帝王院高等学校
ずぶずぶと飽きずに沈んでいきましょう
「君、大丈夫?」
「…ぅ」

目も口も塞がれ、ご丁寧に手足も縛られている。
このまま誰にも見つけて貰えず死ぬのだろうか、などと考えついた頃、女の声と共に目隠しが外された。

「ごめんね、うちの人達が」
「む、ぅ!」
「騒がないで。文ちゃんなら酷い事はしないと思うけど、…冬ちゃんが怒ったら殺されちゃう」

茶髪の短い髪を幾つかのヘアピンでセットしている少女は、パーカーと揃いのハーフパンツにスニーカーと言うボーイッシュな出で立ちだ。栗色の髪の毛に似た色合いの瞳は零れんばかりに大きく、申し訳なさそうに下がった眉も彼女を彩っている。

「もう少し、我慢してて。曾祖父様が到着したって騒いでるから、もう少し経てば人手が薄くなると思う。私だけじゃ、見張りを任せて貰えないんだ」
「?」
「リンが居たら事情は変わってたんだけどね。…多分、リンは私に怒ってる」

ボソボソと、耳元で囁かれると擽ったいものだ。
宝塚敬吾は微動だに出来ないまま、少女に促されて壁側へ態勢を変える。縛られているものの座らせられているので、尻這いで反転しただけだ。けれどそうすると、少し離れた位置に立っている黒服の男達に背を向け、視界が壁で塞がれる事になる。

「君、セキュリティカメラに映ってたよ。地下プールで何してたの?」

何故そんな事を知っているのかと目で訴えれば、通じたのか否か、彼女は背後に注意を払いながら益々顔を寄せてきた。

「口、塞がれてたら喋れないよね。さっきまでダウンしてた学園のアンテナが復旧したんだって。…運が悪かったんだよ君、アンダーラインから侵入したランクBに捕まるなんて」
「?」
「冬ちゃん…私達のボスはね、取引を持ち掛けられたんだ。ヴァーゴの前のサブマスターが反逆者みたいで、悪巧みしてる。…って、言っても判んないでしょう?」

素直に頷けば、暗い表情だった人は小さく笑う。

「おい、何をしているラン」

そこへ戸口から声が掛けられ、弾かれた様に離れた彼女は立ち上がった。

「何でもない。学園の生徒に傷なんてつけたら、大殿の怒りを買うでしょ?せめて楽な態勢にしてあげただけだよ」
「そんな事をお前が気に病む必要はない。勝手な真似をしているリンを見つけたら、お前達は屋敷へ戻るんだ」
「私達はヴィーゼンバーグに押しつけられた人質だもん、命令される謂れはないんじゃないの?」
「月の宮の命だ。子供は大人しく親に従え」

押し黙った少女は、太腿辺りに降りていた両手を軽く握り込む。背中しか見えないが、悔しげな感情が伝わってくる様だ。それから暫く沈黙が続き、俄に戸口の向こうが騒がしくなる。

「マダムヴィーゼンバーグも来日しただと?!それは間違いないのか?!」
「リンが月の宮にメールを送ってきたそうだ。アーサー=V=ヴィーゼンバーグは、セシル公爵と共に学園内に居ると…!」
「おのれ、英国の犬め!よもや宵の宮が招き入れたのではあるまいな!」
「そんな事はどちらでも良い。グレアムの騒ぎに便乗したとなると、思いの外、イギリスはアメリカの動向を掴んでいる事になろう。…裏切り者はあの男だけではないのかも知れんな」

壁を瞬きせず見つめていた宝塚は、バクバクと跳ねる心臓を必死で飲み込んだ。きな臭いにも程がある大人達の声は、微かな足音と共に遠ざかっていく。
静かになった所でチラリと顔だけ振り返れば、いつの間にか戸口に居た少女が外を覗き込んでいる後ろ姿が見えた。埃臭い物置の様な所に閉じ込められているのは判るが、窓が一つもないので、恐らくアンダーラインの業者用通路の何処かだと思う。

「…駄目。階段の所に見張りが残ってる」
「う?」
「数時間置きに出入口が封鎖されるって話だから、閉じ込められたら最悪だよね…」

アンダーライン内部は複雑に入り組んでいて、まるで蟻の巣の様に迷い易い事で知られている。出会いの少ない寮生活が長くなるにつれて、業者と関係を持つ生徒は少なくなく、光炎親衛隊の中にもセフレを持つ者は多かった。
毎晩想い人である高坂日向から呼ばれる訳ではないのだから、彼らなりの妥協なのか、欲求不満の現れなのかは定かではない。柚子姫と謳われる隊長が日向の正妻扱いだが、彼らはそんなに甘い関係ではないと宝塚は思っている。然し宮原が他に恋人を持っている様子はなく、隊員達も浮気紛いのセフレを宮原には隠している様だ。

「プリンス…マジャスティのセキュリティは完璧だね。日本でこうなんだから、あっちはもっと凄いセキュリティなのかな。…リンにも見つけられなかったセントラルへの入口は、ヴァーゴなら通れるんだ…」

なので、日向以外の恋人と密会する時、親衛隊の生徒らはアンダーラインに潜り込む。
セフレだか恋人だかが業者や警備員だったりすると、IDパスを借りて一般の生徒が立ち入れないエリアまで降りる事が出来た。そうなると宮原の目は勿論、風紀委員会の目も届かない。当然、日向にバレる心配もないだろう。
親衛隊員らの浮気の真似事は、彼らのセフレであれば知っている。噂にならない筈もなく、とっくに宮原の耳にも届いている様だが、彼が隊長として処罰する様子は一度もなかった。光炎親衛隊の入隊に条件はほぼなく、脱退もまた自由。それなのに数が減らないのは一重に、いつか日向から呼ばれる事があるかも知れないからだ。他の親衛隊では有り得ない事だが、日向は親衛隊員のナンバー順に相手として選んでいるらしい。1日に3人程度が呼ばれ、校舎か寮か、場所が違うだけで皆平等に数時間ほど恋人の様に扱って貰える。そんな希望が叶うのだから、辞めていく人間が少ないのも無理はなかった。

「…っと、そんな事はどうでもいっか。ごめんね、ほっといて」
「う」
「騒がないなら、猿轡外してあげるけど。ちょっとでも騒いだら、…判るよね?」
「ん。んっ」

そんな彼らが惨い制裁を行う時に用いるのもまた、アンダーラインだ。
誰の目も届かない地下で夜な夜な行われるきな臭い出来事は、制裁を受けた本人しか証言が出来ない。痛めつけられた挙句に脅されると、被害者は揃って口を閉ざした。酷い時には退学を選び、事件は悉く表沙汰にならない。

「手、痛いよね。流石にそれは外してあげられないんだ」
「ぷはっ」
「小さな声で喋って。君、名前は?」

そんな恐ろしい場所に閉じ込められているのに、滅多にお目に掛かれない様な美少女と二人きりの状況は、恐怖をはるかに凌駕している。嬉しいと言えば幾らか語弊があるが、少なくとも悲しくはない。
直視するのも憚られる少女の膝小僧が、折り畳まれるのを迂闊にも目撃した。猿轡を外してくれる時に、片膝をついただけだ。然し見てはいけないものを見た様な気になってしまうのは、異性に免疫がないからだろう。自分は、健吾とは違うのだ。

「け、いご。こ…た、宝塚敬吾…っ」
「へぇ、宝塚歌劇団の宝塚と同じ字?」
「ぅ、ん。敬吾、は、敬う、と、吾輩は猫であるの、吾」

両手両足を縛られていて、良かったのかも知れない。
ドキドキ騒がしい心臓を押さえる事も出来ないまま、宝塚は恥ずかしげに俯いた。クスクスと、鈴を転がす様な笑い声が鼓膜を震わせる。誰かの笑い方に似ている。

「良い名前だねぇ。私のお祖母様が生きてた時、お祖父様とのデートはいつも宝塚歌劇団の舞台だったって、パパが言ってたな。お祖母様は体が弱かったから、宝塚音楽学校に通う夢を諦めたの」
「きっ、君のお祖母サンなら、き、きっと、美人だネ」
「うん。でもママも美人だよ。パパとはずっと別居してるから、たまにしか会えないんだけどねぇ」
「そ、そッか。ぼ、僕も、お母サンとは、3歳から会ってなイ、よ」
「どうして?」
「え、ット…」
「言いたくないなら、言わなくて良いよ。でも此処は何にもなくて、退屈だよね」

戸口に向かって振り向いた少女は、壁に背中を預けた。座り込んでいる宝塚ではなく戸口を眺めているのは、誰がやって来ても良い様に見張っているのだろうか。

「あ、そうだ。私はね、ラン」
「ら、ラン、さん」
「ランで良いよ。藍色の藍って書いて、ランなの。私はお祖母様と同じ花の名前で、双子の片割れは鱗」
「双子なんダ…」
「本当はKのイニシャルじゃないといけなかったのに、ママがゴリ押しして市役所に届け出ちゃってね。だから文仁…パパは、言う事を聞かないママを追い出したのよ。上手く行く訳ないって初めから判ってた筈なのにね。パパは偉そうだけどA型で、ママはB型だもん」
「フフ」
「あ、笑った」

戸口を見据えていた瞳が、真っ直ぐ見下ろしてくる。

「A型とO型だったラ、仲良しだったヨ」
「そうなの?」
「僕のじーちゃんと、ばーちゃん、ずット仲良しだったモン」
「私、B型なんだ。B型の女の子とO型の男の子って、相性良いのかな…」

呟く様な声音と共に、くしゃりと顔を歪めた少女は口元をパーカーの袖で押さえた。泣くのを耐えている様に思えた宝塚は、口をパクパク喘がせるが、ただでさえ喋るのが得意ではないのでソワソワと体を揺らすばかり。手足が不自由な今、何が出来ると言うのか。

「わ、判んないケド、僕ッ、O型だヨッ」
「そっか。じゃあ、私達が仲良くなれたら、相性が良いって事になるね」
「う、うんっ」
「あ、あと、健吾もO型だケド、B型のア、アイツと仲良しだかラ、相性は悪くないヨ」
「アイツ?」
「う、うん、酷い奴なんダ。優しいのは健吾だけ、で。ぼ、僕は…っ」
「どうしたの?ねぇ、泣かないでよ敬吾君、私まで悲しくなっちゃうよ」
「ぐすっ。ぼ、僕…」
「うん」
「け、健吾と仲直り、したいだけ…っ」
「喧嘩したの?」
「し、してなイっ。でもアイツが…!」

言い淀めば、パーカーの袖をグイッと引っ張った少女からゴシゴシと頬を擦られた。我慢していたつもりの涙が、とっくに零れていた様だ。

恥ずかしい。恥ずかしい。
大好きな家族から邪魔者だと言われたくなくて、邪魔者だと判っているのに、見て見ぬ振りをしてきた。ずっと、実母に捨てられた瞬間からもう捨てられたくないと、自分の立場ばかり取り繕って生きてきたツケだ。
優しい健吾はいつも笑っている。喋るのが苦手なら、無理に喋らなくて良いと言ってくれた。下手な話をちゃんと聞いてくれる。

けれど、苦手だからと無言を通せば社会に適応出来ないのだと、初めから指摘していたのは藤倉裕也だけだった。健吾の様に笑って流すでも、省吾の様に甘やかすでもなく、彼だけが繰り返し正しい事を言っていたのだ。今なら判るのにどうして、逆恨みの様な真似をしてしまったのか。

「ぼ、僕、うっうっ」
「大丈夫、大丈夫だよ。…あ、ちょっと待ってて」
「?」

パーカーの大きめなポケットに片手を突っ込んだ少女は、分厚い箱の様なものを取り出した。トランプケースに似ているが、パッケージには西洋風の童話じみた絵柄が描かれている。

「タロットって知ってる?ママの趣味で、私とリンがママから教えて貰ったのは、これだけなんだ」
「ぼ…僕、それ知ってるヨ。占いで使うんだよネ?」
「私がリンに勝てるのは占いだけ。これで占ってあげるよ。僕…私の占いって、凄く当たるんだから」
「ランさん、僕って言っタ?」
「…女の子の一人称が僕だと、変?」
「んーん。父サンも、ステージの上で指揮する時は、『私』って言ってル。そ、それに、健吾は顔文字喋るヨ」
「顔文字って、あの顔文字?メールの?」
「変でショ。でも、健吾が喋ると顔文字が見えるんだヨ」
「ふふっ、嘘だぁ」
「楽しそうだねぇ、ラン」

ヒヤリ、と。
世界が凍る様な笑い声と共に、ガシャンと鎖が擦れる様な音がした。弾かれた様に見上げれば、小刻みに震えた藍が壁にペタリと張りついたのが見える。

「キ…キハ、姉様…っ。どうして?!そ、外には皆が…!」
「片腕がなくてもねぇ、出来ない事の方が少ないんだ僕には。ねぇ、もう一人の僕が何処に行ったか、君なら知ってる?」

青だ。
まるで海か空の様に甘い、ラムネの様なサファイアの瞳が笑っている。余りにも美しい人の顔の中央で、真っ赤な唇を吊り上げて。

「冬ちゃんがナイトの邪魔をするなら、僕は怒らなきゃ駄目になるんだ。僕達は空蝉なのに、宮様に逆らうなんて可笑しいでしょう…?」
「っ、お、お祖母様が来てるって…!だから、冬ちゃんの計画は頓挫するよ!」
「馬鹿だねぇ、冬ちゃんが失敗する訳ないじゃない。アキやナイトなら止められるかも知れないけれど、僕の猫ちゃんは真っ赤な鼠に殺されてしまったんだって。真っ赤な鼠なんて、レッドスクリプトみたいだねぇ。一体誰が、僕の邪魔をしたのかな」

クスクスと、鈴を転がす様な笑みは震えている少女と良く似ている。
けれど戸口に佇む、その存在感に反して気配が全くない人の無機質な美貌は、まるで生気を感じさせなかった。

「し…白百合に、似てル…?」
「ふふ。僕の事?だったら違うよ、僕はママにそっくりだって、パパが毎日褒めてくれた。だから、二葉の方が僕に似たんだよ。だって僕は、あの子より先に産まれたんだからねぇ?」

そうだ。
叶二葉に余りにも、良く似ている。


























「初めまして、山田太陽です。って言っても日本語じゃ通じないですかね?」

大人しく山田太陽に捕まっている叶二葉は微動だにしない。所か、何故か頬が赤く染っている気もする。沈黙しているのと引き換えに、二葉が観察する様な目で見つめてくるのが、太陽には判った。

「Welcome to Japan. Call me Yamada.(ようこそ日本へ、山田って呼んで下さい)」
「Thank you Mr.Yamada.(有難う、山田君)」
「You'll be always welcome. I am vice president of SASEKI, it looks like student council.(何でもするんで申しつけて下さいね。俺は左席委員会の副会長なんです。生徒会みたいなものでして)」
「Nice, can you help us?(ほう、私達を宜しく頼めるかね?)」
「I’ll do my best for all of you.(勿論です)」

その聡明な頭を、珍しく悩ませているのだろうか。悉くが平凡で、いっそ哀れな程に弱々しかった後輩が、まるで主役の様に存在感を示そうとする光景は、正に喜劇の様だろう。
背後から宮原や伊坂が様子を伺ってくるのが判った。彼らにもフランクに言葉を掛けている紳士は優しげな笑みを浮かべているが、やはり何処か二葉の愛想笑いに似ている。

「二葉先輩って、お父さん似だったりします?」
「私が、ですか?…さぁ、前公爵は私が産まれる前に死んでますからねぇ」
「前公爵なんて他人事みたいに呼ばないで下さいよ、お父さんでしょ?」

不機嫌を隠さない二葉は曖昧に肩を竦め、凍える眼差しで姪を睨みつけた。
何でこんな所にいるんだと責める様な眼差しだが、太陽の手前、声に出すのは我慢しているらしい。そうは見えないが、彼なりには。

「先輩のお祖父さん、結構気さくですねー。イギリス人でしょ?」
「産まれはそうですが、恋人が出来る度に転々としているので。私も彼を見るのは、ざっと6年振りです」
「6年も会ってないんですか?」
「来日する前に公爵へ挨拶に行った際に。まぁ、偶然でしたけれど」
「俺なんか帰省する度、小遣い貰いに行ってますよ」

何も彼も知った様な気になっていたが、太陽が知る二葉の情報はそれほど多くなかったらしい。ステルシリーと言う悍ましいステータスで脳が興奮したのか、少し舞い上がっていた様だ。

「二葉先輩が不機嫌なのって、お祖父さんが居るからってだけじゃないですよね?」
「は?」
「理事長は判ってたんですかねー。…何にせよ、公爵って王族の親戚って事だよね。俺みたいな庶民がまともに面会出来る相手じゃない、か」

呟くと、二葉は軽く眉を潜めた。
簡単に口説けるシュミレーションゲームでは面白味がない。攻略甲斐がなければ、シナリオエンディングを観る前に萎えてしまうからだ。


『俺はお前を王子にするぞ』
『無理だよ』
『俺がすると言ったんだ。お前は黙って躍れ、道化師の如く』

情報量は多過ぎるくらいで良い。
提示された交換条件の真の意味に気づかなければ、踊らされている事に気づかずに済むからだ。疑わずに済むからだ。自分には相応しくない配役だなどと、絶望を覚えずにいられる。

ああ、蝉が鳴いている。
ミンミンと、チリチリと。焦げる様に、擦り減る様に。


「何でお二人がこんな所に居るのか、左席委員会の役員として詳しく説明して貰わないといけないんですが。目を瞑る代わりに、一つお願い出来ますか?」

シンプルに考えろ。
次から次に起こる全てが作者の仕業なら、キャストに拒否権はない。

「リンさん。今の、お祖父さんに通訳お願いします」
「…はぁ?何でアンタなんかに命令されなきゃなんないのよ、この私が!」
「あはは、貴葉さんより若く見えるだけで面倒臭そうなのは一緒だねー。流石は十口、これで出来損ないだって言うんだから、空蝉って何なんだろ」
「山田太陽、何でアンタがキハを知ってんの?!アンタ一体、」
いいから黙って従えよ

純白のワンピース、白い肌の美少女。単純に男として嫌う要素がない異性に笑顔で宣えば、直前までの反抗的な態度をすぐに忘れ去った同年代の少女は、マネキンの如く表情を失った。

『朝を包む光は眩いだろう。つまりは夜があるからだ』
「俺の名前を知ってるかい。人間誰もが、俺なくしては生きられないんだよ」
『太陽は月を照らし、月は太陽を追い続ける。但しそれは、地球に限った話だ』
「例えば、アルビノでもない限りはね」

振り返った太陽は肩越しに、宮原と伊坂へ微笑み掛けると、


「すいません、宝塚先輩の事はお任せします」

およそ彼に似つかわしくない静かな声音で、囁いた。
























「蝉の企みか」

陽が、翳った。
見上げればいつの間にか灰色の雲が、空を覆っている。風がやや湿った様な気がするのは、雨が近いからだろうか。

「『お前』が悲しめば逃げ出す事を、あの子は知っている」
「毒を消しただけだと言うだろう。事実、花子が作ったのはバイオキャットだった」
「暗い穴の中から逃げ出す為に」
「閉じ込めた事はない。人は誰しも、自由だ」
「お前以外はな。ヨシュア」
「は!」
「石頭なナイトに、現在のステルシリーを説明してくれるか」

恐らく、笑っている男の名前は口にしない方が良いのだろう。
同じく、にこりともしない異常に眼光の鋭い少年の名前もまた、口にする勇気は最早ない。アメリカ全土が震え上がる神皇帝の前で跪いた時の様に、今も、乾き切った口の中で舌が貼りつきそうだ。

「げ…現在の元老院は、前皇帝の円卓の柱だった人間が6人残ってます」
「内訳は?」
「ネルヴァ、シリウスは退位時に事実上引退した為、元老院には属してません。キング=ノヴァの退位以前に死んだライオネル=レイの後任は、ファースト殿下が適任年齢に育つまで代理として、アビス=レイに命じられました」

嵯峨崎嶺一の事です、と。

「キング時代に区画保全部マスターだったアシュレイ伯爵は、現在元老院の相談役として顧問の地位にあります。然し事実上、立場はマジェスティの世話役です」

明らかに日本人ではない容姿で呟いた男は深々と平伏したまま、流暢な日本語で言葉を続ける。無表情で聞いている男は漆黒の双眸をそよぐ木々の葉へ注いだまま、風に躍る髪を片手で掻き上げた。

「ふ、ルークの世話役がフルーレティか。神話や聖書から名をつけたがるアシュレイらしい。それで、さがさきとは?」
「雲隠の事だ」
「ほう、ミラージュの息子だな。あれこそシンフォニアプロジェクト初の成功例だったと、セントラルサーバーに記載されていた。然し、何故彼がレイリーの後釜に収まった?」
「監視と束縛」

怪訝げに首を傾げた銀髪の男へ、黒髪の男は囁く。的確な指摘だと感嘆めいた溜息一つ、何処まで知っているのかと改めて息を呑む。

「仰る通りです、ナイト=ノア。当時はマジェスティキングの慈悲ではないかと、実しやかに囁かれたと。エアリアス=アシュレイは二十歳を迎える前、学生でしたがステルシリーの社員ではなかった。現在35歳のシスター=テレジアは、クライスト=アビスと駆け落ちを企んだ当時、13歳」
「例えば」
「は?例えば、とは?」
「彼女がゼロを産んでいれば、ファーストは2番目だな」

囁く様な声音には、恐ろしい程の威圧感がある。
悪い冗談だと笑い飛ばすには、額を晒した男の素顔からは神々しさに似た畏怖を感じずにはいられない。

「…嵯峨崎零人の事を仰っておられるのであれば、あの男は間違いなくエアリアス=アシュレイが出産した息子です。名古屋市内の病院に出産履歴がありました」
「目に見えるものをそのまま信じるのか」
「は?あ、の?」
「ならば俺は、極有り触れた人間に見えるか?」

瞼に刻まれた深い二重は幾重にも交差して、吊り上がった意思の強い双眸を何倍にも尖らせる。

「目に見えるものが全て、か。まるでいつかの俺の様だ」

目の前の男が15歳の高校生だと知っていても、簡単には信じられない。

「…まァ、イイ。簡単に全てが判ってしまうと、楽しみが半減するからな」
「楽しみ…?」
「この退屈な世界を支配する、無情な時間軸の」

ひらひらと。
木々の隙間を抜けてくる落ち葉に乗じて、ひらひらと。一匹の蝶が飛び去って行った。

「つまり、元老院の派閥はほぼ二極化しているんだろう?」
「は…は、はい。血統を重んじる派と、統率符を重んじる派。前者はファーストとセカンドで派閥が分かれ、元老院の過半数は議論が尽きません」
「ナインのシンフォニアだと言うロードが作ったルークを認めた訳ではないが、統率符を軽んじる訳にはいかない、と言う事か。やれやれ、我が社はいつから社訓を軽んじる様になったのか」

クスクスと、楽しげに肩を震わせた銀髪の男はダークサファイアの瞳を細める。ビクッと肩を震わせた男の傍らで、飛び去る蝶を無言で見送る少年は、真新しいシャツのボタンを一つ一つ留めていく。

「オリジナルの私が聞いたら、現12柱を斬首刑にした所だな」
「ほう、火炙りじゃないのか」
「趣味が悪い事を言うな、ナイト。お前は本当に夜人に似ている」
「お前は俺の曾祖叔父を知らないだろう、アダム」
「アダムとは、私とマチルダの遺伝子でシリウスが作ったナインの複製だろう。同じく、その女性体がイブだったか。全く、オリオンの方がやんちゃだと思っていたが、やはり双子だ。面白い真似をする」
「帝王院帝都には生殖機能がないのは、ステルシリー全員が知っているそうだ」
「だから議論が白熱するのだろう?『ならばルークは産まれて来るべき子ではない』」
「イエス=キリストだって産まれて来たじゃないか。彼は神の子か、大工の子か」

静かな声音だ。およそ15歳の子供とは思えない囁きは、遠野俊の唇から零れ落ちる。
楽しげに笑う傍らの男は風に靡く銀糸には構わず、中央委員会会長に余りにも似た美貌で首を傾げた。

「カインとアベルは兄弟で殺し合い、神は無慈悲にも生贄の肉を献上せよと宣った。世界は七日で出来たそうだ」
「世界を掃除する為に主は洪水を起こした、だろう?」
「くっく。我らグレアムは嵐の夜、船でフランスから離れロンドンへ移り住んだ」
「お前のAIはどう考える?」
「ナインはルークを擁護するだろう。あの子が銘を与えたのは帝王院秀皇であり、お前じゃない」

何の話をしているのだろうと、邪推するのも憚られる。
片や古びた肖像画と数枚の写真が残っているだけの、ステルシリー創設者にそっくりな男。片や、ただ着替えているだけで春の穏やかな景色を凍らせる、少年。その二人の会話に割り込めるのは、恐らく風だけだ。

「ファースト、セカンド、どちらにせよ内部分裂が起きるのは、ルークが強過ぎる為だ。元老院がルークの帰還をせっつく理由は明らかだろう」
「跡取りだ。神威を正当後継者と認めていない人間を黙らせるには、確固たる地位を用意するしかない。二葉とイチを争わせず穏便に事態を片付ける為にも、神の子は必要だろう」
「私のオリジナルが一人目の妻を娶ったのは、19歳だったとアーカイブに記録されている。アメリカで企業したのは16歳だから、皆に『次は失った家族を取り戻せ』と縋られたに違いない」
「一人は寂しいからな」
「お前にもそんな感情があるのか」
「さァ。一般論だ」

遠野俊は囁いた。およそ15歳とは思えない静かな声音で、

「俺には予定されていない事だがな」
「結婚する気がないのか」
「帝王院の跡取りならもう存在している。遠野もそうだ。俺は何処にも必要じゃない」
「完璧に計画通りと言う訳だな」
「…さァ?」

何の感情も滲まない表情で。アンドロイドよりもずっと、それは人間味がない。

「27歳で二人目の妻、36歳で三人目、最終的に40歳を越えて最後の妻を手に入れた私の生涯は、そう悪くないものだったと演算結果に示された。絶対的覇者である事がルークの利点にして足枷ならば、ナインはそれを背負わせた己を悔やむかも知れない」
「結果は?」
「ノアの方舟で、ノアを逃がせ」

あの子の幸せの為に。
銀髪の男が囁けば、漆黒の眼差しを細めた俊が小さく笑った。

「…だろうな。俺もそう考える」
「だから言いなりになるのか」
「意見が一致しただけだ。俺の存在は、困らせるらしい」
「困ると言ったのか、ナインは」
「気弱で自分勝手で欲しいものに手を伸ばせない、極々何処にでも存在する平凡な子供。俺が作った『遠野俊』は、求められる事を恐れて逃げ出した。結果はそれが全てだ」
「そうと判っていて、何故そんな自分を作り出した?」
「…」
「期待したのだろう?騎士にも女王にも変わる事が出来る最弱のポーンが、どうプロモーションするのか」

お前は期待したんだ。
笑いながら囁いた男のダークサファイアを静かに見上げ、ノアの瞳は細められる。

「そんな筈がない」
「何故?お前は私達のキャラクターをアーカイブする中で、自らの内側に私と夜人を作り上げた。お前には今の私以上に、在りし日の私達が見えた筈だ」
「…違う」
「そうしていつしか、己の計画の矛盾さに気づく。お前を毎晩責めた夜人の声は、」
「俺は空っぽだから」

ひらひと。



「洪水を生き残るのは、自由に泳げる生命だけだ」

どうして蝶は、ああも自由に泳ぐのか。

←いやん(*)(#)ばかん→
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