帝王院高等学校
マッチョマスターは蜃気楼に大困惑!
「あっ」
「ん?お、それ引いてるんじゃないですか?」
「あ、ああっ、アーッ!」
「マサさん、随分色っぽい声が出ますなぁ」
「いやいやいや、体ごと持っていかれそうなヒキなんだよっ、助けてカズ君…!」
「えっ、ちょ」

何故都会の真ん中の釣り堀でそんな大当たりを引くんだと首を傾げれば、村井和彰の視界でふわっと爪先を浮き上がらせた榛原優大は、ダイビングしそうな勢いだ。

「おわーっ!マ、マ、マサさーん?!」
「た、助け、あっ、アーッ!」

年甲斐もなくはしゃいでいるだけかと思って反応が遅れた和彰は、ポケットの中で震えた携帯に構わず優大の足を掴んだが、然し二人共落ちると覚悟した所で、ガシッと着ていたベストを掴まれた。

「もう、何してるのよ二人共!」
「あらあら、間一髪だったわ。貴方、大丈夫?」
「た、助かった…」
「うわぁん、美空!カズ君!夕夏里さん!助かったよ、本当に有難う!」

ぴちょん、と水面を跳ねたニジマスに、和彰は尻もちをついたまま瞬く。
ヨガだか殺人拳だか良く判らない健康体操で鍛え抜いている元妻のフォローで、間一髪お堀に飛び込む羽目に陥らずに済んだが、優大の釣り針から餌を奪っていった獲物のサイズはそれほど大きくはなかった。

「マサさんは、もう少し鍛えた方が良いですなぁ」
「へ?」
「30cmもなかったわね、今のニジマス」
「良いわねぇ。ニジマスはやっぱり塩焼きかしら?」

のほほんと宣った榛原美空に皆の視線が集まったが、和彰の携帯が鳴っている事に気づいた夕夏里が肩を叩いたので、和彰は立ち上がりながらポケットを漁る。

「おっと、夕陽からメールだ」
「えっ、夕陽?何だって?」
「んー、要約すると、あの子は太陽に会えなかったみたいですよ。賢い子の筈なんだが、メールの文章がイマイチ下手くそなんだよなぁ」
「どれどれ?」

和彰の携帯を覗き込んだ優大は、呆れた様に頭を掻いている和彰から携帯を手渡され、画面を暫く見つめたかと思えば、広めのおデコを掻いた。

「貴方、ヤスちゃんは何て?」
「うーん。太陽の事しか書いてないんだよ、見事に」
「『アキちゃんは優秀だから帝王院の奴らが手放さないんだ。アキちゃんは僕の兄さんなのに絶対に許されない。帝王院学園に天罰が落ちるまで僕は諦めないよ』」

スラスラと口にした和彰に、美空と夕夏里は目を見合わせる。

「相変わらずねぇ、ヤスちゃんったら…」
「あの子の将来が不安なんだわ。陽子はどんな育て方をしてんの…」
「兄弟、仲が良いのは喜ばしい事じゃないか。それにしても、夕陽はお兄ちゃんっ子だなぁ」
「お兄ちゃんっ子なんてもんじゃないですよマサさん、夕陽は太陽以外を人類だと思ってないんです」

和彰が呟けば、夕夏里は苦笑いを零しながら頷いた。それほど面識がある訳ではないが、我が孫ながらあの双子はタチが悪い。

「夕陽なんてまだ可愛いもんだわ。太陽は毒がない顔して、平気で人の嫌がる事をするタイプよ」
「えっ。そんな事はないんじゃないかな、夕夏里さん!太陽は大人しくて良い子だよ?」
「マサさんは見る目がないですなぁ。俺も大空も、跡取りは太陽以外には考えられないと思ってますけど、夕陽が何せあの性分なんでね」

優大から携帯を手渡された和彰は、ポチポチと孫へ返信する。
婿養子同然の大空が家事騒ぎを起こし、死んだかの様に報道されたのは記憶に新しい事だった。暫く放心状態に陥った和彰へ連絡を寄越したのは、優大の方だったのだ。

「私立に通わせてた分、夕陽の方が色々と融通が利く。幼い頃の高熱で榛原の力がなくなったって言う太陽を、夕陽なりに心配したんでしょう。あの子は自ら大空の仕事を学びたいと申し出て、大空が太陽にやらせたかった事を肩代わりしてきたんです」
「ああ、聞いているよ。だから僕は、大空が夕陽を跡継ぎに考えてるもんだとばかり思っていたんだ…」
「俺も内心、そう思ってましたけどね。まさかあの遠野課長が帝王院秀皇氏だったなんて、想定外も良い所だ、ほんと…」
「そっか。そう言う事か。確か秀皇の皆様には、ご子息が」
「ええ。お医者の家柄で自身も外科医だった俊江さんとの間に、鷹翼中学に主席で合格した息子さんがいらっしゃいます」
「ふふ。だからそれが、隆子ちゃんのお孫さんなのよ、貴方」

栄子ちゃんから聞いてるのよ、と。
微笑みながら言った美空は、榛原晴空の一人娘として生まれ、父を亡くした後は祖父の山田大志の元で可愛がられた事もあり、お嬢様育ちだ。いつでも微笑んでいる美空は、笑顔以外の表情をまず見せない。

「だからね、俊秀公のご遺言通り、灰原に陽が昇ってしまったでしょう?つまりはそう言う事なのよ。緋の系譜が名乗るべき名前を負ったからには、太陽は宮様に罪を贖わなければなりません」
「み、美空…」
「榛原の嫡男たる者、主人を履き違えてはなりませんわ。だってそうでしょう?」

穏やかな美空の目は笑っていなかった。気丈な夕夏里が、思わず息を呑むほどには。



「空蝉は土の中で目覚め天の元で羽化し、死ぬ運命なのよ」



























「ノアが死んだ?」
「…ああ、今はノヴァと呼ぶ方が正式だろう。今のノアはキング陛下だ」

花で溢れた墓石を前にしても、実感はない。
年上だとは知っていたが、人はこんなにも簡単に死ぬのか。戦争に負けたのはこの国ではなく、我が国だと言うのに。

「陛下から聞いた事があった。一度会っただけの人間にコードを用意されていたが、…解せないのは見た目だ。失礼だが、貴方は俺より若く見える」
「貴様ら外海人には日本人は皆、若輩に見えると奴は言っていた。俺の肉体年齢を知って、得はないだろう」
「確かに、その通りだな」

空を渡った。初めての事だ。
昔一度だけこの国へ渡った時は船を使ったけれど、落ち着かない空の旅よりはマシだっただろうか。余り覚えていないのは、積荷に紛れて乗り込んだからかも知れない。あの時は、変わらない景色に時間感覚が麻痺していた覚えがある。

「陛下はメアと共にお眠りになられた。そこにあるのは形式だけの墓だけで、ご遺体はない」
「貴様、ライオネルと言ったな」
「ライオネル=レイだ、ミスター」
「貴様はあの時、ノアと共にランズエンドルックアウトを歩いていた男と、縁があるか?」
「男?」
「ベイカービーチで北を眺めていた、お前より背が低い細身の男だ。だが、顔は良く似ている」
「北…?もしかして、グリーンランドの方向か?そうだとすれば、陛下のお傍に居たのは俺の兄だろう」
「男はオリヴァー=ジョージ=アシュレイと、名乗った」

目を軽く見張った男は、それまで密かに漂っていた警戒心を解いた。
驚いたな、と英語で呟いたかと思えば、ガリガリと豪快に頭を掻いている。

「あの兄が本名を名乗る程の関係だったなんて。そうとは知らず、失礼した。何のアポイントもなくやって来たかと思えば、社員40人を一人で倒した挙句、亡くなった陛下に会わせろと言うから、てっきり…」
「スパイを疑って泳がせていたと言う事か。その程度、愚かな俺でも判る」
「いやぁ、申し訳ない!失礼ついでに、ミスターの名前を聞いても?」
「我が名は雲隠…いや、嵯峨崎陽炎だ」

警戒していたのはお互い様だと、嵯峨崎陽炎は殆ど変わらない表情で呟いた。

「カゲロウ?その日本語は聞いた事がないな…」
「別の言い方では、蜃気楼と言う」
「成程、だからミラージュなのか」

此処へやって来るまでの手土産は一つだけだ。一度しか面識のない男を友と呼ぶのは憚られるが、それでも他にツテがないのだから仕方ない。

「俺はジャック=レイナード=アシュレイ、旧約聖書のヤコブから取った名前だと聞いている。レイナードは父方の祖父のファーストネームだ。グレアムのメイドとして働いていた母はユダヤ人だった為に、貴族の父とは結婚しないまま兄を産み、陛下と共に此処へ逃げ延びた」
「ふむ。グレアムがイングランドから追われた経緯は、ある程度聞いている」

そこまで知っているのか、と呟いた体格の良い男は「レイリーと呼んでくれ」と快活に笑った。陽炎より幾らか若い様だったが、無邪気な笑みではない。ステルシリーランクAの枢機卿に相応しい、喰えない笑みだ。

「口に出すと舌を噛みそうな家が、屋敷を焼いたと言っていたが」
「ヴィーゼンバーグは王族、公爵家だ。1800年代に入った頃から、イングランド王室に近い位置にある。8代陛下を殺した男は、アーノルド=アレクサンドル=ヴィーゼンバーグだ。今は息子が継いでいる」
「アシュレイとは睨み合いだろう?」
「当然。親父はどうか判らないが、兄貴は心の底からアレクサンドル公爵を憎んでる。今や相手にする必要のない英国を憎むだけ無駄だが、当時を知らない俺も産まれながら恨み言を聞かされ続けていれば、少なからず公爵には嫌悪感はあるんだ」

そう嘯いたレイリーは、然し表情は朗らかなままだ。何処に本音があるのか伺い知れないものの、そこを暴くつもりはない。わざわざ世間話をしてくれる程度には、歓迎してくれていると言う事だ。

「ステルシリーを起業して間もなく、英国議会はアシュレイの裏切りに気づいた」
「その時にはもう遅かったと言う訳だ」
「そうなるな。開き直った父はアメリカへ通うようになって、母は俺を妊娠した。その頃には祖父母が亡くなっていた事もあって、父はユダヤ人の母を連れて帰ったんだ」
「家柄が結婚に影響を及ぼすのは、どこの国も同じ事か。大殿はそれをナンセンスだと仰っていたが、」
「オートノ?」
「我が主、帝王院鳳凰公の事だ。喜ばしい事に舞子様は華族の家柄であらせられた為、年寄り共から反対は少なかった。が、多少の持病をお持ちだった事で、女共からの非難はあったと聞いている。早くに俺が知っていれば、全員殺していたものを…」
「くっく、日本人は暴力的だな。ナイトもそうだった」
「ナイト?」

花で溢れた墓石を指差したレイリーは、NOVAと刻まれた墓石の傍らに寄り添っている黒曜石の塊を見つめている。立派な黒い石があると初めから気づいたいたが、海外式の飾り物だと陽炎は思っていたのだ。

「母は俺を産むと、それから間もなく亡くなった。ユダヤの教えには背けないと結婚はしなかったが、父は再婚はしないと言っている。兄に爵位を譲って父は隠居したんだが、ステルシリーへ送り込む優秀な執事や人材を育てる為に作った学校が、あっちで盛況らしくてな。特別機動部長として頻繁にアメリカとイギリスを往復していた兄に代わって、父が経営者に収まっていたんだ」
「オリヴァーはどうした?」
「…レヴィ陛下とナイト=メアの葬儀が終わった後に、ランクAを返上して向こうへ戻った。今は父と共に養成校を経営しながら、議会に顔を出している。ウェールズに兄の息子が居るんだ」

本人のいない墓石の前で跪き、手を合わせた陽炎は目を凝らした。
硬質的な煌めきを放つ黒い墓石には、うっすらと文字が掘られている。NIGHTと共に添えられている文字は、どう見ても見覚えがあった。

「アシュレイはイギリス議会に名を連ねている伯爵の家で、俺達の父親は男爵の弟、リヒャルト=グレアムに家庭教師をして貰って育ったそうだ。グレアムの屋敷はいつも人で溢れていて、父はそこで母に一目惚れした」
「…」
「先に言った通り母に結婚の意思がなかった事と、伯爵家にユダヤの血を混ぜられないと親族から反対された事から、母は男爵の許しを得てグレアムの屋敷で兄を産んだ。その頃、母は16歳でレヴィ陛下は3歳。母に懐いていた陛下と共に、俺の兄は育った」

レイリーの世間話を聞きながら、『夜人』と書かれている文字を撫でる。
揶揄いめいた笑みが落ちてきたので見上げれば、レイリーは青い瞳を細めていた。

「それが気になるか、ミラージュ」
「ヨルヒト」
「違う、ヤヒトだ」
「ヤヒト?」
「…彼の本名を口に出すのは、俺も初めてだよ」

よいしょ、と、わざとらしい掛け声を日本人の様に呟いたレイリーは、陽炎の傍らに腰を下ろす。胸元で十字を切ったかと思えば、先程の陽炎の様に手を合わせ、黒い墓石を懐かしげに眺めている。そこには、対外実働部マスターの威厳は感じられない。

「やぁ、元気にしているか遠野夜人。俺は残念ながら独身だが、こうして元気だ。今は若様がレヴィ陛下に劣らず、ステルシリーを率いて下さっているよ。我らのノアは、大丈夫だ」

独り言の様に呟くレイリーは日本語で、陽炎から見ても日本人の様に見える。
墓石の主が恐らく日本人である事は間違いないが、レヴィ=グレアムは日本人を妻に迎えたのだろうか。それにしては、どう考えても男性の名前の様だった。
そして、その名には聞き覚えがあり過ぎる。

「レイナード」
「レイリーで頼む。本名はあんまり好きじゃないんだ」
「遠野夜人は、本当に此処で死んだのか?」
「何?」
「俺は遠野夜刀を知っている。あの男は大殿の親友で、夜の王だ」
「King of night?」

豆粒の様な餓鬼だった。痩せ細って弱々しい見た目の癖に、何度追い払っても飛び蹴りをカマしてくる様な、じゃじゃ馬の餓鬼。
学校へ通わず夜遊びばかり繰り返し、とうとう警察の世話になって東京へ連れ戻したのだと、夜刀が鳳凰に話していたのを覚えている。それから数年後に姿を消し、夜刀は日本中を探したのではなかったか。

「…そうか。あの小僧は、此処に眠っていたのか」

当時付き合っていた女と結婚の話が纏まっていたのに、それが破談になるほど夜人を探し続けた夜刀は、初めて鳳凰に泣きついた。ただの一度も鳳凰を帝王院当主として扱わなかったあの男が、たった一度、居なくなった弟のために頭を下げたのだ。

「夜刀兄者は俺にとっても糸遊にとっても、父であり兄だ。2次大戦が終結する直前、俺は11歳でアメリカへ渡った。宮様の為に戦争を終わらせるつもりだったからだ」
「ちょっと待て、戦争を終わらせる?11歳の子供が?」
「宮様は外に憧れておられた。開戦時に政府によって燃やし尽くされた聖書を、大切に読んで学ばれていらっしゃった。如何に傲岸不遜の政府であれど、公家の帝王院に易々と手を出す事は適わん。俊秀公の予言では敗北は確定していたにも関わらず、奴らは戦をやめなかった愚か者だ」

帝王院俊秀は罪のない人々が死に行く光景に心を痛め、出来る限り尽力した。一度は全財産が尽きる程まで陥ったが、彼が助けた人々が今度は帝王院の立て直しに手を貸したと言われている。
幼い子供まで戦争に連れ出す政府を表立って非難出来る時代ではなく、けれど彼らは、俊秀が予言した『恐ろしい業火の果てに、復活の炎を視る』と言う言葉を信じ、帝王院鳳凰の健やかな成長を願ったのだ。

そうして戦争が終わりを迎える頃、鳳凰は俊秀へ申し出た。

『廃れ行く国を救うべく、私に知恵をお与え下さい父上』

そうして二十歳にして漸く、真紅の塔から開放された鳳凰は大学で学ぶ事になったのだ。陽炎が帰ったのは、その頃だった。
初めて鳳凰から叱られ、賢い彼の想像を絶する心を抉る言葉に無知な陽炎が死にかけていると、仕方ないとばかりに溜息を吐いた夜刀が、助け舟を出してくれた事を覚えている。そうでなければ、双子の妹である糸遊から物理的に殺されていただろう。雲隠は総じて、何故か女の方が強いのだ。特に、痛みに。

「数年前、夜刀兄者は夜人から手紙が来たと言っていた。祖父の一星殿が亡くなる知らせを、どうにか伝えたいと言ったんだ」
「ちょっと待て、そのヤトと言うのは、ナイトと何か関係があるのか?」
「遠野夜人は夜刀兄者の弟だ」
「何だって?!」

素っ頓狂な声を上げたレイリーが立ち上がったので、陽炎も立ち上がる。
地下都市とは思えない青空が広がる大都市は、見た目だけなら地上のアメリカと何ら変わり映えしない。数百メートル置きに天を貫く様な巨大な柱が伸びていなければ、地上だと言われても信用しただろう。

「レヴィ=グレアムが夜人を連れ去ったと言う事は、早い段階で判っていた。夜刀兄者が大殿に頭を下げて間もなく、大殿の命で我ら空蝉は、夜人の捜索を始めたんだ」
「ちょ、ちょっと待て、帝王院財閥は知っているが、ステルシリーとは何の関係もない筈だろう?!どうして我々に辿り着く?!」
「今際の際の俊秀公の元へ、消えたと思っていた皇が戻ってきたからだ」

地上から1000メートルもの奥底に、果たして中央区は広がっていた。此処へ辿り着くまでに何年懸かっただろう。鳳凰の言いつけを陽炎が守らなかったのは、これが初めてだ。

「その名を俺が口にする事はない。どんな事情があれ、あの家は大殿を裏切った罪深い家だ。刹那兄者が認めようと認めるまいと、俺は奴を空蝉とは認めない」
「一体、何の話をしているんだ…」
「俺は頭が悪いので話せる事しか話せない。判らないと言われても、話せない事は話せない。曖昧に濁すと言う才は、俺にはない。諦めろ」
「…判った、聞き役に徹しておく。疑問は後だ」
「我ら空蝉は、夜人が子供を連れて客船に乗り込んだまでを掴んだ。そうしてそれが、GHQが要人として扱っている実業家が乗っていた船だと言う事も」
「レヴィ=グレアムの事だな」
「恐らくは。然しそこまで掴むには材料が足りなかった事もあり、大殿はアメリカへ渡られた。アメリカ船籍の客船が帰港するのは、当然アメリカだからだ」
「成程」

然し鳳凰の力を以てしても、ステルシリーへは辿り着かなかった。せめてあの客船の持ち主だけでも判らないかと調べ上げたが、当時の船舶会社が大幅な統廃合を繰り返していた為に、履歴が曖昧になっていたそうだ。
幾ら帝王院当主であれ、海外ではその権力は皆無に等しい。鳳凰は地道にコネクションを築き、幾らかの富豪と商談を繰り返したが、数年後に諦めて帰国した。

「そうか、当時は今程ランクDは多くなかった。政府直轄の企業の株式を取り扱うだけの、表向きは証券会社だったからなぁ」
「大殿はステルシーの名までは掴んだが、それから先は雲を掴む様だったと仰られた。俺もそうだったが、最初の渡米で現地の人間の会話を聞いていただけで英語を覚えた大殿は、結局、俺を連れて行っては下さらなかった。ステルシーの話を聞いていれば、その場で俺は大殿にノアの話をしたが、仕方ない事だ」
「は?ステルシリーの名を掴んでた?聞いただけで英語を覚えた?ちょっと待て、頼む、少しだけ待ってくれ、お前の主人は何なんだ?!」
「大殿は大殿だ。仏に愛され神の教えを学び、日本は天皇を尊ぶが、俺は大殿だけを尊ぶ。何故ならば俺は、雲隠の狗」

I don't understandと呟いたレイリーを他所に、陽炎はもう一度墓前で手を合わせる。

「結果的に、俺が大殿からステルシーの話を聞いたのは、ほんの数年前の事だった。夜刀兄者の元に夜人から『帰国する』と言う手紙が届いたそうだが、兄者は夜人には会えなかったと聞いている」
「…その帰国の際に、陛下は事故に遭われたんだ」

言い難そうなレイリーは言葉に、陽炎は頷いた。それ以上の事情を知る必要はない。知った所で、陽炎が鳳凰へ話す事はないからだ。
アメリカへわざわざ飛行機に乗ってまでやって来たのは、目的を果たす為だ。思ったより時間は懸かったが、レヴィ=グレアムから地下への入口を聞いていて良かった。サンフランシスコ側の入口が海に浸かっていた時は絶望したが、ニューヨークまでの旅路は日本からサンフランシスコまでの旅路よりは、ずっと短い。

「成程。ノアは大殿に探されている事を知っていたのかも知れない」
「…は?」
「あの面倒臭い餓鬼を嫁に迎えたのであれば、夜刀兄者は何としてでもレヴィ=ノアを探し出し、首を狙っただろう。俺は兄者以上の医者を見た事がない」
「医者…。そうだったな、ナイトは医者の家に産まれたと言っていたよ…」
「遠野は素晴らしい家だ。駿河の宮様を取り上げたのは、夜刀兄者の病院の医者だった」
「スルガって?」
「大殿のご子息だ」
「そうか。それほどの人物の息子なら、会ってみたいもんだな」
「愚かな。我らが若君に気安く近寄る事は許さんぞ」
「おお、怖い怖い。…心配しなくても、ステルシリーは日本へは近づかない」
「何故だ?」
「日本は聖地だ」

風もなく、雲もなければ、ひたすら青空があるばかりの世界には、目に見える自然物の全てが作り物にしか見えなかった。
敷き詰められた芝生も、わざとらしく古びた作りの煉瓦道も、砂利道も、稲穂がそよがない水田風景も、その光景には全く似合わない恐ろしいほど大きな建物さえも、全てが。まるで空想の物語じみている。

「聖地だと?」
「ナイト=メア=グレアムが生まれ育った国は、俺達の誇り。踏み入ってはならない。穢してはならない。心に秘めたまま、祈りを捧げる国。政府へは通達している。現男爵キング=ノア=グレアムの名に於いて、日本とは二度と争ってはならないと」
「そうか」
「だから俺が望んでも、帝王院鳳凰氏に会う事はない。心配させて悪かったな、ミラージュ」
「約束が果たされるのであれば、灰皇院がステルシーに牙を剥く事はないだろう。近頃は舞子の宮様の体調が思わしくなく、糸遊もにゃあも心配している。ただでさえ、にゃあは機嫌が悪い。名古屋から東京へは、そう頻繁に行けないからだ」
「にゃーってのは何だ?」
「にゃあは、にゃあだ。俺を『おみゃあ』と呼ぶ」
「おみゃー?それも話せないって事か?」

陽炎は首を傾げた。
話せない事ではない筈だが、嵯峨崎可憐に何度結婚を申し込んでも断られるので、若干イライラしていた。嵯峨崎の屋敷の天井裏で人知れず可憐の警護をしていると、可憐は一人の時は良く喋るのだ。

「俺は判らない。にゃあは一人の時は俺を『王子様』と呼んでいる。俺の事を愛していると舞子の宮様から贈られたぬいぐるみ相手には呟く癖に、ならば結婚すれば良いと俺が申し入れれば、にべもなく断るんだ」
「は?あ?え?」
「然し俺を振った夜はいつも、熊に向かって『断るつもりはなかった』だの『嫌われたらどうしよう』だの繰り返しては、泣きながら眠っている。何年も繰り返されたそれを俺は密かに見ていた。にゃあの部屋の真上が俺の寝場所だったからだ」
「何でそんな事に?!」
「決まっている。不埒な男がにゃあに手を出さない様に、俺が守る為だ。幼い頃は良く笑っていたにゃあは、穢された事で笑顔を失った。舞子の宮様が居なければ、にゃあは自殺していたと日記に書いていた。にゃあの日記は、枕の下に隠してあるんだ」
「えっ?ちょ、何、は?!」
「舞子の宮様は大殿の求愛を何度かお断りになられたが、大殿は諦めなかった。曰く『蛇の様にしつこいのが鳳凰ちゃんのポリシーだい!』を恥ずかしながら真似たが、然しいつまで待っても煮え切らない態度に焦れた俺は、にゃあを手篭めにしてしまえば良いのだと思いついた」
「は…はぁあああ?!」

レイリー=アシュレイの悲鳴が木霊したが、風もない人工物の世界に放逐されている鶏や鳩達が慌てて逃げていっただけだった。面積に比べて人口が圧倒的に少ない地下都市には、地上ほどの賑わいはない。ただただ美しい光景が、際限なく広がっているだけだ。

「俺を愛しているにゃあは他の男には目も向かないと日記に書いていたから、他の男と結婚する素振りがあれば潔く身を引くつもりだった。然し俺しか愛せないと言うのであれば、俺の妻になれば良い。然しにゃあは、嵯峨崎の家を守る為に婿養子しか考えられないと日記に書いていた。俺が皇だから躊躇っているのだと」

マイペースな陽炎は、パクパクと喘いでいるレイリーなど見ていない。

「ならば婿入りすると言っても、にゃあは俺を振った。愛している癖に何百回振れば気が済むんだ。にゃあは若いが、俺は若くない。雲隠の寿命は短いと言うのに、いつまで俺は天井裏で暮らせば良いのか。腹を出して寝るにゃあの布団を、夜中にこっそり直してやる生活は悪くなかったが、舞子の宮様は仰った。愛し愛される者は、舐めたり舐められたりひっくり返されたりひっくり返すものだ・と」

ライオネル=レイの呼吸が止まった。
残念ながら肉食系女子が苦手なのに、その見た目の所為で肉食しか寄ってこないレイリーの経験値は、然程多くない。対外実働部マスターともなると、自分に自信があるボインバイン系のお姉様しか寄ってこないのだ。アシュレイ家たる者、余り弱味は見せたくないのだが、ぶっちゃけ怖いものは怖い。
たまーに好みの女性を見掛けても、片っ端から冬月悪魔兄弟に奪われていった過去は、双子の片方が消えた今でも継続中だ。

「恥ずかしがりながら俺を求める姿は、愛らしかった。あの愛らしい姿を他の男が見たのだと考えれば腸が煮えくり返る思いだが、一人残らず殺したからもう居ない」
「ちょ、ちょっ、」
「あの時、怒りに任せて殺してしまったのは失敗だったかも知れない。大殿が呆れるのも無理はないと、俺は今更ながらに理解した。だから俺は馬鹿なんだ。然し、大殿の様に賢くはなれない。俺は馬鹿だからだ」
「待ってくれ、君には対話能力が欠けていないか?!」
「ああ。極めて良く言われるが、50年以上生きてきた」
「ごっ、ごじゅ…?!」
「問題はない」

問題だらけだとレイリーは乾いた笑みで呟いたが、ぱんぱんと手を叩いた。

「…判った、立ち話も何だろう。俺と茶でもどうだい、色男」
「俺は立ち話でも構わない」
「俺が構うんですよ。お年寄りに席を譲らない英国人は居ないんです」
「俺は年寄りじゃない。まだ58だ」

対外実働部長ライオネル=レイは再び叫びそうになったが、その恵まれた体格を小さく丸める事で何とか耐え切ったのだ。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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