帝王院高等学校
広い空の下で僕らは絶望を歌う
視界を彷徨く『白』に吐き気がした。
俺の網膜を汚す権利がある『白』は、あの人だけだと信じて疑わなかったいつかの話だ。

「ミ、ミッドナイトサンを見なかったかい」

おどおどと、怯んでいる事を隠しきれていない癖にその男は、恐らくは足を踏み入れるのも躊躇われる言わば『アウェイ』で衆人監視に晒されながら、それでも馬鹿の一つ覚えを繰り返す。
先月にも似た様な台詞を聞いた覚えがあったが、顔を覚えていないので同一人物である確信はない。人間は皆、同じ顔に見える。女は誰もが弱い生き物にしか見えず、『神の従者』以外は悉く無能な雄だ。

『ファースト、お前の世界は狭いなぁ』

顎髭を撫でながら鷹揚に笑った金髪の男は、いつか言った。

『空に興味はないのか?』

ライオネル=レイ。
彼は生涯独身を貫くと宣言し、とうとう90歳にして養子を招いた男だ。頼んでもいないのに定期的に会いに来ては、対外実働部長相手に『ジジイ』と呼んでも怒らない。

『お前の我儘なんて可愛いもんだ。…オリオンや、夜人に比べれば』

彼だけは、クライスト=アビスの烙印を押された犯罪者を赦したそうだ。
元老院の全会一致で処罰が決まっていた筈の日本人は、監視名目で一人の女と強制送還された。今知っているのは、その程度の事だ。

誰もやって来ない忘れ去られた教会に残った寂しい女は。まだ泣いているのだろうか。アダムと言うネームプレートだけが残された、古びたベッドに縋りたついたまま。


「ミッドナイトサンの姿が見えないんだ」
「…どちら様ですか」
「What?!(え?!)」

ほら、見た事か。

「今のって日本語かしら」
「そうだよ。Who are youって言った」
「流石ケルベロス、容赦ない皮肉だわ」

クスクスと、ただ眺めているだけの他人がやはり他人事の様に笑っている。この場に最も相応しくない、白衣姿の院生はそわそわと落ち着きなく周囲を見回したが、一度息を吸い込むと胸元で十字を切った。左脳主義者にしては似合わない、信心深い行為ではないか。

「申し訳ない、僕は英語と…スペイン語を少しばかりヒアリングが出来る程度なんだ。英語でお願い出来ないだろうか」
「英語」
「え?」
「は。英語だと?その糞程東訛りのそれをEnglishっつーなら、ブリティッシュが喋るクイーンズは極東訛りっつーこったな」

クスクスと、また視界の端から嘲笑が響いてきた。
偏差値では明らかに劣る文系集団は、たった一人で語学部の領域へ踏み込んだ異邦人を興味津々に観察しているのだ。まして、普段は感情が欠如しているかの様な理系人間がこれほど狼狽えた表情を晒しているのだから、楽しくない筈がない。

格好の餌食だ。
晒し者同然の秀才は、今頃退屈を持て余す言葉遊びが大好きな右脳主義者の玩具として、幾つかのポエムのモデルになるのだろうか。はたまた、ドラマティックな噂話のヒーローとして語られるのだろうか。

「題して、『三頭狼に食い殺された生贄』」
「は?!」
「Will be your pronoun from today.(テメーの代名詞だよ)」

片言じみた英語で呟けば、鳩が豆鉄砲を食った表情で白衣は沈黙した。
語学部には白衣を纏う生徒はいない。好む本は物語か歴史書で、退屈を感じない。全てに答えを求める理系とは違い、曖昧である事さえ美徳だと嘯いているからだ。

「おい、計算機」
「ケ、ケルベロス。僕は計算機じゃなく、リチャード=テイラーだ…」
「テメーの面は見飽きた。そのおめでたい頭で考えろ、セカンドが俺のテリトリーに一歩でも入り込んでりゃ」

ぐしゃり。
積み重なったレポート用紙の一つを眺めながら握っていた万年筆を握り潰せば、悲鳴こそ飲み込んだものの飛び跳ねた金髪は、益々青褪めていく。

「It will his end. Because, I hate heart.(そこで終わりだ。何せ俺は、左が嫌いだ)」

左側のこめかみを叩きながら吐き捨てた皮肉は、どうやら正しく通じたらしい。
比喩だ。心臓、つまり左脳主義者に対するただの皮肉、通じなければそれだけの事。けれど語学を馬鹿にしているとしか思えない男は、転び掛けながら凄まじい速さで逃げていった。よれよれの白衣が慌しく走り去る様子を、誰もが目を丸めて見送っている。

「ぷっ」
「はっはっはっ、こりゃあ良い!見たか、ケルベロスがイブサンローランのペンをまた折ったぞ!」

耐え切れずに吹き出した生徒らは口々に、今のは酷いなどと他人事の様に謡いながら、負け犬数学者の噂話の構想を始めている。酷いのはどちらだと思わなくもないが、言っても無駄だろう。

「今笑った奴らはレポート再提出」
「ええ?!」
「ちょ、横暴よファースト!」
「何かほざいたかハゲ共」

折れた万年筆から滴る真っ赤なインクが汚した右手を振りながら、採点を終えたレポートの束を左手で振り払った。テーブルから巻い落ちていく紙吹雪を唖然と眺めている誰もに、先程までの嘲笑はない。

「物好きな数字偏執狂を笑ってる場合か?高々5ヶ国語覚えたら単位と成績を保証してやるっつってんのに、一番良かった奴がたったの3ヶ国語だと?俺を舐めてんのかクソが、全員再提出だ」

言葉を失っている誰もに何の興味もなかった。
けれど、生い茂る木々のざわめきに紛れ、クスクスと響くわざとらしい笑い声は癇に障る。

「…何処に隠れてやがる、偏執狂」
「クレイジーとはまた、酷い言われようですねぇ。…おや、何処を見ているんですかグレアム君」

信じ難い事に、その声は足元から聞こえてきた。
嫌々立ち上がり、ベンチの下にある排水溝の金網へ目を落とせば、にゅっと白い指が飛び出してくる。

「よいしょっ、と。どうもグッドイブニング、君の流暢な日本語に誘われてやって来ました」
「もう二度と日本語は喋らねぇから、あの世に帰れ」
「嫌ですねぇ、あの世にはまだ行った事がありません。阿呆テーラーはとっくに見えなくなりましたか?」
「知るか。…で、テメーはンな所で何してやがる。とうとう汚物と共に流されたか」 
「区画保全部のサーバーをジャックして、大学の地下水道と繋げさせました。これで中央区から気軽にやって来れますよ」
「気軽にシね、酸素に詫びろ。環境が汚染されるから気安く吸うな」
「おやおや、好きな子を苛めてしまうのは健全な男子の証拠。照れなくても宜しいんですよ、僕に会えたからと言って」

虫唾が走る様な台詞を流暢な日本語で宣いながら、外した金網の下から這い出てきた真っ黒な男は、男と呼ぶには綺麗過ぎる顔立ちに満面の笑みを浮かべていた。青と緑の飴玉じみた双眸で言葉を失っている一同を見回し、ひらひらと手を振ってやるのだから流石としか言えまい。
黄色い悲鳴は間違いなく、黒髪に向けられている。男女問わずだ。

「君も秘密の抜け道を通ってみたくはありませんか?」
「失せろ」
「おや。枢機卿は喜んでお入りになられたのに」
「…は?」
「ですから、枢機卿が。地下道に。それはもう、意気揚々と」

何をやらせているのだ。いや、言っても無駄だろう。

「兄様が来てんなら先に言え!何処だ、温室だろ?!」
「さぁ、ブライアンに聞いたらどうですか?君より先に探してそうですからねぇ」
「あんの馬鹿教授、まだ兄様に付き纏ってんのか!ぶっ殺す…!」

地下にも地上にも、あれより美しいものは存在しない。
照りつける太陽を初めて見た時も、広々と広がる青い大空を初めて見た時にも、何も感じなかったのは、あれより美しいものではなかったからだ。

「君のその熱苦しい情熱は、リチャードにそっくりですよ」

親愛なる宇宙の揺りかごを待つ、神の子。
いつか貴方が笑う手紙を書きたいと、愚かにも思ったのです。




「ハロー、兄様!」
「…健勝で何よりだファースト」
「今日は何の本を読む?!僕、学長から図書館の鍵を貰ったんだ!」
「ああ、私が返した鍵か」
「あ…だよね、兄様はもう全部読んじゃってるよね」

人は私を天才と呼びました。
他人は皆、愚かに見えたものです。けれどそれは、過去の話。


「語学はもう良い。他に私の退屈を補うものを探しに出掛ける」
「だったら僕も、ついてく!」
「…そうか」

いつか夜の国で一人ぼっちだった自分の元にやってきた貴方のお陰で、今は寂しくはないけれど。貴方はきっと今もまだ、寂しいままなのでしょう。寂しいと言う言葉を知った自分よりも、寂しいと言えない貴方の方が可哀想に思えるのです。


「好きにするが良い。気紛れな仔猫の如く」

ねぇ、とんだ笑い話でしょう?





















夜中に決まって、声を押し殺した悲鳴の様なものが聞こえる。
動き盛りに安静にしろと言う無慈悲な医者は、入院生活が如何に退屈なものか知らないのだろうか。

例えば、微かな物音で目が覚めてしまうほどには。

「まーた、変な夢見てんの」

毎晩、魘されたまま目覚めない寝顔へ話し掛ける。世間一般の子供の様に学校へ通った事のない高野健吾にとっては、それが日常となりつつあった。大人に紛れて、天才だ天才だと持て囃されながら楽器を奏でる生活から一転、黙々とリハビリをこなして退院許可が出るのを待ち続けている。

「今日リハビリの時に一緒だった心臓病で入院してる婆さんがさ、天才なら死にかけてもクラリネットくらい吹けるんじゃねーかって言う訳」

揺さぶって起こしてやると、負けず嫌いなのか素直じゃないだけか、当の本人は『夢なんか見てない』と頑なに言い張るからだ。

「何で見ず知らずのババアにンな事言われなきゃなんねーんだと思ってたら、トイレから出てきたお前を見てスゲー吃驚してたんだ。お前って、マジ有名なんだな」
「…う」

魘されている寝顔へ手を伸ばし、長めの前髪を梳いてやる。固めの黒髪を良ければ、形が良い額が晒された。嫌に印象深いエメラルドの瞳は、長い睫毛に縁取られた瞼の下だ。

「俺は夢とか見た事ねーからどんな感じか判んねぇけど、どーせなら楽しい夢の方が良いよな。何でお前、怖い夢ばっか見んの」
「う、ぁ」
「良し良し。何も怖くねぇから、大丈夫」

数えるのも面倒になったのは、十何回目の夜だったか。奇跡の復活と持て囃され、地元の新聞社からパパラッチが忍び込む度に院内が慌しかったのも、もう随分と昔の話だ。そろそろ自宅の内装を忘れつつある気配もするが、複雑骨折の完治にはまだ暫く懸かるのだろう。
仕方ない事だ。痛くないから大丈夫だなどとほざいても、徐々に面会の間隔が空いていく母親は、近頃目も合わなくなってきた。多忙な父親はメールや電話こそマメにくれてはいるが、引く手数多の売れっ子楽団を率いて今も何処かの国でタクトを振っている。

「お前、あんなでっかい家があんだから、あっちに帰りゃ良いのに」

退屈な入院生活は、一人だったらもっと地獄だったに違いない。
目の前で母親を亡くした可哀想な子供は、ドイツではかなり有名だ。地元で親しまれている貴族の一人息子で、黒髪に緑の瞳の母親は元軍人だったそうだ。聞いてもいないのに話してくれる看護師も、特別室を借り切っている子供に興味津々らしい。

「お前の父ちゃんの伯父さんってのが、失踪してんだって?皆はそいつが伯爵家を乗っ取ろうとしてたから、消されたんだって噂してるっしょ」

だからと言って差程興味はなかった。特に人の噂話などと言うものは、殆どが嘘なのだ。聞こえてくるあらゆる音の中で、嘘をつかないのはいつも、音楽だけだった。

「判るよ。一人ぼっちはさ、きっと寂しいもんな」

無意識で腹を撫でた。
グロテスクな傷跡は成長と共に薄れるだろうと、何の確証もないのに宣う医者は、この傷跡を見る度に悲しそうな目をする子供のケアには気が回らない。外科医に精神的処置を求めるだけ無駄なのだと、漸く最近判ってきた。

「ぅ」
「…歌ってやっから、何の夢も見ずに朝まで寝てな。俺さ、本当は歌も結構上手いんだぜ?」
「か、ぁちゃ」
「お前の母ちゃんはもう居ねぇから、思い出さなくて良いっしょ」

この手から零れ落ちた楽器に未練はない。
いつか初めてバイオリンを弾いた日、弓が弦を震わせた瞬間に一瞬呼吸を止めた父親が、奇妙な笑みを浮かべた事を知っている。(嬉しいのか)(悲しいのか)(良く判らない表情だった)(あの時初めて見た)(あれが最初で最後だった)

「悲しいもんは全部、忘れちまえ」

いつか初めて鍵盤を叩いた日、白と黒が並ぶ低コントラストの世界で色がついていたのは、指だけだった。譜面も読めない、立つのがやっとな幼子が本能のままに鍵盤を叩くと、母親は全ての表情を消して、声もなく泣いたのだ。(我が子の才能を喜んだのか)(それとも我が子の才能に嫉妬したのか)(例えば、一瞬でも我が子が愛しい男の子供だと信じるだけの証拠になったのか)

『この家にある楽器は今日から、全部自由に触っていい』
『…もう少し小さなピアノを買ってあげるから、トイレの練習の前に、文字の勉強をするわよ』
『お前は天才だ』
『貴方は天才、ね』

初めて覚えた文字は『C』、次に『D』。ABCを学ぶ子供達より一足飛びに音階を文字として覚えると、聴こえてくる全ての音を奏でる事が簡単に出来てしまった。全ての音を音階で記憶する能力は、勉強にも発揮される様だ。何も彼も、世界の全てが五線譜の様に見えてくる。

『『健吾』』

ああ、宇宙は音の洪水で満たされている。
けれど音のないものは、全く判らない。例えば人の表情が奏でる感情、その意味、心の裏側。
音になる事が出来ない、全てのものが。

創世記。
神は人に蝕まれ汚れた世界を、洪水で洗い流したらしい。

ならばどうして、人の数だけ音も、洗い流してくれなかったのだろう。

『け、ケンちゃん』
『うん。無理に喋んなくて良いからな、敬吾』
『で、でも、ぼぼぼ僕、上手になり、たイ』
『良いんだよ、お前はそれで。つーか、基本的にこの世って煩ぇじゃん』
『う、るせ?』
『ん、超絶耳障り。だからお前くらいは、俺をイラつかせんな?』
『う、うんっ』

優秀な耳がこの両手を天才へと昇華させるなら、この手が動かなくなればただの凡人になれるに違いないと。信じていたのだ。


『…親から持て囃されるのもやっかまれるのも、面倒臭ぇっしょ』

他人が注いでくれる期待の数だけ、自分と言う形が削れていく様で。











「それがお前の物語の、序章か」
「序章なんて格好良いもんかね?」
「次は?」
「…気づいたら、目を合わせられなくなってた」

原因は判っている。
そう呟いても、男は静かに耳を傾けているだけだ。興味があるのかないのか、聞いているのか居ないのかも良く判らない。口を開いても囁く様に一言二言、今まで聴いてきた誰よりも無駄な音がしない男だ。

「勘違いだって」

鼓膜が使えないと人は、網膜に頼るらしい。彼と出会って知った。
喜怒哀楽の激しい人間の表情すら良く判らないまま成長してきたのに、表情が全く変わらない目の前の男の何が、凡人に落ちた自分に判るのか。

「仲が良すぎるとたまにある、思い込みだって」
「誰が」
「…親父が」

この指は動くけれど、あの日、これ幸いに楽器を手放した。
今や天才と持て囃される事もなく、その他大勢の子供と一括りの、何処にでもいる中学生。高野健吾を言い表すのは、13歳の少年で事足りる。

「馬鹿だろ。何でよりによって親父なんかに言っちまったんだろ、肯定されたかった訳じゃねぇと思うのに。違うって言われたら言われたで、電話叩き切って、そっから親父の電話にゃ出てねぇんだよな」
「で。お前は信じたのか?」
「まっさか。疑ってもねぇけど、俺は何も信じてない。…と思う」

だって、自分が最初に自分を裏切ったのだ。大好きな音楽を手放して、何が残ると言うのか。あの日の幼く愚かだった自分は、一体何を期待したのか。

「期待してないだけか」
「っ」
「裏切られたくない気持ちの現れ」
「っ、はは!そりゃ良いや、物は言いようって奴だろ」

父親の掛け値のない愛情?
母親の嘘偽りのない愛情?
笑わせるではないか。あの日、天才だと読めない表情で宣った両親は、それでも今よりずっとまだ、親の振りをしていた。

「…ちくしょ、だっせーな、俺。判ってんよ。きっと、それが正解なんだ」
「…」
「俺は皆を裏切った。ずっと騙してる。だから誰にも期待しない。だってさ、俺は自分が一番嘘つきだって知ってんだよ。自分が自分に嘘つくのによ、人なんか信じられる訳ねぇべ?」

天才ではなくなった今の自分には、もう何の価値もない。

「今はもう、何にも思わねぇんだってさ。そんな馬鹿なこと言ったら多分、頭可笑しいと思われるっしょ」
「誰に」
「うひゃ。…そこ、『何に』じゃねーの?」
「判り切っている事を確かめるのは、時間の無駄だ」
「いっつもそれだ。アンタは月が出てないと、いつも以上に人間っぽくない」
「俺が人間以外の何に見える?」
「…判んね。俺の目は節穴だもんな」
「ならば聴けば良い。この世には、音だけで人の感情を読む一族が存在する」
「うひゃ、そりゃ羨ましいかも」
「そうか」

時計の針の如く正確な音が、メトロノームの様に響いている。

「…でも、可哀想かもな。人間の内側なんて知らない方が幸せっしょ。俺は自分の内側を知ってるから、誰にも期待なんかしねぇし、他人の内側がどんなでも何も感じない」
「お前は」
「ドロドロで真っ黒だ。誰にも見せらんねぇよ、ンなもん」
「ふむ」
「だからってさ、手放した時に感じたのって、開放感じゃなかったと思う。でも、未練も違ぇかな」

トントンと、左手で窓ガラスを叩いている指は止まらずに、何を数えているのか。人間はわざわざ時を数えたりしない筈だ。少なくとも、一時間以上絶えずに。

「だったら何だって聞くのはやめてくれる?判んねーから」
「ああ」
「ね。そこユウさん、いる?」
「隣で良く寝てる」
「ふーん。静か過ぎて、死んでるみてぇ」
「気になるならこっちに来るか?」
「高層ビルのベランダ飛び越えて?」
「お前なら不可能じゃないだろう」
「まだ死ぬ気ねーもん。いっぺん死にかけたらしいけど、覚えてねーから他人事みてぇなもんぞぇ」

口数がいつも以上に少ない男が腰掛けているベッドの上には、恐らく一度眠ったら決して起してはいけない男の寝姿があるのだろう。起きている時は存在感が迸っているのに、眠ると寝息も聞こえないほどに静かだから、見えていないと存在が判らないのだ。
彼だけは信じられる。彼もまた他人に期待していない事を、何ら隠さず全身で表現しているからだ。嵯峨崎佑壱、ファースト=グレアム。彼だけは信じられる。

「餓鬼の頃、同じ年頃の奴が餓鬼っぽく見えたんだ」

月曜日になると居なくなるルームメイトの後を追い掛けると、待ち構えていたのは片目だけ蒼い男だった。例えばそう、一度だけコンタクトレンズのケースを見た事がある。自分が初めて買ったそれと良く似ているケースの中に、浮かんでいたのは真っ赤なカラーコンタクト。
燃える様な真っ赤な髪が地毛だと言うから、その燃える様な目もまた天然なのだと何故信じたのか。目が赤くなる病気があるとネットで知ったけれど、アルビノだとすれば佑壱の肌の色は、説明がつかないと何故気づかなかった。

『ファーストは皇帝の親族なんですよ。我々はノアの忠実なバックアップ、シンフォニアと言います』
『ユーヤに何やらせてんだ、オメーは』
『自殺のお手伝いですかねぇ』
『んだと?!』
『冗談ですよ。ネルヴァ卿の一人息子を簡単に死なせる訳には、行きませんからねぇ。けれど、腎臓が片方しかない彼の為にもなるんです』
『何、言ってんの?』

悲しいもんは忘れちまえ。
毎晩毎晩、撫でながら繰り返した台詞は魔法の様に。

『祭青蘭を助けた君の体は無残に砕け、肉を突き破った骨の一部が飛び出してしまった』
『っ、何の話だって聞いてんだろうが!』
『哀れ、リヒト=エテルバルドの脇腹に突き刺さったカルシウムの刃は、石膏より固く鋭く尖っていた為に殆ど痛みを与える事なく、体内で臓器を傷つけた』
『な、に言ってんの?』
『O型の遺伝子を持つ骨の破片がね、B型の体内に存在する理由を想像してご覧なさい。ネルヴァとリヒトの骨髄データは相違しています。血液型も違う。だからもし今、彼の身に何事か起これば、藤倉裕也君を救う術は限りなく少ない』
『!』
『例外的に、ヴィーゼンバーグと言う魔女の遺伝子と、全世界で唯一と言っても過言ではない、奇跡的な魔女の遺伝子を掛け合わせれば、魔法じみた奇跡が起きるかも知れません』
『奇跡的な、魔女、って、何…』
『ミラージュ。女の様な顔をした蜃気楼の遺伝子は、ヴィーゼンバーグとは真逆の性質を持っていたのです』
『だから、どんな!』
『さて。これ以上知りたいのであれば、判るでしょう?』

期待なんてしていないなんて、

『過去に奇跡を身を以て体験している、君なら。』

とんだ嘘つきではないか。


「俺は天才だったから、他人が馬鹿に見えたのかもな。…って言ったら、笑っちまうっしょ?」
「いや」
「笑えば良いのに」
「面白くないものを笑うのか」
「うひゃひゃひゃひゃ、酷ぇ!」

珍しく眠れなかった夜。
そう言えば、昔は一晩中起きていた事がある。例えば大怪我による入院を契機に、兄弟の様に育ってきた男がいつか、隣で見ていないと満足に眠らなかったから。

「気づいた時には大人に紛れてたからかも。だけど大人は、子供が集まってると微笑ましそうにするじゃんか。だからさ、表向き『楽しく遊んでる』振りすんだよ」

自分に残ったのは、緑色の宝石だけだった。
艶やかな黒髪から覗くエメラルドだけは、何を思っているのか、もう天才ではない凡人に留まっている。

「内心じゃ『餓鬼の子守りは面倒臭い』って思ってる癖に」
「お前は心配させたくなかった」
「うーん、そりゃちょっと綺麗事が過ぎるっしょ。でもまぁ、大方ンな感じ?」
「父親に対しての罪悪感か」
「うひゃひゃ。アンタさぁ、気色悪いって良く言われるべ?俺はウケるけど、他人が小便臭く見えるタチだろ?」
「俺がか?」
「見下してる意識がないだけ、病的っしょ。あれじゃね?恐竜が蟻を見る様なもん」

高野健吾はある日、唐突に気づいた。4歳の頃の話だ。
朧気ながら記憶が始まったのは2歳の頃で、その頃には既にオカリナやハーモニカ、子供用よりまだ一回り小さいオーダーメイドのバイオリンと、同じくオーダーメイドのサックスを玩具の代わりに遊んでいただろうか。

「アンタから見れば、他人は皆アリンコみてぇなもんだ」
「そうか」
「いつか、俺もそうだったから判るっしょ。お偉いオーストリアの先生が弾いた行進曲が、退屈な子守唄に聴こえた」
「眠くなるな」
「そうそう、寝たらめちゃくちゃ怒られたw」

家ではいつもBGM代わりにクラシックが流れていて、母親は暇さえあればピアノの前で鍵盤を叩いている。多忙な父親は、休日になると『家宝』だと嘯いているリビングボードに飾られたバイオリンを磨いて、妻と即興演奏を始めるのだ。

「…俺が産まれた頃、親父の師匠が死んだんだ。母ちゃんも慕ってた、1900年代最高のコンダクターだったって」

名工が手掛けた世界最高の楽器の一つを、世界が認めた至高の指揮者は弟子へ『出産祝い』と名して生前贈与した。世界中のバイオリニストが恋焦がれる素晴らしい神器を、ピアニストに。

「元々ピアニストだったのに、晩餐会の演奏中に指揮者と大喧嘩して『お前のヘボ指揮はハイドンに対する冒涜だ!』って、世界中の偉い人の目の前で怒鳴ったんだってさ。熱心なハイドンファンだったって」
「そうか」
「当然、腕を見込まれて招待されてた指揮者はカンカンっしょ。『ピアニスト風情が偉そうに!だったらお前が振ってみろ!』って怒鳴り返して、その場でタクト初めて振ったら大成功した、なんっつー凄い人が親父の師匠だっつー訳。普通さ、信じらんねぇっしょ?」
「何故?」
「音楽は国の数だけあるけど、日本の音楽は和楽器だけじゃん。単純な話、音階の数だけ良い曲だって評価されんだ。弦の数だけ音が出せるならさ、多数決じゃきっと、三味線よかバイオリンのが上って言うんだよ。頭が固ぇ大人は」

世界中の貴賓が集う晩餐会で、下手をすれば二度と表舞台には立てなかったかも知れない男は、その後指揮者として成功していく。ピアニストだった頃よりずっと評価され、軈て何百人もの弟子を抱える様になり、引退を視野に入れた頃に最後の弟子を受け入れた。

「アンタ、音楽出来る?」
「演奏か」
「出来るに決まってるよな。だってアンタ、俺が適当に言った曲、全部即興指揮しちまうもん」
「…」
「昔の俺を見てるみたいで気持ち悪ぃ。俺がなくした才能を、アンタが取ったんじゃね?」
「そうだと言ったら?」
「うひゃひゃひゃ、真顔でギャグ言っても受けねぇべ?」

高野省吾。
彼が育ててきた弟子の中で唯一、ピアニストでも指揮者でもなく、指揮者兼ピアニストと言う強欲な茨の道を目指し、力技で成功した男の事。巨匠は省吾だけを後継者と言い、それまでの弟子からさぞ恨まれただろう。

「親父は凄ぇんだ。親父が指揮すると、皆が楽しそうにするんだよ。俺みたいな完璧な耳じゃないからかも知れねぇけど、俺は親父が羨ましかった」
「憧れた」
「言わねぇよ、んな恥ずかしい台詞」

幸せだったのか・と。
人にはとても言えないカルマを背負う哀れな子供達を支配する男は、正確なメトロノームの様に上がり下がりのない声音で囁く。

「幸せだったんじゃねぇかな、多分」
「今は」
「幸せっつーか、自由だとは思う。…俺って結構、意地汚い奴なんだよ」
「人には108の煩悩があると言う。有り触れた、極当たり前の事だ」

何にも恵まれない、可哀想な凡人が犇めくこの世界で。遠い日に平凡を望んだ自分は、あの日も天才などではなかった事を思い知る。

「俺の考えてる事、アンタには判んだ?」
「俺の考えている事は、お前に判るか?」
「ちっとも」
「ああ。それは普通の事だ」
「そっかー」

全てに恵まれ全てに無感情であったなら、天才や凡才の違いに拘らないのだろう。けれど、その価値観は恐らく、他の誰からも理解されないだろうと思えた。


「ありがと、総長」

きっと、可哀想は天才の代名詞なのだ。

←いやん(*)(#)ばかん→
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あきゅろす。
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