帝王院高等学校
突然のラブシーンは学園名物です。
『愛している』

鼓膜を震わせた言葉を文字にすれば、何と短く容易い言葉なのかと実感した時にはもう、それまで胸の奥で燻っていた目には見えない何かが、動きを止めていた。

『なら、イイ』

Moon light into the noir of the darkness.
虚無から生まれたささやかな月の光は、今でも記憶の奥底で貴方を照らしている。

あの日、俺が迂闊にも己の立場を忘れてしまったから、そんなに悲しい表情をさせてしまったのだろうか。愛が何であるかも知らない分際で、けれど容赦なく落ちてきた、たった6文字の拙い言葉は、鼓動を止めるに十分過ぎたから。

お前が探す、聡明にして剛直な暗黒皇帝など何処にも存在しない。
何をも恐れず敗北を知らない神の様な男など、例えば15年前には既に存在しなかった。
此処にあるのは哀れな人の塊。




「前略、自分を自分だと疑わない、空っぽな俺」

星や月を輝かせる為に、宇宙は黒かったのではない。真っ黒な闇を照らす為に、星や月を生み出したのだ。例えばそう嘯いて、誰が納得するのだろう。所詮は他人の見解だろう?

「白日へ征きたかった」

あの夜の月光よりも眩い世界へ。
あの美しいプラチナに並んでも違和感がない、綺麗な存在になりたかった。

「裕也と朱雀には可哀想な事をしたけど、太陽と裕也と健吾は助けたんだ。まだ秘密にしてるけど、沢山のハッピーエンドを用意したんだ…」

言い訳だ。
何でも出来ると思っていて、何でも知っていると思っていて、それでも全てを知った時にはもう遅かった。何度も何度も絶望して、己の不甲斐なさに絶望して、それでもこの身には、時を戻す力などない事を知らしめるばかり。

「Magician whispered, doesn't recollection anytime.(奇術師は囁いた。思い出す必要はないのだと。)」

俺に与えられなかった名は、貴方を俺を殺す槍へと変える、唯一の呪文だった。

「俺に帝王院を名乗る権利はない。俺を照らす光なんて必要ない。過去が俺を緋の系譜と呼ぶなら、塗り潰すだけだ。…未来を、とびっきりの漆黒で」

録画終了を告げる携帯電話をパタリと閉じて、咲き綻ぶ窓の向こうの春の花を眺める。誰に聞かせるでもない一人言は、躊躇いなく大気へと淡く溶けていった。



「さァ、俺が掻き集めた物語を歌え。俺のカルマよ」










いつかお前が死を願ったら。
俺はどんな手を使ってでもお前を守るだろう。

いつかお前が生きる事に興味を失ったら。
俺はお前に、生きていく理由を押しつけるだろう。

俺にはお前が見えている。ずっとずっと、俺はお前の騎士だった。
だから絶対にそれだけは、後悔したくなかったんだ。



拝啓、俺に良く似た魂の双子へ。
ほんの最近まで愛を知らなかった俺から、押しつけがましい一方的な愛の歌を捧げようと思う。

この世は空っぽだったか?
今はまだ空っぽだろうか?
あの時の様に今も、嘆く蝉は煩わしいだろうか?

光に愛されなかったお前が、いつか夜の帳に飽きてしまったその時は、死ぬ前に一度だけ、空を見上げてごらん。





ほら、俺の楽器が見えるだろう?










「美しいクイーンズイングリッシュ、貴方であれば当然ですね」

女王に並ぶ権力を与えられた女は、純白に等しいホワイトブロンドを風に躍らせた。イギリスでは常に結い上げられている髪のバレッタを、年齢にしてはしっかりとした手つきで外したからだ。

「風が強い。乱れるぞ」
「ふ、随分紳士的な事を仰るの。私が憎くはないのですか?」
「過ぎた事だ。元より、レヴィ=ノヴァ=グレアムの過去など俺には何ら興味がない」
「…男爵が聡明である事は、父も祖父も理解していました。勇猛だのと民は持ち上げましたが、今を以て、あの進軍は我が家に於ける最大の恥として受け継がれています」

セシル=ヴィーゼンバーグが爵位を継いだ折り、父親が一度だけ呟いた事がある。
フランスからやってきた奇術師呼ばわりの一族は、然しその神憑った医療技術で多くの英国貴族を救ったのだと。そうして、それはヴィーゼンバーグだけに留まらず、アシュレイ伯爵家もそうだったらしい。

「我が祖父は、前国王の母からグレアム男爵家の爵位剥奪と一族抹殺を命じられた時に、当時の男爵へ早文を送りました」
「ほう」
「屋敷を焼き払い始末した事にする。その前に逃げてくれと、祖父は確かにそう手紙にしたためたそうです」
「ならばリヒト=キング=グレアムは、自らの意思で逃げなかったと言いたいのか」

孫と同い年の美しい男が言う通り、これは聞いた話だ。確証はない。
けれど祖父は逃げたと思っていた男爵とその家族が、鎮火した後の屋敷から無残な姿で見つかった事を、死ぬまで悔いていた。それは嘘ではない筈だ。

「アレクサンドル=ヴィーゼンバーグの退位が45歳である事は、ご存じ?」
「知識だけは」
「私の祖父は心を病んでいました。王室の命令は絶対だと言え、公爵家には代々呪われた血が流れている。貴方の祖先は、私達祖先の主治医でもあったのです」

ヴィーゼンバーグの血の秘密に気づいたのは、グレアムだったそうだ。
傷の治りが遅い特異体質は、何も悪い事ばかりではないと7代男爵は言った。そうして8代男爵へと爵位が移り変わっても、彼らは率先して皆の命を救ってくれたのだと。それなのにそんな人々を、子供が癇癪を起こした様に殺せと宣った王室へ、ヴィーゼンバーグとアシュレイは反感を持った。
彼らの亡命ルートを確保する為に走ったアシュレイ伯爵は、己の娘がグレアムへ嫁いでいた事もあり、王室と敵対する覚悟だった様だ。これに賛同したアレクサンドル=ヴィーゼンバーグは、深夜の焼き討ちを装い、軍を率いる事にした。夜なら、煌々と燃える男爵家の屋敷に皆の目が向き、グレアム一族の逃走を後押しするに違いないと企んだのだ。

「けれど、知っての通り計画は失敗しました。全ての用意を終えて戻ってきた伯爵は、意気消沈している私の祖父を激しく罵り、王室と我が家への復讐を誓った。祖父は間もなく退位しましたが、父の代以降、アシュレイ伯爵家と公爵家には深い隔たりがある。…その理由を知る者も、今や私だけでしょう」
「そうか。そこを退け、俊が隠れているかも知れない」

呆れたものだ。
本当に、何にも興味がないらしい。秘めてきた屈辱的な秘密を打ち明けていると言うのに、18歳とは誰もがこんな感じなのだろうか。

「ノア」
「俺は帝王院神威だ。野良の様に呼ぶな」
「貴方は紳士と言う言葉をご存じ?」
「興味がない。…ちっ、此処にも居らんか」

舌打ちする姿さえ絵画の様だから、笑い話だ。美しいと言う事は、それだけで全ての負の要素を打ち消せる。まるで、孫達の様に。

「貴方の祖父が亡命して間もなく、我が連合国家はグレートブリテン及び北アイルランド連合王国を名乗る様になりました」
「興味がない」
「スコットランドで、貴方の帰りをサリー=フェインが待ちかねているでしょう。彼女の母親は、私の古い友人でした」
「興味がないと言っている。良く喋る女だ。見逃してやるから、何処へなりと立ち去るが良い」
「陛下は貴方を危険視していますが、私にとっては孫と同じ年齢の子供。貴方が私を見逃すと言うのなら、私は若き皇帝に一つ、助言を差し上げましょう」

がさりと。
草むらから頭を出した男の美貌は見惚れる程だが、草まみれの頭へヒラヒラと近づいてきた艶やかな蝶が羽根を休めると、迂闊にも吹き出しそうになった。

「手駒を掻き集めている様ですが、皆が腹心であると錯覚してはなりません」
「既知の事実だ」

ヴィーゼンバーグは敵だらけだ。少なくとも、公爵本人はそう思っている。
アレクサンドル=ヴィーゼンバーグは一度、知られてはいないとしても王室を裏切っている。アシュレイが密告すれば、真偽はともかく、公爵家が不敬罪で処刑されていても可笑しくはなかった。
表面上冷静な伯爵がいつその牙を剥くか、殺すつもりなどなかったと幾ら言い訳しても、国民は金獅子の家を英雄として祭り上げている。アシュレイの水面下での行動は見事だった。グレアムに生き残りがいた事をアレクサンドルが知ったのは、引退後、十数年が経ってからだ。共に年老いていた元伯爵と元公爵は、仲直りの証にワインを酌み交わしながら、ステルシリー創設者がグレアム男爵の末弟であると語り合ったのだ。

「私の父に味方はいませんでしたが、寧ろ幸せだったのかも知れません。表面上は私を慕う家族を、私は信用する事が出来ません。貴方はどうですか、ミスター帝王院」

アレクサンドルは生涯、息子以外にその事実を告げなかった。若くして襲爵した彼の息子は、愚かにもその事実を、アシュレイへの脅迫材料として胸に秘める事にしたらしい。いつアシュレイが裏切っても良い様にと、セシルの父は伯爵を信用しなかった。だから、公爵と伯爵の友好は、現在に至るまで遺恨が残る形なのだ。

「下らんな。俺の味方は俺以外に存在しない」
「ノアに似合いの言葉ですね」
「他人が何を考えているか、幼い頃から俺には聞こえている。…今では見えさえもする」

聡明と美貌、正に神に愛された灰色の一族。
レヴィ=グレアムの復讐に怯えた王室も、ヴィーゼンバーグも、今の男爵にはどれほど哀れに映るのか。今のヴィーゼンバーグは叶二葉に執着している。あれほどアレクセイを認めなかった者までも、今では前公爵を英雄だと宣うほどだ。それほどの力を得た二葉は、目の前の男に従っているらしい。

「それは羨ましい話です。けれど貴方にとって、その恵まれた能力は不自由ですか?」
「さぁ、考えた事もない。俺が出来ると言う事は、俊にも出来ると言う事だ」
「何故そう思うのですか」
「帝王院は才に恵まれている。曰くグレアムも同様らしいが、グレアムほど敵が多くない理由は偏に、帝王院の歴代当主が総じて人望に富んだ人物だったからだろう」
「手放しに愛する事が出来れば、手放しに愛される。美しい夢物語だこと」
「英国では考えられんか」
「あるとして、私には信用が出来ません。敬虔なカトリックでありながら神を信じていない私には、到底」

そろそろ、眺めている事に飽きてきた。
そもそもこちらには何の関心もない男は、美しい銀髪を乱れさせたままに、あちらこちらを覗き込んでいる。本当に見つけたいのであればもっと違う所を探すべきだと言っても、恐らく従わないだろう。また、無粋な事を言うつもりもなかった。

この国では、公爵も男爵も等しく『外国人』だ。

「…大事なものは、決して手放してはいけませんよ」
「それはそなたの経験則か」
「ええ。私は私の命を守る為に、新たな命を育む権利を放棄しました。今では、それだけが心残りです」
「ほう。女としての権利を放棄してまで縋りついてきた爵位を、誰に譲るか悩んでいるのか」
「賢い相手との会話は楽だと、久し振りに感じましたよ。ヴァーゴは底意地の悪さが増していくだけ、ベルハーツとは会話にもなりません。あの子達は、私を見下しているのでしょう」
「あの単純な男共にその評価下す時点で、確かに賢くはない」

流石に、ステルシリーソーシャルプラネット現皇帝は容赦がない。
日本で学生の真似事をしている事は知っていたが、汚れて蝶が巣と勘違いするほど髪が乱れる事にも構わず、とうとう排水溝の金網まで覗き込んでいるとは思わなかった。
懇切丁寧に何処かを覗き見ては、『俊』『俊』と囁いている所を見ると、探し人もまた、奇特な人間なのだろう。それとも、見つける気がないだけか。

「俊。しゅ…くしゅん!」
「Bless you.(御加護がありますよう)」
「くしゃみ如きで逐一魂を抜かれていては、1週間足らずで地球は空き家になるだろう。下らん迷信だ」

マジェスティルークが必死に探すのだから、透明人間であっても何ら可笑しい話とは思えない。

「イングランドでは、くしゃみをすると悪魔に魅入られると幼い頃に教わるのですから、真実は必要ではありません」
「屁理屈を宣う。まぁ、それも世界中然程変わらんか」
「そこは一度探したでしょう。貴方に怯えて逃げ隠れているのであれば、すぐそこに見える時計塔ではないですか?」
「スコーピオは既に探した。喧しい女が健やかに眠っている場で、騒々しく俊を探すのは控えたい」
「貴方にも苦手な女性が居るのですね」
「解釈の違いだ。東雲栄子は喧しいだけで、耳障り以外では害はない。建前では俺を宮様と呼ぶが、全身で『出ていけ害虫』と罵っている」
「貴方が心の中を読めると、知らないからでしょう」
「知った所で、あの女が態度を改めるとは思えんがな」

スタスタと校舎の報告へ歩いていく背を追う様に歩き始めると、すぐに見えてきた花壇に目の前の男が頭を突っ込んだ。これが本当にルーク=フェイン=ノア=グレアムだろうかと猜疑心が生まれたものの、口には出さない。ポーカーフェイスには自信があるのだ。

「俊。何処だ俊、俺が見えるか。いい加減出て来なければ、監禁するぞ」
「居ませんか」
「誘拐されたのかも知れん。何しろ俊は、大変愛らしい男だ」
「裸の子供を誘拐する物好きが居たとして、裸の人間を抱えて逃走すれば、とても目立つのでは?」
「一理ある」

頷いた若き男爵は、再び歩き始めた。
然し数歩歩けば何かに頭を突っ込み、植え込みやらゴミ箱やらを躊躇わず漁りまくるのだ。もう近寄りたくもない風体だが、その必死さは伝わってくる。
然しやはり、見つける気があるのか疑わしい。この難儀な性格を、今更変える事など出来ないだろう。信じられるのは二葉だけだ。あの子の口からは、真実が出る方が稀なのだから。全てが嘘だと思えば、何と素直な孫だろう。

「貴方がベルハーツに一目置いていると、ヴァーゴは言いました。本当ですか?」
「セカンド以上に愉快な男だと言う点では、相違ないだろう。セカンドより遥かに合理的な男だ。器用に仕事をこなし、何処までやれるか試しているが、泣き言をほざく所はまだ見ていない」
「賢い子です。ヴィーゼンバーグには何人もの家族が居ますが、ベルハーツは若い頃のアレクセイに良く似ている。ベルハーツの母親も、賢い娘でした」
「アレクセイとアレクサンドリアの兄妹は、坊っちゃまと奴隷ほど差があったと聞いたがな」

酷い言われようだが、否定は出来ない。
アレクセイが留学をして何年か経った頃、愛人の元を気紛れに渡り歩いていた夫が連れてきた娘だった。アレクセイの時とは違ったのは、産まれて間もなかったと言う所だ。

「あの子が父親に相談したんでしょう。留学と嘯いて、爵位を捨てるつもりだった」
「アーサー=ヴィンセント=アランバート=ヴィーゼンバーグは、一度は公爵の後継として選ばれた男だ。多少調べたが、面白い身の上ではあるな。あの男はエリザベート=マチルダ=ヴィーゼンバーグの姉、国王弟へ嫁いだエリーゼ=ヴィーゼンバーグが残した、」
「おやめなさい。それは、消し去らねばならない我が家の禁忌」

美しい姉妹がいた。
王室に嫁いだ長女を筆頭に、彼女らは美しい花嫁として嫁いでいった。

けれど国王弟へ嫁いだ長女は、何故か二番目の子供だけを里子に出したのだ。彼女の夫より、夫の父親である前王に良く似た息子を。そうしてその事実は確かめられないまま、闇へと葬り去られた。良くある話だろう、嫌になるほど。
そしてそれに慣れた自分もまた、嘘に塗れた社交界の住人だと知っている。

「ベルハーツが欲すれば、公爵では不足なのです。女王の義弟である私の夫は、アレクセイの代わりにアレクサンドリアを与えてくれました。…そうして罪深き私は、アレクサンドルを蘇らせた」
「下らん。俺がわざわざ記憶してやる必要はない。懺悔の真似事なら、教会でやれ」
「ふふ。この私に懺悔しろですか、手酷い方」
「高坂に会うつもりか」
「会って貰えるとは思いませんが、会ってくれるのでしょう。あの子は、私の穢れた爵位を欲している」
「高坂はファースト以外に関心がなく、セカンドは山田太陽以外に執着していないだけだ」
「ファースト?や…やま?」
「所詮、大した理由ではない。俺から言える事は、とっととつがわせれば片付くと言う事だけだ。あの騒がしい犬をどれほど神格化しているか知らんが、単純馬鹿に回りくどい真似をするだけ無駄」

翻訳が間に合わないので眉を顰めれば、耳を押さえた男は、その真紅の目を足元へ向けた。

「そなたらヴィーゼンバーグは遥か昔、グレアムを焼き殺したと言う。だがそれがどうした。俺には何の意味もない。俊も同じ事だ。忘れ去られた過去など、あれに負わせるものではない」
「貴方は何を言って…」
「面白い男がそなたを探している。セカンドが開いた回線を通して聞こえてきた。見つかりたくないのであれば、とっとと行くが良い」
「面白い男ですか…?」
「そなたら英国人は、我らを何と呼ぶか知り尽くしていよう。寄生虫だ悪魔だと、随分な言葉を並べて誹るに暇がない」

ぽつり・と。
鼻先を叩いたのは、雨粒だろうか。見上げてもまだ、白い雲間から僅かに眩い光が覗いている。

「あれは俺と同種だ」

















「通りゃんせ」
「通りゃんせ」

「此処は何処の細道じゃ」

「天神様の細道じゃ」



「さァ」
「吐き出す様に歌え」
「悶えのたうちまわる様に踊れ」





「俺だけが全てを知っている」















「マジェスティの生体反応が地上から消えた?」
「ああ。アンダーライン内部に降りたと言う訳でもない様だ」
「ちっ!裏切り者の炙り出しが終わっていない時に、御身に万一があればソーシャルプラネットは終わりだぞ!」

弾丸の様な英語が聞こえてくる。
余程慌てている様だが、第三者に聞かれている事に気づかないのだから、天下のステルシリー社員も高々知れていると言う事だ。


「…やぁっと、行ったかいな」
「ふぐ!ぬぬぬ!」
「あ、えらいすいません、何処ぞのどなたさん。いきなり出てくるから、つい口塞いでもうて」

中央キャノン最西端、離宮へ続く芝生の上の遊歩道から僅かに逸れた位置に身を潜めていた東雲村崎は、そんの僅かに開いていた窓の外を注意深く窺っていたが、騒がしかった外国人達が遠ざかって行った事を確かめると、羽交い締めにしていた男から腕を離す。
きな臭いにも程がある人影に気づいて様子を窺っていると、突如地下へ続く階段から上がってきた男だ。一般客の立ち入りを制限している場所から現れただけでも十分不審者だが、先程外に屯していた外国人達以上ではない。

「何だテメェと言いてぇ所だが、…アンタ東雲さん所のボンだろう?」
「あら?えっと、お知り合いでしたっけ?もしかして、うちのクラスの誰かの保護者さんですかいな?」
「俺ぁまだ独身だ、失敬な」
「ほな、どなたですの?」
「羽柴の餓鬼が、世話になってんだろ?」

久し振りに聞く名だと脳が認識する前に、勝手に体が動いた。
躊躇わず喉仏目掛けて手を伸ばし、落ちる寸前まで首を絞めた所で我に返り手を離すと、咳き込みながら壁に背を預けた男から滑り落ちた眼鏡が、スローモーションで視界に映り込む。
あわやの所で掴み取り、どう謝ろうか頭を巡らせながら背を撫でてやれば、すぐにバシッと振り払われた。まぁ、無理もないだろう。

「んの野郎…!先輩に向かってやんちゃしやがる!これだから東雲は…!」
「ほんますいませんでした!あの、これ眼鏡…」
「チッ!…ったく、叶の次男はこんな狂犬に親父の後釜をくれてやったのか」
「親父さんの後釜?」
「羽柴長頼が女房を連帯保証人に2400万の借金こさえて逃げた後、息子が一人残っただろ。羽柴を名乗ってても奴は愛人の子だから、YMDたぁ無関係だがな」

回りくどい物言いだと首を傾げれば、窓の外から笑い声が響いてきた。泥だらけの工業科が何事か騒いでいる様だが、随分楽しそうだ。

「女手一つで息子を育ててる女が、旦那の借金を返すなんて抜かしやがった。何であれこちとら正規の金利で賄ってるからには、可哀想だが取れるもんは取るしかねぇ。これでもギリギリまで融通を利かせたつもりだったが、私立に通わせてる息子の生活費と借金の板挟みで、無理をしたんだろう」
「それ、って、まさか…」
「見つけましたよ、宮様」

ひんやり、世界ごと凍らせる様な声が聞こえてきた。
絶対に振り返りたくないと顔に書いている村崎を余所に、眼鏡を押し上げた脇坂亨はひょいっと村崎の背後を覗き、片手を挙げたのだ。

「おう、久し振りだな有村」
「ご無沙汰しております、脇坂様。本日は宮様に何の御用ですか?」
「おいおい、様はやめろよ、様は。柄じゃねぇ…っつーか、お前は会長夫人付きの執事だろ?こんな時に何してんだ」
「宮様付きの馬鹿…コホン、執事達が騒がしいので、宮様をこうしてお迎えに上がったのです。宮様、奥様がお待ちです」
「…」
「宮様」
「だぁあああ!やっかましい、俺はそんなけったいな名前とちゃうわ!ボケ!ハゲ!気安く話し掛けんな、ばぁあああか!」

思いつく限りの暴言を吐き捨てたダサジャージは、天然パーマの髪を翻し、転ばん勢いで走り去っていく。まるで逃げている様だと目を丸めた脇坂の目前で、無言で口元を押さえたテールコートの男は、俯いた。

「…テメェ、何笑ってんだ気色悪い」
「失礼しました」
「明らかに今の、お前を見なかったぞ。何やらかしたらあんなに怯えんだよ、東雲財閥の跡取りが」
「何もしていません。敢えて言うとすれば、ヤキモチを焼いているんでしょう」
「あ?ヤキモチだぁ?」
「ほんまアホや思いませんか」

眼鏡を外した東雲家の執事長は、それまでの年齢に不似合いな貫禄を一気に消す。村崎が走り去った方向には見向きもせず、きっちりと締めていたリボンタイを外しながら、何処かヤクザに通じる様な笑みを浮かべた。

「死んだと思てたダチが生き返って、京都に逃げてる間にオカンの執事になってたら、そりゃ多少驚いたやろなぁとは、思いますが」
「そういえばお前、生まれは大阪だったな」
「その説はお世話になりました。借金がネックで義父との再婚を渋っていた母も、今では幸せにやってます」
「俺らは何もしちゃ居ねぇよ。耳を揃えて金持ってきたのは、テメェん所の母親だ」
「今、高等部に山田会長の曾孫が通ってるそうですね、先輩」
「あー、山田か。確かに居るわ。俊…帝王院を跡取りと同じSクラスだと」
「どんな子です?遠縁でも、一応身内なんで気になって」
「なんつーか、平凡っつーか、出来れば関わりたくねぇっつーか…」
「は?」
「山田の血より榛原の血が強過ぎるっつーか、…皇子が作ったワラショクの跡取りってな。榛原の嫡男だ。判るだろ?」
「ああ、面倒臭い餓鬼ですか。然し、うちの宮様と仲が良いらしいんですがね」
「テメェん所の坊ちゃんも、一癖二癖ありそうだなぁ。さっき、嵯峨崎の次男坊を凄ぇ目で睨んでたぞ」
「嵯峨崎?」

脇坂の言葉に眉を跳ねた執事は然し、しゅばっと窓に張りついたかと思えば、硝子にピタッと顔を張りつける。何かキモイと思っているヤクザの前でガラリと窓を開くと、外に頭を突き出し、クールそうな執事は満面の笑みを浮かべたのだ。

「いさおちゃん!」
「ふぁ?あれ?あれ?あれれぇ?何で?!えっ、アキラ君?!えーっ、お仕事中じゃなかったの?!」
「会長が奥様とご一緒だから、休憩中ーっ!」

厳つい作業着の熊…失礼、恐らく工業科の教師だと思われる脇坂と同世代の男が、どすどすと芝生の上を走ってくる。厳つい顔で乙女の様に頬を染めて、一言で言えばめちゃくちゃ気持ち悪い。

「朝メール出来なくてごめんね、アンテナが壊れてたみたいで」
「気にしなくて良いよ。話は聞いてたけど、ずっと忙しそうだね」
「部活棟の補強の目処はついたんだよ〜。あとは地下作業があるんだけど、生徒達も疲れてるから早めにお昼ご飯食べさせたくてさ」
「じゃ、一緒にランチしよ」

然しホスト真っ青な笑みを浮かべた執事は手を伸ばし、熊作業着の頬についた泥を綺麗なハンカチで拭ってやった。どう見てもただならぬ関係の様だ。見たくもないが、見えたのだから仕方ない。

「あっ、誰かと思えば亨君?僕の事、覚えてる?」
「あ?とおるくんだと…?」
「いさおちゃん、脇坂さんと知り合いなの?」
「やだなぁ、僕だよ僕、卒業まで同じクラスだった鈴木勲」
「鈴木…?あ?おま、あのイサオ?!」
「へへ、やっぱり亨君だったのか〜。僕はこの通り最上学部で建築学んでから、教師やってるよ。君は金虎の君の家に就職したって聞いてたけど、アキラ君の知り合いだったんだね?」

じとっと睨んでくる執事には悪いが、同級生の久々の再会くらい見逃して欲しいものだ。考えたくはないが、昔はもう少し可愛げがあったクラスメイトは今、その髭面の分際で、一回りは離れている恋人がいるらしい。他人の色恋が判らないヤクザなど、残念ながらこの世には居ないのだ。金と色があっての極道なのだから。

「おい、羽柴輝」
「今は有村です。ご存じでしょう、わざとらしい」
「どうやって見た目ラオウ中身乙女のイサオを落としたんだ?」
「や、やだ!落としただなんて、亨君ってばもうっ、破廉恥!」
「人様のハニー取っ捕まえてラオウたぁ何やねん、腰言わせたろかこんヤクザが…!」

凄まじい勢いで胸ぐらを捕まれた脇坂は、そう言えばこの執事はあの女の従者だったと思い出したが、後の祭りかも知れない。

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