帝王院高等学校
拝啓、お神様。何だか曇ってきました!
「ママ。ヴィンセント様の携帯電話から、着信がございます」

久し振りに長く歩いたと、表情には出さずに噛み締めていると、無粋な台詞が投げ掛けられた。今この瞬間、最も聞きたくない男の名前ではないかなどと舌打ちしたい気分でも、表情に出してはならない。物心つく前に両親から教わった躾は、百年近く生きているとすっかり魂に根づいている。

「私の耳に入れる必要がない報告です」
「申し訳ございません。何処か休める場所で、ティーブレイクは如何ですか?」
「…暫く一人にして下さい」

いけませんと形ばかり制止した従者の表情に、微かな安堵が滲んだ。
少しでも無作法があれば首が飛ぶと怯えているのか、慣れない海外に気を張っていたのかは定かではないが、女性だけの付き人達は間もなく去っていった。

日本には四つの季節があると言う。
雨が多い季節は夏の少し前、海外からの要人が頻繁に口にするロンドンの雨の多さは、やはり珍しいのだろうか。


ああ、空が遠くに見える。
飛行機の小窓から望む広々とした海の蒼さも美しかったけれど、空や山並みの異なるブルーコントラストがまた、鮮やかだ。


『セシル』
『何ですか、大叔母様』
『綺麗でしょう、この宝石は珊瑚と言うのですよ。神秘的な海が作り上げた、真っ赤な宝石…』
『Bloody jewel?』

これだけでも、二度目の来日に価値があるかも知れない。
日本は太陽の島だと言うが、青の国でもあるだろう。見渡す限り緑と青に愛された白の楽園、帝王院学園のパンフレットに記されている一文だ。


「緩やかな階段さえ、こんなに辛いとは…」

一度目は、ほんの数時間で帰国してしまった。覚えているのは空港の中だけ。
あの頃は今よりずっと若かったのに、なんて勿体ない事をしてしまったのかと悔やんでも、過ぎた時は戻らない。そう言えば、この数年は自宅内での活動範囲も狭い。

「…一人になるにも、あんなに長い時間飛行機に乗らなくてはならないなんて、なんて恨めしい我が身でしょう。不出来な甥、見栄えばかり取り繕う姪、…お父様の愛人遊びの罰でしょうね」

流石に故郷ですら一人歩きが出来る立場ではないが、日本は特例だと言えるだろう。
畏れこそ抱かずとも、出来る事ならば関わり合いたくないステルシリー現皇帝が根を張っている帝王院学園は、どんなに恐ろしい所なのかと想像したものだ。資料で幾つもの写真を見ているが、それでも何処か物々しい地獄の様な場所だと思っていた。

「…まるで絵画の宮殿のよう。なんて美しい学園なのかしら、雲間から差し込む光から息吹すら聞こえるわ…」

それがどうだ。
白を基調に、敷地の四方が緑に囲まれおり、赤や茶の煉瓦が綺麗に道を描いている。目に触れる看板や施設表示には必ず英語表記がなされていて、従者の案内がなくても迷わないに違いないと確信している。
帝王院学園の玄関に当たるラウンジゲートから歩き始めると、真っ先に見えてくるらしい純白の建物の群れは、地下駐車場から上がった先の受付で手渡されたパンフレットによれば4棟あるそうだ。最も手前にある建物はヨーロッパ建築の様に見えたが、他の三つは、その三つで一つのオブジェを描いているかの様に見えたものだ。

「あの子達は、此処で生活しているのですか。…さぞヴァーゴには辛い試練でしょうね」

残念ながら地下駐車場の受付からエレベーターに乗り込むと、歓楽街の様なエリアに出てしまった。アンダーラインと名づけられた広大な地下街だと説明は受けたが、国際科が来客を催す為の飾りつけもBGMも、どれも下品で学園の評価を落としかねない。付け加えて、その時は鬱陶しい男が傍に居た。誰かに子守りならぬ夫守りを押しつけたかったのは本音だが、そこへ至るまでの経緯が宜しくない。

エリザベート=セシル=ヴィーゼンバーグは、90歳を過ぎても失われていない美貌をそのままに、スカイブルーの双眸を細める。己の来日は極秘裏ではあったが、どうしたって何処かから露見する事は覚悟の上だ。然しグレアム程の相手に知られるのであればまだしも、叶一族の耳に入っていたのは気分が悪い。
如何にも来日を歓迎するとばかりに押しかけてきた叶一族達は、リンが暴れていると宣った。イギリスでの休暇中に日本へ帰省すると言うのは知っていたが、何故男子校に彼女がいるのかと頭が痛くなったのは、小一時間ほど前の話だ。曾孫に甘い夫が真っ先に駆けつけたがるのは火を見るより明らかで、叶文仁の娘とは言え、現在は二人共ヴィーゼンバーグの預かりである。二人がトラブルを起こせば、対処する役目は叶ではない。

(あのじゃじゃ馬娘、ランと別行動をする度に面倒事を…)

母親に似たに違いないと、現在世界一周旅行中の女を思い出した。文仁との結婚生活が半年にも満たなかった、出鱈目な女だ。然し、叶から双子をイギリスへ送ると言う話が纏まった折り、一度だけヴィーゼンバーグの屋敷へやって来た事がある。

『あの子達が自分で決めた事だから、今後一切、母親の私が口を出す事はないわ。煮るなり焼くなり好きにして頂戴。女王になろうが死のうが、それはあの子達の選択した結果ですから、受け入れます』

美人ではあったが、叶桔梗ほどではない。
快活にして賢い物言いだったが、ビデオレターで一度だけ一方的に話した桔梗に比べれば、品性を感じなかった。

『だけど、アンタが私の娘を蔑ろにする事は認めないわ。公爵だか何だか知らないけど、イギリスの道理が日本人の私に通用すると思わないで頂戴』

誰が頼んだと言うのか。
跡継ぎの事など、数年前に勝手に放棄した二葉が脅迫じみた真似をしてくる以前から、何ら問題視していなかったと言うのに。身内や王室は、アレクセイが死んだ頃から何度となく口出しして来たが、表面上賛同している振りをしていただけだ。少数派が多数派に反発すれば下劣だと謗られる、イングランドではそれが常識だった。
他人に対して思いやりと謙虚さを以て接する事が美徳だと、日本でも似た様な教えがあるそうだ。死んだ息子が死ぬ前に、そう言っていた。

(あそこへ行けば、マチルダの怒りを受け止める事が出来るかも知れない)

遥か彼方に聳え立つ厳かにして秀麗な宮殿は、生徒らの学び舎だと聞いている。老いた体で何処まで行けるか判らないが、死ぬまでには辿り着く筈だ。忌々しい事に、我が家では怪我さえしなければ、長生きが約束されている。

『…私が女でなければ、あの子を産んであげられたのでしょうか』

古い話だ。跡取りは男でなければならないと、爵位を継ぐ前は何度言われたか知れない。女は出産する。男より多くの血を流す。結婚相手だと、従兄を連れてきた亡き父は随分甥を可愛がっていたが、亡き母だけは『妊娠してはいけない』と恐ろしい顔色で言った。
何十年前の話だろう。それでも未だ色褪せない。

『マチルダがアメリカから生きて戻ったのは、妊娠しなかったからなのよ…!あの子から直接聞いたのだから間違いないわ、それなのにどうして男爵以外の男の子供を…っ』
『お母様…?それは一体、どう言う事ですか?』
『…貴方は、母様の言いつけを守れば良いのです。守ってくれますね、私の可愛らしい子』

まるで呪いの様に、母の言葉が繋ぎ止めたのは命だったのか、それとも。
中央委員会と言う組織で役職についている孫達は、あの目立つ建物に居るのだろうか。確かめた訳でもないのに、あそこへ行ってみようなんて。まるで落ち着きのない子供じみた真似ではないか。


「…ふふ」

笑えてきた。何も楽しくないのに、それこそ笑い話だ。自宅では独り言も自由には呟けない立場で、もう何十年生きてしまっただろう。次の誕生日で91歳だったか、92歳だったか。息子や娘の年齢は判るのに、自分の年齢が判らない。

「マチルダは三つの頃にやって来た。アレクサンドリアは二ヶ月。まだお乳が恋しかったでしょうに、酷い母親から産まれてしまったものね」

生きていれば60歳を迎えている息子と、それより何歳か若かった彼の妻は、共に早々と天国へ召されていった。聡明で美しく強い義娘は、今頃天使から嫉妬されているかも知れない。あんなに美しい娘は、天国でも大層目立つだろう。

「いつも撮られるばかり、カメラなど触れた事もありませんが…。もう少し貴方達の写真を残してあげたかった」

けれど、私の娘も大層美しいのだと。空に向かって少し大きな声を出してみれば、二人は笑うだろうか。

「風邪も引かなかった貴方に比べて、一歳を迎える前にアレクサンドリアは死の誘惑を受けた。一ヶ月も高熱が続いて、麻疹と肺炎…何人の医師から私は、幾つの言い訳を聞いたのかしら」

あんなに小さな子供にすら、公爵の地位を望む身内達は牙を向いた。恐らくは毒だと知ったのは、随分後の話だ。彼女の熱が下がり全てが終わる頃に、漸く判った事。あの時は、全てが遅かった。

「貴方は61歳、アレクサンドリアは38歳。ふ。…あの時の娘を死んだ事にして、モルディブへ逃がした私を、アランは初めて『悪魔の様な冷血女』と言いました」

私は貴方の子供を産む気がないの。
結婚式の直後に妻から吐き捨てられた男は、どんな気持ちだったのか。見ない振りをしてきた事を、最近良く考える。

『我が家の女は代々、若くして死んでしまう。マチルダ大叔母様が長く生きられたのは、相手がグレアムだったからでしょう』
『…だったら、君の言う通りにしよう。僕は君に何も望まない』
『判っているのですか。こうなってしまってはもう、離婚は許されませんよ』
『離婚はしない。何があっても絶対に、だ。…セシル、君は死ぬまで僕の妻だよ』
『愚かな事を…』

彼は出来た夫だった。
母親の願いで子供を諦めてしまえば、王室も親族も、爵位は婿ではなく一人娘に継がせるべきだと口を揃える。拒否権はなかった。夫が襲爵を拒否してしまえば、尚更だ。爵位に興味があるから結婚したのでないのかと、何度思った事か。

出来た夫だった。
結婚から十年が経つ頃、女公を望んだ筈の親族達の中で、身勝手な後継者争いが始まってしまった。一度は後継権を放棄したとは言え、前国王の血を引いている夫が最有力である事には変わりはない。
子がないセシル=ヴィーゼンバーグに万一があれば、ヴィンセント=ヴィーゼンバーグはその体に流れる血に相応しい、正当な権利を得るだろう。

『セシル』
『その子は、何ですか』
『いつかこうなると思って、従弟の腹違いの姉に産ませておいたんだ。彼女の立場は大分苦しい様でね、幾らかの借金がある。海外に逃げるだけの金を渡してやったら、この子だけ置いていってしまった』
『…は。貴方がそう差し向けたのでは?』
『好きに解釈すると良い。何度望まれても僕は、彼女と結婚する気はないんだ』

身勝手な夫。身勝手な女から離れる気がない、愚かな男だ。

『夫の不始末は妻の不始末と言う事で、今日から君が母親になっておくれ』
『その子の名は』
『そう、そうなんだ。困った事に名前がなかった。小金で従いそうな馬鹿女を選んだ所為で、産むだけ産んで、メイドに世話をさせていたらしい。それも、犬小屋の中で』
『僕はアレクセイ、です』

可哀想な子。
大人の身勝手に振り回されて、顔色を窺っている。貼り付けた様な笑みが痛々しい。満足に言葉も教えて貰えなかったのか、たどたどしい自己紹介は余りにも健気だった。

『君、アレクセイは犬の名前だろう?』
『そう、だけど、僕の名前だって、お母様が…』
『…お母様?母親は育児放棄したのでは?』
『恐らくメイドの事だ。この子は、同居する犬とメイド以外に面識がない』
『………アラン。貴方と言う人は、何て惨い事を…!』
『はっはっ。見なさいアレクセイ、冷静なお母様が目を吊り上げたぞ。やれ怖い怖い。叱られる前に父さんと風呂に入ろう』
『マチルダ』

痩せっぽちで、歳の割に小さかった初めての息子。養子に迎える事に異論がある筈もない。けれど、それがどんなに浅はかな考えだったのかを知ったのは、後の話だ。自分は箱入り娘、世間知らず、判っている。いつも、全てが遅い。

『犬と同じ名では哀れです。貴方は今日からアレクセイ=マチルダ=ヴィーゼンバーグと名乗りなさい。私はエリザベート=セシル=ヴィーゼンバーグ、貴方の本当の母ですよ』
『僕の、お母様…?』
『ゆっくり体を清めて、綺麗なお洋服に着替えていらっしゃい。お母様が、美味しいお菓子とお茶を用意しておきますからね』
『セシル、君に料理が出来るのかい?』

ああ、幸せだった。
金と権力に固執する親族がどう動くかなんて、その時は少しも考えなかった愚かな女の、些細な幸福の記憶。

息子は聡明に、そして美しく成長していった。
けれど彼には公爵の地位など、何の価値もなかったに違いない。何度となく命を狙われれば、それも無理はない。彼自らが立場を確立する為には、王室との接点は必要不可欠だった。
そしてアレクセイは見事に、我が身を張って王室の姫を守り、単身での栄爵を許されるまでに至る。つまりは、ヴィーゼンバーグの悪魔は黙らざる得ないと言う事だ。

「けれど貴方はこの国で幸せを見つけ、己の代理を求めた。我が子を悪魔の巣窟に送らず、後継者を得る為には、新しい弟妹が出来れば良い」

全く、確かに天使の様な顔をしていたが、あの子もまた、悪魔の血が流れる公爵家の人間だったのだ。自分の幸福の為に妹を作り、何の責任も果たさずに日本へと行ってしまった。どうして恋人が妊娠していた事を、せめて自分にだけは打ち明けてくれなかったのか。そんなに爵位が邪魔ならどうして、そう言ってくれなかったのか。

「貴方の所為でアレクサンドリアは一度死にました。マチルダ、反省していますか?」

産まれたばかりの金髪の娘は美しかった。
アレクセイよりもまだ愛しいと思えたのは恐らく、魔女と歌われる金獅子女帝の卵子を用いて生み出された、本当の我が子だからだろう。

『すまないね、セシル。本当の浮気はマチルダの時の一度きりと誓っていたから、君と僕の子を作ってしまった。産んだ母親がヴィーゼンバーグとは無関係だった所為で、少し難しい問題が生じたかも知れない』
『…貴方の悪巫山戯には、もう慣れました。いつの間に私の卵子など…』
『そこはジェントルマンの秘密だ。さぁ、今度こそちゃんと抱いてやってくれないか。君がマチルダに触れられない事を悔やんでいた事を、理解している』

出来た夫、出来た息子。
貴方達のお陰でこんな私も母親になれた。けれど可愛い娘は、天国から迎えがやってきたそうだ。そんな事を、許す筈がないのに。

アレクセイの時以上に、アレクサンドリアを養子へ迎える事へは反対が強かった。可愛い一人娘だと叫びたかったが、当時既に子供が産める年齢ではなかった事から、秘密にすべきだと判断したのだ。
今なら遺伝子鑑定をすれば、誰も口を挟めない事を知っている。

「つまりそれは、…ベルハーツの地位を固めてしまう愚行に他ならない」

全ては後の祭り。捨てられるものならとっくに、公爵の名など捨てている。この穢れた地位を譲るには、孫達の何と愛らしい事か。

「私の跡を継ぐのは、ヴァーゴで良いのです。アレクセイの怒りの産物。幾つもの命を犠牲に、それでも生きるしかない哀れな子。あの子には私の血が流れていない。冬臣と文仁に遺伝しなかったアランの瞳、女王の身内たる証を宿す悪魔の従者」

叶冬臣は大層聡明な子だ。それはそうだろう、息子にそっくりな顔をした、息子の妻にそっくりな性格の子だと思う。
叶文仁は大層美しく、そして優しい子だ。あの子には悪魔の地位を継がせるつもりはない。あんなに兄思いの優しい子なら、得られる全ての権利を兄へ譲ろうとするだろう。叶桔梗が愛した男にそっくりな冬臣には、イギリスではなく、日本が良く似合う。


「…何て似合いでしょう。ネイキッド=ヴォルフ=ディアブロ、貴方は私の跡を継ぐに相応しい権力を手に入れてしまった。ヴィーゼンバーグは乙女を恐れている。王室は貴方に平伏すでしょう、逆らう事など思いつきもしない」

叶二葉だけが、傷つかずに爵位を得られる立場だ。あの子にはヴィーゼンバーグの血が流れていない。アレクセイやアレクサンドリアの様な二の舞は避けられる。

「アレクサンドリアは哀れでした」

果たして奇跡的に助かった娘に、高熱の後遺症が残るかも知れないと、医師は無慈悲にも言った。そんな事が知られれば、今度は公の場で誰かが『殺せ』と言うかも知れない。ヴィーゼンバーグに置いておけば、天使の様な赤子を悪魔の生贄にする様なものだ。

「私はあの子を一度殺し、屋敷から遠ざけました。そうしてあの子を陥れた犯人を密かに探し出し、この手で殺したのです。簡単でした。吸血鬼を殺す様に、銀の弾で眉間を撃ち抜いただけ。それから、木の杭を胸に」

親族を集め、彼らの目の前で行った死刑執行は、セシル=ヴィーゼンバーグの恐ろしさを知らしめるには十分だった。王室では数年前に王が入れ替わり、女王の誕生に喜ぶ国民の影で女の恐ろしさを十二分に知っていた為、以降、公爵家に逆らう者はない。
勇猛公爵とまで謳われた祖父に比べれば愚かな父親だと思っていたが、それでもグレアムを抹殺した勇猛公爵と共に出陣したと言う武勇伝があったから、ヴィーゼンバーグの名声は彼のお陰でもある。

「後遺症が心配されたアレクサンドリアが成長するまで、暫く懸りましたよ。言葉を覚えたのは5歳になる頃でしたが、娘の復讐を果たす為とは言え、私はあの子を一度殺した女。今更私が母だと名乗るには、この手は汚れていました」

神よ。
貴方の元に、息子とその妻がいるのでしょう。


「私は、アレクサンドリアを男として迎え入れた。聞こえますかマチルダ、アレクサンドリアは13歳まで己を男だと信じていたのですよ。…ふふ、女に怯える我が家は、男だと聞くと油断したのでしょうね。愚かな事」

けれど娘はまだ、そこへは行かせられません。奇跡的に助かったあの子には、私のこの呪われた獅子の血は、遺伝しなかったのですから。


「…それなのにベルハーツに覚醒遺伝してしまったのは、私への罰ですか?」

バベルの塔の様だ。あの校舎は。
神の高みへと近づいた人間は、神の怒りに触れて神雷の裁きを受けたらしい。そうして天まで届かんばかりに聳え立つバベルの塔は、崩壊したのだ。

「いえ。今は一時も早く、孫の姿を目に焼き付けておきましょう。写真に残せないなら、この目で…」

薄暗い階段を背後に、遠くに見える校舎を見つめたまま歩き始めた瞬間。ガサリと音を発てた茂る草葉の向こうから、それは姿を現した。

「何だ。騒がしいと思えば、こんな所に外国人がおるのか」

真っ白だ。
髪も肌も、纏うブレザーも白い、まるで天国から降りてきたかの様な男が真紅の双眸で射抜いてくる。囁く様な声は異国の言葉だったが、息子が留学を希望した40年ほど前から、実は密かに独学で学んでいた言葉でもあった。

「可笑しい事。貴方も、この国から見れば外国人でしょう?」
「成程、確かにそうだ」
「………何をしているのですか?」

たった今、立ち並ぶ木々と茂る草の隙間からにゅっと飛び出してきたかと思えば、若い男はその美貌のまま、ガサガサと草を手で掻き分けている。何かを探している様に思えるが、彼の外見が、その奇妙な光景を益々喜劇へと彩るのた。

「探している」
「何を」
「俊」
「シュン?」
「肌以外の全てが黒い、俺の黒曜石」

肌と言う事は、少なくとも生き物の様だ。
人の目を盗んで勉強してきた為、日本語の実地はこれが初めてで、ヒアリングが本当に合っているかまでは自信がない。

「困っているのですか」
「俺が困っていない様に見えるのであれば、網膜に映る些細な情報に躍らされているだけの事。現在に至るまで不自由を感じた事はないが、我が身は表情に恵まれていない様だ」

ガサガサと乱雑な行動をしている癖に、静かな声音だ。頭や肩が汚れていても、少年と呼ぶ事が躊躇われる男の纏う気品は、少しも色褪せていない。流暢だが、別段早い訳ではない日本語の翻訳に追われている内に、舌打ちの様な音が聞こえてきた。

「目に見えるものが世の全てなら、俺はとっくに興味を失っている」
「?」
「とてもあの時の暗黒皇帝と同一人物には見えなかった。淡い桜の花弁が彩る見慣れた世界で、遠目では分厚い眼鏡がその表情を妨げていた」

途中、翻訳が間に合わない事に気づいたのか否か、彼は余りにも流暢で美しいクイーンズイングリッシュを介す。日本人は欧米人を比較的アメリカ人だと錯覚しがちだと聞いているが、聞き慣れないアメリカ訛りではなく、耳馴染みのある正しい母国語だ。

「貴方は私を知っているのですか」
「知っているが、興味はない。稀の祭典で訪れる人間は等しく全て客人としてもてなせと、学園長代理は我々に仰った」

ならば誰であれ客だ、と。流暢な英語で宣った高校生は、然し持て成す所かヴィーゼンバーグ公爵には『全く!これっぽっちも!興味ございませんッ!』と、全身で宣言している。生い茂る夥しい広さの草の中へ突入しては、もぞもぞガサガサと不格好な音を響かせていた。
ヒラヒラと、踊る様に逃げていく蝶達が、余りにも哀れではないか。木陰で羽根を休めていただけだろうに、無粋な侵入者に休憩を妨げられたのだ。

「…生きているなら、名前を呼べば返事をするでしょう。闇雲に手探った所で、時間を無駄に費やすだけです」
「一理ある。俊、聞こえているだろう。俊。出て来い、今なら酷い事はしない」
「…返事がない様ですね。犬や猫ならば返事をすると聞いていますが、他の獣でしたか」
「獣ではない、俊だと言っている。黒髪黒目だ」
「日本では、大多数の人々の髪と目が黒色でしょう。それだけでは見つけても認識しようがありません。他に特徴は?」
「眼鏡を掛けている。氏名は遠野俊。今は随分と扇情的な出で立ちをしている筈だ」
「センジョーテキ?」
「素肌に、黒地の下着が一つ。今の俊は肌色率が高い」

困った。
石膏像の如く美しい顔で、何をほざいているのだろう。近頃の若者は、こんな子供ばかりなのだろうか。いや、アレクセイも若い頃は反抗こそしなかったものの、虫も殺さない顔で判り難い皮肉を言ったものだ。
下品だからおやめと宥めても、アメリカ国旗デザインのTシャツや、『和心』と描かれたTシャツをパジャマの代わりにしていた。当時、息子はそれを『真心』と言っていたが、今ならセシルにも判る。あれはマゴコロではなく、ワゴコロだ。底意地が悪いかと思えば詰めが甘い、そんな子供だった。

「探しているのは、人ですね。それでは裸で歩き回っているのですか」
「それがどうした。男子校では、ままある日常風景だ」
「私の理解が及ばない文化です」
「理解を強制するつもりはない。今の俺は俊以外に毛程の興味はないが、廃れた国の女王の飼い猫に、理解出来る事柄などそう多くはあるまい」

高校生の時に、彼が落馬してしまったのは王室が定期的に開いている馬乗りの場の事。暴れ馬に翻弄された王室の末娘を助ける為に、我が身を顧みず馬を走らせ身を呈して彼女を庇ったアレクセイは、その時に単身で叙爵している。
セシルの実子ではなくとも嫡男として認められ、成人後の襲爵を女王から直接許されたのだ。あの子は英雄だった。

少なくとも、爵位を継いだ頃までは。

「ふ。私の正体を知って、その態度ですか。礼儀を重んじる国だと思っていましたが、日本はアメリカ以上に無粋ですね」
「世界中、そう違いはあるまい。俺は全ての国や部族をこの目で確かめてきたが、無能な人間はどの国でも無能、有能な人間は何処で生まれようと有能だ」
「No, absolutely not.(いいえ、それは違います)」
「何が言いたい」
「全ての子は、生まれながらに才能に愛されていたでしょう。心を育む過程で、愛された記憶があるか、ないか…」

愛してやれば良かったのか。
娘に孤独を強いてでも、先に失う事を恐れた母親の様な歪んだ愛情でなければ。そんな事、あの時は知らなかったのだ。いや、本当はつい最近まで見て見ぬ振りをしてきた、狡い女。

「私も、探しものをしているのです。それが辛い選択なら、我が子に強いてはならない。その為には犠牲が必要不可欠」
「成程、想定外ではあるか。箱入り娘だと思っていたが、そこまで日本語が堪能とは知らなんだ」
「失敬な。娘扱いされる年齢ではありません」
「セカンドは、そなたを『無知なババア』と呼ぶ」
「Second?」

唐突に、目の前の男の名に思い当たる。
白いブレザーの襟元には、Sを象るゴールドバッジと、王冠を模したクラウンエンブレムがあるではないか。初めて日本の地で初めて自ら話し掛けた日本人バトラーから手渡されたパンフレットに、中央委員会の表記があっただろう。

(ヴァーゴ、ベルハーツ、ファースト=グレアム。…そして最後に、)

四名の写真が並ぶ役員紹介で、唯一顔を晒していなかった生徒を、確かにこの目で見たばかりだ。
そしてそれこそが日向と二葉と、イギリスでは真紅の悪魔と噂されているステルシリー現皇帝の従弟を従える、地球の覇者であると。

←いやん(*)(#)ばかん→
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