす、無邪気な闇の眷属だ。

「ああ、例え全て真実でも、何にも聞きたくなかったんだ私は…。それなのにどうして電話に出てしまったんだろう。それは簡単だ。出なければもっと酷い目に遭ったに違いないから」

と、ブライアン=C=スミスは乱れた呼吸を必死で整えながら、エメラルドの瞳の悪魔へ恨み言を唱えた。

「あんな男に嫁いでくれる女性が居たのも疑わしいけれど、私なんかに嫁いでくれたサリーの様な人も居る。だが、カミューの息子なんて絶対に可愛い訳がない…っ」
『そうか』
「当たり前だろう、あのサタンの子だぞ?」

突然聞こえてきた静かな声音に、色々一杯一杯だったブライアンは条件反射で返事を返し、手帳をポケットへ仕舞い込む。そしてそこでピタッと動きを止め、パチパチと無言で瞬いたのだ。

「誰…っ」
『騒ぐなカエサル、久しいな』

声の向こうから、ジャーっと言う水の音が聞こえてくる。
何処から聞こえてくるのかと思えば、手帳に挟んでいた万年筆からの様だった。どう見ても普通のペンに見えるが、そう言えば、此処へ来るまでの迎えの車の中で荷物を預けた時に、肌身離さず持っていろと渡されたものだ。

「…私のミドルネームを知ってるのかね?」
『元老院に残る我が従者から、贈り物は届いたか?』
「綺麗な銀製の万年筆なら、確かに頂いたよ」
『ならば良い。それは私が社員証を作り替えたものだ』
「…は?」
『まだ判らんか、マイケルの息子』

マイケル。
それは死んだ父親の名前だった。世間的に様々な嘘を重ねなければ生きていく事も出来なかった、イギリス王室を恨みながら死んだ、一人の哀れな学者の名前だ。

「まさか」

マイケル=スミス。母親からは名前も与えられず末端の貴族の家に養子として迎え入れられたが、その時点で2歳として招き入れられた。
その赤子が、アメリカから戻ったばかりのエリザベート=マチルダ=ヴィーゼンバーグが産んだ子だと知られれば、マイケルは愚か、ヴィーゼンバーグ、果ては王室までもがアメリカを敵に回しかねない。

『諸事情で時間が然程ない。そなたには面倒を掛けるが、そのイクスコピーが使えるか試して貰いたい』

エリザベート=マチルダは、レヴィ=グレアムの妻だった女だ。然し元夫の子供ではない事は誰の目で見ても明らかだった。彼女がロンドンを離れ嫁ぐ時に付き添った従者の顔に、マイケルは余りにも良く似ていたからだ。
ダークサファイアの瞳を持つノアと、明るいサファイアの瞳を持つマチルダとの子供が、ヘーゼルの瞳である事を。当時の英国はどれほど恐れた事か。

「…伯父さん、私に何をさせたいのかな?」
『私は母上が妊娠していた事を知っていた。そしてそれが、父上が出向中であった事も』
「今更、私にそんな話をされてもね」
『私が気づいている事を、我が父レヴィ=ノアが気づかないと思うのか?』

ああ、そう言う事か。
哀れな英国。哀れな島国。大陸に住まう男爵は、初めから恨んでなどいなかったのだ。寧ろ解放する為に、マチルダを檻から放ったのだ。だとすれば英国は、ありもしない報復に脅え、マイケルを捨てた事になる。
ヴィーゼンバーグの血が流れる子供を殺す事も出来ず、然しグレアムの報復に脅える余り、何の罪もない子供を自分達の保身の為に犠牲にしたのか。それは何と愚かな事だろう。

『その万年筆の軸を45度回し、飾りの宝石の一つに紛れたLEDが灯るのを確認してくれるか』
「OK、点滅しているけどこのままで?」
『構わん、操作は私が行なう。道標が現れるまで、その場を離れるな』
「それはそうと、私の戸籍には67歳と書かれている」

マイケル=スミスが繰り返し『愚かだ』と呟いていた事を、唐突にブライアンは思い出した。家にいても自室から殆ど出なかった父親の記憶は少ない。
母から聞いた父との話も、やはりそれほど多くはなかった。どうしても気になって、働き詰めで体を壊した母が床に伏せていた短い日々の合間に、父との馴れ初めを聞いた事がある。その時の彼女は、嬉しそうに話してくれた。
父は10歳の時に出会った一人の教師を愛し、間もなく二人の間にブライアンが産まれた。母が話したのはそんな幸せな話ばかりで、ネガティブな話は一つもない。

「出産したばかりの頃、母は政府によって投獄されてね」

けれどそう、母が亡くなり彼女の遺体の前で泣き崩れた父の代わりに、母の遺品の後片付けをしたブライアンは、その時まで存在すら知らなかった母の日記を見つけたのだ。然し書いていたのは、投獄された事だけ。理由も、何故解放されたかも、何一つ書かれていなかったのだ。

「母を救う為に、父は政府と何らかの取引を交わした。情けないがその内容は、カミューから聞いた話だ。つまり、貴方も知っているんだろう?」
『全てが片づけば、あるがままの人生に戻してやれるだろう。そなたが望むなら』

ペンから零れる静かな声の向こうから、また水が流れる音がする。
ノアの一族は洪水を生き延びたと言うが、笑い話の様だ。向こうは大雨でも振っているのだろうか?まるでトイレか風呂場の様な、激しい水流が近くに聞こえる。

「本当の私は何歳なのかな?」
『マイケルは私の2歳年下になる。生きていれば77か78歳だ』
「政府の所為で79歳って事になっているんだ。私は13歳の時の子供だと思っていたけれど、つまり11歳の時に出来た訳か。…それなら父があんな性格だったのも仕方ないな。子供っぽい男だったんじゃなく、子供だったんだ」

永遠に続いているかの様な廊下のドアが、次々に光を灯していく。光らない扉もあるが、光る扉を追いかければ、迷路の様だと思った廊下の終わりが見えてきた。

「アーサー王の物語を思い出したよ。この見事な剣を抜いたものがブリテン島の王になると言われたら、男としては一度は試したいものだね」
『そのエクスカリバーは、我が祖父であるナハト=キング=グレアムが英国から贈られたものだ。フランス領主だった我が家を受け入れる証として』
「大切に残しているのか。私なら捨ててしまう」
『レヴィ=グレアムの元に形として残った形見が、それだけだったそうだ』

今のは酷い失言だった。グレアムが辿った経緯を考えれば判る事なのに、言われるまで思いつかないのだから、数学以外は何も出来ないと笑われても仕方ないのかも知れない。今までブライアンに対して容赦なくそれを口にしたのは、カミュー=エテルバルドの他には、叶二葉だ。

『万年筆を会議室の扉に近づけてくれるか』
「こうかい?」
『ああ、良く見える。…これだけは何も変わっていない。ステルシリーライン・オープン、ギャラクシーインスパイア』

重厚なドアが、音もなく左右に滑っていく。
議事堂の扉の様だとは思ったが、ドアノブがない事に違和感があったのだ。自動ドアとは考えもしなかった。

『私が動けるのは此処までだ。そろそろ外の子らが心配する』
「外?それより、最後に一つ聞いても良いかな」
『一つとは言わず幾らでも。そなたは我が甥だ』
「ふ。本当に、サラが子供を産まなくて良かったと言う事かな。貴方の子を私の娘が孕んだなんて、下手なシェークスピアだろう?」
『サラの成長を妨げたのは私の罪だ』
「…どう言う事だね?」
『シリウスは、サラの原発性無月経を知っていて送り込んだのだ。エアリーが私に望んだ様に、サラもまた、アダムの正体を知っていてついて行った。適切な治療を行えばサラには違った未来があった事を、私は判っていたのだ』

懺悔の様だと思う。
けれどそれを罵るには、我が身の何と身勝手な事だろうか。父親を騙るには、自分は家族を蔑ろにし過ぎた。幼い父に振り回されてたまま死んでいった母親は、それでも一言だって、夫を悪く言わなかったのに。

「謝罪なら不要だ。あの子の手を離した時から、私に貴方を責める資格はない」
『カエサル』
「ブライアンでお願いしたい。その名で呼ばれ慣れてなくてね、私の中でのカエサルはルークだけなんだ」

身勝手な親から産まれた身勝手な自分は、身勝手な悪魔達に従って、何をしようと言うのか。勝手だ。この世を回す大人達は誰もが、自己都合と保身と偽善で生きている。それでも綺麗事がなければ、忽ち蔓延るのはただの地獄だ。

「変な話だ。あのノアと話しているのに、若い時に貴方に感じた恐怖が、今はない」
『私を畏れていたのか』
「畏れない人間は居なかっただろうに」
『…そうでもない。少なくとも、私は日本の子供には好かれている様だ』

思わず吹き出した。
日本人は誰も彼も、あのオッドアイの悪魔の様な子供なのだろうか。今では大きくなっているのだろうが、最後に挨拶に来てくれた12歳の時にはもう、立派な青年に見えたものだ。二葉が特別と言う訳ではないだろう。つまりは死んだ父もまた、母が男として愛した程度には、子供ではなかったのだ。

「こんなに立派な剣、例えレプリカだとしても運んでくるのは大変だっただろう?命からがら亡命している時には」

話を変えたのは、わざとらしかっただろうか。
赤一色の廊下が途切れた先、無人の広いホールにあるのは余りにも巨大な円卓と、最奥にひっそり置かれた漆黒の玉座。豪華な造りだが、何処か寂しさを感じる会議室の様だった。

『これは燃え尽きた屋敷の中で、唯一形を残したものだった。王室の裏切りを知って尚、英国との友好を断たない表明だろうか。重なり合うグレアム達の遺体の下、彼らから守られたかの様に、それは見つかったそうだ』
「そう、か」
『アレクサンドル公爵の手により、極秘裏にアシュレイへ贈られた。これはアシュレイとヴィーゼンバーグが父へ贈った、祝いの品だ』
「祝い?公爵と伯爵は、男爵家がなくなった後にも交流があったのかね?」
『すまんが本当に時間がない。その部屋にいる限りそなたの安全は保障しよう』
「後はカミューが言った通りに、此処に居れば良いのか」
『ああ。そこはギャラクシーコアへ続く唯一のゲート』

困った友人達だ。
悪魔の癖に偽善じみた真似をする男も、悪魔さえ跪く神なのに『それ』を言わんとする男も。

「この先へは皇帝以外は降りられない、だったな」
『そう。ノアとメア以外、私とて例外ではない』
「…カミーユ=リヒテンシュタイン=エテルバルド=フォン=シュヴァーベンから、初めて頼み事をされたんだ。爵位も名前も故郷さえも捨てた男なのに、古い友人は捨てなかったらしい」

断れない事を知っていて、きっと容赦なく『それ』を言うのだ。

『勝手だと思うだろうが、私からも頼む。そなたが頼りだ』
「仕方ないな。それもこれも全て、たった一人しかいない私達の可愛い孫の為だ」

娘の血が流れていないと今更言われても、確かに娘が産んだ子供なら、それを孫と言わずに何と呼ぶのか。

『そなたは祖父だが、私は違う』
「同じ様なものだろう。曾祖父でも良いくらいの年齢じゃないか」
『私はまだ80歳だ。日曜日のゲートボールでは「えぐざいるに似てる」と言われ、度々黄金糖を貰う』
「えぐざいるってのは何かね?」
『歌って踊る、なういいけめんの事だ。では私は急ぎ尻を拭かねばならんので、後の事は任せる。さらばだ』

残念ながら数学以外の成績はとても人様に聞かせられたものではない大学教授は、諦めた様に微笑んで、一歩踏み出した。

「申し訳ないが日本語で言われても全然判らないよ、キング=ノヴァ」

判ったのは、風呂場ではなかったらしいと言う事か。


























「ふふ」
「何が可笑しいんですか?」
「いやね。あの大人しそうな彼は魔法使いか奇術師なのかな?…と思ったら、つい」

ぼーっとした表情で歩いていく曾孫の背中を見つめたまま、帽子の鍔を皺だらけの手で撫でた男はサファイアの瞳を細めた。口元には笑みが浮かんでいるが、瞳には探る様な色合いが滲んでいる。

「ただの高校生ですよ」
「あのリンが大人しく従うなんて、とても愉快だと思わないか。なぁ、ヴァーゴ」
「人が悪いですよ、サー」
「祖父にサーと言う君の方が余程じゃないかな」
「大人気ない。子供を騙して楽しむなんて…」

今にも舌打ちをしそうな気配を漂わせている叶二葉は、わざとらしくドイツ語で吐き捨てた。それに対して正しい英語で返事をしている男は、前に向けていた目を傍らの孫へと向ける。

「人聞きが悪い。私は日本語が話せないなんて、一度でもあの子に言ったかい?」

今度こそ邪気のない笑みだが、彼のパーソナルデータを知っている者を騙す事は不可能に違なかった。

「まぁ、それほど上手ではないけどね」
「一つ良い事を教えてあげましょう。日本では貴方を狸親父と言うんです」
「君が日本語と英語の他に、アメリカ英語とドイツ語と中国語を喋るのと同じだ。何しろ私は結婚後この方70年、各国の恋人達を渡り歩いてきた恋多き男だからねぇ」
「おやおや、しょうもない自慢ですねぇ」

言葉を覚えるには恋をするのが一番だと、男は片言ながら日本語で宣った。呟きじみた言葉だったが、隣の二葉にしか聞こえていないだろう。

「君も一度はゲイの女性と暮らしてみると良い。見識が広がって、男が如何につまらない生き物か良く判る様になる」
「見識ねぇ?私には時間の無駄としか思えませんが」
「キスもした事がないのに、誰もが私達を夫婦だと思い込んでる。この30年以上で、専らLGBTに詳しくなったよ」
「誉れ高き公爵夫君とは思えませんよ。これだから幾ら取り繕っても氏が知れる」
「はっはっは、壮絶な皮肉を言ってくれるじゃないかヴァーゴ。お前はマチルダによく似て、本当に可愛らしい子だ」

呆れるほど見事な微笑みを浮かべた二葉の内心は、全く面白くない。何を言ってものらりくらりと躱す目の前の老紳士は、二葉がこの世で最も苦手としている叶冬臣に良く似ているからだ。

「見た事もない人に似ていると言われても、ちっとも嬉しくないんですがねぇ」
「私もだよ。最近は流石に言われなくなったがね、今の女王が即位した頃はそりゃ何度も言われたものだ。『君は女王の祖父王にそっくりだ』『公爵家と同じ姓だって言っても、末端の貧乏子爵なのに君にはミドルネームが多いんだね』」

すらすらとドイツ語で宣った男の表情は、完璧だった。一つも顔色を変えないのは年の功か、それとも化け物だらけの社交界で培われたものか。

「元国王と言っても所詮人の子だろう?つい息子の嫁に手を出してしまっても、無理はないと思うがねぇ」
「愉快な事を仰る。いや、他人事ですか。孕ませて産ませりゃ世話ないでしょう」
「そうそう。馬鹿と馬鹿がやる事やって出来た子供を持て余して他人に押しつけたとしても、金目当てでその子供を育てる馬鹿も、そんな馬鹿達から生まれて育てられた馬鹿も、言える事は一つ」
「総じて阿呆」
「賢い孫に満点をあげよう」

やはり苦手だ。嫌いと言うほど知った関係ではない事だけは胸を張って言えるが、赤の他人より始末が悪いと、二葉は舌打ちを噛み殺した。

「マチルダもベアトリスも賢い子供だったが、孫もまた賢い子ばかり。何と喜ばしい事だろう、神に感謝しなければ」
「サーは無神論者だと思っていましたがねぇ」

産まれる前から存在を否定されてきた男だ。ある意味、死に等しい人生だったのではないだろうか。
生きながらに死んでいて、死んでいるのに生きている。想像を絶する苦労があったのか、それともそこに居るのに居ない様な扱いだったのか、当人以外は誰にも判らない。まるでイエス・キリストの様ではないか。大工の子として生まれた神の息子は、父親が二人居ると言う事になるが、デウスが父であり人の父は養父だと言われている。

「近頃はそうでもないんだ。姪からの手紙の締め括りに、いつもアーメンの文字があるからかも知れない」
「うふふ。女王を姪とはねぇ」
「それを知っていた人達は召されていったから、今はもう私達夫婦と陛下以外は誰も知らない。一代限りの貴族だ」

国王の子でありながらそれを隠さねばならなかった男は、然し今の女王が即位して間もなく叙爵を許され、準公爵の位を頂いている。セシル=ヴィーゼンバーグの夫でなくなったとしても、最早誰もがアランバート=ヴィーゼンバーグを軽視出来ない。

「ああ、でも昔はニックネームがサーだったかな。そう呼んだ友人達は、皆亡くなってしまった。長く生きるのも良い事ばかりじゃないな」
「此処までは閣下とご一緒に見えられたのですか?」
「異な事を聞くんだね、君は。そうとも、私とセシルは夫婦だよ。セシルが出掛けると言うなら、私がエスコートしなければ」
「下らない」

怪訝げに首を傾げた男は、癖の様に帽子の鍔へ手を伸ばす。
そうだ、誰かに言われた。もしかしたら彼のそれは、二葉が良くやっていると言う手癖に似ているのかも知れない。

「俺が誰か判ってほざいてんのか、ジジイ」
「私の伯父アレクサンドル公爵が抹殺した男爵の末裔であるルーク=フェイン=ノア=グレアムの、優秀な秘書だろう?そして私の可愛い孫の一人だ」
「貴方が5年前からイタリアで療養している事は知っています」

少しだけ溜飲が下がる。笑顔を凍らせた祖父が、白旗を挙げる様に肩を竦めながら息を吐いたからだ。

「…成程。誰も私には関心がないと思っていたが、そうでもないのか」
「関心と言う程でもありませんよ。世界情勢の収集は趣味みたいなものでしてねぇ、その一貫です」
「成程、勤勉家だ」
「症状は宜しくない様ですねぇ。まさか緩和ケアとは」
「数年前にイタリア医療は仕組みが変わったんだ。こんなお爺さんに皆、良くしてくれているよ」
「公爵はご存じなんですか?」
「さぁ。君ほど私に関心があるとは思えないけれど、知っていたとしても何も変わらないさ」

やはり他人事の様に言う。哀れな夫婦だと思わなくもないが、愚かとまでは思わない。古びた風習にしがみついて、それ以外の生き方が出来ない不器用な人間は、何も彼らだけではないからだ。
叶と言う名を幾ら遠ざけても、二葉は選んでしまった。それと知らない内に、恐らくは体に流れる血に刻まれた本能で、よりによって榛原の嫡男を。

「この歳になれば癌なんて殆ど寿命みたいなものだ」

治すつもりがないのだろうか。
自由気侭な生活を楽しんでいる様に見えるが、それならばもう少し生に執着するのではないかと二葉は考えた。間違っても、凄まじい痛みに襲われているだろう老体に鞭を打って、わざわざアジアの突き当たりにまで来ようとは思わない。大多数の一般論だ。

「アメリカ人とは付き合った事がないんでしたっけ?」
「…アメリカは流石にね。セシルに叱られる」
「そんなに愛しているなら、どうして今日に至るまでにもう少し足掻かなかったんですか」
「君らしくない事を言うじゃないか。どう言った心境の変化かね?」

本当に、苦手なのだ。
強がっている様に見えない強がりは、諦めと良く似ている。目の前にチャンスの糸が降ろされようと、気づかなかったと言わんばかりに通り過ぎる様な男だ。本音が何処にあるのか、全く見えない。

「茶化すなら、この話は終わりと言う事で構いませんよ」
「ああ、ヴァーゴが怒った。短気は損気、日本の諺じゃなかったか?」
「貴方の日本語講師に興味が湧きました。怒りを煽る言葉ばかりチョイスされてませんか?」

それがどうしてこんなにも苛つくのか、確かな答えが見つからないのはきっと、答えが見つからないからなのかも知れないと思った。二葉は明確な答えが用意されていない曖昧なものを、悉く排除して来たのだ。

「さっきはマチルダに似ていると思ったけれど、どうも違ったみたいだ。君はあの子より怖がりかも知れないね、二葉」
「は?」
「怖いと思った事はないか?目の前にあるものがいつか消えてしまうかも知れない、その時に己の心が耐えられるか」

同族嫌悪。
思わず思い浮かんだ台詞を心の中だけに押し留めたが、他人に聞かれなかっただけの事だ。自分で弾き出した答えから目を逸らしても、それは余り意味をなさないだろう。

「あの子は真っ直ぐ歩いていくが、セシルに会ってどうする気だろう」
「学園の代表としてご挨拶なさるつもりでは?」
「一介の高校生がか?冗談だろうヴァーゴ、セシルは公爵だ」
「彼は帝王院財閥が保有する皇の当主になる人ですよ。一介の高校生ではありません」
「その上、組織内調査部長らしいね。困ったものだ」
「何が困るんですか」

白々しい会話だと思う。祖父と孫の会話にしては、笑える程に。互いに家族と言う感覚がないのだろう。

「公爵に下手な真似をするなら、殺さなければならないだろう?」
「それこそ冗談でしょう。その前に私が貴方を殺します」
「おお、恐ろしい恐ろしい」

どちらも本気だった筈なのに、伝説のアーサー王と同じ名を持つアーサー=ヴィンセント=アランバート=ヴィーゼンバーグは、一瞬で食えない笑みを浮かべた。笑えないのは二葉だけ、と言う事だ。

「ベルハーツがイギリスに居た頃、度々日本語を教えてくれたんだ。あの子はとても強い子だよ、ベアトリスに良く似ている」
「…叔母様はそう呼ばれても、返事はしませんよ」
「アレクサンドリア=ベアトリス=ヴィーゼンバーグ。アレクサンドリアは私がつけて、ベアトリスは私の母から頂いた名前だ。知っての通り養母だけれど、18歳まで育てて貰った恩がある」

迷路の様だ。いつの間にか形を変えているアンダーラインは、予備知識がないと動き回るのは難しい。せめて近場に端末があれば良いのだが、それすら見当たらないのは不運だった。認めたくはないが、ルービックキューブを揃えるのが得意でもその空間認識能力は内側には適応されない。
つまり空から見れば迷子になどならないと言う情けない言い訳だが、二葉は本気だ。ドイツで真っ先に乗り込んだのが空軍だと言う理由が、窺い知れるだろう。

「違うでしょう。叔母様の戸籍上の名前は、アレクサンドル=ヴィンセント=ヴィーゼンバーグの筈です」
「年齢は36歳、ってね。鯖を読むのは女性の嗜みだ」
「それも高坂君が教えてくれたんですか?」
「まさか。ベルハーツが教えてくれたのは5年以上前の話だろう?応用は自主勉強の賜物さ」

何と言う強かな男だろう。重病人とはとても思えない。

←いやん(*)(#)ばかん→
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